Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
文字数が揺れまくる未ですが、お許しを。
その分、内容はめっちゃ濃いです。
「お前、名前は?」
再びこちらに戻ってきた男はそう尋ねてきた。整った髭が生えた男。どちらかと言えば細身だ。この状況を、上手く説明できる人間がいるなら代わってほしい。勿論、それがいないから夕輝がこうして、生徒会で活動を共にしている女子を背負いその女子の家に乗り込んでいるのだ。その上、彼女の父親とおぼしき人間にあらぬ誤解を受けている。何ということだ。
「あの、多分勘違いを......」
「良いから答えろ」
茜の父親......なのか? 少しだけ疑った。一般的な話をすれば、口調が高校生に対するものではない。どちらかと言えば、警察署で自白しない犯人を問い詰めている警察官のものに近い。こんな例えが出てきてしまうのは、『暴露』という能力で犯罪者に自白をさせ続けていた能力者と対峙し、やっとのことで能力を使うのをやめさせた、ということが今さっきあったばかりだったからだ。
「えと......音永夕輝と申します」
そしてその一連の流れも重なって、夕輝が茜を背負う羽目になっているのだが、生徒会の活動を一般人に話すことは固く禁じられている。それは、能力者たちを守るためだ。
「......ふーん、夕輝か。お前、茜とどういう関係だ」
それにしても、本当にこの人は何なんだ。普通、このくらいの年のおっさんは初対面の高校生を呼び捨てにしたりお前呼ばわりにしたりはしない。
その上、茜との関係を疑っていると言うのだ。それは確かにこの状況を見れば仕方ないとして、それにしたって常識のある人間ではない。
しかし、とも思う。こんな父親の娘であるなら、茜が多少常識はずれなのにも説明がつきはする。夕輝は、人生の中で自分よりも常識のない人間を殆ど見たことがなかった。と言っても、茜と夕輝とではその質が全然違うのだが。
「えっと......茜とは同じクラスのクラスメイトです」
「......」
「何ですか」
「本当だな?」
何と、ここで疑ってきた。思考回路の分からないおっさんだ。目を細めてこちらを見ている。そろそろ腕とか背中とか足とかが限界になってきたので、早いとこ茜を引き取ってほしいのだが。
「......本当です。疑うなら、こい......茜さんに聞いて下さい」
こいつ、と言いそうになって言い直した。この娘を溺愛していそうな頑固そうな父親に、そんなことを言ったら何を言われるか分かったものじゃない。今も夕輝をじろじろと睨んでいる。疲労とは別の意味で汗が流れてくる。というか、お願いだから茜が起きる前に引き取ってほしい。この状況は混乱を招くし、面倒が起こりかねない。
「......まあいい、茜は引き取ろう」
もう一度だけ念を押すように夕輝をぎろ、と睨むと、彼はやっと夕輝にこの状況からの解放を許した。めちゃめちゃめんどくさかった。
しかし、まあいいだろう。どうせもう、こんな男と関わることなどないだろうから。
「で、お前」
「音永夕輝です」
「夕輝」
「何です」
まだ何か聞くつもりか、と思ったが、しかしすぐに気付いた。この状況、もし夕輝が茜の父親だったとしてもきっと、それを聞くだろうから。彼は口を開いた。
「......うちの娘は、一体どこで寝ていて、どうしてお前みたいな青二才に運ばれて来たんだ」
思った通りの質問だった。いや、若干酷い言い様だが、それは気にしないことにしよう。いちいち気にしていても、腕が悲鳴を上げるだけだ。早く帰ろう、と思って事前に考えておいたそれらしい理由を答える。
「えっと......茜は」
「さんを付けろ」
「茜さんは、生徒会室で寝ていたんです」
瞬間、その父親の瞳が動揺したかの如く揺らいだように見えたのは気のせいだろうか。いいや、気のせいではない。息遣いと共に、急に調子が変わったように見えた気がする。
「......聞いてます?」
「茜は......生徒会に入っているのか?」
なるほど、納得した。こんなに娘を溺愛しているのに、その娘から生徒会に入っていることを知らされてすらいなければ、動揺しても仕方がない。可哀想な父親だが、茜にもそういう時期はある。
「ええ、僕も彼女と一緒に生徒会に所属していて、戸締まりをしないといけなかったので」
夕輝は淡々と告げた。はち切れそうな腕のせいで、変に緊張もせずに言えたが、茜の父親は黙りこくっている。顔はこちらに向いているが、あり得ない、とでも言いたそうな表情だ。完全に動揺しきっている。しかしそれも当然。夕輝はそれすら覚悟でここにやってきた。
今夕輝は茜の父親に、クラスメイトで生徒会も共にしている女子をおぶってその女子の家まで連れていくという偉業を成し遂げてしまう、やばいやつだと思われているのだろう。それでも別に構わない。
しかし、何て悲愴感溢れる顔をしているのだ。そんなに娘の反抗期がショックなのか。それとも、夕輝に完全に引いて言葉もでないのか。
「......もういい、茜を渡せ」
後者だ。夕輝はそう確信した。このおっさんは最早、こちらの顔も見ようとしない。表情は見えないが、恐らく、このやばい青年に茜を近付けてはいけないと思っているに違いない。心が痛いが、茜のためを思って選んだ最大限の方法だ。さっさと茜を父親に引き渡した。これで問題ない。
「お前はもう帰れ」
辛辣な言葉は、殆ど聞こえないような小さい声として鼓膜に届いた。引きまくっている。覚悟していたとは言え、そのまま扉が閉まって、この時期にしては冷たい風が吹いたときには、少しだけやられた自分のメンタルに気付いた。もうこんな思いはご免だ、と本気で思った。
それから数秒経って目をやった手元には、茜の飲みかけのお茶があった。今からもう一度インターフォンを鳴らす勇気はないし、勿体ないが、仕方ないから捨てることにしよう。そう思って夕輝は、とぼとぼと家に戻った。
翌日、目覚めた瞬間に不快感が襲った理由を夕輝は知っていた。肩の周りが痛い。腕が上がらなそうな痛みだ。最悪の目覚めの正体は、寝違えとかではなかった。昨日の苦行の結果だ。即ち、肩こり。茜を背負ったツケはここに回ってきた。腕には筋肉痛もあり、裂けるような感じがする。
「ふあぁ......」
リビングに向かった夕輝は、間抜けなあくびを1つ室内に解き放った。春がそんなみっともない兄を呆れたような顔で見ている。
「おはよう、兄ちゃん」
声もその表情に合った、しらけた感じのもの。夕輝は眠たい目を擦る。
「ああ、おはよう、春」
恐らく、思っていたよりも体力を消費していたのだろう。若しくは最後のあれで、精神をやられたのかもしれない。こんなに寝覚めが悪いのは久しぶりだ。
「どうしたの兄ちゃん。顔が変」
わざとやっているのではないかと言うほど、春の言葉にはオブラートというものが存在しない。もう少し気の使える言葉を発することはできないのか。
「ちょっと肩がこって眠れなかったんだよ......」
「肩こり? 兄ちゃん、ちゃんと体動かさないと駄目だよ。どうせスマホのしすぎでしょ」
失敬な。これでも昨日は他人のために身を粉にして働いたのだ。スマホを触る時間なんていらないから、この肩こりを治すか、昨日に戻って茜の父親に、もっとましな言い訳をしたい。
「お前は関係ないだろ。ちょっと顔洗ってくる」
夕輝はそうとだけ告げて、つまらなそうな顔をしている春から離れると、廊下を歩いて洗面台へと足を運んだ。まだ眠たさが残る。できるならあと2時間は寝たいが、肩こりは体を動かさないと悪化するとどこかの本に書いてあったので、ぐるぐると肩を回した。ごりごりと気持ちの良くない音がした。
顔を洗い終えると、夕輝は既に食卓に出ていたさわらの煮付けに目をやった。スライまるがいない。最近頻出していたスライまるが。
「......スライまるはネタ切れか?」
春は大抵、食事の主役に魚かスライまるを用意する。最近はスライまるが毎日食卓に並び、魚料理はついで程度だったが、ここでネタが尽きたらしい。言葉に詰まっているのでそうなのだろう。それでもいいかな、と思った。またいつしかのように、イカ墨パスタサンドなんてものを出されたりしたら大変だ。あれのせいで今もなお、サンドイッチ恐怖症を引きずっている。それに比べ、魚料理はどうしたって、極端に滅茶苦茶にはしようがない。だから安全なのだ。
「早く食べるよ」
やっと出た妹の言葉にうなずいて、夕輝はテーブルの椅子に座った。木の椅子。それから手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
家を出たのは7時50分だった。流石に学校が近いと、6時起きで時間にゆとりが無いわけがない。最近までは、その時間をスライまるの登場するラノベを読むことに費やしていた。しかしながら、残り2巻で最終巻というところで夕輝はそれを読めずにいた。沙良のことや茜のことが重なり、正直それどころではなかったのだ。今だってそうではない。
沙良がいなくなって──、正確には、この世界から消えたようにいなくなって、早6日。何も糸口を掴めてはいなかった。探そうにもそうはいかない。手掛かりが何もなく、何より頼れる人間がどこにもいないのだ。それどころか、考えれば考える程、手応えが無さすぎて、彼女が本当に存在したのか、とすら思えてしまうこともある。......それでも、沙良はいた。夕輝と茜と、巧と雪と、松山と。そして、世界中の人々が彼女を見ていた。知っていた。そして、忘れた。おかしいのは自分じゃない。世界がおかしくなっただけだ。
言い聞かせるので精一杯だった。
夕輝は、茜は正しいんだと。
けれど、それを証明することはできなかった。
我思う、故に我あり。
そんな偉人のありがたい名言が、今は夕輝を苦しめるだけだった。
沙良が今なおこの世界にいるかどうかは、沙良以外の誰も知らない。
だから、沙良がこの世界にいないのならば、沙良がどこにいるのか知る人はどこにもいない。
何とも皮肉な逆説だ。
神がいるなら教えてくれ。
沙良の行方を。
彼女がどこで何をしているのかを。
信じてもいない神に、今だけ心から願った。
朝、学校に向かう道で、いつもと同じく巧と合流した。巧は、最近は以前よりも明るく見える。余裕も見える。それは、以前まで取り繕っていた余裕とは違う、有るがままの余裕。
あれからどれだけの時間が過ぎただろうか。頭のなかで数えて、実は1ヶ月くらいしか経っていないと気付くと、不思議な気分になった。まだあの謎の多い事件が起きてから、たった1ヶ月。結局あれは何だったんだろう。いいや、どうでもいい。結果として、今はこうして巧の表情が晴れやかなのだから。
沙良のことの方がよっぽど大事だ。
はあ、と大きなため息をついた。
「夕輝、どうした?」
巧に指摘される。巧にはあの日以来、核心的な話をしていない。茜のことと、どうにもならないことに苛立つ自分のことに必死で、彼におとぎ話を信じさせる力など到底なかったからだ。何より、巧が信じたとしても、『そんなやつがいたのか』なんて言われてしまっては、胸が痛過ぎる。逃げでもあった。
「何でも......」
「......そうか?」
その巧はと言うと、ここ数日にかけてだんだん、夕輝に何も聞かないようになってきた。それは、夕輝の様子がおかしいことにも勿論気付きつつ、尋ねたところで何も答えてなどくれないことも分かっていたからだ。変なところで気を遣う巧に、感謝するべきなのかどうなのか、複雑な気持ちになってしまう。そりゃあ彼は気を遣ってくれているのだろうが、夕輝からしたら今は、あんなに沙良と仲が良かったのにどうして、という気持ちだって芽生えてしまっているときなのだ。気を遣われるせいで、その気持ちも強まる。
「そう言えば」
そんな巧が思い出したようにあからさまに人差し指を立てた。
「昨日、あの後、大丈夫だったか?」
この質問を聞くに、勘違いしていたのは雪だけかも知れない。巧はこういうところで専らちゃんと弁えている。最初は何も考えられないバカだとしか思っていなかったが、最近ではそんなイメージも180度変わってしまった。何より、彼の母親の件があってから。
「ああ、何とかなったさ」
「そうか、そりゃあ何よりだ」
詳しく聞いてきたりもしないのが、今の夕輝にとってはありがたかった。そして、間もなく下駄箱に到着すると、夕輝と巧はさっさと靴を替え、それから生徒会室に残った荷物を回収して教室に向かった。
「おはようございます」
挨拶をしてきたのは雪。教室の一角で、彼女はその長い髪を揺らしていた。
「ああ、おはよう」
巧と夕輝は彼女に挨拶をすると、一旦荷物を置きに自分の席へ向かった。夕輝はそこで、教室に突っ伏して眠っている生徒を隣に見た。クリーム色の髪は彼女の1つのチャームポイント。
茜だ。
「おはよう、茜」
「......おはようございます」
驚いた。返事が返ってくるとは思っていなかったからだ。彼女は昨日まで、話しかけても何をしてもほぼ無反応で、完全に生気を失った状態だった。
何より、彼女が眠っていることに驚いた。今までは、ろくに睡眠もしていないような隈びっしりの顔でずっとぼーっとしていたのに、今はちゃんと寝ている。今までとは大き過ぎるくらいの違いだ。
「......朝弁はしないんだな」
「......眠いですから」
「そっか」
そこで会話が途切れる。本当は色々話したいことがあるのだが、しかし今でなくても良い気がするし、今の茜はもっと眠った方が良い。だから、その鞄を机のフックにかけると夕輝はさっさと巧のところへ向かうことにした。別に喋りたいこともないが、このおかしな間を茜の隣で何もせずに過ごすのは、何となく気まずい気がしたからだ。そうして夕輝が歩き出そうとすると。
「あの......」
と小さく茜が呟いた。最初は聞き間違いかと思ったが、しかし茜の声を聞き間違えるはずはない。一体、何ヵ月に渡って聞いてきたと思っているのだ。それも、夏休みでさえほぼ毎日。夕輝はそちらを首だけで振り返った。少し間があったと思う。
「どうした」
「......やっぱり何でもありません」
「は?」
彼女は臥せったまま小さく口を動かした。夕輝はその小さな声を、このざわめいた教室の中でしっかりと聞き分け、そして呆れた。そして茜の思考が分からなくなった。最初は問い詰めようかと思ったが、そんなことは最悪後でもできる。何より、こんな訳の分からない発言をしてしまうような今の茜はやっぱり寝るべきだと思ったので、それ以上何も言わなかった。茜が自らの腕の中に、潜るように頭を埋めた。
放課後、慣れたように電話が鳴ったのは教室の中で、帰る支度をしていたときだった。もっとも、こうして電話が鳴る可能性の方をより想定していたため、夕輝はゆっくり支度をしていたのも事実である。マンションから学校に戻るのだってそんなに手間はかからないが、やっぱりそれが少し面倒だし、万が一、春がもう家に帰ってきていたりすると、色々とあらぬ疑いをかけられるので夕輝は家を出づらいのだ。
夕輝はスマートフォンをポケットから取り出し、画面右下の応答ボタンをタップした。相手は勿論、松山だ。
「もしもし」
『もしもし、夕輝くん。今日は皆さんに伝えないといけないことがあるので、生徒会室に来てください』
今日も、の間違いであることにはあえて指摘せずに、夕輝は分かったとだけ答えておいた。案の定生徒会室に向かわなければならないことになった夕輝だったが、しかし少しだけ違和感を抱いていた。それは、松山の言い回しに気になるものがあったからだ。普段なら、彼は「能力者が現れたので生徒会室に来てください」と言って夕輝たちを生徒会室へ来るよう促す。が、今回はどういう訳か、「皆さんに伝えないといけないことがあるので」という言い方をしていた。彼がわざわざその様に言うということは、少なからず訳があるのではないか。
何にせよ、生徒会室に行かなければ話は始まらない。どのみちそこで分かることでもあるのだ。教室にはまだ半分ほどの生徒がおり、若干のざわめきが漂っている。隣を見れば、授業中もずっと眠っていた茜がようやく目を覚ましていた。巧はアホな男子と一緒にアホな会話をし、雪は丁度帰ろうとしている友達に挨拶をしているところだった。雪を見ていると、偶然こちらを向いたときに目が合ったので、手でこちらに呼んだ。巧の方は男子の間に入って連れ去った。
「松山がお呼びだ」
「......また能力者か」
こんなことを言うのは巧だけだ。夕輝たちは、こうして毎日のように生徒会室に徴収され、そして以下略の流れに流石に慣れてしまった。巧だって慣れた上で言っている。最早、不平を漏らすのにも慣れきってしまっている。しかし。
「いや、それが......今日はちょっと違うかも知れないんだ」
「え?」
巧はきょとん、とした顔でこちらを見た。雪も、辛うじて夕輝の話を聞いている茜も何となく、夕輝の言葉が気になっている様子だった。
それにしても、茜の反応が良い。いや、今なお彼女は眠たそうな目だし、隈も消えてはいない。朝を除いて一度も発言をしていなかったし、授業も受けずに眠っているなんて、普段の彼女ならあり得ないことだった。
しかし、昨日までを考えれば。少なくとも、昨日まではこんな風に夕輝の発言に耳を傾けることはなかった。聞いているのか聞いていないのかは良く分からない目をしているが、それでも不思議だった。
「......取り敢えず、行くぞ。ほら、茜も」
探るようにそう声をかけた。彼女は答えることもうなずくこともしなかったが、ゆっくりと自分から立ち上がった。しかし、荷物を整理していないことに気付いたのか、気だるそうに教科書やらファイルやらを鞄に仕舞い始めた。やっぱり心配にはなってしまう。
「忘れ物はないな? 行くぞ」
夕輝は巧と雪と茜を連れて、足早に教室を出た。この教室から生徒会室まで歩くのは、これでもう何回目だろう。廊下の窓の外から聞こえる、運動部のかけ声。隣のクラスに必ず残っている生徒の顔はもう覚えてしまった。今やそんなのは1つの日常と化している。
けれど。
何かが足りない。
何か、とわざわざ濁してしまったのは、それをやっぱり認めたくないからだ。
沙良がいないことを。
4階から吹奏楽部の演奏が聴こえる。最近流行りのポップスを、オーケストラ風にして演奏している。そのせいで思い出してしまった。彼女と話した最後の日のことを。それから、彼女とちゃんと話した最初の日のことも。
沙良は昼休み、よく4階の音楽室で歌っていた。最初は見物人が沢山集まったが、それすらいつの間にかなくなって、生徒たち、ひいては先生たちの中でも日常の一部分と化していた。
そんな日常を、今はもう誰も覚えていない。夕輝と茜を除いた全人類が、彼女のことを完全に忘れてしまったのだ。何かの間違いであることを信じた。願った。悪い夢の一種類だと。けれど、何度目覚めても、何度眠りについても、彼女は目の前に現れてきたりはしない。そうこうしている間に6日。どうすればいい。
やがて階段を上っている頃に、1つの不安が夕輝を襲った。それは、とても大きな不安。漠然としているが、そのせいで、夕輝には届かない世界で起こっていることなのだと思い知らされてしまう。お前にはどうしようもないことだと言われているような気分になってしまう。
不安の正体なんて分かっていた。
もう2度と、沙良には会えないのではないか。そんな思考が頭の片隅をよぎると、もう止められなかった。そんな風に考えてはいけないと分かっていても、ネガティブな考えばかりが頭の中をぐるぐると高速で回り、手がつけられなかった。
「夕輝くん......どうしました?」
その不安が顔に出ていたのか、恐る恐る雪がこちらの表情を窺った。既に生徒会室の扉の目の前の階段だった。それより先に進む生徒は殆どおらず、ここだけ異質な雰囲気が漂っていた。
「いや、何でもない」
そんなのは大嘘だが、こう答えるしかなかった。雪や巧に説明する気力なんてないし、もし話したとしても沙良が見付からなかったときに彼らをもやもやさせるだけだ。
しかし、こうして話しかけられることによって初めて夕輝は自分を俯瞰して見ることができた。茜だってここにはいるのに、こんなことばかり考えていてはいけない。決めたではないか。茜がこんな調子な分、自分はちゃんとしていなければ、と。茜が回復するのを待たなければ。
頭を切り替えて、足を前に進めることだけに徹した。そうしなければならない。今はそういうときだ。茜を見ると、やはりどこか遠くを見詰めているようで、それだけで心が痛い。
でも、だからこそしっかりしないといけない。茜も夕輝もこうなってしまえば、生徒会はいよいよ成り立たないのだから。
夕輝は目の前に大きな扉を構え、そして両手で押して開いた。コンサートホールの防音扉のような見た目だが、押してみると意外と軽いのが特徴だ。
「......来ましたか。待っていましたよ」
松山が窓に向けていた体を椅子ごとこちらに回転させた。比較的広い生徒会室で、少し遠い松山はいつもと違う表情をしているように見えた。
「何だ? 伝えないといけないことって」
夕輝はすぐに尋ねた。松山は校長とかが使っていそうなあの大きな机の上で腕を組んでいた。眼鏡の奥にあるであろう細い目は、鏡に反射する光で見えない。
「伝えないといけないこと? 何だそれ」
何も知らない巧がちょっと間抜けな声を出した。雪も同じことが言いたそうな顔だ。茜はと言うと、その後ろで黙っているが、眠たそうでありながら話を聞いていないわけではないらしく、今にも閉じそうな目を松山に向けていた。
「今日集まってもらったのは......茜さんのことなんですが」
「え?」
淡々と告げた松山の口から出た言葉が少し意外だったようで、こんな茜もちょっと反応した。夕輝も意外だった。沙良のことがあってから、クラスメイトですら殆ど茜のことに触れなかった。急に出た自分の名前に、多少なりともびっくりするのは当然だろう。
「茜が、どうしたんだ?」
夕輝が真っ先にそう尋ねた。松山は飽くまで表情を変えない。その瞳がどこを向いているのは定かではないが、茜を見ているとも夕輝を見ているとも、あるいは全員を見ているとも取れる。
ただ、1つだけ分かることがあった。
普通の雰囲気じゃない。
松山は今、何か、夕輝たちが告げられたくないことを告げようとしているように見える。それは、実際は松山自身も言いたくないことなのかも知れない。夕輝が尋ねてしばらく経っても、彼は口を開かなかった。
「先輩......?」
流石におかしいと思ったのか、巧も心配そうに松山を見詰めている。それに気付いたのか、一度咳払いをすると松山は「失礼しました」と言って、眼鏡のずれを直した。それから、夕輝たちにも聴こえる程深く息を吐いて、再びその言葉の続きを話し始めた。
「......できれば僕からこんな話はしたくありませんでしたが......」
しかしやっぱり、松山はなかなか核心的なことを言わなかった。躊躇っているのだろう。それは、この重苦しくて胃がムカムカしてくるような空気からも、今の松山の言葉からも、容易に想像できた。
「......最近の......私についてですか?」
茜が探るような、そして少し不安そうな顔をして、夕輝と巧の前に出た。昨日までのことがあって、恐らくは自分でも思うところがあったのだろう。やっとまともな睡眠を取って、思考も落ち着き、今までのことを振り返ったのかも知れない。何にせよ、茜がそのことを気にしているのは明確だった。
しかし、松山の口からはこんな言葉が飛び出した。
「いえ、違うんです。ただ......」
松山だって沙良のことを覚えてはいない。だから、茜が何を持ってあんな状態だったかを彼は知らないだろう。それでも松山は何も聞いてこなかった。そして、今回の話もそうではなかったようだ。夕輝は少し安堵した。安堵してしまった。しかし、その安心もつかの間、松山はその予想を悪い意味で裏切って、茜にこう告げた。
「ただ、何にせよ......茜さんにはもう生徒会活動を続けさせられません」
「......え?」
4人全員の声が、ぴったりと重なったが、そんなことは些細なことだった。そんなことが当然に思える程、松山の発言は夕輝たちの感情の、全く同じ部分を同じタイミングで刺激したのだ。彼は後ろめたそうに俯いた。
「何言って......先輩、どういうことだよ?」
真っ先に口を開いたのは巧だった。
「茜に生徒会活動を続けさせられない? 何でさ? まさか、最近茜が......」
巧は言いかけて、口をつぐんだ。彼だって悪気があったわけではないのだ。けれど、今言おうとしたことは確かに事実だった。認めたくはないが、夕輝だって、雪だって同じことを少なからず思っていた。少なくとも、茜がリーダーシップを執っていないことは。そして、夕輝はそれならそれで、自分が彼女の代わりになればいい、とも思った。彼女が立ち直るまで。
「いえ、違うんです。それとこれとは......」
「良いんです、会長」
松山が言いかけたところ、遮るように小さな声が空間に放たれた。この場で、松山を『会長』と称する人間は1人しかいない。茜だ。
「茜さん、それは誤解で......」
「大丈夫ですから。迷惑をかけました。言う通りにします」
そう彼女があっさりと諦めたところで、夕輝は気付いた。いくら回復しているとは言え、茜はやっぱりまだ冷静ではない。その証拠にこれだ。
「おい、茜。冷静に考えろ。お前は......生徒会にいなきゃいけないだろ。琴羽さんを救うんじゃなかったのか?」
夕輝は茜の前に回って彼女に冷静な思考を取り戻させようとした。隈が残る彼女の顔は、見ているだけでもぐりぐりと夕輝の胸を抉る。
「それに、沙良のことだってまだ......」
「......ええ、そうですよ。でも、隼翼さんは......私の言葉を信じようとしません......! 沙良のことを話しても、科学者に捕まったなんてあり得ない、って......私のことを信じてくれません!」
茜がぎりっと歯を食いしばる。申し訳ないが、夕輝もその『シュンスケさん』と同じ気持ちだった。冷静に考えて、能力者でもない沙良が科学者に連れ去られたりなんて、あるわけがない。
「隼翼さんは、私に琴羽のことを探させてくれません! ......大丈夫だから、って言って......まだ、琴羽は見付かってません! 今も、科学者にどうされているか分からないのに......!」
茜の口調は、今までよりも怒りと反発と焦燥を多く含んでいた。本当はずっと思っていたことなのかも知れない。それでも、『シュンスケ』という男を信頼して彼女は何も言わなかったのだろう。そうして、今沙良のことをきっかけに初めてそれを口に出した。そして、口に出すことは、爆弾に火を着けるようなこと。火を着けない爆弾とは明らかに違うのだ。
「私のことはもう放っておいて下さい! 隼翼さんが何もしてくれないなら、私1人で......!」
「茜、落ち着け!」
大声でその場を制した。早くも雪が怯えているのが分かるが、そんなのはどうでも良かった。今の茜は余りにも冷静さを欠いている。
「考えても見ろ。お前1人だけで何ができる? 何もできないだろ。お前は......そんなに強くない」
「うるさい!」
茜がこんな風に感情むき出しで叫ぶ光景を見たことのない松山は、それに戸惑った様子でありながら、しかし何かを言おうとしているようだった。
「あの.....」
「私は......弱くありません! 夕輝くんと同じにしないで下さいよ!」
「違うんだよ、茜。ちゃんと話を......」
「何でそうやって皆、私を除け者にするんですか! 私はちゃんと......ちゃんとリーダーしてるじゃないですか!」
「分かってる」
「分かってない! 分かってるなら、隼翼さんだって私にもっとちゃんと、琴羽のことを調べさせてくれるはずです!」
「それで茜に何かあったとき、『シュンスケ』って奴は責任を取れるのか!? ほんとは分かってるんだろ、お前も!」
「......っ!」
夕輝の指摘に返す言葉がなかった茜は、拳に力を込めて下を向いた。生徒会室が静まり返った。そんな隙をついて、だった。
「茜さん、最後まで僕の話を聞いてください」
松山が立ち上がって、こちらに歩いてきた。茜の目の前に立った夕輝を手でどくように促し、夕輝に入れ替わるようにそこに立ち止まると、胸ポケットから薄い封筒を取り出した。白い封筒だ。
「今朝、茜さんのお父さんから渡されたものです」
「......え?」
驚くような声を真っ先に出したのは、夕輝だった。茜の父親。すぐに顔が思い浮かんだ。昨日見たばかりの、あの大人気ない大人のことだと察しがついた。しかし、何故。茜も夕輝も、先程まで熱くなっていたのを忘れていた。ただし、茜に関しては、むしろ熱とは真逆のものをこの時点で抱いていたのだが。
「お父さん......何で......」
「茜、お前......」
封筒の中身こそ見ずとも、彼女はその内容を分かっていたようだった。巧もまたそうだったようで、驚いたように言葉を漏らした。雪も唖然として口を手で覆っている。
が、夕輝はそれが何なのか分からずただ呆然としていることしかできなかった。松山が口を開く。
「生徒会員は、保護者の同意によってその立場を保証されます。これはルールです。そして、茜さん。あなたは前、お父さんを何とか説得したと言っていましたが、それは嘘ですね? あなたは今までずっと隠し通してきた」
「......」
茜が、その封筒を強く握る。下の方だけがぐしゃぐしゃに歪んでいる。
何が起こっている? 今、目の前で起こっていることを何も理解できていなかった。松山が何を言っていたかにもさほど注意できない程、この状況での自分と他4人との温度差に困惑していた。
「ちょっと待ってくれよ」
夕輝は思わず松山の後ろに回って、4人全員を見て言った。
「どういうことだよ......? 茜がどうしたって?」
それで再び、生徒会室は静寂を取り戻した。巧は、どう説明するべきか、と頭を掻いており、雪は俯いている。松山は依然として茜をまっすぐ見詰めているようにも見えて、どこか力が抜けているようにも見える。その茜はと言うと、今度はもう何も言い返すことができず、ただ口をつぐんでいた。
「......茜さんのお父さんから僕へ、先程直々に、茜さんに生徒会活動をやめさせるよう伝えられました」
「そんな......」
確かに、夕輝も生徒会に入ると決まった際、一度、単身赴任で仕事をしている父に電話をかけ、許可を取った覚えがあったので、松山の言わんとしていることが分からなくもなかった。しかし、やはり分からないことがいくつもある。
そもそも、何故茜の父が茜の生徒会活動を止める? そんな必要などないはずだ。しかし、現にそれは起こってしまっている。あの娘を溺愛している様子の父親は、一体何を考えているのだ?
そして、茜は『父親を説得していない』? つまり、父に秘密で生徒会活動をしていたと言うのか? まさか。
昨日、茜の父が、生徒会のことを話したとき動揺していたのはそのせいなのか?
「......っ!」
と、その瞬間茜が走り出した。生徒会の扉を引いて、階段を下りていく。
「茜!」
声をかけても無駄だった。彼女は止まろうとせずに、表情を見せぬまま廊下を走って行ってしまった。
少し経ってから、無意識に伸ばしていた手と、追いかけようとしなかった足に気付いて虚しくなった。それからやっとその手の力が抜け、宙をぶらつく。
「......行っちまった......」
巧が呆然と、そして自然にそう溢した。夕輝は松山をもう一度振り向く。
「......どういうことだよ......?」
松山はどこかに背徳感を覚えた顔をしている。眼鏡のずれをまた直した。そして深くため息をつく。それが夕輝を苛立たせた。いや、実際は何も知らなかったことに苛立っていたのかも知れない。けれど、いくらなんでも建設的な会話が無さすぎた。あんなに一方的に言って良いことじゃない。
「......保護者の方が同意していない以上、生徒会にいさせられません」
「何で!」
夕輝はその苛立ちに任せて怒鳴った。冷静さに欠けていたのは茜だけではない。夕輝だって沙良の一件で、ろくに眠れなかった。今だってそうだ。けれど、茜のことを最優先に思うことで何とかやっているのだ。
「何でそんなに茜に冷たいんだよ! 隠せば良いだろ! 誰にも迷惑かけてない!」
「......茜さんに冷たくしているつもりはありません」
飽くまで松山は淡々と告げる。そうする義務も彼にはあるから。つまり、彼は生徒会長という役職を全うしなければならない。
「なら何で!」
「保護者の方が納得していないにも関わらず生徒会活動を続けさせて、万が一何かあればその責任を取れますか」
「っ......!」
そこで、夕輝も言葉がつまった。松山の言う通りだったからだ。確かに、生徒会活動と称しておかしな事件を追いかけて、常に危険と隣り合わせと言っても仕方のないことをしているのは事実だ。単に『生徒会活動』と告げて保護者を納得させるのはある意味詐欺かも知れない。しかし、それとこれとはわけが違う。茜の父は今、『積極的に』茜が生徒会活動を続けることを否定している。何かあったとき、完璧に問題だらけなのはこちら側だ。
「茜さんのことを守るためでもあります。何があったのかは知りませんが、今の彼女がこれ以上生徒会活動を続けることには僕個人もあまりよく思っていません。あのままでは、彼女はいずれどこかで暴走してしまうかも知れない」
松山の言葉は的を射ていた。現にそうだ。思えば昨日、茜は溜め込んでいた感情を手塚を引き金にして爆発させていた。昨日はそれでも何とかなった。その状態の茜が手塚を納得させられる程度の言葉を発したから。偶然とは言え、それは変わりのないこと。しかし、毎度上手くいくとは限らない。むしろ、可能性は低いと言える。茜が何を言い出すか、夕輝たちには見当もつかないだろうから。
「......それに、僕にどうこうできる話ではありません。これは、家族間の話ですから」
松山は再びあの椅子に座る。
「彼女、ずっと反対されていたそうです。お父さんからは生徒会活動なんてしている暇があったら勉強でもしろ、って言われていたとか」
夕輝はその言葉を聞いて、昨日会った茜の父のことを思い出した。娘を溺愛していそうだったが、確かに頑固そうだったかも知れない。
けれど。
その父親のせいで、茜は簡単に生徒会を辞めてしまうのか?
何も知らない父親のせいで?
夕輝たち子供にできることは少ない。
大人が自分たちを否定すれば、それだけでどんな意志も願望も簡単に潰えてしまうことがある。それを覆せる子供は、きっと殆どフィクションの中にしか出てこない。
まして、生徒会は秘密裏の組織だ。その活動内容を詳細に知っている人間は余りに少ない。こちら側の主張だけでどうにかなるなんて、到底思えない。
でも。
それでも。
そんな風に、何も知らない大人に振り回されて良いのか?
茜が今までやってきたことを、そんな風に否定されて、納得していられるのか?
「俺は......」
少し前までの夕輝ならば、それでもどこか目を背けていたかも知れない。茜のことでここまで必死になることもなかっただろう。きっとどこかで、何も見なかったふりをしていた。
しかし、今は違う。
「俺は......行かなきゃならない」
巧と雪が夕輝を見上げた。驚いた顔をしている。彼らには毛頭、この状況を打開する手段がないのだろう。だから諦めかけていたのだ。
「夕輝......」
夕輝は今まで、たくさんの能力者を見てきた。それぞれが、自らの欲望のために、ときに他人に迷惑をかけるようなことをしながら能力を使っていた。善事に使う人間もいた。
けれど、夕輝が見てきたのは何も彼らだけではない。そんな能力者が現れる度に、彼らを何とか説得し、そして納得させ続けてきた茜の姿だって、夕輝は常に見ていたのだ。そして、今は夕輝がそうなる番。そして、夕輝にはそうするべき明確な理由だってあったのだ。
それは、今の茜を救うことは、自分にしかできないことだと知っているからだ。
茜のことを本当に分かってあげられる人間が、この世界中で夕輝だけだと知っていたからだ。
「茜を探してくる」
そうとだけ言い残して、夕輝は開きっぱなしの扉を左右に構え、気付けば生徒会室を走り出ていた。階段を下り、廊下を駆けた。最初に向かったのは、夕輝たちが普段授業を受け、昼ごはんを食べて雑談をしたりしている教室。1年1組だ。
「......いないか」
教室をぱっと見て、そこが電気の消えたがらんどうであることを認識すると、夕輝はすぐに目の前に男子トイレのある廊下を曲がり、階段を駆け下りた。下駄箱ですぐに靴を履き替え、正門へ走る。今の彼女の様子では、感情に任せて学校から飛び出している可能性が高い。
門を出てすぐに夕輝は、体ごと左、右、前を見回す。下校中の中学生や、犬の散歩をしている女性。そんな数少ない人間の中に、茜はいなかった。
「......くそ」
焦っていても仕方がない。夕輝はまっすぐ走った。彼女ならきっとそうする、とそう思ったからだ。深い意味はない。
「遠くに行ってなけりゃ良いんだけどな......」
そう思考を現実に漏らした瞬間、ある考えが夕輝の頭をよぎった。完全に想定の話だ。もしかしたら茜は家に帰っているかも知れないし、あるいは別の場所に行ってしまったかも知れない。......それは100%夕輝の妄想だが、もし彼女があのままならない思考で彼女なりに遠くに行こうとしたならば。
「......駅」
夕輝はその足を更に速めた。勿論、そうしたところでその考えが外れていれば、その努力も、消費したカロリーも無駄になることにはなる。けれど、考えられる最悪を潰しておかなければならない。彼女が電車に乗ってしまったら最後、夕輝はもう茜の帰りを待つことしかできなくなってしまう。そんなのは嫌だった。
駅までを必死に走る。全速力だ。駅までは少し距離があるので、今全速力で走るのは効率の良いことではないかも知れない。だが、ここで持てる力を振り絞らないことなんてできなかった。夕輝はその体力の限界まで、全力で走らなければならなかった。
昨日に続き、空は曇っている。空は曇っているけれども、まるで真夏の陽射しの強い日のように夕輝は汗をかいた。体にだんだんと酸素が足りなくなり、体内の細胞で乳酸発酵が行われているのがわかってきた。苦しい。そうして走り続けるにつれだんだんと、呼吸の量が増えるのが分かった。周りに聞こえるくらい息が切れている。今すぐ走るのをやめたい。
それでも、夕輝は走った。多分、初めて点滅した青信号を渡った。それくらい余裕がなかった。足が痛くなっても走った。汗がどんなに流れても気にしなかった。これが無意味だとしても、走らずにはいられなかった。
そうしてしばらく走り、やっと駅が見えてきたときだった。気付くのは簡単だった。優に10分は走って、疲れはてた脳も、彼女だけはちゃんと認識したようだ。夕輝は目を見開いた。
見間違いじゃない。
あの後ろ姿。何度も見てきたあの透き通ったクリーム色の髪。少し長いあの髪。あの低い身長。歩き方。制服。今更、見間違えるはずがなかった。
「茜!」
駅付近は人も多かったが、周りの目なんてもうどうでも良かった。気付いたらそう叫んでいた。疲労なんて忘れていた。今叫ばなければ、もう永遠に近付けない気がしたから。そんなのは絶対に嫌だ。彼女は驚いた目でこちらを見た。まだ余りにも遠いが、その表情を確認するのもままならない程ではなかった。
そして、そのとき夕輝は
「茜!」
もう一度声をかけると、彼女は振り返って走った。都内にしては狭い駅のため流石に入っては逃げ切れないとでも思ったのか、彼女は駅を通り過ぎて走って行ってしまった。カーブの上り坂。夕輝は必死に追いかける。明らかに劣勢だ。夕輝は既に疲労困憊の状態で何とかその足を動かしているのだから。
「くそっ」
夕輝は苛立っていた。色々なことに。それは今に始まったことではない。けれど、今は流石にそんな気持ちを抑えられなかった。苛立って仕方がなかった。
見てしまったから。
嘘みたいだった。
先程、大声で彼女を呼んだとき。彼女が信じられないとでも言いたそうにこちらを振り向いたとき。
彼女の顔を夕輝はしっかり見ていた。
ほんの一粒の涙だったけれど、見逃しはしなかった。夕輝の知っている茜ではなかった。常に強い茜ではなかった。彼女を取り巻く状況が、彼女を押し潰す沢山の感情が、彼女をあれ程に苦しめていたのだ。
自覚が足りな過ぎた。
馬鹿だ。
何をしていたんだ。
何を見ていたんだ。
分かった気でいた。
余りにも呑気だった。
甘く見ていた。
昨日の彼女を見て、彼女のことを分かってやれるのが自分だけなんて特別になった気でいて、自分の存在価値を肯定して──。
結果はどうだ?
実際は何も分かっていなかった。何一つ理解していなかった。
ふざけるな。
何を考えている。
今更になって自分の間抜けさに呆れた。言葉も出ない。
だから夕輝は苛立っていたのだ。茜のことを真に理解しようとしていなかった自分に。楽観的な考えしかできない自分に、心の底から反吐が出た。
だから夕輝は、今度は疲れなんて全く気にせずに全力で走った。そうすることで自分をできるだけ罰してやりたかった。何より、もう絶対に茜を見失ってはいけないと、やっと気付いたから。
「おい、茜!」
瞳の奥に彼女を見定める。すぐそこにいるようで、しかし余りにも遠い。足だって悲鳴を上げている。けれど、それが本望だった。今は自分をこの上なく痛め付けてやりたかった。それで償えるとは思っていない。それでも、そうせずにはいられなかった。
彼女の上った坂を上り終えた頃には大通りに出て、広い道を彼女が遠くで走っているのが見えた。どこに逃げようとしているのかは分からない。分かったら苦労はしないし、彼女自身もどこか決まった場所に逃げようとしているわけではないのだろう。
ただ、怯えていることは分かる。
そして、その怯えは夕輝に対するものなんかではない。
川が見えた。この辺りを大きな河川が流れているのは誰もが知る事実だ。ここの大きな橋が、ちょっとした隠れ観光名所として人々に知られているからだ。白く、川から20メートルくらいの高さがある橋。全長は50メートルくらいで、車道を挟む形で歩行車道が両端に走っている。しかし隠れ観光名所と言うだけあって、人はあまり寄り付かない。存在を知らないのが大多数だろうが、この時間ともなるとそんな人間は0だった。
流石に疲れてきた茜はそこに向かった。夕輝だって疲れていると言うのに、それでも夕輝の半分ぐらいの速度しか出ていない。精神的な部分が大きいのだろう。茜にとっても、夕輝にとっても。
だから、茜が橋の半分を渡りきる頃には夕輝はもう橋を渡り始めていた。
追い付くのだって、時間の問題だった。
「......茜!」
「来ないで下さい!」
彼女との距離が僅か4メートルくらいになってもう一度だけ強く声をかけると、茜がやっと立ち止まった。それは、学校の黒板の端から恥までくらいの距離。茜がとうとう、夕輝を直接的に拒絶する言葉を発した。しかし、そんなことは端から分かっていたことだ。頭に酸素が回っていないせいで、そんなことはどうでもいいような気になってしまう。
「......来ないで下さい」
声が震えていた。こちらを向きはしなかった。彼女の背中は暗い。
彼女は怯えていた。ずっと怯えていた。今思えばそれは、夕輝と出会う前からだったのだろう。それなのに、夕輝は出会ってからの彼女を基準に考えてしまっていた。ずっと茜を決め付けていた。
沙良がいなくなって、最初にかけた言葉は、彼女を気遣うような言葉ではなかった。
──お前は俺らのリーダーで......友利茜だろ──
本当に馬鹿だった。
何も分かっていなかった。
彼女を知らぬ間に傷付けていた。
もう、こんなことはやめよう。
こんなことは。
「......茜」
彼女は口を開かなかった。彼女は今、夕輝の言葉など聞きたくないのだろう。そして恐らく、誰の言葉も聞きたくないはずだ。彼女はあらゆるものに怯えている。あらゆるものに不信感を覚え、あらゆるものを拒絶している。
けれど......だからこそ夕輝は、彼女を放っておくことなんてできなかった。ここで夕輝が何もしなければ、彼女は堕ちていく一方だ。そんなのは絶対に良くない。だから夕輝は、茜との距離を縮めることはせずに、彼女に言葉をかけた。
「あのさ......俺」
そう言ってから、初めて思考がまとまっていないことに気付いた。だから、それから数秒、考えを整理した。
深呼吸する。
言わなきゃいけない。
「俺は......茜が心配なんだ。こんなこと言ったら怒るかも知れない、ってか、現にさっき怒られたばっかだけど......。茜は、俺や皆が思ってた程強くない」
「......!」
茜は先程とは違い、何も言い返して来なかった。来なかったけれど、拳をぎりぎりと強く握っている。歯を食い縛っているのが容易に想像できる。
「今までずっと茜のことを見てきて、ほんとに心強いリーダーやってて、俺たちのこと引っ張ってくれて、心の底から凄いって思ってた。強いやつだと思ってた」
右側をいくつもの車がまっすぐ駆け抜けて行く。川の流れる音が僅かだが聴こえる。緩やかなものではなかった。曇り空がこちらを威嚇しているような気がした。
「けど、違った。ずっと勝手に、茜が強い人間だって、茜が何でも1人でやってのける人間だって決め付けてた。......ほんとは無理してただけなのに」
そう言った瞬間、茜がこちらを振り向いた。そしてそれが夕輝を再び驚かせた。今度は、先程とは違ったからだ。目を腫らして、こちらに完全に敵意を向けて涙を流している。その涙は止まろうとせず、茜は鋭い目付きで夕輝を睨んでいた。
「......何で......!」
彼女はずんずんとこちらに歩いてきた。親の仇でも見るような目で、こちらに歩いてきた。けれど、それがもし親の仇を見ているものだとして、茜が次の瞬間に夕輝をナイフで刺すと言われていたとしても、夕輝はそれを受け入れただろう。だから、こんな風にしわくちゃになった茜の顔には驚きつつ、今茜がこちらに来るのを恐れることはなかった。
彼女は、夕輝との身長差がはっきりと分かるくらいに夕輝に近付くと、声を大にして泣き始めた。ぽかぽかと力の抜けた拳で夕輝を何発も殴りながら。
「......何で、何で! 何で皆、私のことを分かってくれないんですか......! 何で皆、私の邪魔をするんですか......! 琴羽と沙良を返して下さいよ......! 私の友達を返して下さいよ!」
聞いているだけでも心が痛かった。何で今更気付いてしまったのだろう。茜はずっと不安だったのだ。大切な友達がある日突然いなくなって、しかも安否が分からず、話を聞けばよく分からない連中に連れ去られたとかわけの分からない話を説明され、モルモットにされていてもおかしくない、と言うことなのだから、よく考えてみれば不安にならない人間がいるわけがないのだ。なのに、茜は完璧な人間だと決め付けて、勝手に彼女を追い詰めていた。そして、沙良のことが引き金に、彼女はとうとう耐えられなくなってしまった。そうなるまで気付けなかった。罪悪感が夕輝の胸を痛い程に引き裂く。
「どうしようもないじゃないですか......。私にはどうしようもないじゃないですか! 私だって必死にやったんです! 隼翼さんに言われた通り、生徒会で必死にやってきたんです! なのに......」
だんだんと、茜の背が低くなっていく。簡単なこと。膝から崩れ落ちているのだ。そうして彼女の体から完全に力が抜け、彼女の膝が完全に接地すると、茜はこれ以上ない悲痛な声で訴えた。
「......なのに何で......私から何もかも奪うんですか......!」
痛い。夕輝は痛くて痛くて仕方がなかった。痛い。痛い。痛い。それ以外、何も感じられない。
ぽつり、と顔に冷たいものが当たった。何か、と思ってあの暗い天井を見上げたときには既に、猛烈な量の雨が落ちてきていた。それで気付いた。雲が茜の涙を紛らすために、雨を降らせたのだ、と。あの空が威嚇していたのは、夕輝ではなく、茜だったのだ。この空すら、茜をまともに泣かせようとしないみたいだ。
もうやめてくれよ。
もう、許してくれよ。
茜が何をしたって言うんだ。
もうやめてくれ。
足元の彼女に降りかかる雨を見て、思った。
雨を被る彼女を見て、思った。
制服の腕で涙を拭い続ける彼女を見て。
拭っても拭っても止まろうとしない彼女の涙を見て。
夕輝はもう、いてもたってもいられなかったのだ。
悔しい。
守りたい。
そして、それだけの覚悟があるのか、と自らに問い掛けた。問い掛けはしたけれど、答えなんて出ていた。
あるに決まっている。
守りたい。茜を守りたい。
「茜、行くぞ」
気付けば彼女の手をとっていた。低くなった彼女の左手を自分の右の手で強く握って、文句も言わせない程の力で引っ張った。彼女を立ち上がらせ、彼女の手を握ったまま走った。茜はびっくりしたように、しかし抵抗もできず夕輝の後ろを走っていた。
「ちょっと......夕輝くん!」
流石に予想外だったようで、本当にすっかり驚いた、という声を出していた。
「どこに行くんですか!」
今の今まで泣いていた茜の声はまだ掠れており、目は嫌になるぐらい腫れぼったい。
「今からお前の家に行く。お前の父さんと話をつける」
「え......?」
豪雨の中なので、茜の掠れた声を聞くので精一杯だった。夕輝はそれでも、走るしかなかった。どうしようもないくらいに胸が痛かったから。だから、靴が濡れようが、靴下が濡れようが構わずに走った。
「俺が、茜が生徒会にいられるようにする」
「無理です! 私にできなかったのに......夕輝くんにできるはずがありません!」
「いいや、無理じゃない!」
大雨の音にも、車のクラクションにも負けない音量で、夕輝は叫んだ。今、茜にちゃんと伝えなければならない。今、夕輝が彼女の味方をしなければならない。
感情とは裏腹に、夕輝は冷静だった。落ち着いていたわけではない。落ち着けるわけがなかった。けれど、夕輝はもう覚悟を決めていた。茜を絶対に守る覚悟を。夕輝の手の中で怯えている、その小さな手を離さない覚悟を。
「......大丈夫だ」
保証はどこにもなかったけれど、夕輝は確信していた。
「大丈夫だから」
前だけを向いているせいで、茜の表情を確認することはできなかったが、夕輝はそれでもよかった。今は彼女の顔を見なくても、彼女がそれ以上何も言わなくても、ちゃんと繋がっているから。こんなにも危うい手と手で繋がっている。少なくともその間は、茜の存在を証明できる。
哲学者のありがたい言葉なんて関係ない。今はどうでもいい。
例えば、自分が自分を認識しているから自分がいるんだと言い切れるように、今夕輝は茜のことを確かにこの肌で理解している。それでもう十分だ。
だから夕輝は走った。振り向かずに走った。茜が今驚いていようと、戸惑っていようと、夕輝はそんなことは知らんぷりで走り続けた。
彼女を離さないでいることに意味があるんだと知ったから。
雨が冷たいこの道を、夕輝と茜は息が切れても走り続けた。
「......父は夜にならないと帰って来ません」
聞けば、茜の父はまあまあ多忙らしい。仕事の帰りはいつも遅く、昨日は夜勤明けだったため、久々に夕方の家にいたという。しかも今日は、松山にあの書類を渡すなりすぐに会社に行ったということだから、茜の父はそれなりにちゃんと社会人をしているようだ。
雨に濡れて、マンションに帰ってきた。2人は一旦家に戻り、各々シャワーを浴びた。あんな風にびしょ濡れでは流石に風邪を引いてしまう。
目を離している隙に茜が逃げる可能性なんて考えもしなかった。そんなことを、少なくとも今やっと落ち着いた茜がするとは思っていなかったし、そんな気力だって残っていなかっただろうから。
「ここで待ってて、良いん......だよな」
若干、怖かった。夕輝が初めて入る女子の家だったからだ。
「......変なこと考えてませんよね」
「ばっ」
茜が急にそんなことを言い出すので、この空気感が台無しになってしまった。しかも彼女は、飽くまでいつもの口調で、夕輝も見ずにそう言うのだ。強がっているようにも見えたが、多分違う。先程のことがあって、茜だって夕輝とどう接すればいいのか分からないのだ。
けれど、その冗談はやめてほしかった。こんな静かな場所で不意を突かれると、おかしな意識をしてしまう。そんなことあるはずが......あっていいはずがないだろう。何をしにここに来たと言うんだ。
「......馬鹿言ってないで、髪の毛乾かしてこい。風邪引くぞ」
シャワーから出たばかりのまだ目の腫れぼったい茜は、今もタオルでその髪の水分を拭き取っていた。肌が少し火照っており、妙に艶かしい。髪に残る水滴がその色っぽさを引き立て、流石の夕輝も全く意識しないではいられない。そんな自分を心の中で叱った。
「分かりました」
茜があっさりとそう答え、洗面台に戻ってくれたのでほっとした。ドライヤーの音が聴こえてくる。それにしても、と夕輝はため息をついた。雨が降るなんて想定外だった。
しかし、夕輝がため息をついた理由はそこにはなかった。
その原因はむしろ、茜の母が今日に限って大阪に行っているという事実の方にあった。聞けば、茜の母は郵便局でパートをしており、ちょっとした研修で大阪まで行ってしまって、帰りは明日らしい。何の研修なのかは知らないが、凄いタイミングだ、と思った。そのおかげで今夕輝は、クラスメイトの女子の家でその女子と2人きりになるという、できれば経験したくなかった恐ろしいイベントに直面している。
もっとも、そのおかげで夕輝がここにいる説明をしなくて済む、ということもあるのだが。
少し心を落ち着けている間に、茜はドライヤーを終えて戻ってきた。いや、実際は体感よりも時間が経っていたのだろう。色々なことに思いを巡らせているうちに、あっという間に時が過ぎたことを、時計が教えてくれた。6時15分。先程、松山には連絡をしておいた。あとはこちらで何とかする、とだけ伝えると、どこかほっとしたような息遣いが電話越しに聴こえてきた。松山だって心配していないわけではないのだ。けれど、彼には責務があった。複雑な立場だな、と少し松山を気の毒に思った。
そのことを頭の片隅で思い出しつつ、大半はこの状況のことでいっぱいだった。茜の父を説得する方法なら考えてある。が、上手くいくだろうか。そう思うと不安になる。
そしてその不安と同時に、今はこれだ。
「......」
「......」
変な時間が流れる。互いに無言の時間だ。夕輝はさっきからずっと、リビングのテーブルに腰掛けていた。夕輝が来たのを確認するとすぐに茜が淹れてくれたお茶は、もう飲み干してしまった。そして、とうとうこの雰囲気を誤魔化す方法が見付からなかったので、そこのソファに座って静かにしている茜に声をかけてみた。
「......お前の父さんは、いつ帰ってくるんだ?」
「......今日は母がいないので早く帰れるそうです。具体的には分かりません」
「......そうか」
茜が一言答え、再び会話が消えた。思った以上に何の音もしない。普通、食洗機がゴーゴー言っている音とか、外の雨の音とかが聴こえたりするものだが、生憎今は食洗機は動いておらず、このマンションは一部屋一部屋が完全防音だ。今はそれが仇となった。
茜は何を考えているのだろうか。
これ以上じっとしているのは体に悪い。
何かしよう。
そう思ったときだった。
ぐ~~。
間抜けな音が部屋をのろまに徘徊した。すぐに茜のお腹が鳴った音だと理解した。
「......お腹空きましたね」
無表情で茜は立ち上がった。ぐるりとソファを回って夕輝の座るテーブルの横を通過し、それなりに広いキッチンに入った。夕輝の家と完全に同じ間取りだ。
「......何作ろうかな......」
茜が食材を探して冷蔵庫の中をキョロキョロしているのが夕輝には意外だった。
「......何か作るのか?」
茜がにんじんを持ってこちらを振り向いた。むすっとした顔だ。
「当然です。今時、そんなこともできないと嫁に行けません」
「そうか......」
「あ、夕輝くん、じゃがぴこ食べます?」
一度冷蔵庫に視線を戻した茜が、再びこちらを向いた。今度は左手に何か持っている。よく見ると、それは国民的お菓子『じゃがぴこ』だった。シマウマのキャラが目印の、スティック状のお菓子。青色なので、じゃがバター味だ。しかし、夕輝には少し気になることがあった。
「今それ、どこから出した?」
「え?」
きょとんと茜がちょっと目を開く。
「冷蔵庫ですけど......」
「じゃがぴこを冷やすのか?」
「えぇ、じゃがぴこ冷やしたことないんですか? 勿体ないです。食べて下さい」
茜は右手にはにんじんを持ったままじゃがぴこを運んできて、夕輝に渡した。ありがとう、と少し戸惑いながらも夕輝はそれを受け取り、蓋を開けて1本目を口に入れた。
瞬間、ひんやりとした感触が舌に触れた。そのスティックが触れた部分だけが冷たい。それを夕輝は噛んだ。始めは味を感じなかったが、噛んでいるうちに分かった。
「......美味い」
食材を並べていた茜がこちらを向いた。目がキラキラしている。
「そうでしょう。特にじゃがバターはバターが溶ける感じが最高なんです」
そう言いながらにんじんやじゃがいもをそっちのけで駆け寄ってきた。制服から着替えた彼女の私服は、少しゆるゆるで料理しづらそうだが、どこか可愛らしさがある。すぐ隣まで来た茜に夕輝はたじろいでしまった。
「......1本下さい」
まだ冷たいじゃがぴこを、茜が引き抜いた。
久々にこんな茜を見た気がする。不安を隠しているところも当然あるのだろう。取り繕っている部分だってあるのだろう。もしかしたら、そっちの方が大きいのかも知れない。
けれど、嘘とは決して思えない笑顔を見せていたのも事実だ。
きっと、泣いたことは間違いではなかったんだろう。泣いて正解だった。溜め込んでいたことを吐き出したことで、きっと背負っていたものが軽くなったんだと思うから。
まだ、現実的なことは1つも解決していなかったけれど、夕輝は今、茜がこうして少しでも明るさを取り戻してくれたことが嬉しかった。
そんな茜の表情だけに集中していたせいで、自分の口元がほころび、頬が紅くなっていたことに、夕輝自信は気付いていなかった。
「いただきます」
「いただき......ます」
しかし、こうなるとは予想していなかった。一通り終わったら家に帰って食事をとるつもりだったので、今茜の隣でカレーを食べている事実が夕輝には不思議でたまらなかった。
「何か、ほんと悪いな、ご馳走になっちまって」
本来は、茜のために夕輝が何かしなければならないはずなのに。
「いえいえ、ついでですし、夕輝くんもお腹空いていたでしょう?」
「まあ、そうだな......」
気付けば時刻は7時を回り、時計の秒針が滑らかな動きでゆっくり時計の中を動いている。この広いリビングは、一言で表せば、生活感溢れる空間、という感じだった。畳まれていない洗濯物が洗濯かごに無造作に積もっており、椅子やソファにバスタオルが掛かっていたりする。全体としては落ち着く雰囲気。
「......美味いな」
「美味しいですね」
声が重なった。カレーの一口目はちょっと熱かったが、しかし美味さがそれを帳消しにする。一般的なカレールーで作っただけの簡素なカレーだが、学園の牛タンカレーに引けを取らない。家庭の味、という感じがした。中央に君臨している黄金の目玉焼きが食欲を掻き立てる。そして気付いた。
「コクがある」
というのは、つまり、普通のカレーよりもコクがある、ということだ。そして、それが何故なのかはいつしかの彼女とのやり取りのおかげで察しがついた。
「チョコレートです」
「やっぱりか」
「やっぱりです」
得意気な茜は、どこか春に似ているな、と思った。幼さも感じた。今思えば、以前から茜にはこういう面もあった。それが、夕輝に彼女が無理していることを間接的に伝えるヒントだったのだ。それに気付けなかった。もっと見ていれば防げた。
「......美味いよ」
今更気付いてしまったからこそ、夕輝は本気でそのカレーを美味いと思った。本当なら、この美味さは知れないままで良かったのだ。
「美味いよ、ほんと」
そんな風に念を押されたので茜は少し恥ずかしそうに俯いた。彼女は何も言わなかった。
「今度、うちの妹にも作り方を教えてやってくれよ」
夕輝が優しくそう右隣の茜に頼むと、茜はこくりと頷いた。
髪を撫でてやりたくなった。
食事を終えて、夕輝は食器を洗っていた。始めは勿論茜が自分でやると言っていたのだが、流石に何もしないのは憚られたので、無理矢理茜を押しきって、今こうして夕輝は皿を洗っている。しかしそもそも、2人分の皿とコップとスプーンしかないので、正直これでは何もしていないのと変わらない気がしてしまう。
恐る恐る茜を見る。先程同様、ソファに座ってじっとしている。もしかしたら、また色々なことを思い出しているのかも知れない。一度落ち着いて、ちょっと冷静に考えているのかも知れない。琴羽という友達や沙良のことを。
「よし、終わった」
わざとらしく食器洗いが終了したことを口に出してみた。やはり会話はなく、茜が何か考えているのだったらそれで良いのだが、何となく口に出してみたのだ。自分の中で、何かを区切るためであった。
「......」
何をするかな、とゆっくりキッチンを出た。食器は全て拭いて広げた布巾の上に置いておいてくれれば良いと言われたので、その通り仕舞っておいた。夕輝は辺りを一通り見回し、そして行き場に困った。またテーブルの椅子にでも座ろうか。それも変だな。しかし、あまりじろじろ色んなところを見ているとやばい奴になってしまうし、と思考を巡らせていると、目線の先に時計を見つけた。先程も見た、滑らかに動く白の時計だ。
7時半を回っている。
そんなとき。
音がした。
ピピ、と鳴った電子音の後に、ガチャリ、と鍵の開く音が聴こえ、緩やかに玄関の扉が開いた。玄関と廊下が丁度見える場所にいた夕輝は、すぐに彼に気付いた。
茜の父だ。
「あ」
入ってきた茜の父は、すぐにこちらに気付く。数秒、目が合った。目が合って、彼が手に持っていた鞄が落ちた。会社帰りの格好。恐らく会社で色々面倒をこなしてきたのだろう。いつもお疲れ様です。お茶でも淹れてやろうか。
「どぅおぁぁーー!」
仰天しているのか、それとも殺意をむき出しにしているのか、彼は余りにも自然に靴を脱ぎ捨て、こちらに走ってきた。
「うおっ」
夕輝はすぐにソファ側に逃げた。茜が驚きの形相でこちらを振り向く。すぐに彼女は父の登場に気付いた。目を真ん丸にしている。
「お父さん」
「茜、無事か! この男に何かされなかったか!」
予想はできていたことだ。しかし、今だけは茜を独りにさせたくなかったので、予想できていても、回避できないことでもあった。
「えっと......こんばんは」
夕輝はこの正気でない父親を落ち着けるために、できるだけ普通にお辞儀をした。深いお辞儀。口調は飽くまで、外でご近所さんに挨拶するものだ。
しかし、そんな夕輝を見ていた茜の父の瞳は、みるみるうちに光を失っていく。
「......茜......。まさかこの男と......」
そこで、彼は軽い目眩を催したようで少し後ろに傾いた。
「嘘......だ」
展開が速すぎる。一体、何を想像しているのだろう。昨日のどこの馬の骨か分からない青二才が、茜の彼氏として目の前に現れたとでも思っているのだろうか。それとも、出来ちゃいましたなんて言いに来たのだとでも思っているのだろうか。何にせよ、夕輝からしたら傍迷惑な話だ。
「......あの、何か勘違いしてると思うんですけど」
「何て言うことだ! 茜......いつからそんな不良になってしまったんだ......」
駄目だ。話を聞いていない。立ち上がった茜も、在り場に困っているようだった。みっともない父親を夕輝に見せたくない、とも取れる。
「だから、勘違いを......」
「そこに座りなさい。お前も」
かと思えば、急に何かを悟ってしまったような面持ちで、深く息を吐いたのだった。
いや、違うだろ。
「お父さん、話を聞いて下さい」
「お前にお義父さんと呼ばれる筋合いはない!」
迫力満点。鬼の形相。典型的な修羅場。結婚前の挨拶に来た男を認めない相手方父。これがそういう場合ならば、どれだけ状況にフィットしていることだろうか。
しかし、夕輝は何もそんな父親に娘さんを下さいなどと言うために来たわけではない。
「じゃあ、茜さんのお父さん。話を聞いて下さい」
「娘をたぶらかしたお前みたいな人間の話は聞かん!」
ひとまずたぶらかしていないことを証明したいのに、彼はたぶらかした前提で話をしているのでらちがあかない。非常に頑固で聞く耳を持たない最悪の父親だ。茜が本当にこの場に居づらそうにしている。何だか茜が不憫に思えてきた。
「お父さん......話を聞いて」
そんな茜だったが、夕輝がいくら交渉しても何も得られないと分かったのか、まっすぐ父を向いた。
「茜」
おかしな空気が空間を支配していた。この空気感のせいで、時間の経過が妙に遅い。
「私たちは......」
「茜、もう良い。喋らないでくれ。......お前ももう帰れ。今日は遅い」
「だから......」
「帰れ!」
大きな声で、彼は夕輝を咜りつけた。少なくとも、そう表現するに相応しい言い方だった。不都合を排除するもの。さっきから、何やかんやで結局核心を話せずにいる。茜の父がこれでもかと遮るからだ。と思ったら今度は、急に態度を豹変させた。穏やかになったかと思うと、今度は急に怒鳴った。
けれど、何故だろう。
そのとき夕輝は初めて、彼から何か別の感情を感じ取った。どこかで見た覚えがある。
「......ですが」
瞬間、ギロリ、と夕輝を睨む。有無を言わせぬ圧力。大人の力。夕輝たち子供にはこれに逆らうだけの十分な経験も、思考もないと大人に決め付けられている。そうして生きているのだ。そして、だからこそ今、ここで彼を説得しなければならないのだ。
なのにどうしてだろう。この目を見ていると、本当にそんな決意が脆く去っていってしまいそうだ。
どこかで見た覚えがある。
いや。
それどころか。
先程まで見ていたものに重なる。
「......娘さんの生徒会のことです」
だから夕輝は言った。できるだけ簡潔に。何の脈絡もないが、なくていい。伝えられるだけで十分だ。理解を得られるだけで。
一瞬、彼の瞳が揺らいだ気がした。
「......まだそんなことを言っているのか」
突如、口調が変わった。つい数分前までと全然違う。
「茜、生徒会なんかやるぐらいなら、勉強しろと何度も言っているだろ!」
重たい。言葉が妙な重たさを持っている。しかも、抗い難い何かだ。こんなに自分勝手なことを言っているのに、抗うのが恐ろしい。それでも茜が口を開いたのは、そこに明らかな意志を灯していたからだ。つまり、父親の言っていることはおかしい、と。
「お父さん......私!」
「父親に逆らうのか!」
「っ!」
しかし、簡単な言葉でねじ伏せられてしまう。茜はいつも、おかしいと思っていた。あんなに優しい父親なのに、あんなに自分の意見を尊重してくれる父親なのに、生徒会の話をするときだけ、こんな風に態度が豹変する。何かの間違いであってほしかった。
「父親の言うことは守れ!」
夕輝はそのとき、明確に苛立ちを覚えた。この父親は狂っている。そう思った。逆に言えば、茜と違って普段の彼を知らないのだ。
今すぐにでも殴ってやりたかった。
父親なのに。
どうしてそんな風に娘を否定できるんだ。
そう言って殴ってやりたかった。
けれど、できなかった。
単純に気圧されたというのもある。
しかし何より一番は、一時の感情でそれをして、後で不利になるのはこちらの方だと分かっているから。だから、拳を作って自分でも痛くなるぐらいに握り締めることしかできなかった。
ぐっと感情を圧し殺して。
深呼吸した。
「世界には、能力者と呼ばれる人間が存在します」
「!?」
茜が驚いてこちらを見た。
「夕輝くん! いけません!」
「こうでもしなきゃ、どうにもならないだろ!」
初めから考えていた作戦だ。きっとこうなると予想できていたから。だからずっと暖めていた。こうするしかなかった。彼女の父は分かっていないのだ。茜が今、生徒会で何をしているのか。だから勉強をしろなどと、何も知らず無責任なことを言っているのだ。
茜の父親はいい加減にしろとでも言わんばかりに目を見開いていた。
「能力者......? ふざけるな! 大人を馬鹿にするんじゃない!」
勿論、こうなる。仕方ない。けれど、夕輝は何としても茜を救わなければならない。今、茜を守るべき対象が1つ増えた。
この父親だ。
許せない。
こんな風に茜をぞんざいに扱うなんて。
抗い難い何か。そんなもの、もうどうでも良かった。この独裁者から茜を救い出す。
「ふざけちゃいない!」
大声で叫んだ。この父親に打ち勝たなければならない。
「......世界には、能力者がいるんです。生徒会はそういう能力者を保護し、悪い奴らから守る組織なんです」
もう、脈絡や順序なんてどうでも良かった。この頭の固い大人に分からせてやるにはこれしかない。
「夕輝くん......!」
茜は夕輝を咎めるべきか、止めるべきか、結局のところ迷っていたのだろう。こんな方法は絶対に良くないが、こんな方法でしか彼を理解させられないとも分かっていた。
「......馬鹿にするなと言っているだろ! 能力者だ? 保護だ? そんなことを言って、子供だからって許されると思っているのか!」
びりびり、と皮膚に彼の言葉が伝わる。
夕輝は今、おかしいと思った。
何故。
何故今、自分は気圧されている?
強い決意を持ったはずだったのに、先程から表情の見えないこの父親の言葉に勝てない気がした。不思議でたまらない。
「......証拠を見せます」
だから、もう無理矢理言葉を出した。今のうちでなければ、この圧倒的な迫力に完全に抗えなくなってしまっただろうから。その声は震えていた。
けれど、これで良い。冷静な判断でないと言われてしまっても、それでも良い。証拠を見せれば、もう文句なんて言えなくなるだろう。これで良い。
つまり、能力を使えば良い。
茜の力を使えばきっと、信じるだろう。
そんな甘い考えを持っていた。
だからこそそのとき、夕輝は気付いていなかった。
茜の父の、この抗い難い力の正体に。
彼の口調や表情に秘められた、本当の感情に。
その意味に。
そして、彼の口から漏れた、悲痛な言葉に。
──やめろ。
「茜、能力を......」
「......」
茜は黙っている。迷っているのかも知れない。そりゃあそうだ。生徒会のこと、能力のことは一般人には話してはいけない。危険を招きかねないから。
「茜がやらないなら俺がやる。友利さん、見ていて下さい」
「やめろ......」
声が聴こえた。夕輝よりは低い声。この場でその声を出し得る人間は1人しかいない。
夕輝は彼を見る。
「いいえ、やめません。僕はあなたに、真実を伝えなければならない。僕の目を見ていて下さい」
「やめろ!」
「っ!?」
今度は違う。今夕輝は、先程とは違ってちゃんとその声に怯えた。
いや、それも違う。
先程から感じていた違和感。
つい今日茜に感じたものに、彼を重ねた。
怯えているのは夕輝ではない。
何故かは分からないが、分かることがある。
怯えているのは、
怯えているのは。
茜の父は言い放つ。
「お前たちは、科学者の恐ろしさを知らないから、そんな無責任なことが言えるんだ!」
「......は?」
「......え?」
その瞬間、彼が放った言葉の意味を夕輝と茜は全く理解できなかった。
彼は今、何と言っただろうか。
思考を整理しろ。
いや、できるわけがない。
彼は今、確かにこう言った。
『科学者』と。
今までの記憶を辿った。いつ、夕輝が科学者の話をした? いや、絶対にしていない。じゃあ茜がしたのか? それもあり得ない。何より、この彼女の戸惑っている顔を見ればそれも一目瞭然だった。
「何で......」
そう彼女から漏れるのも時間の問題だった。全くもって意味が分からない。何が起こっている。何故自分の父が、科学者のことを。
そして何より、彼の『科学者の恐ろしさを知らないから』という言葉が気になった。
「隼翼から聞いているだろう、科学者に捕らえられた男の話を」
また出た。『シュンスケ』。その言葉に茜は完全に混乱している様子だったし、夕輝も生徒会の上にいる偉い人間だとは認識していたので、やっぱり付いていけていなかった。しかしそれでも、まだ追い付かない思考で何とか夕輝は思い出した。思い出したと言っても、ほぼ直感的に、だ。冷静な思考は今、働かないから。
「『振動』の......」
茜がこちらを振り向いて、もう一度父親を振り返った。目を見開いていた。本当にわけが分からないのだろう。夕輝だって同じだ。
「何で、お父さんが......」
それは彼が、本当は問われたくなかった質問。ずっと隠しておくつもりだったことを答えさせるもの。気が抜けたように歩いてテーブルの椅子に座ると、深く息を吐いた。深く、深く。表情は、夕輝からは伺えない。
彼は顔の前で手を組み、ゆっくりと、重い口を開き、言った。
「その『振動』の能力者が......俺だからだ」
「は......!?」
「......っ!?」
真っ白に。
いや、冗談なんかじゃない。
今までの話がそれを物語っていた。
科学者のことを知っていたのも。
シュンスケなる男のことを知っていたのも。
あからさまに怯えていたのも。
嘘だ。そんなのは絶対に嘘だ。嘘に決まっている。あり得ない。あり得るはずがない。
何で、お父さんが。
言葉なんて何でも良い。
茜は否定したかっただけ。
心の中で、ただ否定し続けた。
夕輝も言葉を失っていた。こんなことが本当にあり得るのか。あり得て良いのか。
「そんな......」
茜が崩れた。雨の中のそれとは違う。悔しいわけでも、悲しいわけでもない。
信じたくない。現実から目を背けたかった。
けれど、気付いてしまった。
普段優しい父が何故、生徒会活動をすることを真っ向から反対していたのか。
何故、このマンションに引っ越すことは何も言わずに了承したのか、も。
それらは全て、茜の置かれた状況を理解していたからだ。
夕輝だって、彼が何故先程から、夕輝と茜の話を逸らすようにあからさまに大声を出したり、コロコロ態度を変えたりしていたのか、その理由に気付いてしまった。
彼は、夕輝なんかよりもよっぽど、茜を守ろうとしていたのだ。茜に嫌われても、茜を守るつもりだったのだ。
「電流を浴びせられ、体を弄ばれ、1日に何本も得体の知れない注射をされて......俺は茜にまで、あんな目に遭ってほしくないんだよ......」
言葉の重みが違う。表情はまだ見えないけれど、うめき声にも似た痛々しい声だった。聞いているのも苦しい。
夕輝は、どうしようもないと思った。本気で今、諦めてしまった。そして、ゆっくりと茜を振り向いた。膝から崩れた茜を。
何故、そんな顔をするんだ。
何故、自分は彼女にこんな顔をさせているんだ。
悔しかった。結局、真に茜を守っていたのは彼女の父親で、自分は彼女の一部分しか知らなかったのだ。知らないまま傲慢になってしまっていたのだ。
でも。
夕輝はもう一度唱えた。
何故、そんな顔をするんだ。
もうこんな顔はさせないと、守ると誓ったのに。
何一つ守れていないじゃないか。
何一つ。
彼女の気持ちはどうなる。
彼女の希望はどうなる。
琴羽さんのことも、沙良のことも、何一つ解決していないじゃないか。
茜は泣いていたんだ。
泣いていたんだよ、茜は。
──何で......私から何もかも奪うんですか......!
......駄目だ。
駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。
こんなのは駄目だ。
駄目に決まっている。
決めたではないか。
茜を救う。
救わなければならない。
そう思ったら、言葉は出ていた。
「俺が」
いとも自然に出た。自分がどこを見ているのかは分からない。この広い部屋の中で、もしかしたらさっき洗った食器を見ていたかも知れない。ゆっくり動く秒針かも知れない。会社帰りの茜の父のスーツかも知れないし、茜かも知れない。あるいは、何も見えていないのか。少なくとも、何も考えていないことだけは確かだ。だからここで口に出したことは、紛れもない本心だった。
「俺が茜を守ります」
「っ!?」
茜と一希がこちらに視線を向けた。やっと一希の表情が見えた。睨んでいる。敵意ではない。それは、親としての本質的な目線だ。つまり、茜を守るための。一方で茜は、雨の中、夕輝が彼女の手をとったときのような顔をしている。少なくとも、想定外の発言ではあったのだろう。
「......夕輝くん......?」
「俺が、茜を守る。守ります」
一希は、ため息をついた。呆れだって混じっているだろう。一番は、
「守るだって......? 夕輝と言ったか......お前に何ができる......?」
何ができる。夕輝にしかできないこと。そんなものいくらでもある。すらすらと言葉を出す。
「あなたより、茜のそばにいてやれる」
「......」
ありきたりな答えだ。自分で言っていて、流石に馬鹿みたいにも思える。けれど、夕輝は言わなければならない。茜の父と、自分と茜。どちらの想いだって裏切らないために。
「茜の、あなたの知らない一面を知ってる」
恥ずかしいことを言っているかも知れない。みっともない張り合いかも知れない。けれど、どうでも良かった。そうして、本当の意味で茜を守ってやらないといけない。茜を理不尽から、悲しみから、涙から守ってやれるのは、きっと自分だけだ。夕輝だけが、彼女の涙の理由を知っている。だから、今度は迷わない。
「もう、茜を不安になんてさせない。決めたんです。誰が何と言おうと、茜が拒絶しようと、俺は茜を守るって決めたんです」
わなわなと、一希が震えている。不安や恐怖がエネルギーだ。
「......茜は......俺の大事な娘なんだよ......! 傷付いてほしくないんだよ......!」
「絶対傷つけない」
「そんなのは!」
ガタン、と彼は座っていた椅子を倒して立ち上がった。テーブルが揺れる。
「そんなのは......お前たちが何も知らないから言えるんだ! 奴らに捕まれば、死ぬより辛い地獄を見ることになるんだぞ!」
彼はエネルギーを発散させるように、怒号した。その表情は、見ているだけでも痛すぎるもの。それが、彼の言っていることが真実なんだと夕輝に思い知らせた。
「脳に電流を流され! 薄暗い暗闇の中に何日も放置され! そうして挙げ句の果てに人格を失い! 俺には......高校生活をまともに送った記憶がない!」
「っ!」
茜はまた思い出した。この父親の口から、そう言えば、学生時代の話を聞いた覚えがない。それもそのはずだ。彼は高校に通ってなどいなかったのだから。
夕輝は彼の話を聞いて、勿論だが恐怖した。体験者本人から聞くのでは全然、重みが違う。彼は本気で怯えているから。
けれど、それ以上に夕輝は悔しかった。感情論で話をして良い場所じゃない。今はそう言うときじゃない。
けど、じゃあ茜の気持ちはどうなる?
覚悟なら決めていた。
「その苦しみがお前たちには分からないだろ!」
「でも!」
だから、夕輝は一希の言葉に本気で反発した。意志のある怒りだった。強がりじゃない。
「でも、俺たちにあんたの苦しみが分からないように......あんたには茜の苦しみが分からない!」
一希に決して負けない熱量で、夕輝は強く言い放った。分かってたまるか。茜がどれだけ苦しんでいるのか、沙良のことを覚えていない他の人間に分かってたまるはずがない。
「茜はいつも強がって......先頭切って、無茶ばっかして、俺にも生徒会の奴らにも迷惑かけて......。でも、誰よりも抱え込んでた! 誰よりも重い荷物を背負ってた!」
1歩ずつ一希に近付く。
「それなのに、そんなの顔にも出さず、毎日明るく振る舞って......ほんとはずっと辛かったのに! 友達を失って! 無事である保証もなくて!」
夕輝は両手のひらをテーブルについた。それが思っていたより強かったらしく、テーブルが揺れ、手のひらが熱かったが、そんなことはどうでも良い。
「でも......だからこそ、茜はずっと強くあろうとしたんだ! 弱さを見せちゃいけないって、無理して感情を圧し殺して! 壊れてしまうまで......独りで抱え込んでたんだ! 全ては、あなたのような目に遭うかも知れない人々のために! 誰も失わないために茜は戦ってるんだ! ......茜の生徒会活動を認めてやって下さい!」
「っ!」
一瞬、気圧されて一希が怯んだ。夕輝の熱量に押し負けそうになっていた。が、彼は負けじと言い返す。
「......茜がそうなるかも知れないんだよ!」
彼の目には、恐怖と意志が同時に灯っていた。時計は8時を告げる。ぴりぴりと痛いものが夕輝の皮膚に伝わる。けれど、夕輝はそれでも言わなければならなかった。茜を守るため。
「させない!」
大きな声で一希を貫く。一希は再度怯んだ。
「絶対させない!」
必死だった。夕輝はただ、必死だった。茜のために、必死になるしかなかった。茜のためなら必死にだってなれた。
もう泣かせない。
もう悲しませない。
「茜は絶対に俺が守る! この命に代えても絶対に守る! ......俺が死ぬまでは、茜を絶対に守り続ける!」
やけだったけれど、それでも本心だったし、夕輝は何より、もうあんな目に遭うのはごめんだった。あんな風に茜に泣かれて、平気でいられるはずがなかった。
「俺だって、もう、茜を辛い目に遭わせたくない! 泣いてほしくない! ......もう泣かせやしない! そう誓える!」
「......っ!」
そのとき初めて、夕輝の目に、光るものが映った。それは間違いなく、目の前の茜の父の、目から流れているものだった。誤魔化し様もない。
泣いているのだ。
彼は少しだけ下を向いた。
「くそ......何で......」
彼は自分の涙を咎めているようだった。それは、彼が、夕輝に強さを感じてしまったことを認めるものになってしまうから。
「お前みたいな奴に......茜を......」
「守ります。必ず守り続けます」
「っ!」
ふざけるな。何も分かっていない子供に、あの苦しみを知らない人間に、任せられるわけがないだろう。
そう思っているはずなのに。
そう思えば思う程、一希の目からは涙が止まらなかった。
それが一希に、この青年になら任せても良いかも知れない、と思わせた。
深呼吸をした。
もう、茜も子供ではないのだ。
潮時なのかも知れない。
「......本当に......茜を守れるのか......?」
「本当です!」
「絶対だな!?」
すると一希は、今度はばっ、と夕輝を凝視した。悲痛な表情。眉のしわがぐちゃぐちゃに曲がり、涙が次々に溢れた。
「......絶対です。約束します。......だからどうか......茜の生徒会活動を認めてやってくれませんか......?」
長い沈黙。それが、やっと時間の経過を......嫌でも教えてくれる。外はもうすっかり暗くなっているカーテンの奥に暗闇が見えた。
茜はずっと黙っていた。
「......分かった」
やっとのことで、一希は口を開いた。この長い時間の間に、何とか気持ちを整理していたのだろう。有り余るほどの不安と折り合いをつけていたのだろう。そうするしかなかったのだ。
「ただし」
一希は両手を前に持ってきて、夕輝の腕を直接掴んだ。力強く、すがるように。
「......茜に何かあったら、夕輝......承知しないぞ......!」
強い目だった。
弱い目だった。
父親だから、娘を心配するのは当然だ。
夕輝はごくり、と唾を飲み、そして彼と人間として向き合うため、まっすぐ目を見る。
「......勿論」
一希はその言葉を確かに聞き届けると、ゆっくりとその手を離し、表情を見せないように歩いた。
「もう帰れ」
そして、そう言い残して夕輝の家だと春の部屋にあたる部屋に入っていった。娘の前で涙を流すことは許されないから。ぱたん、とドアの閉まる音がして、夕輝はそれで、今まで自分にかかっていた緊張が一気に解けるのを理解した。そのまま気が抜けて倒れてしまいそうになる。が、早く家に帰ろう。春が本日2度目の晩御飯を作って待っているだろうから。
その前に、いくつか茜に言っておこう。
「......勝手ばっか言って......ほんとごめんな。......けど、全部本心だ。それだけは言わせてくれ」
「......いえ」
ついさっきまでずっと聴いていたはずの茜の声を、もう数日ぶりに聴いたような気持ちになった。それで、ほっ、と安堵のため息が出たのも、今は誰も責めないでほしい。
「カレー美味かった。また食わせてくれよ」
「......はい」
「......じゃあ、帰るな」
返事がないので、さっさと帰ろう。茜はずっと俯いているので、何を考えているか分からない。それも仕方ないだろう。急に父から信じがたいことを教えられたのだから。茜に腑に落ちない部分があったとしても、それでも夕輝は茜を守ると決めた。けれど、今は文句を言われる前に帰りたい。
だから夕輝は、そのまま廊下の方に歩いた。そして、滑らかな床を歩いて玄関で靴を履く。一希の靴が散らかっている。
ドアを開け、外の少し涼しくなった温度を皮膚で感じた。まだ、今までのことがしっかりと追い付いておらず、感情もないまま玄関から出て、ドアを閉めた。
同じマンションの同じ階。夕輝の部屋まで徒歩で20歩。一歩一歩がやけに重く感じた。夕輝がこれからすることは、そういうことだ。
音がした。ガチャリ、と、今さっき聴いた音だった。10歩ぐらい進んだところ。すぐに音のした後ろを振り返ると、茜だった。
彼女はこちらに威張った様子で歩いてきた。
「......どうした、茜」
「どうしたじゃないですよ!」
「......え?」
表情から、声から、何から何まで夕輝にそれを教えてくれた。
怒っている。
「お父さんにあんなこと言って......ほんとに......馬鹿なんじゃないですか!? ......夕輝くんの馬鹿!」
強烈な言葉だ。オブラートというものを知らないのだろうか。こんなに大きな声で言われると、ご近所さんに聞こえていないか心配になってしまう。茜は目の前まで来ると、また夕輝に苛立ちをぶつけてきた。
「馬鹿! ......あんな風に言われたら......何も言えないじゃないですか! 私だってほんとは、強がってなんかいないとか、夕輝くんに守られる程弱くないとか言いたかったんですよ!」
夕輝の顔をまっすぐ見て彼女は言った。鋭い目付きだった。
「なのに、何勝手に1人で全部片付けてるんですか!」
顔を近付けてきた。胸ぐらを掴まれそうな勢いだ。チンピラさながら。
だけど、どうしてだろうか。目が潤んで見える。いいや、見間違いじゃない。鼻も若干赤い。誰でも分かる。泣きそうだ。
「夕輝くんの馬鹿! ......夕輝くんの馬鹿! 馬鹿! ......馬鹿!」
最早、馬鹿しか言わない。茜はどれだけ自分を馬鹿にしたいのだろうか。そんな風に夕輝は思った。が、うるうるしてきた瞳を隠すためか、茜が俯いて溢した言葉は予想外のものだった。
「......夕輝くんの、お人好し」
少し驚いたが、茜の小さくなった声から考えると、これで茜は少し恥ずかしがっているのかも知れない。恥ずかしいなら言わなければ良いのに。
いや、そういうわけにもいかないか。彼女はこれで、結構礼儀とかにちゃんとしている。
だから、彼女の口からこんな言葉が出てくるのも何ら不思議ではないことなのかも知れない。
「......ありがとうございます」
「え?」
夕輝はびっくりした。茜の口からこんなありがとうを聞いたことがなかったから。
「礼なんていいよ」
「私がしたいんです」
むす、と腕を組んでいる。意地になっているといえば、そうかも知れない。
「......じゃあ、それは......どう......いたしまして」
これを言うのは思っていたより恥ずかしくて、夕輝は空の方を向いて耳を掻いた。
「......ほんと、勝手ばっか言ってごめんな」
「それを今言うのはどうかと思います」
「......ごめん」
変な時間が流れる。空は暗く、星が見えた。先程まで雨が降っていたと言うのに、雲はどこに行ってしまったのだろうか。
今宵は満月。
「月が綺麗だな」
「なっ」
何となく漏らした言葉が、ここまで茜の顔を紅くさせてしまうとは思っていなかった。
「......あぁ、いや、他意はない」
「この場合は他意が本意になるんですよ!」
「ははっ」
「『ははっ』じゃない!」
笑ってしまった。茜は、本当に、この手の話題に弱い。何故だろうか。経験が疎いのか。
あるいは──。
そんなわけはないか。
「じゃ、俺、帰るな」
「......はい」
「また明日」
「また明日......」
課題は山積み。解決していないことだらけだ。
だけど、今だけはこうして笑うことを許してほしい。
今だけは。
夕輝は自分を見送る茜を背中に見て、また1歩ずつ踏み出した。
それにしても。夕輝には1つだけ、気になることがあった。それは、茜の父のこと。
以前松山から聞いた話では、『振動』の能力者は『大脳の大半の機能を失った』ということだったはずだが、茜の父は、そんな経験が過去にあったとは思えない程ピンピンしていた。後遺症残っているようにはこれっぽっちも見えなかった。
『シュンスケ』という男が誇張したのかも知れない。きっとそうだ。
夕輝は家の扉の前に立ち、玄関のロックを解除すると、最後にもう一度、廊下向こうの方にいる茜を見た。
彼女は優しく微笑んでいる。それが嬉しかった。
人は、この気持ちを何と言うのだろう。
それは、夕輝の知らない感情だった。
口で『じゃあな』と作り、手を振った。そして、彼女が軽く手を振り返してくれるのを確認してから自宅の玄関に入る。
「お帰り」と春が出迎えてくれた。
十一話に停滞前線を張っている天然の未です。投稿ペースは守ります。
茜父。彼は原作では殆ど喋っておらず......性格描写が不安でしたが、どうでしたでしょうか。やはり子供として空白の期間を過ごしてしまっていると思うので、どこかに子供っぽさが抜けきらない感じを出したかったのと、一方で茜を守ろうとするれっきとした『大人』としての彼も描きたかった、というある種矛盾した事柄を同時に描写するのは至難の業ですね。上手くできていれば良いのですが......。
という長文は読み流してもらって大丈夫です。独り言のようなものですので、ふーん程度でお聞きください。
第九話が終わりますと、次は第十話、タイトルは『それまでの記録』ということで、第一話同様原作サブタイトルを文字った感じです。楽しみにしていただければ嬉しいです。
ではここらで。久々に後書きが長く、申し訳ございませんでした。お付き合い、ありがとうございます。今後とも天然の未をよろしくお願い致します。