Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
もともと書いていた前書きがあまりにも雑かつ「(雑)」を利用することで誤魔化そうとしており、自分でも自分は何を考えていたのだと思考を巡らせ、これではいけないという思いのもと前書きを書き直しました、という内容の前書きを書いております(雑)。
第十一話からは急展開でやっていきます。本当にあと4話で終わるのか、と不安を抱かれるかも知れませんが、終わります。
1週間で1話が終了するため、約1ヶ月となります。
その後も続編はありますので、4話で全伏線を回収するとかではありません。ご安心下さい。
それでは前書きはこの辺りで、本編をどうぞ。
9月29日。土曜日のこの日に、夕輝が春に驚かれる程早起きしたのには理由がある。
今日、夕輝にはやらなければならないことがあった。勿論それは、地域社会のための奉仕活動でもなければ学園の体育大会でもなく、しかしそれは能力者の保護でもなかった。
松山には、万が一能力者が現れた場合は巧と雪の2人だけで向かわせてくれ、もと言ってある。若干、いや結構な不安要素があるが、彼らなら何とかするだろう。そう信じるしかない。今、夕輝にとってはそれよりも大事なことがあったのだ。
学校に行くわけではないので私服だが、遊びに行くわけでもないので飽くまできちんとした服装を選んだつもりでいる。それでもちょっとだけお洒落さを気にしてしまったことは咎めないでほしい。以前、水族館へと足を運んだときとは違い、今日は始めから2人で出掛けることが分かっているのだから、意識しないつもりでも多少は意識してしまう。
心を浮わつかせているつもりはない。今からすることは......もっと言えば、夕輝がこれからしていくことは、そういうことなのだ。決しておふざけでは済まないことだし、今まで目を背けていたことに向き合うことでもある。
「兄ちゃん......彼女とデート?」
そんな風に自分を戒めつつ鏡の前で前髪を気にしていると、春に見付かってしまった。13時を回り、夕輝はまさに家を出ようとしていたところだったのだが、やはり春は兄を疑うことをやめてはいなかった。最近は兄のテンションが落ち込んでいたのであまり口出しをしていなかったのだが、今朝、休日だと言うのに午前6時に健康的起床をし、久々の新作スライまるを先に見られてしまった上に、何故かやたらと外見を気にしていたために、その疑惑が再浮上したのだ。当然ながら妹という立場の春に分かることと言ったら、どうやら彼女と別れたわけではなさそうだ、ということぐらいだったが。
「違う、生徒会活動だ」
「......またそれ?」
不祥事を起こした政治家を見る目で夕輝をまじまじと見つめる。夕輝は若干のけ反る。今回ばかりは夕輝は自分の発言の虚偽性を理解していたために、ぎくりという尖った擬音が部屋を貫いた。生徒会活動に関連することと言えばそうだが、違うと言えば違う。
「女遊びも良いけど、相手は1人にしてね」
だから違う、と言いたいのを堪えた。何を言っても無駄だと分かっていたから。それと、できれば女遊びも良いけどとも言ってほしくなかった。自分が女漁りに夢中になってしまった残念な兄であると妹に本気で思われているのかと不安になってしまう。いいや、嘘だ。不安になる必要もないくらい、そう思われているのは明確だろう。
「馬鹿なことばっか言ってないで、勉強でもしてこい」
飽くまで冷静な口調と共に軽く春の髪をチョップしたが、ボリュームのある毛髪が緩和材となってダメージは0。効果はないみたいだ。
「ま、兄ちゃんが何をしていようと私には関係ないんだけどね」
軽く夕輝の手を払いながら適当な口調で言うと、部屋に向かっていった。これで、春は真面目にも兄の言いつけを守って勉強するつもりなのである。勿論、そんなことは夕輝の知るところではなかったが。
一通り身仕度をし、持っていくものと言う程持っていくものもないが、一応最低限のものを持ち、最後にもう一度髪型を確認すると、
「行ってくるな」
部屋に籠って勉強をしている春に声をかけ、返事が返ってきたのを確認し、夕輝は玄関を出た。
空気が美味いと思ったのは久々で、夏に比べてちょっとだけ涼しくなったこの空気を堪能することにして目を閉じていた。どんなロマンチストだと言われるかも知れないが、最近はやたらと気負うことが多かったのだ。沙良のことと、茜のことと、茜の父のこと。それに加えて今は琴羽という見知らぬ女子のことまで気にかけないといけなくなってしまった夕輝だったが、しかしそれが大したことだとも今は思っていなかった。そして、それが単純で少々馬鹿げた理由だとも分かっていた。
左手の方から音が聴こえる。今さっき聴いた、夕輝が家の扉を開いた音と全く同じ音だった。閉じていた目を開き、自然にその音の方を向く。
そこに茜がいることは言うまでもない。
彼女もこちらに気付いたようで、すぐに歩み寄ってきた。
「おはようございます」
身長差のせいで、茜が夕輝を見上げる形になる。するとどうだろう、夕輝は言うまでもなく、この上目遣いの彼女に圧倒され、たじろいでしまう。と言っても勿論、恐怖したり引いたりしているわけではない。自覚なく、可愛らしく開いた瞳が男子の夕輝には若干、眩しかったのである。フリル袖の白いカットソーにドット柄のキュロットスカート。もうすぐ10月だと言うのに寒くないのか、とか思う反面、それはやはり夕輝を無自覚に惑わせる。以前ならこんなことはなかったのに、と少し高鳴った心臓に疑問符を浮かべながらも、やっぱり平常心を取り繕いつつ答える。
「ああ、おはよう」
ベージュの鞄を肩に掛ける彼女は、服装とは裏腹にとても平常運転には見えなかった。どこか緊張している。それもそのはず、今から夕輝たち2人はある人のところへ向かわなければならないのだ。それが意味するところはつまり、茜の友達である美田琴羽の所存について聞きに行くということ。そして、この何も変化を見せない状況を何とか打開し、場合によってはこれからの琴羽の救出にさしあたって茜自身も何かしらのアクションを起こすことになる可能性があるということだ。
会話が途切れ、なかなか2人とも歩き始めないこの状態に胸がむかむかしてきた夕輝は、
「行くぞ」
と歩き始めた。エレベーターのボタンを押し、黄色いランプが下向き矢印の形に光ったところで一息。マンション3階なのでエレベーターが来るのはすぐだった。2人はそれに乗る。
1階を選択、蝶の形のボタンを押して下に参ります。夕輝はこんな状況だと言うのに、心のどこかで安堵すらしていた。それは、やはり隣に立っている茜のこと。
まだ何一つ解決していないかも知れない。もしかしたら、解決するとも分からない。何せ、イレギュラーな事態なのだから。1年前、茜の目の前から突然姿を消した琴羽のことが、今になって何かしたところでそれが直接、彼女への突破口になるとは限らないのだ。むしろ確率は低いと言えるかも知れない。沙良のことに至っては──夕輝と茜を除いて、この世界の誰もが彼女の存在を忘れてしまっている。琴羽の母が琴羽の存在を忘れたのが科学者の仕業だったとして、後者は全くの別問題だと考えるのが妥当だ。何故なら、沙良は能力を有していなかったから。しかし、じゃあ彼女はどこへ行ってしまったのか、それは夕輝にも茜にも分かりかねるところだった。
よくよく考えてみれば、解決していないことは余りに多い。単に数としてではなく、質としての話だ。が、それでも今、夕輝はその問題たちに対して上手く向き合える気がしていた。
それは、先程言ったようにとても単純な理由だ。
茜が立ち直ってくれたこと。
それだけで夕輝には十分過ぎるくらいだった。
エレベーターは1階を示し、扉がゆっくりと開く。先に出たのは後から入った茜で、後ろ姿は小動物のようで、腕なんかがところどころ細か小さな体つきは今にも壊れてしまいそうだった。夕輝は彼女の後に続き、すぐに隣に並んだ。
「......研究所に行くんだよな」
夕輝は分かりきっていたことを問いかけた。まっすぐ前を向いて歩きながら茜は答える。
「はい。白柳第一特殊科学研究所。雪のお母さんの会社が出資している研究所の1つです」
「そうなのか?」
「ええ」
ここで夕輝の知らない事実が登場した。確かに研究所の名前に『白柳』の2文字があった。雪の母が大きな会社の社長であることは知っていたが、これから向かう場所がそんな会社からの資金で動いていると知ると、何だか親近感にも近い不思議な感覚を覚える。雪の母が別の世界にいるような気持ちにもなる。
「世界は広いようで狭いんだな」
無難な感想っぽいが、本心である。大企業の社長の娘を友人に持つことが一体全体どれくらい珍しいことなのかは分からないが、少なくとも夕輝はこれまでの人生で雪の他にそんな人物と知り合ったことがなかったため、今一、今の自分の置かれている環境がどういうものなのか認識できていなかった。
歩いて15分。やっと半分というところ。本当は地下鉄を使った方が速いのだが、そう距離がないのと、今日は当たり前だが生徒会から補助が出ないということで、歩くことになったのだ。正直、そのぐらいの賃金は良いじゃないかと思ったが、茜が歩きたいと言うので仕方ない。健康面には意外と気を遣っているのかも知れない。
「夕輝くん」
「何だ?」
「あれ買って来ますね」
「ん?」
見ると、日の射す方にたい焼き屋のキッチンカーが止まって営業していた。
「相変わらずの食いしん坊だな」
夕輝がそう言った瞬間には茜は隣におらず、瞬間移動でもしたかのようにキッチンカーの中のおじさんに話しかけていた。何だか笑えてきてしまう。茜のこんな姿を見るのは久々で、単純に嬉しかったというのが大きかった。彼女は5メートル程先で、ちょっと大人っぽいピンクの財布を取り出し、小銭を取り出しておじさんに渡した。おじさんはそれを受け取ると、先におつりを返却し、続いて丁度できたところなのであろうたい焼きを茜に提供した。見ると、2匹のたい焼きが目を真ん丸にして袋から顔を出している。2つも食べるのか、と少し呆れながら、ぺこり、とお辞儀をして茜が戻ってくる姿を見届けた。
「はい」
茜がたい焼きの片方を差し出す。これには一瞬、理解が追い付かなかった。
「......?」
きょとんとしている夕輝を、始めは微笑気味だった茜が眉間にしわを寄せてまじまじと見つめる。今朝の春のような目だ。
「早く受け取って下さい、冷めちゃいますよ」
「え? ああ」
その言葉を聞いて反射的に受け取った後、思考を巡らせた。茜が自分が食べるべきたい焼きの1つを自分に渡してきた。どういう意図だろうか。
「持ってろってことか?」
「は?」
いや、違う。尋ねてしまってから自分の発言を拭い去りたくなってしまうティーンエイジャーの今日この頃。茜の『は?』は年に一度聞いても珍しいぐらいだろう。クリスマス並みの価値がある。
「君が食べるんですよ」
そうだろうな、と自分を心の中で小突いた。凄く機嫌が悪そうな茜の顔だが、それより先に思うことがあった。
「いくらだ?」
瞬間、茜の眉間のしわが増える。このままだとおでこが八つ裂きになってしまいそうな勢いだ。
「野暮なこと言わないで下さい」
「いや、でも、お前に払わせるのは悪いよ」
「それが野暮だと言ってるんです」
茜の言動がよく分からないのはいつものことだが、今回は少々違う。食いしん坊の茜がわざわざ夕輝のために金を払ってたい焼きを奢る。しかも頑なに夕輝に払わせようとしない。数秒目を合わせてから反らしてしまった茜をしばらく沈黙と共に凝視する。
「......何ですか」
「いや......何か企んでないか?」
「夕輝くんのバカ」
「へ?」
物凄い誹謗中傷が聞こえたのは気のせいだろうか。......たぶん気のせいだろう。急に速足で歩き始めた茜に戸惑いつつ、後ろを付いていく。全く、どういう風の吹き回しだろうか。しかしまあ、こう言っているのだし今日は奢られるとするか。そう思い夕輝はやおらたい焼きにかぶりついた。噛んで数秒、口の中に広がる甘過ぎるくらいの甘さを感じながら、茜も同じくたい焼きの頭を咥えるのを観察した。2秒で立ち止まる。
「どうした」
「こしあんです」
「え?」
こしあんだったらしい。つまり茜が言いたかったのは、たい焼きの餡がこしあんだったということだ。それがどうした、と突っ込みたくなる。
「それがどうした」
結局突っ込んだ。
「え? 夕輝くん、たい焼き食べたことないんですか?」
すると突然、茜が変な質問返しをしてくる。たい焼きを食べたことぐらいあるに決まっているだろ、と答えてから、言いたいことが見えた気がした。
「......けど、確かに言われてみればたい焼きはつぶあんしか見たことないかもな」
「でしょ? 夕輝くんもまだ経験不足ですね」
「何だそれ」
もう一口かぶりついた。奴の顔は今頃全て胃の中だ。茜の隣を歩きながらたい焼きを咀嚼。茜も夕輝と同じ動作をしているはずなのだが、食のスピードが違い過ぎる。彼女がたい焼きを完食したとき、夕輝はまだ胴体に到達したくらいだった。恨めしそうに残り半分の夕輝のたい焼きを見つめて、「やっぱ2つ買っておけば良かったですかね」とか言っていた。やっぱり、さっきの自分の方がまともだったみたいだ。
「そんなに食いたいならやるよ、ほら」
食べている側を手が汚れないように慎重に持って、尻尾を差し出す。すると茜は、かなり不機嫌そうな顔をしてたい焼きを睨んだ。
数秒の間。
それで夕輝は、自分がしたことのまずさに今更ながら気付いた。一般的に、クラスメイトの男子の食べかけを食べたがる女子なんてそうそういない。やらかした。夕輝が静止したまま背中に流れてくる汗を感じていると。
「......はむ」
何と、茜がたい焼きの尻尾にかぶりついたではないか。
もう一度言おう。
茜がたい焼きの尻尾にかぶりついた。
突然に起こったその出来事のせいで余計に混乱し、思わず1歩後ろによろけた夕輝。
「......大丈夫ですか?」
「あ、ああ、大丈夫」
高血圧とはこういう感じなのだろう、と本気で思った。何も言わずに至近距離まで近付かれると、流石の夕輝も──男なのだ、あんなのは反則だろう。
凄く可愛い。
以前なら、絶対にあり得なかったことだ。茜にこんな感情を抱くはずがない。そしてそれは今も変わらないことのはずだ。それなのに、どうしてこうも取り乱してしまうのか、夕輝には全く分からない。
「夕輝くん、本当に大丈夫ですか?」
立ち眩みでもしたかのように頭を押さえていた夕輝を心配に思ったのか、茜は夕輝に顔を極限まで近付けた。やめろ。近過ぎる。夕輝は即座に5歩程後ろに退散し、自らを落ち着けた。
「......」
「......?」
そうだ、当初から分かっていたことではないか。茜は黙っていればミス・関東代表くらいの容貌を持っているのだ。しかし今日まで何事もなく過ごしてきた。今更意識することなど何もないのだ。
「......大丈夫だ。行くぞ」
これ以上何かあっては困るので、そのまま夕輝は歩き始めた。
「待って下さいよっ」
茜がてってと音を立てて走ってくる。すぐに追い付いて左隣。何だか心地悪い感じがする。夕輝は気付かれないように、ちょっとだけ茜と距離を置く。
「......ありがとうございます」
「へ?」
「たい焼き」
もう、すっかりそのことを忘れていた。唐突な感謝により腑抜けた声が漏れてしまい、気恥ずかしい思いをしてしまった。
「いや、全然。そもそも俺が奢ってもらったんだし」
「......」
茜は、たい焼きを差し出されたとき迷ったのだ。何故なら、それを食べることは夕輝にたい焼きを買った理由に反し、本末転倒だったから。
「やっぱり変ですよ、夕輝くん」
「そうだな。俺もそう思う」
全く情けない話だが、今夕輝の胸は他のどの理由とも違うそれで高鳴っていた。面倒なことに、だ。
「帰ったら、ちゃんと病院行ってくださいね」
「......そうするよ」
それは、これまでの夕輝にとってはとてもではないが無縁なことだった。
「食べないんですか?」
茜がそう尋ねてきたのはもう研究所の目の前で、話に聞いていた光沢を持った壁を持つ綺麗な建物を視線の向こうに構えながらだった。
逆に、何で食べられるんだろうか、と問い返したくなった。そうだ。よく考えたら食べること自体が異常だ。先の茜は嫌々食べたに違いない。もし過去に戻れるとしたら、夕輝は間違いなく15分前を示すだろう。
たい焼きはもうすっかり冷めてしまったが、夕輝にはそれに手をつけることができなかった。俗に言う何とかというやつになってしまうと考えると、食べるに食べられなかったのだ。
「今、あんまり食欲が無くてな......」
必死の言い訳を探した末に、そんな答えに辿り着いた。もしかしたら結局食べることになるのかも知れない。棄てるなんてもってのほかだし、家にまでこれを持ち帰れば春に見付かったときに遊んでいたと思われるに違いないからだ。
けれど。茜と何とかである。気が引ける。器の小さい男であることは自覚している。気の弱い男であることも、根性なしであることも自覚している。だからどうか、15分前に戻らせて下さい神様。そんな風に願った。
「......私がもらいます」
茜は袋ごとたい焼きをひょいと奪った。夕輝自身、手の力が抜けていたから思いの外簡単だっただろう。そしてそのまま彼女は少し俯く。表情が見えないのでそれが何を表すのかは夕輝の知るところではなかったが、取り敢えずつっこみたかった。お前は良いのか、と。
しかしそんなことはそっちのけで、茜は一口全て頬張った。下半身(尻尾以外)は結構な量だが、茜にとっては朝飯前なのだろう。ただ、若干やけになっている感じがするのは気のせいだろうか。
まさか、食欲がないのにたい焼きを奢ってしまって申し訳ないだなんて思っているわけではあるまい。そう疑った夕輝だったが、しかしすぐにそんな疑惑は晴れた。理由は簡単、茜が夕輝に対してそんなことを思うはずがないからだ。ただ食に夢中になっているだけに決まっている。
「美味いか?」
「......」
こくん、と小さく1回頷くだけだった。今はそういうときではないと分かっているのだが、夕輝は今の茜の動作にすら小動物のような愛らしさを感じてしまった。そうか、リスだ。リスに似ている。だから愛着が湧くのだ、と母が生きていた頃飼っていたリスのことを思い出しながら言い聞かせた。10年と長生きしたリスのことを。勿論、半分以上は本心である。
それにしても、どうも茜が何も言わないのがただ単に口に夢と希望とこしあんが詰まっているからには思えない。普段の彼女なら、口に食べ物が詰まっていようがいまいが「もほんごほんほんもごご」と、特殊な訓練を受けた生物には伝わるような言語で喋るからだ。やっぱり何か機嫌を損ねてしまったのだろうか。
そんなちょっとした不安も何のその、茜の口の中が空になり、胃袋が大渋滞を起こしているであろうときには既に研究所の前だった。
「着きましたね」
先に茜が口を開く。まっすぐと建物の本体を見つめる彼女の瞳には光が宿っている。『白柳第一特殊科学研究所』の書かれた荘厳な石銘板を横目に見て、敷地内に入った。通常は通れないものなのだろうが、守衛に学園の生徒手帳を見せただけで通してもらえた。
「凄いな......」
「隼翼さんのお墨付きですからね」
前を行く茜に付いていく。こういうところは以前と変わらないが、こればかりは無知な夕輝は仕方なく親鴨の後を歩く子鴨になるしかあるまい。
透明で分厚いガラス扉を3枚通過し、右手に顔立ちの整った受付嬢のような人物を2人構える。茜がすぐにそちらに向かった。彼女らもこちらに気付いたようだ。
「すみません」
「何かご用でしょうか?」
おっとりとした口調で1人が尋ねる。
「隼翼さんに会いに来たんですが、見えますか?」
茜はもともと用意していた言葉で端的に答えた。が、おかしな反応を彼女らは見せる。
「隼翼、というと......うちの研究員でしょうか」
どうやら存じ上げないようだ。
「失礼ですが、名字の方を確認させていただけますか?」
「えっと......」
ここで、茜の言葉が詰まった。彼女は思い出した。というか正確には思い出せなかった理由を思い出したのだが、そう言えば彼の名字を一度も耳にしたことがない気がするのだ。故に答えは出ない。困った。
「すみません、実は......」
言おうとしたとき。
受付嬢2人の後ろから人影が見えたかと思うと、彼女らの肩を軽く叩いて前に出てきた。
「所長」
彼は少しの驚きと共にそう呼ばれた。金髪白衣のちょっと背が高い男性は、どこか誇らしげな笑みを浮かべている。彼は茜を見、夕輝を一瞥してからもう一度茜を見る。
「久しぶりだな。こいつは? 彼氏か?」
「な、違いますよ」
何故だろう。以前水族館で優しいおっさんに言われたときと同じような反応を見せる茜に対し、夕輝はそのときよりドキッとした。別に何ということもないが、この組み合わせはさもデートだ。実際にはそれとは真反対のことをしているというのにも関わらず。
「隼翼か?」
「はい」
「分かった、付いてこい」
夕輝が分かっていない。急に出てきたこの男に茜の彼氏呼ばわりをされ、付いてこいと言われる。もしや、この所長らしい男が茜の言っていた『七野』だろうか。
「七野さん、お久しぶりです」
どうやらそうらしい。だとしたら、やっぱり茜が言っていた通り今から夕輝たちが向かうのは──。
受付嬢の不思議そうな視線を背中に感じつつ外に出て、建物をぐるりと回る。見れば見る程綺麗な施設だ。地面の芝は均等な高さに保たれているし、この研究所の壁は一切淀むところなく太陽光を眩しいまでに反射し、僅かばかりの暖かみを夕輝の左側に伝える。やがて夕輝たちはこの大きな研究所の一番奥までを歩き、やや不自然にも見える空間と対峙する。知らなければ気にも留めないような違和感の正体は、この壁にあるだろう。
どことなく人工的に見える。
それに七野が手を触れた。瞬間、そこを始点にして八方に青い光が伝っていく。途中でかくんと角度をもってまっすぐ曲がったりし、やがて消えたかと思うと壁の下部が奥へ奥へとスライドしていった。幻想的なような、近未来的な光景だ。初めて見るわけでもないのに茜が口を丸くしているのだから、これを別の人間に見せられないのが残念だ。
「俺考案・指紋認証だ」
二重跳びを自慢する子供のように夕輝に白い歯を見せる七野。どう反応していいのか分からず後付けのように苦笑いしたが、自分でもよく分かっていない。
「んで、今日は何しに?」
「えっと......」
一瞬、本当のことを言おうとしたが、茜はすぐに婉曲した。今この時点で言うべきではない。第一、この七野という男が能力者についてどこまで知っているのかは計り知れないところなのだ。受付嬢の反応から見ても、零階の存在を知っている人間はあそこでは彼だけなのかも知れないが、とは言え分かることは少ない。
「夕輝くんが生徒会に加わったので、挨拶を。それに、彼の能力について尋ねたいことがあったので」
これもまた事実なので問題はないだろう。七野は気になった風だったが、しかしあまり詮索することはなく「そうか」とだけ答えた。どうせあちらに行けば聞けることだろう、と思っているのだろうか。その時点で茜が茶を濁した理由は失くなったようなものだが二度同じことを話すことも面倒であるし、万が一何かを七野が考えて止められては面倒だったので、賢明な判断だと言えよう。
ロックをまた解除する。これで幾つ目ぐらいになるのだろうか。静脈認証、虹彩認証、声帯認証に顔認証にパスワード。しかもそれだけには止まらず、入りくんだ道は迷路さながら。これら全てがこの金髪に教えられているという事実だけで、まあまあな驚きがある。どれだけの信頼を寄せられているのだろうか。
「これで最後だな」
また、パスワードだった。最後は15桁程の長いパスワードを片手だけで素早く入力する。暗記する気など毛頭ないが、例えあったとしてもそれは無理だろう。速すぎて見えない。
ピピ、と電子1個分くらいの小さな電子音が鼓膜から脳に届き、続いてロックが解除されたことが確かに分かる音が鳴った。
七野が重そうな扉をドアノブを捻らずに押す。隼翼なる男は目の前だ。
と、ここまでは全て前置き。物語の序章のようなものだ。例えば茜はこのとき、まだ隼翼が何を企んでいたのかも知らなかったし、一体彼女が何をしていたのか、そして隼翼と
いや、今思えば、それは序章ですらなかったのかも知れない。
これから夕輝に降りかかる、途方もない悲劇に比べれば。
七野がゆっくりと、重い扉を開ける。茜も夕輝も緊張していた。茜にとっては2度目の来訪。夕輝は話に聞いただけで初めて来るこの場所に若干ビビりながら、徐々に明るくなっていく扉の向こうを見る。
人がいた。1人ではない。2人だろうか。......いや、3人、違う、4人いる。4人だ。イケメン風な男の人、白衣を着た少女、そして──。
夕輝はすぐに、残り2人の顔を知っていることに気付いた。何故、今ここにいるのか。
そいつらは、ちょっと前に夕輝たちと敵対した人間だった。いつ頃になるのか、しばし思考を巡らせるとすぐに、実は10日ばかりの日数しか経っていないことに気付く。そうだ。この翌日に、沙良の存在が世界から抹消されていることに気付いたんだ。
夕輝たちを死の淵に追いやった彼ら。沙良の弟・怜を誘拐した彼ら。
チンピラ×2。細面と巨腹の男。彼らはそこで研究服のようなものを着て清潔感ある椅子に居並んでいた。その目前で、茜よりちょっと背の高い、それでもって夕輝からはつむじが悠々と拝めそうな少女が1人、彼らの額に触れていた。それを腕を組んで見ている男性こそが、隼翼なる人物だろう。
彼らはすぐにこちらに気付き、こちらも彼らを認識した。ここで問題。この状況のどこに問題があるだろうか。
扉を開いて彼がこちらを見た瞬間、隼翼の顔が突如曇ったのは気のせいではない。見られてはいけないものを見られたような表情に変わった。次に少女が目を見開いたのだが、それは後に取っておこう。
夕輝には1つ言いたいことがある。
何だ、この状況は、と。
何故、例のチンピラが少女にデコを触れられているのか。今ここで、何が起こっているのか。
これが扉が開いて約2秒間の思考だ。続いて茜の表情が明らかに変化したのには、夕輝は気付かなかった。そんなものを見ていられる程の、この初期値のラジアンをπ/6ぐらい動かしたようなカオス状態を水に流せる程のメンタリティは夕輝には存在しなかった。だから、彼女がその言葉を......その名前を呟いたとき、頭が真っ白になってしまったのだ。
「琴羽......?」
茜が呟く。彼女の視線の先にはあの少女がいる。栗色の長髪、黒く澄んだ瞳に白い肌。研究員見習いをしているみたいな、初々しくちょっと大きい白衣に身を挿入している。
遅れて驚愕が襲う。突如金属バットで殴られれば、多分痛みより先に混乱が来るだろう。それと同じことだ。
聞き間違いでないことを確認するように目を見開き、光の速度で隣の彼女を振り向く。背が低いせいで表情が見えないが、見ているのは確かにあの少女だ。眼光を彼女へと移す。唖然とした表情で、茜ただ1人を見ているのだ。
もう間違いない。彼女が茜の話していた美田琴羽なのは事実として確定されるだろう。その証拠に、刹那、茜は彼女に飛び付いたのだ。
「琴羽!」
2メートル程の距離が一気に埋まった。クリーム色の髪で強く彼女を抱き締める。まるで、大切なものを失うことを恐れるように。
「......茜?」
嘘みたいな話だが、本当だ。展開が速すぎると言われても、夕輝はそんなことに言い訳できないだろう。むしろ夕輝がそれを言いたいぐらいなのだ。
何より。ここに夕輝と茜の感情の温度差が存在していることが大きな問題だった。友人との再開に例えようのない歓喜を抱いている茜に対し、夕輝は歓びなんて微塵も感じられなかった。例えば、いくら混乱していたとしてもここで驚きの後に事実を確認し、やっとのことでだが少なからず安堵の気持ちを感じたって良いはずだ。それが夕輝にはできなかった。
この状況では、夕輝の方が冷静だ。夕輝は茜以外の人間に目を向ける。まずは視界の最も見易い部分にいた隼翼。彼は何故かは分からないが、歯を食い縛っていた。頭を押さえている。それに反応するように、隣の七野が青ざめる。純粋に驚きを隠せない顔のようにも見えるし、背徳感を抱いているようにも見える。
茜の長くはない腕と軽そうな体に密着している美田琴羽は、おぼろ気なようで揺れる目をしていた。狼狽もあるようだ。脳内を攪拌されているような状態。それが、彼女自身にもかなり異例の事態であるのだと夕輝に教えてくれた。
1分ぐらいそうしていただろうか。この嫌な空気に気付かないのは、茜とすっかり聖人にでもなったかのような晴れやかな表情の元チンピラ2人だ。彼らの状態に心当たりはある。が、今はそんな大したことのない去来に意識を傾けている場合ではない。
ようやく茜が琴羽から離れると、彼女の手を握って愁眉を開き、ため息。
「良かった......。やっと科学者から解放されたんですね......」
「え......?」
どくん、と脈打ったのは、1つの意味で隼翼と七野、別の意味で琴羽。後者はすぐに言葉となる。後ろの隼翼を返り見た。彼の瞳には琴羽の焦った様相が映っているのだろうか。
「隼翼さん......! 何で、茜が科学者のことを知ってるんですか......! と言うか、何でここに......」
その質問も妥当と言える。琴羽は、茜がとっくに自分のことを諦めているものだとばかり思っていたから。いいや、そうでなくても科学者のことを伝えるはずがない。そこで彼女は1つの可能性に辿り着いた。
「まさか......」
「......そのまさかだよ、琴羽ちゃん」
隼翼が暗澹たる表情で口に出した。どんな苦い薬を飲んでもあんな顔にはならないだろう。そんな様子だった。
「茜ちゃんは......能力を発現してしまったんだ」
ここで初めて、茜が異変に気付く。ただならぬ雰囲気を察知した彼女は、先に琴羽を見て、次に隼翼に視線を向けた。この空気と、琴羽の発した言葉の意味が分からなかった。
琴羽の態度は明らかに、ただ『茜が能力者になってしまったことに驚いている』と言った、
「......え? どうしたんですか、隼翼さん......琴羽......?」
やがて、七野が口を開く。
「おい......聞いてないぞ」
「......機密事項だったんだ」
下を向いた隼翼の表情はすっかり彼の長い前髪で隠れ、顔色は窺えない。
「なん......っ、どういうことですか? 琴羽を科学者から取り返したんですよね? 隼翼さん......?」
当然のようにそれを信じて疑わなかった。夕輝だって、本当ならばそう思っていたところだ。けれど、これではどうしてもそう思えない。この元チンピラ2人がいるのも、そして琴羽が彼女の手のひらで彼らに触れていたのも、昨日聞いた茜の話から考えれば、これはまるで──。
そんなことを考えるのは良くない。良いはずがない。もしそれが許されるのなら、茜や夕輝たちが今までしてきたことは何だ?
けれど、運命は残酷で。
「茜ちゃん、ごめん......まだ琴羽ちゃんは帰せない」
隼翼は重い口を開いた。
「え......?」
最早、驚愕とかの類いではない。情報を脳内で処理するには、茜には意味が分からなさ過ぎた。
「何でっ、ですか......」
言葉が詰まる。そりゃそうだ。この状況に、冷静に対峙できる方がおかしい。夕輝にだってわけが分からないのだ。と言うか、この少女は本当に美田琴羽なのか? それすら夕輝は疑った。認めてしまってはいけない気がする。
「隼翼さん、何でなんですか、琴羽は科学者に......。琴羽を科学者から取り返したんですよね?」
「......ごめん」
はいともいいえとも彼は言わなかった。それが何を意味するのか、夕輝の知るところではない。
少なくとも、気付きたくないことではあったからだろう。
「ごめん......」
「何で......」
言いかけて、それ以上の言葉は出なかった。頭の中が渦巻く。ぐるぐると、虫が這うような感覚。何故隼翼は、琴羽は自分をそんな目で見るのか。怒ることもできない。何だこれは、という言葉が意味も持たずに行き交った。ぼんやりとした薄明のように茜の体は浮いたような気持ちになる。
勘の良い茜は、絶望以外の何も感じなかったのだ。
「ちょっと待ってくれよ」
夕輝はやっとのことで発言に至った。この状態を知っている。沙良のことなど知らないと、担任含め全世界が夕輝と茜に無責任にも告げてきたときの夕輝と同じ。何一つ認識できず呆然としていることしかできないこの心境を夕輝は知り得ていた。
まして、茜は危うい。つかの間の安息の後なのだ。天国から地獄とはこのシチュエーションが語源なのではないかと思う程の典型的なそれ。
「あんたが隼翼さんだな? ......詳しく話を聞かせてもらおうか」
強い口調になってしまったことに気付いたのは、言ってからだった。明確な敵意すら持ってしまっている。今の夕輝にはそれが当然だった。義務ではない。彼自身の意志によって、夕輝は茜を守ろうとした。
「そっちは琴羽さんか。あなたは科学者に連れ去られたんじゃないのか? どうしてここにいるんだ?」
「......夕輝くん」
ここで、先程とは全く別の態度で茜が制止するように言うが、関係ない。庇うつもりならそんなのは正しくはない。夕輝は恐れてもいるのだ。自分を奮い立たせる必要があった。
「......ちゃんと説明してくれ。そうじゃないと、俺も茜も納得しない」
「良いんです、夕輝くん」
夕輝は茜に、何で止めるんだよ、と問いたかった。何故そんな風に強く袖を掴むのか教えてほしかった。
「何が良いんだよ! ......何も良くないだろ」
「良いんですよ......。琴羽が無事だったんですから」
挙げ句、こんなことを言い始めた。こんな勝手を許して良いはずがないのに。茜の気持ちはどうなる。
「無事? なあ茜、お前自分の言ってること分かってるのか?」
「分かってますよ......! もう帰りましょう......」
一瞬やけになったように大きくしたボリュームを再び落として、茜は踵を返した。本当に帰るつもりだ。夕輝は初めて、茜を理解できなかった。普通なら、何も出なくなるぐらいに絞ってでも本音を吐き出させるべきだろう。茜はずっと琴羽のことを気にかけていたのに、どうしてこうも簡単に諦観してしまうのか。諦観どころかこの瞬間の現実の理解すらままならないままなのに、茜は問いただしたくはないのか。そんな疑問が駆け巡る。
案外、冷静なのは茜の方だったことにも、夕輝は気付いていなかった。
「俺はこんなところで、はい分かりましただなんて首を縦には振れない! おい......あんたも何か言ってみたらどうだよ!」
茜の背中に向けていた言葉を回れ左して隼翼に向けた。警察に追い詰められた詐欺師のトップのような表情は、少なくとも正義感を伴ったものではない。茜の父に感じた迫力だってない。
何を隠しているのか、吐き出させたかった。
「......時間をくれないかな」
隼翼はとうとう観念したように呟く。が、夕輝は勿論それに承服などできない。時間をくれとは、自分に負い目がありますと自白しているようなものだ。この場で説明できないのなら。
「今は......どうしても説明できないんだ」
「そんなの!」
夕輝は叫んだ。今となっては、そこに理性など介在しなかった。だんだんと追い付いてきた十分でない思考のせいで、余計にヒートアップしそうになる。そもそも琴羽がここにいる理由から教えてほしい。夕輝だって焦っているのだ。一番大切なものが崩れてしまいそうで。
「そんなのは言い訳だろ! 何で......!」
「頼む!」
夕輝が熱暴走を起こしそうになったところで、隼翼は一層大きな声で懇願した。
「1週間だけ、猶予をくれないか......。絶対に、真実を伝えると約束する」
「っ......!」
そんなの認められるはずがない。夕輝はまだ食い下がるつもりでいた。けれど、間もなく茜が袖を握る力が強くなったせいで、どうして良いか分からなくなってしまった。
「......夕輝くん、やめてください」
何故そんな風に怯えているのか、何に怯えているのか、夕輝はやはりそれらの了得ができないままでいた。
「もう帰りましょう......」
けれど、何故だろうか。茜の声を聞いていると、ここで食い下がってはいけない気さえする。言葉以上の効力を持っている気がするのだ。
「......っ」
言葉が出なかった。喉に詰まるような感覚。有無を言わせぬ圧力のようなものすらそこにはあった。
「......すまない」
広い空間に、隼翼の小さな声と、静寂と沈黙だけが木霊した。
夕輝はまだ疑問に思っていた。納得なんて当然していなかった。唯一の僥倖と言えば、茜がまだ理性を保っていたことだ。彼女は投げやりになっているわけではない。少なくとも夕輝にはそう見える。けれど、親友との再会を果たしたと言うのに、ものの数分で再び引き離されてしまって、それで茜は良いのだろうか? いいや、そんなはずはない。ならば、何か別の理由があるのか。夕輝は家路を辿りながらそんなことを考えた。
奇しくもその解答は、彼自身が危惧し、辿り着きかけた1つの可能性だった。
「たい焼きのごみ、捨ててきますね」
寡黙の空間を埋めるように、茜は淡白に言った。彼女は緑の塗装がされたコンビニに立ち寄り、燃えるごみのごみ箱に軽い紙たちを捨てた。それを眺めて、こちらに戻ってくる。
「行きましょう」
前を歩く茜の背中が冷たかった。けれど彼女の意図が読めない以上、何を言っても逆効果な気さえしたため夕輝は何もできなかった。
こんな自分が情けない。心の底からそう思った。
「ごめん、琴羽ちゃん......。こんなことしかできなくて」
隼翼は俯くことしかできない。そしてこの罪悪感は、紛れもない自分に向けられたものだ。
自分が
「良いんです......。私は、隼翼さんとあの人のためなら......嘘だってつけます!」
それでも琴羽はまだ、希望を捨てたくなどなかった。もしかしたら、彼らが希望になるかも知れない。そんな希望的観測をしなければならなかった。
玄関の扉を開け、「ただいま」とやるせない挨拶をした。
「兄ちゃん、今日は早かったね」
「......まあな」
手荒いとうがいを済ませた後の会話。考えれば、何やかんやで2時間ぐらいしか経っていないような気がする。琴羽は何故あそこに、元チンピラ達といたのか。そして、茜は本当に、何を考えているのか。そんな思考をしているうちに、あっと言う間に過ぎた時間だった。虚無的でしかなかったが。
「......兄ちゃん、何か元気ないよ。大丈夫?」
飽くまで淡々と聞いてくるあたりはまさに春らしいが、これでも一応心配してくれているらしい。夕輝は答えた。
「大丈夫だ。それより、勉強ははかどったか?」
「うん」
「そうか」
無難な会話だが、接ぎ穂は見当たらないので夕輝はちょっと部屋に籠ろうと思った。思考をまとめ、これからすべきことを考えなければならない。
部屋に向かおうとすると。
「あ、兄ちゃん、ちょっと待って」
妹が思い出したように声をかけた。振り向くと、彼女はてってと冷蔵庫に向かい、両開きの扉を手前に引いた。ガコ、という音と共に、春の皮膚にひんやりとした空気が触れた。寒冷前線の向こうに手を伸ばし、妹は何かの皿を取り出した。彼女の持つ白く丸い皿は、夕輝の両手よりふた回り程大きい。そこには青くて丸いものが、ラップに包まれていた。
「はい、これ、良かったら食べて」
「ん?」
見ると、それは今までに比べればだいぶ安全そうな『奴』だった。
「スライまるドーナツだよ」
「......」
艶めく丸い体がすっぽりと皿に埋まっている。それは、春の言う通り、スライまる型のドーナツだった。久々に青いこいつを見た気がする。緑から何から色々だったが、黒はもう見たくない。恐怖だった。
「ほら、これで元気出して」
こんなものを作っていたとは知らなかった。しかも、見た目からしてだいぶクオリティは高い。ドーナツ屋に期間限定という名目で置いてあっても違和感なく買ってしまうかも知れない。
「......じゃあ、いただくよ」
部屋で食べるのは我が家的には行儀の良いことではないので、夕輝はリビングで食べることにした。テーブルに受け取った皿を置き、椅子を引いて座る。
夕輝はまずラップを剥がし、青の生物を眺める。この世界のあらゆるポジティブな感情の源のような曇りの見えない満面の笑みだ。手に取り、口に入れる。
青い部分は予想通り着色されたチョコレートで、すぐに口の中で溶けてしまった。サクッとした生地と相性抜群だ。
「美味いな」
「でしょでしょ? 今回のやつはどこかのドーナツ屋で商品化できると思うんだよね」
あながち間違いでもないから恐ろしい。前の芸能人の結婚式みたいなケーキにしてもそうだが、春は将来本当に、3つ星レストランの女性料理長にでもなっていそうだ。兄としては将来が楽しみでもある。
夕輝は黙々と食べ続け、そしてつい1、2時間前に食べたたい焼きのことをふと思い出した。特に理由はない。半分食べて、半分は茜に食べられてしまったたい焼きのことだ。本当はお腹いっぱいでもないのに、そう言って嘘をついた。
あり得ないことだとは分かっているが、万が一。万が一、茜があのとき落ち込んでいたのだとしたら。
そんなありふれた勘違いのようなことを考える。
「......兄ちゃん、本当どしたの、そんなお通夜みたいな顔して」
言われてはっとした。時計のチクタクと進む音を認識し、春が目の前にいることが分かる。どうやら、だいぶ残念な顔面を識閾下で作っていたようだ。
「いや、何でもない」
「......最近変だよ、兄ちゃん」
「......そうかな」
「ほら、そういうとこ。落ち込み始めたと思ったら急に悟りでも開いたみたいな顔して。情緒不安定なんじゃないの?」
ことごとく彼女は辛辣な言葉を並べる。が、言われても仕方のないような心理状態であることは否定できない。本当に、春はよく他人の顔色を見ていると思う。
しばらく返答の言葉を考えながらドーナツを咀嚼。飲み込んで口にする。
「いや。......もう大丈夫だ、スライまるドーナツで元気になった」
そんな風に言ってみせたのが不思議だったのか、春は豆鉄砲を喰らったように眼球を丸くした。眼球はもともと丸いか、とか思いながら夕輝は彼女の言葉に耳を傾ける。
「......変」
変、だった。
「兄ちゃん、やっぱ変だよ。何食べたらそうなるの?」
「俺は至極平凡だし、変なものは一切食べてない」
「本当に?」
「本当だ」
「......」
「......」
しばらくじっと夕輝を見つめていた春だったが、これ以上の話し合いは何も生まないと判断したのか、あっさり折れた。
「そ。ならいいんだけどさ」
ドーナツを食べ終わり残った皿をひょいと取り上げるとキッチンへ。
「それぐらいやっとくって」
「いいの、私がやりたいんだから」
先の夕輝の言葉は決して嘘っぱちなんかではない。夕輝は春のドーナツのおかげで、幾分か楽になったのだ。優しささえ感じる。口に出さないだけで、春にはとても感謝しているのだ。
「ほら、部屋で考え事の続きでもしてきなよ」
どうやら妹には何から何まで全てお見通しのようだ。笑えてすら来てしまう。
「......ああ」
返事だけして、夕輝は部屋に入った。
何度も言おう。
いつしかの夢を気にも留めなかった。
春は、兄を部屋へ見送った。
彼女はどんな表情をしていたのだろうか。
『そうですね......。隼翼さんはそこでじっとしていて下さい。私が琴羽を向かわせます』
電話の切れる音がした。
時間は進み、夕輝たちはあっと言う間に1週間後の10月を迎えた。10月5日。4人はマンションの2階に集まっていた。4人、というのは、夕輝、茜、巧、雪のこと。後の2人は夕輝の判断でわけを話し、付いてくることになった。茜には反対されるかも知れないが、このことを知っている人間は多い方が良いと考えたためだった。勿論、生徒会を空にはできないから松山にはわけを話していない。幸い茜は、これをもっともな判断だと考えたようだった。
地下1階に降りる。階段でしか進めないマンションの地下。住人数が多いので、地下までも駐車場になっているのだ。
「何で地下なんだ?」
巧の疑問ももっともだった。彼だけでなく、4人全員が思っていたこと。
「さあ、分かりません」
茜は答えながら、しかしその心象はずっと不安を拭いきれないままでいた。考えてはいけない1つの可能性。それがただの思い違いであることを祈った。夕輝の持った嫌な予感の正体。
「あの、どこに行くんですか」
雪はどこかおどおどしている。話は聞いていても、実態を全く掴んでいなかったから。
「それも分かりません」
夕輝は茜の隣を歩いた。後ろを歩くことだけはしたくなかった。茜は放っておくと独りでどこかに行ってしまいかねない。
階段を最後まで降り、駐車場を歩く。指定された場所へ。駐車場の端に、誰も気にしないような扉がある。よく目にする『関係者以外立入禁止』の文字の書かれた灰色の扉。そこに彼女はいた。
「......あなたがいるんですね」
先に言葉を出したのは夕輝。茜よりも冷静である自身が今はあったからだ。目の前の彼女を目にしても、ここでは動じない。
「改めて、こんにちは。美田琴羽です」
ぺこり、と恭しく琴羽は頭を下げた。巧と雪にも微笑みかけた。
「......琴羽」
茜はショックを受けたような表情だった。それも仕方ない。ここに琴羽が無事でいてしまうことに順応してしまえば、それは逆に、彼女がまだ帰ってこられないことを認めてしまうことにもなってしまう。
「茜、音永くん、深山くん、白柳さん。行きましょう」
「名前......」
と言って、雪は続きは言わなかった。色々なことが考えられたからだ。琴羽は先の扉を古典的な鍵で開き、進む。「こっちです」
「......中......なのか?」
巧が真っ先に聞いた。何故こちらに行くのか。ここはマンションの地下だ。琴羽はそれには反応せずに、すぐにそこにあった階段を降りていく。夕輝たちも続く。
「今から、ある人のところへ案内します」
琴羽は事務的に告げた。4人全員に向けて、だ。
「ある人......?」
「ええ、じきに分かります」
首を傾けた雪に答えた琴羽。茜はまだ、ここにこうして琴羽がいること自体を上手く処理できていなかった。1年以上、行方不明だったのだ。それなのに、今当たり前のようにここにいてしまう。矛盾感がもやもやした気分をより刺激する。
地下にはエレベーターがあった。何故こんなところにエレベーターがあるのか。そんな疑問を持っても、誰も質問には至らなかった。じきに分かることであるのと、琴羽が別のことを話し始めたからだった。
「......日本の歴史では......程度の差こそあれ、よくナンバー2が実権を握るんです」
「?」
このクエスチョンマークは全員分。琴羽が何を言い始めるのか見当もつかなかったからだ。ナンバー2。何の話だろう。エレベーターがここに到着し、扉が開いたので夕輝たちは琴羽の指示に従ってそれに乗る。初めて乗ったエレベーターだった。
「例えば、そうですね......藤原道長は11世紀頃摂関政治をしました。当時、天皇と同じかそれ以上の政治的な権力を持っていた摂政や関白を操り人形のように裏から操ることで、実質的には一番実力を持ったのはナンバー2の藤原氏でした」
「......」
エレベーターが到着を告げる。ボタンを見れば、今までいた地下1階と、もうひとつ地下7階というものしかなかった。つまりここは地下7階なのだ。琴羽が真っ先に降りて左に曲がる。
何かに似ている、と夕輝は思った。この地下の仕組み自体が、何かに似ている。と濁らせるのは何となくで、それが何かは分かっている。
『零階』までの道。
「室町幕府の時代には、ナンバー1であった将軍は最初こそ名に負うだけの実権を持っていましたが、やがて将軍は力を失い、実権を握ったのはナンバー2の執権でした」
琴羽は小難しい話をしてこそいるが、口調は飽くまで聞いていたイメージ通りで、天使の羽衣のような声だった。知的な感じではない。
指紋認証が琴羽の指を許して重厚な扉が開く。スライドする開き方も零階までの道のりによく似ている。模倣したかのようだ。
「......つまり?」
茜がやっと口を開く。琴羽云々よりも、今は目の前のことに耳を傾けなければならないときだと認識したからだった。
「今だって、同じことなんだよ、茜」
続いて虹彩認証とパスワード。15桁ぐらいだろうが、例のごとくそれを見ようとも思わない。
「同じこと......?」
茜がこうして手探りで聞いていく理由は他ならず、琴羽がまるで、茜が危惧していた1つの可能性を証明するためにこの話をしているような気がして他ならなかったからである。
汗と共に恐怖。それでも僅かに、琴羽と隼翼への信頼が勝利していた。
が。
「......あの隼翼さんを、裏で操ってる人間がいる、ってことか?」
「っ!?」
雪と巧が夕輝を凝視した。茜はただ、だんだんとその可能性が高くなっていくのだけを見守ることしかできなかった。
もしかしたら、ここで引き返しておけば良かったのかも知れない。けれど、茜は自らの目で確認するまで納得できなかったのだ。だから付いていくしかなかった。
「そんな......?」
「お、おい、誰なんだよ、その裏から操ってる奴ってのは!?」
雪と巧がそれぞれ口にする。夕輝だって、ここで引き下がれない思いと、これ以上進んではいけないような直感が錯誤している中、流されるように前に進んでいたのだ。
「ここにいるよ」
歩いてしばらく。とうとうこれが最後の門らしい。最後は意外とあっさりしているようで、4桁のパスワードだった。意味もなく夕輝の目に映る。
はっきりとは見えなかったが、5と1がこの順番で入っているようには見えた。
解錠。
ガチャ、と大きな時計の針のような音がして、琴羽はドアを奥に押した。防音室のようなメタリックな扉の奥には、近未来的な空間があった。
宇宙船の中のよう。何人ものオペレーターみたいな人間──それも、中高生──が座ってパソコンを操作したりしている。おかしな空間だった。夕輝含め、4人は唖然とする。
「併設マンションの地下に、こんな施設が......」
雪が驚きの声を漏らし、巧はうぉー、とか言っていた。これが何を意味するのかも知らずに。
「ねえ茜。何で科学者は私を、茜のお父さんみたいに扱わなかったんだと思う?」
琴羽が尋ねた。が、疑問ではない。確認だ。
瞬間、全てが繋がった。繋がってしまった。
もう一度言おう。ここは他ならぬ、
夕輝はすぐに気付いた。まずい、ここにいちゃいけない。すぐに振り返って、扉のノブを掴もうとしたときには遅かった。
ガタン、と大きな衝突音とともに、扉は壁と一体化した。ドアノブを掴み、捻って引っ張ったり捻らずに引っ張ったりするが、開かない。
「......くそ」
夕輝は言って、扉に頭と拳を当てた。
「おい、夕輝? ......どうしたんだよ」
まだ理解が追い付かない巧と雪。扉の閉まる音に反応し、こちらを向いたようだ。
「やられた......。詰みだ」
夕輝は、琴羽の裏にいる人間に気付いた。茜はその存在を危惧していた。今、それらが繋がったことによって、この場所がどういう施設なのかすらも、全てが分かってしまったのだ。
「......隼翼さんは端から、科学者に操られていたのか」
夕輝の声が空しくもこの空間に響く。茜の鼓膜に届いたとき、彼女はどんな表情をしただろう。最後まで、隼翼と琴羽を信じていた彼女は。
巧と雪が夕輝を振り向く。と共に声がした。少女の声だ。ただし、琴羽のもの『ではない』。
「終わりです」
返り見る。
何十人もの少年少女が110番のように座っている中で、中央に1人だけ、立っている少女がいる。彼女はくるりと180°回り、こちらを向いた。
美しい少女だった。
「こんにちは。私が科学者のボスです」
「はっ......!?」
にこり、と笑う。その何の屈託も見えやしない笑顔からは、飛んでもない言葉が飛び出した。
琥珀色の瞳。艶めく銀の髪。
瞬間、絶望の表情で茜が崩れた。
「......みら、い......?」
それは、聞き馴染みのない名前。
「久しぶりだね、茜ちゃん」
彼女はもう一度、晴れやかに笑ったのだった。
色々と不安になりそうな展開になって参りましたが、彼らを信じて最後まで見守ってやって下さい。
そんな第十一話でした。
サブタイトルが、『見知らぬ、何とか』みたいで面白かったです。
......未です。
Charlotteの再放送がついに始まりましたね。
放送終了あたりには、恐らくこの作品は(続編も含めて)完結しております。
それまでの間、お付き合いいただけたなら嬉しい限りでございます。