Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
今更なのですが、未はひつじと読みます。
ミだと思っていた方々、ごめんなさい。
もしかしたらプロローグとかで書いてるかも知れないので(何にせよユーザー情報の方には書いておりますが)そうだったら放っておきます。
物語の方はごちゃごちゃしてきていますが、第十二話に突入いたします。
「久しぶりだね、茜ちゃん」
科学者のリーダーは微笑んだ。長い睫毛。優しい顔立ち。美しい輪郭と、少しばかり低い背。その全てから、これっぽっちの悪意の欠片すらも感じられなかった。
高く見積もっても、せいぜい17歳。
夕輝たちと変わらないじゃないか。
こんなに幼い少女が──。
「科学者のボス、って......どういうことですか、ここは一体......」
「ここは科学者の研究施設です。隼翼さんにお願いして作ってもらいました」
戸惑う雪に、彼女は表情を変えずに答えた。
茜が崩れ落ちている。そこにはもう、絶望以外の何物も存在しない。信じていた、信じたかった、信じるしかなかったことをここで全て引き裂かれてしまった。
「......隼翼さんってのは能力者の味方なんだろ!? 科学者に研究施設を作るわけねえじゃねえか!」
「巧」
熱くなっている巧の肩に手をやって止めた。夕輝は誰よりも早く現実を受け入れたからだ。勿論、こんなことはあり得てほしくなかった。けれど、だからこそ、ただ目の前のことに従うだけしか夕輝にはできなかったのだ。
「隼翼さんは良い仕事をしてくれました。......けれどもう、全て終わりです。琴羽」
夕輝たちの目の前に柔らかく立っている科学者のリーダーが琴羽の名を呼ぶと、今まで茜の隣にいた彼女はあの少女の方へと歩いていく。
証明完了。
「こと、は......?」
茜の虚ろな目には、琴羽があちらへと行ってしまう姿だけが映っていた。
「琴羽は既に『洗脳』してあります。部下の能力です」
淡々と彼女は言う。
「何だよそれ......ふざけんなよ! じゃあ、隼翼さんってのは最初から俺たちを......!」
「深山巧くん、落ち着いて下さい」
飽くまで同じ調子で巧を止めるのは、彼を熱くさせている張本人である科学者の親玉。夕輝は先程、茜が彼女のことを『ミライ』と呼ぶのを耳にした。まさか、また茜の知り合いなのか。
「おい、あか......」
言いかけてやめたのは、夕輝が彼女の表情を確認してしまったからだ。完全に生気を失ってしまっている。
これが悪い夢であったらどれだけ良かっただろう。
「くそ......ナンバー2は科学者......。何て出来上がったシナリオだ」
皮肉るように言うが、効力など持ち合わせてはいない。そこにあるのは1つの諦観だけ。
ゲームオーバー。
絶望が走る。遅れて夕輝を襲う。どうしたって認めたくはなかった。こんな結末では、今まで夕輝たちがやってきたことの意味を否定することになってしまう。能力者を科学者から守るために、生徒会は隼翼の指示で動いていた。それなのに、その隼翼が実はその科学者に操られていたのだと知ってしまったら。
諦めてはいけない。そのはずだ。夕輝は命に代えても茜を守ると決意したのだから。けれど。
この状況で、どうして救い様がある?
まして、見ればすぐに分かる。僅かにいる、研究服のようなものを着用している大人を除けば、後は全て少年少女。どれも成人しているようには見えない。これが意味するところを夕輝は解してしまった。
能力者まで味方につけている。
もう、敵いっこないじゃないか。
絶望以外に何を抱けるというのか、教えてほしかった。
「あなた方にはしばらく、地下牢で生活してもらいます。ああ、安心して下さい。全てが終わったら解放してあげますからね。3日もあれば帰れますよ。全て忘れて、ね」
「何言って......そんなの俺たちが許すとでも思って......!」
そう言いかけて、巧の口からそれ以上の言葉は出てこなかった。理由は簡単。
ミライなる少女の隣で我々に手をかざした眼鏡の堅そうな男。18歳ぐらいだ。
「たく......みくん......」
雪を含め4人とも、何が起こったのか分からなかった。そして、分かろうとも思わず、それどころか思考が働かない。おかしいと思いながらも、いや、おかしいと思っているのかも謎だった。脳がぐらつく感覚だ。
「彼の『気絶』能力です。間もなくあなた方は泥のように気絶します。簡単でしょう?」
あの少女は平然と、どこか楽しそうに言う。
「っ......」
夕輝は突如自分を襲った麻酔薬のような感覚に、不意を突かれた。膝の感覚がなくなり、上半身が自由落下していく。意識がこの世界から消えてしまいそうになる。
これはかなりやばい。
ここまで焦ったことはないと思う程焦り、その上で咄嗟に出た言葉はこれだった。
「......あ......かね」
このまま堕ちてはいけない。守らなければならない。そう思うけれど、思考も体も上手く働こうとしない。あっさりと倒れてしまい、たぶんもう意識のない茜を側に見て、殆ど感覚のない手を伸ばした。眠っているようにも見える。
「......くそ」
もう少しで届くというところで、先に夕輝の意識が途切れた。耳元で茜が立てる寝息も聴こえはしない。
──敗けだ──。
こんな夢を見た。
幼い頃の夢。
夕輝の家庭の夢だ。
魚料理と言えば、音永家では恒例の料理だった。母がまだ生きていた頃は、毎日のように鮭やらぶりやら鰆やらの魚料理が出たものだ。
「おかーさーん! 今日の夜ごはんはなぁに?」
妹の春はそんな母の料理が大好きで、いつものように料理中の母の足にしがみついては待ちわびていた。
春の年子の兄である夕輝だって当然、母の料理が好きだったし、毎日の食卓に並ぶ魚が嫌いなはずはなかった。
魚だけが出るわけではない。ちゃんと肉料理だって出るし、野菜もみそ汁も食卓には登場した。
「もうちょっと待っててね」
人一倍明るくて元気な春に優しく言葉をかけて、軽く撫でてやる。春はいつも嬉しそうな笑顔で、余計に強く足にしがみついてくる。料理中にされると少し困るが、可愛い我が子だ。こんな家庭が母も普通に好きだった。
「けほっ、けほ」
母が手で口元を押さえる。また、咳だ。母はよく咳をする。これがいつものことだったが、この頃の春も夕輝も、それがどういうものなのかはあまり知らなかった。知っていることと言えば、それが『ぜんそく』という名前だということぐらいだ。
「おかあさん、だいじょうぶ?」
「うん、大丈夫だよー。けほっ」
「おくすり持ってくるね」
てとてとと春が走る姿は愛らしい。キッチンに隣接するカウンターに母の薬があることを知っているのだ。発作治療薬を手に取り、彼女は母に持っていった。
「はい、おかあさん」
「ありがとう、春」
片手で手に取り、もう片方の手で押さえていた口元に持っていって吸い込んでは吐き出しを繰り返した。苦しそうだな、と思うのはいつものことで、気の毒だったが子供の夕輝にも春にも薬を渡してあげることしかできなかった。
この頃はと言うと、父も夜9時ぐらいには家に帰ってくる生活を送っていたので、夕輝と春が寝る準備をしているぐらいの時間に父が帰宅し、春が飛び付いていくというのがまあまあ日常茶飯事だった。春は幼い子供でありながら疲れた体を労るように力いっぱい父の肩を揉んだりする親孝行な娘だった。これは小さな記憶だが、夕輝の脳裏に焼き付いて離れない、普通の日常だった。このとき夕輝は小学3年生ぐらいだっただろうか。夢だからだろう、夕輝は目の前にまだこのときは綺麗だったソファに座った自分を見ていた。思えば、この時期夕輝は比較的漫然と過ごしていたかも知れない。基本的に小学3年生までの記憶はないし、もっと言えばその先も──しばらくは、夕輝はぱっとしない少年のままだった。平々凡々とその日を暮らし、これといった目標もなく友達と遊ぶために学校に行っていた気がする。
時間が突然飛んだかと思うと、いつの間にかいたのはよく知っている病棟だった。夢というものは、時間の経過が曖昧だ。
「ねえ、お母さんどうして入院しちゃったの?」
ひたすらに白い廊下を家族3人、歩いてくる。よく知っている3人。父と、春と夕輝だった。
「喘息がちょっと悪くなっちゃったんだよ」
父は優しく答える。春は不思議そうな、それでいてちょっとだけ心配そうな顔をしている。
「お母さん、病気なの?」
尋ねる春は先程より幾分か成長している。あの小さい夕輝もだ。よく記憶している。母が生まれつきの喘息を悪化させ、入院することになった日。夕輝が小学5年生になって2ヶ月が経った梅雨の時期のことだ。
「まあ、ちょっとした病気......かな」
父は困ったように耳を掻く。
夕輝の母は2年に1回ぐらいの頻度で検査入院することがある。喘息と付き合っていくのは大変だな、とは思っていたが、父はこのときはまだそんなに重大なことだとは思っていなかった。入院ならこの1回だけではなかったからだ。
夕輝は黙って付いていく幼い自分を見る。相変わらずのほほんと生きている感じだ。
ちょうど夕輝が幼い夕輝と春、ちょっと若い父を眺めていたのが、母の入院している病室の扉の隣だった。彼らはだんだんとこちらに近付き、扉をスライドさせた。
忘れもしない。305号室の扉だ。
中には清潔感ある大きなベッドがあり、そこに母は寝そべっていた。別段どうというわけでもなく、元気そうだった。
彼女はこちらに気付くと、すぐに起き上がる。
「あら、お父さん、春、夕輝」
「お母さん、おはようー」
「おはよう」
にこりと笑って春を撫でる。しかし、春も今日ばかりはあまり笑顔ではなかった。不思議に思った母を上目遣いで見つめる。
「病気、大丈夫?」
母が心配な春が少しうるうるした目で見つめてくるので彼女はちょっとびっくりして目を丸くした。それから、再び笑顔になって、
「大丈夫だよー」
と、いつもの穏やかな調子で言うのだった。夕輝もちょっと母が心配だったが、小学4年の妹がこうして自分の分の心配もしてくれるので、敢えて口には出さなかった。代わりにと言っては何だが、こんなものを見せた。
「母さん、これ」
「あら、美味しそうなりんごね」
両手で抱える赤いりんごは、小学5年生の夕輝には結構の重量があった。丸く赤く艶めくボディを持っているそれを持ちながら、夕輝は恥ずかしそうに口をへの字にしていた。頬はりんごと同じ色だ。
「お父さん、切ってー」
春が兄の両手のひらからりんごを取り上げて催促する。母は可笑しそうに笑い、父は困ったように笑って「ちょっと待ってて」と言うと、春からりんごを受け取って手際よく兎の形に切った。
「わぁー、うさぎ!」
「うざぎだぞー」
父は得意気に皿に乗せたそれを春に渡した。「食べてみて」
春が「どくみー」とか言いながら指でつまんで口に入れる。シャリシャリと音を立てて食べている様子は愛らしい。うちで飼っているリスみたいだ、と父は思った。「どう?」
「うーん......まあまあかな」
「えっ」
春のちょっぴり毒舌はこの頃にはあり、どちらかと言えば素直故に嘘がつけないと言った方が正しいかも知れない。あはは、と愉快に笑う母と、やられた、という表情の父。それを幼い夕輝も笑って見ていた。
「ほら、お母さん、食べて」
仲睦まじい家庭じゃないか。彼らを遠くから見て、夕輝は漠然と思った。夢だからだろうか、その先のことを今はあまり考えられなかった。
ただひとつ覚えていることと言えば、このときは、母がすぐに家に帰ってくるものだと信じて疑わなかった、ということだけだ。
冬になってからはあっという間で、今は年も明け、その日は雪が積もっていた。夕輝たちは、今となっては日常と化した母のお見舞いに向かっていた。かごいっぱいのりんごを持って。
ノックと共にガラガラと扉をスライドして、病室に入る。305号室はいつ見ても質素な作りで、いかにも病院、という感じがした。
「お母さん、来たよー」
春が元気に母に声をかける。これで何度目だろうか。秋の始め頃に我が家の家族のリスが他界したときと比べれば、春はだいぶ元気を取り戻してきた。今ではもうすっかり、以前と変わらないぐらいになっている。
「あら、みんな。いらっしゃい」
「お邪魔します」
丁度、母の診察をしていた看護師に父が挨拶しているのを見て、夕輝と春もぺこり、と頭を下げる。今ではすっかり見馴れてしまった看護師さん。名前も言えるし、春ですらその漢字を書くことができる。
奥に母がいた。昼の健康的な太陽光を窓から体に吸収している。
「おはよう」
「おはよ~。えへへ」
春はすぐに母に抱きつきたがる。まだ診察中だと言うのに、てってと走って母の体に張りいた。
「えいっ」
そんな春にちょっとびっくりした母だったが、まあこれもいつものことで、やっぱり春を撫でた。
「春はまだ甘えんぼさんね」
「いいもーん。春、大きくなってもお母さんと一緒にいるもーん」
春を撫でる母の手は、優しく温かかった。小学4年生にしては母にべっとりな春はいつも、こうして母に撫でてもらいたくてすぐに甘えてしまうのだ。
「じゃあ春、診察の途中だからちょっと待っててね」
春の両肩に手のひらで触れてまっすぐ目を会わせると、母は言った。春は少し不機嫌そうに唇を尖らせたが、すぐに「はーい」と言ってとぼとぼと父のもとに戻ったのだった。
「ねえねえお兄ちゃん」
「ん? 何?」
「りんご、今日は春が見せてもいーい?」
「......いいけど」
何でそんなことに拘るのだろうか、と不思議ではあったが、夕輝は承諾した。はい、と言って渡したかごには今日も沢山のりんごが入っており、夕輝でも重かったのだから春が持てるはずはなかった。
「あっ!」
病室をりんごがころころ転がる。慌てて春はそれを広い、夕輝と父もそれを手伝った。
「......失敗しちゃった」
とほほ、と自分を情けなく思いつつ、いくつかのりんごは父と兄に持ってもらった。そろそろ診察も終わったようだ。看護師がお辞儀をして病室を出ていく。春は再度母に駆け寄った。
「お母さん、見て見て。今日はこんなにいっぱいなんだよ」
「あらら。食べきれるかしら」
3人の持つ大量のりんごを見てちょっと苦笑いをした母だったが、どちらかと言えばやっぱり嬉しそうだった。
本当は3日、4日程の検査入院の予定だったのだが、気付けばもう半年、母はこの病棟で暮らしている。詳しいことは分からなかったが、検査で体にちょっとおかしなところが見付かったかららしかった。子供の夕輝と春は、それがどういうことかも余り理解できなかったが。
幸い母は、たまに苦しそうに咳き込むこともあったが、大概元気そうだった。ただ1つ、父が医師から言われたことは、喘息の状態が良くなるか悪くなるかは完全に計り知れない、ということぐらいで、彼自身もそんなに深刻には捉えていなかった。母だってそうだった。
またあの家に帰れるだろう。そんな風に漠然と思っていた。
月日は流れ、さらにここから半年の時間が経過した、夕輝が小学6年の梅雨時期。
「げほっ、げほっ」
ここ最近、母の咳は日に日に酷くなっている気がした。子供の夕輝でもそう思うのだから、父はもっとそれを感じていただろう。何しろこの時期は湿気も酷い。思えば、入院したのも去年のこの時期だった。
「お母さん、大丈夫?」
春も心配するにはするが、しかしそれまでで、だから何ができるわけでもなかった。今日もりんごを持っている。食べてほしいが、どうやら今日はできそうにもない。
太陽が遮られているせいで、電気をつけていてもとても暗く感じる。気分の問題だろうか。この305の病室は、嫌な空気を閉じ込めていた。
ゼーゼーと息が粘りつく咳。見ているだけでも苦しそうだし、目尻に涙が見られるのがもどかしかい。夕輝は父、春と一緒に母の背中をさすった。
この病室はやけに狭くなってしまったようだ。3袋程の点滴と母の腕が、細い管で繋がっているのが、人工的で嫌だった。そもそも、何で咳が出る母に点滴を施すのか、その関連すら幼い彼らには分からなかったが、その答えを聞いたりもしなかった。
20分ぐらいそうして、薬の効果もあり咳はやっと収まった。ここ最近はずっとこれだ。
だんだんと母は、以前の元気さを失いつつある。それは夕輝の気のせいではなかった。子供目にも、以前に比べて少し痩せたことが分かる。
しばらくして、母は横になれるくらい落ち着いた。先程の咳のこともあるので、もしかしたらまたすぐに咳き込み始めるかも知れない。
容態は、とても良いとは言えない。
けれど、母に咳は付き物だと思っていたし、最近はちょっと酷い時期が続いているだけだと、妹の春は思っていた。母の病状がどれだけ深刻なのか、十分に分かる年頃ではなかったのだ。
だから、母に少しだけ近付いて、横に座る。
「ねーねー、お母さん」
「......どっ、うしたの?」
まだ、咳のせいで喋るのにもつっかえる。春の座っている方を頭だけ向いた。春はただ純粋な瞳で、当然答えが返ってくるものだとすら思って、尋ねた。
「いつ、お家に帰ってこられる?」
自分の体のことは自分がよく分かっているつもりだった。だから胸が痛かった。父だって、ある程度のことは医師から聞いている。今、彼女がどれだけ危険な状態なのか。覚悟すら決めていたぐらいだ。
だから、彼女はこう答えた。
「そうねえ......」
その物寂しく優しい微笑みを、春は今でも忘れない。
「春が良い子にしてたら、すぐに帰れるわよ」
大嘘だったけれど、こう言う以外の方法を彼女は知らなかった。
「......本当?」
もじもじして落ち着かない様子の春。疑うように口をきつく結んでいる。
「本当よ」
もう一度微笑んだ。母はその指で春の髪を幾らか撫で、そのまま右頬の輪郭をなぞった。
「だから、良い子にするのよ」
春はその表情や言葉の真意になど当然気付かず、素直に頷いた。
「......うん、良い子にする! ......だから早く帰ってきてね」
「......ええ」
「またお家でお母さんの魚料理、食べたい!」
「......ええ」
母がまた、春を優しく撫でる。母の手の冷たさが頬に伝わる。
「お母さん、手、冷たいね~」
幼い夕輝はそのやり取りを、やはりあまりよく分からずにぼーっと見ていた。
「春があっためてあげるね!」
今思えば、それは母が自分の死期を悟っていたからこその言葉だったのだろう。
母がどれ程苦しんでいたか。
母が何を想っていたか。
──幼い春には分からなかった。
人の死とは突然で、決してドラマやアニメのように綺麗なものではないみたいだ。あの日、夕輝はそれを知った。
10月の、雨の降る日だった。
家に1本の電話が入った。春が出る。
「はい、音永です」
母の入院費用もかかるので、父は最近帰りが遅い。料理以外の家事を夕輝が行い、料理を全て春が担うことになったのは、春が料理をしたいとせがんだからだった。曰く、『春の料理をお母さんにも食べてほしい』らしい。単純だが、彼女らしい理由だ。
「はい。はい......。......え?」
のんびりと風呂に入っていると、扉が物凄い速度で開いた。
「おい、ノックぐらい......」
言いかけてやめたのは、慌てて扉を開けた春の表情を見たからだ。
「お兄ちゃん、お母さんが......!」
父はすぐに帰宅し、春と夕輝を連れて車で病院へと向かった。法定速度なんて気にしていられなかった。早く、速く。
病院までは10分以上かかった。到着すると3人はすぐに車を降り、病院へと走った。父だって父親なので、焦りもあったが春の全速力に合わせた。
病院の自動ドアが開き、すぐに父親は受付へ。
「あの......305号室の音永です」
「あ、はい、どうぞ。話は聞いてます」
父があんなに焦っている姿を、夕輝と春は初めて見た。気付いたときにはエレベーターは3階を示し、廊下はそこにあった。音永家の大黒柱は、こんなところで大人気なく走る。走らないといけない気がしたのだ。
春と夕輝も病院ではあまりよく思われないことを父に続いて行う。ただ焦っていた。
父がいち早く扉の前に到着し、何度も何度も聴いた音をガラガラと立ててそれをスライドさせた。
何が見えていたのだろうか。
「わっ」
後ろから声がしたので振り返ると、自分の妹が転んでいた。
「春」
夕輝はそこに駆け寄る。痛かっただろう。が、今の彼女には関係なかった。ちょっと膝を擦りむいていたが、むくっと起き上がるとすぐに、学習しないでまた走り始めた。夕輝も春と手を繋いで走った。と言っても、殆ど無意識だったが。
すぐに目に入ったのは、廊下の向こう側──305号室の目の前で立ち尽くしている父だった。どこかの店のマネキンのように、ただ直立して動こうとしない。
何故入らないのか。
その答えは──客観的に見れば分かりやすいシチュエーションだが──夕輝と春の中には存在しなかった。
──ぜんそくってなあに?──
ただ、咳が出やすくなるだけの病気だとしか認識していなかった。6月あたりから咳が酷くなったけれど、すぐに良くなると思っていたし、痩せ細った体型だって、すぐに元通りになると思っていた。
母は、嘘をつかないものだと思っていた。
だんだんと、足の速度を緩める。父に声をかけるためだった。父に追い付くと、春は彼の袖を引っ張る。「ねえ、お父さん。何で入らな──」
喋りかけながら、目線を、体を病室の中に向けた春。
瞬間、言葉が途切れた。夕輝も、そちらに目を向ける。
俯く1人の医者、2人の看護師と、すっかり熟睡してしまっているように見える母がベットに寝そべっていた。そこまではいい。何かの診察をしているのかも知れないし、その途中に母が余りの徒労で疲れて眠ってしまったのかも分からない。
けれど、おかしい。
すぐに異変に気付いた。
母は寝るときに、
それに、医者たち。何故、揃いも揃って地獄行きが決まった魂のような悲愴な顔をしている?
父が一歩一歩、ゆっくりと進む。病室は夜だと言うのに、嫌程明るかった。
「
父が母の名を呼ぶのを、夕輝は生まれてこのかた初めて聞いた気がする。春もだ。
夕輝も春も、これが何を表すのか知らないわけではない。ドラマとかでよく見るやつだ。白い布が被さっているというのは、その人が死んでいるということだ、と。
けれど、だからこそ夕輝も春も困惑したのだ。春が電話に出たとき、春は確かに看護師っぽい人にこう伝えられた。
『お母さんの容態が急変した』と。
それ以上何も聞いていはしなかった。そして、そう聞いていたから焦って、走ってきたのだ。万が一があってはいけないと思ったから。
それなのに、万が一はあるより前に起こっていた。
「......お母さん?」
「母さん......?」
2つの幼い声が見事に重なる。
ただの、咳が人より出るだけの病気。
母が生まれつき背負っていた病気。
それで誰かが死んだりはしないと信じていた。
いや、信じるまでもなく、それが当たり前だとすら思っていた。
「なあ、直美......」
父が母に歩み寄る。医師が何か声をかけてくるが、耳に入ったりはしなかった。今にも崩れそうな足取りで、一歩ずつ近付く。
「直美......。おい、直美。起きろよ......」
父は何を思っているのだろうか。漠然とそう思った。
「直美、起きろって。ほら、今からりんご切るから......」
父の声が震え始める。りんごなど持ってきていないのに。世界一残酷なものを見せられている気分だが、あながち間違いではない。春は、まだ何かの冗談だと疑ってやまなかった。夕輝だってそう信じたかった。2人してベットでぐっすりな母を、死んだ魚の目で見つめる。焦点は合っていない。
「直美......! 直美! 返事しろって!」
ぽたり。水が跳ねる。外の激しい雨音よりも、そちらの方が夕輝の耳にははっきりと聴こえた。
「春と夕輝が会いたがってたんだぞ......!」
父のいる部分のシーツだけが、だんだんと広がるように濡れていく。
「ほら、苦しいなら咳したっていいんだよ......。我慢しないで......!」
看護師の1人が、必死に母に声をかける父に駆け寄った。
「音永さん、直美さんはもう......」
「直美......! お願いだから......! 返事してくれよ......!」
結論を急ぐ医者たちの声には耳を傾けず、ただ彼女に起きることを懇願した。動かない母の頬に、父は頬を寄せて抱き締める。どれだけ軽かったろう。布がずれ落ちて露になった母の顔は痩せ細り、最早面影を殆ど残してはいなかった。別人かと本気で思ったくらいだ。
けれど、ほくろの位置も、長く伸びた髪も、薄い肌色だって、彼女以外の何者でもなかった。
その看護師だって気付いただろう。父は分かってやっているのだ。この涙はそういう意味合いのものだ。
「お母さぁん!」
春が母の遺体に駆け寄る。信じたくはなかった。信じてしまってはいけないと思った。
「ねえ、お母さん! お母さん、お母さぁん!」
一気に涙が溢れた。夕輝も絶句して歩み寄り、母の変わり果てた姿を確認して、声を出して泣いた。
「母さん......! 母さん! 目を開けてよ!」
「お母さん! ......やだあああぁぁぁ!」
死ぬような病気じゃないと思っていた。母は元気なんだと思っていたし、父だって、死ぬときぐらい話ができると思っていた。
何で死んだんだ。
「直美......。置いてかないでくれよ......」
涙は、止まろうはずがなかった。ただひたすらに流れ続けるそれを、止めることなどできやしなかった。
「お母さあああぁぁぁん! うわあああぁぁぁ!」
死とは、こんなにもあっけない。
この日、夕輝はそれを知ってしまった。
徐々に視界がぼやける。夕輝の視界だ。幼い夕輝の視界ではない。この夢を見ている
現実感が戻ってくる。幼い自分たちが離れていく。体の感触。そして、遠い思考で考えた。
──俺は今、何をしている──?
「お母さん......」
午後11時、誰かが小さな声で呟いた。
夢だって良い。
ただ、会いたいと願った。
願ってしまっただけだ。
それが、何を表すかも知らずに。
目覚めたそこは、知らない空間だった。真っ白な密室にいる。そしてそれは、夕輝だけではない。他に3人。
そうだ。
確か、ここは。
夕輝は目覚めて10秒とかからずそれを理解する。
茜、巧、雪の一文字トリオがそこに寝ていた。無造作に、硬い床に寝転がっている。
夕輝はしばらく、彼らを起こすこともせすぼーっとしていた。今見た夢のせいだ。母が元気だった頃から、死んだ日までの記憶。
あの後、どうなったんだっけ。
幾つか、思い出すことがあった。思い出したくないこともあった。思い出せないことも勿論ある。例えば、夕輝は母の葬式に行ったときのことを全く覚えていない。
父は仕事に没頭するようになった。母の死を受け入れられなかったんだろう。だんだんと帰りが遅くなり、いつの間にか家にも殆ど帰ってこなくなってしまった。今ではずっと単身赴任。もしかしたら、母の面影が残るあの場所を嫌ったのかも知れない。
夕輝も春も、別に父を恨んではいなかった。夕輝だってずっと立ち直れずにいたし、春の傷は夕輝以上に深かった。まさか死ぬとは思っていなかったのだ。また普通に暮らせると思い込んでいた。予測していないことが起こると、予測していたことが起こったときよりも大きなショックが襲いかかる。
ただ、これがどういう記憶なのか、と問われて、答えられる自信はない。父をどう思っているのか、と問われても、これもまた答えられはしない。正しい表現などできる気がしない。
春との間には、少し距離ができたような気がする。それは、彼女の成長によるものなのだろうか。一人称も変わり、兄の呼び方も少し変わった。
別にそれがどうした、と言うわけではない。
彼女はいつでも音永春だ。
「......」
感情を吐き出すように、大きくため息をつく。
好きとか、嫌いとか、忘れたいとか。
何なのだろう、全く。
母は──。
って、何を物思いにふけっているんだ。
だんだん脳が思考力を取り戻してきた。
今はこんなことを考えている場合ではない、と夕輝は茜の肩を揺さぶった。
「おい、茜。......起きろ」
もしこれがこんな殺伐とした状況でさえなければ落書きの1つや2つしたくなるような、無垢な表情で眠っている茜。肩に触れただけで、思った以上に体の線がよく分かってしまう。が、今は浮わついたり挙動不審になっている場合ではない。
「......ん」
茜が微かに声を出す。男心をくすぐる甘い声だが、今はそんなものに惑わされてはいけない。というか惑わされる余裕もない。
「巧と雪も起きろ」
2人の肩を揺すると、茜がまず先にゆっくりと体を起こして、次に巧と雪がほぼ同時に起き上がった。『気絶』とは名前ばかりで、どうやら対象を眠らせる程度の能力らしかったので一安心だ。とは言え勿論、二安心目には辿り着けない。
「ん......ここは......」
茜がやおら口を開く。巧は片目を閉じてあくびまでしている。呑気なものだ。だがそんな彼女にもだんだんと現実感が戻ってきたようで、一気に目が覚めたみたいに見開いていく。
「私たち......」
そうだ、未来に......。
1歩遅れて、巧と雪も同じく昨日期限の提出物を出していないことに気付いた学生のように表情を変えていく。先生方は期限に厳しいらしい。
「そうだ、あの科学者のボス野郎に......くそ、ってことはここは言ってた地下牢ってことかよ?」
巧が少々荒い言葉遣いで悔しさを露に言いながら、硬質な床を拳で軽く叩く。
「扉は......」
と雪が立ち上がり、唯一あった壁と同色の傷ひとつないドアのノブを捻る。押しても引っ張っても反応しない。駄目元でノブを捻らずに引いてみても、やっぱり無理だった。そりゃあそうだ。出られないようにしているのだから。
「駄目です、開きません......」
「......弱ったな」
夕輝は、どちらかと言えば冷静にそう口にした。扉自体はどうしようもないことでもあった。だから、諦める諦めないの話に持っていく前に場を落ち着ける必要があると考えたのだ。
「打つ手無しかよ......。どうすんだ、くっそ」
「......待ってくれ、巧」
「え?」
夕輝が冷静な理由は、ただ落ち着くべきだからだというだけではなかった。今まで見ていた夢の分、まだどこかに現実に模倣性を感じていたのだ。つまり、他人事のようにすら思えて、変に落ち着いてしまっていた。
しかし、今回ばかりはそれが吉と出た。一瞬でも諦めようとした気絶前の自分が、今なら馬鹿だとも思える。
座ったまま夕輝は言う。
「打つ手があるかないかよりも先に、俺は確認しておきたいことがある」
隣に座って俯いている茜に視線を向け、体もそちらに向けた。
「茜」
俯きながらもこちらに眼光を向けた彼女の両目を、大事な取り決めをするときのように真剣に捉える。聞くなら、目覚めて間もない今しかない。
「お前はあの科学者の親玉と面識があるんだな?」
「......」
扉から戻ってきた雪は目を見開き、驚愕の形相で巧も扉にやっていた視線をこちらに返した。
「......本当ですか?」
たぶん2人は、あのとき余りの急展開に混乱しており、茜と彼女とのやり取りを聞き逃していたのだろう。夕輝はちゃんと覚えている。あの少女は茜を『茜ちゃん』と呼んだ。とっさに茜の口から出た言葉もまた、『ミライ』だった。始めは一般名詞の『未来』だと思ったが、どうやらそうではないみたいだとはすぐに理解が及んだ。
茜は沈黙を続ける。夕輝だって理解している。今、自分が傷を抉るようなことをしていると。けれど、事実は確認しておかなければならない。
「茜、教えてくれ。あいつは何者なんだ。昔の友達か? 学園の生徒か? それとも......」
聞いたところでどうなるわけでもないかも知れない。現実問題、今夕輝たちは囚われの身なのだ。情報だけではどうにもならないこともある。けれど、自分達の置かれている状況を少しでも把握することはきっと大切だ。
「茜さん......」
雪が控えめに彼女の名を呼ぶ。茜はしばらくだんまりを決め込んでいたが、数秒の後、やっと口を開き、
「彼女は......」
というところまで言葉にしてから再び黙った。いや、何かを言おうとしていることは確かだ。唇をぱくぱくさせている。かなりショックだったのかも知れない。やがて、一度口を閉じて茜は少し考えると、今度は何か踏ん切りをつけたようにまっすぐと夕輝を見つめた。
「......彼女は、私の......
「......従姉妹?」
何だか飛んでもないことを聞いた気がしたが、いやいや気のせいではない。従姉妹。
そう来たか。
......従姉妹?
「......従姉妹だって?」
何なんだ。父親と言い、何故茜の親族にはこんなにも変な隠れ二つ名を持つ人間が多いのか。いや、これは2つ同じことが重なるだけで沢山に思えてしまう、よくある現象だ。何故名前はまだないのかは不明だが。
一通り頭の中で唱えると、夕輝は混乱した脳細胞たちを一旦落ち着ける。
「おいおい茜、そりゃマジかよ」
巧が先に間抜けな声を漏らした。しかしまあ、こんな話を聞いてしまえば仕方ないのかも知れない。夕輝だってそうしたいぐらいなのだ。
「......名前は『乙坂未来』。父方の従姉妹です」
茜はずっと重苦しい表情で語った。誰もが身震いするような怪談でももう少し優しいだろう。
「私たちと同じ高校1年生......と言うより、いえ......学年は同じです」
茜は慎重に言葉を選んでいく。
「彼女は、今は1人で......京都の高校に通っています。いえ、分かってます。......たぶんそれが嘘だったんでしょうね。今思えば変な話です」
皮肉っぽく茜は自分自身を嘲笑する。切なさも混じって、行き場のないもどかしささえ感じさせる表情だ。夕輝は黙って話を聞く。
「だって、中学2年のある日に突然、それを聞かされたんですよ。未来が京都の中高一貫校に通うことになった、って。いくらなんでも、タイミングがおかしすぎます」
雪と巧もまた、暗澹たる面持ちで彼女の話を聞いていた。雪の方は、少しばかり俯いている。
「未来が科学者のトップ......。わけが分かりません。何で彼女が......」
茜曰く、彼女は至極普通の少女で、科学者などという紛い物には縁もゆかりもないような人間だったらしい。いや、普通そうだろう。彼女だけではない。その辺を歩いている女子でさえ、何だかわけの分からない組織のリーダーである確率など皆無に等しい。まして自分の親戚がそんな組織のリーダーだったと言われて、そんなのは簡単に信じられることではない。何かのドッキリかと思ってしまう。
沈黙を守って、4人入るのにちょうど良いくらいのこの何もない部屋に静寂な空気が流れる。
「......隼翼さんは私を騙してたんですかね......」
「茜......」
巧は何とか茜を励まそうとしているようだが、そんな心持ちとは裏腹に言葉が出てこない。
「琴羽まで操られていたなんて......不覚です。完敗じゃないですか......」
諦めの声をこぼす。茜のこの寂しそうな表情を見るのは何度目だろうか。何故かは分からないが、夕輝はこの茜の危うさにだけは恐れすら抱いていた。このままではこの華奢な体が壊れてしまうような気さえする。
「......あのさ」
夕輝は静かに焦点を茜に移し、再び彼女の輪郭を捉える。僅かばかり視線をこちらに向けてくれた。
「きっと......何かあるんだ。そうに違いない。あの科学者の......いや、お前の従姉妹の未来さんも、隼翼さんも、きっと何かわけがあってこんなことをしてるんだよ。俺は茜の親戚とか、茜が信頼した人間に限って悪いことをするとは思えない。それに......ほら、お前の父さんにもちゃんと理由があったじゃないか」
継ぎ接ぎの言葉を足し合わせ、繋いでいく。ぎこちなく不格好だが、今は格好の良さなど気にしてはいられなかった。
希望的観測でもいい。今はそうしておかなければならない。
「だから......上手く言えないけどさ......諦めるにはまだ早いと思う」
茜が傷付いていることは分かる。そんなことは巧や雪にだって分かることだった。けれど、それ以上に夕輝には分かり得てしまうことがあった。
茜はまだ、隼翼たちを信じたがっている。
そんなのは夕輝にとって造作もなく、手に取るように理解できること。どれだけ茜を見てきたと思っている。
「未来さんを信じてみよう、だなんてとてもじゃないが言えない。現にこうして気絶させられてわけの分からない場所に留置させられているんだからな。......けど、まだやりようはあるはずだ。どうにかここから脱け出して......何にせよ、諦めるには早すぎる」
言える限りのことは言ったつもりだ。これ以上言葉は出ないし、気の利いた言葉なんてもっと出ない。
しばし、静けさを聞き流す。茜が思考をまとめる時間だ。彼女は冷静な思考の持ち主なのだ。今は少し困惑しているだけ。
ようやく、彼女は言葉を発した。
「......はい。分かってます。とにかく、この状況を打開する策を考えるのが第一です」
茜は口調をいつもの調子に戻す。勿論、心象とは噛み合わないであろうそれではある。が、少なくとも平静を保ってはいるようだ。寝起きであるせいもあって、感情が昂らず抑制できているのだろう。
茜がポケットから出したスマホを確認する。
「......電波は届いてないようですね......。時間は......9時半です」
4時半? ......マンションの2階に集まったのが午後2時だから......。
「おいおい、それじゃ俺らは2時間、ずっと眠ってたってことかよ?」
巧が驚きと焦りの混ざった声を出す。が、茜はその驚きを更に濃く塗り替える。
「いえ、違います......」
「え?」
彼女自身も驚いている様子だ。彼女に握られたスマホのホーム画面を全員覗く。
「今は、
「......は?」
全員が驚愕した。今が午後4時半ということは、約26時間睡眠をしていたということになる。コアラも仰天だ。
「嘘だろ? ......俺たちはそんな長い時間、ずっとここで寝てたって言うのか?」
こんなのは結果論だが、確かに夕輝の体は物凄く痛いし、直感的に感じる『眠っていた時間の感覚』的なやつは物凄く長かったように彼は感じた。頭もぼーっとするし、そう言えば、夢もやけに長かった気がする。
「そういう能力なんでしょうね......。今はそんなことを言っていても仕方ありません」
茜はすぐに思考を切り替え、目の前の問題の解消に努めようとする。だいぶ調子を取り戻してきたようだ。
「脱出方法を考えましょう......と言いたいんですがね......」
茜は扉に目をやる。あの無感動な扉を見つめ、わざとらしく、はあ、とため息を漏らす。
「他に脱出口はないのか?」
「......それらしいものは見当たりませんね。あれが唯一の扉だと思うべきです」
無情にも、それが模範解答だった。辺りを見渡しても、この小さな空間にそれ以上、外に繋がっていそうな便利な扉はなかった。
「......」
彼女はこう言っていた。『全てが終わったら解放する。3日もすれば帰れる』と。夕輝はそれが意味するところを解さなかったが、これだけは分かる。
科学者たちは、何か夕輝たちに知られてはまずいようなことをしようとしている。それも、3日以内に。
考えれば考える程、彼女を科学者として見るべきか茜の従姉妹として見るべきか分からなくなってしまう。
一体、何をしようとしている?
脱出方法も見当たらず、このままではすぐに3日が経過してしまう。
もしかしたら、それを待っていた方が間違いないのではないのか?
いや、それではいけないと直感が言っている。
ならばどうすれば良い?
必死に思考を巡らせていた矢先。
ガタン、と音がして、夕輝たちは一斉にそちらを振り向いた。扉の方だ。
驚き過ぎて一瞬何が起こったのか全く分からなかったが、よく見るとあの無機質な扉が急に感情を持ったかのように開いており、そこに小さな人影があった。
こちらに近付いてくる。知っている顔だ。すぐに名前は分かった。
「......琴羽?」
美田琴羽だ。
「茜、音永くんたち、走って」
彼女は何の説明もなくそうとだけ言うと、茜の手を引いて走り出した。茜は反応する間もなく彼女に引かれて走り出す。
「ちょっと、琴羽?」
「おい、待てよ」
夕輝も気付けば追いかけていた。どういう意図かは知らないが、ここから出るチャンスではある。巧と雪も付いてくる。
「茜さん!」
「夕輝! 茜!」
暗い廊下だ。5人はそこを走る。急なことで思考が追い付かない。
「ちょっと琴羽、待ってください!」
茜が制止の言葉をかけるが、琴羽は止まりはしない。一本道は狭く、夕輝が前に出て止めることもできない。
「なあ、琴羽さん、どこ行くんだよ......?」
聞いても、琴羽は答えなかった。ただ走ることだけをする。
「おい! 俺はまだ、あんたのこと信用してねえぞ!」
巧が叫ぶ。目付きは鋭く、声は狭い通路の奥まで響いた。だんまりを決め込んでいた琴羽はその声を聞くや、緩やかに立ち止まった。
こちらを振り向く。
「信じて」
発した言葉はそれだけだった。夕輝はすぐに聞く。
「待て。あんたは特殊能力で洗脳されているんじゃないのか?」
「いいえ」
彼女はすぐにそう言い切る。そこに間はなかった。
「最初から、洗脳なんて能力を持つ能力者はいません。あれは全部、彼女の嘘です」
「え?」
「私は洗脳なんてされていない。だから彼女の命令に背いてあなたたちを解放しているの」
琴羽は再び前を向き、今度は茜の手を離して走り始めた。確認するように巧が前後ろを確認している頃には、茜も走りを始めていた。夕輝も半信半疑ながら続き、巧と雪もそれを追いかける。巧の方は、未だ信じてはいない感じだ。
何故走るのかは聞かなかった。恐らく、科学者のボスである未来に背いているためだろう。こんな施設に防犯カメラなんかが設置されていない方がおかしい。見付かることは覚悟でやっているのかも知れない。何にせよ、琴羽を信頼するための道具が増えたことに越したことはない。信頼するべきかそうでないかは置いておいて、今は彼女を信頼したかった。
しばらく走りを続け、ちょっとした広場のような場所に辿り着いた。5人が優に広がれるぐらいのスペース。暗い。
そこに彼らは立っていた。
「......美田さん」
「皆......」
中央の男子が彼女の名を呼ぶ。合計で20人はいる、白衣をまとった少年少女。その彼らが今、夕輝たちの前に立ちはだかっている。
意味は分かる。
「止めにきたの?」
琴羽は尋ねた。と言っても、答えなど分かっている。
「ええ、未来さんの命令ですから」
能力者20人対5人。間違いなく、夕輝たちが不利な状況だ。
巧がいち早く戦闘の構えをとる。まだ琴羽のことを信じきってはいなかったが、少なくとも未来と琴羽が対立する立場に立っていると信じることにはしたからだ。
先に進むために、今ここで夕輝たちは戦わなければならない。その覚悟を決める。
が。
「いえ、違うんです」
彼はその感情を冷ますように両手を開いて見せ、冷静な口調で告げた。
「え?」
突然、気を抜いたような態度になったため思わず声が漏れる。
「未来さんの命令に従うならば、僕たちはあなた方を止めなければなりません。......ですが、僕たちは未来さんの部下である以前に人間です。彼女をできることなら救いたい。そう思っています」
彼は真面目な口ぶりで語る。聞いているだけでは何のことやら理解できなかった。未来さんを『救う』と彼は言った。
「......本気ですか?」
「ええ。なにぶん、僕たちも諦めが悪いのでね。期待してますよ」
そう言ってその男は肩をすくめた。わざとらしくも見えるが、本心には違いない。その『本心』は実際のところ掴みきれてこそいないが、夕輝たちも彼らがこちらの味方であることは理解できた。
「......ありがとう、皆。先に進ませてもらうよ」
琴羽はここではそれなりの地位なのだろうか。大半が年上に見える彼らからは敬語を使われ、それに対し、信頼できる部下と喋るように返答をするのである。
「行くよ、皆」
ここで言う皆とは夕輝たちのことで、茜から順に夕輝たちを一瞥した彼女は実に真剣な眼差しだった。
「待って下さい」
彼が言う。琴羽と喋っていた彼だ。
「音永夕輝さん、僕の能力をコピーして下さい」
「え?」
突然の名指しに少々驚く。
「僕の能力は『解錠』。鍵を開ける、という空き巣向きの能力です。未来さんに拾ってもらっていなければ、今頃どうなっていたことか......。と、今は自分語りをしている場合ではありませんね。この能力があれば......美田さんでさえ開けられないようなロックだって、全て開けられる」
この中では最年長に見える彼は冗談混じりにもまっすぐな言葉を投げかけた。琴羽でさえ、と言う時点で、完全に確信に変わった。琴羽はこの場ではかなり未来に近い存在なのだろう。そして、それ故に反逆ができた。それがどんなものなのか、具体的には分からない。が、茜は確信していた。
琴羽は自分の正義を貫こうとしている。
そして、彼女の正義を茜はよく知っていた。
迷うことなんかない。
「夕輝くん」
振り返った彼女の瞳は、ただ一点、夕輝の目だけを貫くように見ていた。
茜が信じる人間なら、信じて良いと思っていた。
「早く」
促す『解錠』能力の彼は、冷静さを伴う表情でこちらを見る。それには、ある種の決意のようなものすら垣間見える。迷いはない。
「ああ」
答えて、すぐに夕輝は彼に乗り移るため彼の目を凝視した。が。
「......?」
異変に気付いたのはすぐ。
始めは気のせいかとばかり思った。
しかし、何度やってもだめだった。
何故?
ただ、混乱した。
頭が真っ白になる。
何故、
「音永くん......どうしたんですか?」
「いや......」
不安そうに聞く琴羽に、『乗り移りができないんだ』と答えようとした瞬間。
頭痛がした。
くらくらする。
前にも感じた感覚だった。
いつか、『暴露』なんて能力を使って犯罪者に自白をさせていた男に『先入』能力を使ったときと同じ。
混ざる。
混ざって、1つになる。
このとき夕輝はそれを、『先入』能力と『コピー』能力が混ざる感覚だと思っていた。
他人には説明できない感覚だ。
そして──。
振り向く間もなく、気付けば頭痛は消えていて、目の前に自分がおり、ゆっくりと倒れていくのを茜にすかさずキャッチされていた。ナイスだ、茜。
って、そうじゃない。これは?
手のひらを確認、後ろを振り向けば、少年少女らが約15人。前には勿論、巧や雪もいる。
乗り移りが成功したのか──?
「......っ」
気付けば夕輝は自分の体に戻っていた。なんだか不思議な気分だ。ほんの少し甘いような匂い。背中には控えめにも柔らかい感触。ああ──。
「......うおっ!?」
四大天使が天を飛行するスピードで前のめりに飛び跳ねる。仕方ない。未だかつて、夕輝はこの柔らかさに触れあったことがなかったのだから。
「......大丈夫ですか?」
茜がこちらに視線を向けてくる。上目遣いの彼女に戸惑いつつ、よろけながらも視界の端に巧のにやけ顔を発見し、琴羽の咳払いを鼓膜の奥で感じる。
「......さあ、乗り移りが完了したようなので、行きましょうか。こっちです」
久々に見る琴羽は以前よりも大人びており、茜はその表情がたくましく見えた。それが寂しいようにも思える。何故だろうか。
「美田さん、気を付けて」
直立不動で彼らは去る夕輝たちを見届ける。いや、主に見ていたのは琴羽なのかも知れない。彼女が信頼されている証でもある。
夕輝たちは琴羽に続いてまた走る。また狭い一本道だ。この道を走り、中には重厚な扉があって、その度に琴羽がロックをパスワードやら何やらで解除していた。
体感時間は5分ぐらいだったが、実際はその3倍ぐらいは走っていたのだろう。最後の扉に行き着く頃には全員息を切らしていた。
「この扉は、音永くん......。あなたの力が必要です」
琴羽は夕輝に視線を向ける。夕輝は少し疲労した体で考えを巡らせ、こう言った。
「......琴羽さん、最後に聞きます」
全員の視線が夕輝に集まる。
「信じて良いんですよね?」
そう聞くのも、夕輝が彼女を信じようと思っているからだ。最後にその許可を、彼女自身から取りたかった。
「......はい」
その他の余計な言葉はいらなかった。それで十分。
「分かりました」
とだけ答え、夕輝は前に出て能力を発動した。
ピピ、という電子音と共に鍵が開く。それはこの場で起こったことを客観的に見たときの必要最低限の説明だ。
しかし、夕輝の主観に関してはそうではなかった。
「......夕輝くん?」
茜の夕輝を心配する声。彼は今、頭を押さえていた。先程と同じ痛み。まただ。
頭の中で、何かが混ざる感覚。
能力と能力とが混ざり合う感覚。
能力を発動すると起こるのか?
痛い頭でなんとか思考を働かせる。
そして、すぐに痛みが収まる。
「......大丈夫だ。行こう」
先程と言い今と言い、最早これが何かの偶然とは思えない。が、今はそのことに気を取られていてはいけない。進まなければ。
「この先に......未来さんがいるのか?」
「......ええ」
その回答を聞くと夕輝は、ゆっくりと体をその扉に向け、ノブを捻り、押した。
そこには、知っている光景があった。と言っても、それは飽くまで鮮烈な短期記憶だ。何度も見たわけではない。
琴羽に連れてこられた場所。その別の扉だった。
26時間前と同じように、少年らが近未来的なパソコンの前で作業をしていた。彼らはすぐにこちらに気付く。
そこにいた未来も、だ。
「......琴羽? 何でここに......?」
振り向いた彼女の顔には、流石に驚きの感情が含まれていた。
「未来、諦めるには早すぎるよ。私はあなたを救いたい」
「......晴山くんたちは裏切ったのね」
年に数回あるかないか程度に脳を活発に働かせていた夕輝は、『晴山くん』という人間が夕輝に『解錠』の能力を与えたあの青年なんだとすぐに気付いた。
「違う!」
と、琴羽が突然声を大きくする。茜もびっくりした。
「私たちは皆、あなたに感謝してるの! だから助けたい......! 時間はまだあるのに......諦めちゃ駄目!」
何を言っているのだろうか。夕輝たちにはその琴羽の言葉の意味が分からなかった。
「......救う? 何のこと?」
「とぼけたって無駄! あなたは......」
と言おうとしたところで、突然パソコンを弄っていた人間の1人が声を発した。
「未来さん、能力者を発見しました」
話を遮ってまで伝えなければならないのは、それがこの科学者たちにとって最重要項目だからだろう。恐らく、この施設で生徒会で言う松山の立場を担っている人間だ。今日は思考がどんどん回る。26時間も寝たと言うのに、だ。
その言葉で余裕を取り戻したように未来が笑みを浮かべて口を開く。
「と言うことですが......生徒会の皆さん、あなた方の出番のようですよ? 彼の能力は能力者が能力を発動したことを検知するものなので、今が格好のチャンスなのではないですか?」
今思えば、それは虚勢だったのかも知れない。が、それが──何の偶然か──今の
どこで間違ってしまったのか。
科学者の松山役が言葉を発する。
「時刻は昨晩の23時06分、距離は25メートル、ステラジアンは2と89、恐らくマンション内部かと思われます」
「......ほう、近いですね」
未来が下唇に人差し指を当てた。
「今はそれどころじゃないだろ! お前が何を企んでるのか、大人しく俺たちに教えろ!」
と、巧がこんな風に反駁できるのは今のうちだった。次の言葉によって、夕輝たちは言い表せない程の驚愕を受けることになる。
「──続いて、能力者を特定しました。......星ノ海学園中等部所属、
「......は?」
夕輝の口から素っ頓狂な声が漏れた。それだって仕方のないことだった。夕輝はその言葉を、その名前を聞いてしまった。
音永春。
心当たりがないわけがない。
実の妹なのだから。
「能力は『創造』。思い浮かべたものを現実に創造する能力です」
「何......言って」
そんなはったりをかましたって無駄だ、と言ってやりたい。けれど、その気持ちとは裏腹に声は出ようとはしない。
夕輝だけではない。茜と、巧と雪も思考を悟性から理性へと切り替えられはしなかった。ただ、そこに並んだバラバラの情報を原動力に脳を混乱させているだけで。
「能力......春が......?」
夕輝の一言で、未来はその沈黙の意味をすぐに察したようだ。
「......音永......。なるほど。これは向かわないわけにはいきませんね」
彼女がどんな意図をもってその言葉を発したかは定かではない。しかし、まさに彼女の言う通りであり、夕輝は焦っていたし、夕輝に妹がいると知っていた茜たちもまた困惑を続けていた。
「......どうします? まさか大事な妹さんを放っておく、なんてことはありませんよね?」
完全に形勢逆転、追い詰められたが、夕輝にとってはそんなことはもうどうでもよかった。
ただ、目の前の混乱に打ちのめされているだけだ。
何故、春が。
能力を発現するような理由など、何も心当たりがなかった。
家を出るときだって、彼女は至極平凡に見送ってくれただけだったじゃないか。
何で? 何で。
「夕輝くん」
茜の声ではっとした。駄目だ。今はここでこんな風に困惑している場合ではない。とにかく、春のところに向かわなければ。そのことで頭がいっぱいいっぱいだった。
「......お前らは残ってくれ。俺は春のところに──」
「夕輝くん」
茜がもう一度夕輝の名を呼ぶ。今度はさっきより強い口調だった。
「私も付いていきます」
「でも......」
「お願いします」
茜は何故か、少し寂しそうな顔をする。
「後のことは私に任せて。深山くんと白柳さんのことも」
琴羽がそう言ったため、困惑こそしていたが夕輝も甘えることにした。「......ありがとう。琴羽さん」
「何てタイミングだよ......」
巧は結構、混乱の中にいた。雪もそうだ。けれど、一方で生徒会でずっと過ごしてきたからこその経験値もあり、それに順応してすらいた。
最早誰を信じて良いかも分からなくなってきてしまったが、それでもなお、夕輝には信じられる人間がいる。
それが茜や、巧や雪。それに、妹の春だ。
そんな妹に非常事態。行かないわけにはいかない。
「......けど、ロックは」
「ああ、ロックぐらいなら開けてあげますよ。我々としては、邪魔者はできるだけ少ない方が良いのでね」
夕輝が言いかけたのを制止して未来は余裕そうな表情でそう言うと、モニターのようなものを何度かタップした。そして手の動きが止まると共に彼女は見上げて、
「......これでロックは全て解除されました」
と発した。夕輝はもう何を待つこともなく、「行こう」と爪先を扉の方へ向け、気付けば走り出していた。焦りが何より大きい。勿論、未来を放っておけるわけがない。彼女が何を企んでいるのか、そしてその内容によっては夕輝は彼女を全力で止めなければならないだろう。けれど、今は春が最優先。それが夕輝の考えだった。
何より、未来は科学者の能力検知要員が『能力者が能力を発動したことを検知する』能力を持っている、と言っていた。つまり、春は能力を使ったのだ。検知能力者は確か、昨晩の11時頃と言っていた。能力は『創造』。
これが焦らずにはいられない。そもそも何よりだが、夕輝はそんな風に妹が能力を発現してしまう理由に心当たりがなく、今もなおその解答は見付かっていないのだ。
だと言うのにこんなにも焦っているのは、もうこれは『嫌な予感がした』という言葉でしか取り繕いようがない。
眠っている間に見た夢のせいか?
そんな風に思考を巡らせ、彼女がどうせ料理を作ったりなんかでもしているのだろうとか、どうにかこの予感が的外れであることを祈る。
琴羽に案内された道を茜と逆走し、エレベーターに乗り、上へ。地下1階に到着し、扉をいくつか抜けると駐車場だ。
途中、茜のスマホが振動する。
「もしもし」
『やっと繋がった......。茜さん、何急にアメリカ行ってるんですか。音永くんたちもいるんですね?』
電話の主は松山だった。アメリカという言葉が飛び出し、若干驚く。未来がそう伝えたのかも知れない。茜は何と返そうか少し迷いつつ、しかし話せば長い。
「......後で事情はちゃんと話します」
結局それだけ言って、電話を切ってしまった。
『ちょっと、茜さん? 待って下さ......』
松山の断末魔が駐車場に響く。遅れて、つー、つーと言うモノクロ音が響き渡った。
「行きましょう、夕輝くん」
「ああ」
そこから階段を上って一気に3階へと駆け上がった夕輝と茜。夕輝の自宅に到着した。
今は土曜日の5時半なので、春は家にいるはずだ。
夕輝は鍵を挿し込み、左に回す。このマンションには指紋認証まであるので、夕輝は指で、半透明な青い画面に触れる。
鍵が開いた。
中に入る。すぐに家の中、遠くから「お帰りなさい」と声が聞こえた。
「......?」
違和感を覚えたのは本当にその瞬間で、夕輝はその声に強烈な何かを感じた。
春
と同時に、それが誰なのか、という問題。が、夕輝には1つ閃いてしまうものがあった。
何度も聞いた声。
いや、しかし、そんなわけはない。
混乱と共に靴を投げ出し、早足で廊下を進む。茜の表情なんか気にしていられない程の困惑。
リビングに出る。
見馴れたリビングだ。ベランダに繋がる重い扉を肌色のカーテンが隠し、天井の中央で光るLEDライトは緩やかな、穏やかな光を部屋全体に行き渡らせている。どこからか良い匂いがするので、恐らく少し早い晩ご飯の後なのだろう。見ると、あの古びたソファには妹の春が寝そべっており、キッチンからは食器を洗う音が聴こえる。
普通の家庭の光景。
そうだろう?
────は?
ソファに春が寝そべっていて、キッチンから食器を洗う音が聴こえる?
普通の家庭ならそれでいいのかも知れない。
だが、夕輝の場合、
あり得ないことだ。
量子もつれでも起きたのか、と最初は思った。何かの歪みで春が2つに分裂──。
あるわけないか。
もう答えを出していいだろう。
そこに、
食器を洗う人物。
それが夕輝にどれだけの衝撃を与えたかは、言うまでもない。
「何で......」
何で。何で何で何で何で何で何で何で。
彼女はにっこりと微笑み、
「お帰りなさい、夕輝」
「
優しく我が子を迎えた。
どうも、天然の未です。
毎日がエブリデイですね。
裏切りや、愛する人の死や、どんでん返しや大どんでん返し。
ありとあらゆるどんでん返しを1つにまとめた乳酸菌。
そんな話でした。
あと二話で終わってしまうと思うと......
続編が不安でたまりません。改行が多い。
そう言えば、2回同じことが重なると沢山に思えてしまう現象について。
例えば、こうたくんとたけしくんがNint◯ndo S◯itchを持っていると、それだけで「皆持ってる」と思ってしまうしそう言ってしまう、というような。
調べても名前がなかったということは、僕に命名する権利があると思うんです。
というわけで、天然の未から取って『ひつじ効果』。
安直です。断じて、流行らせようとしているわけではありません。
......本当です。
次回もこんな未をよろしくお願い致します。