Charlotte Bravely Again(st)   作:天然の未

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 人は何故、多くを語ろうとする生き物なのか。

 ──それは即ち、語るべきことが多いからである。




 違いますね。前書きのネタがない故の言い訳です。
 第十三話をどうぞ。

 ※追記:『具現化』という表記を『創造』に統一しました。


第十三話 コピー

 何故。

 

 

 その言葉で夕輝の脳内は埋め尽くされた。

 

 

 何かの間違いかと考える。脳は糖分を欲した。混乱の渦に巻き込まれ、夢幻に苛まれそうになる。

 

 

 これは何だ?

 

 

 目の前にいるのは、一体()だ?

 

 

「......母さん......?」

 

 

 口に出すことで少しでも動転を紛らわそうとしたが、それは無駄だった。目前に佇む女性は、忘れもしない、自分の実の母だったのだから。

 

 

 夕輝が知っているより背が低くなっているのは、彼自身の身長が伸びたからだろう。そこには大して疑問を抱くことをしなかった。そんなことは些末なことで、今の夕輝にとっては絵踏みか踏み絵か程度の違いだったのだ。

 

 

 茜が遅れて後ろからやってくる。まだ状況をよく理解していないようだ。いや、それに関しては夕輝だってそうだった。状況が理解できない。料理をしていましたよと言わんばかりのエプロン姿で食器を洗っている目の前の女性を確かに母だと認識した。そして、そこに混乱以外の何かがあったわけではなかった。

 

 

「夕輝くん、この女性は......」

 

 

 恐々言いながら、茜はこちらの表情を確認していたようだがそんなことに夕輝は気付かなかった。ニューロンたちが意味もなく動き回るせいでそれすら耳に届かない。

 

 

 何故、母がいる?

 

 

 彼女は、夕輝の目の前で亡くなったはずだ。

 

 

「兄ちゃん......修学旅行は」

 

 

 1つだけ、心当たりがある。あってしまう。夕輝の帰宅に気付くや否や、ソファから立ち上がって彼に視線をやっていた少女。夕輝の妹にあたる人物。

 

 

 科学者の能力検知要員は、彼女に能力が宿ったと告げた。そしてまた、その能力が『創造』という名前だとも。

 

 

 春。

 

 

 お前がやったのか? そんな風に聞こうとしても、頭の整理が追い付かない。そんなはずはない。死んだ母親を能力で造る? そんなこと、できたとしても春がするはずはない。夕輝は彼女のことはよく分かっているつもりだった。そんな非常識な思考を彼女は持ち合わせていない。彼女は──。

 

 

 普通(ただ)の中学生だ。

 

 

 あまりの動転っぷりを見かねてか、

 

 

「夕輝、大丈夫?」

 

 

 母親が心配そうな口調で尋ねる。いや、表情を見るに、ちょっと困った感じでもある。片手を頬に当てている。

 

 

「母さん......何でここにいるんだよ......。だって、母さんは......」

 

 

 文と文が上手く繋げられない。未だに『母が目の前にいる』という変えようもない事実を()()()()()()()()()()()()()

 

 

 何なんだ。

 

 

 何が起こっているんだ。

 

 

 疑問だけをひたすらに反復し、しかし問うことも答えを出すこともできなかった。

 

 

 ひとえに、怯えたからである。

 

 

 もしこれが、春の仕業なのだとしたら。

 

 

 いいや、そんなはずがない。そんなことがあるわけがない。あってほしくない。

 

 

「兄ちゃん、あのね」

 

 

 恐らく『兄は修学旅行に行っている』とでも聞かされていたため、急な帰りに驚いているのであろう春が発した。夕輝は辛うじて彼女の方に体を向ける。焦点まで合っている自信はない。

 

 

「......お母さんは帰ってきたの」

 

 

 胸の前に両手を握って不安そうに言う彼女は、どことなく幼いように感じられる。その不安がどこからくるものなのかは夕輝には分からない。

 

 

「帰ってきた......?」

 

 

 彼女が何を言っているのか全くもって分からない。帰ってくるも何も、母はあのとき目の前で死んでいたじゃないか。夕輝はあの悲愴以外に何を抱いても不正解なのであろう305号室を、今でもはっきりと記憶しているのだ。

 

 

「私も......びっくりしたんだよ。朝起きたらお母さんがいて......最初は、夢の続きを見てるのかと思った。けど、違ったの。ね、お母さん?」

 

 

 何かの言い訳をするように必死に訴える春。食器を洗うのをやめた母親に問いかける。

 

 

 母は依然、戸惑った表情をやめない。

 

 

「春......どうしたの? 何を言って......」

 

 

 その戸惑いようから察するに、春の言い分が合っていたとして、少なくとも母の意識の及ぶことではなかった、ということになろう。

 

 

 それに、夕輝は目の前の現実の渦に飲み込まれながらも、1つの結論に至っていた。もしそれが正しいのなら、母の意志がそこにあるわけがない。

 

 

 認めたくはない。

 

 

 けれど、たった1つの可能性を除いて他に、こんなに本物そのままの母がここにいる理由なんて説明できない。

 

 

 

 

 

 彼女()が造ったんだ。死人を生き返らせるような方法など、この世界にあってはいけない。にもかかわらずそれがあり得てしまうのは、ひとえに彼女が能力を使ってそれをしたからに相違ない。

 

 

 辿り着きたくもない結論に近付く。辻褄が合ってしまう。混乱は未だ止まず、夕輝の体の自由を奪った。

 

 

「また......家族4人で暮らせるね」

 

 

 作り物でない笑みを浮かべる。その純真無垢な表情が夕輝の胸を痛い程に抉る。春はどうやら、自分が母を造ったことに気付いていないみたいだ。先程の言葉からも、表情からもそれは明瞭だった。実の妹なのだから、言動の真贋などすぐに分かる。春は嘘など付いていない。

 

 

 それに、今の春は。

 

 

「......春」

 

 

 重たくて開くのも嫌になる口をなんとか開く。真実を伝えなければならない。母親との再会などに喜んでなどいられない。そもそもこれは母親などではない。見た目こそ同じでも、春の造った偽物なんだ。

 

 

 本物の母は、ここにいてはいけないのだから。

 

 

「......それは、母さんじゃない」

 

 

 仮にも母の形をしたものの前で、こんなことは言いたくなかった。春が本物そのままに造ったのだとしたら、この母のようなものが夕輝にこんな発言をされて、どんな表情をするのか分かったものではない。

 

 

 現にこれだ。キッチンにエプロン姿で立っていた彼女は、ショックを受けたような表情を浮かべた。

 

 

「夕輝......?」

 

 

 まるで、本物の母が本当にショックを受けているようだ。とても、春が造ったとは思えない。夕輝だって思いたくない。けれど、一概に『これが本物の母だったら良いのに』とも今の彼には到底思えない。

 

 

「兄ちゃん、何言ってるの? お母さんは......お母さんだよ」

 

 

 そう言って少し口調を強める春は、どこか狼狽しているように見える。信じられないとでも言いたそうな顔だ。そんなの夕輝の台詞だと言うのに。

 

 

 夕輝は今にも吐きそうな心境のまま続ける。

 

 

「これは母さんじゃない。母さんは......」

 

 

 一瞬、言葉が詰まる。

 

 

「母さんは、俺たちの目の前で死んだんだ」

 

 

「......っ」

 

 

 春だって、もう幼い子供ではない。そんなことは分かっているはずなんだ。だと言うのに、何故彼女は朝起きて現れたばかりの母親にこんなにも順応しているのか。夕輝には全く理解できなかった。

 

 

「でも......お母さんは帰ってきたんだよ! だって、ここにいる......」

 

 

「それは母さんじゃない。ただの偽物だ」

 

 

 そんな言葉を放つ度に苦しくなるのは夕輝の方だ。春も母のようなものも、まるで殺人現場を見てしまったかのような表情をする。

 

 

 何なんだ。今、ここで何が起きているんだ。

 

 

 いや、聞かなくても分かる。春が母を造ってしまったんだ。

 

 

 何故。

 

 

 母の帰りを願ったから?

 

 

 夢の続き、と彼女は言っていた。

 

 

 夢の中で、母を見たのかも知れない。そして、そのとき願ってしまった。母に再会することを願ってしまったために、識閾下で能力が使用され、母が生まれてしまった。

 

 

 そう考えれば全ての説明がつく。

 

 

 何て恐ろしい能力なんだ。

 

 

「偽物......? 何でそんなこと言うの?......意味分かんないよ」

 

 

 何故と聞きたいのはこちらの方だ。春は何も疑問を抱かないのか。まさか、死人が生き返るなんてことを本当に信じているのか。

 

 

 そんなわけがない。

 

 

「死んだ人間が生き返るわけがないだろ」

 

 

 漏れた声に力なんて入っていたとは思えない。夕輝は既に追い詰められていた。今の状況をどう受け止めることもできない。春がこの母の(ような)(もの)を母と確信する理由が分からない。

 

 

「でも......じゃあここにいるお母さんは誰なの?......お母さんは」

 

 

「これは......お前が見ている夢だ。現実じゃない。だからそれは母さんじゃないんだ」

 

 

 我ながら、意味不明なことを言っているものだ。そんなことは夕輝が一番分かっていた。けれど、他にどうしようもないじゃないか。

 

 

「何で......! 兄ちゃんだって、お母さんに会いたかったんじゃないの? おかしいよ!」

 

 

 おかしいのは明らかに春の方だ。夕輝は普段の春を思い出す。冷静で、たまに抜けているが決して感情的にならない妹のことを。

 

 

 母が死んでからの妹のことを。

 

 

「......」

 

 

 今の春は、やはり幼く見える。まるで、小学生の頃に戻ってしまったみたいだ。

 

 

 本当に、どうしてしまったんだ。

 

 

「......また家族4人で暮らすなんてできないんだよ。父さんだって、こんな母さんを受け入れたりしない」

 

 

「......何で」

 

 

「こんなのは母さんじゃないんだよ......!」

 

 

 もしかすると、夕輝も自分自身に対してそう言い聞かせていたのかも知れない。そうするしかなかったとも言えよう。

 

 

 春の言っていることは間違っているし、夕輝は母に会いたい会いたくない以前に、母がここにいることそのものがそもそもあるまじき事態なのだから。

 

 

「......違う」

 

 

 か弱く小さな、今にも消え入りそうな声。春のものだ。

 

 

「違う、違う......!」

 

 

 何かに抗うような声で、春は体に膠でくっ付けたように離れない不安を取り去る如く首を左右に振る。

 

 

「違う!」

 

 

 悲痛な声は、夕輝と茜の鼓膜を貫く。

 

 

 部屋全体に響き渡ったそれは、その場にいる全員を震撼させた。春はその勢いを止めない。

 

 

「お母さんは......お母さんは偽物なんかじゃない! 本物のお母さんだよ!」

 

 

 睨み殺すような鋭い目。空気を恐怖させる強烈な声。そして夕輝はその瞬間床から()()()()()それに気付かなかった。

 

 

「夕輝くん、危ない!」

 

 

 聞こえたときにはもう、夕輝は後ろに尻もちをつく形で倒れていた。目の前には自分に覆い被さる茜と、立ったまま両耳を押さえて現実から目を背けるようにうなだれている春、戸惑いに口元に手を添える母、そして()()()()()()()が見えた。

 

 

 一瞬はそれが何か分からなかった。円錐をイメージしてもらえばよく分かると思うが、まさにあんな感じの先の尖った物体が床から突き出ている。ボディーは大樹のものと同じ自然っぽい色と木目から成り、深緑の蔓がまとわりついている。尖端は、先程夕輝の頭があった位置で空気を深々と貫いている。

 

 

 じっくりと1つずつ、その意味を認識していった夕輝。

 

 

 じわじわと嫌な汗が出てきた。

 

 

 この尖ったものは、夕輝の頭を貫こうとしたのだ。

 

 

 そして、間一髪茜が夕輝を助けてくれた。もし彼女がそれをしてくれなかったら、もしかしたら夕輝の頭は今頃血飛沫を上げていたかも知れない。

 

 

 では何故、こんなものがここにあるのか。

 

 

 突然床からダンジョンのトラップが発動するような唐変木な家ではないはずだ。

 

 

 まさか、春が?

 

 

 様々な憶測の中で、しかし夕輝にはそうとしか考えられなかった。

 

 

『創造』能力。

 

 

 無意識に彼女はそれを使ってしまったのだ。

 

 

 それだけではない。

 

 

「茜!」

 

 

 叫ぶと、すぐに茜が覆い被さる状態を崩して夕輝は茜の手を引いた。廊下を玄関方向に遁走する。

 

 

 次々と、棘のある蔓を伴った木錘が飛び出て夕輝と茜を襲ったからだ。

 

 

「何だよこれ......!」

 

 

 必死さで、最初の『な』は上手く発音できていなかった。

 

 

 ここは一旦、家を出るほかない。夕輝はもう殆ど何も考えずに、開けっ放しになっていた扉へ向かうとすぐに開いて茜と共に玄関の外へ出た。

 

 

 扉が閉まる直前に、夕輝は母と春を、一瞬だがそれこそ時間が止まったかのような感覚で視界の端に垣間見た。

 

 

 春が耳を押さえた先程同様の立ち姿であるのを、何やら母が話しかけていたのか、春は反抗するように片手で母を追い払う動作をした。

 

 

 そのとき、夕輝は何か違和感のようなものを感じた。それは、恐らく他人なら絶対に気付かないであろう違和感。

 

 

「何だ......?」

 

 

 焦りすらも書き消すようなその漠然としたものは、扉が閉まると同時に聴こえた茜の声で瞬時に消え失せた。

 

 

 数秒の経過の後、一気に気が抜けてその場に2人崩れる。

 

 

「危なかった......」

 

 

 相当驚いたのだろう。茜の発言が独り言に終わることは、考え事をしているときとご飯を食べているときを除けば殆どないのだ。かなり切羽詰まっていたに違いない。

 

 

 そんな茜も夕輝も、やっとこさ逃げきって出たこの夜の帳を浴びながら、あることに気付いた。

 

 

「......冷たっ......」

 

 

 2人の声が重なる。

 

 

 足の裏が冷たい。

 

 

「靴......」

 

 

 靴を履いている暇など当然なく、夕輝と茜は靴下のまま玄関を脱出してしまった。お陰で現在、夕輝たちは完全に靴下のみの装備でマンションの廊下におり、RPGならスライムにすらやられるレベルだ。

 

 

 ひとまず落ち着く必要があるのだろうが、夕輝にはそれができなかった。

 

 

「俺、春に話を......」

 

 

 焦燥が夕輝を急かす。

 

 

「待って下さい」

 

 

「何だよ」

 

 

「考えもなしに戻るのは無謀です」

 

 

「......」

 

 

 茜の言う通りだった。一度春に追い出されてしまったのだ。ここですぐに引き返しても、同じ失敗を繰り返すだけになるのは殆ど間違いない。

 

 

「......どうすれば」

 

 

「取り敢えず、移動しましょう」

 

 

「え?」

 

 

 茜の突然の提案に、夕輝は若干戸惑った。

 

 

「ちょっと待てよ」

 

 

 今の状況を把握するのにも一苦労であるが、そんな中でも夕輝の冷静な部分は茜の言葉に反駁をせんと夕輝に迫っていた。

 

 

「移動って......そんなことしてる暇なんてないだろ! 大体、かが......未来さんと琴羽さんのことだってあるのに」

 

 

「分かってます。でも......それと同じくらい大事なことじゃないですか。実の、妹さんなんですから......」

 

 

「っ......」

 

 

 茜の言っていることは正しかった。正論ではあると思う。けれど、それが彼女の本心なのかどうか、夕輝には分からなかった。

 

 

 他人を気遣っていられる余裕なんて、茜にもないはずなのに。

 

 

「茜は......先に戻っててくれよ」

 

 

「できません」

 

 

「何で」

 

 

「まさか、未来が私たちを戻らせてくれると思いましたか?......恐らく無理でしょうね。彼女にとって私たちは邪魔でしかない」

 

 

 淡々と事実のみを告げる。彼女はやけに冷静で、そこには諦めすら垣間見えた。

 

 

「......なら、茜は何で来たんだよ......」

 

 

 まさか、夕輝のようにそんなことも考えられない程焦っていたわけではあるまいし、これでは、あの時点──茜が夕輝に付いていくと言ったとき──で既に、彼女は未来のことを諦めていたということになる。

 

 

「こっちのことなんて、俺1人でも何とかなっただろ......。茜がいなくたって......」

 

 

「そんなの」

 

 

 言いかけて、茜は遮るように漏らした。彼女にとってはそれは無意識のうちに発せられたものだった。

 

 

「そんなこと......言わないで下さいよ」

 

 

 その言葉が何を表すものなのか、夕輝は初めは分からなかった。が、それを考えることによって少しずつ落ち着いてきたのも確かだ。冷静になった脳みそで、やっと夕輝は自分の言動を反省し始めた。

 

 

 夕輝1人でも何とかなった。そんなのは間違いだ。茜がいなければ今頃夕輝は春の能力で帰らぬ人となっていたかも知れない。あるいはまたここから家の中に引き返して、同じ過ちを繰り返していたかも分からない。1人では何もできないと、本当は分かっているはずなのだ。

 

 

「......ごめん。茜の言う通りだ」

 

 

 本当は言いたいことがあった。夕輝に文句の1つでもぶつけたい気持ちだったが、結局のところそんなことはせず、

 

 

「......一度、落ち着いて考えましょう」

 

 

 とだけ言うと、遅れたようにやって来たため息を吐いた。

 

 

「......どうする?」

 

 

 というのはつまり、これからどうするか、という話だ。やはり半裸足では移動手段が限られてくるし、何にせよこういうことは早く解決した方がいい。

 

 

「取り敢えず......私の家に来て下さい」

 

 

「え?」

 

 

 なるほど、それなら靴下でも問題はない......。

 

 

 って。

 

 

「待て、茜」

 

 

 その案は、それこそ問題だらけだ。何より夕輝が危惧していたこと。それは......

 

 

「父なら、今日は仕事です」

 

 

 日曜日なのに。相変わらず忙しい人だ。

 

 

「母には、夕輝くんに勉強を教えてもらうとでも言えば問題ないでしょう。何かと騙されやすい人なので」

 

 

 その言葉は夕輝にとって、少しではあるが意外だった。茜の母というと、彼女と同じくどこかさっぱりした感じのイメージを勝手に抱いていたからだ。

 

 

 だが、そんなことは良いとして、何にせよ1つの大きな問題があることには変わりない。

 

 

「けど、俺たちは本来、ここにいるはずはないことになってるんだ」

 

 

 夕輝の家には修学旅行に行っているという設定で電話をされており、松山に至っては、夕輝たちが4人揃ってアメリカに行っていると思い込んでいる。ひょっとしたらそれすらも能力なのかも知れない。夕輝の持っている......いや、持っていた、『先入』に似た。

 

 

「大丈夫です。そこら辺は適当な母なので、イタ電とでも言っておけば解決する話です」

 

 

 確かにそれはそうだ。そんな単純な解決方法を思い付かないとは、まだ焦っている証拠だ。夕輝は深呼吸して、心を落ち着かせた......つもりだったのだが......。

 

 

 ......どうも落ち着かない。

 

 

「もしかして......緊張、してます?」

 

 

「へ?」

 

 

 いや、そんなことはないだろう。今の状況のどこに緊張する要素があるというのだ。そりゃあ勿論、混乱する要素はいくらでもある。我々の最大の敵である科学者の本拠地が住んでいるマンションの地下にあり、その上ボスは茜の従姉妹で、茜の親友すらグルで絶望した挙げ句26時間も眠らされ起きたかと思いきや琴羽に解放され、未来を助けるなどと言っていたので付いていくと妹が能力者になったと聞かされて急いで家に向かい、死んだはずの母と対面し、春が暴走し、そして今に至り......。

 

 

 女子の家に入る羽目になる。

 

 

 待て待て待て。

 

 

 最後の一文を除けば今は最悪の状況であるのに、やはり緊張などするはずがない。まして茜の家には割と最近に一度入っているのだ。

 

 

 思えば思う程混乱し、最早自分が何をしているのかすらよく分からなくなってきた。宇宙空間に解き放たれた感覚だ。

 

 

「......変なこと言ってないで......行くぞ」

 

 

 それが夕輝の精一杯だった。見栄を張ってなどいない。夕輝は比較的非常識なのかも分からないが、常識的な思考だって当然持ち合わせている。今自分たちが目の当たりにしている最悪の事態を改善すべく、茜の家で作戦を練るしかない。

 

 

「はい、行きましょう」

 

 

 茜は夕輝の表情を確認するように言うと、前を歩いた。マンションの同じ階なので目の前だ。

 

 

 扉の前に到着すると、すぐに茜は鍵を開けた。気絶能力で眠らされ、雪の持っていた鞄はそう言えば没収されていたが、ポケットの中身までは奪われていなかったようで助かった。

 

 

 ドアノブを捻り、手前に引く。

 

 

「......ただいま」

 

 

 ぽつり、と呟くように言ったのは、恥じらいからなのだろうか。

 

 

「あ、夕輝くんはここで待ってて下さい」

 

 

 玄関に立たされたまま、茜が廊下を進んでいくのを見た。リビングにいる彼女の母親がちらりと見える。彼女らが話し合う声は微かに聴こえ、何となくだが茜が敬語を使っていないことは分かった。

 

 

「話はつけておきました」

 

 

 意外と早かった。ものの30秒ぐらいで戻ってきたかと思うと、あっさり中に入れてくれた。

 

 

「お邪魔します」

 

 

 丁寧に茜の母に挨拶した。彼女の父親と同じくらいの年齢なのだろう。

 

 

「ゆっくりしてってね」

 

 

 何だか嬉しそうに微笑んでいる。茜にも似た雰囲気だが、彼女より数倍柔らかい感じだ。ずっとご飯を食べている茜、とでも言おうか。

 

 

「ありがとうございます」

 

 

 もう一度ぺこり、と頭を下げる。とは言え、決して夕輝にゆっくりしていくつもりはなかった。そんな悠長にしている暇はない。

 

 

「では、夕輝くん、その......」

 

 

 何だかもじもじしているように見えるのは気のせいだろうか。夕輝はこの先の言葉を十分に理解していた。当たり前のようだが、これからするのはリビングで茜の母を隣に据えてしていい話ではない。

 

 

「部屋に......」

 

 

 

 

 

 茜の部屋は割と簡素だった。机、椅子、本棚、ベッド。そんな感じだった。

 

 

 普通の、女子の部屋。

 

 

「......」

 

 

「......」

 

 

 普段から綺麗にしているのだろう、この部屋にはゴミ1つ見付からない。こういうところは茜らしい。ただ、案外部屋が女子っぽ過ぎたので、ほんの少しだが動揺している。

 

 

「......」

 

 

「......」

 

 

「夕輝くん」

 

 

「何だ?」

 

 

「心当たりは?」

 

 

「え?」

 

 

 心当たりとは、何のことだろう。夕輝は茜のベッドに腰掛けながら思考を巡らせた。ベッドに腰掛けているのは、2人座るだけの十分なスペースがここになかったからだ。椅子でもいいのに、とは思う。

 

 

「春ちゃんは......どうして能力に目覚めたんでしょうか」

 

 

 ああ、そうか。

 

 

「何でなんだろうな......」

 

 

 言いつつ、夕輝は何となくその答えを脳内で導き出していた。茜だって本当は分かっているはずなのに夕輝に敢えて聞くということは恐らく、夕輝に引っ掛かりがあるということもどこかで理解しているからなのだろう。

 

 

「母さんに会いたかったから、か......」

 

 

 口には出してみたものの、その解に得心することは到底できなかった。これは経験則みたいなもので、春を今まで見てきた中で、どうしたって彼女が母を──たとえ識閾下だとしても──造り出すような思考を働かせるとは思えなかったのだ。

 

 

 別の何かなのだろうか。

 

 

 考えれば考える程分からなくなってしまう。

 

 

「何で......こんなことも分からないのかな」

 

 

 自分が情けない。実の兄であり、彼女の年齢と同じだけ春と一緒に暮らしているというのに、彼女が抱えたのであろう欲望の正体を見出だせない。

 

 

 漠然と、『違う』と言っている。

 

 

 何に対してかは分からない。

 

 

「......お腹、すきましたね」

 

 

 隣から声がした。茜だ。夕輝の右側に座っていた彼女は、そんなことを言い出した。そりゃあお腹は空いているに決まっている。何せ、26時間プラスα、食事をしていないのだから。

 

 

 またも結果論だが、そうと分かった瞬間に腹の虫が鳴こうとしていることを夕輝の腹ペコセンサーが検知した。

 

 

「そうだ、何か作りますよ」

 

 

「え?」

 

 

 茜が今度はこんなことを言い始めた。

 

 

「そんな、悪いよ。それに今は......」

 

 

「腹が減っては戦はできぬ。待ってて下さい、30分もあれば出来ますから」

 

 

 そう言ってこちらを向き、僅かに笑むと茜はすぐにベッドを降り、てってと駆けていった。扉を開け、廊下に出てから扉を閉める。

 

 

 一瞬の硬直。

 

 

 それから、そのままの体勢で背中からベッドに倒れこんだ。

 

 

「はぁ......」

 

 

 こんな状況なのに。

 

 

 そんなに悠長にしている場合ではない、と言いたい気持ちもあると言うのに。

 

 

 

 

 

 ──どうして、茜にここまで心を動かされてしまうのだろう──。

 

 

 

 

 

 初めは、女子だからだとか、少し可愛いのに惑わされているだけだと思っていたが......そろそろ、認めなくてはならないのかも知れない。

 

 

 しばらく放心状態のままそうしていて、体感10分ぐらいの時間が経った。

 

 

 

 

 

 未だ高鳴る鼓動を感じながら、むくりと起き上がる。目を瞑るとまぶたの裏に、まだ新しい茜の微笑の記憶が形となって映る。

 

 

「悠長にしてるのは、俺の方なのかもな......」

 

 

 そう呟いてゆっくりと目を開く。夕輝は目の前の彼女の存在に再度心臓を飛び跳ねさせることになる。

 

 

 茜がドアノブを握った状態で3メートル程先にいた。廊下から夕輝を眺めている形だ。

 

 

「うおっ!」

 

 

「うわっ」

 

 

 こちらの挙動にびっくりしたのかあちらも驚愕の声を上げた。

 

 

「ど、ど、どうしたんだ」

 

 

「何でどもるんですか」

 

 

「い、いや、別に......」

 

 

 茜のことを考えている状態で目を開けたら目の前に考えていた張本人がいたので動揺した、なんてとても言えない。

 

 

「それより、変なことし始めたり部屋の中を物色したりしてませんよね」

 

 

「は?」

 

 

 まさか、そんなことを言いにわざわざ戻ってきたのか?

 

 

「そんなことするわけないだろ」

 

 

「......本当ですか?」

 

 

 疑いの目を向けてくる。まじまじ、という擬態語がよく似合う図だ。この距離でも威圧感が半端ない。

 

 

「......なんて、冗談ですけどね」

 

 

 数秒の後、一気にその緊迫感を解くと彼女はそう言ってのけた。全く、変な冗談はやめてほしい。距離があって良かった。至近距離で茜に見つめられたら、間違いなく目を逸らした自信があった。そうなれば、余計疑われるに違いない。

 

 

「それより、ご飯できましたよ」

 

 

 茜は少しだけ呆れたみたいな顔で近付いてくる。

 

 

「......へっ?」

 

 

 夕輝の疑問も当然だった。思わず頓狂な声は出たが、許してほしい。

 

 

 先程、茜は30分程あれば出来る、と言っていたはずだ。まだ10分ほどしか経っていないだろう、と時計を見る。

 

 

 その驚きに、思わず二度見してしまった。

 

 

「え......?」

 

 

 茜の部屋の丸い時計は、見事に6時半を指していた。ここに入ってきたのは6時。

 

 

 しっかり30分経っていた。

 

 

「ほら、行きますよ。ご飯が冷めちゃいますから」

 

 

 そうして夕輝の目の前に到達すると、今度こそ至近距離で正面から見つめられる。これには流石にたじろぎそうになったが、上手いこと彼女の視線と体を回避して立ち上がると、

 

 

「......ああ」

 

 

 と答えた。前を歩く茜に付いて、部屋を出る。良い匂いがすぐそこのリビングからやってきた。

 

 

 

 

 

「いただきます」

 

 

「......いただきます」

 

 

 出てきたのは、いわゆる普通の夜ご飯、という感じだった。茶碗一杯のご飯、お味噌汁、煮物に漬物......。若干和食に偏っている。

 

 

 中央には、これでもかとサバの味噌煮が君臨している。見るからに美味そうだった。よだれが垂れないかと心配になるくらい。

 

 

 よく30分でこれだけ用意できたものだ。茜の話によれば、もともと彼女の母が食事の用意をしていたらしい。その母はというと、今はニコニコと洗濯物を畳んでいる。凄いシチュエーションにいる気がする。

 

 

「うま......美味しい、です」

 

 

 サバの味噌煮を一口食べた感想はそれだった。一体、茜と彼女の母親のどちらに先に感想を述べれば良いものか、と考えていると、少し迷ったように片言の日本語が飛び出してしまった。

 

 

「あらー、良かったわ」

 

 

 茜の母は洗濯物を畳む手を一旦止め、嬉しそうにこちらを振り向く。やはり、なかなかの美人だ。茜が可愛いのにも頷ける。

 

 

 謎の納得を胸中でしつつ、ご飯を食べる手を進める。これがやはり、なかなか絶品だった。

 

 

 横でリスになっている茜も、幸せそうで何よりだ。

 

 

「ところで、音永くん?」

 

 

 半分程食べたところで、茜の母が夕輝に声をかけた。洗濯物は畳み終わったようだ。

 

 

「茜とは、付き合ってるの?」

 

 

 ガタン、座っていた椅子が揺れる。突然の思いがけない言葉に動揺し、もう少しで茶碗をひっくり返すところだった。軽くむせる。いや、結構の時間むせた。夕輝の脳内は、一瞬にして完璧にパニック状態に陥った。

 

 

「あらあら、大丈夫?」

 

 

 よくよく確認すると、茜の方も動揺した様子でぷるぷると震えていた。頬が少しだけ紅潮している。

 

 

「お、お母さん、急に何!?」

 

 

 怒りのようにも思える声を、動揺を発散させるように母に投げかけた。残念ながら隠しきれてはいない。夕輝の方は未だむせており、久々に耳にする茜が平語を使っている様子をろくに堪能することもできなかった。

 

 

「どうしたの、照れちゃって」

 

 

「照れてない!」

 

 

 しばらくして、やっと落ち着いた夕輝は一旦頭を冷やすために箸を置き、そして何だか無性にもやもやし始める自分に気付く。

 

 

 自分にだって同じことが言えるのだが、何だか余裕過ぎやしないか、と。今も十数メートル先には能力を暴走させた春といるはずのない母親がおり、二十何メートル地下には巧と雪を残してきているというのに、こんな典型的なラブコメ展開を繰り広げていて良いのだろうか(反語)。

 

 

 そんなことを考えるだけの時間のうちに、「音永くん、これからも茜をよろしくね」だの「お母さんは余計なこと言わないで」だのと次々にお約束は執り行われていたようで、気付けば茜の母は退散していた。確か「私はお買い物にいかなくちゃならないから、後はよろしくね」をわざとらしく言っていた気がするが、それがあからさまな嘘だとか何で今から買い物なんだとかは置いておいて、そろそろ夕輝の理性がちゃんと働き始めている頃でもあった。

 

 

 それは言い換えれば、もどかしさでもある。一刻も早く春のところに行かなければ、という気持ちが強かった。

 

 

「なあ、茜」

 

 

「な、何ですか」

 

 

 本当に何だと思っているのか、めちゃくちゃ身構えている。

 

 

「......春の」

 

 

「わ、私、そうだ、待ってて下さい」

 

 

 敢えてもう一度言うが、本当に何だと思っているのか。夕輝の3倍のペースで早くも完食した皿をキッチンに持っていく。悠長にラブコメをしている暇はないはずだ。

 

 

 そう思いつつ、待っていろと言われたからには夕輝は待つことにした。こんな風にテンパっているが、茜はいつも、重要な局面ではちゃんとしている。夕輝は彼女を信頼していた。

 

 

 背中の方から、しゃろしゃろと音がした。ピーラーで、にんじんを切っているような音。あるいは、水分を含んだ果実を咀嚼しているような......。

 

 

「お待たせしました」

 

 

 食事を完食するのと丁度同時に食卓にやってきたのは、りんごだった。茜はりんごを剥いてくれていたようだ。小さな皿に乗ったりんごたち。いや、1つを切っただけなのだからやっぱりりんごなのか、彼(ら)を見ていると、不思議な気持ちになった。胸が痛いような、熱いような、あるいは温かいような。そんな気持ちだ。

 

 

 心当たりがないわけではない。夕輝はすぐに、あの病棟を思い出した。16年の人生の中で、夕輝がりんごを食べた最後の記憶だ。

 

 

 ──そう言えばそうだ。

 

 

 あれは、夕輝がりんごを食べた最後の記憶だったんだ。

 

 

 母が亡くなる3日前を最後に、あれ以来りんごを食べた記憶がない。親戚の家に行くことも殆どなくなって、父は帰ってこず、全ての食事は春が決めていたから。

 

 

 つまり、春がりんごを食卓に一度も出さなかった。

 

 

 流石に偶然ではなかろう。

 

 

 また、その事実に気付いていないわけもなかった。

 

 

 

 

 

 ──何で──。

 

 

 

 

 

 気付くと夕輝は、茜が持ってきてくれたフォークでりんごを一口、口に入れていた。

 

 

 甘酸っぱい味がした。

 

 

 ラブコメ気分はすっかり解けてしまった茜も加わってりんごを食べ始める。

 

 

「ん、ちょっと酸っぱいけど......美味しいですね」

 

 

 頷きで答えて夕輝はまた1つ食べる。すると、茜が奇妙なものでも見たような顔をした。夕輝が余りにもただ黙々とりんごを食べている姿を疑問に思ったのだろう。

 

 

「......夕輝くん? どうしたんですか?」

 

 

 茜の顔が近かった。髪が触れる。けれど、夕輝は先程のように困惑したりはしなかった。この不思議な感情のせいか。

 

 

「いや......しばらく食べてなくてさ」

 

 

「......りんごを?」

 

 

「......りんごを」

 

 

 どれぐらい? とまでは彼女は聞いてこなかった。まあ聞かれたところで、4年ぐらいだと答えるだけなのだが。

 

 

「美味いよ」

 

 

 やっと、口を開いた。声に息が混ざっていたせいで茜は、そんなに美味しいのかと目を丸くして夕輝の顔をきょとんと見たが、やがてそれは微笑みに変わり、彼女もまた1つりんごを頬張った。

 

 

「はい」

 

 

 茜は時間を置いて、優しく共感の言葉を吐く。

 

 

 りんごのせいで。とうとう、温かな、そして夕輝にとって余りにも痛い感情が追い付いてくる。あの頃に近い感情を今、抱いていることに気付いた。

 

 

 夕輝が今、茜に抱いている感情は──。

 

 

 

 

 

 ──あの頃、夕輝が母に抱いていたものとそっくりだ。

 

 

 

 

 

 涙が出るようなものならばどれだけ良かっただろう。傷は、決して癒えはしない。夕輝はその事実を、身を持って認識している。

 

 

 そのはずなんだ。

 

 

 ──なら、春は。

 

 

 本当はもう分かっているんだ。分かっていたんだ。分かっていたはずなんだ。

 

 

 春が食卓に、りんごだけは出さなかった理由も。

 

 

 春が、ちょっとオタク気質になった理由も。

 

 

 少しだけ、兄と距離を置いたことも。

 

 

 人と距離を置いたことも。

 

 

 それだけじゃない。

 

 

 本当は、全部分かっていたはずなのだ。

 

 

 

 

 

 ──能力は......『幻覚』。対象の深層心理にある幻を対象自身に見せる、といった能力ですね──

 

 

 

 

 

 あんな夢を見た理由も。

 

 

 あんな幻を見た理由も。

 

 

 あの幻の中で、夕輝は。

 

 

「......母さんしか......見えてなかった」

 

 

「え?」

 

 

 ようやく、答えにたどり着いた。

 

 

 今更になって。

 

 

 ならば、やるべきことは1つ。

 

 

「ご飯ありがとう。お母さんにも伝えておいてくれ。俺、行くよ」

 

 

 言いながら、夕輝は立ち上がった。

 

 

「え? 夕輝くん、どうしたんですか」

 

 

「茜はここに残ってくれ」

 

 

 夕輝はそのまま、手を合わせてごちそうさまをするとすぐに駆け出した。

 

 

「夕輝くん!」

 

 

 茜が夕輝の名を叫ぶ。夕輝はその言葉に立ち止まって振り替えった。少し間が空いて、茜はこちらに近付いてきた。まっすぐに夕輝の瞳を捉える。

 

 

「......待ってます」

 

 

「......ああ」

 

 

 このやり取りは、夕輝と茜の信頼の証だ。今まで、生徒会で共に過ごしてきたからこそ、彼らは互いに信頼しあっていた。

 

 

「いってらっしゃい」

 

 

 茜はもう一度、優しく微笑んだ。

 

 

「......行ってきます」

 

 

 答えて、夕輝はそのまま玄関へ向かうと、靴がないのを思い出しつつ外へ出た。扉が閉まりきるまで余計なことを何一つ聞かずに送り出してくれた茜には感謝しかない。

 

 

 マンションの廊下は、この時間はすっかり冷えきっていた。10月になって間もないと言うのに、結構寒い。特に足の裏なんて氷水に浸しているみたいで最悪だった。

 

 

 逃げるようにさっさと自宅へ向かう。幸い、鍵はポケットに入りっぱなしだ。

 

 

 自宅に入るのにこんなに緊張するのは初めてだ。扉の前で一旦、心を落ち着けた。

 

 

 深呼吸。

 

 

 鍵を開けた。指紋認証でピピ、と音がする。

 

 

 ドアノブを捻る。春と夕輝と茜の靴が見付かった。母のものはない。そりゃあそうだ。いはしないのだから。

 

 

 もしかしたら、もう母は部屋にはいないんじゃないか。現にここに、先程夕輝を攻撃した尖った木の錘はないんだし、例えば春がやっと冷静になったとか、能力には時間制限があったとか。

 

 

 そんな夕輝の思考虚しく、そこに母はいた。

 

 

 もっとも、母などではないが。

 

 

 リビングのソファ。そこで彼女が膝枕させているのが春だ。母の膝の上で横になっている。

 

 

 間もなく、母がこちらに気付く。

 

 

「あら......お帰りなさい、夕輝」

 

 

 ぎこちなくそう言って、軽く微笑んだ。恐らく、膝元の春を気にしているのだろう。先程あんなことがあったばかりなので当然と言えば当然だが──。

 

 

 本当に、よく出来ている。

 

 

 けれど。

 

 

「春」

 

 

 夕輝は妹の名を呼んだ。話をするためだ。夕輝は春とちゃんと話し合わなければならない。

 

 

「......兄ちゃん」

 

 

 春はゆっくりと起き上がると、夕輝を見て溢す。何か言いたそうな様相に見えた。今の彼女はとても幼い。

 

 

 母がいるんだから、そんなのは当たり前だ。

 

 

「あのさ......さっきはごめんなさい」

 

 

 彼女は頭を下げて深く謝罪した。

 

 

「私、ついかっとなっちゃってさ、ほんとに......ごめん」

 

 

 夕輝より幾ばくか背の低い春は、ソファから後ろめたさを隠すように上目遣いで兄を見つめる。彼女の瞳は純真で、淀みがなかった。

 

 

 あの頃から、彼女はずっと変われなかった。

 

 

「だけどさ、私......また、家族みんなで暮らしたいの。兄ちゃんも一緒に。お母さんにも家にいてほしいし......」

 

 

 説得を通そうとする不器用だがはきはきとした声が、だんだんと小さくなっていく。

 

 

「お父さんにも......帰ってきてほしい」

 

 

 微かな、震えるような声で呟いた。これが春の、偽らない本心だ。彼女の直情的な言葉はまさに、夕輝の罪を物語っている。

 

 

 どこで間違えてしまったのか?

 

 

 そんなのは、初めから分かっていたのに。

 

 

 分かっていたはずなのに。

 

 

 夕輝の胸を痛い程に締め付けた。

 

 

「きっと、できるよ。また一緒に旅行に行ったり、皆でおいしいご飯を食べたり、星を観に行ったり......」

 

 

 彼女は、希望すら抱いてそんな言葉たちを紡いだ。

 

 

「きっと、大丈夫だよ」

 

 

 ここまで優しい笑みを浮かべる春を、夕輝は見たことがなかった。実の兄なのに。春にそうさせてやれなかった。

 

 

「......春」

 

 

 夕輝は、ずっと言い訳を続けていた。

 

 

「それは......できない」

 

 

 こんなことしか言えない自分に苛立ちを覚えて仕方ない。瞬間の春の、あり得ない、とでも言いたそうな表情を見ていると、より一層。

 

 

「......何で」

 

 

「この人は母さんじゃないんだ」

 

 

 春が作った偽物の母を前に、春に真実だけを告げる。本物そっくりなせいで、これが余りに心苦しい。けれど、言わなければならない。夕輝にはその義務があった。唯一の、兄として。

 

 

「やり直すなんて無理なんだよ。俺だってそうなれば良いと思うさ」

 

 

 結局はそこに帰着する。夕輝だって春と同じだった。いくら過去に複雑な事情を抱えていようとも、母が死んだ残酷な状況を目の当たりにしていようとも、それら全てを取っ払っていいのなら──夕輝は母に会いたかった。

 

 

 我ながら、おかしい話だと思う。笑ってくれたっていい。結局、夕輝は自分の傷を、そして拭いきれない過去を言い訳に、逃げていただけだったんだ。

 

 

「なら何で......! お兄ちゃんは......お母さんのことが嫌いなの......?」

 

 

 春は相当戸惑っている。それだって仕方ない。全てのことは、夕輝に原因がある。

 

 

「嫌いじゃない。母さんのことは......ずっと好きだったよ」

 

 

「だったら!」

 

 

「でも!」

 

 

 夕輝は場を制圧するように叫んだ。全て、夕輝のせいだ。自分のせいなのだ。

 

 

 けれど。

 

 

 だからこそ今だけは、春の好きにさせてはいけない。それが、夕輝のなすべきことだ。

 

 

「母さんにはもう......会えないんだ。どんなにこの人を母さんだと思ったって、たとえ父さんがその人を見て母さんが帰ってきたんだと思ったって、そんなのは嘘っぱちなんだ。これは俺たちの母さんじゃない。俺たちを必死に産んでくれた母さんじゃない。俺たちの目の前で死んだ母さんでも......ないんだ」

 

 

 力が抜けたような感覚。自分自身の顔も、少し歪んでいるのが分かる。胸の痛みのせいだろう。体は正直だ。

 

 

「春、お前......知らなかったろ」

 

 

 ソファに座ったままだった母に近付く。

 

 

「立って」

 

 

 夕輝の言葉で母は立ち上がる。まだ戸惑った様子。頬に手を当てている。けれど、何も言ってはこない。空気を読むことすらできるのなら、大した作り物だ、と思う。

 

 

 少なくとも、そう思うしかなかった。

 

 

 彼女は仮にも、母の形をしているのだから。

 

 

「母さん。春のことを産んだときのことを思い出して」

 

 

 母と接するのと全く同じ口調で話しかける。

 

 

「分娩にはどれくらいかかった?」

 

 

 急にどうしたの、とは聞かずに彼女は眼光を左上に飛ばす。

 

 

 さぞ動揺したことだろう。

 

 

「......覚えてる?」

 

 

「......いいえ」

 

 

 そう答えるのも時間の問題だった。彼女には、そんな記憶があるはずがないのだから。

 

 

 夕輝は春の能力の欠点に気付いた。『創造』能力は、自分の思い描いていることまでしか現実にできないのだ。勿論、これだけでは揚げ足を取っているのと何ら変わらない。夕輝は、この母が母でないことを示す──示してしまうための、動かない証拠があることを知っていた。

 

 

「お前が母さんと風呂に入ってたような時期には気にも留めなかったかも知れないし、お前が物心つく頃にはもう1人で風呂に入るようになってたからな」

 

 

 母も入院していたため、それを知る機会が偶然なかったのだ。

 

 

「母さんさ......お前を産むとき、帝王切開してんだよ」

 

 

「......え?」

 

 

 逆子だったから。たったそれだけの理由で、春は切られた母の腹から産まれたのだ。母体にかかる負担は当然大きかったし、それが原因で喘息が悪化したことが一度あるのも事実だ。

 

 

「横切開だったそうだ。一度、父さんに聞いたことがあったんだ」

 

 

 夕輝は母の服の裾を捲った。彼女は狼狽しているが、夕輝は話を進めた。

 

 

 動かぬ証拠。母が母でない証拠だ。

 

 

「......この人には、その跡がなかった」

 

 

 余りにも綺麗な腹部だった。傷跡とおぼしきものは、うっすらとも見えない。それが、彼女が母でない証拠。

 

 

 夕輝が必死で家から出たときに感じた違和感の正体だった。

 

 

「そんな......そんなの」

 

 

 何か反論しようとしているのが分かった。けれど、続く言葉は何も出てこなかった。ただ口をぱくぱくと動かしながら、春は膝から崩れていった。

 

 

 言い訳なんてしようもない。どうしたって、彼女は母にはなり得ないのだから。

 

 

 それを春が認識してしまった途端に──母のようなものが消える。2人とも、それに気付いた。が、夕輝は動じない。

 

 

「4人でまた暮らすなんて無理なんだ。本物の母さんは......天国にいるんだよ」

 

 

 それを言って始めて、春はその虚ろな瞳を、ただただ無機質な床の方へと移した。

 

 

「何で」

 

 

 ぽつり、と呟くが、殆ど声になっていない。

 

 

「何で......嫌だよ」

 

 

 ゆっくり、ゆっくりと、言葉を繋ぐ。

 

 

「嫌だ......嫌だ」

 

 

 だんだんと、声量が増す。

 

 

「嫌だよ......嫌だ......!」

 

 

 それ以外の言葉が出るには時間が必要だった。俯いたまま、春はその感情をやっと爆発させるに至った。

 

 

「......嫌だ! 何で! 何で、何で......!」

 

 

 迫力なんてものはなかったが、夕輝は彼女の悲痛な叫びに耳を傾けているだけでも辛くて仕方がなかった。春のそれなど、夕輝の非ではない。

 

 

「何で......みんな、いなくなるの......?」

 

 

 その言葉が夕輝の鼓膜を揺さぶると、夕輝の体の自由は徐々に奪われていった。

 

 

 母や父だけではない。

 

 

 夕輝は、その言葉が夕輝に向けられたものでもあると理解していた。

 

 

「置いてかないでよ......独りにしないでよ!」

 

 

 ずっと、一緒にいたのに。

 

 

「誰も私を見てくれない!」

 

 

 自分だけ逃げていた。

 

 

 母の死から。

 

 

 父から。

 

 

 あるいは、春と向き合うことから。

 

 

 自分だけ逃げて、楽になって。

 

 

 おまけに生徒会なんてものに入って、誰かのためになることをちょっと覚えて、自分らしさなんてものにまで気付いたつもりになって。

 

 

 その結果、ここまで追い詰めてしまった。茜にしてしまったのと同じことを春にしていたということに、何故気付けなかったんだろう。

 

 

 春は、夕輝と同じだ。

 

 

 いつも、夕輝には見せていなかっただけだ。

 

 

 それは、夕輝が春に見せなかったのと同じこと。

 

 

 何故?

 

 

 愚問だ。

 

 

「春」

 

 

 1歩ずつ、妹に近付く。彼女は顔を上げたりしない。何も発しない。ただ、そこに膝を置いているだけだ。

 

 

「......辛い思いさせた」

 

 

「分かったようなこと言わないで!」

 

 

 彼女は叫ぶ。これ以上、兄を近付けないように。兄を本気で威嚇した。そりゃそうだろう。夕輝に、分かったようなことを言う資格はない。ずっと、見て見ぬふりをし続けていたのだから。

 

 

 もう、春は兄を許してはくれないだろうか。

 

 

 夕輝の知らない部分が疼いた。こんな感情は生まれて初めてだ。

 

 

 今まですぐそこにあったものが失くなってしまうことの痛みを知っているからこそ、生じる感情でもあるだろう。

 

 

「ごめん......」

 

 

 気付くと夕輝は、大事なものを守るように春を強く、抱き締めていた。

 

 

「っ......放してよ......!」

 

 

 一瞬の同様が垣間見えたが、すぐに彼女は拒絶と抵抗を開始した。けれど、それは困るんだ。夕輝は春に拒絶されては困る。

 

 

 夕輝は──春を失いたくなかった。

 

 

 もう、これ以上遠くに行ってほしくなかった。

 

 

「......ほんとに、辛い思いさせた」

 

 

「うるさい! 私のことなんて、何も知らないくせに!」

 

 

「......ああ、春の言う通りだ。俺は兄ちゃんなのに、お前の苦労も、辛さも、何も分かってやれなかった」

 

 

「っ......!」

 

 

 春が少し怯む。

 

 

「うるさい! そんなの......!」

 

 

「春」

 

 

 抵抗する彼女を、夕輝はより強く抱き締める。抵抗することにすら辟易するぐらいに。

 

 

「っ......!」

 

 

 春はその力を緩めた。無意識だろう。きっと、暴れる彼女に対して彼女自身の理性が歯止めをかけるのだ。

 

 

 彼女の暴動に隙が生まれた今しかない。

 

 

 伝えなければならない。

 

 

 軽く、息を吐く。

 

 

「......いつも、俺なんかのために美味いご飯を作ってくれてありがとう」

 

 

「何言っ......!」

 

 

 彼女の言葉は、彼女の髪に優しく触れた兄の手のひらによって遮られた。

 

 

「父さんがいなくなって大変だったのに、辛い思いも全部独りで抱え込ませて、ごめんな」

 

 

 あの日見た幻の中で、春は夕輝を呼び止めようとしていたのに。母だけを追いかけて、春のことが見えていなかった。ちゃんと見ていたはずなのに。

 

 

「俺は兄ちゃんなのに......全部お前に背負わせた」

 

 

 だから、彼女に言ってなるだけのことを伝えるのが、夕輝の精一杯だった。

 

 

「......ごめんな、春」

 

 

 彼女の頭を撫でる。彼女の拒絶は、このときにはもうなくなっていた。そこにあるのは、時折不規則になる息遣いだけ。

 

 

「本当に、ありがとう......」

 

 

 

 

 

「......!」

 

 

 本当に馬鹿だった。兄妹なのだからと勝手な得心をして、言わなくたって感謝は伝わるんだと心のどこかで高を括っていた。本当に勝手な兄貴だ。人として最低だ。

 

 

「いつも、俺のそばにいてくれてありがとう」

 

 

 気恥ずかしいとか、伝えなくたって大差ないとか、そんな勝手な妄想のせいで、いつしかこんな当たり前の文句まで忘れてしまっていた。

 

 

 春を、知らず知らずのうちに傷付け続けていた。

 

 

 ここまで苦しんでいることに、今日になるまで気付かなかった。

 

 

 幼い妹は母の輪郭に捕らわれ続け、優しかった父の面影を追いかけて、ずっとあの305号室から抜け出せずにいた。現実を認めないために、あの場所以外でりんごを食べようとしなかった。

 

 

 それなのに、夕輝をずっと気遣ってくれていた。

 

 

「ありがとう、春。ありがとうな......」

 

 

「うぅ......」

 

 

 やっと、彼女が必死に抑えていた声が漏れた。左肩が濡れるのが分かる。それに合わせるように、彼女の髪を撫でてやる。思っていた以上に華奢な体だった。本当に、壊れてしまうんじゃないかと不安になるぐらいだ。

 

 

「うぅぅ......!」

 

 

 体を震わせる春。直接その震えが夕輝にも伝わってくる。その悲しみを、苦しみを全て受け止めて、今の夕輝がかけるべき最後の言葉。

 

 

「......もう、泣いていいんだ。我慢しなくていい。独りで全部抱え込まなくていい。......春はもう、十分頑張ったよ」

 

 

「......っ!」

 

 

 その瞬間、彼女の中で何かが崩れる。その音がする。

 

 

 彼女が貫き続けた意思の音。

 

 

 その、崩壊の音は現実に、涙となって溢れ出た。もう止まりはしない。

 

 

「うぅっ......! うっ......!」

 

 

 大きくなる嗚咽の声。夕輝の両上腕が圧迫されるような感覚に陥る。春が服の上から握っているからだろう。片側の肩がみるみるうちに濡れていく。

 

 

 春はとうとう、きつく結んでいた唇をほどいた。必死に抑えていた声は、もう彼女に取って抑えるべきものではなくなっていた。

 

 

「うっ......!......うわあぁぁぁぁ!」

 

 

 痛い程の思いを、感情を、ただ発散させる。そこに理性など存在しない。

 

 

 ──存在しなくていい。春は、全てを独りで背負い過ぎなんだ。そうさせてしまった。そんな自分が許せない。

 

 

「もう......もういいから」

 

 

「うわあぁぁ!」

 

 

 夕輝は、いつの間にか、濡れているのが肩だけではないことに気付く。潤むのは自分自身の瞳。

 

 

 以前なら、あり得なかったこと。

 

 

 母がいるから、夕輝は泣くことができた。母がいなくなったから、夕輝は涙も流せなかった。痛みすらも感じられなくなった。

 

 

 あの日、幻を見て涙が出たのは、それは幻でも──彼女がいたから。

 

 

 そして、彼女はいなくなった。

 

 

 大事なのは、分かりあうことだった。悲しみを共有することだった。それだけだった。

 

 

「お母さん!......お母さんに......会いたいよぉ!」

 

 

 それだけのことが、できなかった。

 

 

「......また、父さんと3人で、母さんの墓参りに行こう。きっと......母さんも喜ぶ」

 

 

 春の頭を撫でながら、そう口にする。自分の声も震えているのが分かった。やっと、目尻に溜まっていた涙が右目から溢れる。次に、左目。

 

 

「......っ!」

 

 

 春は嗚咽ばかりで返事をしなかったが、それでも夕輝には彼女の気持ちが分かる。痛い程に。それで、やっと心が繋がった気がした。違う。気のせいじゃない。

 

 

 確かに、繋がったんだ。

 

 

 やっと。

 

 

 やっと、止まっていた時間が動き始めた。

 

 

 やっと、兄妹になれた。

 

 

 春の髪を撫で続ける。もう、悲しませないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからしばらくそうしていた。時間は一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。ようやく春も落ち着き、夕輝は春の髪を撫でるのをやめた。

 

 

「春」

 

 

「......何?」

 

 

 尋ねる声は少し掠れている。夕輝は手をほどき、彼女の目を見つめた時点で気付く。

 

 

 そう言えば。

 

 

「いや......」

 

 

 何にせよ、春が自身の能力を自覚していないのなら、今回のように無意識で使ってしまうことがあってはいけない。先入能力で何とかしようと考えた夕輝だったが、夕輝が今コピーしているのは、晴山なる科学者の『解錠』の能力だ。

 

 

 やっぱり何でもない、と言おうとした瞬間。

 

 

「っ......!?」

 

 

 一瞬にして、目の前が暗くなった。

 

 

「......兄ちゃん?」

 

 

 と思いきや嫌に明るくなる。明暗の点滅。心配する春の声すら入らない。頭痛。まただ。嫌な感覚。混ざる。頭の中で、何かが混ざる。

 

 

 最早、偶然とはとても言えない。

 

 

 能力を使おうとしたとき、夕輝はこの感覚に襲われる。しかも──もう夕輝が所有していない先入能力を使おうとしたときですら。

 

 

 そして間もなく、コピー能力の暴走が起こる。

 

 

「......?」

 

 

 目の前で、自分が倒れていた。自分の手が小さくて華奢だ。股の辺りが変な喪失感を伴う。

 

 

 この感覚ももう慣れっこだ。夕輝は今、妹の春に乗り移っている。こんな風に無作為に乗り移ってしまうようなことがあるなら、今後は気を付けなければならないな。とは言え、何に気を付ければいい?

 

 

 気付くと、自分の体に戻っていた。こんな心情のせいか、1秒がやけに長かったように感じた。

 

 

「......兄ちゃん?」

 

 

「あ、いや、何でもない」

 

 

「......何それ」

 

 

 しらっと細い目でこちらを見る。

 

 

「いや......じゃなくて」

 

 

 そこで、はっとする。

 

 

 今の今まで完全に忘れていた。

 

 

 これで解決したわけじゃない。むしろ、ここからじゃないか。

 

 

 巧と雪を残している。茜を待たせている。

 

 

 時計を見る。8時を指していた。

 

 

「......俺、行かなくちゃならない」

 

 

「え?」

 

 

 言って、立ち上がる。そこまでの動作はすぐだった。

 

 

「ちょっと、兄ちゃん!」

 

 

 春は突然のことに驚いた様子だった。

 

 

 1人であっても、独りにはさせない。

 

 

「......すぐ、帰ってくるから」

 

 

 春の瞳をちゃんと捉えて、そう伝えた。彼女は困惑した様相だったが、結局すぐに答えた。

 

 

「......全く、勝手なんだから」

 

 

 腹を立てたように頬を膨らませているが、恐らく演技だろう。それが何だか可笑しくなって、夕輝はつい笑ってしまった。

 

 

「何で笑うの」

 

 

「いや......行ってくるな」

 

 

「......うん」

 

 

 笑った理由を聞かれたって、そんなことは分からないし、それぐらいがいい。春だってそれを十分に理解しているから、何も言ってこないのだろう。

 

 

 春がこの時間の兄の外出を何も言わずに認めたことは今までないが、今回はその限りではないようだ。

 

 

 彼女の善意にあやかって、夕輝はすぐに家を出た。これからどうするのか、具体的に考えてはいない。が、少なくとも行かなければならないことは確かだ。

 

 

 まずは、茜と合流しよう。

 

 

 そう思って、玄関の鍵を開け、外に出ると。

 

 

「......お疲れ様でした」

 

 

 声がした方を向けば、そこにはクリーム色の髪の少女が佇んでいた。すぐに茜だと分かる。

 

 

「待ってたのか?」

 

 

「その質問は野暮ですよ。さあ、行きましょう」

 

 

 もしかしたら、ずっとここで待ってくれていたのかも知れない。茜のことだ。1時間ぐらいなら待っていてもおかしくない。そう思うと、ありがたいような、申し訳ないような気持ちになってくる。

 

 

 ところで。

 

 

「行くって、どこに?」

 

 

 夕輝の、純粋な疑問だった。だと言うのに、何を言っているんだこいつはみたいな割合辛辣な目で茜がこちらを凝視したときには、若干複雑な気持ちになった。

 

 

「勿論、未来と琴羽のところですよ。巧くんと雪も残ってるんですから」

 

 

「どうやって行くんだよ? さすがにもうロックは......」

 

 

 そこまで言って、茜の言いたいことが分かった。

 

 

「君がコピーした能力を使うんですよ」

 

 

 むすっとした表情で夕輝を見る。確かにそうだ。普通ならそう考える。夕輝の思考はそこまで回っていなかった。

 

 

「ほら、行きますよ」

 

 

 その表情とは裏腹に、茜の口調からは確かな焦りが見てとれる。しかし。

 

 

「待ってくれ」

 

 

 彼女を呼び止める。先程夕輝は、またあの能力の暴走によって春に乗り移ってしまったのだ。春は能力者なのだから、あの時点で『解錠』の能力は『具現化』の能力によって上書きされてしまっているということは誰でも分かるような当たり前の事実だった。

 

 

「さっき......」

 

 

 また能力が暴走して、と言おうとしたところで。

 

 

 前方──茜が進もうとしていた方から、足音が聞こえた。かなり速いテンポだ。見ていなくても、焦っていると分かる。

 

 

 階段を上る音だ。

 

 

 やがてその音がゆっくりになって、奥から人が出てくる。息を切らしている少女の正体は、顔を見ずとも服装を見てすぐ分かった。

 

 

「琴羽......?」

 

 

「茜......!」

 

 

 何だか、とても必死そうだった。茜と一緒に彼女に駆け足で近付く。

 

 

「どうしたんですか、そんなに慌てて」

 

 

「私と一緒に来て! 音永くんも!」

 

 

 訳も言わずに、琴羽は茜の手を引いた。茜は戸惑いつつ彼女に付いていき、夕輝も続く。

 

 

「どうしたんですか、琴羽さん!」

 

 

 前を行く琴羽に、夕輝は問いかけた。かなり必死の形相で、彼女の目尻には涙すらも見えた。

 

 

 そして。

 

 

 美田琴羽は、信じられないことを言い放った。

 

 

「このままじゃ......未来が死んじゃう!」

 

 

「......っ!?」

 

 

 10月6日。

 

 

 この日夕輝は、全人類の命運を()()()握ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「──もしもし」

 

 

『............未来ちゃんか』

 

 

「今から、決行しようと思います。......今まで、本当にありがとうございました」

 

 

『ごめんな、未来ちゃん......。俺は......何も出来なかった......!』

 

 

「隼翼さんは悪くありませんよ、それより後始末、琴羽たちとよろしくお願いします」

 

 

『っ......!』

 

 

 彼はもう言葉を発することもできないだろう。電話を切る。

 

 

 全く、良い人生だった。

 

 

 地下施設の小さな部屋で、少女はただ涙も流さずに泣いていた。




 何かとトリッキーな第十三話でした。
 天然の未です。
 次回、とうとう物語は最終回を迎えます。
 この後書きを書いているときにはもうエピローグまで書ききっているのですが、エピローグと言えば。
 この二次創作は、基本的に原作をアニメ『Charlotte』としていますが、有宇の母などについてはコミカライズを参考としており、世界線はコミカライズの『Epilogue』を通過した後のものと考えていただきたいと思っております。
 「何それ美味しいの?」という方々は是非一度、コミカライズの方も手にとってみてください。結構びっくりします。
 それではこの辺りで。
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