Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
特別篇まではちゃんとノルマを守っていきますので、ご迷惑はおかけしますがお付き合いお願いします。
巧と雪は、絶句していた。
そんなことがあっていいのか。許されることなのか。
余りにも、理不尽過ぎる。
「──だから、もう私のことはそっとしておいて下さい。......それが、最後の願いです」
未来は、飽くまで日常会話をするようにそう言った。まるで、何も感じていないかのように。けれど。
「そんなの......酷すぎます......!」
雪はそんなことには、とても納得できなかった。何故、彼女でなくてはならなかったのか。巧だって同じ気持ちだった。
「何だよそれ......! ふざけんなよ!」
神がいるなら、そのわけを教えてほしかった。無慈悲にも彼女を選んだ理由を。彼女に与えた理由を。彼女から奪った理由を。
「そんなこと......私は認めない......!」
琴羽も頑なだった。彼女は、これから未来がすることを何としても食い止めたかった。
「......っ!」
気付けば琴羽は、未来に背を向けて走り出していた。足掻かなければならない。まだ、時間は十分にあるはずなのだ。
諦めてはいけない。
いくつもの扉を抜ける。道のりは長い。琴羽はそれでも、ただ未来に幸せになってほしかったのだ。
マンションの地下1階、その駐車場からはすぐだった。
走って、走って、走って。1段飛ばしで階段を上る。息は殆ど切れていた。けれど、時間が惜しい。彼女を説得する時間が。
やっとの思いで階段を上りきると、そこには既に、目的の2人がいた。
「琴羽......?」
「茜......!」
彼らはすぐにこちらに気付き、駆け寄ってきた。心配と困惑の声と言葉。けれど、今はそんなものは耳に入らなかった。早く、伝えなければ。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
「私と一緒に来て! 音永くんも!」
そうとだけ伝え、彼女の手を引いて走り出す。まだ走れる。事情を伝えるのは、走りながらでもいい。
「どうしたんですか、琴羽さん!」
夕輝も、当惑と狼狽の心が混ざった声で問いかけてくる。答えなければ。そしてすぐに、彼女の──未来のもとへ向かわなければ。
荒い息と共に、琴羽は必死で答える。
「このままじゃ......未来が死んじゃう!」
「......っ!?」
2人はかなり動揺した様子だった。急にこんなことを言われて、惑わない方がおかしい。
「それって......どういうことですか?」
琴羽の焦りが夕輝と茜にも伝染していく。ただ事でないのは間違いなさそうだったからだ。
琴羽は彼らに真実を、今こそ隠され続けた真実を伝えなければならなかった。
琴羽にとって、そして誰より未来にとっての唯一の希望。
口を開く。
「彼女......未来は──」
──私は、そこそこ平凡に暮らしていた。特別幸せとか、毎日が充実していたとかではなかったが、それでも私は自分の人生に価値を見出だしていたし、この人生が結構好きだった。
母譲りの要領の良さと父譲りのプライドの高さのおかげで学校での成績もそれなりに良かったし、おまけにその両親の遺伝でルックスまでそこそこ良い。割合恵まれた人生。
他にほしいものがあったとするならば、それはきっと、他のことを忘れてまで熱中できる何かだろうか。
夢を持つこと。あるいは、夢じゃなくたって良い。将来に直結していなくても良い。ただ、自分が興味を持ったことに、持てる全てを注ぎ込むこと。そういうのに憧れたのだろう。
そういう年頃だったし。
一般的には『思春期』と呼ばれる時期。
自分探しとかに夢中になったりする時期。
そんなときに、私は彼と出会ってしまった。
父は3人兄妹の真ん中だったが、そんな父には両親がいなかった。そして母にも1人の兄がいるが、同じくその母にも両親はおらず、つまり私には祖父とか祖母と呼ぶべき人物がいない。
彼らに両親がいない理由はよく分からないし、それを聞くのも正直憚られる。けれど、父と母は同じ境遇で育ったために、互いに分かり合うことができ、惹かれ合った......んだと思う。
しょっちゅう喧嘩をしているのに、それでも母が稀に父に甘えたり、父がその度に照れたりしているのは、結局のところ彼らが互いを必要としているからだろう。
子供ながらに、そう思った。
彼と出会ったのは、私が中学生2年のある日のこと。
突然、我が家を盲目のおじさんが訪問してきたのだ。
始めは驚いた。玄関の扉を開けたらイケメン風の男性で、しかも目が見えないと言う。
「久々に有宇と奈緒ちゃんに会いたくなってさ。未来ちゃん、こんなに大きくなって......まあ、見えないけどね」
聞くところによると、彼は父の兄らしかった。盲目、と聞いた時点でそうなのではないかと思ったが、まさか本当にそうだとは思わなかった。私がまだ幼い頃には何度も会っていたそうだが、最近は殆ど会えなくなったらしい。何やら、彼の仕事が忙しくなったそうで。
勿論、その原因が『シャーロット彗星』なるものが地球に急接近したせいだ、とは、当時の私は知るよしもなかったが。
つまるところ、彼は謎のおじさんなどではなく、私の叔父さんだったのだ。
ちなみに、父の妹──歩未さんとは何度も会ったことがある。祖父とか祖母がいない分、そちらの結び付きは強い。
もっとも母曰く、父がシスコンなだけらしいが。
父は、私の名前に彼女と同じ『未』の漢字が含まれているのは偶然だと言い張っている。私は未年生まれではない。
話は戻って。
大量の海鮮と一緒にやってきた隼翼さん。確か、伊勢の大きな海老もいた。旬ではないが。
彼の訪問に両親は、それはもうとてつもなく驚いていた。驚きと、喜び。
母は、それこそ義兄に接するような態度ではなかった。とにかく、凄く親しそうだったのだ。まるで本当の兄に接するような笑顔。
後で聞いた話だが、母は父に知り合うよりも先に彼と出会っていたそうだ。それが何故なのかは、当時の私には分からなかった。
隼翼さんは、そのまま積もる話を両親とし続けていた。勿論、酒を片手に。
父と彼に本格的に酔いが回ると、隼翼さんが父と大人げない口論を始め、2人して母に怒られていた。その後更に酔いが回ると、父は意味もなく母を褒め始め、母が怒ったような照れたような様子で父をどつく。
そんな風景を見て、それだけで私は何だか楽しかったし、だからこそ、その日隼翼さんがうちを訪ねた本当の理由を知ってしまったとき、私は本当にショックを受けた。
時刻は、午後12時。中学生だった私は、もうその時間には布団に入っていた。
けれど、目はぱっちり覚めている。
普段なら、10時には眠っている健康優良児なのに。
別に、眠る気がなかったわけではない。ただ、眠れなかったのだ。理由は簡単。隼翼さんの訪問のせいだ。顔すら知らなかった盲目の叔父で、聞いたところによると何かの研究者をやっているらしい。ミステリアスで、当時の私にはとても魅力的に感じられたのだ。彼が一体何の研究をしているのか気になって眠れなかった。
彼はまだ、我が家にいるようだった。
私はほんのちょっと魔が差して、それこそちょっとした興味本位で、隼翼さんの話を盗み聞きしようと思った。私の寝室はリビングに隣り合っていたので、頑張ればリビングの会話も聞き取れないことはなかった。
扉の僅かな隙間からリビングの様子を伺い、聞き耳を立てる。もっとも、最初は会話などなかった。ソファで情けなく眠ってしまった父に母が布団をかけていただけだったからだ。
間もなく、席を外していた隼翼さんがリビングに戻ってきた。表情は、どこか暗澹としていた。その彼は、母に何か話しかける。
上手く聞き取れない。テーブル奥のソファともなると、流石に会話はここまで届いては来ないのだ。
ちょっとした会話のあと、母は父を揺すぶって起こした。眠たそうな目を擦って父は起床する。それからまた少しの会話があって、彼らはだんだんとこちらに近付いてきた。バレるか、と一瞬不安になったが、どうやらテーブルが目的だったようだ。
3人はテーブルの椅子に座る。すぐに、隼翼さんが口を開いた。今度はちゃんと声が聞こえる。
「......今日、ここに来たのは」
突然のような話し始めだが、恐らくその前にいくつかやり取りがあったのだろう。母の不安そうな表情からもそれが見てとれた。
「彗星のことなんだけど......」
隼翼さんは両手を顔の前で手を組んでいた。何かを言いにくそうな様子。
『スイセイ』とは何のことだろう。『水星』? それとも、『水性』だろうか。何にせよ、かなり重大な話であることは間違いなさそうだった。重苦しい雰囲気がそれを物語る。
「......能力者が現れ始めたんだ」
「......!?」
隼翼さんの言葉に、両親はもう既にとても驚いた様子だった。まるで、死んでいたと思っていた生き別れの家族が実は生きていた、みたいに。
父が立ち上がる。
「能力者って......ワクチンは?」
「それが......ちゃんと、世界中に行き渡ってるはずなんだ」
「じゃあ何で......!」
焦りはびりびりと扉越しに伝わってきた。母も呆然を戸惑いの色に変えている。
「......分からない。けど......もうしばらくは会えそうにない......かな」
「......」
嘲笑気味にそう言った隼翼さん。父も母も黙りこんでいた。何か言い返そうとはするものの、結局父は怯んだように椅子に着席することしかできない。
「......やっと、また会えたのに」
「......たまになら会えるさ」
「そんなこと言って、今日までだって......!」
「有宇くん」
母が父のことを『お父さん』以外の呼び方をするのを、私は久々に聞いた。最近は、もう殆どが家族としての立場を表現する形式的な呼び方だった。母は宥めるように続ける。
「仕方ないですよ......。私たちのわがままでどうにかできる問題じゃありません」
「......っ!」
父は何も言い返さなかった。言い返せなかったと言った方が正しいかも知れない。
「......勿論、気付いてるのは俺だけじゃない。30年前の敵対勢力だって、もうそのことに気付いているかも知れない」
何やら、超天文学的な数字が出てきた。30年も30万光年も、たった漢字2文字の違いだ。単位が違うとしても。
それに、『敵対勢力』と彼は言った。漢字変換はこれで合っているはず。聞くからに物騒だ。
そして、何よりも私が気になったのは──『能力者』の3文字。彼らは何の話をしているのだろうか。聞いただけではとても分からない。分かりはしないが、彼らはそんな非日常的な言葉を飽くまで真剣な口調で吐き出していく。その光景が、私には不思議で。
必死に耳を傾け続ける。
「だから......有宇、奈緒ちゃんと歩未、そして未来ちゃんを頼んだぞ」
「......」
父は答えない。まだ、現実を受け入れられなかったのだ。事情を知らない私にはそんなことは当然、分かり得なかったが──。
どうしてだろう。
私は、訳も分からない彼らのやり取りに、明らかな......興味を抱いてしまった。
たった一時の、ちょっとした偶然。
そしてそれが、全ての始まりだった。
翌朝目覚めると、隼翼さんはいなくなっていた。夜遅くにタクシーで帰ったらしい。彼が帰る場所とは一体どこなのだろう。
何にせよ、彼とはもうしばらくは会えないことになる。何故なのかは分からない。ただ、その事実を前夜、私は知ってしまった。それだけ。
結局、あれは何だったのだろう。一睡のうちの、ちょっと現実感のある夢だったんじゃないか、とすら思えるような、不思議な空間だった。父と母も、別段いつも通りだ。酔っぱらいの戯言......ではないよな、流石に。
第一、母は高校時代に一度ベロンベロンに酔っぱらって以来、お酒に結構な抵抗を抱いているそうで。昨日だって彼女は一口も酒を飲んではいなかった。未成年飲酒、ダメ、ゼッタイ。
何はともあれ。
私は、昨晩見たことを気にしないことにした。それがいい。知り過ぎてはいけないこともこの世には沢山あろう。
とは言え。
気にしないとは言え、やっぱり気になる気持ちがある。それも仕方ないことだった。だって、もしかしたら昨日自分が聞いてしまったことは、あまり語られなかった両親の学生時代にも繋がっているのではないか。そんな風に考えてしまうから。
自らで自らを制止する気持ちのせいで、カリギュラ効果のように私の興味は増していってしまう。
どうやったら止められたのだろう。
端からそういう運命だったのだろうか。
私は──。
間もなく、隼翼さんと再会することになる。
簡潔に言ってしまえば──私は能力に目覚めた。いつ、と尋ねられれば、恐らくだが彼がうちを訪ねたその晩には既に兆候はあったのだろう。能力は、あるとき急に発現するものではない。だいたい1週間かけて、徐々に完全なものへと変遷を遂げていくのだ。
では、何故、私がそんなことを知っているのか。......それだって簡単だ。私はその日、隼翼さんにそれらのことを全て知らされた。
彼が直接私のところに来たのは、当時まだ星ノ海学園に生徒会がなかったから、というだけではない。
私の能力が、特殊だったからだ。
彼は、私にこう告げた。
「世界には、能力者と呼ばれる特殊な力を持った人間がいるんだ」
始めは何の冗談かと思った。何かのドッキリなのではないかと。......けれど、たぶん私は他の人間に比べれば、それを容易く受け入れただろう。
あの夜、あんな話を聞いてしまっていたから。
大事なのは、その後だった。
先にも言ったが、私の能力は特殊だった。
名は『引力』。この名を聞くと、後に出来る生徒会に入ることになる白柳雪さんと同じようなものに感じられるかも知れないが、実際は彼女のそれとは全く別のものだった。
その能力の詳細。それはただ単に物を引き寄せるというものではなく、しかも自分の意思で操ることができるわけでもなければ、この能力のおかげで恩恵を受ける人間など誰1人いないようなもの。
端的に言ってしまえば。
それは、『C粒子を引き寄せる』というものだった。
しかも、とある条件付きで。
「C粒子?」
聞き慣れない名前に、私はその名を反復して聞き返した。
「ああ、それが能力の原因になる粒子。堤内先生という方が発見した」
聞くところによると、その堤内先生という人は特殊能力研究の第一人者──と言っても公にはされていないが──で、隼翼さんの恩人でもあるらしい。彼は、堤内先生の後を継ぐ形で能力の研究を進めているとか。
「その......C粒子? を引き寄せるっていうのは、どういうことなんですか?」
いまいち、それがどういう能力なのか分からなかった。そして、隼翼さんも同じく、この時点ではそれが表す
「少なくとも......今と同じ高校に通うことは難しいと思う」
唐突に、私にそんなことを告げた。
正直、その時は本当に驚いたし、ショックを受けた。彼によると、それは能力に関するとある『説』のせいらしい。
C粒子は、シャーロット彗星という彗星が振り撒いている特殊な粒子であるという。シャーロット彗星と言えば、一昔前、約10年前にとある理由で話題になったとかで。
──そもそも、かの彗星の公転周期はもともと、約75年だったらしい。まるで公転周期が変化したみたいな言い方だが、事実は全くその通りだったのだ。前回彗星が地球に近付いてから今回に至るまでに、かかった年月はたった25年。
おかしな話だが、だからこそその彗星は注目されたわけで。
それが、隼翼さんの言う『説』とどう関係するのか、と言うと。
「欲望と......濃度、ですか?」
簡単に言ってしまえば、特殊能力の強力さ、完全さは能力者自身が抱いた欲望と、その能力者に宿ったC粒子の濃度......量によって変化するのではないか、というもの。
75年周期だった彗星が25年で1周を進むためには、少なくとも彗星の進む距離が変化しないのなら、進む速度が増加していないと計算が合わない。そして、現在の彗星と地球との距離からも、彗星の速度は明らかに速まっていることが分かったとのことだ。
「......以前よりも高速で大気圏を掠めた彗星は、その膨大なエネルギーをもって、それまでを遥かに上回る量の粒子を振り撒いたんだ」
そして今回の周期では、前回の周期のときよりも個々の能力が強力になっていたとか。
この2つは、偶然重なったのだろうか。
隼翼さんは、これらを結び付けて考えた。
シンプルな発想だし、しかも直感的にも正しそうな今説は最も支持を得ているらしい。
そのことと、私が高校に通えないらしいことの理由との関係性は、少し考えれば分かるようなものだった。
「能力者が能力を発現してしまったが最後、その能力は変化しない。......一度粒子の量が安定してしまえば、それ以上脳内には粒子は入ろうとしないんだ。まるで、そこに隙間がないのを分かっているみたいにね」
おかしな言い方だが、これもまた本当の事実らしい。そしてその事実はつまり、裏を返せば。
「能力が安定......確定するまでは、脳内に侵入できる粒子の量は不確定なんだ。要は、限界が設定されていない」
聞けば聞く程不思議だった。C粒子はごくごく微細、その小ささは電子やクォークなんかも遥かに凌駕するもので、全く未知の粒子なんだとか。隼翼さんに協力している一介の物理学者ですら、その正体については見当もつかないらしい。
いや、それも当然かも知れない。よく考えたら、脳に粒子が侵入したぐらいで火を操れるようになったり、物質を全て金に変えられるようになるなんて変な話だ。それらのことは、物理法則では到底説明できない域にまで達してしまっている。
「それで、私に......」
「......うん。粒子がどんな経路で脳内に到達するのかは分かっていないけど、粒子が多い地域には能力者が多い、ってことも分かってるんだ。......
今回の周期で能力を発症する人間の数が増えたのも、単純にそのせいだと言われている。
私は自分の体に、地球上を浮遊しているC粒子を引き寄せてしまう。しかし能力は確定しているのでその粒子が私自身の体に入ることはなく──。
「周りの人間が能力者になってしまう可能性がある、と」
彼は、その可能性は極めて高いと言った。
だから私は間もなく、能力者と大人以外がいない場所に間もなく隔離させられることになる。そんな施設が京都にあった。
白柳第三特殊科学研究所。
表向きには、京都の中高一貫校に通う、ということになっている。父と母が思いの外あっさりと承諾したのは、隼翼さんが既に説得していたからだろう。私のことを一番に考えてくれる両親だ。私の安全のため、とでも言えばもう何も言い返せないような。
彼らがどんな葛藤をしたかは知らない。
約2年の間、私は彼らに会っていない。
彼らが私を忘れてしまうということを、彼らは知らないのだ。
実に1週間後のこと。隼翼さんに入った1本の電話が、私に降りかかる悲劇の始まりを極めて漫然と告げたのだった。
私の父の妹であり、隼翼さんの妹でもある歩未さん。彼女は天文学者として、宇宙にまつわる色々様々を研究しているらしい。そんな歩未さんが兄である隼翼さんに電話を入れた。
彼女はどうやら、とある天体の奇妙な動きを観測したらしい。
それは、彼女自身にもちょっとした馴染みのある天体だそうで。
それこそが、私たちのよく知るシャーロット彗星だった。
聞いたところによると、彼女は『シャーロット彗星が、
ただしその原動力については、高速化したときとは全くわけが違うらしいが。
物理計算により、その『一点』が地球のある場所である、ということも分かり、勘の良い隼翼さんは、その原因にすぐ閃いたという。見当がついてしまった。
それが──私の能力。
C粒子を引き寄せる能力。
そもそもそれ自体が、そもそもあまりにもおかしい。
1つの役割だけに特化しすぎている。
そもそも、何故そんな能力を得たのか?
隼翼さんの研究に興味を抱いたから。
結果的に、この能力のおかげで隼翼さんの研究内容を知ることはできた。
けれど。
──これでは、まるで──。
彗星の実態は、未だ殆ど掴めていないそうだ。それを形作る岩石や、それらを覆う気体も全くの謎に包まれているという。
が。
ここで、とある学説が私と彗星を結び付けた。
それは、そもそもシャーロット彗星自体が
この仮定を持ち出せば、理論上様々な疑問や彗星に関しての未解決問題に、背理法的に説明がつくという。
今回もそうだ。
私が引き寄せているのは、何も地球上のC粒子だけだとは限らない。
もし、彗星そのものを引き寄せてしまっているのだとしたら。
いつかは、彗星が進行方向を変えるときが来るということだ。
大きな質量を持った直径11キロメートルの巨体が地球に落下する。
タイムリミットは、決して長くはない。
先程、この能力に関して『条件付き』という言葉を使ったのにはわけがある。この能力は、ただC粒子を引き寄せるだけではなかった。
判明したのは後日。膨大なデータを参考に彗星の動きを観測すると、妙なことが分かった。
それは、ほんの僅かでこそあるが、彗星の速度がとある日を境に乱高下して変化していた、ということ。
その日は、私が能力のことを知ってしまった日だった。
それだけではない。
特に彗星が遅くなったのが、私が彗星すらも引き寄せていると知った日。
偶然ではない。
──私の能力は、私自身の感情に依存する──。
私は感情を抑えることにした。できるだけ、何も感じないように。そうしてみて、分かったことがあった。
最低限に感情を抑えたとしても、彗星は3年半後には地球に落下するであろう、ということ。平均的な計測では、彗星が自らの推進力を失い、私の能力によって地球に近付き始めるのが3年後。逆に、どれだけ感情が昂ったとしても2年10ヶ月のまでは完璧に安全圏であるということも分かった。
けれど、それでは足りなかった。思春期が終われば消えるこの
隼翼さんは、必ず特効薬を作る、と言ってくれた。タイムリミットは2年10ヶ月。それまでに、必ず私も世界も救う、と。
私は隼翼さんを信頼して、特効薬ができるよを待ち続けた。
何日も、何週間も──
何ヵ月も。
やがて、私はただ過ぎていく時間を、研究所の方々の能力や特効薬についての研究のちょっとした手伝いや勉強に当てながら、余りにも早い春を迎えた。
普通に暮らしていれば、中学3年生。
私は外に出ることができない。だから、私は研究者のおじさんなんかから話を聞く以外に桜が咲いていることを知ることはできなかったし、だんだんと、ここは本当は日本ではないんじゃないかとすら思うようになってきた。
それぐらいに、私の生きる世界は狭かった。
けれど、そんな私でも知っていることはある。
能力を悪用しようとする科学者の存在。
そして、『シャーロット彗星、接近か』などというオカルト情報が界隈で噂され、ネットニュースにもなっているが誰も見向きはしないこと。
隼翼さんは、とても必死になってくれている。それはとてもありがたいことだった。
けれど。
多分、もう無理だろう。
私はそう悟り、覚悟を決めた。
いや、違うな。
空白の期間の中で、私はずっと覚悟を育て続けていたんだ。
いつかは、そうならなければならなかったから。
深夜、私は寝る間も惜しんで粒子の研究を続けている隼翼さんに声をかけた。少し前の彼の話によると、ワクチンと特効薬では規格が全然違うらしい。もともと堤内博士が作ったワクチンは、粒子の作用を弱めるとかではなく、そもそも脳内の粒子が入り込めるスペースを塞いでしまう、というものだった。
しかし、一度脳と同化してしまった粒子にはその方法は適用できない。粒子は脳内で安定すると、肉眼ではとても見えないごく小さな臓器のようなものを形成するからだ。
彼は苦悩していた。
あらゆる試行錯誤を重ねて、今に至る。
結局、特効薬なんて出来はしなかった。
これから出来るとも思えない。
「隼翼さん」
盲目だというのに、よくここまで器用に指示ができるものだ。隼翼さんの事実上の部下にあたる研究者たちは、彼の指示によって研究を進めていた。
......彼は気付かない。考え事でもしているのか。
「隼翼さん」
「......ん?......その声は未来ちゃん? どうしたんだい、こんな夜遅くに」
声だけで個人個人を判別できるのも凄いと思う。彼は研究者全員を声で覚えているようだ。
「ちょっといいですか? お話が......」
人のいない狭い空間で、互いに座ることもなく私は単刀直入に話を切り出した。
「......能力者が死んだら、能力は消えますか?」
「......え?」
相変わらず察しだけは良い隼翼さんは、その一言だけで私が何を言おうとしているのか理解したようだった。声には既に動揺の色がある。
「その反応は、肯定ということで良いんですね?」
「駄目だ未来ちゃん。大丈夫、俺がちゃんと助けるから......!」
「今まで何の成果も得られなかったのに?」
「っ......!」
こんな言い方しかできないのは、きっと私自身の不安の現れだろう。いけないな。感情は抑えなければ。
「隼翼さん、私はこの能力を、使命だとすら感じているんです」
「何を......」
「私が、日本の科学者を撲滅します」
私の言葉に彼は、暗い瞳で狼狽する。
「科学者を撲滅? そんなことできるわけ......」
「私は、能力者と大人以外の人間にはコンタクトできません。でもそれは同時に、能力者と関わることはできる、ということでもあります」
飽くまで、淡々と。
「私は能力者たちと協力して科学者を撲滅しようと思います」
それでも、私の意志は震えていた。何故だろうか。こうして強気でいなければ、これらの言葉を自ら撤回してしまいそうで。
「待ってくれ、未来ちゃん」
隼翼さんは狼狽を隠しきれない。流石に仕方ないのかも知れない。
「本気か......?」
隼翼さんの口調が、いつもの私に対する親しみやすいものではなくなる。こんな変幻自在なマスクを持っているからこそ、彼は人望が厚いのだろう。
「私は本気です」
「大きな危険が伴うぞ」
「これは能力者としか生きられない私が唯一できることなんです。止めないで下さい」
まだ、隼翼さんは私を認めようとはしない。
「君に何かあったら、君の母さんと父さんに顔向けできない!」
「......本当に、いい両親です」
「君が危険を冒す必要はない!」
いつでも私を庇ってくれた。私を救おうとしてくれた。隼翼さんは、私の恩人だ。本当に感謝している。それは今でも変わらないことだ。
けれど。
今、ここで彼を突き放さなければ、きっと私はもう何もできないだろう。
そんな確信があったから。
「隼翼さん一人じゃ......科学者を止められない。あなた目が見えないじゃないですか......! 私の顔を見て下さいよ! 私の心を見て下さい! 残り2年で死ぬかもしれないんです! これは......私に唯一できることなんですよ!」
「っ......!」
彼は何も言い返せなかった。私は本当に、恩知らずな最低の人間だ。
それでも、私はやらなければならなかった。恩知らずでも、彼に恩を返したい。彼の助けになりたかった。
最後に彼に胸を張ってお別れできるように。
隼翼さんは、私にとってとても大切な人だったから。
それから私はまず、能力者を集めることから始めた。それには当然、犠牲が伴う。時には人として大切なものを捨ててでも敢行しなければならないことがあった。
始めに仲間にした記憶改竄の能力者──
解錠の晴山くんもそうだった。私は彼らの罪を見逃す代わりに彼らを仲間にし、彼らの能力を使って更に仲間を増やした。
琴羽の母には悪いことをしたと思っている。彼女の友達にも。
ただ、そこに私の従姉妹の茜ちゃんが入っていたことは、完全に想定外だったが。
しかし、そこまでのことをしなければならないぐらい、彼女の能力『未来確定』は、私たちの目的のために必要不可欠だったのだ。
事情を話すと、正義感の強い彼女は何の疑いも持たずに了承してくれた。自分の普通の青春を捨ててまで。
本当に、彼女は人が好すぎるのだ。
それから、能力検地、能力解析、テレポートに様々な攻撃的能力や催眠能力を持つ協力者を大勢集めた私は、日本の科学者を討ち滅ぼす活動を本格的に開始した。拠点となる場所は、以前、隼翼さんがたまに使っていた星ノ海学園併設マンションの地下施設。
隼翼さんは私が協力者集めを始めた頃に白柳第一特殊科学研究所に移り、研究者のトップとして、私は名目上科学者のトップとして、各々の目的を果たすため表世界から姿を消した。
そこからはあっという間だった。
日本の科学者や能力を濫用する組織は数える程しかなく、1年半もあればその全てを撃滅することは造作なかった。本当は、日本だけではなく全世界で能力を悪用する人間を根絶やしにしたかったが、生憎時間がない。私にできることは本当にそれぐらいで、能力者個人に関しては星ノ海学園の生徒会の協力を仰ぐことにした。
私の母方の叔父さん......一希さんの経緯もあり、隼翼さんは自らの監視下にある生徒会が茜ちゃんにとって最も安全だと考えた。もしかしたら、一希さんにはそのことを説明していないのかも知れない。
しかしながら、やるべきことはやった。隼翼さんも科学者がいなくなったことによって日本の情勢が安定したため、研究に費やすことのできる時間は増えたようだ。
「──けれど結局、特効薬は作られなかった」
「っ......」
琴羽は、先程未来が巧と雪に向けて話したことをそっくりそのまま夕輝たちに伝えた。
「じゃあ、あの日琴羽があそこにいたのは」
「......うん。私の役目は、『未来確定』能力で未来を視て......ううん、実際は無限にある未来の可能性をそのうちの最も可能性が高いものに絞ってしまうことで、将来の安全性を確認すること。......万が一、例の男たちに私たちが気付かなかった仲間がいた場合に、すぐに対処できるように、ね」
走りながら、彼女は自分の能力についてを説明した。彼女の口調は知的には感じられないが、茜が知っている琴羽よりもどこか大人らしさが感じられた。夕輝はやっと言葉を発する。
「未来さんが死ぬってのは......彗星が地球に衝突するのを防ぐために、自ら命を絶って能力自体を消滅させる、ってことか......」
「......」
そんなことが、本当にあっていいのか? 神様はなんて気まぐれなんだ。夕輝はそう思いながら、この長い通路を琴羽に続いて走った。
もうすぐ、あの部屋に辿り着く。科学者のボスとしての未来と邂逅した部屋。
「本当はまだ、彗星が進行方向を変えるまでに猶予はあるのに......未来はそれじゃ不十分だと考えてるの」
要は、念には念を、ということだ。
「それで、今日......」
一体、どれだけの覚悟を持って決断したのだろうか。
「まさか、未来が......」
彼女の従姉妹である茜は、その事実に暗澹とした表情をただ貫いていた。未だ、琴羽の言葉が信じられなかったから。つい昨日まで、彼女──乙坂未来は当たり前に京都で高校生活を続けているものだと思って、彼女のことを気にも留めなかった。
隼翼のこともそうだ。茜は一度も彼の名字を聞いたことがなかったし、まさか彼がそう遠くもない親族であるなんてことは信じられなかった。
本当に、何も知らなかった。
蓋を開けてみればこれだ。
「......そんなの、駄目です。嫌です」
茜はそう溢す。彼女の偽らない感情だった。未来が死ぬことで人類が救われるなんて、何の冗談なのか。全く笑えない。
「......まだ、諦めちゃ駄目です」
日本語を覚えたばかりの外国人のような言葉だが、その声が僅かに震えているのも彼女の感情を綺麗に物語っていた。
「......うん」
琴羽が答えたのと、夕輝が答えたのは同時だった。そろそろ息が切れてきた。まして、一度3階まで走ってきた琴羽は夕輝や茜の比ではなかっただろう。
未来のいる場所は、もう目前だった。
琴羽は次々とロックを解除していく。.....あと少し。
あと、少しだけ。
とうとう最後の扉。重たそうな扉だ。鋼鉄のボディが夕輝たちを寄せ付けまいとしているようにすら見えた。
その扉を、琴羽は4桁の暗証番号で解錠した。
昨日、彼女が開けたときにはその番号を何となくしか見ることができなかった。
別に悪意はない。
今度ははっきりと見えた。
彼女が、その番号を入力する。
──0511、と。
扉が開く。
「未来!」
琴羽が彼女の名を呼ぶ。そこには、何人もの未来の協力者たちと、巧と雪がいた。
未来はいない。
「夕輝、茜......」
巧はこちらに気付くとすぐに、間の抜けた声を漏らすように吐き出した。
「......」
巧はどこから話せば良いのか分かっておらず、口をぱくぱくさせていた。
「俺たちには、どうしようもなくて......あいつは」
「話は琴羽さんに聞いた。それより、未来さんは」
辺りを見回す。どこかを見渡しても、未来の姿は見えなかった。
「未来さんは......」
雪が後ろ暗そうに言うので、一瞬本気で肝を冷やした。
「今は、あそこに......」
続いた言葉を聞くと同時に、琴羽は雪が指し示した方に走った。かなり必死だ。それもそうだろう。もしかしたら、既に決行していたっておかしくはない。夕輝と茜も続いた。
廊下を進んだそこには、あまりにも広い空間。そして、いくつもの小さな扉があった。
そのうちのひとつ。
「未来! 未来! そこにいるの?」
寡黙な扉を琴羽は何度も叩く。叫ぶ。ドアノブを捻るが開きはしない。
「......未来! 未来、いるんでしょ? 返事して......!」
──返事は、返ってこない。琴羽は、何度も彼女の名を呼び続ける。
巧と雪が遅れてやってきた。晴山という男子を筆頭にした未来の協力者。それだけではない。オペレーターたちも、殆ど全員。
「未来!......未来! ねえ、返事して!」
しかし、返事は返ってこなかった。
そうなれば、考えられることはたったひとつ。
まさか──。
「未来......?」
だんだんと、その声量を失っていく琴羽。
彼女自身の血で汚れた彼女の指。
汗と、焦燥。
そして、絶望。
それらが相まって、間もなく琴羽は膝から崩れた。
──しかし。
夕輝はこの状況の、おかしな点に気付いていた。だから、琴羽が絶望の表情を浮かべたところで代わって前に出た。
「......未来さん。いるんですよね?」
飽くまで、それが当然であるように。
「もし死んでるなら......何で、鍵なんてかけてるんですか?」
その言葉に、一同は夕輝を振り見た。
夕輝の言っていることはもっともだった。
「そこにいるんですよね。出てきて下さい」
扉の奥にいるはずの彼女に言う。返事は返ってこないが、そこにいるのは間違いないだろう。話に聞いたような強かで賢しい人間ならば、最後の最後でそんなミスをすることはないだろう。
恐らく、彼女はまだ。
「......あなたは、死にたくないんだ」
「......!」
扉の向こう側。自分のために用意された、手動の鍵のかかった部屋で、彼女はうずくまっていた。彼女以外の誰も立ち寄らない場所。
彼女は夕輝の言葉を認めてはならなかった。そうであってはいけなかった。余計な感情を持ってはいけなかった。
早く、死ななければならなかった。
そうでないと、自分のために周りも巻き込むことになるから。
ここで死ななくとも、どうせ早くて3ヶ月後には地球規模の人間を巻き込んで死ぬのだから。
全て、分かっているはず。
なのに──。
「......違いますよ」
「え?」
中から声が聞こえたが、安堵はしていられなかった。彼女の口調は冷静だ。
「私は......選んだだけです」
優しく、そしてあまりにも脆くて薄弱とした声は、すぐ目の前から。そして原始的な鍵の開く音がする。
「未来......!」
琴羽は彼女の琥珀を見て幾分か落ち着きはしたようだったが、依然彼女の危うさが変わるわけではない。その銀の髪の一本一本がか細く空気を揺らしているのが、幻想的で今にも彼女は消えてしまいそうだった。
「私は、初めからこうなる運命だったんですよ。だから、良いんです、これで」
未来は、あらゆる感情を忘れたような顔をしている。けれど、その表情の裏にはいくつもの想いがごちゃ混ぜになっているような気がしてならなかった。
「......そんなの......!」
「夕輝」
言おうとしたところで、夕輝を遮ったのは巧だった。斜め後ろの彼を振り返る。
「......もう、やめろよ......。これ以上、どうするって言うんだ」
「っ......?」
諦め以外の何も感じられない巧の表情。それが不思議で仕方なかった。始めに彼が諦めるとは思っていなかったのだ。
「何で、そんなこと言うんだよ......。なあ巧、俺たちは今までだって、『悲しむ人がいる』って言って勝手な奴らを止めてきたじゃないかよ......! なのに、未来さんは別問題だって言うのか......?」
「その点においては問題ありません」
と声が聞こえた。未来のものだ。恐る恐る彼女をもう一度振り向く。全員の視線が彼女に集中した。
「私に関わった全ての人間の記憶は、記憶消去の能力者に消してもらいます。勿論、家族や親戚だけでなく、琴羽たちのものも。私に関する情報も皆の能力があれば完全に抹消することができます」
「え......?」
流石にこれには驚きを隠せなかった夕輝。彼女はこの明るい場所で、まるで世間話をするかのような話し方をするが。
未来に関する情報を世界から抹消する。
それはつまり、琴羽だけでなく、ここにいる全員、そして彼女の両親までも、彼女を完全に忘却するということになる。
言葉が出ない。
「......そんなの駄目ですよ!」
夕輝に代わって言葉を連ねるのは茜。
「そんな......そんな方法で、『悲しむ人がいない』なんて......そんなの詭弁じゃないですか!」
必死さの伝わる声。時間の進みが遅くなったように、茜の唇の動きがよく見えた。彼女の声は空気を伝わり、夕輝たちの肌を震わせる。
「......大丈夫。そんな感情も、やがて全て忘れるんだから」
「そんなこと......!」
茜は、自分の言い分が未来に伝わらないことに沸々と憤りを感じてしまう自分に気付く。
いや、本当は未来自身、分かっていた。茜の言っている意味を解していたのだ。
言葉に詰まる茜。何とか振り絞る。
「......そもそも、何で諦めるんですか......。まだ、方法がないと決まったわけじゃないのに」
自分で言っていて自分が虚しい。こんなことを言ったところで何が返ってくるかなど、茜が予測できないわけはない。
「......方法は、探したよ。沢山。2年間かけて、色々な方法を考えた。隼翼さんが特効薬を完成させるのも待った。......けど、無理だったんだよ。たったあと1ヶ月で何ができるの?」
「っ......それは」
彼女の言い分は、何より論理的で間違いがなかった。2年でどうしようもなかったことに、1ヶ月ではそれこそ手の施しようがない。それを分かっているから隼翼もやむなく未来の選択を承知したのだ。まして、茜の発言には何の具体性も現実性も伴っていない。
「私は諦めたわけじゃない。選んだだけ。どうせ駄目なら......私ひとりで、全てを終わらせた方が良い」
「......っ!」
そんな理論は間違っているはずなのだ。にもかかわらず、茜は何も言い返せなかった。自分の主張はあまりにも弱かったのだ。
彼女は覚悟を持っている。それに対して、自分は──。
「じゃあ皆、さようならだね」
一片の笑顔すらも見せずに、彼女はそう言って、懐から何かを取り出した。
見ただけではそれが何なのかは分からないが、状況から判断すれば案外簡単だ。
それは小さな服薬用のカプセルがたったひと粒、大事そうに容れてある、親指の長さくらいの瓶だった。
「皆はもう行って。私の
彼女は踵を返す。この瞬間、未来の中で決心がついてしまったのだろう。先程、部屋に鍵をかけていたときとは全く逆の感情。
言葉にすることで、自分を偽ってしまえた。
では、真実をねじ曲げることと、改竄された真実を元通りにすることでは、どちらの方が簡単なのか。
答えは分からない。
けれど。
「『選んだだけ』......。はっ、結局は、ただの諦めじゃないか」
夕輝は、一度閉じてしまった口を開いた。
できるだけ、挑発的に。わざとらしい独り言のように。そうでなければ、彼女にまた圧倒されてしまう。
額からは汗。夕輝自身、不安でしかなかったが、少なくともこのときは未来を止めることに成した。
未来は再度、こちらを振り向いたのだ。
「......どういう意味です?」
安い挑発ではあるが、未来は乗ってきた。それは、彼女が短気だからではない。
夕輝はこのとき、確実に自分が優位に立ったということを確信した。
「......あなたの本心は、そんな薄っぺらいものじゃないはずです」
「この期に及んで何ですか?」
不審そうな、訝しげな眼光は恐らく彼女の本心ではない。取り繕った彼女の偽の心によるものだ。
夕輝は意を決して、彼女に近付く。
「......?」
そして瞬時に、背中側に仰け反った彼女の手元にある小瓶を目にも止まらぬ速さで引ったくる。
「っ! 何を」
「あなたは」
彼女の顔にそれを思いきり近付ける。
「ほんとは死ぬのが怖いんですよね?」
「......!」
見下すように彼女を威圧する。未来は若干怯んで、言った。
「っ......何を言い出すかと思えば、不思議なことを言うんですね」
「そうやって冷静気取ってれば、怖くなくなるとでも思ってたんですか? 馬鹿げてる」
「ち......違う! 私は、死ぬのを恐れてなんていない!」
不意を突かれて動転したのだろう、夕輝に対しても平語を用い、かなり言葉がつっかえている。焦りがはっきりと見える。
彼女に呼応するように、夕輝も敬語をやめる。
「なあ、乙坂未来。自分にも他人にも嘘をついて、独りで死んで、皆に忘れられて......誰もあなたがいたことを覚えていない。......そんな人生でいいのか?」
真剣な瞳で彼女を見つめ、圧倒する。そこには夕輝自身の、出会って間もない未来のことを想う気持ちが確かにあった。
いくらなんでも、酷過ぎる。
「俺だったら......ごめんだ」
けれど、決して感情的にはならない。もう、感情的にはなり得ないのだ。斉藤の、あるいは巧のときと違い、夕輝はもう、ずっとうやむやにして見て見ぬふりをしていた壁を乗り越えたのだから。
だから、こんな鎌をかけてみた。
「そんなことになるぐらいだったら、俺は周りを巻き込んで死んだ方がましだ」
勿論、本心ではない。実際にその立場に立ったわけではないから、そうなったとして自分が何を選ぶかなど、分かるよしもない。もしかしたら、未来と同じ道を選んでいたかも知れない。
未来の言葉はこうだった。
「私は......私は、皆を巻き添えにして死ぬ方が怖い!......孤独に死ぬことの何倍も......!」
夕輝は大きくため息をつく。何より、ほっとしたから。安堵の色が一番濃かった。
今、彼女がやっと自分の本心を語ってくれたから。
「......やっぱり怖いんじゃないか」
「......っ!」
間違いのない話。彼女は死を、孤独を恐れていた。恐怖していたから、今の今まで死ぬことができなかった。
「違う......! 違う!」
一度本心を覗かせてしまった彼女の偽の言葉に、最早、何の効力も残ってはいなかった。
「まだ、諦めるには早過ぎる」
「分かったようなことを言わないで!」
瞬間、びりびりと空間が震えた。未来の叫びだ。空気が凍てつく。
「何をやっても無駄だって言ったでしょ! 手は尽くした! やれるだけのことはやった!......たった1ヶ月でできることなんて、何もない! 希望的観測は裏切られるだけ......!」
茜は、ああ、未来らしいな、と思った。親同士の血が繋がっているからか、茜自身、彼女に自分を重ねるところがあった。
ただし、茜と異なる面もある。
──こんなに思い詰めているのに、未来は涙も流さない──。
一体、どれだけの間辛い思いをし続けてきたのだろう。
「無駄なんかじゃない......。足掻くことは、無駄じゃない。皆、あなたを救いたいんだ。あなたに、救われてほしい」
「......っ!」
どうせ中途半端なら、一度折れてしまえばいい。彼女はもっと、自分の気持ちに向き合うべきなのだ。
「じゃあ......どうするって言うの? あなたたちに何ができるの!? 隼翼さんと私にもどうしようもないことを、あなたたちにどうにかできるわけがない!」
「それでも!」
夕輝は、彼女の言葉を真っ向から否定するために叫んだ。その効果はあり、未来は牙を剥きながらも少しの怯みを見せた。
「それでも、諦めちゃ......駄目だ」
トロッコ問題。5人を助けるために、1人を犠牲にできるか。
答えは人それぞれだが、客観的には『正解はない』だろう。義務論に基づくか、はたまた功利主義に基づくか。それによっても解答は全く違う。
けれど、少なくとも多数派は『できる』と答えるだろう。
まして今現在、1人は5人に含まれてしまっている。答えは出てしまっているのかも知れない。
それでも。
「希望的観測でも、結果が同じだとしても、可能性があるんだよ......。諦めちゃ駄目だ」
夕輝はその勢いのまま、はっきりと問う。
「俺はあなたの義務なんか聞いちゃいない。まして、あなたの意思に背くことなんて言語道断だ。......
「......!」
障害など、関係ない。最後まで諦めないことが大事なんだ。琴羽が言っていた通り、まだ猶予はあるのだから。
「私は......」
未来は俯く。下唇を噛んでいる。彼女の中には、沢山の葛藤があった。そしてそれは、今だけではないはずだ。
そして。
「私は......っ!」
刹那、何かを決断したかのようなそんな表情で未来が顔を上げた──。
その瞬間。
──っ?
それは、一瞬の出来事だった。未来の後ろに誰かが回り、彼女の首元に手を回す。身長の高い男。しかし若そうだ。17歳ぐらい。
「ん──っ!」
眼鏡の男は、左手で未来の口を塞ぎ、右手には──ナイフを握って未来の首に手首を当てている。
悲しそうな表情。
嬉しそうな表情。
何も感じていないような表情。
「......葛島、くん......?」
その光景に驚くよりも、焦るよりもただ愕然とすることしかできない琴羽は彼の名を呟いた。
対して、突然の出来事に声も出ないのが未来。目を見開き、硬直している。
何が起こっているのか全く分からなかった。特に、生徒会の4人は。雪は口を両手で抑え、巧の顎は顔と完全に離れてしまっている。
夕輝もその瞬間は、今目の当たりにしていることに呆気に取られ尽くした。
葛島と呼ばれた男は口を開く。
「......未来さん。あなたの行動力は素晴らしかった。私はあなたを尊敬していました。......ですが、あなたには決断力が足りなかったようだ」
間もなく、その男の正体にぴんときた。先程、琴羽が言っていた男だ。
葛島昌人。確か、記憶改竄の能力者。元犯罪歴を持つその男が、今まさに、未来に──手をかけようとしている。
「やめろ!」
思うより先に声が出た。
「やめて下さい!」
茜もだ。が。
「安心して下さい、楽に殺してあげますから......」
彼は止まろうとしない。もしかして、これが
「ん──っ! ん──っ!」
未来の悲痛な声が籠って聴こえる。恐怖にようやく追い付いた目だ。
彼はそのまま、彼女の首元にナイフを──。
まずい。
殆ど無意識で、夕輝は葛島に乗り移ろうとした。
が。
「......っ!?」
突然、電気が消えた。と思いきや、再び電気がつく。ただし、今度はやけに暗い。しかも、赤色の光だ。
赤の点滅。眼球が痛みを覚える程の。
それと同時に、大音量の
「何だ!?」
巧は焦った表情だ。すぐに未来を確認した夕輝。良かった、無事だ。それだけではない。葛島がナイフを落としていた。
今のうちに、未来を避難させて──。
そう思っていた夕輝だったが、すぐにそうもいかないことを確信した。
その空気感は明らかに異様だった。葛島の表情は、急な停電や赤色のランプに対する驚きではない。警告音への苛立ちでもなければ、ナイフを落としたことに対する焦りでもなかった。
一言で表せば、『絶望』。
葛島だけではない。
研究者たちが、どよめいた。
未来が葛島と同じ表情をする。
琴羽が──崩れ落ちる。
それが、何に対するものなのか。
何を意味するものなのか。
始めに口を開いたのは、未来だった。
「まさか......あり得ない」
恐々なんてものではなかった。そんな程度ではない。
「嘘......! だって、時間は......!」
彼女はあまりにあっけらかんと、事実を告げてしまった。
「
「......!?」
未来の悲鳴のような声が鼓膜を振動させ、続いて心臓を高く鼓動させ、けれど脳には届かなかった。
理解が及ばない。
彗星。猶予。地球。3ヶ月。近付く。
バラバラの言葉同士が、互いに繋がろうとしていない。理性が働かない。頭が痛い。世界が反転した気分だった。
「嘘......」
琴羽だ。その言葉には、未来同様絶望が感じられ、夕輝の白い頭をことごとく白で上書きしていった。
これでは、まるで。
彗星が、地球に接近し始めたみたいじゃないか。
そう思った瞬間に、それを模範解答にするためだけに脳がフル稼働を始める。途切れ途切れの言葉が繋がろうとする。止まっていた時が動き出し、浮かんで地面以外のどこかを彷徨していた体に実感と絶望が同時に流れ込んでくる。
『彗星が地球に近付くには、まだ3ヶ月以上の猶予があるはず』。それは、未来の言葉。
1ヶ月は100%の安全圏。3ヶ月で、彗星の落下を危惧するべき時期。
それが、未来たち、そして隼翼たちが導いた答えだったのだ。
それなのに──。
最後の最後で、彼らはミスを犯した。
未来の昂る感情を甘く見ていた。彼女自身も気付かないような、あまりにも大きな不安と孤独感、そして恐怖が積み重なっていたことに気付けなかった。
そして、今の一連の出来事が、最後の引き金となってしまった。
「終わりだ......」
葛島が力の抜けた腰を自然に床へと落とす。瞬きすらしない。できない。諦めと、絶望。そのたった2つが、彼を支配した。
「彗星の速度はこれから、二次関数的に増加する。あと20分もすれば」
何かを発散するように、
「シャーロット彗星が、衝突する!」
と叫ぶ。葛島の言葉は全員を震撼させた。
「......な、待てよ......嘘だろ? 何の冗談だよ。なあ、雪。......茜、夕輝......」
「......」
巧がそう思ってしまう気持ちもよく分かる。夕輝だって、そう思いたくて仕方がないのだ。けれど、これを認めなくて一体どうなる?
いや。
──認めたところで、どうなるわけでもない。
「......あんたのせいだ......」
葛島が立ち上がる。目には、怒りと焦りが見え、そのどれもが現実を放棄しながら未来に牙を剥いている。
「あんたのせいだ! あんたが死なないから! あんたが......あんたが自分勝手だったから!」
未来の胸ぐらを掴んで壁に何度も叩きつけるが、未来は痛みに声を上げたりしない。
「あんたの......あんたの!」
「やめて!」
琴羽が叫ぶと同時に葛島に突進する。その勢いで彼の手は未来の襟元から離れ、彼は転げ回る。すぐに琴羽の仲間が彼を取り押さえた。
「そんなことして未来を責めても......何の意味もないじゃない!」
「黙れ!」
5人に取り押さえられながらも馬鹿力で葛島は足掻き続ける。
「善人気取って......その人は、人類を......地球を滅亡に追いやったんだぞ!」
その言葉に、嫌になる程の現実感が一気に全員を襲う。
死。消失。滅亡。終焉。そんな単語が脳を過る。
「お前らこそ、こんな風に俺を取り押さえたところで無駄だ! 何の意味もないのはそっちの方だ!」
口調を強める。
「どうせ全員、もうすぐ死ぬんだから!」
彼はその場を圧倒的な力で制圧する。誰も言い返さない。言い返せない。
彗星の衝突。
夕輝たちの死だけではない。まして、区内や都内などでは片付かない。こうエネルギーの彗星の衝突。
それが表すのは、言葉通りの世界の終わり。
最早その事実を、誰一人ねじ曲げることはできないだろう。
神に等しい力でもなければ。
「これで......終わりなのか......?」
走馬灯でも観ているように、夕輝は今までのことを思い出した。縁起が悪すぎるだろ、と思いながらも、もう焦りすら消えてしまったように、再び体が宙に浮いていた。
未来のこと。琴羽のこと。隼翼のこと。科学者のこと。
沢山の、能力者たちのこと。
彼らを何度も止めてきたこと。
生徒会長の松山。体力がなく、いつもリーダーシップをとろうとしても失敗していた。
仲間の雪。母が大きな会社の社長で、隼翼さんの研究所にも出資をしている凄い人だが、仕事柄娘と関わる時間が取れず、雪に能力を発症させてしまった。けれど、彼女がいなければ、今まで生徒会はやって来られなかっただろう。いつしかの野球では、大活躍をしていた。
同じく巧。いつも明るく生徒会やクラスのムードメーカーだが、父が小学生の頃に事故死し、母もその事故で動けなくなったという過去を持っていた。それら全てを背負い、そんな中でも毎日、決して顔に見せることはなかった。
──なんだ、これは。
自分でも笑えてしまうような、おかしな回想。
──そう言えば、沙良はどこへ行ったんだっけ。
──春に、何を約束したんだっけ。
──茜と彼女の父に、何を誓ったんだっけ。
茜の表情を確認する。
──あれ?
また、だ。
もう二度とこんな表情はさせないと、決めたはずだったのに。
彼女は絶望の表情を浮かべていた。
最後まで、約束を果たすことはできなかった。
こんな結末で良いのか。
良いわけはないだろう。
でも、じゃあどうすればいい?
今、自分には何ができる?
何が──。
──ありがとうございます──
不意に脳裏を過ったのは、あの日の茜の言葉。
茜が涙を流した日。茜を守りたいと思った日。茜を守ると誓った日。
こんなのは──駄目だ。
何が、最後まで諦めてはいけない、だ。
それをしているのは自分だ。
自分だった。
今日、もうひとつの守るべきものに気付いたのに。
春のことも──。
「......!」
瞬間、電撃でも走るかのように夕輝はある1つの可能性に気付いた。
一か八か。まだ諦めるには早計だった。
一刻を争う。閃いたと同時に、夕輝は未来に向けて叫ぶ。
「未来さん!」
全集中が夕輝に向く。
「今すぐ、ロックを全て解除してくれ!」
「......!?」
その周囲の目は、驚きと言うよりは少年の奇行に呆れるようなものだった。が、今はそんなことはどうでもいい。
時間がない。あと15分というところだろうか。急がなければならなかった。
それに。
幸い、夕輝を信じてくれる人もいる。
「何か、考えが?」
「ああ、だから未来さん、お願いだ! 時間がないんだよ!」
夕輝を信頼して尋ねた茜に答えると同時に、未来にそう頼んだ。とにかく時間がないのだ。
「......」
未来は一瞬、躊躇したようだった。何をするつもりなのか、と尋ねようとしている風にも見えた。が、間もなく彼女は走って先程来た廊下を進んだ。夕輝も付いていく。茜が真っ先にそれを追いかけた。
ほんの十数秒。
「......ロックは開けた」
未来は、未だ自らを咎めるようにそう伝えてくれた。救うべきは、彼女もだ。そのときそう確信したから、夕輝はこう言った。
「ありがとう!」
すぐに走り出す。夕輝が琴羽と茜と共に3人で向かって来た方だ。マンションに繋がる道。
「待って下さい!」
と茜。
「待てない!」
「私も付いていきます!」
「またそれかよ......!」
「置いていかれたりはしませんから......!」
そんなやり取りはつかの間で、それ以上2人は言葉を交わさなかった。
暗い廊下をひた走る。この道のりは余りにも長かった。時間はないというのに。
夕輝は気付けば茜の手を握っていた。自分でも知らないうちに。いつからなのかは分からなかった。一体、走り始めてから何分経ったのかも。迫るタイムリミットへの不安が大きかったからかも知れない。
体温は高くなる一方だ。心臓も悲鳴を上げている。早く、速く、行かなければならない。こんなところで終わるのは、酷過ぎる。納得なんてできるはずがない。
まだ、沙良も見付けていないのに。
エレベーターを出てからはすぐだった。まだ落ちないでくれ、と無慈悲な神に祈りながら、地下の駐車場を駆け抜ける。
「......夕輝くん!」
ようやく、茜が口を開いた。
「当てはあるんですか?」
「......それは」
あると言えばある。しかし、余りにも拙い希望だ。本当に一か八か。それ以前に、間に合わないかも知れない。だから走る。
「上手くいくかは分からないけど......やってみる価値はある」
「......分かりました」
ここでの説明を乞うのは、互いに体力を消費するだけだ。何より茜は夕輝を信頼して走り続けた。
マンションの3階。その階段を更に上っていく。
7階に到着し、階段が途切れる。
「......屋上は、あっちです」
茜は聞くより先に、夕輝の求めていたその答えを教えてくれた。
7階の廊下を走り、一番奥に階段があった。鎖で繋がれ、立ち入れないようになっているが、比較的低い障害物だ。一度握った手を離して乗り越えると、茜が乗り越えたのを確認してもう一度彼女の手を握りしめる。今度はもっと強く。決して離さないように。
屋上までは階段でそれなりの距離があった。
それを、必死に上る。後ろを付く茜を時折確認して、その度に手を握る力を強めた。
茜を見失わないように。
屋上に出る。
すぐに目に入ったその光景に、思わず息を飲んだ。
余りにも──美しかったから。
「......!」
暗紫色の鱗粉が天から降り注ぐ。頭上には、鱗粉の雨を降らせている余りにも大きな紫の雲が発光していた。
名を、シャーロット彗星。
直径は約11キロメートルと聞いていたが、それは既に街の上空全体を覆い尽くしていた。もうそう遠くない。すぐに落ちてくるだろう。そんな攻撃的な彗星は、水平線の遥か先にすらあるのではないかと錯覚したが、人間の目の高さから見える水平線までの距離はおよそ5キロメートルと聞いたことがあるので、あながち間違いでもない。
世界の負の感情を全て一点に注いだらこうなるだろう、という絶望的な光景。
世界の美の集合体のような、美しい光景。
間もなく人々は死を迎える。
──それを止めるために、夕輝は来た。
やることはひとつ。
「......茜」
「......?」
夕輝は意識的に口を開く。それが夕輝の意思であることは最早間違いないだろう。
回りくどいのは嫌だった。夕輝はすぐに思ったままを言葉にする。
「俺......茜のことが好きだ」
「......え?」
このタイミングで言うようなことでは恐らくない。それは夕輝も重々承知だ。ただ、もしこれが──そうなってほしくはないが──人類最後の日なら、思いの丈は伝えておかなければならないと思った。
「......急ですね」
茜の反応は、そんな感じだった。多分これがごく日常的な告白だったならば、かなり赤くなって挙動をおかしくするだろう。今だって、その頬は赤くないわけではない。
「......俺はさ、俺は......もし茜がいなかったら、沙良のことを諦めてたかも知れない」
全ては、沙良の一件があってからだった。
「沙良がある日突然いなくなって、誰もあいつのことを覚えてなくて......。そんな状況に1人で立たされていたら、俺はそれを世界のせいにして、仕方ないと思って、岩下沙良なんて人間はいなかったんだって思い込もうとしたかも知れない」
けれど。
「でも──茜がいた。茜がずっと覚えてくれていた。全部、茜のおかげなんだ。だから......上手く言えないけど、俺は茜が好きなんだ」
他にも沢山理由があった。言いたいことも沢山あった。でも、これが今の夕輝の精一杯だった。
茜が小さな声で「──夕輝くんはそんなことしませんよ」と呟いたのは耳には入らなかったが。
少しの沈黙。今も彗星はギラギラと近付いてきていた。
茜は口を開く。
「つまり......私と、恋人同士になりたい、ということでしょうか......」
少し戸惑って、けれど平静を保ちつつ、それでもやっぱり戸惑って。そんな反応だった。
夕輝も、今になって気恥ずかしくなってしまった自分を落ち着けるつもりで端的に、
「......ああ、そうだ」
と答える。彗星はもうすぐそこ。
恋人同士、という言葉は今時には聞かない不思議な響きだった。それで、実際茜とその恋人同士になりたいのかと言えば、実はそうではなかったのかも知れない。
結局、茜がいさえすれば、何でもよかった。
けれど、彼女にとって唯一無二の特別な存在になれると言うのなら、それはやっぱりそうありたかった。
茜の特別になりたかった。
茜の右手を握る左手。瞬間、それを彼女の右手が覆った。その暖かさは皮膚を伝わり、夕輝を驚かせた。
「茜?」
「じゃあ......絶対、成功させなきゃいけませんね」
茜はここまでの間に、夕輝が何をしようとしているかに気付くに至っていた。つまり、夕輝があのとき──春のことが解決して、再び未来のもとへ向かおうとしたとき──焦りとも取れる戸惑いを見せた理由に気付いたのだ。
今の夕輝には。
「......ああ」
とだけ答える。
そして。
風神と雷神が憤慨したように、一気に全大気が震え上がった。ゴオッ、と強い風圧が2人の髪を掻き乱し、裾を靡かせる。
「......行くぞ」
「準備は?」
「バッチリだ!」
言うと、彗星に向かって右手をかざした。すると、世界の全エネルギーが収束するように、青の光が渦を巻いて夕輝の手のひらに集まってくる。
その光の渦が段々と、魚が海を泳ぐように群れをなす。まるで──そう、鰯だ。鰯のトルネード。脆弱なものたちが、寄り集まって巨大なエネルギーを生み出す。
──春から『コピー』した、『創造』能力。この能力が役に立つときが来るとは思いもよらなかった。
時系列は合っているはずだ。夕輝が知る限り、
意識を集中させる。
今度はあの頭痛はない。
迫る彗星。もう目前。殆ど距離がない。
祈るように。願うように。そして、自ら
「うおおおぉぉぉぉぉ!」
雄叫びは力となり、夕輝の全身のエネルギーが渦の中に注がれる。イメージする。あらゆる情報を繋ぎ合わせ、確かなイメージを創り上げる。
「うおおおぉぉぉぉぉ!!」
何でも吸い込んでしまう
夜の闇を、青の光が照らす。
奇跡と名前を付けるには、十分過ぎる光景。
行け──。
「うああぁぁぁぁぁっっ!」
加速する音に比例するように一気に光が八方に拡散する。情報の大爆発だ。眩しくて思わず目を瞑る。
分かる。
今、
刹那、目を開けると。
──そこにいたのは。
「むぅっ!」
青く光沢のあるゼリー状の肌。細い目。ほのかに赤い頬。丸みのある夕輝の顔と同じぐらいの大きさの体。ちょこんと立った頭のとんがり。
「......スライまる......?」
名前を──スライまると言うそのスライムは今、召喚される前の世界から帰ってきた。ぽとん、と屋上の地面に落ちる。茜はびっくりした様相だ。
「うおぉっ」
やたらと生意気そうで可愛らしい声で戸惑うスライまる。時間はないが、それはこいつも重々承知だろう。
シナリオはこうだ。あちらの世界からこちらに帰ってくるに際し、一度『神様』のようなものに出会い、こんなことを依頼される。
つまり、「戻った世界で地球に落ちようとしている彗星を吸収して世界を救ってくれ」と。
その役割を承知していたスライまるは──。
「むんっ!」
すぐに飛び上がった。あの小さな体からは想像もできない力で、上空へと。
そして。
「むぅぅぅぅ......うわあぁぁぁぁっ!」
貯めたパワーを一気に解放。スライまるは地球を一周できそうな勢いで全方位に伸びる。
巨大な彗星を覆うため。
彗星を──吸い込むために。
残り、10秒。
「むぅぅぅぅっっ!」
みるみるうちに、スライまるの体色が変化していく。青から赤へ。それはまさに、彗星の侵攻を止める信号機だ。
夕輝からはそのほんのごく一部しか見えなかったが──スライまるはシャーロット彗星を一気に覆い尽くす。
5秒。
「むぅぅぅぅぅぅぅっっ!」
大きな球が天空に浮かぶ。スライまるが彗星を飲み込もうとしている。
夕輝の言葉が届くかは分からない。ただ、叫ぼうと思ったから。
「......行っけえぇぇぇぇぇっ!」
少しずつ、沸騰したように赤が濃く変わっていく。今にも溶けてしまいそうだったが、むしろ溶けているのは──。
彗星の方。
3秒。
じりじりと、夕輝と茜に彗星が迫る。
2秒。
スライまるは最早、赤を通り越してタコ色だ。
暗紫色とタコのグラデーション。
おかしな組み合わせだ。
「......負けるな、スライまる!」
普段なら絶対に聞けない茜のそんな言葉。強く手を握る。
そして、1秒。
「むううわぁぁぁぁぁ!」
一際大きくスライまるが叫んだかと思うと、一瞬にして──視界が晴れる。
遅れて、ぽん、という音。大きな赤が一気に収縮する。
そこにはごく僅かの紫の鱗粉だけが残った。
その瞬間は、何が起こったか分からなかった。理解より先に──。
──ゴオッ。
先程の風が風神と雷神の憤慨なのだとしたら、今回は全知全能の神様か全世界を統治する神龍の無慈悲な逆鱗だ。
茜の手を離しそうになり、思わず強く引く。
「茜!」
物理法則通り。今まで彗星の大きさだけあった場所が一瞬にして真空になったのだ。
周囲の空気が物凄い勢いで流れ込む。常人なら容易に吹き飛ばされてしまう。
何だっていい、と瞬時に『創造』したのは、決して動かない檻。夕輝と茜、そしてすっかり緑色になったスライまるが入れるだれの大きさの檻を、屋上に創ってしまった。
けれど、流石に風は強過ぎた。茜を引っ張った勢いで、そのまま彼女を強く抱き締めた。
「っ......!」
何てシチュエーションだ。檻の中に閉じ込めて、茜を一方的に抱き締めている。風が吹き荒れる。髪の毛が吹き乱れる。きっと、今夕輝は酷い髪をしている。
最悪な状態。
──どうでも良かった。
「茜!」
「わっ」
もう、全部どうでも良かった。
彗星の落下を防いだ。
どころか──彗星を、消した。
夕輝は今、確かに勝ったのだ。抗いようもないはずの運命に。
「茜、やった!......やったんだ!」
「......はい」
嫌がられる程に強く抱き締める。今度はさっきのように、反射的にではない。自分の意思で、茜を抱き締めている。
驚きと嬉しさと、恥じらい。それらが彼女を硬直させていたが、やがて彼女は夕輝の背中に手を回してきた。流石にどきりとした。
彼女の背は低い。包んでおかないとどこかへ行ってしまいそうなくらいだ。
けれど、もう怖くはない。
「夕輝くん......」
耳を凝らさないと聞こえないような小さな声で、茜が名を囁く。
「......何だ?」
「私も──」
と同時に風が一際強く吹いた。彼女の声が掻き消される。けれど、夕輝はその茜の言葉を確かに受け取った。
だから、こう答える。
「うん......」
月明かりに照らされながら巻き上がる紫の鱗粉に彩られて。
ふたりの呼吸が、やがて重なる。
次回、エピローグです。