Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
天然の未です。
CDEが始まります。
アニメの再放送の方はいつの間にやら第九話へと突入してしまいましたね。それから、サマポケRBの神山識ちゃんの声優様も決まったりと我らがKeyがまだまだ勢いを失っていないことを実感しつつ信じつつ、かなりのんびりと執筆を進めておりました。申し訳ございません。
それでは早速、第一幕でございます。
ぽん、ぽん、と何かが体の上を飛び跳ねる。体が揺らされ、今までどこかに行ってしまったっきり5時間程帰ってきていなかった意識と感覚が、奴にのし掛かられた胸から順に帰省してくるのが分かる。それは深い眠りについていた脳にとってはそれは、真夜中に突然奇襲してきた敵軍隊の侵攻のようなもので、夕輝は自分では全く意識することもなく「うう......」と呻き声を漏らした。
恐る恐る目を開く。瞼は妙に動かされるのを嫌がり、それだけでも一苦労だった。それに対して鼓膜というのは従順で、脳みその覚醒と一緒に外界からの情報を受け取ることを開始してくれる。
だから、あの小学生男児のように高くどこか可愛らしさも帯びている──少なくとも人間のものではない声を認識するのはすぐだった。
「おい、夕輝! 起きろ!」
小生意気な口調。それを発している本体が今、夕輝の真上で跳躍を繰り返しているのだ。
「夕輝! おーきーろー!」
その声色から、かなりお怒りなことが分かる。その証拠に、おぼろげな視界には奴のほんのり黒くなった体が映った。恐らく何度も起こされ続けていたのだろう。
「んん......おはよう」
「おはようじゃないだろ! お前が起こせって言ったんだぞ!」
「......ごめん」
謝りはするが、殆ど無意識だ。夕輝はむくりと起き上がると今は膝の上まで移動してしまったむくんだみたいな楕円体を見据える。それから枕の隣のデジタル時計を一瞥。6時30分。
「ほら、早くリビングに来い」
スライまるはありもしない鼻から憤りを露に鼻息を立てると、すぐにリビングへと跳んでいってしまう。それがだんだん青い色に戻っていくのをぼーっと見ながら、夕輝はくしゃりと自らの髪に触れると、ゆっくりと布団から出た。
最近、急に寒くなってきたな。
12月になってからと言うもの、日に日に気温は低下しつつある。地球温暖化とは言うものの、二酸化炭素を排出し続ける人間の営みに反して冬はずっと寒い。特に今年なんて、12月とは思えない寒さだ。この調子で気温が下がり続ければ、2月には全人類が凍りつくぐらいにはなるのではないか、そう思えてしまう程だった。間氷期もそろそろ終わりだろうか。終末論の解答は案外それかも知れない。
「ふあぁ......」
そんなおかしなことを考えながら、ホットエリアから抜け出して縮こまった体を奮い立たせ廊下、そしてリビングへと歩く。
今日は大切な日なのだ。
「兄ちゃん、おはよう」
「おはよう」
春はやはりというか、夕輝より早く起きていた。カーテンに隠された外の景色はまだ暗いと言うのに、春は毎日の生活リズムを決して崩さない。我が妹ながら、と夕輝は純粋に春を尊敬する。
「ご飯出来てるよ」
寝ぼけまなこでテーブルを確認すると、今日も朝ご飯は何気ない顔をして佇んでいた。メインディッシュは相変わらず魚料理。今朝は鱈だとすぐに分かった。食卓に肉類も出すようになった春だったが、やはり魚料理が好きらしい。母の味を思い起こさせる彼女の料理は夕輝も結構好きだ。
肉類の登場以外に変わったことと言えば、今は2人暮らしではなくなったので、毎日食卓には3人分のご飯が並ぶようになったこと。あとはやはりスライまるをモチーフにしたデザートやら何やらが出なくなったことだろうか。
食卓に増えた3人目のことを思ってだそうだ。流石に自分を自分で食べるのは嫌だろう、という粋な計らい──らしい。
「いただきます」
厳密には、2人と1体。声が重なる。つまるところのスライまるは、今日も快活に春の手料理を心底満足そうに食べている。と言うか食べ終わった。
「ふー」
速いな、と突っ込むのは初回だけで飽きてしまった。スライまるは毎度、5秒とかからずに食事を終わらせてしまう。一瞬赤くなった体は緑色に変わり、スライまるはそのままぽよよんと体を机から椅子、床へと落とし、そそくさとソファーへ移した。
スライまるが夕輝の家に住むようになってからもう2ヶ月にもなる。つまり、あの大きな事件からもう2ヶ月が経過した、ということだ。あれ以来、嫌に時間が速く経過している気がしてならない。生徒会の活動は依然忙しいが、心にゆとりがあるからだろうか。
しかしながら──。
「はぁ......」
「どしたの、兄ちゃん。ため息なんてついちゃって」
春は心配そうに兄の表情を除く。
「......いや、何でもない」
と言いつつ、実際のところはそうではない。夕輝にはずっと気がかりなことがあった。それは、殆どの人間がかつては知っており、そして今は忘れてしまっていること。
──岩下沙良の存在。
沙良は未だ見付かっていない。どこを探しても、彼女は一向に現れてはくれない。
彼女が姿を消してからだと、もう3ヶ月になる。彼女はどこをほっつき歩いているのか。考えても考えても、分かることなどなかった。
ただの行方不明ならば、警察にでも相談できただろう。何より、見付からないことにもっと焦っていたはずだ。
それができないのはひとえに、それがただの行方不明などではないから。
岩下沙良はただ消失したわけではない。全世界の人々に忘れられ──夕輝たちの前から姿を消した。
たった2人、夕輝と
「ふーん?」
夕輝の返事が気に入らないのか、春は不審そうにまじまじと兄を見る。しかしそんなこともどうでも良くなるぐらいに、夕輝の寝起きの脳内には沙良のことしかなかった。
「で、今日はなんでこんなに早く起きてきたの?」
しかしその質問が夕輝の寝ぼけた頭を一気にフル回転させる。
「......えっ?」
「......日曜日なのに、こんな早く起きてきて。今日、何かあるの?」
「い、いや......別に」
誤魔化すように箸を進める。しかし春にはお見通しだったようで、今の挙動ひとつで完全に察してしまったようだった。
「もしかして、デート?」
「ぶふぉっ!」
勢いよく吹き出す。
「兄ちゃん、汚いよ」
「ご、ごめん」
「それで? デートなの?」
じっ、と春に眼光を飛ばされ、威圧感すら感じる。
「ち、違う」
慌てて取り繕うがそれは無駄だったようで、春はもう確信を得たようににやつき始めた。
「ふーん」
「何だよ」
「いや、兄ちゃんもお年頃なんだなぁって」
「違うって言ってるだろ」
「で、誰とデートするの? やっぱり茜さん?」
「ご......っ!」
こういうとき、どう反応すれば良いのか夕輝は分からない。こんな経験が今までにないからだ。夕輝はもう何も発することができずに硬直する道を選択した。もっとも、それ以外の選択肢を有していないからだが。
春は「ふーん、へぇー」とか言いながら食を進めている。何とか挽回しようと言い訳を思い付く。
「そ、そうだ。今日は生徒会が忙しいんだ」
「松山さんは能力者を見付けたらすぐに生徒会の皆さんに連絡するんでしょ? 前日から予定が入ってるなんてあり得ないよね?」
「ぐ」
あの件があったため、生徒会の意向で春は星ノ海学園の秘密やら能力のことやらを断片的に知らされることになった。それ故、こうして生徒会の仕組みまでも詳細に知るようになってしまった。結果、夕輝にとってのいつでも使える便利な言い訳が1つなくなってしまう羽目になったのだ。やはりあの判断は間違っていた。
「そっかー。兄ちゃんと茜さん、付き合ってたんだ」
「......っそれは......」
言ってしまえば、それは......やはり正しいのだろう。ただ、素直に肯定することにやはり気恥ずかしさを覚えてしまう。俺は男子中学生か、と心の中で突っ込みつつご飯を口に含む。
「そっかー」
「うるさいな」
「そっかー」
そっかー以外の言葉を忘れた春にじろじろ見られながら、夕輝は10分程かけて朝ご飯を完食した。
「行ってくるな」
「行ってらっしゃい」
「気を付けろよ! あと羽目外しすぎんなよ!」
可愛い見た目とは裏腹に、毎度スライまるはこういう可愛げのないことばかり言ってくる。精神年齢で言うといくつぐらいになるのだろうか。作中ではスライまるのもとの年齢についての表記がなかったので、夕輝の想像次第だということだろう。
扉が閉まる。天気が良い。空気はかなり冷たく、早くも耳や指先が痛い。
12月9日、午前9時半。息が冷たい空気を白く濁らせて消えるさまを見ながら、夕輝はマンションの廊下を進む。エレベーターが点検中だったため階段を下りると、既に彼女はそこにいた。
「......」
何だか気恥ずかしくて、声をかけられずに夕輝は彼女に近付く。冷えた両手を口元に当てて息を吹きかける仕草が愛らしい。彼女はすぐに夕輝の気配に気付き、その横顔をそのままこちらに向けた。
「あ......」
彼女もまた、言葉を発しなかった。
「え......っと」
少しずつ近付く。距離が縮まって立ち止まると、向かい合って顔を合わせる形になってしまった。
「......おはよう......」
「......おはようございます」
こんな空気になってしまう理由を端的に述べるとしたら、これが2人にとっての初デートであり、何なら互いに人生初のデートだったからであろう。
「......行きましょうか」
「......あ、ああ」
夕輝の左隣。友利茜は歩いていた。シャンプーのCMに抜擢されそうなくらいにさらさらで美しい髪。小動物を想起させる可愛らしい顔立ちと、夕輝とは頭1つ分くらい違う低い背。
生徒会では共に特殊能力者を守るための活動をしており、今では夕輝とはお付き合いしている仲だ。
「......初めてですね」
「え?」
「2人きりで、その......お出掛けするのは」
茜がもじもじと言うので、思わずどきりとしてしまった。気を紛らわすように、
「......でもほら、いつか水族館行ったじゃないか」
と言う。別に言わなくても良かった。
「あ、ああ、そうでしたね。うっかりしてました」
「......」
「......」
目は合わせずに2人は歩道を行く。夕輝は気恥ずかしさから来る愛想笑いと茜と歩いていることで自然に顔に浮かんでしまう少しのにやけが混ざった複雑な表情になってしまっていた。汗が凄い。
「春ちゃんは......元気ですか?」
「......ああ。そう言えば前はありがとうな」
「前?」
「春に茜のカレーの作り方教えてくれたろ」
「ああ、あれですか」
それは時間にして約1ヶ月程前のことだ。春と共に茜の家を訪問し、3人でカレーを作った。とは言っても主に夕輝はお米を炊いたり野菜を切ったりしたぐらいで、カレー作りをしていたのは女子2人だった。もともと春がカレー茜のカレーを教わる会だったのでそれで良いのだが。
「また3人で何か作りましょうね」
「そうだな」
信号が点滅したので止まる。風が吹いて体が凍えるが、今はそんなことは忘れてしまったみたいに茜の揺れる髪に幸せを感じられる。カレーの件に関する何でもないような話題の1つだったが、だいぶ緊張が解けた気がする。
「......? 夕輝くん、どうしましたか......?」
あまり髪ばかり見ていたので、茜とすぐ目が合ってしまった。茜は困ったような上目遣いで恥ずかしそうにしている。頬がほんのり赤い。
「いや、ごめん」
「何で謝るんですか」
「いや......何となく」
信号が青に切り替わる。
「映画、楽しみだな」
「......はい」
2人はまた歩き始めた。
映画の内容は、これはまた夕輝たちの知るところの世界の仕組みにとてもよく似た物語だった。
思春期の少年少女に超能力が宿るようになった世界で、ただしこちらは大人が主体で描かれている。罪のない
劇中、子供らに能力が宿るようになった原因についても紐解かれていった。それはズバリ、人間の人間による災厄。マッドサイエンティストが全世界に子供が能力を獲得するためのウイルスをばらまいた、というもの。この辺りはB級映画感の否めない設定だし少々強引だったが、それを加味しても悪くはないな、という印象。1000円を払う価値はあっただろう。
これを観たいと言い出したのは茜。得体の知れない邦画だったが、いち能力者として気になるものがあったのだろう。隣に座った彼女は完全に映画に観入っていた。
「面白かったですね」
「そうだな」
映画を見終わり、建物内の電球の眩しさをしみじみと感じながら歩いていると、突然ぐう~、と隣から間の抜けた音が聴こえた。
「......お腹すきましたね」
「......そうだな」
微苦笑しながら、茜らしいな、と思った。食に関しては厳しい......と言うより単純に人の何倍も腹ペコ傾向が強いだけだが、ここは例え初デートだろうが何だろうがぶれないのが茜だ。
「どこ行きましょうね......」
映画館から出ると、また少しの寒さがやってきた。ちょうど風が吹くため、あんなに日差しは強いと言うのに全然そんな気がしない。
「......あったかいもの食べたいですね」
「はふはふ」
茜は熱々の具を口の中で転がす。口元を手で隠して熱せられた空気を外に出している。
「火傷しないようにな」
「あいろーぶれふ」
大丈夫です、と言おうとしたのだとは分かったが、頬張りすぎているせいで新しい英単語みたいになっている。
夕輝と茜は向かい合って座っている。お座敷に座って食事をするのは、いつしかのお好み焼き屋以来で2度目だ。
「夕輝くん、ちくわ食べます?」
「え? ああ、食べるよ」
「分かりました」
茜はせっせと菜箸でちくわを夕輝の器に運ぶ。
「自分でやるよ」
「いえ、やらせて下さい」
「......」
茜は鍋奉行にでもなったようにやたらと自分で具を扱いたがる。厳密には鍋奉行ではなくおでん奉行だろうか。
おでん屋。
そんな概念が今まで夕輝の中にはなかったので、暖かいものを提供しているお店として茜がここをチョイスしたときは少しばかり感銘を受けた。
おでんは春が好きなのでよく食べるし夕輝も好きだ。数週間前に父方の祖父の家に父と行ったときも祖母の作ったおでんを食べた。あの日は父も祖父母もスライまるをぬいぐるみだと思い込んでくれたので助かったものだった。
「こんにゃくとはんぺんと......大根も入れときますね。あと、餅巾着とごぼう巻きも」
こうして観ている内に、夕輝も茜もあることに気付いた。それは、ある種おでんの主役と言っても過言ではないぐらいの大切な食材がいなかったことに他ならない。
「卵、頼んでないな」
「うっかりしてました」
「頼むか」
「ついでに何か頼みますか?」
無駄のない動きでメニューを渡してくれる。夕輝はしばらく眺める。
「牛すじ食べたいですね」
「他には?」
「......とりあえずそれで」
「卵と牛すじな」
決まると、すぐに店員を呼んでその通りに注文した。注文されるのが分かっていたかのように間もなくそれらはやって来た。統計は凄い。
「入れますね」
茜は鍋に卵と牛すじを投入していく。後から入れるのは少し不思議だな、とか思いつつそのさまを眺めていると、何だか不思議な気分になってきた。
ただ何となく、茜のことを見ていると。
「......さっきから、夕輝くんの視線を凄く感じます」
「え」
そんなことを言われてしまった。自分では完全に無自覚だったので驚く。
「いや......無意識だった」
「一番たちが悪いやつですよ」
「ごめん......」
別に謝らなくてもいいんですよ、と茜が小さな声で呟く。「でも......」
茜が箸を動かす手を止めて、視線をさ迷わせる。
「でも、恥ずかしいです」
「......」
こういうところで茜は嫌に可愛い。そのせいでおかしな空気が流れるのだが、しかしどうしたって意識してしまうものは意識してしまう。
「......」
「......」
茜が箸を器用に動かす。頬はほんのりと赤らんでいて、それが気恥ずかしく夕輝は彼女を直視できないでいた。
「......」
「......た、巧くんのお母さん、元気で安心しましたね」
「あ......そうだな」
急にそんな話題を振られる。この気まずさを解消するためだろう。
雪と共に3人で巧を訪ねたのはたった1週間前のことだ。特別、巧の母の様子や経過を観察しに行ったとかではなく、単純に友人の家を訪ねたのみだ。
やはりと言うか、話に聞いていた通り巧の母はとても気さくで明るい人だった。
何と言うか──とても、下半身麻痺でかつては動けなかったとは思えない元気さだった。
「......夕輝くん」
「ん?」
「どうしたんですか、ぼーっとしちゃって」
これもまた自分では気付いていなかったが、夕輝はあまり考え事をし過ぎて呆けていたようだ。
「何かあるなら言って下さいよ?」
茜が心配してくれるのはとてもありがたい。けれど、夕輝は現時点で何も解決できていないのだ。
「結局、何だったんだろうな」
頭の片隅で思い浮かべたのは、悲愴感を露にした能中──『治療』能力者──の顔だ。
──もう、僕の能力は......
「......そう言えば」
茜は夕輝が何を思っているのか察したのだろう。つまり、単純にあのたったひとつの出来事だけを思い返しているわけではない、ということ。
夕輝は沙良のことも思っていた。夕輝は自分の無力さに嫌気が差していた。何ひとつ解決なんてできていない。
だから、茜は話題を転換してみた。
「あのちょっと前に、皆で焼き肉屋さんに行きましたよね」
「ああ......あったな、そんなこと」
あれも確か、沙良のお疲れ会とかお帰り会とかそんな名前のついた会だった。
「あれも楽しかったな。生徒会の5人で──」
そのとき、きん、と音が鳴った。
夕輝の頭が急に締め付けられる。
「っ?」
それはまさに言った瞬間で、脳が急に縮んだような不思議な感覚。しかしそれは本当に束の間のことで、時間で言えばコンマ1秒もなかった。だから夕輝の言葉が遮られることはなかったのだが、真に不思議に思ったのはその後だった。
「マツリと......」
ふと、口からそんな言葉が発された。
「......マツリ?」
茜が疑問を持つのも当然だった。何せ、言った夕輝ですら自分の発言に疑問を抱いたのだから。
「マツリ、マツリ......祭りですか?」
「いや......」
深く考えるようなことでもない気がするのだが、何となく今の言葉が気になったのだ。理屈があるとかないとかではなく、ただただ
「......お祭り騒ぎだった、とか言いたかったんだろ、多分」
とりあえずのところそう片付けることにする。他人事のように言ったのは自分にその自覚がないからだ。茜も納得したようで、それ以上何かを気にする様子はなかった。
それからしばらくその単語については考えてみたものの、夕輝は該当する答えにたどり着くことはできなかった。
そもそも、答えとは何だ。
ただ何となく発しただけの言葉。
「冷める前に早く食べようか」
「そうですね」
茜は頷くと、また嬉しそうな表情でおでんをつつき始めたのだった。
「これ......」
何を思ったか、茜は立ち止まった。
お昼ご飯からはもう予定が入っていなかったので、早くも帰途についていたところ。早いとは思われるかも知れないが、もともと2人で出掛けることになったのも雪に『付き合って2ヶ月なのにまだデートにも行ってないんですか』と言われたからであり初デートはこれぐらいがちょうど良いのではないかと茜とも意見を一致させたので問題はない。
その帰り道に、茜が急に立ち止まったのだ。
「......どうした?」
当然そう尋ねる。
「いえ、あの......」
茜は夕輝とは反対の左側を見つめていた。そちらに目をやる。
ガラスがあった。色のない透き通ったガラスの奥に、マネキンが佇んでいた。
マネキンはいわゆる大人の女性、という服装をそれなりに着こなしており、肩にはほんのりと淡い水色のポーチを掛けていた。水色と言っても子供っぽくはなく、蝶の刺繍がまたいい味を出していた。
バッグ類を扱う店だろうか。
「......気になるのか?」
店の名を確認する。何だろう、フランス語だか何だかで書かれているからよくは分からないが、雰囲気的には高そうにも思える。良い感じのブランドというイメージ。
「......入ってみるか......?」
ちょっと言うのを躊躇ったのは、何となく夕輝の財布が涙目で訴えてきているような気がしたからだ。ケチと言われてしまうかも知れないが、これはどちらかと言えば夕輝の直感と金銭感覚によるものだ。
茜はしばらく考える仕草をしたが、それがあまり真剣なものでないことは彼女が指を鼻ではなく顎下に当てていたことから簡単に分かった。
「いえ、帰りましょう」
恐らく、立ち止まったのは本当に無意識だろう。心惹かれるものがあったのか、女心の分からない夕輝には理解しかねたが、茜が微笑んでいるのでまあ良いだろう。
「......そうか」
茜が歩き始めたのに合わせて、夕輝も隣を再び歩く。そこからマンションまでは本当にすぐで、夕輝は若干の疲労を覚えながらも、どこか寂しいような気分になった。
点検の終わったらしいエレベーターを上り、2人は廊下を歩く。まもなく茜の部屋に到着してしまうと、彼女はその身を翻して瞳を大きくさせる。
「今日はありがとうございました」
茜はそう言うと、少しだけ黙り込む。何か言おうとしていることは分かったため返事をしなかったが、なかなか口を開かない。どうしたのか聞いてみようかと思っていると。
「あの......」
茜がとても居づらそうな表情をしている。あるいは、恥じらっているようにも見える。頬が赤いせいだろうか。
彼女は呟くように、こんなことを言った。
「楽しかったです。......また、2人でどこか行きましょうね」
彼女自身の前髪でその表情が隠れた。茜よりいくつか背の高い夕輝からは形の良い鼻と結ばれた口元だけが見える。
「......っと」
普段は決して動じない夕輝だが、茜にだけはどうしてもドキリとさせられてしまう。何より、そんなことを言うだけでも照れてしまうような茜に。
だから、こんなことをしてみた。
「......」
「............!?」
つまり、夕輝はそのまま──吸い寄せられるように、気付けば彼女を抱き締めていたのだ。経緯がやけにでたらめだが、理性が歯止めをかけてくれなかったためセーフだろう。
「ちょ......夕輝くん!」
茜は急のことにかなりテンパっている。
「......可愛いのが......悪い」
小さな声で殆ど独り言のように呟いたのだが、茜にはその言葉が聴こえてしまっていたようだ。
「──!」
ばすっ、と夕輝の服が揺れ動く音がする。
「がっ」
気付けば夕輝は、茜に突き飛ばされて後ろに2歩ほど後退していた。
茜はそのまま何も言わずに勢いよく家の扉を開けると、中に入ってまた同じエネルギーで扉を閉めてしまった。その間、僅かコンマ5秒。
「......」
体勢を立て直し、廊下に直立する。
冷たい風が吹く。今日一番に冷たい気がするのは、多分気のせいではない。
「......マズったか......?」
どうやらそのようだ。やってしまった。
自分の理性を叱咤しつつそんなことをしても溢れたミルクは戻らないのだということを改めて感じつつ夕輝はすぐにアメリカンな思考を放棄してしばらく呆気に取られていた。
「......」
ぴゅうぴゅうと吹く風は、夕輝を嘲笑っているかのよう。夕輝は始めはインターホンを押そうとしたのだが、逡巡した末にやめるという結論に至り、そのままだんだんと自分が居たたまれなくなって結局とぼとぼと数メートル先の自宅へと足を運ぶ道を選んだ。
「......はぁ」
「おかえり、兄ちゃん。早かったね」
「ただいま」
「......茜さんに振られでもした?」
春はいきなりそんなことを口にする。少なくともただいまの後に放つ言葉ではないことは自明だとして、もしかするとそれが間違いでもないかも知れないから恐ろしかった。
「......まあよく分かんないけど、ドンマイ」
「何の慰めにもなってないぞ......」
「凄い顔してる」
「今言うかそれ」
「うん、瀕死のカバみたい」
夕輝と瀕死のカバに失礼極まりない喩えは軽くスルーしておく。今は春の言動に突っ込んでいられる程元気ではない。
「お昼ご飯は食べてきたんだよね?」
「ああ」
「分かった」
気の抜けた返事に答えると、春はソファにてくつろぎ真っ最中のスライまるに絡みに行った。毎日のように見ている光景だが、微笑ましくはある。今日ばかりは微笑みを浮かべることもできないが。
「......」
明日、謝ろう。そうするしかない。茜にちゃんと謝罪して、最悪を免れなければならない。
いくら付き合い始めたからと言って調子に乗りすぎた。夕輝は深く反省すると、しかしやはり先程の出来事がショックでなかなか立ち直れないのだった。
──そう。
──そのときは、
その晩、夢を見た。不思議な夢だった。
それは、鉄塔から落ちる夢。空を見上げながら落ちていた。
──あの暗い空に手を伸ばしてみる。けれど、夕輝が伸ばしたわけではない。その手は華奢で、夕輝のものではなかった。
おかしいな、体に感覚もない。
ああ、そうか。
落ちているのは夕輝ではなかった。
瞳から溢れた涙が天に昇っていく。視界の端に、自分のものでない髪が見えた。見える全てが白黒なのでその色は分からないが、ただひとつ、それが細く長く繊細なものであると言うことだけは分かった。
白黒。
あれ?
白黒の世界なのに、違和感がない。夢だからだろうか。やけに鮮明で、けれどやはり白黒。
ざわめく木々も、吹き付ける風も、全く夢の中だとは思えない程にその生命力を感じさせた。勿論、重力も。
呼吸と恐怖と痛みだけが色と共に消えてしまったのだろうか。
気付けば落ちていた。
真っ赤な、夢を見た。
──ZHIEND Fallin' より──
朝がやって来た。
だんだんと軽くなった体に感覚が戻ると、間もなく夕輝は覚醒した。何だか体が重い。長時間眠っていたような感覚だ。
重い体を動かして、枕元のデジタル時計を覗き込む。時間は......。
瞬間、夕輝はガタン、と音を立てて飛び跳ねた。見間違いではないことを確認するため、今度は時計を手に取ってじっくりと見る。
この四角い時計は8時半を示している。
「まずいな......」
今日は月曜日。学校がある。というかこの時間だと、もう一限が始まる頃ではないか。
一気に嫌な汗が出てくる。遅刻だ。
いや、それよりも前にひとつ気になることがある。夕輝がこの時間に起きたということはつまり、誰も夕輝を起こさなかったということではあるまいか。
春もスライまるも起きていない?
夕輝はすぐに春の部屋へ向かった。一応ノックして部屋に入る。彼女は案の定、爆睡していた。
「おい、春。起きろ、遅刻する......ってかしてるぞ」
「ん......」
春は寝覚めだけはとてもいいので、そう肩を揺すっただけでゆっくりと起き上がった。片目を擦る。
「......」
彼女はどこか不思議そうに辺りをキョロキョロとしている。やがて、枕元に置いてある夕輝とは違うタイプの丸い時計を見て言った。
「......兄ちゃん、何言ってるの?......今日は日曜日だよ」
「......は?」
春が寝ぼけたことを言っている。もしくは現実逃避かは分からないが、夕輝はすぐにその時計を取り上げて日にちを指差した。
「ほら、よく見ろ。今日は12月9日......日曜日?」
表示されていた文面をそのまま読み上げると、すぐに違和感が走った。
「ほら、日曜日でしょ。ご飯が食べたいなら自分で作って。私はもう少し寝るから」
言うと、春はまた布団を被って寝てしまった。夕輝はまだ自分の感覚を信じて疑わない。
返事もせずに部屋を出ると、すぐにテレビをつけた。いや、本来なら確認なんかしていないで早く学校へ行く準備をした方がいいのだろうが、春は寝ぼけているせいで今日が日曜日だと言うことに何の疑問も抱いていない。
ニュース番組にチャンネルを切り替える。
早急に今日が月曜であることを伝えなければ。
夕輝の鼓膜を揺らしたのは......。
『おはようございます、今日は12月9日、日曜日です』
「......え?」
ニュースキャスターは確かにそう口にした。まさか『
「何だこれ......」
すぐに記憶をたどる。昨日は確かに日曜日だったはずだ。茜と2ヶ月付き合って初めてのデートは、恥ずかしながら1週間前から心待にしていた。日付を間違えるわけはない。
いや──。ひょっとして、全て夕輝の勘違いなのだろうか。だとしたら?
他にもあらゆる手段で日付を確認する。スマホを見て、テレビのチャンネルも他に動かしてみたりと考え付く方法は駆使したが、結果は変わらず今日は日曜日だった。
と言うことは、昨日は土曜日だった?
そう疑い始めると、何だかそんな気がしてきた。割合としては99対1程度の気持ちだが、全て夕輝の勘違いと考えれば説明がつかないわけではない。
そう結論付けてしまって......良いのだろうか?
疑問符が脳内を巡り続ける。こうなってしまっては仕方ない。他の人間に聞くしかない。
同じマンションに住んでいる人間なら、茜に聞きに行くのが妥当だろう。本当ならば、茜は学校に行っていてこの時間は家にいないことを願うのだが、そんなことはないだろうと直感が言っていた。
夕輝はマンションの茜の部屋に向かうことにした。
──少なくとも夕輝はこのとき、今日が月曜日であるのか日曜日であるのかという
インターホンを押す。数秒後、ガチャ、とノイズのかかった音がした。インターホンに付いているカメラが夕輝を睨んでいる。夕輝はそのとき、自分のミスに気付いた。もし茜の家に茜の父がいたら。あのおっさんはやはりというか、夕輝には厳しかった。付き合っているということを知ってからはより一層厳しくなっていたため、今日が彼にとっての休日であったなら遭遇してしまう可能性があるのではないか。
と思っていたのだがそれは杞憂だったようで、応答したのは茜だった。
『......何の用でしょうか』
心なしか口調が冷たい。それで思い出した。昨日はあんな別れ方をしてしまっていたではないか。だからこちらに出てくるわけではなくインターホンでの応答をしているのだろうか。警戒されているのは嫌でも分かった。夕輝はまず始めに茜に謝罪することを決意した。
「えっと......茜? 昨日はごめんな。正直......調子に乗ってた」
申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちで消え入ってしまいたくなる程だったが、謝らないわけにはいかない。
「あのさ......もし良かったら、出てきてくれないか......?」
そう問い掛ける。しばらくの間、スピーカーからザーザーと音が聴こえるだけの沈黙が続いて、それからやっと声が聴こえる。ただし、それは決して夕輝の聴きたいようなものではなかった。
『......何の話ですか......?』
それは、余りにも冷淡な──これまでに聴いたことのないような、茜の声だった。
「え......」
その驚きに夕輝は言葉を失った。全身から血の気が引いていくような感覚だった。
『今更何言ってるんですか......! 帰って下さい!』
大きな声で叫ぶように拒絶されると、最後の言葉はそれで、ガチャ、という音ともにスピーカーは言葉を発しなくなった。
「嘘だろ......」
今日が月曜日でないのは分かった。それはもう認めるとしよう。夕輝の勘違いだったに相違ない。そうでなければ茜が家にいるはずはないのだから。
しかしまさか、ここまでとは。昨日やってしまったことが茜にとってそれ程までに考えられないことだったとは思いもよらなかった。謝罪するとは言え、何やかんや許してくれるのではないかと心のどこかで思っていたが故にその強烈な拒絶は夕輝に大ダメージを与えた。
「俺......本当に振られたのか......?」
疑問文にしてみたもののその言葉は言霊となって夕輝をより苦しめた。もう突然のこと過ぎて呆然と立ち尽くす以外の方法を選択することはできなかった。
『今更』と彼女は言った。ならば昨日のうちに謝っていればよかったのだろうか。やはりあそこで躊躇してしまったのがいけなかった。
いやいや、そんなことを考えても仕方ない。
何より絶望感が大きすぎた。頭の真っ白になった夕輝は、もう思考を放棄して家に引き返した。
家に戻って独り沈んでいると、やっと春が起きてきた。
「......ねえ兄ちゃん、何してるの?」
机に肘を立てて呆けていたところ、いかにも鬱陶しそうに春が声をかけてきた。
「ああ、春か......おはよう」
夕輝はそこであることを思い出す。先程何となく感じていた違和感の1つ目だ。
「あれ、スライまるは?」
「......スライまる? 何言ってんの?」
まだ寝ぼけているのか、春はそんなことを口にする。
「そう言えば......朝からスライまるを見てないけど、どこ行ったんだ?」
普段ならスライまるは春と一緒に寝ているはずだし、だいたい春と一緒に起きてくる。
と言うか──春は今日はやけに起きるのが遅かった。いつも通りならば休日だからと言っても7時には起きるはずだ。
春はこんなことを口にした。
「......ほんと何言ってるの? スライまるなんているわけないじゃん。ラノベの読み過ぎでおかしくなったんじゃないの?」
「......は?」
一体、どれだけ寝ぼけていたらそうなるのだろうか。もう2ヶ月の仲だと言うのに、まさか熱でもあるのだろうか。おでこに触れてみる。
「......触らないでよ」
手を払い除けられてしまった。何だかとても嫌そうだ。それと直接関係しているわけではないが、夕輝はまた不思議に思った。今日は春の機嫌がよろしくない。
「......それより、私ご飯食べるから邪魔しないで」
「......そう言えば、まだ朝ご飯食べてなかったな」
「......あっそ」
そして、とても冷たい。茜のことは余りにも気がかりで今も気が気でないが、ここまで来ると春のことも心配になってくる。
「......春、」
何かあったのか、と言おうとしたところで、今までもずっと音と映像を提供してくれていたテレビが──厳密にはニュースキャスターが──こんな言葉を連ねた。
それが夕輝をどれだけ驚かせたかなど、言うまでもないだろう。
『続いてのニュースです。......今年10月、地球に大接近し
──ああ、シャーロット彗星の話題なんて久々に耳にした。隼翼さんの力もありあれからすぐに彗星の話は収束したので、本当に1ヶ月ぶりくらいではないか。
そんなことを考えた。
「──っ?」
そのとき、焦ると同時に、まるで天啓に打たれたかのように夕輝は何かを閃いてしまった。抽象的なその何かは、フィクションによくあるもの。今までの全てを肯定し、整合性をとってしまうための仕組みだ。
「何で......?」
勿論、その仕組みを信じていたわけではない。思考の殆どは何かの間違いや勘違いによるものであることに向いていたし、そうであってほしかった。
「......シャーロット彗星ね」
ぽつり、と春が呟いた。
「......春?」
夕輝はいわくありげな春の表情に何かとても重要なものを感じた気がした。今のこの状況と合致するものである。
春は夕輝に目を合わせない。代わりにこう溢した。
「......やめてよ、白々しい」
「......?」
嘲笑的な言葉がやけに痛かった。ありもしない罪悪感を抉られているような気分に陥る。夕輝には自分が何かをした心当たりはなかった。けれど勘違いではない。春は夕輝のことを責めることもしないような、呆れすら見せるような目をしている。
「それが私の能力の原因なんでしょ」
大きな違和感を感じる。
確かに春の言っていることは正しい。それにその説明は生徒会長である松山から春に入っているはずだ。
しかし、何かがおかしい。
この状況は明らかに普通ではない。
直感と言うよりは、総合的な判断。
そしてそこで、夕輝ははっと気付く。
そう言えば、朝起きたときからおかしかった。
「......
そして、春はそれを当たり前のように、むしろスライまるがいる方がおかしいといった、いかにもまともそうなことを言っている。
「だから兄ちゃん......」
頭のおかしい人間を見るような目だった。むしろそちらの方がおかしい。いや、そもそも今日は何故月曜日ではないのか。始めに違和感を抱いたのはそれで──それだけではない。
スライまるがいない。彗星が存在している?
それに、何やら春の態度がおかしいのも気掛かりだ。
ある1つの考えが、再び育ち始める。
これは──。
すぐに夕輝は走った。どこかに行こうとしたから。行く宛はなかったが、生徒会室か、雪の家か、はたまた白柳第一特殊科学研究所か。
しかし、それはとうとう叶わなかった。
「うっ......?」
急に立ち眩みのような感覚に襲われる。けれどそれは、急に立ったからとか、いきなり走り出したからとかでは明らかになかった。そもそも立ち眩みではないと気付いたのは刹那の後。
そのときにはもう既に遅かった。
何もかもが吹き飛ぶような眠気。
あるいは体が宙に浮かぶような。
まるで覚醒状態から一気に最も深い眠りに落ちていくような感覚で、ジェットコースターで高速落下しているようでもあった。夕輝はもう廊下に臥せっていた。
そして夕輝は
がばっ、という音が鳴った原因は、ただ夕輝が焦って起き上がったからというだけではない。
夕輝が布団を翻したからだった。
「......布団......」
時間の感覚は余りにもアナログに続いている。今の今まで夕輝は廊下の上を走っていて。
「夢か......?」
呟いてみる。状況だけ見てみれば少なくとも客観的には、そうだとしか思えないだろう。
夢。けれどそう思うには、余りにも現実感が伴い過ぎていた。記憶までしっかりある。忘れる方がおかしいと思っているぐらいだ。
けれど、現実と捉えるには余りにも飛躍し過ぎた体験だった。夕輝の知っている現実とはかけ離れていたのだ。
夕輝はすぐにはっとする。
すぐに時計を確認する。12月10日月曜日、午前6時。今までの体験を夢とするなら辻褄が合う時間帯だ。茜とのデートの翌日。
ノックもなしに部屋の扉が開く。この不可解な出来事のせいでだいぶ警戒し身を乗り出したが、間もなく入ってきたのがスライまるだと分かると胸を撫で下ろしたのだった。
「お、夕輝、もう起きてたのか」
スライまるは青い体を跳躍させてこちらに来ると、頭に乗っかってきた。
「重い」
「ご飯はまだ出来てないぞ」
「そうかい」
夕輝はばたりと布団に倒れた。スライまるはバランスを崩してこてんと落ちるとすぐにまた体勢を立て直した。
「......まだ眠いのか?」
「いや......安心してるだけだ」
「安心?......嫌な夢でも見てたのか?」
ふと、スライまるはそんなことを尋ねてきた。そう言われてみて、今この間違いない現実に帰ってきた夕輝は何だかそれが間違いないことのような気がしてきた。
「......そうなのかも知れないな......」
白い天井をぼーっと眺めて、夕輝はため息のように溢した。
夢。あれは夢だ。現実感が伴い過ぎていた夢であり、夕輝のイマジネーションの産物に他ならない。
「兄ちゃんご飯出来たよー。起きてー」
春の声が廊下の奥から聴こえてきた。毎朝夕輝は大抵、この声で起きている。
平凡だ。いや、スライまるという謎的生命体がいる時点で平凡ではないのだが、ここは夕輝のよく知っている現実だった。
おかしな夢を見たな、と、そのときはまだ思っていた。
門の前で巧と合流し、教室に着いた頃にはそこはこんな話題で溢れていた。
「......今日、転校生来るらしいですね」
清楚な出で立ちの白柳雪が口にした言葉を耳にして、着席していた夕輝は目を見開いた。
「......転校生?」
疑問を持つのは当然だった。
「この時期にか?」
特に学期の始めとかでもない中途半端なタイミングで、しかも星ノ海学園は進学校だ。
「女子か?」
と巧。
「......何でそう思うんだよ」
この問いかけは挨拶代わりのようなものだ。始めから答えなど分かっている、言わば枕詞。
「そっちの方が嬉しいじゃねえか」
けらけらと笑って巧はまた、クラスのバカ男子との談笑を開始した。進学校にも以外とバカな男子は一定数いて、夕輝はむしろ進学校だからこそそう言う男子が多いのではないかと考えている。馬鹿と天才は紙一重とはよく言ったものだが、最早夕輝のような男子の方が少ないぐらいだった。
「どんな子かなぁ」
「やっぱ、魅惑の美人転校生だよなぁ!」
「いやいや、可愛い系だろ! 隣に引っ越して来たりして......」
だとしたらもう既に引っ越しは完了しているんじゃないか、とはバカその3には言わないでおいてあげた。だが、これだけは言っておかなければならない。
「おいお前ら、まだ女子と決まったわけじゃないぞ」
冷ややかな目でアホ男子を眺める。
「......おい夕輝、そんな夢のないこと言うなよな」
「そうだそうだ......。お前は良いよなぁ」
巧がクラスメイトの言葉に便乗してまた何かを言い出したかと思うと急に顔面をにやけさせたので夕輝はすぐに危険を察知した。
「良いって何のことだよ」
「お前知らねえのか? 夕輝はなぁ......」
無言で巧の口を押さえる。問答無用だ。こいつには口止めをきちんとしておかなければならなかった。
「もごっ! もいひ、なぃふるんぁよ!」
「巧、一旦落ち着け」
「ほまぃまふちおはえるはんらろ!」
そうして絶対に巧が日本語を発声できないように口を押さえたり伸ばしたりしていると。
「......あの」
隣から声がしたので、反射的に2人そちらを向く。
そこには、制服姿のいかにも不機嫌そうな茜がいた。彼女は何故かは分からないが責められているような気分になる表情で肩の通学用バッグを下ろす。
夕輝も巧も口を開いたまま席を開ける。夕輝の隣の席は茜の座席だった。
茜は何も言わずに着席する。その流れで巧たちは退散した。
巧が最後に謎のアイコンタクトを送ってきたのは恐らく、夕輝と茜が2人で出掛けたことを知っているからだ。つまり、上手くやれよ、と。馬鹿馬鹿しいので無視しておく。何せ、何も上手くいってなどいないのだから。
夕輝と茜のいる空間だけが、静かな空気に包み込まれる。8時15分。
「......」
茜の表情を窺うことができない。夢ではあんなに茜に拒絶され、しかもその感覚がまるで現実だったかのようにしっかりと残っているのだ。
けれど、あの恐ろしさを回避するためにもやっぱり夕輝は謝らなければならなかった。
言うことは決まっている。
夕輝は意を決して口を開く。
「あか」
「あの」
と、彼女の名を呼び掛ける自分の声と隣の茜の声が重なった。
「え?」
「あ......」
すぐに、彼女も同じく何かを言いかけたのだと分かった。
「......何だった?」
「いえ、先にどうぞ」
小さな声で言う。
「......分かった」
互いに顔を合わせることはしない。正直とても気まずかった。夕輝はこの不思議な状況を噛みしめつつ恐る恐る言葉を紡いでいく。
「あのさ......昨日のことなんだけど」
びくり、と茜が動揺するように跳ねたのは、目を逸らしていた夕輝には見えなかった。
「......ごめん」
「......え?」
夕輝が端的に謝罪の言葉を発すると、しかし茜はどちらかと言えば驚いたようにきょとんとこちらを見た。
「俺、あの時は......調子乗ってた。もし嫌だったなら......本当にごめん。......できれば」
「いえ違うんです」
できればこれからも──と言おうとしたところで、茜が遮るように言った。いや、その言葉の選び方からして、遮ったのだろう。びっくりして彼女の表情を初めて確認すると、彼女は凄く困ったような顔で口を結んでいた。どこか躊躇するような上目遣いの瞳は、夕輝をまたどきりとさせた。
「違うって......何が」
「あの......あれは、その......」
もじもじとして、茜はなかなか切り出さない。ただ、何となくだが怒ってはいないように見えた。それどころか──。
意表を突くようにチャイムが鳴る。何故かは分からないが、教室の空気を無意識レベルで変えてしまうあのチャイムだ。幼い頃からの刷り込みで、キンコンカンコンと聴こえるようになっている。
担任が入ってきたのはほぼ同時で、そこで2人の会話は途切れた。起立、礼、着席、と一通りの号令がかかり、どこかもやもやしたまま流れるように一連の動作を行う。これはまた会話のきっかけを作るのに悪戦苦闘しそうだ。
「まず始めに、転校生の紹介だ」
担任が一度そう言うと、教室はざわめきを伴った。もともと噂として皆聞いていたことであるのでそこに驚愕を表すものはなかったが、ただクラスメイトは全員、気になっていたのだろう。どんな転校生なのか。
教室の扉が開いて、全集中がそこに傾いた。ガラガラ、という音と共に入ってきたのは──女子。制服からすぐにそれが分かる。
「うおぉ......!」
男子どもが一斉に感嘆の息を吐いたのは、入ってきたのが女子だったからというそれだけではない。夕輝もすぐにそれを理解した。
ふわりと宙に浮いた琥珀色の髪に、白皙の肌色とちょこんと低い背。それでいて顔立ちは非常に整っており、可愛いと美人を織り混ぜて最も調律が合うように調節したような、黄金比という見当違いな言葉を連想させる少女がそこにはいた。
「うおぉぉぉ!!」
男子が雄叫びを上げる。楽しそうで何よりだったが、少々うるさいし、他の女子に白い目で──見られてはいないようだ。女子たちもまた、その転校生に釘付けになっていた。
教壇のど真ん中に立つと、彼女は姿勢を整えて口を開く。
「......今日からこのクラスでお世話になります、
きっちりとした態度で丁寧にゆっくりとお辞儀をする。制服の似合う少女だが、その立ち姿は純日本人らしい、雪にも劣らない清楚さを持ち合わせていた。
「うおおおおぉぉぉぉぉ!」
とうとう全男子が立ち上がる。ガタガタと椅子がうるさい。クラスに交際相手がいるやつも流れに任せて同じことをしていたので、恐らく後で彼女にこっぴどく絞られることだろう。
「小野寺の席はそこ......音永の隣だ」
「はい」
琴を奏でるようで、それでいて力強そうにも聴こえる声で返事をすると、名前以外の自己紹介は全くせずに彼女はこちらに近付いてきた。夕輝の右隣が茜、左の席は空席だった。
ざわざわ、という雑音を聞きながらこちらに向かってくる彼女は、何故かは分からないがずっと夕輝を見つめていた。気のせいだろうか、やがて隣まで近付いてくると目を逸らし、着席して前を向いた。
「......?」
何だか不思議な感覚だった。
どこか、既視感を覚えて仕方がないような気持ちになるのだ。もっとも、彼女は転校生であるからして会ったことなど一度もないのだし、それは夕輝の記憶が間違っていなければ正しいことであるはずである。幼い頃に出会っていた、とかを除けばだが。
一変して担任が紹介する謎の講演会の話をクラスメイトがいかにも興味無さそうに聞き始めると、最終的には担任がプリントを前に貼っておくから目を通しておけという誰が従うのかはよく分からない勅命を聞きつつ、全員が1限目の準備を始めた。
転校生の小野寺と名乗る女子も何の障壁もなく普通に大衆と同じ動作をしているので、大まかなことは担任か誰かから聞いているのだろう。
しかし、まあ1限まではまだ10分弱はあるのだから、折角の転校生と戯れたっていいものを、クラスメイトたちはらしくもなくそんなことはしようともしない。
──とは言うものの、夕輝はクラスでは最もそれから疎遠な人間であったため、特に声をかけたりはしなかった。遅れて先程の茜との会話を思い出すと、何とも居たたまれない気分になったのだった。
このときは、まだ──そう、この少女、マツリとの邂逅が後に自分に何をもたらすのかなど知りもしないで、そんな風に呑気なことばかり考えていた。
生徒会から召集がかかったのは放課後。いつも通りのことだが、能力者が現れたらしい。まだ2ヶ月前の彗星の落下の影響は直接出ていないようで、能力者の新世代、つまりより強力な能力を持った能力者は現れてはいない。しかしだからこそ、警戒は強めなければならないだろう。今では隼翼も再び特効薬の開発に専念している。
そんな中、またいつものように夕輝は生徒会にいた。茜と巧、雪もそこで松山に視線を向けていた。
「能力は『爆破』......と言っても、特に強力なものでもなさそうです」
「というのは?」
茜はやはりこの場に来ると、以前と何ら変わらないリーダー的存在として誰よりもしっかりと生徒会活動に貢献している。勿論、もう二度とあのようにはならないように無茶だけはしないでほしい。夕輝はもうあの危うく消えてしまいそうな茜を見たくはなかった。
「そうですね、この能力は爆破と言っても、極端に脆弱......一部の空気や水を拡散させたり、何にせよ極めて気体や液体に近いものだけを局所的に爆破させる、とでも言いましょうか。油断は禁物ですが」
「......なるほど」
何かに確証を得たように頷く。これは、茜の了解のサインだ。
「では──」
行きましょうか、と茜が言おうとしたところで、コンコン、と音が聴こえた。すぐに分かる。ノックだ。
「ん? 誰だ?」
呆けた面で巧がそちらを振り向いた。ガチャリ、と音を立てて扉が開くと、その先にいたのは......。
「あなたは......」
茜が始めに声を出した。それからすぐに夕輝もその
先程まで隣の席に座っていた少女。
「確か、転校生の......」
西園寺茉利。
「小野寺です」
小野寺茉利。一体、生徒会に何の用だろうか。松山が問う。
「どうしましたか?」
彼女は真っ直ぐにあるいてくる。どこかアンニュイな雰囲気をまとっていて、近寄り難いような不思議なイメージを夕輝に与えた。
「......」
彼女は無言でこちらに向かってくる。いや、違う。夕輝や巧を通り過ぎて、松山をじっと見つめる。睨むというよりは、真っ直ぐと目線を合わせて逸らさない。
どうしたのか、と見ていると。
「お願いがあります」
彼女は急に体を90度に曲げる。いわゆるお辞儀である。それも、とても深い。
「な......何でしょう」
それは、あの松山が若干引く程だった。紳士的対応にも思えるが、顔面は少しひきつっているし、言葉に明らかに困っていた。その転校生は口を開く。
「私を生徒会に入れて下さい」
飽くまで淡々と、彼女はそう言った。
頭を下げたままで。
「......え?」
「は?」
その少女の発言に呆気に取られ、松山に続いて夕輝も頓狂な声を出した。少女は顔を上げる。
「だから、生徒会に入れて下さいと言ってるんです」
「......」
見ると、巧は顎を垂らしてぽかんとしていた。目はシラスのように細く、一体何なんだこいつは、とでも言いたげだった。勿論2人とも、彼女が転校生であることは認識しているが。
松山は眼鏡をくいと持ち上げる。
「えー......基本的に生徒会に入ることができるのは正当に選ばれた生徒だけですので、申し訳ありませんがそれはできません」
説明口調で松山は言う。が、彼女は引き下がらなかった。
「そこを何とか」
しかしながら何と言うか、とても頼みごとをする態度ではないなというのが夕輝の本音だった。巧や他のメンバーもそう思っているだろう。イントネーションの変わらない語調。冷徹な目でまるで睥睨するように彼女は松山を眺めていた。
「何とかと言われましても......」
やや困り顔の松山。それもそうだろう。何故なら、この生徒会は恐らく彼女が思っているようなものではないのだから。
この組織は、より良い学校作りへの貢献だの何だのをするそれとは全くもって違う。
何とかお引き取り願おうともっともらしい口実を探していると。
「......実は私、知っているんです」
彼女は今度は、急に楽しそうな薄い笑みを浮かべた。自分がマウントを取ったみたいな顔をしている。
それが何とも恐ろしいというか、何かとんでもないことを言い出しそうな顔に見えた。虚勢でないのも分かってしまうのは何故だろうか。
刹那のうちに松山から全くの余裕がなくなったのは、彼女の言葉からだった。
「──あなた方が、特別な能力を持った人間を......そうですね、懲らしめている、ということを」
「......え」
松山だけではなかった。その瞬間全員が、驚かされたと言うよりは突然のことにただただ混乱した。
始めに来たのが、何故、という言葉。
何故、知っている?
少女はその心象をよそに続ける。
「あ、否定してもとぼけても無駄ですよ。あなたは生徒会長であり、能力を持った人間を発見する能力を持っている」
「......!」
ぺらぺらとお喋りな口は夕輝たちを唖然とさせて止まらない。
「そして、友利茜さんですね。あなたの能力は対象者に入る五感を......正確には外界からの情報を少しの間だけ遮断する、というものですね」
「な......」
何でそれを、というところまで言葉が出ない。茜はシリアスな表情を全くもって動かせなかった。
「お前、どこでそれを......」
巧は疑問をとうとう口にした。彼女は今日転校してきたばかりの転校生。それが、何故か生徒会の素性をまるで九九のようにすらすらと答える。
「そうですね......私なりに色々調査したんですよ」
「調査?」
「ええ、星ノ海学園の生徒会にとても興味があったのでね」
澄ました顔で、まるで嘲笑うかのようにそんなことを口にする。
そんなに簡単なことではないはずだった。そもそも順序がおかしい。これではまるで、
「一体、どうやって」
茜ももう隠す気はさらさら無いようだった。あるいは混乱して頭が回っていないというのもそうだろうが、何にせよこの状況をまだ受け入れられていないというのが事実として残っていた。
「それは言えませんよ。ですが、私が生徒会に入るメリットなら言うことができます」
「......?」
まず1つ目、と彼女はこの空気感などどこ吹く風で奏でる。夕輝はこれ程までに、美しい声に異物感を感じたことは未だかつてなかった。
「もし私を生徒会に入れなかった場合、その秘密を暴露します」
「っ......!?」
案の定だが、彼女は危険人物であるという警告のサイレンが夕輝の脳内を駆け巡って離れない。
一体、何者なんだ。
「ちなみにお分かりだとは思いますが私、科学者のスパイとかではありませんよ。乙坂未来さんによって科学者はもう撃滅されたのは当然ご存じですよね?」
「何でそんなことまで......」
次いで雪。その転校生の発言は、夕輝たちを驚愕させ続けた。
「そして2つ目」
淡々と言う。
「私は......そうですね、この生徒会である人間の代役を務めることができます」
「......?」
その言葉に、妙な違和感を感じた。ただ何となくだがそれは不思議な含蓄を感じさせ、そして直感的にそれは何かとても大事なことなのではないかと夕輝は思った。
そしてそれは紛れもなく──
「つまり私は、
「────は?」
始めは何かの聞き間違いなのではないかとしか考えられなかった。思考が完全に停止する。彼女は今、本来誰も知るはずのないその名前を口にした。
岩下沙良と。
「"岩下沙良"って......確か、夕輝くんと茜さんが度々話してた人、ですよね......?」
雪は相も変わらずそんな反応だったが、もうそんなことを気にしてはいられなかった。戸惑いよりも何よりも、ただ、焦燥を覚えていた。
胸の高鳴りも。
「......お前っ!」
そのせいで、気付けば飛び出していた。明らかに動揺しており周りも見えておらず、叱咤するように夕輝は詰問した。
「なあ、沙良を知ってるのか!? 何で!」
「そりゃあ勿論、世界的に有名なアーティストでしたし、むしろ知らない方が
余裕そうに、あっけらかんと彼女は答えた。しかしそれは夕輝を苛立たせるに過ぎなかった。
「違う、そうじゃない。何で......」
言いかけて、言葉に詰まり思い出す。
そうだ、夕輝だけではなかった。彼女を覚えていたもう1人の人物。
助けを乞うように茜を振り向く。
「なあ、あか──」
──そこで夕輝の思考は停止した。茜の表情を見てすぐ。
それはもう、違和感とかいう生ぬるいものではなかった。
茜にあるところのそれが、巧や雪のものとそっくりだったのだ。
戸惑った表情。まるで、不審な人物に困惑している人間のような。
──沙良のことを忘れてしまったような。
「夕輝くん......大丈夫ですか?」
「あ......?」
それが決定的で、焦燥はエネルギーを失いながらどんどんと墜落していった。
「嘘だろ......?」
鈍間な自分の声が聴こえる。夕輝は打って変わってただ抽象的な絶望に打ちひしがれた。瞬間的な孤独を感じたようだった。
「まさか、茜まで忘れて......?」
言ってしまうとその事実が余計に重くのし掛かり、もうそれ以上の言葉は出なかった。いつ、どのタイミングで。
そんな夕輝とは裏腹に満足気に頷く少女。身を翻して松山に告げる。
「どうでしょう。これでもまだ、私が生徒会に入ることを拒否しますか?」
とは言うものの、松山は依然困った表情を変化させはしなかった。それもそのはず、第2のメリットは彼にとっては身に覚えのないものでしかなく、そもそも彼らからしたらこの転校生の今の発言は全く意味をなさない、もっと言えば意味の分からないことなのだ。
しかし、第1の利点......と言うよりは欠点の裏返しのようなものだが、それを考慮すると引くに引けない。
あとは夕輝の問題だった。夕輝は焦るようにその場に立ち直ると、転校生を押し退けるように松山の机を叩いてほぼ叫ぶと変わらない音量で言った。
「俺からも、頼む!」
ばん、と音を立てた机。それに驚き松山のみならず雪もびくりと肩を跳ねさせる。
夕輝はそれを見るや、冷静さを欠いていた自分に気付く。雪なんかは怯えていたからだ。
「っと......」
思考を整理する。ただ、直感的にもこの女子をここで返すわけにはいかなかった。まずは一旦頭を冷やして、深呼吸。
「......無理ならせめて、行動を共にするだけでも良いんだ」
と言ってから、再度やはり頭が冷えきっていない自分を発見して咎め、それからその少女を見る。
「私はそれでも良いですよ」
しかし同時に、これではっきりしたこともある。この少女はいわゆる一般的な『生徒会』に加わりに来たわけではない。
一体、どこまで。
「......一応、隼翼さんに確認を取ってみます」
どこか納得いかない、といった表情だが、沙良も同じように受け入れたという過去があるにはあるのだ。本人こそ忘れているが、松山は同じようにするだろう。もっとも、全く同じシチュエーションかと言うとそうではないが。
「では、行きましょうか」
そんな風に考えていると、まるでもうこの話は終わり、とでも言うかのようにその転校生少女が言った。何故か仕切っている。
「ああ、失礼しました。しかし、こうしている間にも能力者は能力を悪用しているかも知れませんよね?」
もっともな意見をひとつ。
「......ええ、あなたの素性についても徹底的に調査したいところですが、今はそうも言っていられませんね」
松山の言う通り、今は能力者を捕まえることが最優先だった。
「......分かりました」
謎の少女にまだ戸惑ってはいるものの、茜も潔くそれに従った。
「じゃあ、行きますよ」
「私もついていきます」
少女が色のない声で言う。茜はほんの少しばかり逡巡したが、今更ながらに時間がないことを思い出す。
「分かりました」
目的地が高校であるため能力者が移動している可能性は低いとは言えども、念には念をだ。
「皆さん......気を付けて」
松山の普段通りの言葉は、今日に限り別の意味を含んでいるようだった。真っ先に夕輝が、続いて夕輝ほど彼女に対して何かを感じているわけではないと言えど少なくとも普通でないことを感じ取っていた茜たちがその意味を理解する。
「そんなに警戒しなくてもいいんですけどね......そうそう、私のことは気軽にマツリと読んでくれて構いませんよ」
「......」
4人とマツリは、生徒会室を出た。
「......オカルト研究会の副会長さんでしたか」
「ぼ、僕はただ......不思議な現象を見せて部員たちに喜んでほしかっただけなんだ......!」
もう夕日が差し掛かってきた頃の質素で趣のない部室は独特の寂しさを帯びていて、窓からの橙色の光を受けてその男子生徒の表情は殆ど見えなくなっていた。
気の毒なことではある。良心から来るものなら尚更である。
けれど。
「気持ちは分かります。しかし、その力は余りに危険です。......もう、終わりにしませんか?」
あとは彼が納得するかどうか......だったのだが、思えば『科学者』という脅し文句がなくなった今、そうはいかない能力者が増えたのは茜もよく知っていることだったし、案の定、彼は茜たちの知るところのそれであった。
「そんなの......そんなの、いやだぁぁぁ!」
この一歩間違えばゴミ屋敷のようでもある部屋でどっさりと積まれていた大量のプリントを、彼は夕輝たち目掛けて投げた。
はっきり言ってかなり脆弱な攻撃だった。
「そんなもん利くわけ──」
巧が威勢よくその男子を威嚇しようとしたところ、突然驚くべきことが起こった。
ぼん。
弾ける。端的に言えばそうだった。
「うおっ!」
「きゃっ!」
巧と雪が悲鳴を上げる。髪が激しく揺れ、室内に暴風が吹く。唐突なことに訳もわからず夕輝も狼狽していると、その間を抜けて能力者は部屋から飛び出した。
「あっ!」
すぐに、顔に
何が起こった?
「『爆破』の能力......」
茜がその答えを出す。反論したのは巧。
「液体や気体を拡散することしかできないんじゃねえのか? 紙だぞ?」
「違う」
夕輝はすぐに巧の言葉を遮る。彼は馬鹿とは言えどもここまで賢しくないわけではない。恐らく突如として起こったことに慌てふためいていたのだろう。焦ってもいたのかも知れない。
「簡単なことだ。紙自体が爆発したわけじゃない」
「周囲の空気を拡散させたエネルギーでこの薄い紙を飛ばしたんですね」
全て見透かしたような顔で解説したのはマツリ。きょとんとした顔だが、さっさと紙を払って追いかけようとしている。
「さ、早く追いかけますよ」
「......」
総合的に見ても、何と言うか彼女はまるで生徒会の活動を見てきたかのような対応力と冷静さだった。そのせいでむしろ浮いている。
本当に何者なんだ。
「行かないんですか?」
そんな考えを巡らせていたせいで、夕輝は立ち止まってしまっていた。いけない。物事には順序がある。
「......行くぞ」
「ええ」
返答した茜が部屋を飛び出したのに続き、夕輝たちは走り始めた。
「......やっと捕まえた」
茜の口から安堵の息がやっと漏れたのは彼を追い掛けて15分の経過した頃だった。
「さあ、もう観念してください」
「いやだ......」
ゼーゼーと息を切らして、廊下の行き止まりまで追い詰められた男子生徒は子供のように唸った。
「そんな力が無くたって......」
「黙れ......!」
彼は敵意剥き出しで茜を睨む。
「この力のお陰で僕は......僕には居場所が出来たんだ! この力がなければ、僕に価値なんてない! 皆僕を邪魔者扱いするだけなんだ!」
彼は憤りを顕に茜に叫んだが、しかしそれはどうも茜、まして生徒会に対するものなどでは全くなかった。本人もそのことに本当は気付いているのだろう。その上で見ないようにしているのだ。
「僕が認められるために......この力はなくてはならないんだ! それなのにどうしてお前たちは僕の邪魔をする!」
血管が浮き出て見えそうな程で、顔は真っ赤になっていた。
「僕を否定するやつは誰であろうと許さない! 僕は僕のために力を使うんだ!」
そして彼は信じられない行動に出た。
「そこをどけええっ!」
「っ?」
叫びながら、茜の顔に手のひらを向けたのだ。今まで数多の能力者を見てきたが故にそれが何を表すものなのかは容易に想像できた。
能力で茜に危害を加えようとしている。
やめろ、と言う前に夕輝の体は今執るべき最善策を誰よりも速く実行した。
「!」
目を見開く。その直後、夕輝の体が意識を失うと共に手をかざしていた男子生徒はぴくりと体を跳ねさせて、すぐにその腕を下ろした。
何とか間に合った。
危なかった、と彼の体のまま安堵のため息。
そしてそのまま立ち尽くし、やがてその短いようで長い1秒間が流れると、夕輝は自分の体に還った。
「......何が」
一方で『爆破』能力者の彼は、ただ困惑していた。自分の体が乗っ取られていたのだから仕方ない。
夕輝のコピー能力は、対象者に乗り移ることを手段にその能力をコピーするというもの。
ただ、夕輝はしばらく、その能力を使ってはいなかった。妹の春からコピーした『創造』の能力が役立ったためだった。
とは言えしかしながら、そんなことは今は言っていられなかった。夕輝も殆ど考えるより先に体が動いていたのだ。
「......もう諦めろ」
正直なところ、夕輝自身かなり焦っていた。何せこの男子は茜に手を出そうとしたのだ。この後彼が何をしでかすか分かったものではない。
しかし、彼はうろたえながらも、まだ生徒会に従おうとはしなかった。
「......どうして! 僕からこの力を奪おうとするんだ......。この力がないと僕は......やっと、認められたのに......! やっと仲間になれたのに!」
彼の魂の叫びが頂点に達した、そのとき。
「そんなのは」
後ろから、どこか暗澹とした声がした。
すぐに分かる。それは女子のものであって、しかし茜のものでも雪のものでもない。
彼の言葉を遮ったのは紛れもなく、琥珀の髪のマツリだった。
「......失礼、あなたの事情はよく分かりませんが、少なくともあなたの言う"仲間"というのがどんな人間なのかは多少は理解できます......」
少し間を置いて、問う。
「そんな人たちが、本当にあなたの仲間なんですか?」
「っ......」
単刀直入、淡々と彼女は言葉を吐いた。茜とほぼ同じか少し高いぐらいの比較的低い背であるにも拘わらず、その気迫は到底言葉では表せない程、圧倒的なものだった。
「聞き方を変えましょうか。そんな人間と仲間になって、あなたは本当に楽しいんですか?......馬鹿らしい、とは思わないんですか?」
「......!」
彼女の発言にはまるで感情がこもってはいなかったが、しかしどこか挑発的な物言いは彼を間違いなく威圧していた。
「まあ、それでも良いと言うなら敢えて止めはしませんが──」
考えるように俯くと、彼の顔を再び一瞥して言った。
「その様子だと......あなたもとっくに分かってるんじゃないんですかね?」
「......っ!」
見れば、爆破能力者の彼は顔をぐしゃぐしゃに歪めて苦しそうな顔をしていた。
「もう、終わりにしましょう」
息の混ざった声はとても説得力を持っていて、彼の熱くなった感情を優しく包むようだった。
「じゃあ、僕は......」
彼は呻くような声を出す。虚ろな目。先程までの激昂も熱も、もうそこにはなかった。よろめいて、とうとうそこに崩れる。
「僕は、どうすれば良いんだ......。僕は......僕にはもう、何も残っていない」
「そんなことはありません」
すぐにマツリはそう言う。彼女の言葉に彼はゆっくりと顔を上げた。
「......え?」
呆けた顔は今の彼の心象をそのまま表しているようだった。
「あなたはお人好しで他人に依存するどうしようもない人間ですが、そんなあなただからこそ、見てくれる人は必ずいます」
彼に一歩近付く。
「......
「......そう......なのかな」
そう呟いた彼は、心なしか納得しているように見えた。
「そうです」
「そうなのか......」
こんなに簡単に納得してしまうのもおかしな話ではあるが、そうさせる何かが
「......分かった。この力を使うのはもうやめることにする」
「......本当ですか?」
驚いたように茜。返事はなかったが、イエスと取って良い沈黙だろう。
「......さあ、では帰りましょうか」
マツリが何でもないように言った。
一連のやり取りをただ呆然と立ち尽くして見ていた夕輝たちは、まだこの状況を飲み込みきれないでいた。
「......」
いや、実際に理解できなかったのは状況自体ではないだろう。
ついさっき生徒会にやってきたばかりの少女。転校生ながらまるで生徒会の何たるかを熟知しているかのような振る舞いで、茜の助けも借りずに勝手にひとり事態を収束させてしまった。
小野寺茉利。
どこまで彼女を警戒して良いのかも分からず、夕輝たちは彼女を訝しげな表情で見つめながら間もなく帰途に付いた。
何より、誰も言及していないが──少なくとも夕輝と茜には──とても気にかかることがあった。
帰路の途中、夕輝はマツリに問う。
「なあ、小野寺?」
「マツリと呼んでください」
「......マツリ」
こちらは振り向かずにマツリは前を行く。
「お前は......
「......」
彼女は歩みは止めずに一旦沈黙した。かと思うと意味深な間を置いて数秒後、急にこちらを振り返って静止する。
マツリはいかにも愉快そうに笑った。
「いえ、何の能力も持たない一般人です」
「え......」
悪戯っぽい笑み。それが果たして何を暗に表現しているものなのか、若しくは何の意味も持たないのかは完全に分かりかねたが、勿論100%信用することなど到底できない。
「......音永夕輝。あなたは疑い深い人間ですね。そんなに私を信じられませんか?」
その夕輝の心情を読み取ったのか、マツリはそう尋ねてきた。
夕輝は答えはしなかった。マツリもマツリでそれ程に興味がないのか、すぐに前を向いて歩き出した。
「まぁ良いんですけど......」
表情は見えないが、何かの含蓄を持っているように思えて仕方ない言い方だった。そして最後に、全員に聞こえるようにわざとらしくこう溢す。
「今はまだ、ね......」
交差点で巧と別れると、すぐにマンションに到着する。雪は先に帰ってしまった。
「そう言えば、お前は」
「お前じゃなくてマツリです」
「マツリは、どこに住んでるんだ」
そう聞いてみると、彼女はきょとんとした顔を作った。何言ってるんだこいつ、の顔だ。
「勿論、このマンションに引っ越して来ましたが」
「え?」
突然の告白、と言っても彼女にとってはそんな大層なものでもないのだろうが、それを聞いて夕輝はただ不意を突かれたように素頓狂な声を出した。
「当たり前でしょう。むしろ私からしたら、生徒会に入っているのにマンションにも住んでいない深山巧のことが不思議でたまりません」
巧の場合は、家賃的なことを踏まえてあちらを選んだのだ。マンションに住む生徒が増えた今日、いくら星ノ海学園だとは言え無償とはいかなくなった。それなりの費用が必要になり、今住んでいるボロアパートを選んだのだ。
それも、今となっては無関係なのだろうが──。
「まあ、取り敢えず疲れたので私は先にお暇させていただきます。後はお2人で楽しんでいてください」
「な......」
言われてすぐにはっとする。マツリがどんな意図でそう言ったかは分からないが、そう言えば夕輝と茜は、今朝あんなやり取りをしたばかりだった。マツリのせいでうやむやになっていたが、夕輝は夕輝で謝るならちゃんと謝りたかった。
マツリの背中が見えなくなる。
「......」
「......」
沈黙が訪れた。月だけが明るいこの場所は、少し肌寒い。
「あのさ」
黙っていても仕方ないと夕輝は口を開いた。ビクッと茜の体が跳ねる。俯いている。
「茜、その......」
「あ、あの!」
まずは今朝の茜の意味深な発言について問おうと考えていると、突如その茜が顔を上げて叫んだ。鼓膜がきんっと鳴る。
「あ、えっと......」
かと思うと茜は困ったような恥ずかしがっているような表情を見せ、そのまま再び俯いてしまった。
どうしたものか。頭の中で慎重に言葉を選んでいると。
「その......嫌じゃ......なかったんです」
「......え?」
茜は唐突にそう言ってきた。一瞬、何のことか分からずに戸惑う。
「可愛いって言われたのも、急に抱き締められたのも......嫌じゃ、なかったんです」
どんどん声が小さくなる。後半は殆ど聞き取れなかった。けれど、それで夕輝は色々様々を思い出し、どきりとしてしまった。過去の自分を叱責する気持ちが込み上げる反面、それ以上に嬉しいような恥ずかしいような筆舌に尽くし難い気持ちが夕輝の全身を奮い立たせた。
「でもびっくりして、あんな風に突き放してしまって......嫌われたらどうしようかと」
とても深刻そうな顔で呟くように茜。声が上擦っているし、かなり汗ばんでいる。上目遣いでこちらを見てくるので、夕輝も思わずたじろいでしまう。
こんなに可愛い生物がいるのか、と改めて思ってしまう。が、今はそれよりも優先すべきことがあった。自分の感情を最大限抑えて、どくどくと脈打つ心臓の音を感じながら言う。
「......茜」
やはり緊張している。茜は本当にこの手のことになると
深呼吸をする。
「嫌いになんてならないよ」
「......え」
その言葉がどう意外だったのかは分からないが、茜は生まれたての赤子のように純粋で透明な声を発した。驚いたような顔。
「むしろ、俺だって茜に嫌われたんじゃないかって不安だったんだ。......そう言えば、茜にこっぴどく振られる夢を見たな」
「......っ」
「まあ、何だ。とにかく、俺は茜にどんなことをされても、どんなに嫌われたとしても、絶対に茜のことを嫌いになんてならないからさ......だから」
言いかけたところで、ふと体に温かさが触れた。
「......っ」
びっくりして声も出なかった。気付くと、茜と夕輝との体の距離が縮まっていたのだ。胸は茜の髪が覆っており、背中に至るまで茜の腕に包み込まれている。
「......ありがとうございます」
茜の吐息が皮膚に
「......私も、夕輝くんのことを嫌いになんてなりません」
「......」
ちょっとだけ、と思って茜の髪に触れる。最近気付いたのだが、どうやら夕輝は茜のさらさらの髪が好きらしい。勿論他にも沢山彼女の好きな部分はあるのだが、今触れたくて仕方なかったのはきっとそのせいだろう、と夕輝は思う。
そして、その頭を撫でてやる。
「ありがとうな」
茜には感謝してもしきれないな、と思う。何も今回のことにだけではない。
──こういうのを幸せと言うのだろう。
夕輝は茜の温かさをしっかりと噛み締める。
今のこの気持ちだけは、忘れたくないな。
帰宅後は春やスライまると談笑をしながら夜ご飯を食べると、さっさと風呂に入って布団に入った。
何だかとても不思議な日だった。
「あいつは一体......」
夕輝の脳裏に蘇ってきたのは、1人の少女の顔。
マツリ。小野寺茉利。
能力者や茜のことのおかげでうやむやにされてしまったが、彼女は沙良のことを知っていた。それに、生徒会のことにも随分詳しいようだった。
「明日」
ぽつり、と呟く。
明日、沙良のことを聞こう。どうはぐらかされようと、あの胡散臭い少女から知っていることを聞き出してやる。無理矢理にでも吐かせてやらないといけない。
逆に、彼女はある意味で夕輝にとっての希望でもあった。誰も覚えていないはずの沙良の存在を彼女だけが覚えていたのだ。
一方で、沙良のことを忘れた茜。謎は深まるばかりだ。
「......」
そんな思考を巡らせて──それでも夕輝は、このときはまだどこか余裕を持っていたのだろう。特に大きく事が転じたわけでもなかったのだから仕方ないとは言える。
──翌日、夕輝が目覚めたのは12月
Charlotteとシャーロット彗星の本質に迫る物語が始動しました。後書きで書くことが全くもって思い付かないのですが、CBA第五話で出てきた謎キャラをとうとう登場させるに至りましたことに喜びを覚えて──とまあそんなことを徒然なるままに綴らせていただきたいと思います。
次回もよろしくお願いいたします。