Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
日の光が眩しくて、夕輝は目を覚ました。時計を見る。
「......」
午前6時。良い時間だ。夕輝はむくりと起き上がる。
「ふぁあ」
間抜けなあくびをしつつ、健康的な朝の光を体に浴びて夕輝は布団から出た。リビングヘ向かうと、やはりだが春はもう起きていた。
「春、おはよう」
「......おはよう」
いつもよりワントーン低い挨拶が返ってくる。起きたばかりで元気がないのはしょっちゅうなので言及はしないが、兄として少し心配だったりする。
「はい、ご飯出来たから」
春はそう言って食卓に朝ごはんを並べると、自分の部屋に戻っていく。
「春?」
体調が悪いなら言ってほしいが、春は何も言わずにそそくさと去ってしまった。普段なら一言二言は会話するのだが、しかし春も思春期の女の子なのであるし、兄に言えないこともあるだろう。そう考えて夕輝は1人で食を進めた。今日みたいに稀に春がいない日でもスライまるがいたため1人の食卓は久しぶりだ。
そのスライまるは──今はまだ眠っているのだろうか。睡眠中で真っ白になっているスライまるはまあまあ面白い。普段は春と布団を共にしているので、今頃は春の布団で猫もびっくりするぐらい丸くなっていることだろう。
それにしても、春のご飯は美味い。あっという間に夕輝は全てを平らげてしまった。
「......ごちそうさま」
手を合わせて呟くと、さっさと皿を下げ、ついでにその場で洗っておいた。
「よし」
春のいないリビングは夕輝1人にはとても広く、何だかそわそわする。窮屈にも感じた。
「......顔でも洗うか」
朝のこの特殊な空気感はどうも落ち着かないので、夕輝はそう独り言を溢すとそのまま洗面台へと向かった。
「先行くなー」
まだ部屋に籠っている春が流石に気になったので、部屋の扉をノックして声をかけた。
返事はない。
「......春? 何かあったか?」
もう一度声をかけるが、依然部屋からは沈黙しか返ってこない。
「......開けるぞ?」
「いるから」
と、小さな声でやっと返事が返ってくる。
「春? 体調でも悪いのか?」
「悪くないから早く行って」
心配で尋ねてみるのだが、返ってくる返事は割とそっけないものだった。
「......そうか?」
春が何だかとても何もないようには思えない応答をしてくるので、兄として流石に気にならないわけはなかったが、ここまで言っているのに無理に部屋に入るのも悪い気がした。
「......じゃあ、行ってくるな」
「......」
返事はやはりない。普段の春ならあり得ないことだ。特に夕輝が行ってらっしゃいを言わなかった暁には遠慮なく飛び膝蹴りをかましてくると言うのに、今日の春は様子が変だ。
「......」
やはり無理にでも部屋に入るべきなのだろうかと考えるが、逡巡したのち結局それは憚られた。春にも色々ある。一応、一度返事はあったのだし大事ではなかろう。
夕輝は結局、部屋を何となく気にしながら廊下を歩くと、そのまま玄関へと向かい家を出た。
何でもないようなことだろう、と自分に言い聞かせて。
「おっす、夕輝」
朝は巧との遭遇から始まる。最近のエンカウント率はほぼ100%で、主に巧が大幅な遅刻をしない限りはこの交差点で合流しないことはない。
「おはよう」
軽く挨拶をして、巧の隣を歩く。
ふぁあ、と巧があくびを漏らす。
「寝不足か?」
「そう、だな~......昨日は眠れなくてな」
「......何かあったのか?」
「いや、なんも。起きるのが遅かったからだな。土日に生活習慣が乱れるのなんてよくあることだろ?」
「......まあ」
しかし今日は火曜日である。その生活習慣が月曜まで持ち越して今日に至った、とかそんなところだろうか。夕輝の記憶では巧とは昨日もいつもと同じ時間にここで合流したはずだったが。
とは言え夕輝はそんなことにいちいち頭を使ってもいられなかった。
と言うのも、夕輝には、巧に会ったら話そうと思っていたことがあったからだ。
「......なあ、巧」
ここまでで一旦、談笑は終了。談笑と言える程の笑いがあったかどうかと言われれば微妙だが、何にせよこの先も毎日できるのだから問題はない。それよりも優先すべきことがある。
昨日の件。少女──マツリの話だ。
「なあ、お前あいつのこと......どう思う?」
「......あいつ?」
急に話を転換されて、巧はきょとんとした。説明不足過ぎたと反省して補足する。
「マツリだよ」
「......ん?......何だ夕輝、お前あいつに気があるのか?」
しかし、巧から返ってきたのはそんな間抜けな返事だった。目をパチリと開いて、そのくせ別段興味もなさそうな顔だ。巧の馬鹿さは分かっているつもりだったが、まだまだだったようだ。ため息が溢れる。
「そうじゃなくてさ......不気味だと思わないか?」
「......へ?」
まるで何もかもを見透かしたかのような表情の彼女。正直気味が悪く、故に真剣に聞いてみたのだが、巧の反応は割合すっとぼけた感じのものだった。
それから数秒、じっくりと夕輝を見つめて難しそうな顔をする。ゴミでもついているのか、と考えていると。
「......ぷふ」
「?」
急ににやけ顔を作る。そして束の間に、
「......うわっはっは! な......っ、何真面目な顔で言ってんだよ!」
謎の大爆笑。
「......」
情緒がおかしくなってしまったのだろうか。やっとそれが止まると、なお笑いを堪えるように巧は言った。
「......あいつが不気味なのなんて、今に始まったことじゃねえだろ」
「......は?」
おかしそうに腹を抱えているのが癪に障るが、それよりも巧の反応にそこはかとなく違和感を感じる。
まるでずっとマツリのことを見てきたような言い種だ。
「......何だそれ」
夕輝は、取り敢えず今のところはそう言って聞き流しておくことにした。断じてどうでもよかったわけではないが、巧と話しても得られることは無さそうだとか、いつもの馬鹿が発動したのだとか、そういう風にしか考えなかったから。
一滴の汗。
いや、思えば夕輝はこのとき、殆ど識閾下でそう自分に言い聞かせていただけなのかも知れない。
教室は既にクラスメイトたちの喧騒で溢れていた。
「あ、音永くん、深山くん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「おっす」
雪の笑顔の挨拶に応えて、巧と夕輝はそれぞれの席に向かった。
「......あれ」
そこで思わず声が漏れる。そこには2つの意味があった。まず、単純に今までならいなかったはずの少女の存在を認識して驚いたから。
「おはようございます」
夕輝の左隣の席にいたのはマツリ。昨日転校してきたばかりだったので、ここにいるのはまだ慣れない。
「......ああ、おはよう」
昨日──生徒会に突如来たかと思ったら、生徒会の活動内容から何から何までを脅し文句に生徒会に入れろとまで要求してきた少女。そもそもどこでそれらの情報を手にいれたのかも謎だが、最大の謎は沙良のことを知っていたという事実。
その上、能力者であるのかも謎。そんな彼女はここにただ座っているだけでも独特の空気感と存在感を放っていた。
「......どうしたんです、そんな化け物を見たみたいな顔して」
「え」
心まで見透かしているような笑みを浮かべて、彼女はこちらを見ていた。
「まずは荷物でも置いたらどうですか」
「......あ、ああ」
言われるがままに机のフックに鞄を掛ける。それから、特に立っている理由もなかったので夕輝は着席した。
右隣を一瞥する。
「......茜は、来てないんだな」
普段、この時間帯なら茜は夕輝の隣で朝弁を満喫しているところなのだが......その茜の影がどこにも見当たらない。
「......そうですね」
独り言のつもりで呟いたのだが、マツリは何か含みを持った言い方で返事をしてきた。
「......」
夕輝はそれ以上何も言わなかった。正直、マツリのことはまだ全く信用していないし、もっと言えばこれから信用することになる気もしていなかった。
「......いつになったら来るんでしょうね」
「え?」
「彼女は」
反射的に反応してしまったのは、突然マツリがもうずっと学校に来ていない人間を心配するみたいな言い方をしてきたからだ。
「......まだ30秒も経ってないぞ」
「......」
マツリは沈黙だけを返してきた。
「......」
こいつはよく分からない、と思いながら授業の準備を──しようとして立ち上がったところで、手が止まった。
鞄を開いた中にあったのは......。
「現国、家庭科、情報、科学......」
何を隠そう、月曜日の用意だったのだ。
慌てて記憶を辿る。夕輝はいつも前日の夜に翌日の授業の用意を済ませておく優等生型なので、間違いがあったとしたら昨日。
しかし就寝前、夕輝は確かに火曜日の用意をしておいた。その記憶がある。
一体どうしたものか。
「......音永夕輝、どうしたんですか」
体を完全に硬直させていた夕輝に、マツリが声をかける。そう言えばこいつは、特に自己紹介をしたわけでもないのに生徒会メンバー全員の名前を知っていた。
「......不覚にも、月曜日の用意を持ってきてしまった」
夕輝の思い違いなのだろうか。何だか釈然としないので事実を淡々と述べる。するとマツリは、おかしなものでも見たみたいに目を見開いた。
「......何か問題でも?」
そんな風に聞いてくる。どういう価値観をしているのだろうか。
「問題でも、って......問題だらけだろ。今日は......」
「今日は月曜日の授業があるはずですが」
「え?」
思わず声がひっくり返った。マツリの言葉を理解することができず、頭が真っ白になる。
今、何て?
「全く、しっかりして下さい。今日は至って平凡な月曜日の時間割です」
「......そう、だったか?」
「ええ。当たり前でしょう」
そう言われてなお、夕輝は困惑の最中にあった。
今日が月曜日の授業......ならば、昨日の夕輝はそれを分かっていて準備をしたということになる。しかし夕輝にそんなことを言われた記憶はなく、故に今困惑しているのだが......。
そもそも何故、時間割変更があったのか。教師たちの考えることはよく分からない。
「ほら、チャイム鳴りますよ、座って下さい」
「あ、ああ......」
椅子に腰かける。再度右隣を見てみるが、そこに茜の姿はない。ここまで遅くなるのは初めてだ。
「茜、まだ来てないのか......?」
「......まーだそんなこと言ってるんですか。今日は嫌にしつこいですね」
「え?」
「......」
「......?」
マツリは余りに文脈の読み取れない言葉ばかりを連ねるので、夕輝は理解に苦しんだ。しかし特に深く考えようとも思わなかったので、すぐに思考を放棄した。
そうして廊下側を眺めていると、間もなくチャイムが鳴った。
──結局その日、茜が学校に来ることはなかった。
──けれど、そんなことは夕輝が今立たされた状況の中ではほんの些細なことであると、その時の夕輝はまだ全く知らなかった。
授業が終わり、自然とため息が漏れたのは疲労の証だろう。しかしその疲れは決していわゆる一般的な疲れではなく、精神的な疲れだった。
授業の内容のせいだ。
「ほんとに......何なんだ、一体」
クラスメイトや教師陣への文句を溢す。今日の授業が最悪だったからだ。
最悪とは何も、学級崩壊が起こったとか授業中にずっと喋る男子がいたとか、あるいは教師が仕事を放棄したとかではない。
夕輝はノートを確認する。
国語のノートには、昨日習ったのと全く同じ内容が綴られていた。しかし不思議なことに、昨日板書したはずの内容はどこかへと消えてしまっていた。
それだけではない。科学のプリントは習ってきたところより3枚程進んでいたし、流石におかしいと思って教師に訴えても、教師もクラスメイトもそれを否定した。
まるで──。
「......なんてな......」
言っていて、微かに指が震えている自分に気付く。これでは何かに恐怖しているようではないか、と自分を嘲笑して気を紛らわそうとしたのだが、どうも上手くいかない。
と、スマホが鳴る。電話だ。その相手は松山だった。
「......もしもし」
『音永くん、能力者が現れました』
「......はいはいっと」
適当に返事をして、電話を切る。
「会長ですか?」
後ろを振り返る。マツリだった。
「......ああ、そうだ」
「じゃあ、行きますか」
さっさと肩に鞄をかけて、前を歩く。夕輝は結局学校に来なかった茜の席を一度だけ見ると、すぐに視線を戻した。
「......」
だんだんと、恐怖が募っていく気がした。気のせいだ、全ては偶然が積み重なっただけのものだ──そう考えながらも、夕輝の頭の片隅には昨日の夢のことが過っていた。
「はは......」
前を行くマツリが、少しこちらを気にした素振りを見せる。後ろでクラスメイトの男子が笑っていたら誰でもそうなるだろう。
「......」
マツリの沈黙が、夕輝にはやけに怖かった。
そしてこの後──生徒会室にて、夕輝は避けていた真実にとうとう直面することになる。
マツリが生徒会室の扉を開ける。中には既に巧と雪、そして松山がいた。
「おせーぞ、夕輝」
「悪かったな」
普段と何一つ変わらない会話をする。しかし、いつも通りでないこともある。
「......茜がいないのなんて......初めてだな」
こんなことを茜と付き合っていることを知っている生徒会メンバーに言うのは少し恥ずかしいような気がして、ちょっと俯く。
思えば、何やかんやで茜は毎日生徒会室に集まっていた。沙良がいなくなって傷心を覚えていたときさえ、ここに来ることは怠らなかった。その後父と沙良のことが重なり、逃げ出してしまうことはあったが......。
けれど、召集の際にはいつも茜は必ずおり、茜がいない生徒会室を想像するのもなかなか難しい。そんなイメージを持っていた。
夕輝の、確かな記憶。
──しかし、すぐに夕輝の鼓膜へと返ってきたのは巧のこんな台詞だった。
「夕輝?......何言って......」
「......え?」
想定していた反応とは全くと言っていい程違う反応が返ってきたので、思わず間抜けに顔を上げる。
──思考が吹き飛んだ。
それくらいに──夕輝の頭を真っ白にさせる程には、その
声も出ない。震えが夕輝の体を襲った。もう止まらない。がたがたと奥歯が鳴る。指先が逃げろと訴えている。
「
「
「......あ......?」
雪の言っていることが、音声としてしか頭に入ってこない。ただ右から左に情報が抜けていく。
「
「
「っ......?」
混乱していた中で、マツリの声だけがぴんと張った糸を伝うように届いてきた。
「......音永夕輝、友利茜はもう何ヶ月も学校に来ていません。ショックなのは分かりますが、今は能力者が最優先です」
「......は?」
その言葉のせいで、一瞬解けていたはずの混乱が再び渦巻き始める。熱を帯びた異物感がぐるぐると回る。言葉が出ない。
茜が何ヶ月も学校に来ていない?
──それに、何だ?
──まるで、今までの茜を知っているみたいな言い方で──。
──まるで、今までも生徒会にいた、みたいな言い方で──。
「......会長、能力者の能力と位置を」
「......はい」
唯一何も発しなかった松山は、戸惑ったようにマツリに反応した。
「
「............はっ??」
松山はどちらかと言えば、
──こうなるともう、汗は止まらなかった。
どくどくと心臓が破裂しそうな程脈打つ。混乱の先に──1つの答えを見出だした。
信じたくはない答えだ。
「強力でない、とは?」
「物を大規模に爆破させるわけじゃなく気体や液体を小規模に拡散させるだけのもの」
即時に夕輝は言う。もう殆ど無意識だった。こうして
松山は驚いたように目を開く。眼鏡のレンズ越しにもそれがよく分かった。
「......ええ、その通りです......ですが、何故」
「行くぞ、マツリ、巧、雪」
「ちょ、夕輝!」
「音永くん!」
慌てた様子の巧や雪など気にも止めず、夕輝は歩き出す。先程と打って変わって、夕輝は焦っていながらどこか落ち着いていた。理由は、夕輝にとってはとてもシンプルなものだった。
「......皆さん、気を付けて!」
こんな状況で、いち能力者に振り回されている余裕なんてない。まして、やつに関しては昨日解決したはずなのだ。
「......くそっ」
夕輝は、憤りすら覚えていた。今夕輝が立たされている状態の把握については後でけりをつけてやることにする。辻褄はある程度合っている。ならば今は能力者を止めることからは逃れられないはずだ。
だから夕輝はその気持ちに踏ん切りをつけるために、こうとだけ聞く。
「......マツリ」
「はい、何でしょうか」
「今日は......何曜日だ」
マツリはきょとんとした表情を作り、端的に一言、
「
と答えた。
「ぼ、僕はただ......不思議な現象を見せて部員たちに喜んでほしかっただけなんだ......!」
どこかで聞いたような台詞。どもり方まで一致している。が、こんなに既視感を覚える状態であるにも拘わらず、夕輝が昨日それを聞いたときとは時間帯も心理状態もまるで違った。
まだ空は青く、どこにも夕方独特の橙色なんて見えやしない。男子生徒の顔はとてもよく見えるし、それに夕輝は彼のことを気の毒だとも何とも思えない。
身勝手な話ではあるが、夕輝は自分のことで頭がいっぱいだった。
「あなたの気持ちは分かりますが、その力は余りに危険です。......もう、終わりにしてはどうでしょう?」
あとは彼が納得するかだが、しかし夕輝は知っていた。
彼はここで、激昂して能力を使い部室から逃げ出す。
だから夕輝は加えてこう説明した。
「それだけじゃない。この世界には科学者と呼ばれるやつらが沢山いる。お前がもし能力を使い続ければ、そいつらに捕らわれてモルモットにされるだろう。二度と人間としては帰ってこられなくなる」
「......!?」
この言葉に、彼は狼狽する。そりゃあそうだろう。急にこんなことを言われて、困惑以外の反応をする方が難しいと言うものだ。
しかし、彼以上に驚いている人間がいた。
それが、マツリと巧と雪。
「音永夕輝、何を」
それもそのはず、科学者は、C粒子を引き寄せる能力を持っていた乙坂未来が撃滅したためもう日本にはおらず、その上夕輝たちはその後の会議でこう決めたのだ。
これ以降、科学者のことは能力者に話さないようにしよう、と。
これは茜の意見だった。能力者は人間であり、嘘の情報で納得させるということは人間同士の交渉として余りにアンフェアである......。
そしてこの茜の意見に賛同したからこそ夕輝たちはこうして科学者のことは話さずに能力者たちを止め続けてきた。
──けれど、今となってはそうも言っていられなかった。
「か、科学者......?」
「脳に電気を流されて、殆ど思考ができなくなったやつもいた。解剖されて無惨に死んだやつもいた。......お前もそうなりたいのか?」
できる限りの圧をかける。彼は怯んで言った。
「そんなの......そんなの、いやだ」
簡単な話だった。要は、あんなに仲間が大事だと言っていた人間でさえも、科学者のことを持ち出されて、自身の身の安全が脅かされるようなことがあれば、さっと身を引いてしまう。
彼もまた、夕輝がよく見てきた人間のうちの1人だった。
「.....分かれば良いんだ。......もう能力を使うな。自分のことが大事ならな」
「......分かった。......分かり......ました」
最後はあっけなく、夕輝はそのまま部室から出る。遅れて3人が戸惑ったまま付いてきた。
マツリは夕輝を睨み殺すようにじっと見ていたが、弁解は後でもできる。夕輝はさっさと歩いて、学校の外に出た。
「さて、何であんなことをしたのか、聞かせてもらいましょうか」
不満そうな目を向けてくるマツリ。しかし夕輝はこの圧力に臆することなくただ淡々と言った。
「すまない」
全力で頭を下げる。
「何も考えていなかった。俺のミスだ。以降は絶対にこんなことがないようにする」
「......」
夕輝はこれで自分の立場をある程度正確に理解していた。マツリと自分、ひいては生徒会がどういう関係なのかも。
「次はありませんよ」
マツリはそう言うと、ふん、と前を向いた。顔を上げる。
「ま、今回は私も久々に能力を使わずに済んだので、大目に見るとします」
「......?」
その言葉に強烈な違和感を感じたことについては言うまでもない。
「能力?......マツリは能力を持ってるのか......?」
夕輝にとっては純粋な疑問。しかしマツリが前に向けていた顔を再びこちらに向けると、その口が呆れたように開いているのが即座に分かった。
「は?......何を言ってるんですか? いつだって能力を失った記憶はありませんよ」
「え......?」
「何ならお見せしますが......」
言うとマツリは──その場ですぐに消えた。急に体がもやがかったと思うと、その次の瞬間にはカメレオンが擬態するように背景に溶け込んだのだ。
「な......」
「こっちです」
かと思うと、後ろから彼女のものに間違いない声が聴こえる。慌てて振り向くと、そこにマツリはいた。
「......『秘匿』能力。対象者からのみ見えなくなる能力ですが......え、知ってますよね?」
これは......これに関しては、流石に夕輝も虚を突かれたというものだった。と言うのも、夕輝の知っているマツリは能力を持っていない──少なくとも彼女自身はそう言っていたから。ならば、元の世界のマツリが嘘をついていた、ということになるのだろうか?
そう言えば、彼女の挙動はそれぞれがいちいち怪しかった。
「......じゃあ、帰りますよ」
彼女がそう言ったところで、夕輝はそれを止める。取り敢えず今の話題は置いておくにしても、夕輝にはこれからしなければならないことがあったからだった。
「待ってくれ」
「? 何です」
「巧と雪に話したいことがあるんだ。マツリは先に帰っていてくれないか」
「え?」
「......」
懐疑心を露にして眉を寄せるマツリ。しばし黙り込むが、
「......私に言えないようなことなんですか。......分かりました、じゃあ私は先に帰らせていただきます」
と、どこか不満そうに首を縦に振った。
「......悪いな」
小さな声で言う。何となく言わなければならないような気がしたからだ。マツリの態度を見ていると──いや、これは今から判明することだ。夕輝の脳はだんだんと冷静さを取り戻し、とうとうマツリの背中が見えなくなったところで巧と雪を振り向く。
「2人もごめんな、わざわざ」
「いえ、大丈夫ですが......」
「それより、話したいことって何だよ?」
ぴゅう、と風が吹く。そこらの落ち葉がくるりと宙を舞った。夕輝は意を決して口を開く。
「......驚かないで聞いてほしい。ってか、一番驚いてるのは俺なんだが......」
言うべきかどうかなど分からない。分かりはしないが、現状を打開しなければまずいことは分かっていた。手のひらをぐっと握って拳を作ると、勿体ぶらずに夕輝はそのままの事実を端的に述べた。
「俺は......どうやら、こことは違う世界から来たみたいなんだ」
「......?」
言ってから、それが作用して夕輝自身も曖昧にしていた実感が遅れてなだれ込んできた。思うのと言葉にするのでは全く違うと思い知らされる中で、しかし今度は先程とは違い落ち着いている。体が浮くような感覚がなく冷静でいられている。もとから思考をある程度整理していたからだろう。
巧と雪は、ただただ呆然としている。混乱と言うよりは、単純に夕輝の言葉を理解していないのだ。
「えっと......それって?」
「つまり俺は......お前たちの知ってる音永夕輝じゃないんだ。それと同じように、お前たちは俺の知ってる深山巧でも白柳雪でもない。......
「......」
無言という反応程恐ろしいものはないが、巧たちはどちらかと言うと夕輝のいっている意味を理解するとか信じるとかとは違う意味で夕輝の顔を不思議そうに覗き込んだ。
「あの......マツリさんの名字は"
かと思うとそんな指摘をしてきた。そうだっただろうか。転校してきたばかりでうろ覚えなので曖昧だが、そんな気もしなくもなかった。
まあそんなことは置いておいて、と話を元に戻そうとしたが、巧に遮られる。
「夕輝......お前、どうしたら
これが仮に本当に変なものを食べていたとしてそれによって見せられている幻覚ならどれ程良かっただろうか。生憎だがそうでもなさそうなので恐ろしい。
──違う。巧は今、とても重要なことを言ったのだ。それは実は夕輝の想像通りのことだったが、しかしこうして面と向かって言われるとやはり心臓に悪くて仕方がない。
そう、巧は言った。
「......やっぱりそうか」
「......? 何がだ?」
夕輝の胸中の恐慌具合など知りもしないで呑気に巧は聞いてくる。しかしこの2人と円滑に話を進めるために、やはりこの現状をできるだけ主観的に、正しそうな憶測も前提として伝えなければならない。
「巧」
「どうした?」
「
単刀直入、そう聞いた。これは飽くまで確認だ。もう答えは出ているようなことを、誰から見ても正しそうなことを、見直しなど必要なさそうなことを、最後に念には念をと確認するためだけのものだ。
答えはこうだった。
「いつって......確か、会長が茜を生徒会に引き入れる前の日、って言ってなかったか?」
「......そうか」
なるほど。やはりそうだった。
一応一通り、繋がりはした。マツリは
朝の春の反応、今日が月曜日であること、解決したはずの能力者がまるで繰り返しのように現れたこと、マツリの存在の不安定さに加え茜が学校に来ていないこと。
それらを夕輝以外の人間が当たり前だと思っているということ。
ちゃんと元の世界も存在していることから、世界自体がおかしくなったとは考えにくい。
これは、俗に言う──
しかもたちの悪いことに──。
「あの夢と繋がってる......」
思えば、余りにも現実感の有り過ぎる夢だったが、つまるところそれは夢ではなかったからなのだろう。
理屈はよく分からないが、夕輝はこの唐変木な世界ともとの世界とを行き来しているらしい。恐らく引き金は睡眠。この2日の──夕輝にとっては3日と数時間の──短い時間で決め付けるのは少々早計かも知れないが、それを前提にした方が思考が円滑に進むのもまた事実だ。
何故かは今は置いておこう。ひとまず、現状を認識することから。
そのためにはまず何よりも先に聞いておかなければならないことがあった。
「......ひとつ、聞いていいか?」
「ひとつでもふたつでも、何なりと......ただ、バイトには間に合うようにしてくれよ」
「......バイト?」
巧の口から、聞き慣れない言葉が飛び出した。いや、正確には"今では"聞き慣れない言葉、だ。
確か、巧は母が動けるようになってから、しばらくしてバイトをやめたはずだった。
また凍えるような嫌な予感がした。
「今日、シフト入ってんだ。前にも言ったけど、俺の母さん足が不自由でさ」
「え......」
彼が母の名を出したことで、夕輝はとうとう身震いがした。
「何だよ、その初めて聞いたみたいな反応は」
「いや......違うんだ」
巧の母のことなど完全に盲点だった。まさかそんな遠いところすら変わってしまっているとは。
「......まあ良いんだけどさ。んで、何だった?」
巧の母のことに気を取られて、一瞬巧の言ったことが分からなかった。それぐらいに余裕はなくなっていたが、やがて聞こうと思っていたことを思い出す。
「......ああ」
間隔を空けずに切り出す。
「茜のことなんだが......」
言った瞬間、ピクリと巧と雪が跳ねたように見えたのは恐らく気のせいではない。
「あいつは、何で学校に来てないんだ?」
反応から察するに、茜の話はもしかしたら禁句となっているのかも知れない。
けれど、聞かないわけにはいかなかった。こんなおかしな世界であっても、茜のことは夕輝にとっては最優先事項なのだ。本当ならば、あんな能力者なんて放っておいてすぐに彼女の家に向かいたかった。それぐらいなのだ。
「......夕輝、今日は本当におかしいぜ?」
「そうです......! 何で......」
しかし、返ってくるのは奇妙なものを見たような目。どうやら順序を間違えたようだ。夕輝も動転していたために、気付くのが遅かった。まずはこの2人にちゃんと自分の置かれた状況についてを正しく伝えなければならない。
「......よく聞いてくれ」
「......は?」
全てを説明して、巧から返ってきたのはやはりそんな反応だった。反応だけで言えば先程と何ら変わりはない。
けれど、一応夕輝の状況は認識してくれているようで。
「......マツリさんが転校生で、茜さんが音永くんと、その......お付き合いしているなんて、信じられません」
ただの夕輝の妄想説を疑われる可能性があるので、後者の情報に関しては言わなくても良かったような気がする。もっとも夕輝自身、妄想なのではないかとたまに疑ったりするのだが。
「でも一番は......茜さんが学校に来ている、っていうことが信じられません......」
そんなことを雪が言うので、何だか不思議だった。それ程までにイレギュラーな自体なのか、そしてそうであるなら一体何があったのか、夕輝が聞こうとすると。
「......でも、待てよ」
巧がそこに、疑問を孕んだ口調で口を挟んだ。
「じゃあ、その場合......その......」
とまで言って、口ごもる。何かを言おうとしていることは十分に分かったが、巧はなかなか続きを口に出すことをしない。
言いにくいことである、とは何となく理解できるが、生憎こちらの事情はよく分からない。
「あ......」
一方で、何かに気付いたように雪。巧の表情から彼の心情を察したようでもあった。
「どうした?」
「いえ、その......いえ、あの......」
こちらもまた、巧と同じように口ごもった。
「いい、俺が言う」
そんな雪を半ば止めるように巧。そこからいかにも言いにくそうに顔を歪めて言う。
「つまり、夕輝の世界では茜は学校に来てるんだろ? でもその場合、夕輝のいた世界では......」
うーん、と唸って頭を掻くと、思いきって一言問う。
「
「......っ!?」
夕輝は愕然とした。
よもや巧の口から二度と出るとは思っていなかった名前が発されたからだ。
「......そうだ、沙良は!」
そこで夕輝は思い出す。夕輝のもといた世界では、夕輝を除く全人類が沙良のことを忘れていた。
「お前ら、沙良のことを覚えてるのか!?」
そんなことはもしかしたら小さなことなのかも知れない。このおかしな世界ともとの世界との差異のごく一部なのかも知れない。
けれど、どうも大事なことのように思えて仕方がないのは......ただ、巧が彼女の名を発したのがショックだったからというだけなのだろうか。
雪はしどろもどろになりながら答える。
「覚えている......と言うよりは知っている程度ですが、ええ、確かに」
そしてもの悲しそうに俯くと、付け加えるようにこう言った。
「......茜さんが学校に来なくなったのは、岩下沙良さんが......
「────え」
ぐらっ、と音が鳴って夕輝は平衡感覚を失う。その言葉は夕輝の胸を、いとも容易く貫いた。
「今、なんて......」
始めは冷静でいたはずの夕輝は、今ではもう殆ど落ち着きを残してはいなかった。
沙良が、どうしたって?
「その、岩下ってのが
「じ......は?」
巧は、そう言った。
──何と言った?
「沙良が......自殺?」
口に出してみて、夕輝はまだその1%も認識できていないことに気付いた。脳が働くことを拒否しているようだ。時折陥るあの揺れるような感覚。
「ああ。......あれ以来、一度も学校には来てない」
「何で......」
それに、先程から巧と雪の言い種はどうもおかしかった。
「なあ、俺たちと沙良は、同じクラスだったよな? 一緒に生徒会で活動してたんだよな?」
さっきから聞いていれば、巧も雪も赤の他人を呼ぶように、沙良の名前を遠慮がちに呼んでいたように思えたのだ。すがるように聞くも、とうとうその希望は裏切られることになる。
「......いえ......クラスどころか、私たちは岩下沙良さんとは喋ったことすらありません......」
「.......え?」
もうどうすればいいのか分からない程夕輝は混乱していた。夕輝の脳内では黒と灰色の2色がマーブリングされ、その中にぽつんと沙良が立っている。
まるで、彼女の存在の危うさを示すように。
「......生徒会って、そっちの世界ではその岩下沙良が......その自殺なんてしてなくて、一緒に活動してるのか?」
そこに巧。恐らく純粋な疑問だったのだろう。夕輝はどう返せばいいのか分からなかった。沙良が生きているのか、どこにいるのかもよく分からないのに、正しい解答を導き出すことなどできはしない。
「......」
「あ......もしかして、聞いちゃまずいことだったか?」
そんな夕輝の反応を見て、何を思ったか巧は慌ててそう取り繕う。
「いや、ごめん。大丈夫だ」
「......そうか?」
巧は少し心配そうに夕輝の顔色を伺う。巧らしいような、巧らしくないような動作だ。
それから彼は腕時計を一瞥。
「......わりぃ夕輝、俺バイト行かねえと」
「......そうか。悪いな、付き合わせて」
言うと、巧はにかっと笑って、
「なーに、気にすんな。親友だろ!」
と呑気にいい放ったのだった。巧と親友になった記憶はないのだが、こちらの世界ではそうなっているのだろうか。それとも、巧があちらの世界でもこちらの世界でも大して変わらない馬鹿さを全開にして勝手に言っているだけなのだろうか。
後者だ。絶対。
その帰り道、夕輝は1人の少女に出会った。夕輝のよく知る少女だ。
「......琴羽さん」
栗色の髪に白皙の肌は見ただけでも彼女のものだと分かるような唯一無二の可憐さを伴っていた。
「あ、確か......生徒会の音永くん。久しぶり、だね」
「......ああ」
軽く答える。何だか妙な感じがした。琴羽は間を開けず尋ねる。
「今日は、生徒会の皆は一緒じゃないの?」
巧は全速力で走って先に帰り、雪にも先を意ってもらった。貴重な情報源ではあったが、1人で考える時間がほしかったのだ。
もっとも、考えて分かるような事態ならこんなに混乱しているはずはないのだが。
「ああ。......琴羽さんは、学校帰りか?」
「うん」
琴羽は頷くと、夕輝の隣を歩き始めた。
「......」
「......」
しばしの沈黙。少なくともあちらの世界では、夕輝と琴羽は特に親しい間柄でもなかった。そしてそれはこの琴羽の反応から、こちらでも同じなのだと何となく察しがつく。
それどころか、むしろ──。
「最近」
考えを深めていたところ、夕輝の鼓膜は隣から聞こえたソプラノの音をキャッチした。
「ん?」
「あ、最近......勉強、大変なんだ」
「......そっか」
タメ口を利いているのにも何だか違和感を感じる。何故だろうか。前話したときは全然、そんな感じはなかったのに。
──と、それに加えて、その違和感にも勝る筆舌には到底尽くせないような大きな異物感──まるで、黒いもやのようなものがふつと湧いて消えるような感覚──が、一瞬遅れて過った。
......こればかりは、夕輝の考え過ぎだろうか。できればそうであることを祈りたい。夕輝が琴羽を
だからこれは念のためなのだ。しかし夕輝は問わずにはいられなかった。
「えっと......
「......え?」
夕輝に脈絡もなく問われ、琴羽はちょっと戸惑ったようだった。しかしどうもこれが、大事なことのような気がしてならない。
「......そうだなぁ、特に
「......?」
どくどくと心臓が脈打つのが嫌でも分かる。勘違いだと信じたかった。証明したかった。そのために、すぐに聞いてやりたくて仕方がなかった。
何故ならこれは、本人が言っていたことだったから。
高校修了過程程度の物理や化学は、全て研究室でマスターした。これでも自分は研究者たちを統括しており、そのくらいは頑張って勉強したんだ、と。
しかし琴羽の口からは、もっと意外......そしてある意味では今日、夕輝を最も震え上がらせる言葉が飛び出した。
「
苦笑いして、照れを隠すように頭を掻いた。琴羽らしい仕草と言えばそうだった。
違うだろう。そうじゃない。
琴羽さん、あなたは。
「何で......」
それは、絶対的に琴羽がするはずはない発言だった。
「琴羽さん、聞いていいか」
「え......? 何かな」
夕輝が突然言うので驚いた様子の琴羽。しかしもう構ってはいられなかった。
「あなたは、科学者に......その、囚われていたわけだ」
「......うん」
「そのときの記憶はあるか? もうひとつ、あなたは誰に助けられた」
「え? え?」
急にいくつも質問を投げ掛けて、琴羽は当惑している。しかしそうも言っていられない。夕輝は今、この世界の本質に気付いてしまったような気がしたのだ。
「えっと、確か......身体検査をして、あとはずっと部屋にいて......」
「もっと具体的には?」
圧をかける。夕輝も焦っていたのだ。
「......よく、覚えてないんだ。何となく、そんなことがあった気がするの」
「......!」
琴羽の解答は、余りにもおかしかった。
「助けてくれたのは、隼翼さんだよ......って、そんなこと音永くんも知ってるよね? どうして聞くの?」
どうして。その答えは余りにも簡単だ。
"知らないから"。
全く身に覚えのない事態に、夕輝は困惑しているのだ。しかも今は運の悪いことに、段々と何が起こっているのかということに
──これは、もしかしたら。
そう思った瞬間、昨日のことが急速に思い出された。それは、決して忘れてはならないはずのことだった。
夢だと高を括り、見逃していた。
もし、仮にこれがあの夢の続きであるということを真だとして受け入れるのだとしたら──。
「彗星は──」
気付いたら夕輝は走り出していた。足はある1つの場所へと向いている。ここからそう遠くはない場所。
「あ、音永くん!?」
琴羽は突然走り出した夕輝にびっくりしたのかそう彼の名を呼んだが、その声はもう夕輝には届きはしなかった。
頭の中に整合性が生まれていく。矛盾のない、そして余りに簡潔な答えが、パズルのピースがはまるように出来上がっていく。
「......違うなら違うって、誰か言ってくれよ......!」
叫ぶように呟き捨てた。
自動ドアが開く。夕輝はすぐに受付へと向かった。
「あの......!」
汗だくで入ってきた少年にさぞ驚いたことだろう、2人の女性は不審者を見るような目と巨大なマグロが釣れたような目でそれぞれ夕輝に視線を飛ばした。
「何でしょう」
「七野さんを......お願いします」
夕輝が来たのは、白柳第一特殊科学研究所の受付だった。
「......しばらくお待ち下さい」
冷徹な方の女性が笑っていない目で答え、後ろの関係者以外が入れなさそうな扉の奥へと入っていった。
その男が現れたのは、実に5分後。
「おう、確か......生徒会の音永。
「......っ」
また、七野もまるで琴羽の真似をしたような反応をする。そんなに夕輝のことを忘れたいのだろうか。
しかし今は目の前のことに集中。
「隼翼さんの所へ、お願いします」
「......おう、じゃあ付いてこい」
夕輝の口から隼翼の名が出るのが以外だったみたいに眉をぴくりと動かした七野は、そのままこちらに出てきて夕輝の前を歩いた。
「行くぞ」
「ええ」
しかし、以前ここを訪れたときにもこんな風に、七野が生徒会員だからと言って何の確認もせず零階に案内したからこそ琴羽がいることがバレてしまったわけで、何だかそう考えるとこの人が悪いような気がしてきた。もっとも、あれは結果論的には間違っていなかったのかも知れないが。
ちなみに言っておくと、今回はそんなことは全く起こりはしなかった。けれど代わりに、夕輝はそこで聞きたくもない事実を聞かされることになる。
七野は夕輝が初めてここに来たと思い込んでいるようで──実際こちらの世界ではそうなのだろうが──、壁に指を当てて指紋を認証し青い光が出て壁がめり込み地下への階段が出来るあの仕組みをまた、子供のように見せびらかして楽しんでいた。夕輝はちっとも楽しくなかったが。
そこからはひたすらに暗黒と鋼鉄の進路をときに真っ直ぐ、ときに曲がりながら進むだけだった。結構な時間をかけて到着したのは隼翼のいる部屋。零階である。
七野が扉を開いた。
「......隼翼~。いるか~?」
広い空間がそこには生まれる。
「隼翼~。......いないみたいだな。奥か?」
真っ白なLEDに照らされて、積み重なった書類や大事そうに保管された液体なんかが際立ってよく見えた。
その間を、夕輝は七野に従って歩いていく。
奥に部屋があった。いくつもあるうちの1つの部屋。
七野がその扉をノックする。
──数秒して、ピピ、と電子音が鳴る。
扉が開く。
「......よう、隼翼。......久しぶりだな。研究ははかどってるか?」
「......皮肉にしちゃたちが悪いな」
「......」
それから、すぐに隼翼はもう1人、別の人間の存在に気付く。
「......君は」
「......生徒会の音永です」
彼は、相変わらず盲目をデメリットとも思わせない素振りをする。一体、どうしてここに夕輝がいることが分かったのだろうか。気配とかいうあれだろうか。
「......君とは、始めましてになるね」
「......どうも」
こちらも、夕輝と隼翼は今ここで初めて出会ったということになっているらしい。と言うより、この世界ではそれが正しいのだろう。
「で、わざわざ七野が連れて来たってことは音永くん。何か用事があるんだね」
「あ......はい。確認したいことがあって」
言ってから、夕輝はちらりと七野を見た。彼は視線に気付くと夕輝と隼翼を2、3度キョロキョロして、
「......もしかして、俺邪魔か?」
自分の立ち位置を完全に理解したようだった。
「んじゃ、あっちで待ってることにする」
「......すみません」
七野が退散すると、夕輝は隼翼に部屋に招き入れられた。
「失礼します」
そこは、2人で入るには十分だが、1人の研究者がいると思うと少し狭い部屋だった。
物は殆どない。本も書類もないのは、隼翼が盲目であるからに他ならないだろう。
隼翼は杖を置くと慣れたように着席した。
「......どうぞ、座って」
「あ、はい」
向かい合って腰かける。100センチくらい距離を置いて、向かい合う夕輝と隼翼。
まずは話題を作ってみる。
「......隼翼さんは、いつから
「え?」
突然の質問に虚を突かれたようで隼翼は眉を上げる。しかし、盲目なのにとても表情や仕草は自然で、それだけで彼からは溢れんばかりの人間味が感じられた。
「そうだな......いつからか覚えていないくらいには、ずっといるかな」
「そうですか......」
「何でそんなことを聞くんだい?」
悪戯っぽく隼翼は笑みを浮かべる。しばし考えて、
「......隼翼さんの研究に興味があるからです」
と答えた。
「......へえ、それは意外だな」
隼翼は手元のコーヒーカップを手に取ると、口元に運んだ。湯気は全く出ておらず、淹れてからしばらく経ったものだとは分かった。
「隼翼さんは、ここで何をしていたんですか?」
「......少し、考え事をね」
「......やっぱり、研究に関して、とかですか?」
「ああ......随分と熱心なんだね」
「今は何の研究をしているんですか?」
すると、隼翼はきょとんとして目を見開いた。単純に驚いているように見えた。
「それは......」
隼翼は、躊躇あるいは逡巡するように難しい表情を作って耳を掻く。その隼翼の様相は、若しくは寂しそうにも見えた。
苛立たしそうにも見えた。
「ちなみに、そんなことを聞いて何をするつもりなんだい?」
「......何をするつもりでもありません。言ったでしょう。俺は隼翼さんの研究に興味があるんだと」
「......」
隼翼の眉が歪んでいるように思えた。そして、それにつられて自分の眉も歪むように感じた。夕輝を何かが蝕む気がしたのだ。
その感情の名を、いわゆる怒りと言うのかも知れない。
隼翼はため息を1つ。胸から出るぐらいの、小さなため息。表情は柔らかくなり、幾分か優しくなったようにも感じられた。
間もなく隼翼は、先程の質問に答える。
「......特殊能力の......特効薬の研究だよ」
その言葉は──夕輝が予想していたものだった。少なくともこの世界に起こっている現象にある程度の法則性を見出だした夕輝の考えが正しいのなら、その答えは非常に場に適したものだった。
夕輝が一番、聞きたくない解答でもあった。
「......特効薬、ですか」
嫌な感情が、予感が川の急流のように夕輝の心臓を摩耗する音が聞こえた。予想していたはずなのに、実際に聞いてしまえばまた混乱するのではないかと思えて仕方がなかった。
それでも、夕輝は問うておかなければならなかった。
「
「え?」
「どうして......特効薬を作ろうとしているんですか?」
「......そりゃ勿論、能力者を減らさなければならないからさ。......同じ悲劇を繰り返さないためにも」
「それは」
夕輝は思いきって口を開く。
「それは......
「──っ!?」
がたん、と音を立ててコーヒーカップが倒れる。飲みかけの生ぬるいコーヒーが、机の端まで広がったあと、その側面を湿らせながら床にぽつぽつと落ちていく。
その規則的な音がかえって静寂を際立たせる。やけに耳に障った。
「どうしてそれを......音永くん、君は記憶を消すどころか......未来ちゃんに会ったこともなかったはずだ! どうして!」
「未来さんは自殺を選んだんですね」
「っ......!」
嫌な予感は見事に的中した。
「俺は......彼女を救うことができなかった...... ! 彼女は俺を信じていたのに......! 研究者失格だよ......!」
だから、特効薬を作ろうと試みている。
正確には、試み続けている。
「......」
夕輝の勘は──十中八九、当たっているだろう。
この世界は最悪の世界なのかも知れない。
思えばあの夢のような現実の中で、夕輝は彗星がなくなっていないことを知っていたのだ。
そして代わりになくなっていたのは──スライまるの存在自体。
気付くのが遅すぎた。
──未来は、自らを生け贄にして人類を救う道を選んだのだ。そしてそれは、かつて夕輝があちらの世界で阻止したはずのこと。
「くそ......何てこった」
一方の世界では沙良は"失踪"しており、他方では沙良は"自殺"している。
茜は元いた世界では"生徒会員"であり、こちらの世界では"学校にも来ていない"。
巧の母の下半身不随はあちらでは"回復"しており、こちらでは"治っていない"。
元の世界は未来を"救えた"世界で、対してこちらは未来を"救えなかった"世界だ。
そして──それによって"彗星が消えスライまるが生まれた"世界と、"彗星の落下は防げたが彗星は存在し続けている"世界。
──夕輝は、"上手くいく"世界と"上手くいかない"世界とを行き来しているのではないか?
そう考えてしまえば、ある程度の辻褄が合う。
しかし、ならば──。
帰り道、夕輝は考えていた。
もしこの考えが正解だとして、では何故。
何故、夕輝が──夕輝だけが、こんな不可解な事態に巻き込まれているのか。
夕輝にはこんな仕打ちを受けるような覚えはまるでなかったし、こんなことが実際に起きている理由も全く分からなかった。しかし経験上、人間の持てる科学力を遥かに超越した現象を巻き起こすことができる
それが──特殊能力。
しかしそうなったらそうなったで、疑問はまた増えてしまう。
「......誰の能力だ?」
更に言えば、この世界線の入れ替わりという現象自体、能力者のものと考えるには余りにも規模が大きすぎた。少なくとも夕輝の知っている能力とはこういうものではない。
それに、単に上手くいくいかないの次元で捉えて良いものなのだろうか。元の世界で沙良は、自殺こそしていないが失踪している。
そして、その記憶を夕輝だけが覚えており──
だから狙われた?
「......分からん」
今この場でこれ以上のことを考えていては、もう頭がおかしくなりそうだった。夕輝は大きくため息を吐いて、また1歩ずつ帰路を踏みしめ始めた。
「ただいまー」
玄関を開けて、始めに口にしたのはその言葉だった。返事はない。
「......」
いつもなら、スライまるは飛び出してきて、春は食事を用意しながら「おかえりー」と答えるところなのだが......。
自分の部屋に荷物を置いて洗面台で手洗いうがいを丁寧に済ませると、夕輝はリビングに向かう。
──良い匂いがした。
「......カレーだな」
扉を開けると、そこには座って黙々とカレーを食べている春だけがいた。
「......ただいま」
「......」
聞こえる程度には大きな声で言ったつもりだが、春はだんまりを決め込んでいる。
「......いつか、音永家三大ルール......って、お前に言われたんだけどな」
「......」
春は何も答えない。代わりにこう言った。
「ご飯が食べたいなら、カレー出来てるから自分でよそって」
夕輝はほいほいと答えてキッチンに入る。カレー用の大きい皿を上の食器棚から取り出して炊飯器に向かうと、適当にご飯をよそう。そう言えば、ご飯を「よそう」という表現は全国共通ではなく、中部や東北の日本海側では「盛る」、九州や瀬戸内海沿いの地域では「つぐ」と他にも地域ごとで様々なバリエーションがあるらしいが、そんなことを考えて気を紛らわそうとしても無駄だと気付いたのはすぐだった。
それより夕輝は、しばしの間やめていた"自分を思う"ことにした。
今この世界が"上手くいかない"世界なのだとしたら、少なくともこちらに本来いるはずの"夕輝"の存在が抹消されていることについては、説明がつく。
そんなもの端からいないのだ。この世界は、飽くまで"音永夕輝"単体に用意されたもので、つまりこちらの世界はあらかじめ舞台設定がなされている"失敗した世界"。だからこそ、こうも夕輝にとって都合の悪いことが重なっているのだろう。何一つ矛盾がない。
一方で、こちらの世界の人間が、1人として人間でないもの──言ってみればNPCのようなもの──であるとは夕輝には思えない。もっとも、ジョン・サールがチューリングテストを発展させて考案した"中国語の部屋"を考えれば、全員が言わば哲学的ゾンビで夕輝が気付いていないだけという可能性も否定できないのだが、そこまで言ってしまうともうあちらの世界でも主観的に夕輝が思考をしている以上同じようなことが言えてしまい、要は何が言いたいのかというと、相手がNPCであるかないかなどそこまで大事なことではないのだ。我思う、故に我あり。観察できないことは創造するか信頼するかしかないのである。
むしろ重要なのは、この謎の世界線をもっと明確に知ることと、そして誰が、もしくは何が夕輝をこんな状況に陥らせているのかを突き止めることである。前者をもう少し言い換えると、この世界は単純に上手くいっていないだけの世界ではないのではないか、ということ。
何故なら、例えばこちらが本当に上手くいっていない世界なのだとしたら、逆説的にあちらの世界で沙良が失踪したのが上手くいった結果だということになってしまうからだろう。これはちょっとした言葉の綾のようにも思えるが、これを言葉の綾で終わらせられない程度には決定的なことがあった。
マツリのことだ。
彼女だけがイレギュラー過ぎる。
元の世界では自称能力を持たない沙良の埋め合わせで、生徒会に関する秘密を何故か知り過ぎる程に知っている転校生。一方でこちらのおかしな世界では、茜よりも前から生徒会にいる人間であり能力者。能力は『秘匿』。
2人のマツリは、余りにも違い過ぎる。
元の世界のマツリが転校してきたタイミングも気になる。
「何でこのタイミングで......」
まるで、世界の入れ替わりに合わせたように彼女は現れた。
「いただきます」
夕輝はカレーに手を付ける。一口頬張ると、ほとばしるスパイスの香りが口の中に広がった。
「......うま」
呟いてみた。美味しいのは本当で、しかしながら夕輝が思っていたカレーとは少し違った。
「......これ、チョコレート入ってないな」
「......?」
その発言に、ぴくりと反応して春はこちらを睨む。何を言っているのかこいつは、という顔だ。それが、今の春との関係性......ひいては茜との関係性すらも、如実に表しているのだった。
「......美味いな」
呟いてみる。先程も言ったように美味しいのは本当で、けれどその味は、夕輝の心に空いてしまった途方もない穴を更に広げていくだけだった。
「美味い」
夕輝の握るスプーンが震える。理由は分からなかった。頭をちらつくのは、こちらの世界の茜の言葉。
──何の話ですか?
「......何なの?」
思考の波に身を委ねていたので、自分の目の前から聴こえてきた声に気付くには時間がかかった。
驚いて思わず顔を上げると、そこには春の、怒りにも似た表情があった。けれど、そんなやわなものではない。憤りの中に、どこか無力感すら感じられるような。
「何なの......!?」
春のカレーはもう綺麗に平らげられており、彼女はスプーンを握っていた。
「春?......なあ、どうし」
「何なの!?」
ガシャン、と金属音を立てて、春の握っていたスプーンが飛び跳ねた。
「......っ」
その音が刺すような空気に溶け込むと、代わってしん、と沈黙が襲った。
「......何なの......ねえ、何なの!? 何で......何でそんなこと言うの!?」
「え......?」
今の夕輝の心境を正直に答えるとしたら、すなわち"訳が分からない"だった。具体的には、"春が怒っている
"何でそんなこと言うの"。
「なあ春、せめて話を」
「うるさい!......
それから春はこう放った。
「私から
春はそのまま、食器も片付けずに廊下へ走っていった。
あの表情は──。
「......こっちもか」
昨日──こちらの世界での昨日──と今朝の春の反応を見ていれば何となく分かるようなことではあったが、しかしそれが実際どんなものなのかは夕輝には分からなかったのだ。
少なくとも、ここまでとは思っていなかった。
「母さんを、奪った......?」
その言葉を聞いてみると、これまでに何があったのかを大まかに理解することができた気がした。そしてそのことを思うと、あらかじめ設定されている世界なのだと知っていても、こちらの世界の過去の自分を殴ってやりたくなる。
「何してんだよ、俺......」
勿論、そんな人間はいないのだろうが。
このままご飯を食べ終わったら、風呂に入ってすぐに寝ようと考えていた。こんな世界にいるのが嫌だったから。確信はないが、これまでの規則に基づけば、眠ることで元の世界に帰ることができるのだと考えられた。
しかし、予定変更。むしろ逆だ。
あちらに帰ってはいけない。
「この状況をどうにかしなきゃな......」
突然始まったセルフ入れ替わり。某大ヒット映画のようにこれが女子の体と入れ替わっていておまけに時空も越えていたとかだったら夢が広がるというものだが、入れ替わっているのは夕輝と夕輝。もし仮にこれからもこの世界と付き合っていかなければならないのなら、問題の解決は早いに越したことはない。
「なら......やるか」
夕輝はこのとき、決意した。
人生16年の中で、一度もしたことのないことを決行することを。
そして、固く拳を握ったのだった。
「......くぁ」
滑稽な声が漏れる。夕輝の意識は昨晩から途切れず続いていた。
「......眠い」
徹夜は脳にも体にもよくない。完徹なら尚更だ。脳の内側がじんじんと締め付けられる感じがするし、どことなく浮わついたような感覚に陥る。
時計を見る。12月11日、火曜日を表示した時計はコンママークをメトロノーム60の速さで点滅させながら佇んでいた。
時刻は6時30分。
キッチンから音が聴こえる。キッチンオーケストラである。お鍋の蓋をシンバルにしないように。
徹夜明けの脳みそは割によく働いていた。そういうものなのかはよく分からないが、むしろ普段の2倍ぐらいのスピードで思考が回転している。
──何とか耐えた。あとはご飯を食べて、学校に行くだけである。
夕輝はしばらくしてオーケストラが終演を迎えるとリビングへと向かった。そこにどこぞのライトノベルのヒューマノイドインターフェイスよりも寡黙な少女がいることは分かりきったことだった。
「......」
「......おはよう」
夕輝はこの場で最低限の会話もしないことに決めていた。昨晩のこと──夕輝の意識はあそこからアナログに続いているのでそんな感じはしないが、あれがあったため少し時間を置いた方がいいと思ったのだ。
けれど朝の挨拶をしてしまったのは、それをしないことにとてつもない気持ち悪さを感じたからだった。どこかの妹に膝蹴りを入れられそうで胃がムカムカしたのかも知れない。
「......ご飯は」
「分かってる」
不機嫌そうに春が言おうとするのを夕輝は遮ると、そのままキッチンにて今日のご飯らしきものを発見した。
肉じゃが。
「......」
胸が痛んだ。夕輝は思っていた以上に、春にとっての大事なものを奪ってしまっていたのかも知れない。確かにこちらが夕輝の知らない世界であると認識すると、ご飯と肉じゃがを器によそって夕輝はテーブルに着席して手を合わせた。
「......いただきます」
「行ってきます」
小さく呟いて、夕輝は家を出た。
あの後、春とは一度も会話がなかった。しかし仕方ないだろう。こちらは失敗した世界なのだから。
こればかりは原因を探るしかない。すなわち、今の状態が生まれてしまった原因である。根本的解決をしなければ延々といたちごっこを続けるはめになってしまい、夕輝はそんなことは全くもって望んでいない。
こちらの世界の謎を探る。それと同時に、救うべき人間を救わなければならない。
いつもの流れで巧と合流し、昨日の話の続きのようなものをしながら教室に着くと、夕輝は隣の席に座っていた少女に声をかけた。
「......なあ、マツリ」
物憂げに窓の外を眺めていたマツリが振り向く。
「おはようございます」
「......ああ、おはよう」
「どうしたんですか、隈が酷いですよ。睡眠はしっかりとって下さい」
「......ちょっと、な」
まさか、こちらの世界に留まるために眠らなかった、とは言えない。言ったところでこんな話を誰が信じようか。
「......そうですか」
マツリは不審そうにこちらを睨む。
「で、何でした?」
「え?」
「何か用事があったのでは?」
「あ......ああ、そうだ」
夕輝はすぐに用件を思い出す。やはり頭は働いているようで働いていない。滅多なことがない限り、完徹はしない方が良いだろう。
もっとも、今回に限っては滅多なことだからこそ完徹をしたのだが。
「その......お前は、俺の妹を知ってるよな?」
「......ええ、春さんですね。よく覚えています。......あんなことがありましたからね」
マツリが少々俯きがちになる。言葉には含みがあり、息混じりの声はいかにも気になる感じだった。
「その話、詳しく聞かせてくれないか?」
「......は?」
そう頼んでみたものの、始めはそんな心ない声が返ってくるだけだった。
「音永夕輝......ヤバい奴じゃないですか」
綺麗で華麗な声からは想像もつかない変な言葉がマツリの口から発される。お前そんなキャラだったのかよと突っ込みたくなる程。しかしその反応は、夕輝が春について起こったことを知っている
「言い方が悪かったな......つまりだな、俺はあの時何があったのかを具体的に思い出して、反省をしたいと思っているんだ」
「......」
ワニのような細い目でじとー、とこちらに目を向けることを辛うじてしているマツリ。クラスで1人だけ浮いている奴を見るような目だった。フォロー一切なしの、である。そしてとうとう彼女が放った言葉がこれである。
「......え? 今何て言いました?」
「......あのな......」
夕輝はほんの少し呆れるものの、むしろ客観的には呆れられるべきは夕輝自身なのだ。
「だから......」
マツリの話はこうだった。
春は元の世界と同じように『創造』能力に目覚めた。それが2ヶ月前のことで、本来松山の能力では能力発現の10ヶ月後でないとそれを探知できないが、夕輝自身が春が能力を使っている姿を見てしまい、事態の発覚に至ったらしい。
見てしまい、と言ったものの、春は隠す気も全くなかったようだった。理由は分かるだろう。
彼女は母を造ったのだ。そして、例によってまた家族4人でやり直そう、とそう持ち掛けた。
間違ったのはここから。
夕輝は激昂し──コピーしていた『先入』能力で春にこう言い聞かせたのだ。
──もう母さんは死んだんだ! こんなところに母さんがいるなんてあり得ないんだよ──!
それは確かに紛れもない真実で、ちゃんと認識しておくべきことではある。
けれど、以前の春が本当にそんなことを分かっていなかったのかと言えばそうではなかった。
分かった上で春は、亡き母の姿にすがっていたのだ。
けれどその先入能力のせいで、春は母を『創造』できなくなった。
「......嫌によく出来てる」
その場にはマツリも居合わせていたと言う。マツリと夕輝の2人だ。そして夕輝が今日、マツリにこのことを尋ねた理由はそこにあった。
昨日の行動を見ていただけでも、マツリがこちら側の生徒会でリーダー的立場を担っていることが分かったからだ。だから、マツリなら知っていると思ったし、それは想像通り正解だった。
「......で? これで良いですか?」
「ああ、助かったよ」
「......しかし昨日のことと言い、記憶喪失にでもなったんですか?」
「......」
記憶喪失。冗談のようにマツリは言うが、実際のところ記憶がないので何とも反応しづらい。誰か代わってくれないかな。
「なんて、言ってみただけですけどね」
「......」
マツリという奴はどうもよく分からない。天然のポーカーフェイス感を醸し出す雰囲気は元の世界でもこちらの世界でも変わらず、言動一つ一つが重要に思えるし、そうでないようにもまた思えるのだ。
しかし彼女のおかげで、根本的な原因は分かった。春の言葉と照らし合わせても明白だろう。
寄り添えなかった。それだけだ。
「こんなに小さなことなのにな......」
それでもこちらの夕輝にはできなかった、と言うことだ。
こちらの夕輝と夕輝とでは、何が違ったのだろうか。......なんて、いない人間と自分を比較しても仕方がない。ただ、こちらが都合の悪い世界であるというだけだ。
解決方法は──以前、夕輝がやったようにすればそれで良いのだろうか。
そう考えてはみたものの、それは違うなと思った。2ヶ月の間、こちらの春と夕輝は険悪な状態のままで過ごしていた。マツリの話を聞いた限りでは、夕輝も春に対し怒っていたようだ。今、春が夕輝に抱いている感情に近い感情を夕輝が春に感じていたっておかしくはなかった。少なくとも、こちらの世界の設定的には。
「まずいな......」
これでは解決法がまるで浮かんでこない。実際に自分が体験したことでないため、適切な対応が直感的には思い浮かばないのだ。分かりやすく言えば夕輝は今、主人公"音永夕輝"を操るアドベンチャーゲームをやっているような状態で、しかもあの手のゲームとは違い、分かりやすい選択肢などありはしない。
キンコンカンコンとチャイムが溶け込むように鳴り担任が登場する。起立の礼に少し遅れて、夕輝は席を立ち上がった。
全く集中できない授業の放課後、夕輝は眠らないようにすることだけに気を付けながら教室にいた。普段ならだいたい今より少し前の時間ぐらいに松山から連絡が来るが、今日はまだ来ていないので能力者は現れていないのだろうか。
「......?」
何気なく窓の外の景色をぼんやりと眺めていると、気になるものが目に映った。
「あれは......」
夕輝のクラス、1年1組の窓からは校門の外が少し見え、巧と合流する信号機までは何とか見えたりするのだが──夕輝はそこに、見覚えのある人影を発見したのだ。
「マツリ」
「......はい、何でしょう」
「今日はもう、能力者は大丈夫そうだよな。......俺、帰るよ」
「え、あ、はい。では私もそうするとしましょうかね」
マツリは呑気に言いながら鞄を背負うが、今の夕輝には待っているだけの余裕がない。
「俺、急いでるから先帰るな」
「......誰も音永夕輝と帰ろうとなんてしていませんが」
最後の余計な一言は聞こえなかったことにして、夕輝は教室を飛び出した。
「あれ......春だよな」
視力が人より幾分か良い夕輝でも、教室から道路までという長い距離があると流石に100%正確な判別はできなかった。けれど、立ち振舞いや歩き方なんかから、夕輝は今一瞬見かけた少女を妹であると直感的に判断したのだ。そしてそれは見事に当たっていたようで、あの信号を進んだところに春はいた。私服だった。
「......流れで来たけど......これ、大丈夫か?」
確かに今日は春のことを気にかけていたし、春が私服でポーチだけを身にまとってどこへ向かわんとしているのかは気になる。
が、夕輝は現在その春をこんな開けた場所で尾行しているのだ。
始めは無意識だった。気付いたら彼女を発見しており、気付いたら春に気付かれないようにと物陰に隠れながら彼女を追い掛けていた。
尾行を始めて5分。端から見ればストーカーである。
まして夕輝は制服でこれを敢行しており、かなり目立つ。それに加え兄だからと言って春をつけるのはプライバシーの侵害でもあり到底許されていい行為でないのは明白で、更に言うならば一体どれだけの人間が夕輝と春の関係性を一目見ただけで兄妹だと把握するだろうか。きょうだいとは元来、他人だと断定していい程顔つきが異なるものではないが、見ただけで分かる程似ているものでもない。勿論例外はある。が、夕輝の場合はそうではない。兄から見ても春は芸能界でやっていけそうな程度には可愛く、つまり夕輝とはあまり似ていない。目元ぐらいである。
「......やめよう」
万が一これが警察沙汰とかになってしまったら、やれ春の問題だのこちらの世界がどうだの言っていられなくなってしまう。現状を余計な因子で更に混濁させてはいけない。
と思っていた矢先──。
「......?」
春が立ち止まった。と思いきや、再び歩き始める。方向を変えて、角を曲がったのだ。
夕輝は最後に春がどこに向かおうとしているのかだけでも確認しようと思い立ち、小走りでその角へ向かった。
方向転換をすると、すぐそこに大きな建物が見えた。
「......ボウリング場?」
「......」
よもや春にボウリングをする趣味があったとは到底思っていなかった夕輝はそれに少しばかり驚かされたが、その感情は春が入っていった入り口に貼ってあるポスターを見るとすぐに発散した。
"AROUND1×スライまる 条件達成でぬいぐるみGETのチャンス!"
大きな文字と共に、それより大きくスライまるのイラストが描かれている。赤いはちまきをした寝ぼけ眼のスライまる。体は当然白い。ボウリングのピンを彷彿させるそれは、うちにいるのとそっくりだ。元の世界のうちにいるのと。そっくりでなければおかしいというのはそうなのだが。
と言うかスライまるが登場する作品ではなく、あくまでスライまるとのコラボというキャンペーンなのだろうか。それに、GETを英語表記にするならチャンスも英語に統一すればいいのに、どうしてこうも日本人はややこしいことばかりするのだろう。逆に違和感を感じて内容は覚えられるという企業戦略のつもりなら、まんまと戦略にはまってしまっているな。
なんてどうでもいいことを考えながら夕輝はその扉を押して建物の中に入った。ほんの出来心だ。
──どうも、ストライクというのは難しく、夕輝は先程から1本だけピンを残してばったばったと他を薙ぎ倒すという画質の荒いドラマに出てくる将軍様さながらの成績を示し続け、毎度9本に終わるかスペア。後はたまに謎のガーターで1本も倒せなかったり──何故、満喫しているのか。
春は5つ隣のレーンでボウリングに1人熱中しており、夕輝に気付く様子はなかった。これでもし隣のレーンとかにされてしまっていたら、今頃大変なことになっていたかも知れない。ちなみに学生なので割安だ。
「......特に変わった様子はないな」
春を見て、夕輝はひとまず安堵する。春の方は夕輝よりも少し授業が早く終わるという根本的なところは元の世界と変わっていないようだったので、あの時間に私服で春が外を歩いていても何ら不思議はなかったのだが、行く場所については見当も付かなかったので、こうした比較的健全な場所に来ていると分かると安心できた。
春の投じた褐色のボールがピンを倒す。3本片側に残ったのを確認したところで、夕輝もボールを構える。
頭上のモニターに映し出されているピンの配置図のうち、2番と9番のピンだけが赤く光っている。たまに出てくるこれこそが先程見た"条件達成"というやつであり、要は赤く光っているピンだけを倒さず残せれば景品獲得、ということだ。
「流石に厳しいだろ......」
これを春がやろうとしているなら、悪いことは言わないのでやめろと言いたい。いや、しかしAROUND1とのコラボぬいぐるみはAROUND1でしか手に入らない国宝級グッズ。コラボは今だけなので価値は高いのだろう。
「俺は......やらないけどなっ」
言いながら球を投げる。勿論ストライクを狙った。目的変わってるぞ、と言うツッコミはなしだ。何故ならもともと流されるように来たからであり、目的などないからだ。一巡したら帰ろうとか夕輝は考えていた。
カーン、と気持ちのいい音が鳴って、真ん中に佇んでいたピンから順に倒れた。見事にストライクが決まった......と思いきや、先程までと同様ボールが一気にエネルギーを失い右に反れる。
「......くそ」
また1本2本残る。そう思いながら球の最期を見届ける。
最後に残った
「......嘘だろ?」
自分の表情が苦笑い気味にひきつっているのには気付かない。残ったピンに釘付けになっていたからだ。
2番と9番のピン。モニターと見比べても、間違いない。
「......」
"スタッフを呼んで下さい"と古くさい字で表示されている。夕輝はすぐに、近くにいたスタッフに声をかけた。
受け取ったスライまるは思っていたより小さく、手のひらサイズだった。
「まあそうだよな......」
ボウリング超初心者の夕輝でも偶然に手に入れてしまう程には簡単なチャレンジなのだ。一つ一つが大きいと、いくら大手AROUND1でもコストがきつそうだ。
夕輝は自分のレーンに戻ると、たまに春を気にしながらそのまま最後のラウンドまでをノーストライクで終えた。これが野球なら偉業だったのだろうとか訳の分からないことを考えて、夕輝は通学用バッグにスライまるを入れた。
「......帰るか」
春の方は......彼女は彼女で帰宅の準備をしていた。もうスライまるは諦めるのだろうか。春らしくはないような気もしたが、こんな場所に中学生1人で長居するのも良いことではない。賢明な判断だろう。
夕輝は借りていたシューズやら球やらを返却すると、春に見付かってしまわないように少しタイミングをずらして会計へ向かった。先に会計をしていたチャラそうな男2人が行くと、夕輝はさっさと代金を支払う。
「ありがとうございました~」
女性スタッフの柔和な笑みに見送られながら外に出る。少し肌寒かった。
春は既に見える範囲にはおらず......恐らくもう家へと歩を進めているのだろう。夕輝が呑気に歩き出したところ──。
「............て......い!」
どこからか、声が聴こえた。その言葉は聞き取れなかったが、1つだけ分かることがある。
夕輝のよく知っている声だった。
「......?」
何だか嫌な予感がして、夕輝は考えるともなしに走り始めた。次の瞬間、
「やめて下さい!」
大きな声が聴こえた。
間違いなく、春の声だった。怯えるような声。すぐに夕輝は声のした方へと曲がり角を曲がる。
そこにいたのは。
「ねえ、ちょっとぐらい良いでしょ?」
「おにーさんたち、悪いことはしないからさぁ」
にやけ顔で怯えきった春の表情を舐めるように見つめながら、男たちは春に迫っていた。片方の金髪は春の片腕を無理矢理掴んでいる。
絵に描いたようなヤンキー。しかも彼らは夕輝が先程会計のときに目にした2人組だった。
「ほらおいでって。欲しいものあるなら買ってあげるよ?」
「────!」
夕輝はもうほぼ無意識で飛び出した。今日日、中学3年生を物で釣ろうとする時点で愚かなことに間違いはないだろうが、夕輝はそんなことはどうでも良いぐらいに憤りを感じていたのだ。
春が涙目になる。
「やめ......」
「やめろ!」
「っ!?」
春とヤンキー2人の注目がこちらに向く。曲がり角1つで開けた道に出るような場所なのに、ここは殆ど人通りがない。
「何で......」
「妹に手を出すな!」
一瞬、警察に悪事がバレて追い詰められたような表情をした2人はしかし、そのときにはもう余裕の笑みを浮かべていた。
「......ぷっ。もしかしてこの子のオニイサン? ボクたちに歯向かうなんていい度胸してんね」
言いながら、男の片方はポケットに手を突っ込む。春の手を握っている方の男だ。
彼はポケットから、素早くナイフを取り出したかと思うと。春の首元に押し付けた。
「っ......!」
春は目を見開いて硬直する。
「お前!」
「この子がどうなっても良いのかな? 良くないよね? 妹さんだもんねぇ~」
「許してほしいなら今すぐそこで土下座しろ。君の大大だ~い好きな妹さんを傷付けたくないならな!(
「ぐっ......」
一瞬にして夕輝は、絶望の淵に追いやられた。どうしようもない状況だ。
春を傷付けようとしている奴ら2人が許せなかった。けれど、このままでは本当にそうなってしまう。
夕輝はすぐに決断した。
その場に膝を折り曲げて座る。
「......くはっ。ざまぁねえなお坊ちゃん! ほら、早く地面に頭付けろよ! あぁん!?」
「兄ちゃん......」
助けを乞うような春の声が鼓膜を揺らす。
「──!」
夕輝はそのままだらん、と頭を地べたに付けた。激突させた、と言っても過言ではないスピードで。
前にいる男が嘲笑うように夕輝の頭を踏みつける。
それを確認するより早く、夕輝はすぐに──
「──ぐえっ」
カエルのような滑稽な声を出しながら、前の男が吹き飛んだ。夕輝が吹き飛ばしたのだ。
「ケ......ケイ、てめ何をぐふっ!」
尻餅をついていた男の腹を全力で蹴る。血でも吐くかと思ったが、口からは汚い唾が出てきた。
春は慌ててその男の間を駆ける。
夕輝はその間に、思い切り壁に頭突きした。
「兄ちゃん!」
春が体を揺らす。夕輝はむくりと起き上がると、目の前で干物になっている男と頭突きで脳みそをくらくらさせているケイなる金髪を確認した。
「......春、逃げるぞ!」
春の手を引いて走る。
「まち......やがれ......」
夕輝の頭を踏んづけていた忌まわしい男の断末魔が聴こえるが、気にもしない。
そのまま夕輝たちは5分かけて、焦ったままの心境でマンションへと戻った。守衛が威張っているエントランスの向こうへ入る。
「はぁ、はぁ」
「......っ」
息を切らして、夕輝はその場に倒れ込んだ。
「危なかった......」
呟くと、今更ながらにおでこが痛いのに気付く。ただでさえ乗り移りのときにごつごつしたコンクリートにぶつけたと言うのに、その後頭を踏んづけられて擦りむいたのだ。触れてみると、ちょっとだけ血が出ている。
はあ、はあと力なく息をする。体は酸素を大量に欲していた。
「......」
そしてしばらくそうした後、やっと、まだ怯えた様子の声で春が溢す。
「......何で」
それは、か細い小さな言葉。落ち着きを取り戻したように振る舞っているようにも聞こえたその小さな声は、あのヤンキー2人に向けられているものではなかった。
「......何で助けたの?」
それは夕輝に向けられたもので、しかしとても純粋な疑問のようには聞こえない疑問文だった。表情は窺えない。
「......春?」
「誰もそんなこと頼んでない」
やたら無機質な声と言葉が無人のエントランスに響き、やがてぼんやりと消えると、またゆっくりと春は言う。
「私......そんなこと頼んでないよ」
立ったままの春は殆ど独り言のように淡々と言葉を連ねていた。
「何も頼んでない」
「......なあ、本当に......」
「......助けてとも言ってない」
どうしたんだ、という言葉は遮られた。春の声は虚ろで、少なくとも夕輝の知るものではなかった。
「兄ちゃんのことなんて呼んでない。怖いとも、嫌だとも......言ってない」
「春、話を」
「あのくらい1人で何とかなったし、兄ちゃんの助けなんていらなかった。1人でも......怖くなんてなかったのに......」
そう言って、春は言葉を詰まらせる。それこそ、本当につっかえたみたいに。
春は依然、独り言を続ける。
けれどその理由が──独り言を続けた理由が、独り言でなければいけなかったから、夕輝にそれを訴えてしまったら、感情が溢れてしまうからであることを夕輝が理解したのは、どちらかと言えば怒りや呆れといった感情をもって起き上がり、妹の表情を見たときだった。
「お前な......」
とまで言ったところで、夕輝の思考は止まった。同時に言葉も出なくなった。
こんな表情の春を目の当たりにして、そうならないという方が無理な話だった。
「なのに何で......」
ぽろん、ぽろん。
小さな雫が2粒、"奇跡"みたいに落ちる。
奇跡とは、人々が神様から授かるもの。
春は生命の誕生のような、天使の羽がひらひらと落ちるような、あるいは満開の花が一面に広がるような、温かく穢れのない涙をそこに落とした。
「何でっ......」
「......はる」
「何で私のことなんて助けたの? 何でまた優しくするの? 何で、何でまだ......」
やっと立ち上がると、反対に春は自らの顔を両手で押さえて膝から崩れていった。やがてそこに膝をつける。
「私のことなんてどうでもいいくせに......」
春は悲痛な声を漏らす。夕輝はそれだけで、心が苦しくなった。夕輝はこうも春を苦しめていたのだろうか。これでは先程のヤンキーたちと何も変わらない。春を追い詰めて、大切なものをいくつも奪っていたのだ。
自分が憎かった。夕輝は夕輝と夕輝の両方が憎かった。
けれど、春が次にこう言ったとき、夕輝はそれら全てを踏まえても、全くもって不十分だったのだと始めて気付いた。
「......それなのに、何で私を見捨てないの? どうしてまだ一緒にいてくれるの!?」
「え......」
始めて春が声を荒げた。感情に任せて、自分の言葉も殆ど理解できていないのかも知れない。それでも春は叫ぶのをやめなかった。
「私のことが嫌いなくせに!」
「......春」
「大嫌い......」
「春」
「兄ちゃんなんて......大嫌い!」
「春!」
「っ!」
息継ぎもせずに叫びきった春は、びくりと肩で息を吸った。沈黙が流れ、はぁ、はぁと荒い息遣いだけが耳に届いてきた。
「......春」
ゆっくりとその場に屈む。春と同じ高さになったところで、夕輝は──静かに春を抱き締めた。
「っ!」
同じような体験ではあるものの、それは夕輝にとっては全然違うものだった。
「俺は春のこと......嫌いになんてならない。どうでもいいなんてこれっぽっちも思っちゃいないし、すごく感謝してるんだ」
「何言って......」
夕輝は、自分の罪をできるなら許してほしかった。けれどもう、それを許可するのは春だけではなくなっている。いくら春が許してくれようとも、夕輝には許せなかった。
けれど、だからこそそっと囁く。
「......ごめんな。俺は春が大事にしていたものも、母さんへの想いも、全部奪っちまった。ずっと......ずっと謝りたかったんだ」
「......そんなの......」
春の体がぶるぶると震える。
「そんなの......知らないよ......。聞いてないよ......。もう、遅いんだよ......」
「......ああ。分かってる。今更、何言ってんだろうな......」
春がまた、肩を濡らしている。これで2度目だ。できればこんなことは繰り返したくなかった。
早く、終わらせなければならない。
そして早く、始めなければ。
「だからさ、春......」
春の滑らかな髪の感触をほのかに感じながら、夕輝は言った。願うように、あるいは乞うように。
「許してくれなくていい」
「......っ」
「ずっと俺を大嫌いなままでいいんだ。ずっと俺を恨んだままでも構わない。俺が、春の分も春を好きでいるから......」
「......そんなの......」
「だからもう、自分を責めないでくれよ」
「......そんなの......!」
春はたぶん、自分を嫌っている。自分のことをずっと責め続けて、ずっと救われないでいたのだ。
何故なら春は、本当は母がいるはずがないことも分かっていたのだから。
「そんなの......ずるいよ! そんな風に言われたら、私もう......何も言い返せないじゃん!」
「うん......ごめんな」
嗚咽混じりの声が届く度、夕輝の心臓が痛む気がした。そしてその都度、受け入れることは願うことの何倍も辛いのだと実感する。
あのとき、夕輝は春が許してくれないことを恐れた。
10月のあの日。
今は真逆だ。春が許してくれないことを受け入れなければならない。
「......ごめんな、春。でもこれだけは伝えさせてくれ」
夕輝は小さく呟く。
「いつも、春に本当に助けられてる。母さんがいなくなったときも、父さんがいなくなったときも、いつでも春はずっと俺のそばにいてくれた。どんなに落ち込んだ日でも、春のおかげで頑張ろうって思えたんだ。だから......ありがとうな」
「っ......!」
感謝だけは伝えたかった。本来はこちらの夕輝が伝えるべきであろう感謝。しかし夕輝にとっては彼女は同じ妹の音永春なのだ。
何より、夕輝はあの10月、春に感謝を伝えられなかった自分を恨んだことがあったから。
返事はなかった。
「さ......帰ろう」
エントランスでいつまでも中学3年の妹を抱き締めていると、社会的に抹殺されてしまう。春も春で友人とかに会ったらまずいだろう。
春は何も言わずに付いてきた。俯いたまま、夕輝の後を。
「いただきます」
「......」
また、春は何も喋らずに黙々と箸を進める。もしかしたらしばらくはこんな日が続くのかも知れないし、もっと言えば二度とあんな日は戻ってこないのかも知れない。けれど、それでも良かった。
ご飯、サラダ、味噌汁に唐揚げという男子高校生にありがたい夕食を次々と口に運び、飲み込む度に嫌な感情が胸を疼かせた。大きく息を吐いても絡み付いて出ていかないあの感覚だ。
そして、きっと完全には癒えないのだろう。
けれど受け入れなければならない。
きっと春は、その何倍も苦しんだのだろうし、今もきっと苦しんでいるのだから。
「......美味い」
もしかして、感謝を伝えることが余計に春を苦しめることになるかも知れない。春自身が耐えられなくなることはまた来るかも知れない。
けれどそれはきっと、感謝を伝えずに募るだけの痛みよりは何倍も何十倍も優しいものだ。
「......これ、春が揚げたんだよな」
こくり、と春が躊躇いがちに頷く。
「店で出るのよりずっと美味い。また作ってくれよ」
「......」
言ってみたものの、今度は春は反応を見せない。また彼女のセンシティブな部分に触れてしまったのかも知れない、やってしまったか、と思っていると。
「......うん」
小さく、春が返事をした。
「......」
驚きの方が大きくて、夕輝は声を出せずにただぽかんと口を大きく開けていた。
「ごちそうさま。......先、お風呂入るね」
「え......ああ」
「......兄ちゃん」
「な、何だ?」
女子に屋上へと呼び出された硬派な男子みたいな返事になってしまった夕輝は、ごくりと唾を飲んで身構える。無感動に言葉を連ねる春は今、何を言わんとしているのか。
彼女が口にしたのは、こんな言葉だった。
「──明日は、
「え......」
割合そっけない言葉は、それだけで夕輝の気持ちを昂らせた。と言うよりこのときは、混乱して何が起こったのかも認識できなかった。辛うじて出た言葉。
「分かった......」
夕輝はそう言うと、味噌汁を口に含んだ。
むせた。
「げっほえっほっ! がっ......」
「ちょ、汚い」
「......ごめん」
「......気を付けてよ」
夕輝が丁寧に謝罪すると、春はぷいとあちらを向いて風呂へと歩いていった。
「......」
少し広くなった部屋で、夕輝は1人、考える。
春は果たして、何を考えて今の発言をしたのだろうか。
春は夕輝に何を思ったのか。
正しい解答を導くとしたら──。
しばし考えて、夕輝が出した結論はこうだった。
「......分からん」
と言うのも、実際はそうではないのかも知れない。夕輝はそこまで鈍感でも、空気が読めないわけでもない。
けれど、これは夕輝自身が決定してしまってはいけない問題だと分かった。
例えば、春は寄り添おうとしてくれている。
例えば、春は夕輝と向き合おうとしてくれている。
例えば、春は始めからこうなることを望んでいた。
──そのどれもが、本当は間違いではないのかも知れない。夕輝にも推測できることだった。
けれど、それは夕輝が認めていいことではない。少しずつ、理解していかなければならないことだった。
だから、明日はりんごを買おう。少しでも、ほんの少しだけでも近付けるように。
茶碗のご飯の、最後の一口を口に入れた。
その後、春と入れ替わりに風呂に入ると急激に眠気に襲われた夕輝は、すぐに布団に入った。確か8時だった気がする。1日分の睡眠をしていなかった夕輝は、某ねこ型ロボットに出てくるポンコツのび○くんもびっくりの速さで泥のように眠った。
そして
今度は、今までで一番不思議な、奇妙な夢だった。
それは、抽象的で中途半端な、
暗い空に亀裂が入って、それらが堕ちていくという、それだけの夢。
けれどそれがどんな場所かも分からなければ、まるで文字で事実のみを伝えられたように実体がなく、空の色も、空が剥がれ堕ちている様子も分からない。ただ、その概念があるだけだった。
スペクタクルにもならないそれは、はっきり言って何の有効性も持たない頭のおかしな夢。薬物中毒者でももう少しマシな幻覚を見るというぐらいには、それは軽薄で、今にも消えてしまいそうな光景だった。
──けれど、その夢を見たとき、夕輝はその光景を──美しいと思った。
同時に、途方もなく残酷だとも錯覚した。
その両方の事実と、鮮烈な感慨が、
天然の未です。以前まで約25000文字程度の連載を週1ペースでしていたため、今回のように40000文字近くなるとペースが落ちちゃったりします。すみません。
次回もどうなるか見当が付いていませんが、今後ともよろしくお願い致します。
※追記 第一幕のタイトルを間違えるという失態を犯していました。作品への愛が足りませんでした。すみません。
実は準備段階では"絶望の再来"となっており、それをそのまま気付かずに使ってしまっていたんですね。準備自体は数ヶ月間徹底してやっており、何よりストーリーの詳細を決定する辺りまでずっとこのタイトルで進めてきて、最後の最後に変更してしまったためこのようなミスにつながってしまいました。深く反省をしたいと思います。