Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
文字数が多くなると1週間ペースでギリギリだということが分かってしまい、いえ言い訳じゃないんですが、どうしても時間がかかってしまいます。
言い訳じゃないんです。
というわけで、毎回待たせてしまって申し訳ないのですが、三幕目に入ります。
朝。
起きて始めに確認したのは、今日が火曜日であるということ。時計を見てもニュースを見ても、その事実は全くそのその通りだった。
やはり、睡眠が鍵であることは間違いなさそうだ。
「夕輝、どうした?」
「え?」
スライまるをぼーっと見詰めていると、不思議そうに声をかけられた。
「ああ、いや何でもない」
「......そうか? ならいいんだけどな」
「......」
それからまた、ご飯に一口手を付ける。今日は珍しく春が少し寝坊してきたので、鯖の缶詰をそのまま食べている。春が銀のやつ、夕輝が金のやつである。
「美味いな」
「ただの鯖缶なんだけどね」
春はスライまるの頭をちょんちょんと触りながら喋る。妹の春より食べるのが遅い夕輝は、そのいつも通りの光景を目にしてほっとしていたのだった。
ひとまず、帰ってくることはできた。あちらで春の件があってあたふたしていたため、こちらに戻れないことがあるやも知れないなど考えもしなかったが、いざ目覚めて実際にこちらが夕輝のいた世界だと分かると、妙な安心感がある。
「あ、そだ兄ちゃん」
「どうした?」
「近くのボウリング場で今、限定スライまるがGETできるキャンペーンやってるんだ」
「......ほう」
知っている。というかこちらでもそうだったのか。少々感心しながら夕輝は鯖を口に運ぶ。
「うちに本物がいるからいいだろ」
「まあそれもそうなんだけどさ......今週末にでも行こうよ、ボウリング。たまには兄妹でお出掛けしよう? ずっと家にいてもつまんないよ」
「まあ、確かにそうだが」
「じゃあ決まりだね。スライまるも一緒に行こ」
ということは、またいつしかのようにぬいぐるみのふりをさせて連れていくのだろうか。
「おう! 俺はそれなりにボウリングが上手いんだ! 楽しみにしてろよ!」
「いや、お前その体でどうやってボウリングするんだよ」
「......なっ!」
異世界に召喚される前の記憶をそのまま話したスライまるにはそのことは盲点だったようで、かなり震撼している。言葉も出ないご様子だ。
「てか、そんな話ばっかしてると学校遅れるぞ。もう7時40分じゃないか。春、支度してこい」
「ほんとだ......急がないと」
春はスライまるの頭を触っていた手を止め、春は廊下へと消えていった。その後ろ姿は夕輝のよく知っている春のものそのものであり、振る舞いも話し方も、あちらの世界の春とはやはり少し違う。
食事を終えた夕輝は手を合わせて小さくごちそうさまと呟くと、もう一度スライまるを見た。だんだん緑色が薄まっていく。
「......やっぱり、いるんだよな......」
「どうかしたか?」
「いや、何でも」
先程と何ら変わらないやり取りをして、スライまるがまたあるはずのない眉を寄せる。気付かないふりをして、夕輝はすぐに皿を片付けキッチンを出ると、洗面台へと足を進めた。
確かに日常に帰ってきたのだということを噛み締めながら。
「行ってくるなー」
「あ、行ってらっしゃい」
制服を来ていた段階の春が出てくる。夕輝のよく知っている春だ。彼女の見送りを受けながら玄関を出ると、また今日も一際寒い日であるとすぐに気付く。昨日と同じくらい──と頭の中で唱えてから、よく考えてみれば昨日も今日も同じ火曜日だったことに気付く。
あちらとこちらで気温やら何やらは変化したりするのだろうかと問題提起をしてみたが、それはまた追々確認するとして夕輝には一つ、確認しておくべきことがあった。
忘れてはいない。それは体感での昨日にあたるあちらでの火曜日の朝に、夕輝が間違って本来尋ねるべきでない人間に尋ねてしまった問い。
エレベーターを降りてエントランスを出ると、夕輝は交差点で巧と合流。すぐに切り出す。
「......なあ、巧」
「挨拶もなしにいきなりだな......。どうした?」
「ああ、いやその......あいつのこと、どう思う?」
「あいつ?」
巧は反射的に尋ねるとしかし思考を巡らせて、直感的に答えにたどり着いた。
「......ああ、あいつか。えっと......小野寺、マツリ?」
「......西園寺じゃなかったか?」
「そうだったか?」
これはあれだろうか。二択の問題を毎回間違えるから毎回自分が思っているものと違う方を選ぶのだがその度に自分の記憶が正しくそれ故間違えてしまう現象だろうか。
「まあいいんだ。とにかくマツリだマツリ。何か不気味じゃないか?」
完全に言い方がお祭り騒ぎのときのそれだったことは置いておいて、巧の返事を待つ。彼は少し難しい顔をしていた。
「......まあ、確かにな」
巧は同意のサインを送る。彼のような馬鹿正直なタイプの人間は言葉通り嘘がつけないので、それが本心であることは確かだ。しかし巧はそのまますぐに、やや縮こまった顔をほどくと、笑顔に戻ってこう言った。
「けど、取りあえず良いんじゃねえの? もしかしたら悪い組織のスパイだったりするかも知れないんだろうけどさ、そんなのは分かったときにどうにかすればいいだろ」
能天気とも取れる発言だが、巧が言うと何だか頼もしいような気がする。実際何もしない奴なのに、説得力があるのはどうしてだろうか。
「その自信は一体、どこから湧いて出るんだよ......」
膵臓のランゲルハンス島のC細胞とかだろうか。
「......そりゃ俺も変な奴だとは思ったけどさ......どうも、悪い奴には思えないんだよな」
「......」
そうか? と夕輝は尋ねてみたくなった。少なくとも彼女から溢れるアンニュイオーラは彼女が全く計り知れない未知の存在であることを示しており、彼女が悪い人間であるかも夕輝には判断できなかった。それは、こちらの世界でもあちらの世界でも同じだ。
「......ちょっと似てる、ってかさ」
「え?」
「......いや、何でもねえよ」
巧フィルターはもしかして彼女のアンニュイオーラをこし出したりできるのだろうかとか馬鹿なことを考えていたせいで、巧が小さく呟いた言葉は聞こえなかった。聞き返してみたもののどうでも良さそうに濁されたので、追求はしないでおいた。
下駄箱で靴を変えると、夕輝と巧は教室へ向かう。
ちなみにランゲルハンス島にはA細胞、B細胞、D細胞はあるが、C細胞はない。C細胞があるのは甲状腺だ。日本語では濾胞傍細胞というらしい。
いざ教室に到着して自分の席へ向かってみると、分かってはいたのだが隣の席に彼女がいたから驚いた。夕輝は何もダブルミーニングでクラスの男子のマジョリティを煽ろうとしているわけではない。
ただ、夕輝は彼女の姿を見て思わずどきりとしてしまったのだ。朝弁を終えて弁当箱を仕舞わんとしている姿は、いつも通りの彼女。けれど夕輝が呼吸を忘れそうにまでなる理由は、彼女が単に美しいからというだけではなく、夕輝にとっては3日ぶりの再会だったからだ。土日と同じと言ってしまえばそれまでだが、その間の2日はとてもイレギュラーで思いがけないものだったため、やはり大きな違いだろう。
「......」
「......」
どうも照れくさくて声をかけられずに着席するのだが、よく見ると茜も夕輝と同じように夕輝の存在に気付きつつもわざとらしく視線を逸らしている感じだった。
それで思い出す。確かこちらの世界での昨日、茜とのちょっとした誤解が解けて──流れでハグをしたりしなかっただろうか。更に言うと、夕輝は何か恥ずかしいことを言ってしまったような記憶に苛まれている。
──嫌いになんてならないよ──
その言葉が自らの声で再生されると、夕輝はとても居たたまれない気分に陥った。ふと左の席を見てみると、まだマツリは来ていないのだと分かった。
「......お、おはよう」
「お、おはようございます」
こちらに体を向けてすらいなかった茜が声をかけた瞬間に返事をしてきたので少し不意を突かれる。茜は茜で思うところがあるのだろうか。つまり、自分から夕輝を抱き締めに行ったこととか。
茜はほんのちょっと体をこちらに傾ける。「ん......」と甘い声が漏れた。息を殺していたみたいな。
「......えっと、その......昨日は、よく眠れましたか?」
「......え?」
急に脈絡のない質問を投げ掛けてきたため反応に遅れる。
「え......っと」
夕輝はコンマ1秒の時間を最大限に使って考える。夕輝の主体的な感想を率直に述べるとしたら、『よく眠れた』で良いのだろう。何故なら夕輝はその前日寝ておらず、三大欲求的には0:0:100の割合で昨日の体が睡眠を欲していたからだ。そのぐらいに眠かったため、眠ること自体はあまりにも容易く、快適な睡眠を楽しめたと思う。
しかし、こちらはあちらの世界ではない。こちらこちらあちらあちらうるさいな。何か名称を考えた方が良いのだろうか、とか考えつつ、とにかく今はこちらの世界基準で感想を言わなければならなかった。単に『よく眠れた』と言うのをやめるとしたら......。
夕輝は気恥ずかしさでかなりテンパっており、最終的には殆ど思考を放棄してこう答えた。
「......全然......よく......眠れなかった」
「......え」
返答が以外だったのか、茜は一瞬、言葉を詰まらせた。しかしすぐに返す。
「えっと、夜更かし......とか? だ、駄目ですよ、早く寝ないと......」
「いや、そうじゃなくて......」
今更ながら、ただ『よく眠れた』と答えておけばよかったと後悔した。と言うより、何故そう言わなかったのか疑問を抱く。奇をてらう必要はないはずなのだが、今もこうして茜の言葉を否定してしまった。つまり何かしらの言い訳をまた作らなければならない。
「えっと......考え事をしてたんだ。色々」
「考え事?」
「ああ、昨日あったことを思い出して......そうしてたら、眠れなくなったってだけで......」
マツリが現れ、生徒会を撹乱。その上沙良のことを茜が忘れ、マツリが知っていた。その事実に眠れなくなっただけであり、だから深い意味はなく、夜更かしもしていない。そう締め括ろうとしたところにマツリがやってきた。
「おはようございます」
彼女が横を通ると、一瞬で空気間が変わった気がした。糸をぴんと張るように場が張りつめ──夕輝だけだろうか。茜は何故か目を真ん丸にし、ややひきつったような顔をしていて、その頬は赤かった。好きな人を当てられた無垢な少女みたいな顔だ。台詞は「へ?」。残念ながら真意は分かりかねる。
「......おはよう」
答えると、マツリは鞄を机に掛けて夕輝たちを少し見る。
「......もしや、お取り込み中でした?」
「......何のだ」
こういうことを平然と言ってくる辺りがもう既にちょっと気に入らないし、不気味だと思った。
「......」
やや強めの眼光でぎろりと睨んでみると、マツリはそんなに怒らないで下さいとでも言わんばかりに手を上げた。ただし表情は若干笑っていたが。
しかしこうしてみると、こちらの世界とあちらの世界では人の印象も全然違ったりするなと思う。春や茜は勿論だが、事実夕輝はあちらの世界のマツリに対してそこまで抵抗を抱いているわけではなかった。全てを見透かしたような目も、表情の作り方も、どこか含みのある雰囲気もあちらとこちらでそう変わらないのだが、何故だろうか夕輝は、こちらの世界のマツリをあまり好きにはなれなさそうだった。
「冗談です。そろそろ教科書用意した方がいいですよ」
とマツリが言ったのと、チャイムが鳴ったのはほぼ同時だった。夕輝は黙って1時間目の用意をすると、委員長の号令でのろのろやって来た担任に挨拶をした。
その日は能力者は現れなかった。ここまではあちらの世界と何ら変わらない。昨日も能力者は現れなかったのだから、今松山から電話が来たら夕輝は驚いてしまうだろう。
「......帰るか」
言うと、それとなく自然に雪が立ち上がる。もともと立っていた巧と掃除でごみ捨てに行っていてちょうど戻ってきたところだった茜はそれを見て帰る準備をする。別に意味はないのだが、普段は4人で帰るということが習慣になっていた。生徒会として活動をした日は必然的にそうなるので、それをこういう何もない日も引きずっているのだろう。
ただ、今日ばかりはいつもとは違うようだ。
「ええ、帰りましょう」
それは、夕輝の左隣から聴こえてきた声の主の存在が十分に物語っている。彼女は綺麗な髪をひと撫でして立ち上がる。
「行きますよ」
何故かは分からないが、場を仕切っている。それが余りにも自然なので少し癪だったりするが、夕輝はそれに従って歩く。茜は夕輝の斜め後ろぐらいを近すぎないぐらいの間隔を開けて歩き、そのまた後ろを巧と雪がゆっくり歩き始めた。
今まで集団にいなかった存在、言わば異物が集団に混入してしまったとき、もともと集団にいたものたちは普通、どういう反応をするのだろう。
まずは、その異物の正体を明かしていくのだろうか。
「あの、マツリさん」
下駄箱に到着してやっと、雪が口を開いた。彼女のように、人間の作る空気というものに人一倍敏感なタイプは、こうして沈黙が続いているだけでもストレスを感じてしまうのだろう。あちらの世界ではマツリとも意外に仲良くしていた雪だが、やはりこちらでは昨日出会ったばかりの人間に他ならない。まして、生徒会のことを裏ルートでも使ったみたいに詳しく知っている人間。警戒もあった。
「何でしょう」
マツリは頭だけをくるりと横に向けて、靴を仕舞いながら応じた。雪は少し言いづらそうに尋ねる。
「そう言えば聞いてませんでしたけど......どこから転校してきたんですか?」
言われてみれば、まだマツリがどこから来たのか聞いたことがなかったような気がする。
いや、それどころか夕輝たちは彼女の素性を何も知らないのではないか。雪の何気ない言葉で考えもしなかったことに気付かされつつ、そんな夕輝の心情を知ってか知らずかこう答えた。
「......気になりますか?」
悪戯っぽく笑む彼女は心なしか可愛らしく見えた。と思いつつ瞬時にそれが間違いだと気付く。全く可愛くない。話を逸らそうとでもしているのだろうか。
「......京都ですよ。京都府京都市から、父の都合でこっちに越してきました」
そんな疑念を浮かべながら睨んでいたところ、鼻だけで息を吐き出して軽く答えた。
「へえ、京都ですか。八ツ橋美味しいですよね」
それに意外にも茜が食いつく。ちょっと興奮気味なのは食べ物の話に転換したからだ。茜は雑食系だが、極度の甘党でもある。
「ええ、と言っても京都にいたのは3年の間だけで、それまでは東京にいましたがね」
「あ、じゃあ帰ってきたんですね」
「ええ、地域は違いますが」
ぱちん、と両手を合わせて楽しそうに会話に励む雪を見ていると、何だか少し安心するような気がした。異物感のあるものが一気に日常に溶け込んだような、しかしまだミステリアスなことには変わりはない。全員が靴を履き替え終わると歩き始め、女子たちの会話を眉間にしわを寄せながら聞いていたところ巧に肩を叩かれた。
「ん?」
「お前、顔怖いぞ」
マツリに訝しげな視線を飛ばしていたためなのだろうが、言われてみれば額の方の筋肉が痛くなってきているような気がしてきた。一旦、表情を解く。
「ああ、ごめん」
「そんなにあいつが怖いのか?」
「いや、怖くはないが......」
小さな声で言っていたつもりが、ガールズトークをしていた人間のうちの1人が地獄耳を立てて聞き取ってしまったようで、反応を見せた。
「マツリさんが怖い?」
瞬間、視線が男子2人に集まる。何だこの展開は。よくもやってくれたな、と夕輝は茜を睨んだ。目が合うとすぐに彼女は顔を逸らした。ちょっと頬が赤いせいで何も言えない。
「音永夕輝、怖いとは心外です。一体どういうことですか」
「いや......」
立ち止まってマツリがじりじりと詰め寄る。それに一瞬は気圧されたものの、そのうちにむしろ何だか腹が立ってきたので夕輝は強気になって言い返してみた。
「ってか......そもそも何なんだお前は。いきなり転校してきて自己紹介もなしに生徒会に入って、それに何で全員フルネームなんだ。てか何で俺らの名前を知ってるんだ」
「まだ入ることが決まったわけじゃないですけどね」
髪をくるくると触る仕草は女子高校生のそれそのもので、自分が彼女に抱いている不信感が馬鹿らしく思えそうに一瞬はなってしまう。
しかしそれは一瞬で、すぐに夕輝は冷静な思考を取り戻す。
「......話を逸らすな」
強気で出たつもりが、どうも調子が狂う。これでは完全にマツリのペースではないか。ふてくされたみたいになってしまった。愉快そうにマツリは笑う。
「あはは、すみません。いえ、前の高校ではクラスメイト全員をフルネームで呼んでいたので......その名残です」
「どんな高校だ!?」
巧が的確に突っ込んだ。
「京都にはそういう文化があるんです」
「いや、ねえだろ!」
「あるんです。世界は意外と広いんですから」
「広すぎるだろ! お前のいたとこはどんな他人行儀な地域なんだよ!」
唯一、雪だけが腹を抱えて笑っている。笑いのツボはずれているらしい。普段なら4人でそれとなく話ながら帰るのに、マツリが入っただけで凄く変な集団になってしまっている。
そんなこんなで気付けばマツリのペースになってしまったまま巧とは道を別れてマンションにすぐ到着した。
「じゃあ、さようなら」
「また明日」
マツリと雪はマンションの2階なので、2人がエレベーターを降りた後は茜とふたりきりになる。けれど、そこまで緊張とかはなかった。ただ何となく視線は合わせずに、夕輝は茜に話しかけた。
「あのさ」
「? 何です?」
「マツリって......茜から見てどうだ?」
「......どう?」
茜は聞き返す。それから鼻の下に指を据える。
「どう、ですか......。そうですね、少し不思議だとは思います」
「......んん」
まあまあ妥当な意見は返ってきた。そりゃあ100人にマツリが不思議かどうかを聞いたら99人は不思議だと答えるだろう。ちなみに残り1人は彼女の美貌に惑わされて裏の顔とかを全く疑いもしない馬鹿である。
いや、むしろそういうやつは『彼女ほどミステリアスで僕の心を惑わせる人はいないよ......ああ、不思議だなあ』(笑)とか言うのだろうか。前言撤回、100人。
「それもそうなんだけどさ......何か......もっと、その......」
彼女に感じる、ただ"不思議"で片付けていいのか分からなくなるようなあの感覚を説明できず逡巡していた。例えるなら、マトリックスの二重構造のような、メタ的なものに感じる気持ちと遠いようで近い。古い。
「......そんなにマツリさんが気になるんですか?」
「え? まあ、そりゃな......」
質問をしていたはずが質問を返されたので少し戸惑いつつ返答をする。
「そうですか......」
それなりに真剣な話をしているつもりなのに、茜が心なしか不機嫌そうに見えるのは何故だろう。気のせいだろうか。なら何でそんなに唇を尖らせるんだ。
「まあ、いいんですけどね」
すぐに3階に到着してしまったエレベーターからそそくさと降りると茜はすぐに前を行った。
「あ、茜」
その後ろ姿を見ていると、つい数日前、インターホン越しに茜に突き放されたことを思い出してしまい、気付けば夕輝は茜を呼び止めていた。
「......何です?」
くるりと振り向く茜。無意識で彼女を呼んでしまったため、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
「......えっと......また明日......?」
「どうして疑問形なんですか」
「あ、いや......」
茜の前でこんなにもうろたえているのは、間違いなくあちらの世界に長居(2日)してしまったからだ。夏休みぶりに再会した友人との距離感を完全に忘れてしまって喋り方が分からなくなるというのはよくある話だし、ましてあちらの世界の茜とこちらの世界の茜とでは距離感が180度違う。
距離の話なのに単位が角度ではいけないな、そうだ、コサイン0度とコサイン180度ぐらい違うな、とか考えていると。
「夕輝くん......?」
あかねの"エンジェル上目遣い"こうげき! かいしんのいちげき! ゆうきはたおれた。
「うっ......」
後退りをする。稀に茜が見せる天然の上目遣いは夕輝の心臓を意図も容易く射抜いた。
「どうしたんですか?」
「え、あ、い、いや、何でもない」
母音の発音練習みたいな声が喉から飛び出す。体が硬直するが、何とか言い切ることができた。
「そうですか?......何かあったらいつでも聞きますからね」
「ああ、ありがとう」
謎の感謝をして、それから歩いた。一歩一歩進むごとに、体の硬直はだんだんと解れてきた。気付けば隣に並ぶ。狭い。
夕輝の部屋に到着したが、無視して通過する。
「......夕輝くん?」
「ちょっとでも長く一緒にいたいだろ」
夕輝は言いながら、歩くペースは変えなかった。
茜の足が止まる。夕輝はくるりと振り返って茜の顔に視線を向けてみた。
「......何ですかそれ」
「好きな人と一緒にいたいってのは別に普通のことだと思うが」
「んな」
平静を装うが、内心凄くドキドキしていた。茜に久々に会えて少し舞い上がってしまっているというのが大きいかも知れない。
茜の反応を見るのも楽しかった。
「好きな人って......」
「何か違うか?」
「っ......」
ぼそぼそと呟いた茜の声を、夕輝は聞き逃しはしなかった。瞬時に返すと、茜は口ごもって黙る。未だかつてない程ストレートに言ってみた効果はあり、未だかつてない程赤面している。
「で、も......」
下を向いたまま、茜はまたぼそぼそと言う。
「私は......離れるのが寂しくなる前に早く帰りたいです......」
「......」
その言葉を鼓膜で感じ、数秒思考を停止させた。やはりむやみに容量に合わないデータを流し込んではいけない。ヒートアップするかフリーズしてしまう。ちなみに夕輝の場合両方だった。
「......!?」
顔から火が出るとは飽くまで暗喩であるが、実際に夕輝は今そんな感じがしていた。普段ならあり得ない程に顔が熱い。この瞬間だけインフルエンザになったみたいに動悸もすごかった。
「......だから、早く......帰りましょう」
「そ、そうだな......」
互いにどうしようもない程恥ずかしさを覚え、とてつもなく居たたまれなくなったのでそう軽く答えると、茜と共に茜の部屋へ向かった。
「では......また、明日」
「また明日......」
そうして、茜が玄関の中に消えていくさまを最後まで確認すると、夕輝はこの有り余るエネルギーを発散するために息を止めて全力で走った。これはやばい。何がとかではなくやばい。
玄関の鍵を開け、扉をばんっと壊れるんじゃないかという勢いで開く。
中に入ると、靴も脱がずに夕輝は廊下に倒れ込んだ。
ばたん、と扉が閉まるのを、酸素不足の体に荒い呼吸で酸素を送りながら聞き届けた。
「......好きだ......」
「兄ちゃん、何してんの?」
「ばがっ!?」
顔を上げると、そこには腕を組んで仁王立ちをしていた春がいた。
「は、る......」
「フローリングに恋しちゃったの?」
とんでもないことを言い出す。今は誰が誰を愛そうが許されなければならない世の中であるものの、流石に違う種との恋愛は厳しそうだ。どころかこれは生物ですらない。
「俺は自分の妹にそんな趣味があると思われてるのか......」
「違うんだ」
「当たり前だろ」
立ち上がりつつ、夕輝は靴を脱ぎ始める。片方を脱いだところで。
「じゃあ、茜さん?」
「あがっっつ!?」
春の強烈な攻撃により夕輝は上げていた足のバランスを崩し、しっかりと玄関のドアノブに頭を激突させた。
「あだっっ!!」
これはかなり痛かった。夕輝はそのまま跳ね返るようにその場に仰向けで倒れる。
頭を押さえながら数秒スリープ。時間が経つごとに、こんな自分がどんどん悲しくなってくる。
「......兄ちゃん、頭大丈夫?」
「それ心配してるつもりなら失敗してるぞ......」
夕輝はゆっくりと立ち上がり、今度こそもう片方の靴を脱いだ。
「そっかー、茜さんだったかー」
「うるさいな」
「『......好きだ......(イケヴォ)』」
「うぐっ......!!」
心臓に悪いから本当にやめてほしかった。死にたくなるし、過去の自分を殺したくなる。
「春......これ以上は俺が自殺しかねないからやめてくれ」
心の底から懇願する。少しお高いものを奢ってでも封印したい黒歴史が出来てしまった。
「......別にいいけど、ところで茜さんとはどこまで進んだの?」
「......お前本当に妹か? 妹はそういうこと聞かないぞ普通」
「はぐらかさなーい」
はぐらかしたと言うよりは普通にちょっと引いたのだが、春にはそんな言説は通用せず間髪入れずに返してきた。
「いいから教えてよ」
「断る」
「『......好きだ......(イケヴォ)』」
「うっぐっ!!」
結局弱みを握られてしまった夕輝は、その後悪質な春の拷問により手を一度だけ繋いだこととハグを3回程したということを吐かされた......と言うか、動揺の仕方で悟られた。「ふぅ~ん」とか言ってにやける春の顔を夕輝は絶対に忘れないだろう。
──ぱち、というのは実際に鳴る音ではないが、目覚めたときには常套句ならぬ常套擬態語として使われる。
今日の夕輝の場合、"ぱち"ではなく"にちゃあ"だった。瞼が膠でくっついたみたいに全然離れなかったからだ。
頭と体が滅茶苦茶重く、少し動いただけで脳が取れそうな感じだった。それでも目覚ましを恨むわけにはいかない。そもそも夕輝が徹夜をしたのがいけないのだ。
しなければならなかったのは確かだが。
──何にせよ1つ分かったのは、体は2つの世界を行き来しない、ということだ。だから眠い。
つまり、こちらとあちらを行き来したところで周りの人間より2倍速く老いるとかはないということ。しかし記憶は引き継ぐようで──脳って、体って、自分って何だろう、という超哲学的な命題をぼんやりと頭の片隅に浮かべる。しかし考えることは夕輝自身にすぐに辟易され、重たい腰をゆっくりと上げた。何ならカタツムリの方が速いのではないかという速度で。
「ふぉぉお......」
気持ちのいい眠りの後には決して出ることのない鈍重なあくびが出る。声も低くなるのは何故だろう。夕輝は元々低血圧な方なので、うっかり伸びでもすると立ち眩みの上位互換みたいな状態に陥ってしまう。ぐぐぐと体を動かし、機械のようにギチギチとリビングに向かった。
「......お、おはよう、春」
言葉全部に濁点がついたみたいな発音になってしまった。
「......おはよう」
遠慮がちに朝の挨拶をする春。元の世界の春を睡眠前に見てきたばかりなので、返事をしたくらいでは驚かない耐性が付いてしまっている。
「あ、ご飯......」
「大丈夫、自分でよそうよ」
「......そっか」
春はすぐに引いた。昨日の今日では、意識こそ変われど距離感が劇的に変わることはない。ちなみに夕輝にとっては一昨日であり、1日ごとに距離感がぐっと変わるなんてことはよもや言えないが。
「......いただきます」
「......どうぞ」
春は春で、自ら喋ることを意識しているようだ。元の春でもご機嫌でないとどうぞは言わない。
朝はごく一般的な目玉焼きとベーコン、味噌汁に、付け加えたように魚肉ソーセージが単体で寝そべっていた。
「......ごめん、時間なくて」
「いや、大丈夫だよ。凄く美味い」
「......そっか」
夕輝は味噌汁を口に含む。
「よかった」
独り言とも取れる小さな春の声を受け取ると、夕輝はほっとした。温かいものを飲むと眠気も幾分か覚めた気がした。
「ごちそうさま」
親指に箸を挟み、手を合わせて全ての食材に感謝を込める。それから食器を下げる。春は今、顔を洗ったり髪をとかしたり歯を磨いたりしている。女子は支度が大変だなぁとしみじみ思う。
「......そう言えば」
昨日忙しさやら眠さやら何やらで忘れていたことを今になって思い出す。
「春」
「はいっ?」
洗面台から帰ってきた春に声をかけると、反射するように素の返事が返ってきた。
夕輝は先程部屋から持ってきたその手のひらサイズぬいぐるみを少し湿り気のある春に渡した。
「これ......」
「スライまる。欲しがってたろ」
「何で知って......兄ちゃん、付いてきてたの!?」
「......事故だ」
だからこそ春を守れたというのもあるのだが、春は釈然としない様子で少し頬を膨らませていた。
「......いらないのか?」
「......いる」
「ほい」
春の手を掴んで上向かせると、その上にボウリングピンを彷彿とさせるカラーのスライまるを乗っけてやる。春は黙っていたが、その目はほんのり喜びを孕んでいるように思えた。
「じゃ、俺も支度するから」
「あ、うん」
言い残して、洗面台の扉をぱたむと閉めた。
春は、そっとその抱えられない程には小さいぬいぐるみを抱き締めた。
春のことがひとまず落ち着き、今日から夕輝はまた新たなことを始める予定だった。こちらの世界に長居するならば解決しておくべき問題。
「......今日もまた苦労したな」
今日は『発光』というまた一風変わった能力の能力者が現れた。自らが輝きたいという願望を抱いた結果、額が発光するようになった、とかで、それを使って芸人でもやろうとしていたというから驚いた。しかも交渉を持ちかければその能力で目眩ましをして逃げるし、誰も知らないような芸人を持ち上げてその人のようになりたいと言って聞く耳も持とうとしないし、かなり大変だった。
「何はともあれ、上手くいってよかったです」
ほっとした様子でマツリは微笑む。不思議であるのはそのまま、やはり異物感がそこには存在しない。こちらの世界自体が夕輝にとって異物だからだろうか。
間もなく巧は交差点で手を振りながら別れ、雪とマツリもエレベーターの2階を降りる。ここまではだいたい昨日と同じだ。巧も雪も、夕輝の存在と言葉に疑問を抱きながらも普通に接してくれる。
──しかし、沙良のこともそうだが、元々いなかった人間が集団に入るよりも、元々いた人間が集団からいなくなる方がよっぽど気持ち悪い。むしゃくしゃして仕方がない。これならまだ、マツリみたいなのがもう1人増えた方がましだ。それはそれで嫌だが、むしろ今なら耐性がある。
そう思ったら、変えないわけにはいかない。誰だって気持ちが良いわけはないのだ。もうこの状態が日常になりつつあるこちら側の巧たちですら、どこかに引っ掛かりを覚えているはずだ。
──だから夕輝は、3階に到着すると間もなく自分の部屋を通り過ぎた。
やっていることは昨日と何ら変わらない。けれど昨日は、彼女がいた。だからこそこの扉の前を通過したのだ。
けれど、今回は目的が全く違う。彼女がいるから通過するわけではなく、彼女がいないから通過しなければならない。
今はそういうときだった。
「はぁ......」
ある部屋で立ち止まる。夕輝の部屋から少し離れたそこは、昨日彼女を見届けたはずの場所だった。
今は、顔すら合わせてもらえない。
インターホンのボタンを押す。ピンポーンと小さく音がして、それからしばらく待ったが応答がなかった。
しかしこれは中に誰もいないから、という訳ではない──少なくともそう信じることはして夕輝はもう一度ボタンを押した。
3度目で、やっとガチャリと音が鳴った。家の中の雑音が混じって聴こえてくるのだ。
『......』
その向こう側の人物は、決して口を開くことをしない。睨むカメラが夕輝を射殺すようだった。
「茜?......えっと......おはよう」
『......』
「......元気か?」
尋ねた瞬間、がちゃ、と無機質な音が聴こえてインターホンが沈黙を放った。切られたのだとすぐに理解すると、もう一度ボタンを押した。
これではまるでストーカーではないか、と思いつつ、6回目で応答があると少し安堵した。
『......迷惑です。帰ってください』
ただし、こんなに薄情な応答だったが。
「良かった、そこにいたんだな......」
『......』
「あ、待ってくれ」
言った後の沈黙から、何故かは分からないがまた切ろうとしているオーラがインターホン越しに凄く伝わってきたので、夕輝は半ば慌ててそれを止める。
『......?』
疑念にも鬱陶しそうにしているようにも思える疑問符が返ってくる。
「その、さ......もし良かったら、出てきてくれないか? 大事な話があるんだ」
『......どうせ、私を生徒会から追放するとかそんなところでしょう、分かりました。では今までありがとうございました。さようなら』
「え、ちょっとま」
ぶつっ、と糸が切れたような音がして、茜の声が消失した。さっきを合わせると、これでもう3回目だ。
これは流石の夕輝にも
「......キツいな」
ぼそりと漏らす。これは夕輝にとって、紛れもない弱音だった。
けれど、このままではいけないことも夕輝は分かっていた。だから何とか、改善策を見付けなければならない。
冷たい風が皮膚を熱いぐらいに殴る。今の夕輝にできることは、黙ってその場を立ち去ることぐらいだった。
買ってきたりんごがせめてもの救いだ。
"真の世界"と"相似世界"──これはその晩、夕輝が独断と偏見により勝手に決定した2つの世界の名称である。夕輝にしか関係のないことなので、独断と偏見でも問題はないだろう。元いた世界が"真の世界"で、おかしな作りの方が"相似世界"である。名称がダサいとか、2つに整合性がないとかは指摘しないでほしい──を行き来していると、中々傷付くことがある。夕輝はそれを、この数日で実感した。ガラスは高温にも低温にもそれなりに強いが、温度差にはめっぽう弱い。夕輝の状態はまさにそんな感じだった。
それどころか木曜日の今日、茜はどれだけインターホンのボタンを押しても出てくれることはなかった。
「......」
夕輝の体感では、茜に『迷惑です』と言われたのが一昨日のこと。1日を"真の世界"で傷を癒すために用いてやって来たのだが、返事すらないと流石に心臓が抉れるような気持ちにもなる。
「......どうすればいいんだ」
またこの道を引き返す。余計な感情を振り払うために歩数を数えて、けれどその度に様々な色をした茜の表情がちらつく。
思い出してみれば、こちらの茜の顔を夕輝はまだ一度も目にしていないのではないか。そう思うと、全く余計なことを知ってしまったと思った。
夕輝は今日も眠る。
翌日、"真の世界"の木曜日のことだった。
「夕輝、どうした? 元気無さそうだな」
その朝、夕輝の胸中を覗き見るように巧が適切な感想をのたまった。巧には色々な意味で本当に頭が上がらない。
「......いや、ちょっとな」
「......さては、茜と喧嘩でもしたな?」
「......」
反応に困った。例えば仮に巧に真実を話したとして、それが彼に理解できないとは思えないし、きっと信じてくれることだろうと思っていた。
けれど、話していいのか分からない。もしや他人の力を借りなければならないときが来たならば、そのときは話そう。それこそ、相似世界の巧と雪に話したように。今はそうでなくていい。
「当たらずとも遠からず、ってやつだな......」
空虚な空にため息を吐く。巧はやや言いにくそうに、夕輝にこう問い掛けた。
「......唐辛子が何だって?」
やはり巧が馬鹿なのには変わりがなかったようで──。
「うえ......?」
隣の茜が戸惑ったように喉から声を出したのは、放課後のことだった。
どうやら能力者が現れる現れないは2つの世界で連携しているようで、昨日の相似世界で能力者が現れなかったため夕輝には分かっていたことだったが、間もなく松山からの連絡がないことを悟ると茜が帰ろうと言い出した。
そこまでは良かった。問題はここからである。
何を思ったか巧は、雪とマツリを引っ張って教室からそそくさと遁走していったのだ。慌てる雪。ちょっとだけ驚きつつ付いていくマツリ。そして残されたのは茜と夕輝だけ。
おかげで茜はこのざま。完全に思考停止して、仲間に裏切られたハムスターみたいになっている。あれらの類いの生き物は集団から追放されると精神的ダメージをかなり受け、冗談じゃなく死期が早まったりするので気を付けなければならない。
「えっと......」
多分、朝の会話の内容を巧が変な風に理解して、茜と夕輝を2人にしようと企てたのだろう。あからさまだしがさつな作戦だ。現に茜はこんな風に固まってしまっている。
茜と2人になるのが嬉しくないわけではないが、今はどちらかと言うともう1人の茜と2人にさせてほしかった。
「......多分、巧にも色々あるんだろ。帰ろう」
わけの分からない説明をして、茜を促す。
「え、ええ、そうですね......」
納得してくれたようで助かった。鞄を肩に乗せる形で持つ。教室を出た。
夕輝は茜の顔を見てみる。そこにいるのはやはり茜だった。
「どうしました?」
「......不思議だなって」
今更ながら、そのことに感慨のようなものを覚える。茜と付き合っていることすら夕輝にはとても不思議なことであるのに、その茜が別の世界ではいわゆる不登校の状態になっていて......。
「夕輝くん?」
けれどこちらでは、やっぱり隣にいる。これが同じ世界で同時に起こっていることだったら、夕輝はとっくに卒倒して2週間は意識を取り戻さなかっただろう。
「なあ、茜」
下駄箱で靴を替え、外に出る。日に日に寒さは増していく。しかもやたらと乾燥しているので、日本人はシベリア高気圧に手のひらの上で転がされているんだなとしみじみ実感する。どうやらこの世には逆らえないものも変えられないものもあるらしい。
と、ここまでの哲学的熟考をしている間、夕輝は何の気なしに空を見上げていた。茜は不思議そうに夕輝を見詰めて首をかしげている。それだけでも可愛らしい。
しばし自分の中で大事なことを素因数分解しつつ、続ける。
「例えばの話なんだけど......もし、茜にとって大切な人が塞ぎ込んだりしたら......茜はどうする?」
「......? 塞ぎ込む......ですか」
門を出る。開けた道に出た。
「それって、夕輝くんの大切な人の話ですか?」
「え......いや、例えばの話だよ」
「......へー......そうですか」
目を細めて疑わしそうに眼光をしぼる茜。多分バレてしまっているが、建前的なあれで話を進める。社会に出たら常識だ。
「それでさ......」
「あ、見て下さい」
「ん?」
茜に話を遮られつつ促され、夕輝は茜の指差した右斜め前に視線を飛ばす。
「あれ......」
エコバッグを両手に携えた女性が少し遠くにいた。買い物帰り感をぷんぷん醸し出していた。
その姿はとてもたくましく見える。1回、2回会ったぐらいだったが、すぐに分かった。
「巧くんのお母さんですね」
「......だな」
彼女に近付き、話しかけてみた。
「あの、巧くんのお母さん」
不思議そうに振り向く彼女は、夕輝より少し低い背の女性だった。
「......? あら、巧のお友達の茜ちゃんと悠太くんじゃない。久しぶりねー」
「......あの、夕輝です」
「あらら、そうだったかしら。ごめんなさいねー」
初めて会ったときも思ったが、やたらとテンションが高い。血は争えないな、と思う。
「2人で学校帰り? お熱いわねぇ」
「......」
一周回ってこういうのを華麗に流せるぐらいにはテンションが高い。ちなみに茜は上手く受け流せなかったようで、俯いて寡黙少女に変身した。
しかし──本当にこの人を見ていると、色々なことが不思議に思えてくる。夕輝は尋ねてみた。
「あの、今はもう病院に通ったりしてないんですか?」
「え? あ、ええ、そうなのよ。今はもうすっかり元気になっちゃって。ほんとに良かったわ~」
他人事みたいに言うが、一応自分のことである。巧が小学6年のときからなので、3、4年ずっと下半身付随だったということになる。
それだけの間足を動かせずにいて、今彼女は一体どんな気持ちなのだろうか。
「じゃあ、2人の邪魔したくないから私、帰るわね」
「っぐ」
「あ、どうせですしついでに荷物持ちましょうか?」
巧の家はそれ程遠くないが、1人の女性が両手にいっぱいのエコバッグを持って帰るには少しきつい気がする。
「あら、本当? じゃあお願いしていいかしら。おばさん邪魔じゃない?」
「とんでもないです」
「あ、私も持ちます!」
夕輝はエコバッグの片方を掬うように受け取る。茜もあわあわ言いながらそれに倣ってもう片方を受け取った。
「あらら、私が手ぶらになっちゃったわね」
変に遠慮しないところが彼女の魅力だと思う。きっとそれも優しさ故なのだろう。こういうところもどこか、巧に似ていたりする。いや逆か。
「ゆっくり帰りましょう」
主に巧にまつわる色々な話をしながら、夕輝たちは坂を下った。
「ほんと、わざわざありがとねー」
「いえ、こちらこそ話せて楽しかったです」
「また今度うち来てねぇ。巧も喜ぶわぁ」
後半はほぼ女子トークが繰り広げられ、夕輝に代わって茜が凄く喋っていた。
ちなみに巧はと言うと今シャワーを浴びているらしく、家の奥からじゃーじゃーとシャワーのお湯が落ちる音と共に呑気な鼻唄が聴こえてきた。
「......じゃあ、私たち帰りますね」
「ええ。さようなら」
「さようなら」
茜がぺこりとお辞儀したのに合わせて夕輝も頭を軽く下げると、巧母の見送りを受けながらアパートの階段を下りた。
「......よくあんなの1人で持ってたな......」
巧母のパワフルさには驚かされるばかりだ。夕輝が持っても結構ずっしりと腕に負担がかかるものを、両手に提げて運んでいたというのだから恐ろしい。
「腕、痛いですね」
「......な。攣るかと思った」
何気ない会話をしつつ帰途を踏み締める。のどかな夕焼けが左隣の茜の奥に大きく見え、彼女の姿を暗く隠しているようだった。
「でも楽しかったよな」
「ええ」
茜と目が合う。そよそよと吹いた風が建物の隙間から出た夕日の影になった彼女の髪を揺らし、彼女の唇は艶めく。ぱちぱち動く睫毛の一本一本が夕輝の名を呼ぶように呼吸をする。
──今この瞬間のために、自分は生まれたのかも知れない──そう思えてしまう程に、茜はただひたすらに綺麗だった。
そんな姿に思わず心を奪われ、放心状態になりながら見とれていると、茜はちょっと困ったように目を左右に動かして美しくはにかんだ。
とくん、と小さく心臓が跳ねる。
そばに茜がいることに安心を覚えるように、自然と夕輝の心は落ち着いていった。
「......茜、手、出して」
「......手、ですか?」
眉毛をほんのちょっと上げて、不思議そうに夕輝に近い右側の手を上向けて差し出す茜。
「はい。それで、手がどうし──」
「ん」
夕輝は茜を遮るように、彼女の右手に左手を乗せる。
「──たっ!?」
別に、そう言えばまだ手を一度しか繋いだことがなかったからとかではない。単純にこのとき、繋ぎたいと思ったからだ。
茜は驚愕とも照れともつかない声を上げ、こんな風に夕日の影になっていても分かるぐらいに顔を真っ赤にして夕輝を凝視する。
「ゆゆゆ、夕輝くん!?」
最近、茜の
「いいだろ、別に」
夕輝は何でもないように返す。恥ずかしくないわけではないし、心臓は結構跳ねている。けれど夕輝が比較的落ち着いていたのは、きっと幸福感の方が強かったからだろう。
「駄目か?」
「駄目じゃ......ないですけど......」
この先には、『でも恥ずかしいです』が省略されている。ハリネズミが縮こまるみたいに俯く茜は見ていてとても微笑ましい。
夕輝はふと、茜とこの道を歩く未来を想像してみる。茜も自分も大人になって、けれど変わらずにこの道をふたりで歩けたら──それはどれだけ幸せなことだろうか。けれど同時に、今のようにこの何気ない幸せを特別だと感じられなくなってしまったら、それは寂しいことだとも思う。
なんて、少々気が早い気もする。けれど、夕輝が願う未来はそれだった。
「......あの、夕輝くん」
「......何だ?」
手を繋いで歩く。茜の華奢で冷たい指に触れていると、自分が彼女の特別な存在になれているように思ってしまえる。茜の唇の動きの一瞬一瞬が、やけにはっきりと見える。
「さっきの答え......」
「ん?」
告白の返事の冒頭みたいな言葉が発されて、夕輝は反射的に茜に視線を向けた。
「俺、告白なんてしたか......?」
「そ、そんなの1回で十分です! そうじゃなくて......大切な人が、って話です」
「......ああ、それか」
「自分で聞いといて忘れないで下さいよ」
それは確かにそうなのかも知れないが、こればかりは仕方がないとも言える。何故なら、夕輝が茜についての相談を茜にしているという謎の状況下にいるからだ。
「それで......私だったら......って色々考えたんですけど、分からなくて......」
「......そっか」
しかし、急に問われて答えられる方がむしろ少し怖い気がするし、何より実際にそんな状態に立たされている夕輝にも答えが分からないのだ。茜に最適解を導き出せと言う方がおかしな話なのだろう、と考えていると。
「でも」
茜は少し語調を強める。その瞳はまっすぐ夕輝だけを見詰めていた。
「でも......夕輝くんなら、きっとその人を救ってあげられます」
「......ん?」
夕輝の手を握る茜の力が少し強くなった気がした。
「私は......夕輝くんに何度も助けてもらいました。......私だけじゃありません。夕輝くんは今まで、沢山の人を救ってきました」
その口調は息子を宥める母親のもののようで、夕輝は少し照れくさかった。
「急に改まって、どうしたんだよ」
「だからその......皆、夕輝くんに感謝してるんです」
「......自覚はないけどな」
ここまでストレートに言われると、流石に恥ずかしい。
「とにかく......夕輝くんなら大丈夫です。絶対に」
「......ありがとう」
頬を空いた右手の人差し指で掻く。
ふと、夕輝はあのオレンジの空を見上げてみた。鱗のような雲が広がっている。
陰影。建物はまばらにその空を隠している。
きゃっきゃと騒ぐ下校中の小学生たち。騒がしい居酒屋の熱。
そして、隣には茜。
──結局のところ、それだけでよかった。それだけで強くあれる気がした。今もこれからも、茜が隣にいさえすれば、きっとどんな困難も乗り越えられるんじゃないかと。
そう思ったけれど──もう一度、夕輝はこの手を離さなければならないことを知っていた。茜が隣にいなくても──茜が夕輝に牙を剥いていても、強くあらねばならないと。
「......救うなんて大層なことはできないかも知れないけど......やってみるよ」
「......はい」
茜の透き通る声が鼓膜を擽る。
まるで、夕輝なら大丈夫だ、と言い聞かせるように。
それが嬉しかったから、いとおしかったからこそ夕輝は、胸を張ってまたこの場所に戻ってこられるように──
握るその手を、静かに離した。
「......」
相似世界の金曜日。目覚めてからしばらく、夕輝は布団の中でぼーっとしていた。
またあの不思議な──空が崩れていく夢を見たからだろうか。
それとも、目覚めてすぐに茜のことを思い出したからだろうか。夕輝の手を繋いでくれていた茜のことと、夕輝を拒絶する茜のことを。
漠然と押し寄せる不安は、何も茜のことに対してというだけではない。最近の不思議な出来事に、夕輝は大きな不安を感じていた。
けれど、それでも今はそれを押し退けるように小さく呟くことができる。
「......大丈夫」
こちらには友利茜という立派な保証人がついているのだ。
口にすればそれだけのちっぽけな理由を、まだ夕輝はしっかりと握り続けていた。
気合いを入れるように両頬を両手で叩くというらしくもない真似をしつつ、夕輝は起き上がった。
そして今日もまた、インターホンのチャイムを鳴らす。そろそろ心が折れそうな、水曜日の生徒会活動帰りだった。
「......はぁ」
こちらとあちらを行き来しながら過ごす日々にそろそろ慣れてきたように思える。同じ内容の授業にも、自分にとっての1週間が3日、4日程度の時間経過にも、それなり順応していると感じている。
しかしただ1つ、茜に拒絶されることにはいつまでたっても慣れなかった。
もうすぐ冬休みになると言うのに、茜は学校に来ない。このままでは進級できなくなるのではないかと一瞬考えたが、まだ茜が生徒会に入っているのならその心配は多分ない。何ともぶっ飛んだルールだとは思うが、安心材料にはなった。
扉をコンコンとノックする。
「茜ー」
ちなみにこのマンションは全部屋防音なので、声は届きはしない。
「......どうしたものか」
こういうときは、原因を探りその解決方法を探すべきだ。まずは茜と話がしたいわけで、しかしそれを彼女自身が拒んでいるためできない。
いや、違う。厳密には彼女に会えさえすれば話すことはできるのだ。茜が拒むことで断たれるのは、飽くまで茜が自らの意志で夕輝と話すことではないか? それこそ彼女の母に頼んだりでもすれば──。
「......違うか」
けれどそれもまた、違う気がした。
もう一度インターホンを押す。茜が出てくれることを望んでいるのは確かだが、今回はそのためではない。
「あー、あー。茜、聞こえるか?」
インターホンを押してしばらくはこちらの映像が音と共に記録される。勿論、リアルタイムでも観ることができる。
「皆、茜のこと待ってるんだ。早く生徒会戻ってこいよ。何なら明日でもいいぞ」
多分、これぐらいで時間切れだろう。夕輝はしばらくカメラを睨み、そして家に帰る。
元の世界を経て、金曜日......。
「起立。礼」
「さようなら~」
教室をまばらに飛び交う挨拶を耳で感じ取りながら、夕輝は何となく巧の元へ向かった。
「......昨日も駄目だったみたいだな」
「......ああ」
「......結局、2学期は殆ど学校に来なかったな」
茜が学校に来ないまま、終業式は終わってしまった。あんな一言では当たり前だが、茜の考えを変えることなどできない。
「茜はいつから来てないんだ?」
「......例のことがあったのが9月上旬で......その次の日からかな。夕輝は『時間が必要だ』って言ってたな......」
「......時間が必要......」
夕輝は、過去の知らない自分が発した言葉の意味が分からなかった。
そこで、未だ聞いていなかった大事なことを思い出す。
「......なあ、沙良は......どうして自殺したんだ?」
すると、巧は思案顔をする。
「......それがよく分かんねえんだよな」
「分からない?」
「......歌が好きだったんだとよ」
「......歌、って......」
その言葉に幾分か反応したのは、それが夕輝の知っている沙良のイメージに合致したからだ。
だからこそ、次の言葉にはもっと驚かされたのだった。
「......上手くはなかったみたいだけどな」
「......え」
その意味を一瞬理解できず落ち着きの中で混乱していると、巧は続けた。
「高校入ってからすぐに歌のことで馬鹿にされたとかで引きこもり始めて......そのまんま、学校には一度も来ずに自殺......ま、色々あったんだろ」
「......」
沙良の歌が上手くなかった。その言葉に最も夕輝は違和感を覚えた。些細なことで片付けていいような気がしなかった。
歌が上手くなく、かつ馬鹿にされて引きこもる?......何と言うか、
間もなく彼女は自殺し──
そして、茜が塞ぎ込んだ。
もしかしたら、こちらの夕輝も自分なりに茜を気遣ったのかも知れない。けれどそれがいつの間にか茜を追い詰めていたのだろうか。
「まあ何にしてもさ、どうせ生徒会の活動はこの先も続くんだ。だから夕輝、よろしくな。本当は俺も行きたいんだが......」
「......分かってる。大丈夫だ」
こちらの巧には、真の世界の巧の母がどうなっているかを教えていない。そんなのは、ショックを与えることになるだけだからだ。
「なあ夕輝」
「ん?」
「俺も一回、夕輝の元々いた......真の世界? に行ってみてぇなぁ」
「そんなこと言われてもな......」
夕輝自身、随意的に行き来ができるわけではないし、行き来するのは意識だけなので連れていけと頼まれてもどうしようもない。母の姿を見ても混乱するだろうから連れていきたくもない。
「俺だって入れ替わりたくて入れ替わってるわけじゃないんだよ......」
ため息混じりに言ってみると、何やら奇妙そうな顔をして巧が覗き込んできた。
「......どうした?」
「......この世界は嫌いか?」
「......!」
純真な瞳でそう聞かれると、夕輝もちょっとはっとさせられた。そんなこと、考えたこともなかったから。
しばし考える。この世界に夕輝がどのような感情を抱いているのか。結構な時間を費やして、ようやく辿り着いた答えはこれだった。
「......どうなんだろうな」
正直、よく分からない。例えばものの価値を計るとき、人間はよく他のものと比較してみたりする。夕輝はそういうことをするのには長けていたし、それ故目覚めた『コピー』能力だった。
だからこそこちらの世界が突然現れたことで元の世界のありがたみには気付けたわけだが。
「......なんだそれ」
巧はおかしそうに笑うと、話を戻す。
「......にしても、茜が話もさせてくれないとなると、何かしらの改善策が必要になってくるよな」
「......ああ」
「夕輝は俺たちの知らない世界から来て、そっちでは茜と付き合ってるわけだろ?」
「......まあ、そうだな」
「じゃあ聞くが、夕輝は
「......!」
聞かれた瞬間、巧の意図が分かったように思えた。彼は何も特別なことを尋ねたわけではない。先程と同じことを、言い方を変えて質問したに過ぎないのだ。
けれど夕輝は、それを言われて分かった気がした。
「巧」
「ん?」
「......ありがとう。やっぱりお前は凄いよ」
「いーや、親友として当然のことをしたまでさ」
「......本当、ありがとな」
巧には頭が上がらない。馬鹿に見えて以外と考えているからこいつは凄い。
「んじゃ、さっさと行ってこい」
「......ああ」
ばん、と巧に強めに肩を叩かれて、夕輝は教室を出た。と共に電話が鳴る。
「......もしもし」
『もしもし音永くん、能力者が現れました』
終業式が終わるこの時間に能力者とは、また珍しい。今日が通常の授業日だったら、授業を抜けなければならない事態だった。
とか思っている隙に、巧が夕輝のスマホを華麗に奪う。
「あ、おい」
「あ、もしもし会長か?......ああ、それなんだけど、今日夕輝はどうしても外せない用事があるみたいだからさ、俺とマツリと雪だけで行かせてくんねえか?......おう、マツリがいるから大丈夫だって」
向こう側で松山が呆れている顔が目に浮かぶ。
「じゃあ頼んだぜ」
最後にそう言って、巧はだいぶ雑に電話を切るとスマホを返してきた。
「ほい」
「お前、勝手に......」
「夕輝、後は頑張れよ。じゃあな」
夕輝の文句も聞くつもりは毛頭ない巧はそう言い残して去っていった。
「......巧、ありがとうな......」
しかし感謝ぐらいは伝えておかなければならないと、やや大きめの声で巧に聴こえるように言った。巧は返事とかはせずに消え入ってしまった。
「......よし」
夕輝は鞄を握って歩き出す。巧には今度、昼飯でも奢るとしよう。
「......」
ごくりと唾を飲む。大丈夫だと自分に言い聞かせる。茜が大丈夫だと言ったのだから、大丈夫でないはずがない。
これで駄目だったら、もう諦めるしかないというぐらいの思いで夕輝は震える手を動かす。
そうして無機質な壁の横に付いた、四角いもののボタンを押した。もう何度目かは分からない。けれど、できれば今日で終わりにしたかった。
「茜」
相変わらず、返事はない。
「......俺、今から昼飯食べてくるからさ、1時になったらエントランスに来てくれよ。......嫌だったらいい」
この記録すら見ていなかったら問題外だが、そうでないことを祈る。最後は茜の情に懸けるしかない。
そう思って息を吸う。
「──────」
最後にその言葉だけを残して、夕輝はその場を立ち去った。
家に帰ると、春が作ってくれていた昼食を美味しく頂いた。何度食べても、料理人顔負けの味だと思う。兄馬鹿ではなく、本気で料理が上手い。今度、うちに生徒会のメンバーを招いてご馳走をしてほしいと思う程。
すっかり春エネルギーを満タンにしたところで、夕輝は時計を確認。12時だったので、それから30分ぐらいかけて適当に身だしなみを整え、玄関へ。
「春、ちょっと出掛けてくるなー」
「......え、うん」
すっかり私服姿になった夕輝は靴を吐いて外に出る。外はやはり冷たい空気で溢れていて、3枚着込んでも寒い。
空は快晴で、青い空だけが寒さも知らずに素っ裸だった。エントランスに降りると、夕輝はそこに留まらずにしばし進む。
「いつからなのかは分かんないけどな......」
近くに商店街がある。
「......開いてるよな」
この時間に開いていないということはない気もするが、1時にはエントランスにいなければならないため、夕輝は何となく早足になった。
そこには、10分程度で到着した。駅にも近いその場所は、かつて茜と共に来た、とある店だった。
「あ、すいません。これ下さい。......2つ」
「おう」
出来立てで熱々のそれを持ちながら、夕輝は今度はゆっくりとマンションへの道を辿る。何度も何度も、能力者が現れる度に通った道。
そこには、状況こそ毎度違うが、いつも必ず茜がいた。
けれど、今はいない。
──夕輝くんなら大丈夫です。絶対に──
いつか交わした約束を、こちらの世界であっても守らなければならない。
心臓の鼓動が速くなり、色々な感情がごちゃ混ぜになった。心の中で『何で』という言葉ばかりを唱える自分がいる。けれどその中で唯一、1人の夕輝がこう発言する。
──茜に会いたい。茜に嫌われるのは嫌だ。もうこんな思いはしたくない。茜に会いたい──
子供のような感情に、意外にもそれまで文句や異論や疑問を唱えていた感情たちが、だんだんと賛同し始めるのが分かった。
会いたい。話がしたい。彼女の笑った顔が見たい。
ただそれだけの思いを胸に、夕輝はとうとうマンションに到着する。すぐにエントランスに入ると、そこには──。
「......」
──茜の姿はなかった。
「......まだ来てないだけだよな」
そこにあるソファに腰掛ける。そして、空虚な気持ちのままあっという間に5分。腕時計は13:00を指し示していた。約束の時間。
清掃員のおじさん2人が前を通る。それから数秒後、彼らが階段を登る音が聴こえた。
再び訪れる静寂。そこに人の声はなかった。
10分が経過する。
「......やっぱ、来ないよな」
重たい腰を上げて立ち上がる。猛烈な立ち眩みが襲った。けれどそんなことはどうでもいいくらいに、夕輝はただ一点だけをずっと見詰めていた。
「......冷めちまったな」
考えることをやめた脳みそが足に動けと指令を出す。一方で、どこか落ち着いてもいた。時間だけはアナログに進むからだ。
順番に、階段を上る。また明日がある。明後日がある。もしかしたら気が変わって、夕輝のところに来てくれるかも知れない。学校に来たっておかしくはない。
それだけではない。じっくりと、何週間でも何ヶ月でも彼女が心を開いてくれるのを待ち続けよう。それでいい。焦ってはいけない。
3階に到り、すぐに自宅の扉の前に立つ。冷たい風に誘われて、両手に持っていたそれの一方をもう片手で掴み、ポケットから鍵を取り出す。それを差し込み、次にその指で指紋認証。指を押し付けると、お馴染みのピピ、という機械音が鳴って──
──バン!
右手の方から、100キロの重りを壁にぶつけたような衝撃音が聴こえた。
「......?」
驚いて肩をびくつかせつつそちらに顔を向ける。
そこにいたのは。
「......あ、かね......?」
乱れた髪は四方に跳ねており、全く整えていないことが一目瞭然。肩も足も露出した無防備な格好で、茜は彼女の家の扉から飛び出してきた。
走ってきたみたいにはぁはぁと息を切らしている。
「......あかね。......茜!」
覚束ない足取りで、一歩ずつ彼女に近付く。
「良かった......やっと会えた。茜」
「......夕輝くん......何で、ここに」
茜は必死の形相で夕輝の表情を確認していた。顔に何か付いているのだろうか。
「......? どうした?」
友達よりは遠い距離で、夕輝も茜を確かめた。確かにそれは茜だった。
「どうしたって......急に
「......ん?」
茜は怒っていた。そしてそれは並大抵の怒りではない。憤怒、憤慨、大激怒。そうしてなお、顔を真っ青にしていた。
夕輝は当然、混乱する。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「──っ何ですか!」
「俺、自殺するだなんて一言も言ってないぞ」
「............え」
夕輝の言葉に、茜も硬直する。
「でも、だって......」
夕輝は自らの言葉を思い出す。
──1時になったらエントランスに来てくれよ。......嫌だったらいい。......もし来てくれなかったら......そしたら、もう茜のことは諦めるよ。今までありがとう──
少なくともそれで、1週間は茜の家に通うのをやめようと思っていた。ちなみに完璧に諦めるつもりは毛頭ない。
それで......まさかそれを自殺のサインだとでも思ったのではあるまいな、と夕輝は嘘みたいな気持ちで茜に疑いの目を向ける。
茜の口から飛び出したのは思いもよらない人物の名前だった。
「......だって、巧くんが......」
茜はそう言うと、思い出したようにポケットからスマホを取り出した。何度かいじって、夕輝に画面を提示する。
緑色のメッセージアプリの、巧とのトーク画面。ただし巧が一方的に話しかけているのが殆ど。
その中に、今さっき巧から送られてきたばかりのメッセージがあった。
『茜、よう元気か?』
『お前があんまり無視ばっかするから、夕輝がそろそろ死にそうだぞ』
『もしかしたら、今日自殺しようとしてたりして......』
『なんてな』
文体だとまた所々喋り方が違うような違わないような気がする。しかし、巧。それは流石に酷いだろう。
「何だこれ......俺は自殺なんてしようとしてないし、何なら懲りずにまたインターホン押そうとしてたぞ」
「......え......?」
「巧の妄言だろ。真に受けるなよそんなの」
何よりたちが悪いことに、最後にこれでもかと『なんてな』である。凄くフラグが立っている。これは本気にしなくても不安になってしまうやつである。
「......何にせよ、出てきてくれて良かった」
「わ、私......そんなつもりで来たんじゃありません......!」
「......茜、久しぶりだな」
何と言うか、だいぶ想定とは違うが茜の顔を見るだけで夕輝は物凄く安心できた。
「......何でこんな......ふざけないで下さいよ! 何が久しぶりですか! こんな風に......こんな......!」
顔には憎悪が目一杯。しかもかなりガチである。笑い飛ばすことなど到底できないレベルで茜は憤っている。
こんなコメディ要素を孕んだすれ違いのせいで一瞬忘れかけていたが、茜が安心した様子も見せず夕輝への怨念にも似た厭悪を露にしているおかげで、夕輝はまだ茜を諦めないで済んだみたいだ。もしここで安心でもされていたら、夕輝はそれこそ何もできなかった気がする。
ちょっとインターホンを押し続けたくらいでは何も変わらない。夕輝の知らない夕輝は、ずっと茜を見ないふりをしていたのだ。ずっと放っておいたのだ。
「......俺に色々言いたいのは重々承知だ。ついでに俺もちょっとだけ思いの丈を伝えたい。けどさ、茜」
「......?」
夕輝はため息も付くように告げる。
「......まずは、ちゃんとした服、着てこい。俺ここで待ってるから」
「......」
思っていた空気とは、明らかに違う。こういうことではなかったのだが......巧の天然なんだかよく分からないメッセージと夕輝のインターホンでの言葉が相まって茜に勘違いをさせてしまったことで、かえってギクシャクした雰囲気が生まれる。
茜は無言で自宅に引き返す。
夕輝はそれを見届けると、玄関の扉に背中を付けてずるずると座る体制に入った。手元のそれらに視線を向ける。茜は動転していたのか気付きもしなかった。
「......冷めても美味いよな......それとも温めるか?」
と一瞬考えてみたものの、温めている間に茜が来てしまったら大変だ。却下。
──そもそも、家に引き返してまたこちらに戻ってくるとも限らないのではないか。夕輝は今更になって茜とともに茜の家に入らなかったことを後悔した。
「いや、違うだろ」
ツッコミ役がいないので、自ら突っ込む。真の世界でこそ茜の母公認(父には勿論秘密にしている)カップルみたいになっているが、こちらの世界ではもうずっと顔も会わせていないいちクラスメイト兼生徒会員なのである。何なら茜の母にも会っていない可能性が高い。
家に入るなどおかしい。おかし過ぎる。しかも茜が着替えると言うのに。
夕輝の下心が少し覗く。茜の顔を見たことで、だいぶ余裕ができたようだ。
先程の不安が杞憂であったと分かったのは、僅か数分後。茜宅の扉がまた開いたのだ。
「......」
「......」
ボサボサだった髪の毛はすっかり落ち着き、羽毛みたいにモコモコの上着を着て茜は出てきた。見たことのない服装で、夕輝は『可愛い』と言わないようにするのに精一杯だった。
「......茜、これ」
やっとのことで夕輝は、左手に持ったそれを渡す。ちなみに夕輝の分も右手にある。
「......いくらですか」
「......
「......はい?」
以前、たい焼きを茜に奢られたときには逆の立場で夕輝が金を払おうとした。茜はあのとき、むしろ奢られてほしかったのかも知れない。今になってそれを身をもって実感する。
「冷めちゃったからさ、特別に100%オフだ」
「......そうですか」
茜は力強くそれを引ったくる。
「......ちょっと、外出るか」
外というのは、エントランスの外、ということだ。夕輝は歩く。茜は黙ってついてくる。エレベーターに乗っている間も、茜とは言葉を交わさなかった。
エントランスを出ると、夕輝はそれの最初の一口を齧る。
「......美味いな」
思っていた程中身は冷めておらず、凄くホクホクしていて美味しかった。
「......食べないのか?」
「これ......」
今更気付いたようで、茜はそれをじっと見詰めている。
「いつか、俺が茜にひっぱたかれた日に茜と食べたコロッケだよ」
「......」
何より驚いたのは、茜が肯定の沈黙を表したことだった。ここは『何を言っているんですか』とでも言われるシーンだと思っていたが、真の世界と相似世界で、変化していないこともあるようだ。
遠慮がちに茜も一口齧る。
「......」
「......来てくれてよかった。もし家に戻ったっきり出てきてくれなかったら、どうしようかと思ってた」
「......」
言ってみるが、茜は無言を決め込む。
しばし、無言で歩いた。茜は少し距離を置いて歩いている。
そのままコロッケを食べ終わるまで2人は互いに口を開かず、夕輝と茜は人気のない公園に到着した。
「......」
「ゴミ、もらうよ」
茜のコロッケが入っていた耐油袋を受け取り、少し遠くにあったゴミ箱に入れようかと一度は考えたが、間もなく夕輝はそれをやめ、2人分の耐油袋をポケットに仕舞った。
「......茜、元気してたか?」
「......」
「ちゃんとしたもん食ってたんだろうな?」
「......」
「皆、心配してた。......うん、凄く心配してたんだ。生徒会の皆も、それに、クラスの奴らもさ。......勿論、俺も。ずっと茜に会いたかった」
「......」
「......帰ってきてくれないか?」
茜はベンチに腰掛ける。この小さく閑静な公園は、この時間だというのに嫌に薄暗かった。
茜はふとため息をつく。
「......焦って損しましたよ。まさかこんな風に嵌められるとは思っていませんでした」
彼女の口から発せられたのはそんな言葉だった。
「茜......」
「巧くんのメッセージも......そっか、よく考えれば最初から、私を外に出させるために......私を君に会わせるために」
「違う」
茜の言葉を遮って、断言した。違う。
「......それは誤解だ。俺はそんなことしてないし、するつもりもない。ただ......茜が心配で」
「今更なんですよ。遅いんです、何もかも。今になってそんなことを言われて、私がそんな言葉を鵜呑みにするとでも思いますか?」
「......」
正論だった。返す言葉もないくらいの正論。茜が本当に辛かったときに手を差し伸べてやらなかったというのに、今になって"心配"など、いくらなんでも虫が良すぎる。
「......悪かったと思ってる」
そんな言葉も、茜を苛立たせるだけ。
「......"悪かったと思ってる"......? 思ってもいないくせに、よくそんなことが言えますね」
茜の表情は、どこか笑っているようにも見えた。ただし、呆れる意味での笑み。
言葉には棘があって、夕輝を寄せ付けようとしない。
夕輝はただ苦しくて、まるで泥沼に嵌まった足を必死に引っ張るような思いで絞り出した。
「......生徒会には......茜がいないと困るんだよ.....」
「......っ」
茜の表情が一気に変わった気がした。驚いたような息の吸い方の後に、歯を食い縛る。前髪が伸びていて、表情が見えない。
それで気付いた。茜が長い髪を後ろで束ねていた、ということに。
「......分かりませんか......? もう全部終わったんですよ......! 琴羽も戻ってきました。私が生徒会にいる理由はもうありません......!」
「それは違う......」
夕輝は胸が締め付けられるような思いだった。同時に、張り裂けるようでもあった。
茜は自暴自棄になっていた。いつしか夕輝が見た、涙を流す彼女に似ていた。
「......生徒会には茜が必要だ。巧は馬鹿で考えなしに行動するし、雪は馬鹿真面目でそのくせ臆病だから茜がいないと駄目なんだ。茜が必要ないわけなんてないだろ......!」
「......じゃあ、私が抜けてから生徒会は上手くいかなかったんですか......? 違いますよね? リーダーの代役にはマツリがいるじゃないですか」
「......それも違うんだよ......!」
お願いだから、それ以上自分を傷付けないでくれ。夕輝はそう言いたかった。それから、ここまで茜を苦しめた
──いつ、誰が決めたことだろうか。
茜がリーダーである、など。
勝手にイメージを押し付けていただけではないか。本当は茜は強くなんてないのに、独りで抱え込んで、その結果こうなってしまったのではないか。
茜は勢いよく立ち上がる。
「じゃあ何で......私にこれ以上、生徒会に来る必要があるって言うんですか! 私なんていなくたって、夕輝くんには関係ないじゃないですか! 関係ないから私のことを置いていったんじゃないんですか? ならこれまで通り、放っておいて下さいよ!」
熱くなった声が静かな空気を一気に伝播する。彼女の棘は気付けば、彼女自身に深々と刺さっていた。
夕輝はもうこんなのには耐えられそうになかった。茜はこんなのに耐えられず、自らを傷付け周囲との距離を置くことで、逃げてしまった。
逃げるしかなくなるまでにしたのは誰だ。
苛立ちが響き、木々に、空気に消えていく。
静けさが染み込む。
次にそこに溶け込んだのは、夕輝の取り繕わない言葉。
「......俺は......茜が好きなんだ......」
「っ......!」
茜の威勢が、一瞬、力を失う。
「......だから一緒にいたいんだよ......。自分勝手だって分かってるけど、茜と一緒にいたいんだ。......関係ないなんて言わないでくれよ......」
力なき言葉。夕輝の弱音だ。巧に問われたとき、夕輝は気付いたのだ。
守り続ける、そう夕輝が約束したのはあちらの茜だ。夕輝が好きになったのもあちらの茜。
──では、こちらの茜は。
夕輝とはまともに会話すらさせてくれず、やっとのことで会ってみれば、自暴自棄になっていて感情をぶつけてくるし、勝手な思い込みばかりしてろくに話もさせてくれない。コロッケを奢っても感謝すらされない。
そんな茜を夕輝はどう思っているのか。
答えは簡単だった。
「そんなの......」
「嘘じゃない。俺は茜が好きだ。ずっと好きだったんだ。だから......俺は茜のそんな顔、見たくないんだよ......!」
「......何ですかそれ......! 自分勝手もいいとこ......っ」
茜の言葉が突然途切れる。
夕輝はまさかそれが、茜が
茜の瞳には、夕輝の悲痛な表情が映っていた。
ちょうど、夕輝の瞳に映ったものと同じ。
──誰が救われただろうか。
「......何で、君がそんな顔をするんですか......」
「......」
「誰のせいでこうなったと......」
茜は喉に詰まった言葉を順に吐き出していく。そうして訴える。
訴えなければ、その気持ちを仕舞っておこっとすれば、きっと今度こそ壊れてしまうから。
「......私がどれだけ......辛かったと......」
それに対して理性が歯止めをかけようとするのだが、上手くいかない。溢れる感情が、茜をとうとう限界に達させた。
弱々しい言葉を、彼女は紡ぎ続ける。
「......もう嫌なんですよ......私の前からいなくならないで下さいよ......」
「茜......」
茜は恐らく、心のどこかで願っていたのだろう。
誰かが優しい言葉をかけてくれるのだと。
しかし、それが誰にもできなかった。
弱さ故。
「皆、私の前からいなくなるんです......琴羽も沙良も、雪も巧くんもマツリも......君も」
「......」
「何で......」
力の抜けた声が空気を震わせる。
茜はずっと、夕輝たちを本当は待っていたのに。
その我慢が限界に達するまで、夕輝たちは彼女に何もしてやれなかった。
なら、今夕輝がすべきことは。
彼女にかけるべき言葉は。
「......もう、独りになんてさせない」
「......っ」
「......もう、茜に孤独な思いはさせない。辛い思いなんてさせない。茜が辛いときは俺が助けるし、独りで抱え込ませたりなんてしないからさ......。上手く言えないけど......もう、そんな顔しないでくれよ」
それから、付け加えてもう一言。茜を救うための飾らない言葉。
「......もう、自分を許してやってくれよ」
「......!」
茜は多大な自己嫌悪に陥っていた。夕輝たちを責めるようにも見えて、結局のところ一番は自分を責めていた。夕輝にはそれが分かる。
例えば茜が、琴羽がいなくなるまでの経緯を夕輝に話したあの日。または、琴羽が科学者側に寝返ったのだと一瞬は考えてしまったときも、茜はまるで全ての原因は自分が不甲斐ないからで、自分に責任があるみたいな顔をしていた。
そのくせ、実際にその責任を背負ってしまったら自分はその重圧に耐えられなくなってしまう。空回りにも程があることを彼女はし続けていた。
すなわち、彼女は思ったのだ。
──沙良が死んだのは、自分のせい──。
沙良が自殺したいきさつを全く知らない夕輝でさえ、そんなことは分かる。真の世界と相似世界でどんなに相違点があれど、比較できるのは共通点があるからこそだ。
少なくとも、人の性格は変わっていない。ならば、茜はきっとそう考えただろう。沙良と茜の関係性が変わっていないのなら、尚更だった。
「......そうやって、自分ひとりで責任感を感じていようなんて、できもしないことするなよ。そんなに......優しくなくていいんだ、茜は」
「......何で......」
茜は俯き加減で生気のない声を漏らす。表情は窺えない。
「じゃあ、私は......」
助けを求めるように、何かにすがるように、小さく小さく口にする。
「私は......どうすれば良かったんですか......? どうしたら......沙良を止められたんですか? どうしたら......」
「......茜」
弱々しく震える声。と共に華奢な体。芯まで凍ってしまいそうだった。
そして──。
彼女が顔を上げたとき、夕輝はとうとう絶句した。
「どうしたら......また、生徒会に戻れますかね......?」
彼女は──
微笑んだままで、涙を流していたのだ。
「っ......!」
その姿が余りに儚くて、夕輝は見るに耐えなかった。茜に二度としてほしくなかった表情だったから。
──そんな風に
「はは......。もう、遅いじゃないですか......。私に居場所なんて......」
「......茜!」
夕輝は怖かったのだ。茜が壊れてしまうことが。茜がもう二度と癒えないまでに傷を負ってしまうことが。
だから、彼女を何かから護るように、強く抱き締めた。怒られるとか、拒絶されるとか、突き放されるとか、そんなのは既に頭になかった。
「もう喋るな。......もういいんだよ......! 茜は間違っちゃいない。さ......岩下さんが亡くなったのは、茜のせいなんかじゃないんだ......! 仕方のないことだったんだよ......!」
端から見ても、その時に存在していなかった夕輝からでも、茜が原因でないことなど分かる。それなのに、茜は自分のせいだと思っている。
恐らく、友達だったから。
中学からの友人だったからなのだろう。
あちらとこちらにどこまで差異があるのかは分からないが、茜がここまでに自暴自棄になるためには、多分ただのクラスメイトとかでは足りない。それ以上に仲が良かったのだろう。
「......っ」
茜の肩が震える。押さえ続けていた感情の堤防が決壊するのは、時間の問題だった。
「っ......何で......何でこれ以上私に優しくするんですか......! 何で......何で! うぅぅ......っ!」
夕輝は自らの肩が濡れていることを確認すると、より一層茜を強く抱き締めた。もう嫌だった。この髪から手を離したら、茜はこの場でぼろぼろと崩れていってしまうような気がした。
どうして、今更。
「......もう、泣いていいんだ......! 無理なんてしなくていいんだよ......!」
「うぅっ......! うわあぁぁぁぁっ!」
嗚咽。こんな風に茜が泣くのを、夕輝は初めて見た。
空は嫌程青いと言うのに、夕輝の心の内は曇って止まなかった。
何を責めたら、何を信じたら良かったのだろう。
何が正解だったのだろう。
茜はその後、しばらく──少なくとも、どれぐらいなのかは分からないぐらいには──泣いていた。自分への不甲斐なさ、夕輝たちへの積もる感情、そして何より友人の死。それらが相まって、ついに溢れ出した。
夕輝は、できる限りの手は尽くした──なんてことは1ミリも考えていなかった。
茜を解き放ってやるためだけの、殆ど感情に任せての行動だった。
間違いだとは思わない。
正解だとも思っていない。
ただ、情動と成り行きがあっただけ。
きっとどんな道を通っても、結果的にはここに辿り着いていたのだろう。だから、正解も間違いもない。それが"今"だっただけだ。
「......茜」
ベンチで力を失っている茜に、夕輝は声をかけた。ぼーっとしながら空を見上げていた茜はそれに気付かない。もう一度声をかけるのも面倒だったので、茜の頬に温かいお汁粉の缶を当ててみた。
彼女の小さな顔がこちらを向く。
「......そこの自販機で買ってきたから、飲め」
「......どうも」
今度は、値段については聞いてこなかった。茜はカシュ、と音を立ててそれを開けると、口に含んだ。
「......あったかいだろ」
「......」
しばらく、沈黙の時が流れる。茜はお汁粉を飲んでは俯いたりを繰り返しながら、時折腫らした目を気にする素振りを見せつつ最後まで飲み干した。
しばらく黙って同じ方向を見る。何かがあるわけではない。ただ、今の夕輝たちにとって最も心地よかったのだ。
ふと、茜が唇を小さく動かした。
「......夕輝くん」
どうやら、夕輝の名前を呼んだようだった。茜の方に体を傾けたりはせず、立ったまま彼女の話に耳を傾ける。
「......また、やり直せたりしますかね......」
「......」
茜は殆ど無感動そうに言う。
「......またクラスに戻って、生徒会に戻って、前と同じように皆と過ごせたりしますかね......」
「......さあな」
だから、夕輝も同じように返した。
雨が降って、必ず地が綺麗に固まるとは限らない。例えば足跡を付けたまま固まればそこだけが窪んでしまうように、全て綺麗さっぱりなんてのはまさに綺麗事である。
けれど、少しでも変化することが大事だ。
綺麗に固まらなくても、その度に雨を降らせば、限りなく綺麗な状態に近付く。
完全に元に戻れなくとも、別の形で安定することだってある。
夕輝と茜の関係性も、だ。
「......そんなの、やってみなきゃ分かんないだろ」
「......そうですよね」
「ま、今日で2学期終わったけどな」
「......それは盲点でした。家にいる生活が長くなると、そういう感覚が一切なくなってしまうので」
茜は手のひらで空の缶を弄ぶ。からから、と小さな音が聴こえる。夕輝は思いきって、しかし何でもないように尋ねてみた。
「......で、生徒会には戻ってくるのか?」
棒読みすぎてかえって変になってしまったようにも思ったが、別段茜はそのことを気にしてはいないようだった。
無言、もしくはイエスかノーが返ってくるとばかり思っていたが、彼女の口から発されたのはこんな言葉だった。
「......君は私のことが好きなんだそうですが......私は君のことが嫌いです。大嫌いです」
「......」
結構傷付くということは分かったので、これも経験だろう。どこまで本心なのかは分からないけれど、こんなことを言われることぐらい予想できなかったわけではないので、夕輝もその場で卒倒せずには済んだ。茜は続ける。
「......ですが、そこまで言うなら少しぐらいは夕輝くんに情けをかけてあげなくもありません」
「......」
ここまで言われて、夕輝は何となく続きが分かった気がした。
本当に素直じゃない。
そもそもさっきまでと言っていることが真逆だ。自分は不安を抱いていたくせに、いざ夕輝が気にかけた途端形勢逆転。
茜は言い放つ。
「仕方ないので、夕輝くんのために生徒会に戻ってあげましょう」
「......本当か?」
思いつつもそう確認の言葉を口にしてしまったのは、やはり嬉しかったからだろう。
「......勘違いしないで下さいよ。私は夕輝くんのことが大嫌いなんですから」
「はは......じゃあ、好かれるために努力しなきゃな」
「......」
茜は黙る。言っていることは滅茶苦茶だが、今は多少なりとも建前を必要とするときだ。夕輝も、茜も。
いや──むしろ、建前を必要としない故の建前なのかも知れない。
建前があっても本意が理解できる程度には、夕輝と茜は気持ちを打ち明けあってしまったのだから。
「......帰るか」
「......ええ」
茜がすっと立ち上がる。缶はゴミ箱に捨てて、2人は隣を歩きながらマンションへと戻った。
茜と別れてから、小一時間。巧への報告も完了し、ついでに奴を叱っておくと、『結果オーライ』という単語のみが返ってきた。お気楽もいいところだと思ったが、全否定もできないのでスタンプを送って誤魔化しておいた。
そんな最中。
──それは余りにも突然のことだった。
「......兄ちゃん......あれ何だと思う?」
「......ん?」
春に話しかけられた。人間の距離感というのはそう簡単には変わらないように思っていたが、いざ障壁を取り除いてやると数日で結構流暢に喋れるようになった。
それはいい。
洗濯物を取り込んでいた春が、ベランダから夕輝に話しかけてきた。
「......どうした?」
「いいから来て。何か変なの」
「......変?」
変、という言葉はそれなりに色々なシチュエーションで使えるので、春が何を表現せんとしているかはまだ謎だった。言われた通り、重たい腰を上げてベランダに出てみる。
「ほら、あれ」
ぐいぐいと袖を引っ張って、春は青い空を指差す。空に一体何があると言うのだろうか。変な形の雲とか、変な飛行機とか......。
そう思っていたから、始めそれを見たときただただ疑問を抱くことしかできなかった。
「......何だ? あれ」
見てみても分からない。分かったのは、空に何かが浮かんでいる、というぐらいだった。
空に、黒い何かが浮かんでいる。
けれど──どこか不自然だ。
浮かんでいる、と言論するには、何か、どこかがおかしかった。
「......?」
身を乗り出してじっくりとそれを見てみる。よく見ると、それはいびつな線のようなもので、黒い針金のようにも、黒いロープのようにも見えた。けれど、不気味なことに大きさが分からない。遠近感がまるでないように思えた。かと言って、子供が書いた遠近感のない下手な絵とかともちょっと違う。
風とかも吹いているはずなのにあの物体は動いたりしない。ずっとその場で静止している。
「......ね、変で──」
春は同意を求めるよう"変でしょ"とでも言おうとしたようだったが、それが突如、何かに遮られる。春がある一点を見詰めて完全に硬直したのだ。
ちょうど、そのときは春の方だけを見ていたため春の見ている先で何が起こっていたのかを確認していなかった。
「春? どうしたん──」
空を見上げつつ、夕輝は春に尋ねようとした。
しかし、それは先程の春と同じく遮られた。そして遮られた理由は、何も聞かなくてもそのときには理解できたからではない。確かにそれは事実だが──
夕輝は驚愕のあまり絶句したのだ。
──ぼろ。
「......え」
「......えっ?」
突然、
「何あれ......?」
春の怯えるような声音は、すぐにその空の異常っぷりを夕輝に認識させた。
あの線が落ちたんじゃない。
あの線が広がって──
「え?......えっ?」
自分の目がおかしいわけではないことを春は何度も確認し続ける。目をごしごしと擦って再び見上げる。
「......!」
急に、あの線が広がる。それは、ただの線ではなかった。
──亀裂。
空に亀裂が生まれている。
そして、最初に空が落ちた部分を中心にどんどんと破片が、欠片が落ちていく。
「......
言葉にすればそれだけ。けれど、その様子は明らかに異質だった。現実的でない、フィクションみたいな光景。
おまけに......。
「何だ......あれ......」
落ちた空の破片がもとあった部分には、夕輝の知らない
ペットボトルから水を抜いたら空気が残るように、
けれど、分からない。
見たことがない。
言葉では説明できないものだ。人間のクオリアにあってはならないものだ。直感的にそう分かる。
"無"とか、"虚"というものを連想させた。
次の瞬間、大きな地響きが起こる。同時にバリバリッと雷が鳴るような音がして、空の亀裂が一気に近付く。どころか更に向こうへ行ってしまった。
「うわっ!」
「春、大丈夫か!?」
瞬間、急な揺れと共にマンションが一気に傾いた。斜め45度くらいに。
そしてそれは──それは、あの空のことよりももっと簡単に、簡潔に端的に、今の状況が異常であることを夕輝に伝えていた。
傾いたはずなのに、
「......は?」
まるで重力が仕事を放棄したみたいに、夕輝と春は傾いた地面に接地していた。まるで、夕輝と春ごと傾いたみたいに。夕輝は空とは垂直にならずに、しかしちゃんと地に足を付けていた。
「な、何これ......」
頭の上には開けた空があった。マンションが傾いたせいで、よく見える。
どこもかしこも、ヒビだらけだった。
「......なん......え?」
目を疑った。近くの空が、大きく落ちたのだ。
あり得ない。本来なら空にもちゃんと厚みがあるはずで、あんな風にどこ○もドア式に壊れるわけはないのだ。その奥があるのだから──。
なんていう一般常識も覆す勢いで、空はどんどんと落ちていく。驚いて、その空たちを目で追う。
驚くべき光景があった。
そこにだけちゃんと重力が働いているみたいに自由落下していった空は、大気を──そして地面を、いとも容易く貫通した。地面にぶつかることも砕けることもなく、するりとまるでそこに何もないかのように落ちていくのだ。
貫通した後には、あの夕輝の知らない
その光景をただ漠然と見ていると。
「っ......?」
夕輝は異変に気付く。本来ならもっと早く気付くべきだった。
「あれ......?」
だんだんと、ぼやけていく気がしたのだ。ただし、ぼやけるのは視界とかではない。目の前の光景が不明瞭になるとかではなかった。
ぼやけるのは──意識と感覚。
ただし、極めてアナログに、不鮮明になっていくのだ。
「兄ちゃん......何これ......!?」
「......分からない」
驚愕も変わらない。春の言葉に答えることもできるのに──だんだんと、思考力も低下していく気がする。
そこで気付いた。
この感覚は──。
「夢......?」
まるで、睡眠を介さずに、極限まで自然かつ連続的に、現実が夢になっていくみたいな。
分かってからでは遅かった。
「う......?」
夕輝は気付けば傾いた地面にも壊れた空にも違和感を覚えなくなる。
──それが余りにも怖かった。
まるで、この世界は最初から夢だったんだと言われているようで。
しかしそんな予感は──今気付いたところでどうしようもないようなもの。
いつの間にか夕輝は、そんな思考すら止め始める。じわじわと何かに自分が侵食されているということに、だんだん気付けなくなる。
夢だから。
けれど、恐怖だけはなくならない。
心臓はばくばく飛び跳ねた。
──人が夢を見る仕組みを知っているだろうか。すなわち、レム睡眠である。比較的浅い眠りをしているとき、人はよく夢を見る。その眠りが極端に浅ければ、夢の中で思考を持つこともでき、これが夢であると気付くケースもあり、その場合夢を操ることもできたりする。それが明晰夢である。
──閑話休題。
夕輝はだんだんと、夢の世界から薄れていった。深い眠りに堕ちていく。その感覚すらもう感じることはできず、夕輝を操るものは睡眠だけだった。
──兄ちゃん!
最後に、春がそう叫んだ気がした。
僕、CBAのエピローグでCDEはどちらかと言えばSFチックとかほざいていた記憶があるのですが、思った以上にまだ人間ドラマでしたね。多分、登場人物に口論させるのが好きなんです。
ですが、今回は僕の描写の問題もあり感情移入が少ししにくかったですね。多分、知らないことを持ち出してそれについて喋ったところで『え、あんた何で泣いてるの』ってなっちゃうんですよね。
難しいです。精進ですね。
文字数が増えてしまったのに読んで下さった皆様、ありがとうございます。最長記録更新です。あまり嬉しくはない記録ですね。
それではこの辺りでお暇させていただきます。