Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
やっとCDEも半分を切って、伏線だけが散りばめられた状態となりました。
これをこれから順番に回収していきます。
ちなみに一部の伏線回収はCDEの後に執筆する"Charlotte Zhiend"にて回収致します。
今回はまだ導入ぐらいと、あとはまた新しい伏線を張っていったりします。最後までお付き合い願います。
夕輝は目を覚ました。
そしてすぐに、時計を見る。
──12月23日、日曜日。
「......」
心はやけに落ち着いていて、けれど夕輝には分からなかった。
「夕輝~」
スライまるがぴょんぴょんと飛び跳ねながらやってくる。
「......夕輝、大丈夫か?......また、悪い夢でも見たか?」
「いや......」
答える言葉を失っていた。
「......ご飯、出来てるぞ」
「......ああ」
スライまるの言葉が、脳みそを通らずに抜けていく。ぴょん、と飛んで廊下に出ようとするスライまる。青く艶めいた体が窓から入る日光を反射している。
スライまるは動こうとしない夕輝を確認する。
「......来ないのか?」
「......ああ」
夕輝のそれは、何の情報も持たない生返事だった。
「今日もそれかよ......。すぐ来いよ。学校はないけど、あんま遅いのも良くないぞ」
「......分かった」
辛うじて、最後の言葉はある程度ちゃんと理解できた。
今日も、か。
昨日もこんな感じだっただろうか。覚えていない。
一昨日、起きてからすぐに動転したのは覚えていた。
──どうなったんだっけ。
最近は専ら目覚ましなしでも起きることができるようになり、夕輝は毎朝6時に起きるようになっていた。それは、学校がある日でもない日でも、真の世界でも相似世界でも同じ。
けれどその日は──そんな悠長に寝てなどいられなかった。
焦りは識閾下でも身体に作用し、夕輝が目覚めたのは午前4時だった。
「......」
目覚めて1秒とかからず、夕輝は全てを思い出す。
「......そうだ......春!」
まだ外は暗いが、夕輝は大声を出して叫ぶと走って春の寝室へ向かった。
ばん、と扉を開く。
「春!」
暗くて中はよく見えない。結露した窓ガラスだけが、右側の欠けた月に照らされて煌めいていた。
春の布団に近付く。それなりに高さのあるベッドに彼女は眠っていたが......夕輝の大声に反応して、「うぅ」とうめき声を上げると、間もなく起床した。
「ん......どしたの兄ちゃん、こんな時間に......」
春は外の暗さと体感から大体の時間を判断し、そう尋ねてきた。夕輝はふと我に返る。
「え......ああ......えっと」
すぐに自分の行動を思い返すと、言い訳ができずに口ごもってしまう。
そうしていると、間もなく春の隣に──スライまるを発見した。
そうか、よく考えたら、こちらは真の世界だ。移動の条件は睡眠──睡眠?
「どしたの兄ちゃん、怖い夢でも見たの?」
「......夢」
夢。夢は寝ているときに見るものだ。
夕輝は記憶を一気に遡る。
夕輝は相似世界にいて、あちらで茜と会って、やっとのことで茜が生徒会に帰ってくるということに落ち着き、家に帰って巧と少しメッセージのやり取りをし、そして──。
ベランダで洗濯物を取り込んでいた春に呼ばれた。変なものを見付けた、と。
そこで──見てしまったのだ。
「そうだ......空が壊れて......崩れ落ちて、それで......!」
地面が傾き、重力が狂い、空間が消え、空が失われた。
しかし、夢なんかではなかった。
夕輝には眠った記憶がないのだから。
「......春は......皆は無事なのか......?」
「......兄ちゃん、何言ってんの?」
「っ......!」
夕輝はすぐに自室へと戻る。
眠気がある今なら、まだ眠れる。
焦りも相まって夕輝の交感神経は働こうとしていたが、何せ今は4時である。まだ眠れる。
早く、様子を見に行かなければ。
夕輝はベッドに潜ると、鼓動を落ち着けて目を瞑った。色々な考えが頭に過るたびに、それらを羊で書き消した。
100匹目以降の記憶がない。
目覚めて、夕輝はすぐに時計を確認した。かなり眠りが短かったように感じられたが、今はそれより時間が大事だ。
こちらが相似世界ならば、少なくとも今は12月21日の午後4時以降でなければならない。
デジタルの時計に視線を向けると、そこに表示されていたのは──。
「12月21日、
何故、という言葉が脳裏を蠢く。
何故。
まさか、相似世界にはまだ秘密があるのか。
例えば、相似世界が夕輝の想像通り"失敗した世界"ならば、茜の件が解決に向かってしまったのは、世界の理に反するとか。だから時間が巻き戻ってしまった──。仕組みこそ分からないが、そうは考えられないか。
と、それが不正解であることは間もなく
ぺたん、ぺたんとインクを溢すみたいな音が規則的に聴こえる。
夕輝は反射的に、思わず耳を塞ごうとすらしてしまった。その音は夕輝がよく知っているもので、しかし相似世界にあるはずのものではなかったから。
「夕輝ー。起きろよー」
廊下から聴こえたのは、スライまるの声。
「っ......?」
全身から血の気が引いていく。顔面が文字通り真っ青になっている気がした。
慌てて飛び出す。スライまるが扉を開けようとしていたが、それより先に扉を開くと夕輝はスライまるも突っぱねて廊下を走った。
夕輝はキッチンに、春の姿を確認する。彼女はフライパンを洗いながら、こう声をかけてきた。
「......あ、兄ちゃんおはよう。......さっきの、何だったの?」
「え......」
夕輝は──このときにはもう既に、自身の身に起こっていることを理解していたのだろう。けれど、認めたくなかったがために漏れた声だった。
「兄ちゃんが変なところで起こすから、私あれから眠れなくてずっと起きてたんだよ」
春は、ちょっと迷惑そうに言う。仕方ないんだから、と腕を組んだ。
──どうして。
──どうして入れ替わりが起こっていない。
夕輝はその場に立ち尽くす。思考も巡らせているつもりで、実際は真っ白になっていた。
「で、おはようはどうしたの、兄ちゃん。音永家三大ルール......」
「何で......」
「......兄ちゃん......?」
春はとうとう、自分の声が兄に届いていないと気付いた。事実夕輝には、春の声も、遠くで鳴るスライまるのぺたぺたと移動する音も、どこかの国の紛争のニュースも聴こえてはいなかった。春は洗い物をする手を止めて、夕輝に近付く。
「......兄ちゃん、どうしたの?......兄ちゃん!」
「......何で」
「......ねえ......大丈夫?」
春が顔を覗き込んでくる。その瞳は、兄を心配する妹のそれそのものだった。
徐々に腕が、全身が震えてくるのが分かる。
夕輝は春の言葉に答えることもできない。
「......兄ちゃん?......体調悪いの?」
ぺた、と手のひらを夕輝のおでこに密着させる。
「......熱は、なさそうだね......」
春が戸惑い気味にそう言った瞬間、夕輝の全身から力が抜ける。一気に精神が崩落して、夕輝はゆっくりと弱々しく、魂が抜けたみたいにフローリングへと落ちていく。
「あ......?」
春が、兄が膝から崩れ落ちるという正常ではない姿を目にして顔面蒼白になっても、それが夕輝にはもう見えない。頭は真っ白で、真っ黒だった。
「兄ちゃん......!? ねえ、大丈夫!? 体調悪いなら無理しなくていいから......ほら、掴まって」
肩を貸してくれる。夕輝はそれに、今にも倒れそうになりながらしがみつくことしかできなかった。
春は夕輝の部屋へと夕輝を運ぶ。廊下にいたスライまるは何事かと春に事情を聞きながら、答えを得る前に春が支えていない左肩側を支えた。伸縮自在なので、びよんと夕輝の高さまで伸びて腕を担いだのだ。
「......」
夕輝は混乱と目眩で今にも意識を失ってしまいそうだった。何とか部屋のベッドまで運ばれると、そこに座らせられる。
「兄ちゃん、ほんとに大丈夫......?」
「......夕輝、どうしたんだ......?」
2人の声が両側から聴こえる。ただし、聞こえはしない。音としてそこにあるだけだった。
「食欲、ある......?」
遠慮がちに春が尋ねる。しかしやはり、それも夕輝にとってはただの空気の振動だった。
「夕輝......」
「スライまる、ちょっと兄ちゃんのこと見てて。私、朝ごはん持ってくるから」
言うと、春はてってとリビングに向かう。
「......」
スライまるもベッドに跳び乗って、夕輝の周りをぴょんぴょんと跳ねる。
「......」
夕輝は真っ白になった思考の片隅で考える。
偶然、何かの間違いで入れ替わりが怒らなかっただけだろうか、と。
そしてそれを、今度は別の夕輝が否定する。
ならば、あのベランダで観た光景は何だったのか、と。
まるで、世界が壊れているみたいではなかっただろうか。あの世界がなくなっているみたいではなかっただろうか。
それに、あれはいつの間にか終わっていた。いつの間にか夢になり、無意識と化したではないか。
まるで、端からあんな世界はないんだと言わんばかりに。
あの出来事とこのことが、まさか繋がっていないとでも?
「......黙れ」
自分の中に芽生える合理的判断を感情的に圧し殺す。
だってそうするしかないだろう。夕輝自身、わけが分からないのだ。ならば、都合の良い解釈を信じた方が夕輝にとって良いに決まっている。
では、都合の良い解釈とは。
「......夕輝?」
小さく呟いた夕輝に、スライまるは首を傾げる。首はないが。
「兄ちゃん、ご飯持ってきたよー」
春の手料理が運ばれてくる間も夕輝は、残りわずかの気力を全て脳内での思考に消費した。
その後のことは──あまり覚えていない。
──そして、現在。2日連続で能力者は現れず、夕輝はあれからずっと家にいた。
入れ替わりが起こらなかったのは眠りが浅かったからだろうかとか一瞬は考えてみたが、どうやらそれも違うようだった。
心ここにあらず。そういう状態がずっと続いていた。
しかし3日目ともなると、慣れてくる部分もある。
「......朝ご飯、食うか」
のっそりと立ち上がる。時刻は9時。
夕輝はこれで、意外と自分の心理状態を正確に把握していた。
そして、今まであったものがなくなることは、今までなかったものが増えることよりも恐ろしいことである。それを実感していた。
このままではまずいことも。
少なくとも家に引き籠っていることが現状の解決策とは言えないだろう。ただし、状況は絶望的だった。
何をすべきか。
廊下を歩いて、リビングに到着する。
「......あ、おはよう兄ちゃん。気分はどう?」
「......おかげで、だいぶ良くなったよ」
「そか......食欲ある?」
「......ああ。昨日の夜ご飯も殆ど食べてなかったからお腹すいたな」
「......良かった。冷めちゃったから温め直すね」
春はテーブルに並んだ朝ご飯たちを運ぶ。滅茶苦茶気遣いができる、素晴らしい妹だと思う。こんな嫁が欲しい。
スライまるはソファの本来座る場所ではない一番高いところにちょこんと居て、こちらをじっと見ていた。
「......」
物言わぬ人形のような居姿で、夕輝はふと、気になったことをスライまるに尋ねてみる。
「なあ、スライまる」
「何だ?」
「それって......お前自身は、立ってるつもりなのか? 座ってるつもりなのか?」
何となく、聞いてみたくなったのだ。夕輝は割と、気になったことを放置できない人間なのだ。
スライまるは幾ばくかむーっと考えて答える。
「そうだな......どっちでもないな」
彼の口とおぼしき器官から発されたのはそんな言葉。
「人間の体とはそもそも作りが違うんだよ。人は足を地面に付けてるときは立ってるって言うし、尻を付けてれば座ってるって言うけど......俺の場合足も尻もないからな」
元人間のスライムはかく語りき。これには夕輝も納得する。
「......なるほど、確かにそうか。一日中、寝るときもそれで、疲れたりはしないのか?」
スライまるは常に体勢を変えず、この状態で赤くなったり白くなったりしている。もしこれによってかかる負担が、人間にとっての"立つ"ことに相当するものだった場合、かなり疲れるのではないか。そう思ったが、返ってきたのはこんな返事。
「いいや、全く疲れないぜ。俺ってスライムだから、自分の体重も自分の弾力でカバーできるんだよな」
「......そういうものなのか?」
「そういうものだ」
本人が言うのだから間違いないのだろうが、しかしまあこいつの体は上手く出来ているんだなぁとしみじみ思う。
チーン、と高音の細い音が通る。電子レンジが活動を終了した音だ。
「兄ちゃん、ご飯温まったよー」
春は温まった各種おかずやご飯やなにがしやらを運んでくる。流石に何でもかんでもさせるのは申し訳なさ過ぎるので、夕輝も同じくそれらを運んだ。
「いただきます」
食べながら、夕輝は考える。
あちらの世界は今、どうなっているのか。
まさか、本当に壊れてしまったのか。
そんなことがあるのか。
あちらの世界に戻る方法はないのだろうか。
「......」
「......もしかして、美味しくなかった?」
反射的に声のした方を向く。と言うか真正面。正確には"顔を上げる"である。
春はテーブルの真正面に座っていた。心配そうな、不安そうな瞳は、夕輝の沈んだ表情を捉えている。
「......え?......いやいや、そんなわけないだろ。美味しいよ」
「......本当に?」
「本当だよ」
疑うと言うよりは、単純に不安そうな様子。夕輝は強く肯定する。春のご飯が美味しいというのは、紛れもない本心である。しかし春はまだ思案顔を続けていた。
そんな春の表情を見ていたせいか──夕輝は春とのとある約束を思い出した。
「......ボウリング......」
記憶が正しければ、この土日、春も買い物以外では外に出ていなかったはず。
──今週末にでも行こうよ、ボウリング。たまには兄妹でお出掛けしよう? ずっと家にいてもつまんないよ──
「ああ......また今度でいいよ。コラボが終わる前に行ければ良いから」
「......そうか」
春は知らない。あのコラボ景品──ボウリングピンスライまる──をゲットするためには、かなり高難度の条件を達成しなければならない、ということを。
少なくとも、一度行ったぐらいで取れる景品ではない。
例外はあったが。
プルルルル、と耳障りな音で電話が鳴る。もう少し環境と心境に優しい音はないのだろうか。
「あ、私出るね」
こんな気持ちでは、どんな音も耳障りに感じるのだろうか。勿論、兄に親身になってくれる春や、スライまるの声はそうではないが。
「はい、もしもし」
ご飯の最後の一口を口に含む。春が電話のあちら側の人間に応答する声が隣から聴こえてくる。
「はい。......あ、分かりました。伝えときますね」
かと思えば、一瞬にして電話を切る。"伝えておく"と言ったので、夕輝宛の電話だろう。心当たりは1つぐらいしかない。
「......何だって?」
「生徒会室に集合だって」
「......分かった」
「行けそう?」
「......大丈夫だ」
夕輝は手を合わせてごちそうさまを呟く。
「気を付けてね。それと、無理しないで」
「......ああ」
顔を洗い、歯を磨きつつ髪を整えるとすぐに家を出た。
「......遅いですよ」
「......すまん......」
思いの外テンションの低い謝罪が返ってきたから驚いたのだろう、松山は『え』と鈍い声を出して困り顔をした。
「い、いえ......そんなに落ち込むことはありませんが......」
夕輝は全くもってそういうつもりはなかったのだが、端からはそう見えているようだ。期を引き締めよう、とどこか他人事のように義務感を抱く。
「......夕輝、何か元気ないな」
「......え?」
巧が惚けたように言ってくるので、夕輝は不意を突かれ吐息の混じらない地声を落とした。
「体調でも悪いんですか?」
皆思うことは同じなようで、雪も春みたいなことを訪ねてきた。
「ああ、いや......全然。ちょっと寝不足でな」
「......そうですか」
雪の傍らで、マツリと茜もこちらを見ていた。感情の読めない真顔でこちらを見詰めているのがマツリ、少し心配そうに視線を向けているのが茜である。
「......では、能力者なんですが......」
松山の地味な声に反応して、5人はそちらを振り向く。
5人。何だか懐かしい響きだ。
岩下沙良の埋め合わせ──。
マツリ。
「どうやら、マンションの住人のようです」
「......そうなのか?」
巧が不思議そうに眉を上げる。松山はくい、と眼鏡のずれを人差し指で直した。
「......ええ。学園併設マンションの602号室の住人で、間違いありません」
──と、突如夕輝の脳内につんと何かが閃く。人間が何かを閃くときの閃きだった。
──602号室。
その言葉に、夕輝の直感は重要性を見出ださずにはいられなかった。
「そんなに細部まで位置情報を探知できるんですね」
マツリは感心したように言う。それは確かに知らなかったが、夕輝にはもっと引っ掛かるものがあった。
あと少し、脳みそギリギリに出かかっている。そこに巧。
「......そんで、そいつの能力は何なんだ? マンションにいるってことは、兄弟も能力者、とかだよな」
巧が口にしたのは、約37年前に彗星が接近したときに考察された
すなわち、特殊能力者の兄弟は特殊能力者になりやすい、と。
しかしこれは飽くまで、"欲望"の話の延長線上にあるものであり、言わば目安。その程度に過ぎない。
要は、同じような環境で育った、同じような遺伝情報を持った人間たちは、比較的皆同じような欲望、願望を抱きやすいのだ、と。
とは言え無論、例外の方が多い。
そんなことを考えていると──。
「......?」
何だか、松山の表情が暗いような気がした。薄い顔で、しかも眼鏡をしている割に表情の変化が人一倍分かりやすい。
「どうかしたか?」
「......いえ、今回の能力......十分に、警戒して下さい」
「......」
ごくり、と唾を飲み込む音だけが聴こえた。生徒会室は静まり返っている。松山は、動揺の垣間見える声音で言った。
「能力は......『
瞬間、茜の眉が小さく動いた気がした。
「......崩壊......?」
その言葉は、大きな違和感を夕輝に与えた。
「......何だか不気味、ですね......」
雪も同じことを思ったようだ。
松山の能力は、能力に適した日本語役を与える。その能力が"崩壊"という言葉を導いたのだ。
「"破壊"、とかじゃないんですね」
マツリが横からそう言う。言われてみれば確かにそうだ。違和感の正体はそれかも知れない。
松山は続ける。
「......『崩壊』の能力が発動したとき......周囲の建物や建築物などの物質が大規模に......文字通り、崩れ落ちます」
「......!」
破壊と崩壊の違いは、簡単に言えば"強度"があるかないかの差異なのだと松山は言う。
早速巧が頭を抱えているが、茜は聞き返す。
「強度......?」
「......ええ、例えば、プラスチック性の定規を折ることを想定してみて下さい」
「定規......」
話の方向性が分からなくなってくるが、松山はそのまま淡々と話を進める。
「"破壊"というのは、定規を折ることそのものなんです。力を込めて曲げていくと、いつか限界点を迎えて定規は折れます。けれど、逆に言えばそこまでは耐えます」
「ふむ......」
茜が鼻の下に指を持っていく。
「それは定規に、力に耐える力......"強度"があるからなんです。その強度を越える力をかけたとき、我々は定規を"破壊"します」
うんうん、と雪が頷く度に、彼女の長く黒い髪が揺れた。
「......対して"崩壊"とは、"破壊"が"力"が"強度"を上回るのに対し、"強度"が"力"を下回ることで起こります」
「......? ?」
巧は既に混乱の最中であり、沼に嵌まって抜け出せない様子だった。が、間髪入れずにマツリが結論を出す。
「......なるほど、壊すのが破壊、勝手に壊れるのが崩壊なんですね......意図は分かりました」
「......簡単に言ってしまえば、そんなところです。そして今回の能力は、物質の"強度"を断片的に消失させるというものです」
「......なるほど」
負荷に耐える力がなくなれば、物質は壊れる。それが崩壊。
いつになく危険な能力だ。建物が倒壊する可能性もある。勿論、マンションだって。
茜はすぐに行動すべく、松山に尋ねた。
「それで......マンションの部屋が分かっているなら、大体の能力者の目星はついているんですよね?」
松山の手には、マンションの住人リスト。会社の社長だか、リストラを試みる上司だかが持っていそうな、顔写真の貼ってあるやつだ。
その中の1つを取り出して告げる。
「十中八九、彼で間違いないでしょう......」
そしてその写真を見た瞬間に、夕輝は驚愕に言葉を失うことになった。
「602号室の住人......星ノ海学園中等部に所属している──」
前髪が少し伸びた少年。
「──岩下怜くんです」
「......!」
その瞬間、夕輝を大きな衝撃が襲った。
松山の提示した写真の少年に、夕輝は見覚えがあったから。
忘れもしない。
忘れるわけがない。
だって、彼は沙良の弟ではないか。
それですぐに思い出す。
「......そうか」
602号室は、沙良の家だ。夕輝は一度、あそこに訪問したことがある。
沙良がいなくなってから、茜と共に。
「......夕輝くん? 心当たりがあるんですか?」
茜に合わせて、全員が夕輝を向いた。
巧たちには沙良の記憶がない。沙良の弟である怜が誘拐され、助けに行ったことも。
だから巧たちには、怜の記憶もない。それは9月、夕輝が確かに認識したことと何ら齟齬がなく、今もそうであるはず。
けれど──茜までそんなことを言うのか。
「いや......何でもない」
「......そうですか?」
最近、この手の言葉で色々はぐらかしすぎているような気がする。けれど仕方がない。
夕輝にも分からないのだから。
茜は沙良のことを忘れてしまった。唯一、沙良のことを覚えていた茜は。
「......それで、会長。彼が今までその能力を使ったことはありませんよね。もしそうだったら我々が知らないはずがありません」
「......ええ、間違いないと思います。そもそも自らの意思で使える能力ではないようです。興奮したり激昂したりして、感情が昂ったときにのみ力が発動されます」
この短期間でもう既に生徒会に溶け込んでしまっているように、少なくとも端からは見えるマツリに答えた松山。
「とにかくその怜って奴の家に行って、能力を使わないように注意すれば良いんだな?」
「......巧、お前話聞いてたか?」
「......へ?」
その判断が得策でないと判断したから、マツリは彼が能力を使ったことがないことを確認したのだろう。
「今回の能力者、今までと同じようにはいきません」
「......どういうことだ?」
巧は松山を振り向いて、家族に追い詰められたプリンを勝手に食べた弟みたいに汗をかきながら尋ねた。松山はため息をひとつ。ただし、全員が心の中では同じ気持ちでため息をついていたが。
「......つまりですね、今までは能力者全員が自覚して能力を使っていました。だからこそ、注意をすることで止めることができました。しかし今回はそうもいきません」
そこまで言うと、やっと巧は納得したようで手のひらに拳を押し当てた。
「ああ、なるほど。能力を使ってないなら注意なんてできないな」
「......ええ、その通りです。自覚していない以上、下手に能力のことを教えるのは危険......かと言って、何もしないわけにはいきません」
松山は困ったように俯く。
「......幸い、冬休みなので時間はあります。緊急を要する能力でこそありますが、僕が発見するまでの10ヶ月間何もなかったわけですから、かなり大きな衝撃がなければ余程大丈夫なのかも知れません」
「そうですね」
松山に茜が答え、続いて巧と雪がふんふんと首を縦に振る。生徒会のいつも通りのワンシーン。
夕輝にとっては
だってそうだろう。
怜はあのとき──。
「......」
「んで......? どうするんだ? 結局、こいつの家に行かなきゃ何も進まないんじゃねえか?」
巧が松山の持っていた紙を取り上げて、改めて言う。それには夕輝も同意見だ。
「ええ、ただ......今日はひとまず、巧くん、雪、マツリさん......3人は先に帰って下さい」
松山は落ち着いて言う。
「え......何でですか?」
すぐに雪が尋ね返した。その表情には疑問の色。
「始めの接触は人数は少ない方がいいと判断しました。夕輝くんと茜さんの2人なら問題ないでしょう」
「......?」
夕輝は妙だと思った。しかし雪は、数秒考えた後、納得したようにぱちんと両手を合わせた。
「それもそうですね。分かりました。では、帰りますね」
「......え、俺も帰るのか?」
「お願いします」
松山は淡々と言う。そこに動揺が小さく見え隠れしているような気がしたのは夕輝だけだろうか。
マツリも興味なさそうに歩き、○ッパキャッスルの扉もびっくりの荘厳な扉へ。
「では、私も帰ります。後はよろしくお願いしますね」
夕輝に目を合わせて言った。
「......ん」
ほんの少し鳥肌が立ったのは何故だろうか。夕輝は小さく呟くように答えると、扉を開き廊下に消えていった巧たちを見送った。
と。
「茜さん」
「......分かってます」
突如として始まった2人の対話に、夕輝は一瞬にして先程の巧のように、孤立したような気分に陥る。
振り向くと、松山が立ち上がっていた。彼は奥に積まれている書類の中で、一際ボロボロになっている物を引っ張った。
「......今回の能力者には、最大限慎重になるべきです」
「......どういうことだ?」
松山はその冊子をぱんぱんと
「......『崩壊』の能力者が出現したのは、今回だけではありません」
「......? 以前もそんなやつが?」
夕輝の記憶が正しければ、そんな人間はいなかったはずだ。では、夕輝が生徒会に所属する前の話だろうか。
松山はそれを肯定で返す。
「ええ」
しかしすぐに彼は、ただし、と付け加えて、続きを言う。
「ただし、それは今回の周期のことではありません」
夕輝はその意味をすぐには解さず、松山の言葉を何度か頭の中で巡らせた。
「それって......」
そこで、松山が持っている書類の正体に気付く。以前も見たことがあるものだった。
巧の母の件──あれがあった日に、今と同じ3人で集まり、そして夕輝は茜にこう問われたのだ。
──音永夕輝くん......。君は何者ですか?──
端的に松山は告げる。
「37年前、前回の彗星の接近があり......『崩壊』の能力者が現れたのは2015年のことです」
「......」
その言葉を聞いてなお、夕輝は松山との温度差を拭いきれずにいた。正直なところが、"だから何なのだろう"だった。
一方で、茜も神妙な表情を作っている。夕輝は思いきって聞いてみた。
「......そんなに変なことなのか?」
「変どころか!」
茜はぶんと振り向き、至近距離で叫んだ。夕輝は跳ねるように驚く。心臓が止まるかと思った。大声でではなく、目前の茜の可愛さのせいで。
茜は咳払いをする。
「......変どころか、今までに一度もなかったんですよ、
茜は斜め下を向いて呟く。
「......」
「今回、僕が探知した能力は......25年前の『崩壊』の能力と完全に一致しています」
松山が冊子を開く。
「......けどさ、数多く能力者がいるんだから、同じ能力があったって不思議じゃないんじゃないのか?」
「......確かに、似たような能力はあります」
ぼそぼそ言いながら、松山はその冊子の1ページを覗いた。
「例えば、能力者を探知する能力を僕は過去にも多く見てきました。この能力者の一覧表にもいくつかの能力者発見能力が載っています」
ペラペラとそれを捲っていく。
「......しかし、そのどれもが
「......?」
「例えば僕の能力は、あるとき閃くように能力者の位置、それに能力者の能力の詳細と名称を知るというものです。このとき能力の詳細は頭の中で実際に人が能力を使っているイメージ映像が流れることで分かります」
「......」
茜も黙って耳を傾けている。
「......それに対して、この表に書いてある能力探知の能力は、能力の名称と能力者の位置が頭の中に文字として流れてくるものや、地図の上に能力者の位置が記される能力、他人に触れることでその人が能力者であるかどうか、そうであるならどんな能力を持っているのかを知ることができるという能力など......似た能力に見えて、詳細も探知の仕方もまるで違うんです」
別の人間である以上、能力の仕組みまでもが同じなんてあり得るはずがない。最後にそう松山は付け足した。
いわく、能力を決定するのは遺伝子のようなものらしい。これは誰かが発見したことではなく、松山の能力柄分かり得てしまう直感で、要は能力が全く同じになる確率は遺伝子が完全に一致するのと同じく0に等しいということ。
それどころか、構造が似た能力だってあり得ない、と。
夕輝はその理論の矛盾に気付き、松山の持っている冊子をひったくる。
「じゃあ、前言ってた......これ。これは違うのか? 俺の能力と
そのうちの1ページを示して見せる。
そこに書かれている『略奪』という文字を夕輝は指し示した。
「......むしろ逆です」松山は冷静に返した。
「......逆?」
「それが僕の説を
「......」
ならば、何だと言うのか。松山の言う"感覚"とこの2件に、どう整合性を付けろと言うのだろうか。
深呼吸をして、気を取り直す。
「......何にせよ、危険な能力が現れたことに代わりはないな。そしてそれが25年前のものと一致した。謎も危険も大きい」
「ええ。ですから2人には、彼......岩下怜くんについて調査してほしいんです」
再び座った松山は両手の指を組む。
「どうやって?」
「......まずは本人と接触するほかないでしょう。周りの人間に彼についての話を聞こうにも、今は冬休みですからそうもいきません」
「......そうか」
ならば家に行くのが得策だろう。しかし、口実は。夕輝はしばし考える。
「どうやって家に突っ込むかだな......」
「......いえ、夕輝くん」
茜はいつもの考えるしぐさのまま、夕輝に視線を向けている。その瞳は心なしか光って見え、自信ありげだった。
「どうした?」
「......何も、家に直接潜り込まなければいけないわけではありません」
「......と、言うと?」
尋ねると、茜は腕を組んで胸を張った。茜には夕輝の欲するあらゆるものが取り揃っているが、唯一ない──と、これ以上は危険そうだと思考を停止し茜の言葉に耳を傾ける。そもそも、
「つまりですね......道端でばったり遭遇すれば良いんですよ。家のインターホンを押したりなんかして、親御さんとかが出てきてしまったら説明ができません。それは本人にも通じることですが......道端で偶然出会って、その流れで話すことはできます。彼の能力についてを知るためには、本人の抱えるストレスや願望について知るのが一番手っ取り早いですから、そのときにそれとなく聞き出すのがいいかも知れません」
茜は威張って鼻息を立てる。小さな鼻から出る可愛らしい鼻息ではあるが。
茜の言う通りではある。例えば松山も知らない何らかの法則があったとしても、少なくとも彼から話を聞かなければならないのは自明だ。
「......でもそれ、難しくないか?」
夕輝は返す。
確かに茜が言ってみせたことを実行できればかなり都合がいいし手間も省けるだろう。けれど、そこには様々な問題が割り入ってくる。
下手に接触すれば警戒されかねないし、そもそも顔も知らない中学生に話しかける高校生など、端から見ればただのヤバイやつである。不審者だと思われる可能性は高い。
それに、そもそも家以外のどこで接触するというのか。
「......難しくなんてありません。偶然は作ることができるんですから」
「偶然を作る、って、それもう偶然じゃなくないか?」
「受けとる側が偶然だと思えば、それは偶然なんですよ。そもそも全てのことには何かしらの原因があるわけですから、言い出したらきりがありません」
「......」
茜の論理は分かるような分からないようなそんな感じだったが、ともかくこんなに茜が自信満々、かつ明朗快活な様子で言うのだから、それなりに勝算があるのだろう。
だから、夕輝は尋ねた。
「......具体的には?」
茜は人差し指をぴんと立てて言う。
「例えば、こんなのはどうでしょう」
生徒会にいるときの茜は、プライベートの茜とは別人のように思える。毎度そうだが、夕輝でさえ
その代わり、生徒会が終わり稀に2人になると、凄く
「......これでいいのか?」
「はい。......私たち2人はここを普通に歩いていればオッケーです」
「......」
何の変哲もない街の道中を、夕輝と茜は歩いていた。
「ここで待機しましょう」
「......本当に......怜くんは来るんだろうな」
「間違いありません」
いくらあの途方もなく非常識な生徒会だとは言え、まさか中等部に所属している人間の通う塾のデータまであるとは思っていなかった。
「で、その冬期講習の授業が5時に終わる、と」
「ええ、だから、ここで待ち伏せしておけばじきに来るでしょう。後は......」
「あいつ次第、ってことか」
しっかりやってくれると良いのだが、そこが唯一の不安要素であるということは紛れもない事実である。そういう方面に謎の才能があったりすればいいのだが。
考えていると。
「......あ、来ましたよ」
茜が裾を引っ張る。隠れろという合図だということは、その仕草に心を驚かせてから気付いた。目の前を見、あの日、チンピラ2人に誘拐された少年が1人で歩いているのを確認する。
間違いなく怜だった。
夕輝はひっそりと曲がり角のこちら側に隠れると、茜と共に再びその角から出て、彼に向かって歩いた。
「......」
妙な緊張感。ごくりと唾を飲み込みつつ、少しずつ彼に近付く。気の弱そうな背の低い少年は、しかしどこか彼女の姉にも似た面影を夕輝に感じさせた。肩にはリュックサックを背負っており、恐らくあれで塾に通っているのだろう。
「......」
そして、間もなく2人は彼とすれ違う。
「......」
普通の通行人のように、平然と怜と入れ替わりまっすぐ歩く。そしてその瞬間、夕輝は
──今だ
人気のない道。いるのは茜と夕輝と怜のみ。塾帰りの怜が1人だったのが僥倖だ。
2人が振り向くと同時に、彼はそこに飛び出した。
「YOOOOOO!!」
「「......え?」」
それは、怜と夕輝、2人分の驚きの声。怜は突如出てきた変人に対しての、そして夕輝は......指示と全然違う格好で出てきた
「Hey少年、塾帰りかYO! 俺と夜までパーリナイッ! 付いてこいYO!」
「......え、えっと......?」
かなり慌てふためく怜。いや、むしろあんなの無視して良いんだぞ、と言いたくなってしまったが、それでは困る。あれを前にして焦ることができる素直な性格の怜に感謝である。
鍔を逆向きにした帽子。どこから持ってきたのかもよく分からないおもちゃのマイクに、顔の全然隠れていないサングラス。
ラッパー気分の巧がそこにいた。
いや、誰だよ。
「YO! YO! 行こうぜBOY! ボーイズビーオプティマス!」
それを言うならアンビシャスだ。ちなみにオプティマスは最良という意味を持つラテン語である。そっちの方が難しいだろと心の内で突っ込んでおく。というかキャラがおかしい。
目に余るので、夕輝は色々な意味でもうそろそろ良いかと近付いた。
「ちょっと」
「!? 何だテメェはYo!」
『!?』の演技は素晴らしいし、ここまで吹っ切れてくれると逆に清々しいかも知れない。巧の母にもこの巧の姿を見せてやりたいな、と思いつつ、巧に説教をかます。
「彼が困ってるでしょ。やめてください」
「ぐぬぬ......覚えてろYOOOOO!」
一言の注意であっさり逃げ帰ってしまう不審者ラッパー男。かなりダサくて笑いをこらえるのに必死の夕輝は、しばらく声を出さずにそこに立ち止まっていた。そこまでの様子をただ呆然と眺める怜と、こちらに近付いてくる茜。
「......大丈夫でしたか?」
「え......」
彼女に声をかけられ、怜はまだ状況を把握しきれない様子で振り向いた。あわあわと手振りをすると、夕輝を向き直す。
「あ、あの、
「......いやいや、当然のことをしたまでだよ」
飽くまで他人に感謝を述べる怜の態度に、夕輝は少しだけちくりと痛いものを感じる。
彼はもう、夕輝のことを覚えていない。
それどころか、自身が誘拐されたことも。
沙良にまつわる記録と記憶が世界から消えたあの日から。
茜も怜のことを忘れているようだから、なおさら笑えない。
「......君、名前は?」
「あ......岩下です」
「下の名前は?」
「えっと、怜って言います」
茜が優しいお姉さんスマイルで微笑む。ただし、2人の年齢は1つ違いだ。中学3年生と高校1年生。怜は小柄な方なので、茜より背が少し高いぐらいだ。
「怜くんは、今いくつなんですか?」
「あ、15です」
「じゃあ1個違いですね」
この会話は今述べたことをなぞっただけのものであり、生徒会の情報力のおかげで茜も夕輝も知っていることなのだが、話の掴みとしては十分だろう。
「そうですか、じゃあ中学3年生ですね。......受験生ですか。志望校は決めてるんですか?」
「ええと......」
茜の質問攻めに合い、怜はまたあわあわと言葉を選んでいる。
「......その、僕は中高一貫校に通っているので、受験はないんです」
「へえー、そうなんですか。この辺りで言うと......星ノ海学園とかですかね?」
悪戯っぽく、少し芝居がかった大袈裟な言い方で彼の通う学校を当ててみせると、怜少年は目を見開いて驚いた。
「......え、当たってます。どうして分かったんですか?」
真ん丸の目で茜を見る純真な少年の声はこの年の男子の平均よりは遥かに高い声で尋ねる。茜はふふん、と得意気な顔をして、
「実は、私たちも星ノ海学園に通ってるんです」
と答えた。怜はより一層驚きの表情を強める。
「そうなんですか」
「ええ。ひょっとして、併設のマンションに住んでいたり?」
「お姉さんたちもですか?」
「はい」
茜は完璧に話を運んでいる。まさか本当にあんな方法が通用するとは思わなかった。巧の謎のラッパーキャラも無駄ではなかったようだ。
「どうせですし、一緒に帰りましょうか」
「え......はい」
嫌がってはいないようなので一安心だが、そこには別の意味での困惑みたいなものが見てとれた。
「......どうかしましたか?」
「いえあの......誰かと家に帰るなんて久しぶりで」
遠慮がちな言葉は怜の口から発されたもの。俯き加減の彼を見て、夕輝は少しばかりその意味を考えてみる。
学園に通っている以上、マンションが同じである人間はいるはずだ。夕輝のように、巧や茜たちと一緒に帰ることができないわけではない。
考えてみれば──塾にだって、帰る方向が同じ人間だっているはずなのだ。けれど、彼は1人で歩いていた。
「......そうですか。でも駄目ですよ? 1人で帰ると、さっきみたいな変な人に絡まれる可能性が高くなりますから」
茜は息子を注意する母親のように怜の顔を覗き込む。その怜はと言うと、不意に至近距離に接近した茜に肩をびくつかせつつ顔を逸らした。ほんのりと頬が赤かったように思えたので謎の敵意を覚えつつ、しかしすぐに、逸らされた怜の瞳は別な色の感情へと移り変わった。
綺麗な色が、ほんの少し淀んだ気がする。
「......大丈夫です。ああいうのには、ずっと前に慣れたので」
「え......?」
微かに笑みを浮かべているように見える。ただし、嘲笑のような、憫笑のような笑みである。何に向けてなのかは分からない。
「......慣れた?」
茜は反復する。発された言葉や表情や、含蓄を持った雰囲気全体に重みを感じたからだ。
「いえ、今はもうないんですけど......」
そこまで言って、口ごもる。
今はない。
例えば──虐め、とかだろうか。
よくいじめっ子に絡まれたため、今ではもう慣れたとか。
夕輝はそういうことこそないように穏便に生きることを心がけてきたが、少なくとも慣れる程他人に絡まれるためには、虐められるぐらいしかないのではないか。
「......そうですか」
茜はどこまでを察したのか、優しく、少し寂しそうに、けれど追及はせずそうとだけ呟いた。勿論、虐めであるとは限らないが、それに近しい何かだろう。
そういう表情をしている。
「そうだ」
ぱちん、と茜は手を合わせる。
「今日、一緒に夜ご飯食べませんか?」
「え」
「......ん?」
思わず夕輝も声を漏らした。突飛すぎる提案に何から質問していけばいいのか分からなくなる。俗に言う混乱である。こんなことを言うとは聞いていなかった。
「今日は家に母もいるので、一緒に腕を振るいますよ」
「え、えっと......」
流石にまずいだろう。怜にだって家があり晩御飯を用意する母があるのだから、勝手に決めて良い問題ではない。
「ちょっと......無理かも、知れません」
怜は物凄く申し訳なさそうに言う。最後の方は殆ど声になっていなかった。
ほら見ろ、と茜に視線を向ける。
「......その、僕は1人でいいので」
「......どうしても嫌ですか?」
「いえ、嫌、ではないですけど......」
怜の表情が強ばる。むっと頬を膨らませて、茜は言い寄る。
「お母さんのご飯の方が良いんですか?」
何と言うか、強引すぎるのではないだろうか。茜の、どこか彼女らしくない行動を目の当たりにしていた夕輝は、茜の思惑も知らずに蹟少しで『その辺にしとけよ』と言ってしまうところだった。
次の怜の発言に、そんな気持ちはついに消え失せたが。
「いえ......僕の家、母子家庭で......母は夜遅くまで帰ってこないんです」
「......」
まるでそれを始めから知っていたかのように動じもしない茜に対し、夕輝は結構驚いて思わず声を出しそうになった。
特に、茜の小賢しさに。
「そうなんですか......。でもじゃあなおさら、断る理由はありませんよね?」
「でも、迷惑じゃ......」
「そんなことありません。......そうだ、どうせだから怜くんのお家に上がらせて下さい」
「......」
困り顔の怜。しばらく唸るように黙り、道端で出会った来年先輩になるのであろう謎の女子からのぶっ飛んだ提案を飲むか考えているようだった。
それからしばらくして、やはりどこか遠慮がちに彼は答えた。
「じゃあ、いいですけど......」
ちなみに、よいこはその日初めて会った人を家に入れたりしてはいけない。ダメ、ゼッタイ。怜は警戒心がなさすぎる。
夕輝は茜に耳打ちする。
「......母子家庭のこと、知ってたのか?」
「えへへ」
可愛いので許そうと思った。
と言うわけで、
「春ちゃんも来たんですか」
「ああ、行くって聞かなくて」
「いえ、私はむしろ嬉しいですよ」
生徒会活動の一環で602号室に訪問し、そこでご飯を作って食べると伝えたところ、自分の出番だとか茜さんがいるなら行くとか勝手なことをのたまったのだ。妹恐るべし。
春はくるりんと髪を触って言う。
「料理のことなら任せて下さい、茜さん!」
「ありがとうね、春ちゃん。頼もしいなぁ~」
それと、春に対してだけ喋り方が変わるのも何なんだと突っ込みたくなる。
ちなみに以前、春の前で突っ込んでみたところ、
「春ちゃんは妹みたいなものなんですから」
と威張って豪語し、それを変な意味で受け取った春に2人まとめておもちゃにされたため二度としない。兄で遊ぶとはけしからん妹であると夕輝はその後説教しようとしたが、見事に回避されたのだ。
思い返しているうちに、茜はインターホンを鳴らしていた。間もなく怜が出てくる。
「はい......どうも、こんにちは」
と、すぐに春の眉が上がる。
「あれ、岩下くん」
「......音永さん、どうして」
どうやら2人は面識があったようで、ぺこり、と頭を下げあっている。
「春は俺の妹なんだ」
低い背の妹の頭に手を乗っける。
「ご飯を作るって聞いて、来ちゃった」
そう言えば自己紹介がまだだったことを思い出す。音永なんて名字はそういないので、先に名乗っておけば兄妹だと分かったかも知れない。
「ああ、俺は音永夕輝。そんでこっちが友利茜だ」
「よろしくお願いします」
茜が礼儀正しく頭を下げる。
「2人は知り合いだったんだな」
「うん。同じクラスで......実は、あんまり喋ったことないんだけど」
春は恥ずかしそうに頭を掻く。
「そうか」
春のクラスメイトのことなんて、考えたこともなかった。特に男子。仲の良い女子の話はたまに聞くが、クラスの男の話なんて全くしない。
「じゃあ......どうぞ、上がって下さい」
「......どうも」
一行は怜の家に入った。
そもそもの目的は怜と接触することだったので、ここまで来ればかなりいい方だろう。夕輝は一応生徒会メンバーとしてやってきたにも拘わらず、茜と春に料理は任せっきりになってしまった。夕輝だってだてに妹と2人暮らしはしていないのでそれなりに料理はできるのだが、春が言って聞かなかったのだ。
しばし、ソファに座らせてもらい巧とメッセージアプリでトークをした。現代に蔓延る何でもかんでも英語か横文字にしちゃう現象のせいで回りくどい文になってしまったな。
──さっきの、何なんだよ
──え?
──俺は『悪そうな格好で来い』っつったんだよ。何でラッパーなんだ
──ラッパー、悪そうじゃねえか
──どこがだよ
──そりゃ、どことなく、だろ
巧の言いたいことは分からなくもないが、しかしあれは本当に巧だったのだろうか。普段ならあり得ない喋り方だった。
──あんぐらいの演技ならできるぜ、俺は
ついでに、自慢げに胸を張っているゴリラのスタンプが送られてきたので既読無視をしておいた。
それから、ふとテーブルの方を見やる。
「......なあ、怜くん」
「え、あ、はい」
突然声をかけられ少し跳ねた怜がそこにはいた。
「例えばの話なんだが......姉ちゃんがいたような気がする、ってことはないか?」
「......え?」
怜はそんなおかしなことを急に言う夕輝にちょっと驚いたみたいな視線を向けた。しばらく思考停止して黙っているので、心当たりはないようだ、と判断した。
「いや、何でもない。忘れてくれ」
と言うや否や。
「姉は......いますよ」
「......へ?」
怜がうら悲しそうな表情で答えたそんな返事に、夕輝は言葉を失う。
姉がいる、とは。
「まさか......」
いくら論理的思考をすることに長けた夕輝だって、このときは希望的観測を一瞬はしてしまった。
沙良のことを覚えているのか、と。
まるで、世界の誰もが姉のことを忘れてしまったその弟みたいな言い種だったから。
けれど、彼の口から漏れ出たのはこんな事実だった。
「姉は......ずっと前、そうですね、2年ぐらい前に家出しました。今は19になる姉なんですが......今は、ここからは遠く離れた田舎で暮らしてます」
「19になる......? お姉さんがいたのか......?」
突然のことに状況を把握しきることはできなかったが、今の言葉は怜ではなく沙良に対してのものだった。
念のため聞く。
「名前は何て言うんだ?」
「......名前ですか?......
亜里沙。やはり沙良のことを覚えているわけではなさそうだ。それにしても沙良に姉がいたとは知らなかった。もしかしたら、以前の茜なら知っていただろうか。
「家出、ってのは......」
「兄ちゃ~ん、怜く~ん、ご飯出来たよ~」
怜、そして沙良の姉について尋ねようと思ったが、それは間もなく春によって遮られた。振り返ると彼女は、エプロン姿で両手に皿を持っていた。
部屋に充満しているこの匂いの正体を、夕輝は知っている。
「......」
夕輝はゆっくりと立ち上がる。他人の家庭事情に深く入り込むのも良くないので、むしろ春が遮ってくれて良かった、と夕輝は思った。
怜とは今日、出会ったばかりなのだから。
夕輝の家と同じ位置にあるテーブルに向かうと、そこには4人分のカレーが夕輝たちを誘うように用意されていた。
「今日はチョコレートだけじゃなくて、りんごもすりおろして入れてみました」
「え、チョコレートなんて入れるんですか」
怜は純粋にびっくりしたみたいで、殆ど無意識のうちにチョコレートという単語に反応した。しかしすぐに、読んでいる本にとまってきた小さな虫を偶然にも潰してしまったみたいな表情に変わる。
「あ、いえ、ちょっと意外だっただけで......」
別に悪意があったわけではない、と言いたいのだろう。そんなことは別に分かっているし、そうでなくても当然の反応なので、そこまで気を遣う必要はないはずなのだが、どうもこの怜という少年は少々考えすぎているところがある気がする。
対して、単純な春はそんな怜のもやがかった心象になど気付きもせず、いかにも楽しげに言う。
「変だと思うでしょ? でも美味しいんだよ、食べてみて」
「う、うん......」
ちょっとやりづらそうに頷く。怜にとって春みたいなのはちょっと眩しすぎるのかも知れない。
「......じゃあ、食べましょうか」
それから、夕輝にも少し思うところがあった。チョコレートと、りんご。
最後にりんごを食べたのは、相似世界で春との関係性に変化があった日の、その翌日。
いつになったらもう一度
テーブルに座り、4人で食卓を囲んだ。
手を合わせる。
「いただきます」
口に入れたカレーは、ほんのりと、すっきりしたりんごの香りを含んでいた。チョコレートがコクを引き立てる。
いつか、茜と春とも食べられると思っていたのに。
一体どうなってしまったんだ。
家に帰ると、夕輝と春の帰宅を監視でもしていたかのようにちょうど電話が鳴った。すぐに夕輝は電話に出る。
「はい、もしもし。......はい、えっと......え?」
夕輝はそれを聞くと、冷や汗すら流しつつデジタル時計を確認。現在時刻ではなく、その下に表示された小さな数字を見た。
──最近怒った異常事態の数々のせいで完全に忘れていた。
「......すみません、今すぐ向かいます!」
電話を切る。
「ごめん、ちょっと用事を忘れてた」
「え、兄ちゃんどっか行くの?」
「すぐ帰ってくる!」
一応大きな鞄を持って、夕輝は家を飛び出した。春は先程夕輝が見ていたデジタルの小さい時計を一瞥して、なるほどと理解する。
「......今日のところは許してあげるとするか」
「どうした?」
「あ、スライまる、ただいま。ご飯はちょっと待っててね」
昨日はひとまず、怜との接触に成功した。流れでそのまま家に突入することもでき、更にこれ以降も昼間は彼は家に1人だということが分かった。大きな釣果である。
かなりいい傾向だが、唯一の不安は、今日もやはり入れ替わりが起こっていなかった、ということだった。
皆は元気にしているだろうか。考えても意味もないことを考える。
午後1時。
茜と相談し、今日も怜の家に訪問することになった。
──とは言え、方針は全く固まっていない。怜が『崩壊』の能力者で、しかしそれを本人が自覚していないため行き詰まる。ひとまずは能力発症の原因を探ることに時間を使うことになった。
「......どうも、こんにちは」
「こんにちは、怜くん。お邪魔しますね」
「え、いえ、はい、どうぞ......」
茜が玄関に入り、続いて夕輝。
「えっと......」
すぐに怜は困惑の色を浮かべる。
夕輝の後ろに、知らない人間が3人もいたからだ。
「どうも、失礼します」
雪がぺこりと頭を下げると、続いて巧とマツリも玄関にて靴を脱いだ。
「......え、あの」
「私たち2人では全体的に心もとないかと思ったので、友達を連れてきました。巧くんに雪に、マツリさんです」
手のひらでそれぞれを指して紹介する茜。怜は巧に視線を向けると、不思議そうにじっと見詰めた。
「......えっと、どこかで会いましたか?」
ギクリ、と巧がSNSの趣味用アカウントがバレたみたいな顔をする。
「え、い、いや、気のせいだろ......」
勿論気のせいなどではない。怜と巧は昨日、塾帰りの少年と謎の不審者ラッパーとして邂逅したのだから。
「深山巧、つっかえてますから早く行ってください。邪魔です」
マツリは相変わらず何も考えていないみたいに、されど強めの口調で巧を罵った。
「......お前、夕輝に怖いって思われても仕方ねえわ」
「別に音永夕輝にどう思われても構いませんが」
「......誰も怖いなんて言ってないぞ」
そんな他愛ない会話を交えつつ、夕輝たちは怜の家に上がらせてもらった。
巧と怜、それにマツリが大画面のテレビを舞台にバトルゲームをしているのを、雪は横から興味深そうに眺めている。時折「おぉ~」とか反応を見せる姿は子供っぽかった。
あとマツリが結構強い。勝ち続きだったが、手加減ぐらいしてやっても良いのに、と思う。本人は勝利する度に勝ち誇った様子で巧を見下した。巧はムキになってマツリばかりを狙うのだが、毎度返り討ちに合っている。
「......こういうの、楽しいですね」
隣の茜が微笑みかけてくる。
「そうだな。マツリがゲーム上手いなんて意外だった」
テーブルに2人座っていると、家のチャイムが軽く鳴る。ゲームを中断し、モニターへ向かう怜。彼が意外そうに声を漏らしたのは数秒後のことだった。
「はい。......って、音永さん?」
「ん?」
夕輝は一瞬、自分が呼ばれたのかと思い振り向いた。しかし遠いモニターに映っていた人物の正体を認識するや否や、それが勘違いだと分かる。
「あ、岩下くん? 皆にクッキー焼いてきたから、よかったら食べて!」
元気溌剌、意気揚々と妹の春は笑顔を見せている。片手にはクッキーが沢山詰まっている袋もあった。
「えっと......ありがとう、音永さん」
怜は玄関に向かうと、春から袋のみを受け取って戻ってきた。春の姿はない。
「どうせなら来ればいいのにな」
「......もしかしたら」
「ん?」
茜ははたと呟く。殆ど無意識の産物だったのだろう、すぐに、
「いえ......何でもないです」
と言って、間もなく沈黙が流れた。
「......じゃあ、おやつタイムにしましょうか」
茜はどこか嬉しそうで、けれど夕輝はそれが、クッキーでないものに対するものだとは全く思っていなかった。
間もなくゲーム勢もこちらにやってきて、春の手作りクッキーを見ると大騒ぎしたのだった。主に巧が。
そして春の美味しいクッキーを食べ終わった後のことである。当然だがクッキーはとても好評で、あのマツリでさえ美味しいと何枚も食べたぐらいだった。
クッキーが全て平らげられた後は少しの休憩を挟みつつ、夕輝と巧はそのままテーブルに、そして女子たちと怜はゲームに向かった。今度は雪が観戦者側ではなく出場者として、茜に操作を教わりながら怜、マツリと勝負していた。雪が不器用さ全開であわあわ言いながらゲームをする光景は、どこまでも彼女らしいものだった。
と、巧が夕輝の座る椅子の下に置かれたものに目をやる。
「......なあ夕輝、それ、何だ?」
「何、って......ただの鞄だけど」
そこにあったのは黒い鞄。ただの黒い鞄のはずなのだが、このとき既に夕輝は少しの汗を感じていた。
「何でこんな大きいバッグ......遠出するわけでもねえのに」
嫌に鋭い巧。バカキャラはとことん馬鹿でないと逆に嫌われるぞ、とかどうでもいいことを思いながら、夕輝は鞄を守るように背中側に持っていく。
巧の顔がにやつく。
「さては......人に見せられないもの持ってきてんだな......?」
そこまで分かったなら察してほしいと思ったが、やはりバカキャラは馬鹿だったようで、巧は鞄に飛びかかった。
「うおっ!」
「おい夕輝、お前何隠してるんだよ? さっさと白状しろっ!」
いかにも楽しげに、愉快そうに巧は抵抗する夕輝を押しきって鞄を引ったくろうとする。人のものを奪おうとするとマジで嫌われるのでやめた方がいいぞ、と心の中で唱える。
「......っお前には関係ないだろ!」
必死に鞄を守っている間夕輝は、せめて今ゲームをしている女子たちにはこの騒動が聞こえていませんように、と祈っていた。祈りを通り越して、懇願である。
しかし、それがいけなかったのかも知れない。女子たちを気にするあまり、夕輝は目の前に不注意になってしまっていた。
巧に鞄を盗られる。
「あ、おい!」
「さ~て、何が入ってんのかなぁ~」
追い掛ける夕輝からドタドタ逃げながら、巧は鞄のファスナーを開ける。
「ちょ、おい巧!」
「へっへー」
その騒がしさにゲームをしていた女子たちと怜も思わず振り返る。ただしマツリ以外。
「え、巧くん、夕輝くん、どうしたんですか」
「な、何でもない!」
巧がとうとう鞄の中に侵入し、中身を物色し始める。そこに雪と怜と茜の目。
これはまずい。と思うが、深山巧は待ってくれない。
その中に入っていた1つのものに反応して、頓狂な声を上げる。
「ん? これって......」
「だぁ──っ!」
これはかなりまずいと思いながら大声を上げた、そのとき。
「岩下怜、白柳雪、K.O.しますよ」
「え? あ、ちょっと!」
マツリがゲーム上で雪と怜を追い詰めていた。すぐに雪たち3人の視線がそちらに向くと共に──。
夕輝は大声で夕輝の鞄を持つ巧に手を伸ばしたのだが、その瞬間、キン、と賢者の石が割れるみたいな音がして、夕輝の目の前が青く光ったのだ。
「うおっ!?」
その場に倒れる巧。夕輝はその隙に、即座に鞄を取り返したのだが......巧の手元を見て、夕輝は目を見開いた。
「......?」
気のせいだろうか、巧の両手が
一瞬の出来事に、夕輝は混乱する。
「......何だ?」
いてて、と言いながら巧は起き上がる。気まずそうに笑っていた。巧が時折見せる反省の表情だ。恐らく鞄の中身を見たからだろう。
「......ごめんな夕輝。そこまで気が回ってなくてさ......」
「......ったく、勘弁してくれよ......」
この顔は本当に申し訳なく思っているときなので、今回ばかりは許してやることにする。
「深山くん、音永くん、今の、何だったんですか?」
マツリに惨敗した雪が純朴な目で尋ねてくる。
「いや、ちょっと揉めてただけだ」
「......ふうん? そうですか?」
雪は納得できたような、できないようなそんな表情を浮かべて言う。
「白柳雪、もう1勝負しますよー」
「え、あ、ちょっと待って下さい!」
雪がテレビに向かうと、ほっと一息。
何とかバレずに済んだ。
後は、時間を待つだけである。
その時間はと言うと、意外にあっさりとやって来てしまった。楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。
「......今日は楽しかったです。また来てもいいですかね?」
「え、はい、勿論......!」
怜はあまり感情を表に出さないタイプなのだろうが、そんな怜もこのときばかりは嬉しそうに見えた。余程楽しかったのだろう。
「じゃあ、帰りましょうか」
茜に続いて、夕輝たちも玄関を出る。5時を過ぎると日もすっかり暮れ、今はもう真っ暗だった。
「お邪魔しました~」
扉が閉まるのを確認すると、5人はエレベーターに向かう。と共に、茜の顔付きが幾分か真剣になる。
「......能力発症の原因ですが......」
それは、今日ここに来た本来の目的についての話だった。
「......始めはクラスでの......と言ってもこれは憶測でしかないのですが、恐らく怜くんは去年のクラスで陰湿な、あるいは直接的な虐めを受けていたのでしょう。昨日の会話でそれが分かり、最初はそのストレスによる破壊衝動なんかが引き金になったのではないか、と考えていました」
それについては夕輝も、昨日の時点では同意見だった。
「ですが、そうではありませんでした」
「......どういうことだ?」
巧は今一ぴんと来ない様子だ。茜は答える。
「彼が虐めを受けていたのは1年生の頃の話で、2年生の頃はそれなりにクラスでも上手くやっていたそうです。今の学年にも、それなりに友達がいるんだとか」
「......」
なるほど。確かに松山の能力上、怜は今から約10ヶ月前、時期で言えば2年生の終わり頃に能力を発症していることになり、虐めが原因と考えると時期に齟齬が生じてしまう。
だが。
「......でもさ、じゃあ一体何だって、怜は崩壊なんて危険な能力に目覚めちまったって言うんだ?」
巧も同じ疑問を持ったようだ。
「例えば、家庭環境、とか?」
茜が言った瞬間、夕輝の胸がどくんと跳ねた。
「......それは違う」
「......?」
即答した夕輝に、茜も奇妙そうな視線を向ける。夕輝は確信を得ていた。原因は、家庭環境の変化や何かではない、と。
怜の家庭環境には、2つのターニングポイントがあった。一番上の姉、亜里沙がいなくなったとき。そして1つ上の姉、沙良がいなくなったとき。
前者は分かりやすい変化だ。何故なら、姉がいなくなったと
対して、後者。
自らの姉である沙良がいなくなったことを、怜は
けれど、沙良がいたときとはどうしても変わってくるものがあるはずだ。家庭での振る舞い方も何もかも。そう考えると、無意識にでも今までと違うことをしているのだからやはり精神的影響はあるのかも知れない。
けれど、その2つのどちらもが、能力の発症時期とずれている。19才の姉は2年前に家出をしたと言っていたし、沙良がいなくなったのは怜が能力を発現した後だ。
虐めも家庭環境も、発症を後押しする材料にこそなるかも知れないが、直接の原因にはなり得ないような気がするのだ。
「......夕輝くん?」
「......いや、今のは忘れてくれ。何でもない」
けれど、今の話は夕輝のみ知ることだ。このことを述懐することはできない。
「まあでも、私もそんな気がしますよ」
そこに援助に入ったのは、意外な人物だった。
「マツリさんも?」
「......何となく、ですが」
どうでもよさそうに言うマツリ。思考を読まれたりしているんじゃないかと思って、すぐに思い出す。
そうだ、マツリは沙良のことを覚えていたじゃないか。マツリが来て、茜が忘れた。相似世界でもごちゃごちゃしていて何も聞けていなかったが、夕輝はマツリに多くのことを聞かなければならなかった。
「......まあ、明日以降もあるんです。気長にやりましょう。ですよね、音永夕輝?」
試すような笑み。余裕そうな瞳に夕輝は分からないことの怖さを覚えた。無知の恐怖である。と同時に、この少女は沙良のことを全て知っているのではないか、とすら錯覚した。
「......そうだな」
感情の籠らない返事をすると、マツリは満足そうに頷いた。
「ええ、では帰りましょう」
ちょうどエレベーターが来たので、夕輝たちは乗り込む。この場所がいつもより狭く感じるのは、たぶん巧がいるからというだけではない。夕輝と茜がいつもより大きな鞄を持っていたというのもあるだろう。
3階。いつもなら先に2階が来て、マツリと雪が降りてから夕輝と茜がここで降りるのだが、今日は逆だった。
「さようなら」
「じゃあな」
適当に挨拶をして、落下していく巧たちを見届ける。
「......」
「......疲れましたね」
「そうだな」
「............」
「............」
普段のものとは比べ物にならない静寂が、夜の闇に溶けていく。冷たい風が吹いていると言うのに、夕輝は胸の奥が熱くて仕方がなかった。
勇気を出さなければ。
口を開く。
「あ、あのさ」
「あの!」
茜が大きな声で叫んだのが同時だった。そこまで大きな声を出さなくても。ちょうどエレベーターが2階に到着したところなので、マツリや雪に聴こえているかも知れない。
声が重なってしまったところで、また夜の景色が静かになる。しかし今度は、茜のおかげで比較的緊張もほどけていた。
「......ちょっと、散歩しないか?」
「そ、そうですね......」
ぎこちない返事。茜らしいと思った。
夕輝たちは、エレベーターでエントランスへ下りると、そのまま外に出る。
今になって、もし春が一緒に怜の家にいたら、こんな風に茜と2人で外に出るのにもちょっと言い訳が必要だったかも知れないな、と思う。
まさか、ここまで予測していたのだろうか。そう考えると、我が妹がちょっと恐ろしくなった。
冷たい空気に肌が触れる。もこもこの上着を羽織った茜の耳が赤いのを見ると、夕輝の耳も少し痛いような気がしてきた。
「......」
「......」
茜の息が白くなって宙に霧散する。その息遣いが隣から小さく聴こえる。青黒い空の中に、月が浮かんでいる。月明かりは街を照らし──けれど今日に限っては、その光はあまりにちっぽけなものだろう。
だんだんと、その場所に近付く。月なんかよりもきらきらと輝くものがそこにはある。
互いに口を開かず、歩いて20分。
「......夕輝くん、これ......」
駅の周辺に、高層ビルがいくつも立ち並ぶ場所がある。それらのビルに囲まれた広場は、毎年この時期になると人を多く集める。およそ夕輝には関係のないものだと思っていたが、人生とは分からないものだ。
広場に踏み入ると茜は感嘆の声を漏らした。驚嘆でもあるかも知れない。
「わぁ......」
茜は大きな大きなクリスマスツリーを見上げる。あまりの大きさ故、頂点は見えない。
煌々とイルミネーションが輝く姿は、まるでこの緑の巨体が流れ星の羽衣を身にまとったみたいで幻想的だった。
夕輝と茜みたいな恋人同士が、あるいは小さな子供を連れた家族が、聖なる夜の今、この場所を訪れていた。
12月24日。クリスマスイブである。
「......綺麗ですね......」
「......そうだな」
ここ数日時間感覚が狂っていたせいで、昨日まで今日がイブであることを完全に忘れていた。
「茜」
「はい?」
鞄から、ラッピングされた小箱を取り出す。小箱の表面にはブランド名のロゴが入っており、いかにも大人っぽい感じを醸し出していた。
「......メリークリスマス」
「......!」
茜は目を見開いてそれを凝視する。手渡してやると、驚いたように真ん丸の目で夕輝を見上げた。
「......開けても?」
こくりと頷く仕草だけで答えると、ゆっくりと小箱を開けた。軽い蓋を持ち上げると、また茜はびっくりしたように夕輝に視線を向けた。
「......これ......」
「欲しがってたろ、そのポーチ」
小箱の中には、淡い水色のポーチが入っていた。イルミネーションの光に片側だけが照らされ、蝶の刺繍がより一層際立って明るく見える。
以前、茜が立ち止まってまで覗いていたお店のポーチ。
「......がめつい女だと思われたくなくて隠したつもりだったんですが......」
そんなこと言っているが、かなり食いついていた記憶がある。
──もしかしたら、それ程までに欲しかったのかも知れない。普段食のことばかりの茜があんなに夢中になっていたのだ。よく見ると、目尻にほんの少し涙が溜まっている。
「......ありがとうございます......大事にします」
「......どういたしまして」
あまりにも嬉しそうにしているので、夕輝も照れてしまう。この茜の表情を見ているだけで幸せを感じられた。
「あの、私からも渡すものが......」
彼女もちょっと大きめの白いバッグから、先程の小箱より大きなプレゼントを取り出す。包装紙で綺麗にラッピングされている。
「マフラーなんですが......」
言いながら、手渡してくれる。
「......ありがとう」
「ちょっと包装が複雑なので、帰ってから開けて下さい」
その場で反応されるのが嫌なのだろうか。照れ隠しするみたいに言う。夕輝は茜からなら何を貰っても嬉しいという絶対の自信があるが、包装紙がぐしゃぐしゃになってしまったりするのも嫌なので大事に仕舞った。
「俺も、大切にするよ」
「......はい」
小箱をぎゅっと抱き締めるように抱える茜。とても愛らしくて、いとおしかった。
「......」
周りを見てみると、夕輝たちみたいにプレゼントを渡し合ったり、『サンタさん来るかなー』と心を弾ませながら母に尋ねる小さな子供がいたりした。
ふと、指先に冷たい感触が触れる。かと思うと、それが右手のひら全体に充満した。
「......えへへ」
茜が手を握ってきたんだとすぐに分かる。
「あ......」
茜から手を繋ぐ、というのは初めてで、不意を突かれた夕輝は言葉を失う。体が金属ばりに硬直した。
その様子を見た茜が、またネガティブな発想を持ち込む。
「......もしかして、嫌でした......?」
折角不意打ちと茜の『えへへ』を楽しんでいたと言うのに、昇天を妨げられてしまった。夕輝は少しむっとして、茜の手をもう強く握り返す。
「......今日はそういうのはなしな」
「......!」
今度は夕輝が茜を驚かせる。けれどすぐに、どちらかと言えば安心したような表情に落ち着いた。茜の抱いている感情は、夕輝が感じているものそのものだろう。
それからしばらくそうしていて。
「......そう言えば」
「うん?」
何か思い出したように茜が呟く。
「あ、いえ......その、前言ってた、塞ぎ込んでしまった人?......のことは、無事解決しましたか?」
「え......」
唐突にそんなことを聞かれて、夕輝は返事に困ってしまう。それは、相似世界の茜についてのことだった。
そう言えば、茜には何も伝えていなかった。
あんなことがあったから。
「......」
解決したのかどうか。
夕輝は思考を巡らせてみる。
どう答えれば良いのだろうか。どう答えるのが正解なのだろう。
思い返してみる。
春は、近付いてくれたような気がする。
茜は、笑ってくれていたような気がする。
それから、自身の体に尋ねてみる。
──尋ねてみるけれど、それら全てが夢の中のことのようで、今の夕輝にその感触ははっきりと残っていない。
解決したのかも、夕輝には分からない。
何が起こったのかもよく分かっていない。
空が崩れて、空間が壊れた。
それだけをしっかりと覚えていて。
──もしかしたら、もう永遠に会えないのかも知れない。
考えていた時間はたったの20秒ぐらいで、けれど今の夕輝にはそれで十分だった。
ふと、頬が直線を描くように痒くなる。
「......あれ......」
それは余りにも突然のことで、夕輝自身も始めは自らの身に何が起こったのか分からなかった。思考に集中していたからかも知れない。
びっくりして、痒くなった場所に左手の指を触れる。
湿っていた。
「何で......」
声に出してみると、今度は自分の声が震えていることが分かる。
「何で......」
そうなってしまったらもう、気付くのに長い時間はいらなかった。
「......どうしたんですか?」
茜がこちらを見てぎょっとする。けれど夕輝の瞳には、そんな茜の姿も今は映っていなかった。
──ああ、そうか。
夕輝はとうとう、理解してしまう。
できれば知りたくなかったことを知ってしまう。
自分の感情に気付いてしまう。
あの日、入れ替わりが起こっていないと分かった瞬間頭が真っ白になってしまったのも、心のどこかで相似世界のことを考えないようにしていたのも全部、夕輝が自分を守るためのものだったのだ。
考えたら、
「......何だよこれ......」
頬を熱いものが次々流れていく。呼吸が少し荒くなる。
「夕輝くん......?」
茜は夕輝が涙した理由を知らなかったが、夕輝には分かってしまう。
「何だよそれ......っ」
夕輝は──相似世界の春のことも、茜のことも大好きだったのだ。
ただ、会えないのが寂しい。もう永遠にあちらの巧や雪や春や茜に会えなくなってしまったのか、それとももしかしたらまたあの世界に行けるのか、そうだとしてどれだけ待てば良いのか、分からないのが不安で、ただ寂しくて、だからその気持ちに気付かないように抑えていた。
気付いてしまったらもう、止まらなかった。
「......夕輝くん、大丈夫ですか......?」
夕輝は無表情で、けれど涙だけはちゃんと流れていた。あのツリーが丸い光になって、ぼやけて見えなくなる。
「......分からないんだ、何も......」
それが、夕輝に答えられる精一杯だった。
何も分からない。
ただ、涙が流れるだけで。
12月25日のクリスマス当日は、相似世界を待たずしてやって来てしまった。昨日プレゼントの交換をした後の記憶はほぼなく、けれどあの頬の痒い感触は残っている。
胸にぽっかり穴が空いたような気持ちも。
クリスマスプレゼント、と春に貰った手袋は部屋に仕舞う。昨晩のケーキの残りはまだ冷蔵庫に眠っており、午後にまた食べようと春と話をした。
テレビは政治家の汚職事件や、どこかの国で起きている紛争や、近くで起こった事故なんかを報道していた。
やがてスライまるがニュースに飽き、録画してあるアニメに変える。ちなみに自身が出てくるアニメは絶対に観ない。自分の動いている映像は観たくないのだろう。やはり中身は人間だ。
そんなどことなく静かな朝9時は、1本の電話により終わりを告げる。
「もしもし。......分かった」
電話に出てから切るまでの時間は、安い刑事ドラマのように短い。恒例行事だからだ。
「あれ、兄ちゃん、また生徒会?」
伝える前から春は聞いてきた。察しが良くて助かる。
「ああ、行ってくるよ」
「気を付けてね」
「うん」
夕輝は鞄を背負い──一応、中に茜に貰ったマフラーを入れてみる。今日は暖かいので、マフラーなんて使わないような気がするが、それでも入れておきたかったのだ。
一通り身だしなみが整っていることを確認すると、間もなく玄関を出た。
「茜さんは猫、好きですか?」
「ええ、好きですよ」
「マジかよ......お前らとは永遠に分かり合えそうにねえや」
「え、深山くん、猫嫌いなんですか?」
「嫌いってか......アレルギーなんだよ」
「え、意外です」
雪が口元を押さえる。巧はそんな雪を不機嫌そうに睨んでいた。どちらかと言えば、猫に対するものだろう。
どうしてこんな滅茶苦茶どうでもいい話をしているのかと言うと。
「それにしても、『猫』ですか」
「......猫に変身する能力って......巧くん、大丈夫なんですか?」
「まあ、死にゃしねえよ」
「そんなことは分かってますけど」
能力柄、巧は絶対に死にはしない。せいぜい物凄く痒いぐらいだろう。それを本人も分かっているから付いてくる。そんなことは良い。
夕輝の視線は、ただ一点をずっと見ていた。雪がふと、夕輝と同じ場所に目をやる。
「......そう言えば茜さん、今日のポーチ、いつもと違いますね」
「......ほんとだ。......あ」
巧は何かを思い出したように口を楕円形にし、間もなくにやけ始めた。茜は口をつぐんでいる。
「......なーるほど」
巧はポケットに手を突っ込んだまま、夕輝に顔を傾ける。凄く癪なので早いところ猫アレルギーでくたばればいいのにな、とか思いつつ夕輝は自分の頬がちょっと赤いのも知っていた。
「......お前は何貰ったんだよ」
「何でも良いだろ、小学生か」
小声で会話する。そんなところに気を遣うなら、にやけたり聞いてきたりしないでほしい。
「......昨日はやっぱ、キスとかしたのか?」
「なっ、ば、馬鹿、するわけないだろ」
「......そうなのか?」
付き合い始めて結構日が経ったような感覚はあるものの、実際のところはまだ2ヶ月ちょっと。流石にそれは早い気がする。
「──それにしても」
そこに、透き通った声が響く。先程から全く言葉を発していなかった、マツリのものだ。
「どうしました?」
「ここって......普通の公園ですよね。能力者はこんなところで猫になってるんでしょうか」
松山の指定した公園は、学園からは結構遠い地域にあるそれなりに広い公園だった。石銘板を横目に見ながら進むと中央には何もない開けた空間があり、右奥にはブランコ、左手には鉄棒や公衆トイレ、複合遊具なんかがある。奥に進むと薄暗く広い空間に大きな木が4、5本立っており、雨が降ったわけでもないのに柔らかい地面は何だか気持ちが悪かった。
「本当にここにいるのか......?」
もしかしたらもう移動しているという可能性も考えられる。ここまで来るのに電車を使っても1時間かかったのだから、十分にあり得ることだった。
夕輝たちは5人それぞれ別の場所を捜索することにした。茜は階段を上って上にある草むらを、雪は公衆トイレや砂場周辺、マツリはブランコ周辺、夕輝は疎らに木の生えた不気味な空間、巧はその更に奥だ。
そして捜索開始から5分とかからずに、巧がこっちに駆け寄ってきた。
「......おい、夕輝、あれ」
クラスの中で2番目ぐらいには目が良いと思っている夕輝だが、そんな夕輝でも巧が指差した方にあったものが何なのか分からなかった。
遠くの茂みの中に、黄色く光るものがある。
「何だあれ......」
「いや、どう見ても猫だろ」
「本当か?」
しかし巧が言うなら間違いないと思う。繰り返すが、夕輝はクラスの中で2番目ぐらいに目が良いと思っており、そして1番は巧だと思っていたからだ。
すぐに茜たちを呼ぶ。そして茂みに近付いてみる。すると。
「......にゃー」
と鳴いて、茂みを左右に揺らしながら猫が出てきた。お腹周りは白く、背中や頭や尻尾は黒と茶色の2色が疎らになっている、三毛猫である。
「にゃー」
巧は嫌そうに顔を引きつらせる。アレルゲン(猫)がいたのだから当然と言えば当然だ。
しかしその猫は、巧と夕輝の方にはやって来なかった。のろのろとした動きで、後からやって来た女子の方に近付く。
そして、雪のタイツで覆われた足に頭をすりすりする。
「にゃーあ」
猫が猫なで声で雪に甘えているではないか。一瞬で、場はほんわかとした空間になった。
「三毛猫ですね」
マツリがその猫を持ち上げる。それから脇を抱えて腹や股を確認する。
「......あ、これ雄の三毛猫です。珍しいですよ」
そんなことを言いながら、この小さな猫と顔を合わせる。だいぶ慣れた感じの手つきで触れているので、もしかしたら彼女も猫が好きなのかも知れない、と思う。
いやいや、違うだろ。
「いやマツリ、それどう考えても......」
巧も顔を引きつらせたまま指摘しようとする。
そもそもの話だが、こんな場所に野良で彷徨いていて、しかも人間を見付けて近寄ってくる猫なんてまずいないだろうということが言える。挙動がおかしすぎるし、何より決定的だったことがその後。
奴は男子を避け、女子である雪の足に頭をすりすりさせた。
少し考えれば分かることだ。
「勿論、分かってますよ。よいしょ......」
マツリは猫を地面に下ろすと、今度は逆にしゃがみこんで自分が低くなる。
「猫さん」
「にゃー」
「お楽しみのところ悪いですが」
「にゃーあ」
「あなたは人間ですね?」
「ヴニャッ!?」
マツリが圧倒的な威圧感と共に言い放った瞬間、雄の三毛猫の耳と尻尾が逆立った。体も反応して、がくがく震えている。分かりやす過ぎる。冷たい目線でマツリは猫を睥睨する。
「......バレバレですよ。猫になる能力で女子高生の足を満喫しようだなんて、最低のクズですね」
「にゃ、にゃぁ......」
猫はめっちゃ動揺している。
「諦めて降参して下さい。そんな変態行為を続けようものなら、警察に突き出しますよ?」
勿論これはハッタリである。猫になって変態行為をしていたと言っても警察は信用しないだろうし、そもそも生徒会はそういう組織ではない。
マツリの威圧が効いたのか、猫は滅茶苦茶萎縮する。猫の姿のままだと可哀想にすら思えてきたので、早いところ人間に戻ってほしい。
「にゃ、にゃ、にゃぁ~あ」
しかし猫はめげなかった。これでもかと猫のふりをし続ける。というか猫である。しかしこれは人間で言うところのはぐらかすときの口笛みたいなもので、凄く分かりやすいものだった。
瞬間、猫はマツリに背を向けて遁走した。
「あ、逃げた」
マツリは何でもないことのように言うが、結構非常事態になった。
「......追うぞ!」
夕輝はすぐに走り始める。が、猫は持てる跳躍力と敏捷性を駆使して全速力で階段を上って行ってしまったため、一行はすぐにやつを見失う。
「......どこ行った?」
「ひとまず、上に上ってみましょう」
丸太で出来た階段を上ると子供の頃が思い出された気がしたが、いかんせん今はそんな風にノスタルジックな情景に浸っている暇はない。
上ってみると、木の生い茂った一本道。その奥に草むらがある。
猫の行方は、誰も知らない。
「......完全に見失っちまったな」
巧が腰に手を当てる。それから「かいー」と言って腕を掻いた。痒い、の意である。
「どうします? このままでは打つ手がなくなります」
茜がちょっと焦っている。
松山の能力は能力者の位置を常に探知することができるものではなく、飽くまで発見の瞬間の位置を探知するだけのものなので、これを逃すと後がない。
その中で、マツリだけが落ち着いていた。
「......こんなこともあろうかと」
マツリは小さな鞄をがさごそとまさぐる。それから、こんなものを取り出した。
「こういうものを持ってきたんですが......使ってみます?」
「......これって......」
例の草むらの中央に、ぽっかりとそこだけ草が全く生えていない固い土の地面があったため、細心の注意を払いつつ簡易的なシングルバーナーに金網を乗せてサンマを焼いている。
「......こんなんで来るのか?」
夕輝の片手にはマタタビのついた猫じゃらし。巧はサンマをうちわで扇いで匂いを充満させる。
「分かりませんが、やってみる価値はあります」
「......」
そして、数分後。
吸い寄せられるように、先程と同じ三毛猫が草むらの茂みの中から顔を出した。めっちゃ狙っている。
「ほら、やっぱり来ました。白柳雪は火を見ていて下さい。私たちで何とかします」
「え......はい」
「ちなみになんですが」
マツリはついでにこんなことを尋ねる。
「あなたの能力では、
「......ええ、
「......分かりました」
何が分かったのだろう。あんなに全てを知った風で生徒会にやって来たくせに、そんなことも知らなかったと言うのだろうか。
色々と問いたい気持ちは山々だが、今は目の前の猫に集中。今、やつの眼中には猫じゃらしとサンマしかない。
「思ったより本能的で助かりました」
にっ、とマツリが笑うと、猫は茂みから一気に飛び出してきた。俊敏な動きで真っ直ぐ走ってくる。そこに巧が飛び付く。
「うおおおっ!」
猫アレルギーだと言うのに危険も顧みず猫に向かって体ごと飛びかかろうとする。が、本能全開になった猫はその場ですとんと止まると巧の顔の高さまで跳び上がり、そのまま目にも留まらぬ速さで巧の顔を引っ掻いた。
「にゃっ!」
「ぐあぁぁっ!」
「巧!」
巧の断末魔が聴こえる。視界の端に赤い血が見えた。かと思いきや、猫はそのまま体勢を立て直してこちらに向かってくる。
「にゃぁー!」
次は夕輝。立ち向かおうとするも、間近で襲い掛かって来るその形相を見ると、夕輝はまあまあ恐怖した。
巧が常人ならそれなりに深刻だろうという状態で地面に臥していることも相まって、目の前の鋭い目に夕輝は不覚にも頭を防御して目を瞑ってしまった。身を守ろうとしてしまったのだ。
──だからかも知れない。
すぐに、ガン、と鈍い音がしたのを頭蓋骨で感じる。体ごと響く感じだった。その正体が何なのかは、夕輝が目を開いてからようやく分かった。
猫好きな人間なら一度は目にしたことがあるかも知れない類いのものであるが、夕輝はこんな猫の動画を見たことがあった。
それは、猫が透明なガラスの扉をガラスであると気付かずに猛スピードで駆け抜けようとし、結果激突してしまう、というものである。
今の状況が、まさにそれだった。
「......?」
目を見開くとすぐに、夕輝は言葉を失った。
自らの目と鼻の数ミリ先に謎の金属板があり、それが宙を浮いている──。
そして、足元には恐らく顔面を強打しないとこうはならないという感じに顔が赤くなったまま目を回している猫がいた。
──金属板?
「......何だこれ?」
しかしもう一度瞬きをしてみると、それは本当にいつの間にか消えていた。
「......?」
「夕輝くん!」
茜の声ではっとする。この猫を取り押さえねば、としゃがみこんだが、一足先にマツリがその体を押さえる。
「音永夕輝、猫が目を回している今のうちに乗り移って下さい」
「え......ああ、分かった」
マツリに言われるがまま、夕輝は猫に乗り移った。本来この能力は人間にしか乗り移れないものであるはずなので、この猫は能力者で間違いない。
そして──この乗り移りが、今までの夕輝の疑問や疑念を一気に氷解させてしまう。
乗り移って始めに思ったのは、景色が全体的にかなり色褪せている、ということだ。倒れた巧の顔にあったはずの赤い色が全く分からないので、詳しくはないがたぶんそういう色覚なのだろう、と思った。
それから、普段は見えない範囲まで周りが見える。真横どころか、その後ろまでもギリギリ目に入ってきた。
体にマツリがのし掛かっており、目の前では目を瞑っている自分が茜に支えられている。
いつからだ、と考える。
いつから。
あの金属板と、今の状況。
いつから。
──気が付けば、自分の体に戻っていた。
「......夕輝くん」
「......ありがとう、茜」
夕輝は冷静だった。
同時に、ただならぬ具合に混乱していた。
と。
「きゃぁぁっ!」
後ろで雪が悲鳴を上げるのが聴こえて、夕輝は前方を確認した。
「......」
夕輝の脳裏を過ってしまった
ただし、全裸で細身の男。鼻血が出ているのは、
「うわっ!?」
茜も驚愕して口元を押さえる。対して、マツリは全く動じずに男を取り押さえ続けている。
「ぐっ......離してくれ......」
低くて響くいい声だが、全裸でしかも細身なので台無しだ。
「深山巧、加勢して下さい!」
マツリも女子なので、1人では限界があるのだろう。そろそろ傷が回復してきた巧に助けを求めると、彼はゆっくりと立ち上がって今にも転んでしまいそうな足取りでマツリの元へ向かった。猫は結構な弱点なのかも知れない。何かあったときは猫と覚えておこう。
「......くそ......ただ、猫になって可愛い女の子にもてはやされたかっただけなのに......」
「どんな願望だよ!?」
よろけていた巧もびっくりの動機を語ってくれた青年。歯を食い縛って悔しがっている。
「......ずっと親や学校に束縛されるのが嫌で、自由になりたくて......お願いだ......警察に突きだすのだけはやめてくれ......!」
涙すら流している彼を見て、マツリは考えるふりをする。
「そうですねぇ......まあ、今回は見逃してあげることにしましょう」
「え?」
恐らく捕まったら本気で警察に連れていかれると思っていたのであろう、青年はキリストでも見るみたいにマツリを見上げた。
「本当ですか......?」
「ええ。......ただし、約束して下さい。金輪際、その能力は使わない、と」
マツリはそう言っているが──と、夕輝は思う。
不安だ。確かめるのも怖かった。
これ以上、分からないことが増えるのは嫌だった。
そんな夕輝のことなど目に入ってすらいない猫男は、全裸で尻を出したままマツリをキラキラ見詰めていた。
「ちなみにですが......次もし能力を使ったら、こうは行かないかも知れませんよ?」
「......え?」
「悲しい話ですが......野良猫は、世間的にあまりよく思われていないことが多いです。場合によっては、殺処分されてしまう可能性もあります」
男の顔が真っ青になる。
「もしそれを免れるために人間の姿に戻ったとしても、今のように裸になってしまえば今度は公然わいせつ罪で逮捕されてしまいます」
「......」
「もう二度と使わないことを、私と約束しましょう」
マツリは小指を出す。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」
指切った、と言って小指を離すマツリは、今の男には女神のように映っただろう。
頬を赤くして、ぼーっとしている。
間もなく雪がどこかに落ちていたらしい服を持ってくる。男はそれを着ると、言った。
「......ありがとうございました。おかげで目が覚めました。......可愛い女の子は、頑張って自分で彼女にしてみます」
最後の一言が蛇足だが、マツリは頷くと、間もなく彼に別れを告げた。
「さようなら」
5人は公園を後にする。
──ちょっとだけ、ほんの少しだけ、夕輝はマツリを好きになったかも知れない。
けれどそんな感情も掻き消してしまうような、大きな不安が心の中に残っている。
「......ちょっとトイレ行って来るな」
そう声をかけ、駅のトイレの個室に入る。
胸がバクバク言っていたが、待たせるのも悪いので夕輝はすぐにその場で猫になった。
──ここまでは、今まで通り。
人間の体に戻ると、服を着る。
「ふー......」
続いて、夕輝は壁に向かって手をかざす。
次の瞬間。
──ボン!
音が鳴って、壁が揺れた。破裂するような音だ。と共に爆風。
「......っ」
本当に起こってしまった。と、言うことは。
「......」
手のひらの中に、自らのイメージを投影させる。ぐっと力を込めると、青い光がどこからともなく現れ、手の中に集中していく。
そうして数秒。手を開く。
「──!」
確かに、イメージした通り綺麗なダイヤが手のひらの中に乗っかっていた。しかし、それはすぐに消えてしまう。この場にダイヤがあることの矛盾を夕輝自身が感じたからだ。
紛れもない、『爆破』能力と『創造』能力。
「何で......」
これだけでもうパニックになりそうな程混乱していたが、もうひとつ、検証しなければならないことがあった。
家に帰ると、手洗いうがいをしつつリビングへ。そこには春がいた。
「あ、兄ちゃんお帰りなさい」
「ただいま、春......ちょっと、来てくれないか?」
「......? うん」
午後1時。春の作ってくれた昼ごはんも待ち遠しいし、この後また怜の家に、今日は春も訪問することになっているので、早く食べなければとは思っている。
けれど、どうしても確認しておきたかった。
「自分の能力のことは知ってるよな」
「え......う、うん」
「じゃあさ、何でもいいから今ここで何か創ってみてくれないか?」
「え......急だね」
春はちょっとびっくりしている。能力は基本的に使ってはいけないし、夕輝だっておすすめはしない。生徒会メンバーも特別に許されてはいるが、決して肯定すべき行為ではないのだ。
けれど、確かめなければならなかった。
「何でもいい。石ころでも、紙でも、スライまるのぬいぐるみでも......」
名前を呼ばれたと思ったのか、スライまるが出てくる。
「どうした?」
「何か、兄ちゃんが能力を使ってみろって」
「......頼む、春」
「......」
ここまで強くお願いされると断れないのだろうし、否が応でも拒否しなければならない理由もなかったのだろう。春は手のひらを上向けて、念じる。
「いくよ......」
「ん......」と息を抑えながら、春は手のひらに強くイメージを込める。必死の形相で、手のひらに力を入れる。
──が。
「......できない」
「......!」
いくらやってみても、春は何を創ることもできなかった。
「そんな、まさか......」
その瞬間、それらが確信に変わる。
疑念はほどけ、疑問は綻び、全てが氷解し、代わりにもっと大きな謎が残る。
これでは、まるで──。
──
その2文字が夕輝の脳内の全部を占めた。
どうして。
いつから。
いつからこうなっていた。
夕輝の『コピー』能力では、能力をコピーした状態でも、別の能力を上書きしてしまえば元の能力は使えなくなる。
そのはずなのに、夕輝は『創造』も『爆破』も今回の『猫』も使うことができる。
思い返せば、昨日巧の手に手錠が現れたのも、さっきの金属板も、すべて『創造』の能力で生まれ、そして消えたものだったのだ。
そして、春はまるで
──思い返せば、おかしかった。
今日、あの猫の男に乗り移られてからできた思考が、
それだけではない。
思い出したのは、相似世界でのこと。
春がナイフを持った2人組に絡まれた日。
あの日夕輝は何をした?
春の首にナイフを当てていたケイなる男に乗り移り、まずナイフを捨て、次に同伴の男を攻撃してから自らの頭を壁に打ち付けた。
──これも到底、
「どうして......」
反芻する。思い出してみる。
春に乗り移った10月のあの日も、夕輝は1秒を
あれは1秒なんかではなかったのだ。
『爆破』能力者に乗り移ったときも。
松山の言う通りなら──。
「春、ちょっとごめんな」
「え?」
春に乗り移る。すぐに春の体で時計の針を凝視した。
1、2、3、4、5──。
「......やっぱり」
約5秒、と松山は言っていた。
似ているどころか。
「......『略奪』能力そのものじゃないか......」
口に出してみて、夕輝の体に一気に実感がのし掛かる。
「......兄ちゃん?」
突然乗り移られた春はかなり驚いている様子だったが、すぐに兄を心配する目に変わった。
ちょうど4日程前に見たものと一致する。
「......ご飯、食べよっか」
春の美味いご飯を食べながら、考えてみた。
できるだけ、ポジティブに考えようと思う。
確かにかなり不可解なことだが、今までに比べれば、と。
今まで起こった不思議なことの数々に比べれば、こんなのはあまりにもちっぽけではないか、と。
「......」
そう考えると不思議と前向きになれた。
いつからなのか。
始めに考えたのは勿論、どこかで『略奪』の能力をコピーしたのではないか、ということ。
けれどどんなに記憶を辿っても、そんなことは一度もなかったはずだ。能力者でない一般人に乗り移ることは何度かあったが、いずれも大人で、偶然にも略奪能力を持っていた人間とは考えられなかった。
代わりに、記憶を辿ることで思い出すこともあった。
確か、以前は先入能力を使おうとする度に頭痛がして、能力と能力が混ざるような感覚に陥っていたのだ。
夕輝はそれを"先入能力とコピー能力が混ざる"痛みだと思っていた。
──もしかして、コピー能力と略奪能力が混ざっていたのだとしたら。
いや、ならば略奪能力はどこから生まれた?
むしろ、こう考えるのが妥当ではないか。
『コピー』能力が『略奪』能力に
その痛みだったのかも知れない。
そして、そんな風に色々と仮説を立てているうちに、間もなく夕輝はあることを閃く。
「待てよ......」
何にせよ、この能力が略奪能力であることは殆ど間違いないだろう。例えばその下位互換──つまり、能力を3つまで奪えるとか、コピーと略奪の中間ぐらいの能力である可能性も拭いきれないが、けれど薄い。
松山の証言に余りにも一致しすぎているからだ。
夕輝が閃いたのは、その略奪能力を使って現状を打開する方法だった。
怜の家に生徒会5人と春で訪問する。
「こんにちは......」
消極的な挨拶をしつつ、しかしちょっと嬉しそうに怜はぺこりと頭を下げる。春がいることに気付くと、また嬉しそうな顔をした。お前にはやらんぞ、と思う。
怜の家でやったことは昨日と何ら変わらず、皆でトランプをしたり、ちょっとゲームをしてみたり、マツリがやりたがるので花札をしてみたり。
それはとても楽しくて、まさか夕輝はこの後、こんな普通の日常がこれから失われようとは思ってもみなかったのだ。
午後4時を回る。一通り遊び疲れたところで、夕輝は春とマツリがオセロをしている様子をテーブルで眺めていた怜に話しかけた。
「......なあ」
「......はい?」
怜は不思議そうにこちらに首を捻る。
「その......楽しいか?」
「......はい、とっても」
普段息子に話しかけないけれど実は息子に話しかけたい無愛想な父親みたいになってしまった。怜の返事はそこで終わりだと思っていたが、彼はまだ言葉を連ね続けた。
「こんな風に誰かと遊ぶのなんて初めてで......本当に楽しいです。音永さん......春さんのクッキーも凄く美味しかったですし、皆でこうやってわちゃわちゃできるのが嬉しくて......」
「......そうか」
ちなみに今、怜が春のことを意識して名前で呼んだのは兄の前では紛らわしいからとかではなく、春自身に名前で呼べ、と言われたためだ。兄としてはちょっと複雑なものがある。
しばし沈黙。夕輝は呼吸を整える。
何も難しいことではない。
これで、少なくとも能力者として怜に関わることは終わる。けれど、これからも友人として家を訪問すればいいのだ。
それだけ。
「......怜くん、こっちを向いて」
「......はい?」
夕輝の能力が『略奪』であるなら、怜から能力を奪ってしまえばおしまいだ。怜からは能力が消える。簡単なことだ。
「......ちょっとしたおまじないをかけてやるよ」
「おまじない?」
今一ピンと来ない様子の怜。その瞳を凝視する。
力を込める。
そして──。
夕輝は倒れた。
乗り移ったから──
「え、夕輝さん?......夕輝さん、大丈夫ですか?」
「怜くん、どうしたの?......って、兄ちゃん!? 大丈夫?」
ぼんやりと、怜と春の声が聴こえた。何が起こっているのかは全く分からなかった。
ただ、叫びにも近い焦りを感じた。
初めて相似世界に紛れ込んでしまった日──あの日、夕輝は家を飛び出そうとした瞬間に一気に睡眠へと落ちていった。
そして今。
今夕輝が感じているのは、あの時体感したジェットコースターで落下するみたいな感覚と
焦りと共に、一縷の希望が覗く。
もしや、相似世界に戻る合図なのではないか。
そんな希望的観測をしてみたところで──
──夕輝の意識は消えた。
6人ぐらいの人間がそれぞれ夕輝を呼ぶ声がしたような気がする。
──先に忠告しておくと、これは相似世界に戻る合図などではなかった。
そして、夕輝はとうとう自らに課された余りにも無慈悲な運命を知ることになる。
今回いつにも増して長くなってしまいました。インフレーション申し訳ございません。
CDEになってから、毎幕朝目覚めるところから始まっていますね。次回は目覚めはしますが朝ではありません。どうでもいいですね。
これからやはり一気に物語が動いていく形になります。天然の未をよろしくお願いします。