Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
何かを忘れている。
大切な、何かを忘れている。
「──兄ちゃん?」
「え?」
2年ぶりの妹の朝食を食べながら何となくぼーっとしていたところ、高校2年生になったその妹──かなり大人びてしまった春に顔を覗き込まれてしまった。
「どしたの?」
疑問の表情はどことなく蠱惑的、髪はさらさらでその辺の冴えないぼっちなら簡単に恋に落ちてしまうような表情だった。妹の仕草にドキッとさせられたのは、後にも先にもこれだけである。
「い、いや、何でもない」
両手を胸の前で振ってはぐらかす。と言うより本当に何でもなかったのだ。
ただ、何だか胸に二酸化炭素が充満したまま外に出ようとしないみたいな感覚があって、それが気持ち悪かっただけ。
「......そ。なら食べて! 兄ちゃんの帰りを祝って今日はスペシャル朝ごはんなんだから!」
春は少し頬を膨らませるが、きっと以前と同じように接してくれようとしているのだろう。
それが嬉しかった。
「......大きくなったな」
高校2年生になった春の声は半音ぐらい低くなり、身長は結構伸びていた。2年の間会っていなかったということは、そういうことなのである。
春は夕輝にまじまじと見られて恥ずかしかったのか、
「......兄ちゃん、やめてよ。ほら、早く食べて! ごーはーんっ!」
と急かしてきた。冷めてしまうのももったいないので従うことにする。
スペシャル朝ごはんと言いつつ品揃えは以前と何ら変わらないものだった。
ご飯、コンソメスープ、鮭の塩焼き、シーザーサラダにヨーグルト......。こんな家庭的な嫁が欲しいとしみじみ思う。
「いただきます」
「どうぞ」
一口鮭を口に含んでみると、それだけで既に2年前を思い出すようだった。あるいは、2年前に戻ったような。そんな不思議な味。変わらない、春の味だった。
「......美味い」
料理の方はどれ程上達したのだろうか。夕輝は長らく食事をしておらず、しかも舌が庶民の限界に到達しているため春の余りにも美味しい朝ごはんが以前と比べてどれ程美味しくなっているのか分からなかった。
「......そっか」
小さく微笑む春。
「......良かった」
「......」
この顔を見ると、やはりこの妹は変わっていないな、とも思う。
きっと、心細い思いをさせただろう。
春はずっと、夕輝の妹なのだから。
殆ど会話はせずに、朝食を完食した。
「......ごちそうさまでした」
「うん。食器下げとくね」
「いやいや、そのぐらい自分でやるよ」
春がすっかり綺麗になってしまった皿を手に取ろうとするのを止めて、夕輝はそれらを運ぶ。
春は少し不満そうにテーブルの上で頬杖をつきつつ、兄を見詰め続ける。もしかしたら春も夕輝の外見の変化を観察しているのかも知れない。
「......2年間、
呆けたように、独り言のように呟く春。しかし、夕輝は今一ぴんと来ていなかった。
「......そうだな......」
答えはするものの、その言葉に自分自身でしっくり来ていない。どうしてだろうか。
まるで、孤独なんかではなかったと体が訴えてくるような感覚。
──起きたときからずっと、目元がぴりぴりと痛むこととは関係ないんだよな。
そんな風に考え、何ともまあ的外れなことを考えているな、と自分で馬鹿らしくなる。
「......春の方こそ、1人で大丈夫だったか?」
尋ね返してみると、今度は妹はきょとんとした顔を作った。
「え?......あ、そっか。兄ちゃんは知らなかったよね」
春は思い出したように眉を上げると、夕輝を自分の部屋へと連れていった。手を引っ張られながら何だろうかと思考を巡らせてみる。
その答えは春の部屋にて分かった。
「じゃん!」
まるで宝物を自慢するみたいに大きく胸を張って、高校2年生の春は兄に自分の部屋の中を堂々と見せた。
「......これって」
当然、驚く。
その小さな部屋には何もなかったのだ。
「実は兄ちゃんが行っちゃった後......茜さんが『春ちゃんに1人暮らしさせるわけにはいかない』って......それでね、私いま茜さんの家に住まわせてもらってるの。......今日は特別にこっちに戻ってきただけで」
照れくさそうに耳を掻く仕草をする春。それは初耳だったので夕輝はこれまた結構驚愕する。
「......そうなのか?」
「うん。......茜さんのお母さんとお父さんもとってもいい人で......って、もうこんな時間だ!」
春は突然調子を変えて声のボリュームを上げた。今がどんな時間であるかを確認できるようなものはここにはないので、多分話を切り上げようとしたのだろうが、この演技力では分かりやすすぎる。
春は恐らく、久々に再会した兄とどう接するべきか分かっていないのだろう。しかしこればかりは時間が解決してくれるものだ。気長に待とう。
夕輝は走る妹を目で追う。口元はもしかしたらほんの少し緩んでいたのかも分からない。
「学校遅れちゃうよ、兄ちゃん!」
「......そうだな」
大きくなった春の背中を追い掛けてみる。
どうしてか、寂しくなってしまった。
何かを忘れている。
「久々の授業はどうだ?」
「......まあ、ギリギリ付いていけるレベルだったかな......」
ぼんやりと答えるのは、自分自身でもその授業内容に付いていけた理由が分からなかったからだった。数3の微積は数2の内容が最低限必要であるはずなのに、夕輝はまるで習ったことがあるみたいにすらすらと問題を解くことができたし、暗記教科でも夕輝は知っているはずのないことを知っていた。
放課後、教室の片隅で夕輝は巧と話していた。
「そうか......そりゃあ良かったな!」
ばんばんと肩を叩く巧。高校3年になった彼の体は一回り大きくなっており、その力は強かった。結構痛くて夕輝は苦笑する。
「にしても、茜は学校にも来ないで何してんだ? せっかく夕輝が帰ってきたっつーのに......だってあれだろ? 昨日茜の能力を奪ってからお前ら会ってないんだろ?」
「......あ、ああ、そうだな」
返事に一瞬遅れる。この辺りの記憶が曖昧だったからだ。
確か、茜の能力を奪い、少し会話をしてから......家に帰って寝た? そして今朝起きたら春が家にいて、朝ごはんを作ってくれて......。
巧は妙そうに夕輝の表情を眺めて、それから気遣うように今度は優しく肩に手を置いた。
「その様子だとかなりお疲れだな......ま、ゆっくり休めよ」
ありきたりであまり意味のないことを言ってくる辺りは相変わらずだが、心配してくれるのはとてもありがたい。
やがて雪がやってくる。
「音永くん、巧くん」
「ああ......雪」
クラス替えをしようが何だろうが生徒会メンバーは同じクラスになる運命なので今さらそんなところに驚きはしなかったが、雪がかなり大人っぽさ増し増しになっていたのにはちょっとびっくりした。清楚で可憐な感じから、清楚で華麗な感じに変わっているような。けれど庇護欲を擽る部分は変わっていないような。
それと、巧の呼び方が変わっていることに夕輝は気付いた。2年もあればそのぐらい変わるものだろうか。
「お、雪。ちょうどいいところに来たな」
巧が軽い調子で発するものの、夕輝も雪もその意味を理解していなかった。雪は首をかしげる。
「どうしたんです?」
「実は夕輝が茜に会いたくて会いたくて仕方ないらしくてさ。あいつ、何で今日学校来てないんだ?」
「え......」
声を漏らしつつこちらを見る雪。そんなことは微塵も言っていないが、あながち間違いでもなく否定するのも面倒だったので控えておく。
「茜さんは確か......引っ越しの準備があるから、って」
「......え?」
しかしそれに反応しないわけにはとうとういかなかった。
上手く聞き取れなかっただけかも知れない。
「今、何て?」
雪は、詳しくは聞いていないんですけど、と前置きした後で、
「茜さんが引っ越しの準備をしてる......って」
と夕輝に伝えた。
「引っ越し......?」
その後すぐに家に戻ると、夕輝は慌てて荷物を置いて再び玄関を飛び出し、数メートル先の茜宅へ走った。
インターホンのボタンを押せば、軽快な音でチャイムが鳴る。
『はい......って、夕輝くん? どうしたんですか、そんな汗かいて』
モニター越しにもそれは見えたようで、夕輝が息を切らしているのもバレバレだったがそんなことはどうでもいい。
『どうしたんですか、茜さん?』
と、突然モニターの奥から人影が見えると共にスピーカーから声が聴こえた。
妹の春のものだった。
「......へ?」
「......なるほど。それで茜さんが引っ越すのかと思っちゃったんだ。......何て言うか、兄ちゃんって変なところで馬鹿だよね。2年でボケちゃった?」
呆れ口調の春。しかしこればかりは反論のしようもない。まさか茜の家から夕輝の家に春が引っ越すだけなのだとは思いもしなかったから。
「......悪かったな」
春のための部屋とおぼしき空間は段ボールで溢れ返り、夕輝はそのさまを確認しつつ適当に返事をしておいた。
「さ、兄ちゃんも手伝って。ぬいぐるみがいっぱいで大変なんだから」
釈然としないが、手伝わない理由もないため夕輝は唯々諾々と春に従うことにした。ちなみに茜の父と母は仕事で、今は春と茜と夕輝の3人だけ。
「じゃあ私、この段ボール持ってくね」
引っ越しと言いつつその実態はただの荷物の移動作業。段ボールの中に荷物をまとめ、数メートル先にある音永家に運ぶというただそれだけのことであり、何なら段ボールも必要ないのではないか──と一瞬は考えたが、この量のぬいぐるみを生で持っていくとごちゃごちゃしそうなので正解だろう。春は積み上げられた段ボールのいくつかを持ち上げて、よろけながらも玄関を出る。
「......気を付けろよー」
一応声をかけておくが、その後ガタガタと何かが崩れる音がしたので意味はなさなかったようだった。
「......大丈夫か、あいつ......」
やはり春は変わっていない。そんな風にも思えた。
まだぬいぐるみの多い部屋を再び見る。ぬいぐるみが多いと言っても、熊さんのぬいぐるみがあったりというわけではない。ここにある殆どは、あるモンスターのぬいぐるみだった。
そしてそのぬいぐるみを目にしたとき、夕輝は酷く既視感のようなものを覚えた。
「......あれ......?」
──何かを忘れている。
今朝起きたときには夕輝はそれを確信していた。心に穴が空いたような不思議な気持ちを自覚しつつ、その正体を掴めていないのだから、それは何かを忘れているに違いない。
授業中も食事中も、巧の話に笑みを浮かべているときも、夕輝はこの心に空いた穴だけを取り払えないでいた。考えれば考える程広がっていくようで恐ろしい。
しかし、何故だろうか。
「......夕輝、くん?」
「え?......ああ、茜。......どうした?」
リビングの奥から出てきた茜がこちらに近付いてくる。間もなく部屋に入ってくると、夕輝の隣に立ち止まった。
「いえ、その......久しぶり、ですね」
茜はちょっと照れたように頬を掻く。そう言えば昨日の略奪のときの記憶が曖昧だが、抱き締められたような覚えはある。夕輝は何とか記憶を手繰り寄せつつ、「そうだな」と答える。
「......お疲れ様でした」
「......うん」
「夕輝くん......ちょっと変わりましたね」
「......そりゃ、2年間会ってなかったんだ。多少背は伸びるよ」
自分で言っておいて、何だか変な感じだった。違う、と心のどこかが言っているようだった。忘れていることが関係しているのだろうか。
夕輝はまだ、何かを、誰かを忘れている。
誰かの記憶を探している。
「......茜こそ、ずいぶん大人っぽくなった」
「......それは......ちょっと照れますね」
茜は隣で部屋全体を眺めるようにしていて、けれど夕輝に目を合わせてくることはなかった。やはり気恥ずかしい部分があるのだろう。
夕輝が何か発する前に、と呟く。
「......それにしても、多いですね、スライまる」
「......え」
茜の言葉に夕輝の鼓動は急に速くなった。どくどくと動いて、全身に素早く血が流れる。
春のための部屋には、沢山の──楕円形のモンスター、スライまるのぬいぐるみがあり、それらはこちらを睨んでいた。
「......どうしました?」
「え、あ、いや......そうだな。あいつのぬいぐるみばっか──」
とまで言って、自分の言葉に体が、頭が付いてこなかった。そもそもこんな風に動揺しているみたいな心理状態に陥ってしまった理由もよく分かっていなかった。
「『あいつ』?」
「ああ、いや、スライまるのぬいぐるみが多いな、って......あいつって、知り合いみたいに......何言ってるんだろうな」
という自分の理性的な発言の一粒一粒にも、何故だか心が締め付けられるような気がする。夕輝はその理由を必死で辿った。空いた穴の正体を探った。
けれど。
調べようとすればする程、穴は広がって原型を失っていく。探ることはできなかった。
「......夕輝くん?」
考えにふけっていると、ようやく茜に覗き込まれた。目が合ったのは、先のインターホン越し以来である。
「あ、いや......ちょっと考え事を」
「......そうですか? なら良いんですけど......」
茜は不思議そうに首をかしげるが、夕輝も同じく不思議だった。自分が今何を考えているのか、何を探しているかも分からない。ただ何かが足りないことだけを覚えているのだ。
何か。
そこにあったはずの何か。
誰か。
夕輝はまだ、誰かを探していた。
──音永夕輝──
「......っ?」
ふと、夕輝の頭の中を何かが過る。
「夕輝くん?」
とうとう茜の声にも反応できないぐらい、夕輝は困惑していた。
少女の声。暗い輪郭が一瞬、フラッシュバックするように脳内に現れたのだ。
何度も聴いた声のような気がして、夕輝は直感的にそれがこの空いた穴の正体なのだと思った。
「......何だ?」
辿ってみる。
記憶を辿ってみる。
何かを、誰かを忘れている。
「......誰だ......?」
「夕輝くん?」
「お前は、誰なんだ......?」
自分の中に形を微かに残す残滓に問いかける。問いかけてみる。けれど、何も思い出せない。
「どうして......」
思い出せない。
「何で......1人で......」
何も思い出せない。言葉だけが先を行く。けれどそれは手がかりにすらならなかった。
それはだんだんと、形を変えていく。
もう思い出せないように変わっていく。
思い出してはいけない、と言っているようだった。
おかしい、と思った。
「......え」
茜より自分の方が一瞬気付くのが早く、夕輝は気付けば声を漏らしていた。
「どうしたんで......って、夕輝くん!?」
当然茜の注意がこちらに向く。彼女は愕然と夕輝の名を呼んだ。
「どうしたんですか......!?」
彼女が驚くのも無理はない。
何故ならば、隣にいた夕輝が──涙を流していたのだから。
「ちょっと......えっ、と、どうすれば......?」
かなり慌てているが、そんな茜の様子すら今の夕輝の目には入らなかった。ただ、ぼやけた視界の向こう側にいる青いぬいぐるみ、あるいは赤や、緑や黄色のぬいぐるみを見ていた。
その奥の、彼女を見ていた。
見ていたはずなのに、ぼやけていってしまう。
「思い出せないんだよ......何も......。こんなに悲しいのに......何も思い出せない......」
声は震えて、涙の雫がまた落ちた。
夕輝は彼女を、思い出そうとしている。
何かを憎んでいた、彼女を思い出そうとしている。
何かを犠牲にした、彼女を思い出そうとしている。
──人を愛していた、彼女を思い出そうとしている──。
けれど、彼女が何者なのかももう思い出せない。思い出せないようになってしまっている。
「......夕輝くん」
茜は心配そうに夕輝を見詰める。夕輝がこんな風に泣いているのを見たことがあったから余計に、だろう。
しかし、夕輝はそんな茜にも気付けない程に困惑していた。そして寂しかった。心の中に永久に続いている大きな穴の正体が分からなくて。
痛かった。
「嫌だ......」
大きな大きな穴。
「どうして......」
消えない穴。
「夕輝くん......夕輝くん!」
空洞。
「何で......!」
正体不明の、広大な寂しさ。
全てが夕輝を蝕んでいって──。
──それを埋めるように、突然、彼女の温かさが伝わった。
「え......」
ぽす、と夕輝と彼女の間にあった空気が押し出され、耳を澄ませても分からない程に、そして、すぐにでも虚構の間に消えてしまいそうなこの脆い記憶のように、小さく、小さく息を吐いた。
「......大丈夫です」
「えっ......?」
優しい声は左肩の方から聴こえている。
「大丈夫ですよ」
彼女の声。友利茜の声が夕輝の耳に届いた。
茜は夕輝が泣いている理由を知らなかった。夕輝も自分が泣いている理由を知らなかった。
そこにひどく悲しみが残っているだけで。
「......大丈夫です。......私がついてます。私が......夕輝くんを守ってあげます」
「......え......?」
その意味が夕輝には理解できなかった。茜が何をしているのかも、なぜそんな言葉をかけるのかも分からず、そして茜もまた分かっていなかった。
──ただ、温かさだけが胸を埋めていく。
茜の温かさだけが。
その温かさが胸の中に満ちていくごとに、押し出された白い感情が体を伝い、涙となって溢れては、じんわりと部屋のマットに染み込んでいった。
何か、大事なことを忘れている。
この気持ちは、茜と彼女がくれたものだ。
けれど彼女を思い出せない。
ただひとつ、わかること。
夕輝は彼女に──幸せになってほしかった。
「......うっ......」
「......もう、無理しなくていいんですよ。夕輝くんは頑張りました」
「ううっ......!」
歯を食いしばって、声を殺す。
茜が許してくれたとしても、きっとここで声を出して泣くことは失礼なことなのだ。
誰に、なのかは分からない。
「......約束、守ってくれてありがとうございますね......無事で良かったです」
茜は夕輝の頭を撫でる。
「......あか、ね......っ」
違う。
違うと言っている。
心の奥底が言っている。
自分は約束を破ろうとしたのだと。
けれど、もう身に覚えもない。
「......俺は......っ」
しゃっくりのように言葉が途切れる。
「......どうしましたか?」
自分の髪が茜の手に触れられているのが分かる。夕輝は胸の締め付けられるような思いで、こう聞いた。
「俺は......っ......幸せになっても......いい、のかな......っ......?」
それは、茜に対してのものでもあり、別の誰かに対してのものでもあった。
その誰かももう分からない。
「......何言ってるんですか......当たり前じゃないですか。夕輝くんが幸せになって、責める人なんていませんよ」
「......っ......!」
今度はぽんぽんと背中を手のひらで叩かれる。
涙が溢れた。
溢れて、止まらなかった。
もしもう一度"あなた"に会えたら、"あなた"もそう言ってくれるだろうか。
──私は、十分幸せでしたよ──
誰かがそう言った気がした。
あなたがそう言った気がした。
夕輝は茜の体を強く抱き締める。
「ちょ......夕輝くん?」
「茜さーん、ちょっとこの荷物......ってえ!」
春はあんぐりと口を開いて硬直した。
しかしそれも仕方ない。
元・自分の部屋で自分の兄が彼女と固く抱き締め合っている姿を目撃してしまったら、誰でもそうなるだろう。彼女の持ってきた段ボールは地面にがたんと落ち、その音を聴いてなお夕輝は手をほどかなかった。
「お、お......お邪魔しました~~っ!」
走って逃げる春。
「......」
「......行っちゃいましたね」
「......良いだろ......別に」
自分の声が鼻にかかっているのが分かる。まだ涙は止まらず、胸に空いた穴もそのままだった。
きっと、元通りに埋まることなんてないんだろう。夕輝はそれを確信していた。
「......茜」
「......何です?」
「好きだ」
「ぅえっ......?」
恐らく日本語にはない発音と共に体を跳ねさせる茜。かなり動揺している。
「な、何ですか急に」
「......これからも、ずっと一緒にいてほしい」
「............!」
茜は眉を上げ、目を見開く。勿論彼女の肩に顔を埋めている夕輝には見えないが、それでも彼女の反応は大体想像できる。
茜はしばらく押し黙って、それから夕輝の頭にやっていた左の手も体に回してくる。
「......ずっと......一緒にいますよ」
目を閉じて、夕輝に身を預けるように体を傾けてくる。
「......何があっても、一緒にいます。......もう、あんなに寂しいのはこりごりです」
この2年間のことを言っているのだろう、茜は少し不安そうな声を漏らしたが、夕輝は逆に安堵すらしてしまった。
「......良かった」
ぼそっと呟くと、茜がぎゅっと服を握ってくるのが分かった。
そうして数秒。
「......そう言えば」
茜はその腕をするするとほどいて、夕輝から少し離れた。
「......?」
だいぶ涙が引いてきた夕輝はそれに合わせて──と言うか半ば強制的に腕をほどかされた。
「約束が1つ、残ってましたね」
「......え」
夕輝は口を『え』の形にしたまま固まる。先程まで訳も分からず泣いていたせいで思考が全く働いておらず、茜が何のことを言っているのかも認識できなかったからだ。
考える前に、聞こうと試みる。
「......約束って、なん......」
しかし、夕輝の言葉はすぐに遮られてしまった。
「......?」
彼女と彼女の唇によって。
「────」
声が出ない。
夕輝は文字通り、言葉を失った。
言葉を発する手段を失った。
口が、唇が開かない。
そのまま5秒程度の時間が経過して、彼女は離れると、背伸びしていた背丈を低くした。
「......あか......ね......?」
「さ、ぬいぐるみ片付けますよ」
茜はくるりと回って夕輝から顔を逸らすと、スライまるを回収していく。早口だった理由はもう聞かない。と言うか聞けなかった。
「......あ、ああ」
せいぜい五十音の最初の文字を3連続で発音するぐらいしかできず、夕輝はそちらに駆け寄る。
「......あの......いいかな?」
緊張感漂う空間の後方から声が聴こえたため音速で振り向くと、そこには妹がいた。
「......は、春」
何故浮気現場を目撃されたみたいな動揺のしかたになってしまっているのかは自分でも分からなかったが、夕輝はへっぴり腰のまま春の顔を見る。
「......この段ボール......運んでもいい?」
「......え、あ......春ちゃん、それは私が持っていきますからそこに置いておいて下さい」
「あ、はーい。分かりました」
棒読みで答えると段ボールを置いて春は退出する。また沈黙の時がやってきた。
「......見られちゃいましたかね」
「......」
かなり上ずった声で恥ずかしそうに聞いてくるので、ならばせめて心の準備ぐらいさせてくれと思いつつ、夕輝はどくどくとまだ高鳴って止まらない心臓を鎮めることに務めることにした。
全く、茜は何を考えているんだ。
心の中で文句を溢した。
それから、夕輝の周りでは色々なことが目まぐるしく変わっていった。
ちょうど夕輝が帰ってきた時期に父がマンションに越してくることが決まり、1ヶ月後からは3人での生活が始まる。
巧は結構秀才に成長しており、星ノ海学園からの推薦で星ノ海大に進学することを固持し、もう少しレベルの高い学校に進学することになったそうだ。
巧の母は相変わらず元気そうで、隼翼の方はようやく研究所から出て一般人として生活するようになったようだった。
そして、今日は雪の旧家に来ている。
「ほら、お肉焼けますよ!」
「あ、茜さん、兄ちゃんホルモン食べれないから」
「おいおい夕輝、ホルモンも食えないのかよ」
「まあまあ、好みは人それぞれですから」
「......僕はもうお腹一杯ですので、後は皆さんで......」
それぞれがわーわーぎゃーぎゃーと騒ぎ、端では未来と琴羽も隼翼に見守られながら肉を奪い合ったりしている。
こんな大きな庭でバーベキューができるとは思っていなかった夕輝はまだちょっとあの豪邸に目を奪われていた。
それから、少し皆から離れて彼らの様子を眺めてみる。
巧の馬鹿キャラはそのままで、雪は相変わらず巧の宥め役に徹しており──ちょっと2人の距離が変わっただろうか。松山もあんな不愛想な顔をして楽しんでいるのだろう。怜は春に野菜を渡されて照れている。まだ妹は渡さない。
と、一通り目を通して、夕輝はそこに1人足りないことに気付く。
「夕輝くん」
後ろから声が聴こえて振り向く。
「茜」
「びっくりしましたか?」
悪戯っぽく笑む茜。と言うよりこれは悪戯なのだろう。しっかりあちらを見ていたのに夕輝にばれないように回り道をしなければこんな風におどかすことはできない。
「......悪趣味だな」
「えへへ」
可愛いので許そうと思った。
「......晴れて良かったですね」
「そうだな......」
日が射す正午の広い庭。この豪邸には桜まで立っているから恐ろしいが、そんな桜が風に吹かれて散っていくのを見ると、何だか切なく思えた。それらは巧たちが焼き肉をしている方へ向かう。
「......お肉の匂いに吸い寄せられたんですかね」
「......え?」
隣の茜の顔を覗き込んで数秒固まった後、盛大に吹き出した。
「ちょ、何で笑うんですか」
「いや......そんなこと考えるの......茜ぐらいだぞ」
「そうですか? 皆考えますよね?」
「考えないだろ」
「ええー?」
訝しそうに夕輝を睨み付ける茜。それから思い立ったように、
「じゃあ、雪たちに聞いてきますね」
「へ?」
「琴羽~! 雪~!」
駆け足でまたあちらに走っていってしまった。茜は茜らしいな、と思う。
間もなく、あちらから笑い声が聞こえた。
美味しい匂いがやってくる。
晴れ。
あそこには、茜が、皆がいる。
この幸せは、当たり前の日常は、誰かがくれたものだ。名前のない誰かが、もう記憶にない誰かが与えてくれた贈り物だ。
ならば、夕輝はその幸せを十分に享受しなければならないだろう。
息を吸い込んで、あの青い空に向かって、彼女に向かって呟いてみた。
「......ありがとう」
きっともう、彼女には会えない。
けれど、例え辛くても、悲しいことがあっても、きっと夕輝にはそうするだけの義務があるのだと思ったから──。
夕輝は彼女のくれた人生をちゃんと幸せに生きてみようと思う。
茜と、家族と、友達と、仲間と。
皆と共に。
「夕輝くん! お肉冷めちゃいますよ!」
茜が名を呼ぶ。
夕輝は歩き出した。
──新しい春風が吹いた。
~Charlotte Done Edition(s)~
目標よりだいぶ遅れてしまっていますが、取り敢えずエピローグの方まで終わらせてしまいました。
色々と思うところはあると思いますが、もうしばしお待ち下さい。
Charlotteはもうすぐ5周年、Angel Beats! は5日前に10周年になり、Twitterの個人的なアカウントでは騒ぎまくっていた僕ですが、ハーメルンの前書きやらでそのことについて綴るのを完全に忘れていたまま今に至ります。公式様の発表が待ち遠しいですね。
これでCDEは終わり、ここからはCharlotte Zhiendに入りたい、というところなんですが......その前に、もう1つのお話を挟んでおきたいと思います。枠としては、CDEとしてのお話です。
そのお話があることを極力ネタバレしたくなかったためプロローグの際には予告していませんでしたが、それはこれからする大きなネタばらしのために必要不可欠になってくるものなので、是非是非目をお通し下さい。