Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
ちなみに三話構成なのですぐ終わります。
1話あたりの文字数もCDE程にはならないと踏んでいます。踏んでいるとはすなわち踏んでいるのであって、確実ではありませんのでご注意下さい。不安です。
なお、1つばかり嘘をつきました。と言うより半分嘘で半分本当なので、0.5個ばかりですね。
ネタばらしはもう少しお待ち下さい。
あ、それと、CZの地の文に書かれている"私"は、全て"あたし"と読みます。
第一章 下衆の扇動
引きこもり。
雑然とした真っ暗な部屋の中で、
座るソファはおんぼろで、タオルやらクッションやらがいかにもまあ適当に置いてある。
机と私の間にある低いテーブル。それが私の怠惰な生活の痕跡をはっきりと残している。食いかけのジャンクフードも、ジュースの入った小汚ないペットボトルも、この歳で初めて飲んだ酒も、くしゃくしゃにして投げ出したギター譜も。
すっかり埃を被っちまったギターが同じソファで死んでいる。
すっかり誇りを失っちまった私は果たしてどうなのか、と言えば──言うまでもない。
ギターと同じ。死んでいた。
こんなクソみたいな人生、才能あるやつだけが称賛を浴びて、そうでない私のような人間には誰一人として目を向けない世界。
クソ食らえ。
「Shit......」
──神を恨んだ。
イギリスに住んでいた頃の記憶がない割に、私には殆ど英語しか話せない。何ともまあ酷い皮肉だと思う。父親のことは思い出せないのに体に染み付いているのは父親の母国語で、更に言えば私は父親と日本人の母さんが結婚していたのかどうかも知らなかった。怜のことを考えれば私が生まれた後も1年は付き合っていたことになるが、少なくとも私の記憶にはない。
姉貴は父のことを覚えているだろうか。
──いいや、関係ない。母が詩人だった頃のことも、私にとってはどうでもいいことだ。
こんな下らない、意味もないことばかりを考えてしまったのは、きっと今日の授業がつまらなかったからだ。母は私が日本で不自由なく暮らしていけるようにと、帰国子女向けの学校に入学させたのだが──正直を言うと、始めは嫌でしかなかった。
そもそも私は幼い頃イギリス暮らしをしていたせいで日本語はちょっとしか喋れないし、もっと言えば日本で暮らすことも嫌だった。
もっとも、いつ日本に来たのかすら覚えていないから、今更嫌がったところでどうしようもない。ただ、それが小学生になる前のことであるということは何となく知っていた。この小学校に入学した記憶があるからだ。
──と、言いつつではあるが、小学6年生にもなると私は日本語にだいぶ不自由しなくなっていた。母さんの思惑通りである。
静かな──物寂しいとも言い換えられるような、そんな下校途中。友達がいなかったわけではないが、私がすっかり日本語に慣れてしまったのに対し、大多数の人間はまだ日本語に不慣れなままだったため、意志疎通に時間がかかる。
私は彼らがそんなに好きではなかった。きっと好い人たちなのだろうが、コミュニケーションに手間取るようではどうしたって仲良くはなれない。私が高校生くらいになっていたら、私と彼らぐらいの距離感のことを"友達"と呼びはしなかっただろう。小学生の間は、基本的に皆が"友達"なのが決まりなのだ。学校からすら、それを強制される。
1人で帰っているのは、主にそんなことが理由だった。勿論、日本語で十分に喋ることができる相手がいないわけではない。けれど、それは決して多くはなかった。帰り道はいつも1人。
そんな私に転機が訪れたのは──中学に入学してすぐのことだった。
「1年3組か......」
呟きつつ、自分以外のクラスメイトの名前を順番に目で追っていく。......追っていくものの、当たり前だが知り合いは1人もいない。私のいた小学校の知り合いの多くは、帰国子女受け入れの中学に入学していくからだ。私みたいに日本語を使いこなせるようになった人間のみが、一般的な公立の中学校に入る。知り合いはいなくて当然だった。
ただ何となく目で追ってみたのだ。
しかし追ったところで頭には入りそうもなく、そもそも入れる気がなく、他に自分のクラスやクラスメイトを確認しに来た人間に押し潰されそうになったので、私はすぐにその場を離れた。
友利茜に美田琴羽──なんて名前は目にも入らなかった。
琴羽が初めてだった、私に声をかけてきたのは。
それを何故わざわざここで口述するのかと言えば、それは私がクラスの中では少々浮いていたからだろう。私はそもそもヨーロッパ系の濃い顔立ちをしていて、他の女子よりちょっと背が高い。それだけで威圧感があると言うのに、この青い目はよく、睨んでいるみたいで怖い、なんて言われる。誰も私に話しかけなかった。
琴羽が初めてだったのだ。
「は、はろー?」
ざわざわとクラスメイトがざわめく休み時間に本を読んでいたときのことだった。彼女は視線を本に向けていた私に無理矢理目を合わせるように覗き込んで、私がそれに気付くと屈めていた体を伸ばした。彼女の垂れていた髪が真っ直ぐになる。
「あのー、岩下さんだよね?」
「......ああ、そうだけど」
直感的にだが、そうすべきだと思ったので栞を読んでいたページに挟む。本をぱたんと閉じると彼女に視線を上げた。
「私、美田琴羽。......日本語大丈夫なんだ?」
「え?......ああ、母親は日本人だからな、日本語はそんなに苦手じゃない」
自然な感じに答えると、彼女は感心したように頷く。小さな顔は可愛らしく、髪は長くさらさらしていた。まとった制服はちょっと彼女には大きく、背伸びしているように見える。普通より少し太くくっきりとした眉が正義感のようなものを醸し出しており、それでいて華奢な体つきは庇護欲を掻き立てる。全体的には一面に咲いたネモフィラのごとき可憐さを思わせるような、そんな少女だった。
「......何の本、読んでたの?」
机に置いた小さな書籍を一瞥し、そう尋ねてきた。
「これか? これは『隠者のパリノード』って小説で、ウォーカー作品なんだけど......知ってるか?」
「いんじゃ......パリ濃度......うぉーかー?」
彼女はハシビロコウにでもなったみたいに固まる。それで、彼女はこの本も、この本を書いている作者である有名作家のW.T.ウォーカーのことも知らないのだと分かる。
「えっと......それって、どんな話なの?」
そのときの琴羽はだいぶ焦っていたようで、話題を作り出すのに必死になっているように見えた。私はブックカバーを外し、表紙を見せる。そこにはタロットカードの"隠者"が机に座り、日記帳のようなものに何かを執筆している様子が描かれている。
「簡単に言うと......遥か昔に死んだ"隠者"って名乗る何者かが残したメモ──日記帳を手掛かりに、主人公たちが"隠者"の身に何が起こったのかを解き明かしてく、って話だ」
「......へぇー」
彼女は眉毛を上げて、興味深そうに表紙を眺める。その表情を見ていると、何故だかもっとこの本について語りたくなってしまった。
「......しかも面白いのがさ、この日記帳にはある"魔法"がかかっててな」
「魔法?」
「ああ、ある日の日記を読むには、
「......その日?」
首をかしげる琴羽。日本語は特別苦手ではないが、少し苦手ではあるかも知れない、とこういうときに思う。取り繕うように、
「つまりさ......9月1日の日記を読みたかったら、9月1日になるまで待たなきゃいけないんだよ。これがこの作品の大きな特徴でさ、"隠者"がいつの時代の人間なのか分からない、ってのも大事なんだ。実はな......!」
と言いかけて、これ以上はネタバレになってしまうということに気付き、自分が少々熱くなりすぎて琴羽の表情も確認していなかったということにも私は気付いた。反応がないので、もしかしたら呆れているかも知れない、興味を失ってしまっているかも知れない、と思って見上げる。
彼女は宝石のように瞳を輝かせて鼻と鼻がくっつきそうな目の前にいた。
「実は......!?」
びっくりする程積極的に、琴羽はわくわくはきはきと尋ねる。鼻息が荒く、物語の続きを待ち遠しそうにしている姿は小さな子供のようだった。
「えと......」
私はちょっと言葉に詰まる。この純粋さというか純真さに気圧されたのかも知れない。視線をしばし泳がせた後で、思い付いたように提案した。
「そうだ......気になるんだったら、貸すよ」
「え? でも......」
「いや、私は1回、これの映画版を観たことがあるからさ。いいよ、貸す。返すのはいつでもいいから」
驚いたように、遠慮がちに拒否しようとした彼女を押しきって無理にでも貸そうとするが、ここまで言った後で実はそこまで興味もなかったのでは、と憶測する。
しかしそんな考えとは反対に、琴羽はきょとんとしていた。
「......そう? じゃあ、もし良かったら......借りても、いい?」
「え......」
それがちょっとだけ意外で、私は一瞬何を言うべきかを忘れる。それからすぐに理性を取り戻し、
「......も、勿論」
と、返答した。すると琴羽はひまわりのようにぱあっと明るくなる。その表情は本当に眩しくて、健気で殊勝なイメージを思わせた。
「ほんと?......ありがとう、岩下さん!」
「......い、いや」
こんなテンションで話しかけてくるせいで忘れていたがそう言えばこれが彼女とのファーストコンタクトなのだ。私は少しくすぐったいような気持ちになりながら、視線を逸らす。
この間──6限開始のチャイムが鳴るまで、私はまるでこの教室に琴羽と自分しかいないような感覚にとらわれていた。そしてその味気ない音は、クラスのざわめきと現実への意識を私に取り戻させた。
「あ、チャイム鳴っちゃったね......じゃあ岩下さん、これ借りるね! ありがとう!」
二度も言わなくていいのだが、彼女は感謝の念をこれでもかと伝えて自身の席に戻った。机にはもう書籍はない。
何と言うか、独特だなと思った。彼女の性格の話である。どこか天然っぽくもあって、全人類を友達だと思っていそうな少女、という雰囲気。
そんな琴羽との初の接触は私の中学生活が始まって1週間が経ってからの出来事で、茜はと言うと、その翌日にこれまた初めて喋ることになった。
「琴羽、何ですかそれ」
「......ああこれ? これね、岩下さんが貸してくれた本。『隠者の』......えっと『パリノード』? って、面白いタイトルだよね」
「岩下さん、ですか? それって......」
そんな会話がどこからか聞こえる。私は別に積極的に耳を傾けたわけではなかったが、どうしてもこの静かな朝の教室ではその話し声が入ってきてしまう。
驚いたのは、琴羽とその友達らしき人物がこちらに近付いてきたことだった。
「岩下さん!」
「えっ?」
名前を呼ばれると同時に肩を叩かれて結構どきりとする。今まで自分のことが話されていた故に余計に意識してしまっていたのだろう。
高速で振り向くと、そこには2人の少女が制服を着て立っていた。
「おっはよう!」
「お......おはよう!」
相変わらず陽光が顔面からてかてかと放たれている少女である。思わず軽快な挨拶を反復するように真似てしまった。汗が少々流れる。虚勢を春みたいに胸を張っている自分が何だか馬鹿らしい。
「あ、また別の本、読んでるんだね!」
また瞳を煌々と輝かせて言われてしまったので、ちょっと戸惑いつつ彼女の持つ書籍を指差す。
「ああ......これか? これはそれと同じウォーカー作品の『モラトリアムの扇動』って小説だ。知って......は、いないよな」
口角は上がったままの状態で視線を下に落とす。琴羽は不思議そうな顔をしてまた腕を組んでいた。恐らく、『その人の作品のタイトルには、絶対に難しい言葉が入ってるの?』とか聞いてくるだろう。そんな風に思っていたがために、琴羽の後ろにいた人物が発する声に十分警戒していなかった。
それは3人と残り数名しかまだいないこの教室にはそれなりによく響いた。
「私それ、知ってます。人が無意識のうちに作り上げる"空気感"がテーマで......タイトルにこの作品の大きな仕掛けが隠されて......って、もしかしてネタバレしちゃいました?」
素朴な顔で説明文のようなものを連ねた後、はっと気付いたように顔を上げた少女。
昨日の琴羽との初対面では彼女を可愛らしいと思ったが、この少女はもっとキリッとした顔立ちで、そして申し訳ないが琴羽よりも数段可愛いと思った。琴羽が陽気をまとったひまわり、可憐さを持ち合わせたネモフィラならば彼女は百合のような美しさ、牡丹のような華やかさも持ち合わせる一方で月見草のような儚さも感じられる、といった印象の少女だった。ただし清楚系という感じでもなく、飽くまで可愛い系だ。
「......え」
そんなことばかり考えていたせいで、少し反応に遅れる。
「あ、えっと......この作品好きでさ、読むの3回目なんだ。だからネタバレにはなってない。大丈夫だ」
何とかそう答えておくと、自分が何者かもよく分からないクラスメイトと喋っているということを今更ながら思い出した。
「えっと、私は岩下沙良......知ってるか。あんたの名前は?」
「あんた」
ただ名前を聞いただけのつもりだったのだが、琴羽に素早く反応されてしまった。
「あんた、って......」
琴羽の表情は前髪に隠れ、しかしそのテンションが幾分か落ちているようにも見えたので、もしかして初対面の相手に"あんた"は良くなかったのか、とか考えていると。
「岩下さん、変!」
めっちゃくちゃ直球、メジャーレベルのストレートを投げられた。
「あんたって......あははっ!」
しかしそれは可笑しさから来るもののようで、私が見ている限りやはり悪意は見えない。
それにしても、結構大爆笑している。
「そ、そんなに変か?」
「普通言わないよ~」
いかにも愉快そうに、ワライダケでも食べたように笑っているので、何だか少し照れくさくなってしまう。それで忘れていたが、彼女の名をまだ聞いていない。
「で......名前」
『あんた』を封じられるともう二人称のレパートリーがない私は、そんな風にぎこちなく尋ねた。彼女も同じく忘れていたようで、思い出したように肩を跳ねさせた。
「あ、私ですか......友利茜です」
「......そっか。ミタさんとトモリさんは仲が良いのか?」
何となく近しい距離感を2人の間に感じたのは、普段自分がそれに慣れていなかったからだろう。すると答えたのは琴羽。腹を抱えていた腕を直す。
「え?......うん、小学1年生のときからずっと知り合いなんだ」
「......そうなのか」
「岩下さん......じゃよそよそしいよね、沙良ちゃんの小学校の友達は?」
純粋な疑問という風に尋ねてくると、こちらとしても少しやりづらい。
「......小学校の奴らは皆、別の中学に行ったよ。だからこの学校に知り合いはいない」
もっと言えば、もともと友達などではなかったのかも知れない。こんな言い方をしては薄情な気もするが、私はあの小学校にいた人間との別れを惜しんだりしなかった。
「......そうなんだ」
少し含蓄のある感じで言ってしまったので、空気が濁った気がした。琴羽も少し低めのテンションで答えるので申し訳ない気持ちになり、彼女を見上げると。
「じゃあ......私と茜が沙良ちゃんの中学最初の友達だ!」
「......え」
あろうことか琴羽はそんなことをのたまったのだった。流石の私も(何が流石なのかは知らないが)驚く。
「ね、茜!」
「まあ......そう、なるんですか?」
茜はそのときは私と同じく友達の定義とは何だろうといった表情で首をかしげたが、琴羽の言葉には私たちを納得させるだけの説得力みたいなものがあった。
「なるなる!」
友人がふえたことを喜んでいる琴羽は、主人によく懐いた犬のようだった。尻尾を振りながら耳をぴくぴくさせている姿が目に浮かぶ。
「じゃあよろしくね、沙良ちゃん!」
「あ、ああ......よろしく」
「私も、よろしくお願いします」
「......おう」
このときの私はまだ、成り行き任せに出来た初の友人、琴羽と茜が私にとって大事な存在になるとは思っていなかった。
「......寒くなってきたねぇ」
ぶるぶる、もしくはぷるぷると体を震わせながら、ひとりでに琴羽が呟く。茜と私はそうですね、とかそうだな、とか適当に相づちを打つ。
「もうすぐ2年生だねぇ」
おばあちゃん、もしくはおじいちゃんのように郷愁の念を抱くみたいな言い方をするが、これでもこの中では最年少。1人だけまだ12歳だ。私と茜はまた、そうですねとか答える。
「今日の数学は難しかったねぇ」
これは琴羽の使う定型表現、もしくは常套句だった。"今日の"ではなく"今日も"が最適だと私が思っているのは、毎日のように琴羽がこれを口にしているからだ。
「琴羽は馬鹿だな」
「唐突だ!」
特に言うこともなく罵ってみると、またテンションの高い突っ込みを返してきた。突っ込みと言うよりは自己完結っぽいが、それでも明るくなる。
3人で歩く廊下にはすっかり慣れ、今日もまたいつもと同じように寒い2月の廊下を歩いていた。
「......琴羽、そう言えば前貸した本、まだ返してないよな」
「ぎくっ」
擬態語を自ら発してしまう辺りが琴羽だが、そんな安い誤魔化しが通用するのは最初だけだ。じっと睨み付けると、しゅんと萎れた花のようになって両人差し指をつんつんさせる。
「だって......知らない言葉が多くて、調べながら読んでると時間かかっちゃうんだもん」
現在彼女に貸しているウォーカー著作の『白雪姫と蜂蜜酒』。中世ヨーロッパを舞台にした作品で、今ではあまり馴染みのない言葉が多く出てくる。イギリスで書かれたものを訳しているので余計に難しい単語が多いのかも知れない。
「まあ、良いんだけどな。ゆっくり読んでくれよ」
という言葉をかけておいて、けれど心の中ではそれ以上に感心していた。何故なら、私自身があまり知らない単語を調べるということをしないからだ。琴羽は何事にも一生懸命で熱心だが、ここまでくると尊敬ものだ。
「茜は確か......ウォーカー作品は好きじゃないんだよね?」
琴羽が"ウォーカー作品"という言葉を発すると妙な違和感を感じるのは、その語彙が少々知的っぽいからだろう。茜は突然話題を振られ意識を向ける。
「え......ええ、あの独特の暗さとかが......『モラトリアムの扇動』と『
後ろめたそうに彼女はそう言うが、私はと言えば、そりゃそうだよな、と思うだけだった。茜への諦めなどでは決してなく、単純に茜の示した2作品がウォーカー作品の中でもとりわけ陰鬱とした雰囲気をはらんでいるから、というだけである。
「あー、あれはちょっと怖かったよね。あと、デビュー作も」
腕を組み、うんうんと頷きながら琴羽が共感する。琴羽はと言うと『隠者のパリノード』を読んで以来著者の作品にはまり、いつも私から彼女の小説を借りているのだった。
「でもね、茜。私が最初に読んだ『隠者のパガニーニ』は本当に面白かったんだよ。わくわくして、ドキドキしたんだ!」
琴羽は知らない単語を調べている割には雑に作品の紹介を続ける。
「『パガニーニ』じゃなくて『パリノード』な。好きなら間違えるなよ......」
「あ、そうだっけ? とにかくそれ! 読んでみてよ!」
私はそんなに強く薦めるつもりはなかったのだが、琴羽がこの調子なので一応突っ込みは入れておいた。
そんなこんなでもう少しこの話を掘り下げたくなってきてしまった──というところで、先に私の別れが来てしまう。
私の家は学校を境に、2人とは真反対のところにあった。下駄箱で靴を履き替えるともう逆方向に進まなければならない。
「......じゃ、また明日な」
「うん、明日ね」
「さようなら、沙良」
それぞれに別れの挨拶をし、だんだんと離れていく。後ろからはまだ琴羽が『隠者のパリノード』を茜に薦めている声が届いてくる。
──こんな何でもない日常が、今日までずっと続いていた。
そしてそのことに私はそれなりに満足していたし、好きなことについて語らい合える友人がいることがこんなにも素晴らしいことなのだと過去の自分に教えてやりたいぐらいだった。
いつの間にか口角が上がっていることに気付く。周りに人がいないので問題はない。
このくらいのちっぽけな幸せが永遠に続いたらどんなに良いか。そんな風に心から思っていた。
──壊れたのはすぐだった。
何がいけなかったのかと言えば、たぶん中2のクラス替えだろう。あるいは私が琴羽と茜以外にあまり友達を作っていなかったことだろうか。
虐め。端的に言ってしまえばそれだった。
始めは些細なことだった。私が休み時間中ずっと本を読んでいたことも原因の1つだが、一番の原因は姉貴だ。
Alisaという名前で活動するアーティスト。本名は岩下亜里沙、1個上の姉貴だった。
小さい頃から一緒にいる姉貴は私にとっての憧れで、言わば大スター。そんな姉貴が去年、動画サイト"YouChoose"に自らの作った曲を歌った動画をアップしたのがきっかけで、今では回り回ってそこそこ有名なシンガーソングライターになっているのだが......。
「あんた、あのAlisaの妹なんでしょ?」
それを初めて言われたときは、初対面の人間に対して"あんた"を使う人間がやはり自分以外にもいるのだということを後で琴羽に報告しよう、ということぐらいしか考えなかった。
実際、私がAlisaの妹であるということを知っている人間はそう少なくなく、琴羽も茜も知っていた。だから驚きはしない。
「......そうだけど」
珍しくもないので普通に答えておく。
「......ふーん、やっぱりそうなんだ......」
今のセリフぐらいならたぶん琴羽に言わせても違和感はない。ただし、どことなく陰湿な含みを持ったその言い方は琴羽とは大きく違っている。彼女ならばきっと、「ふーん、そうなんだ!」といった感じである。
「それで、何か用か?」
「......いや、別に」
彼女は無言で睨むような視線を向けていたが、間もなくまた女子のグループに戻っていった。
4月始めのことだった。
廊下を歩いているのだが、どうも四方から視線を感じる。偶然下駄箱で合流した茜も琴羽も指摘しないので気のせいかと思っていたが、彼女らと別れた後に教室に入ってようやくそれが気のせいではなかったのだと分かる。
私が入った途端に静かになる教室。皆がこちらを見ている。そちらにばかり視線が行っていたせいで分からなかったが、黒板に書いてある文字を見たとき私は驚いた。
──岩下沙良はAlisaの妹──
──だから何だ。
そんな感想を始めは抱く。
先も言ったようにそんなことは知り合いの10人に1人ぐらいは知っていることだったし、別に大したことではなかったからだ。
例えばこのクラスでは、去年も同じクラスだった女子の2人はそのことを知っていた。しかし、でかでかと書かれると何故だか後ろ暗いような気になってしまうのはどうしてだろうか。
続いて気付くのは、クラスメイト全員が声をひそめて会話をしていること。このときの私はただ混乱していて──少なくともそれが、クラスカーストなんて陰湿なものによって巧みに仕組まれた集団的攻撃の予兆であるとは思っていなかった。
いや、そのときにはもう既に始まっていたのかも知れない。
「Alisaの妹だからって調子乗ってんな!」
「調子乗ってなんて......」
「あぁ!?」
ドカ、とトイレ掃除用のモップと私が壁にぶつかる音がしたとき、女子って蹴るんだ、と私は思った。
今まではこうしたもっともらしい虐めはなく、あるとすれば陰口を叩かれたり良くない噂を流されるぐらいだった。だから別に気にはせずに、ただ本を読んでただ授業を受ける生活を送っていたのだが、そんな私にいらついたのだろう、今ではこれだ。
はた迷惑な話だと思う。
要は、そういう類いの嫉妬である。正直私はその意味がこれっぽっちも分からなかったし、奴らに何がしたいのかも全然理解できなかった。好きなアーティストの妹を虐めるファンがどこにいる?
彼女の頭がイカれていることなど分かっている。そんなのは至極当然のことで、だからこれ以上何を思うわけでもない。
彼女の行為を正当化するには、それで十分だったのだ。
「二度と偉そうな口利くんじゃねえ! 分かったな!?」
「......」
それにしてもトイレの掃除道具入れとは酷い。現実にこんなアニメみたいなことがあるのだとは思わなかった。
しかも相手は4人である。これでは反撃の余地がないどころか、反撃する気も起きない。
彼女らは言いたい放題言って、その場から去った。蹴られた腹がとても痛い。
「Shit......」
つい、忘れかけていた言葉が漏れる。
散々だ。
「あ、沙良......どこにいたの? 探したよ」
「......ちょっと、な」
曖昧に濁す。彼女らの狡猾なのは、目立った外傷を残さないことだ。最悪な心境の上、腹まで痛い。痣になっているかも知れない。
けれど、顔も腕も綺麗なままだった。せいぜいあの仕打ちで変わるものは表情ぐらい。
「......沙良、何だか顔色が悪いですよ?」
「え......? いや、気のせいだろ。ちょっと腹が痛くてさ......」
とっさに取り繕ったため、気のせいなのか原因があるのかよく分からない、整合性がない発言をしてしまった。しかし茜はそんなことは気にしない。ちょっとした言葉の綾だと思うぐらいだ。彼女はそれよりも、表情や私の様子全体を気にかけていた。
「......無理しないで下さいね」
「......ああ」
放課後にリンチに合って、茜たち2人にはそれを悟られまいとする。そんな生活がこれ以降も続いた。
そんな毎日の中で私に唯一あったのは、向上心だけ。
スクールカーストなんぞという虚構にすがって戦おうとしない奴らに、勉強だけでも勝ってやろう、そんな考え──ぶっちゃけると、勉強以外にやることがなかった、というのが大きい──で、私は常に本を読むか勉強をするようになった。
そんな生活習慣は変わらないまま、虐めの状態もまた変わらず、あるいはエスカレートしていった。
私が
用事があったわけではない。ただ何となく、そのときの私はパソコンを点けたのだ。気晴らし程度のつもりだった。
普段は殆ど使わないパソコンは、そのディスプレイから映像を、そのスピーカーから音を流していた。
動画サイトをただ惰性で閲覧していた。本当に意味はなく、勉強で疲れた体を休めようとかそのぐらいにしか考えていなかった。
下らない動画を数秒観ては別の動画を再生し、再生しては別のものを
私はどこかのバンドのMVを、間違って再生してしまった。
それは、今流行りの洋楽ロックバンドらしかった。コメント欄でそれを知り、試しに耳を傾ける。それはどちらかと言えばロックバラードで、歌詞は途中まで英語、途中から日本語になった。
──震撼した。
こんな音楽があるのか、と思った。
それは穏やかで、けれど激しくて。
コード進行のことなど何も知らないが、少なくとも私の今まで聴いてきた音楽とは全然違った。
突然ピチカートっぽくなるアコースティックギター。サビから突然掻き鳴らされるエレキと、ドラムが大きく加わっても優美さを失わない一貫性のある曲調。
何より──美しい女性ボーカルの声色。
それらが一体となって、未だかつてないような曲に仕上がっている。
それとも、私が知らなかっただけなのか。
それからと言うもの、『Drealy Machine』の曲を毎日のように聴き続けた。学校での不満や勉強疲れが溜まればその度にイヤホンの中の世界に身を投じた。それが3日になり、1週間になり、1ヶ月になり。
感動は、親しみに。
親しみは、日常に。
日常は、憧れに。
憧れは、やがて羨望に変わった。
なけなしの金でギターを買ったのは、初めて『Drealy Machine』の曲を聴いてからたった2ヶ月後のこと。
私はすぐにそのことを茜と琴羽に話した。
「え、沙良はギターなんて弾けたんですか?」
「......これから弾けるようになるんだよ」
ちょっと照れくさくてぞんざいっぽく吐き捨てる。それから、また思い付いた
「いつかは作曲もしてさ......姉貴にも『Drealy Machine』にも負けないようなバンドを作るんだ......」
「......え?」
琴羽は驚いたようにかくんと顔をこちらに向ける。
「沙良が?」
「あたしがだよ。バンド名は、そうだな......『Starts』なんてどうだ? 格好いいだろ?」
今度は自信満々に言ってみる。言葉にしていく内に、それが現実になっていくような気がしたのだ。
──ん?
ハッと気付いて2人を見たのはすぐ。私は今自分がした結構恥ずかしい発言をその場で思い出し顔を赤くする。勿論自分では見えないが、そうなっているんだと分かる。
茜と琴羽はと言うと、頬を膨らませていた。それが何を表すものなのかぐらい私にも分かる。
2人はすぐに、吹き出した。
「あはは! あははは!」
顕著な笑い方をするのが琴羽。茜は顔を押さえて方をひくひくさせている。
「わ、笑うなよ」
怒りっぽい口調で言おうとするものの、恥ずかしさの方が勝ってしまった。茜は楽しそうに目尻の涙を拭いて付け足す。
「いや......沙良らしいなって......」
「......え?」
その意外な言葉に思わず変な声が出た。
「あはは、じゃあ私と茜がファンクラブ第1号と2号だね! 応援してるよ、沙良頑張れ! あとCDデビューしたらご飯奢って!」
「......」
私は正直とてもびっくりした。声も出なかったぐらいだ。何せ、こんな馬鹿みたいな戯言を2人がこんな風に鵜呑みにするとは思っていたなかったのだから。
けれどやっぱり、2人が私の考えを肯定してくれるとそれだけで嬉しくなった。自分に自信が芽生えたような気持ちになる。
姉貴が音楽で成功していたのを2人は知っていたからだろうか。私は姉貴の力なんて借りるつもりはない。自分の才能でトップに登り詰めるつもりだったし、実際にそうなるんだとこのときは確信していた。
──考え方が甘すぎた、と今なら思える。
現実はそんなに甘くないと言うのに。
あれから6ヶ月が過ぎて、7ヶ月が過ぎて、8ヶ月が過ぎて。
果たして何が変わったのか。思い出されるのは、怠惰にギターの練習を続けた日々。
勉強を言い訳に逃げた。あるいは虐めを、あの陰湿なクラスの空気感を引き合いに出して逃げた。歌も下手クソで、ろくに上手くなりやしない。それを才能のせいにして逃げた。
いつしかそれを思い込んでいた。
憧れは消えないくせに。
何とも自分勝手なことだと思う。
中3になると、エスカレートしたのは虐めだった。その頃には誰も姉貴のことを言い出すことはなく、ただ『岩下沙良だから』という理由だけで皆、私を避けた。
学年が始まった当初、少しだけ仲良くなった女子がいた。そいつもウォーカー作品のファンで、私が『
彼女は少々マニアックで、ちょっと中二病気質だった。ウォーカー作品史上一番の駄作と言われている『プルートの青い鳥』──前作『プルートの待ち人』の前日譚──について初対面の私に熱弁してきたのだ。
彼女となら仲良くなれる、そんな気がしていた私を今ならぶん殴ってやりたいと心から思える。
彼女は間もなくあちら側に寝返った。
いや、と言うより彼女は私のことを知らなかっただけで、もともとあちら側の人間だったのだろう。
何とも間抜けな話だが、そんな間抜けな人間にまで軽蔑されている私は一体何なのだろう。
分からないまま、分かりたくもないまま、勉強と、惰性のギターと茜と琴羽だけが私の救いであり続けた。
私はその頃には結構勉強ができるようになっていて、成績もトップクラスだった。通う塾からは都内1、2位ぐらいの公立高校を受験することを勧められたが、私は星ノ海学園を受けることを決めていた。
比較的自由な校風で、生徒の意志を重んじる、とか何とか。入学したらきっと、歌とギターの練習を今より何倍もできる。そう信じて勉強を続けた。
学校帰りの下駄箱までの道は決まって3人で、5月に中旬の今日も、同じように廊下を歩いていた。
「沙良、テストどうだった?」
「......え?」
琴羽に話題を振られる。
「えっと......まあまあだな」
「また1桁台ですか?」と茜。
「そうなんじゃないか?」
「ふえー」
凄いねぇ、と感心したように付け加える琴羽。琴羽の方は天然だがそれなりに努力家なので、今回も学年上位3割ぐらいだろう。茜はもう少し高いかも知れない。私は一度だけ茜に順位で負けたことがあった。
「あ、沙良」
手を大袈裟にぱちんと叩く動作はここでは琴羽ぐらいしかしない。
「ん、何だ?」
「借りてた本、読み終わったから明日返すね」
「......ああ」
そう言えば琴羽にまたウォーカーの短編集を貸していたことを思い出した。分かった、と答えて下駄箱に到着する。靴を履くと外に出た。
「じゃあ......また明日な」
「ええ、また明日」
「ばいばい、沙良」
小さく手を振って2人に別れを告げると、私はまた2人とは逆方向の門へ向かう。
2人はまだ、私が虐めを受けていることを知らない。私とクラスメイト意外はそのことを知り得ず、何より私が隠した。
もう少しの辛抱だったから。
もう少しで、私はこのじめじめした苔の森みたいな学校から抜け出せるのである。それに、琴羽と茜がいた。残念ながら志望校は2人とも違う──茜のレベルなら星ノ海学園に通えなくもないが、学費の問題なんかで公立を志望しているらしい──が、2人とはきっと卒業後も仲良くできる。そう思っていた。
翌日、琴羽がいなくなるまでは、である。
3日経っても琴羽は学校に来ず、とうとう私たちは琴羽のクラスメイトに話を聞いた。
──彼女は家の都合で引っ越した、とそのクラスメイトたちは言っていた。しかも彼女らもまだよく分かっていないようで、当日まで知らされていなかったんだとか。
はっきり言って意味が分からなかった。琴羽が引っ越しとは一体どういうことなのか、私と茜はやはり職員室に行って琴羽の担任や他の教師に話を聞いたが、誰一人としてその理由や内容を知らなかった。
茜はかなりショックを受けていた。小学生の頃から一緒にいたらしいからそうだろう。私は茜ほど長く琴羽といたわけではなかったが、それでも2年以上を一緒に過ごしていたんだから少なからずショックを受けた。
けれど、何も分からなかったのだ。
どこにも、どこを探しても琴羽はいなかった。彼女がどこにいるのかを知ったのは、私が一度人生をやり直してからだったのだ。つまりここから1、2年後。
この一件で分かったことと変わったことがあった。
分かったことは、私と茜はそこまで馬が合うというわけでもなかったということ。そもそも琴羽という原子で例えるなら炭素かケイ素みたいな人間がいたからこそ私と茜は仲良くなれたわけで、彼女がいなくなった途端に私と茜の間には見えない壁みたいなものができた。
あるいは。
壁なんてないのに、距離感が分からなくなってしまったのかも知れない。
結果的に、私は気の置けないと言える程の友人を失ってしまった。茜とはクラスも違うせいでだんだん疎遠になり、やがて週に一回喋るか喋らないかぐらいになった。それが変わったこと。
琴羽がいなくなってから、10ヶ月経ったときのことだった。茜が珍しく廊下で私を待っていて、けれどどうして私はそのことに驚きはしても、喜んだり嬉しいと思ったりすることができないのだろうか。
今日はまた腹を殴られたからだろうか。
世界に進出した
もともとは私が望んだことのはずなのに、今はこのことを取り繕うのが嫌になっている。
「おう......茜、どうした?」
できる限り感情を隠して、愛想笑いをして尋ねる。彼女はおかしなことを言い出した。
「沙良......実は私、星ノ海学園に入学することになりました」
「......へ?」
それは、余りにも突然な報告。最初は私が星ノ海学園に合格したことに関して何かの言及をしているのかと思ったが、いくらかの反芻によりそうではないことは分かる。
「......それって?」
「......詳しくは言えないんですが、急遽星ノ海学園に入学することになって......」
「......そ、そうなのか?」
こくりと頷く茜。何とも間抜けな聞き方になってしまったが、しかしそうなって仕方ないぐらいには私はびっくりしていた。
「ええ、なのでその報告を......それだけです」
「......そうか。そりゃあ、おめでとう?」
私は意外にも複雑な気持ちにならなかった。努力して合格した学校に茜が入学すると聞いても、驚きの方が勝ってしまったのか、それとも茜にはそれだけの実力があると思っていたからか、祝福の言葉を気付けば贈っていた。
勿論、生徒会メンバーとして能力者なるスピリチュアルな存在と対峙するために入学することになったのだとは思わなかった。琴羽や茜の能力なんて知っているはずもなかった。
何にせよ、である。
そうか、私はそこで気付く。
茜がいようがいまいが、努力して合格したことには変わりないし、何より目的は果たされたのだ。
星ノ海学園で、私を"Alisa"の妹として虐めてくる人間のいない環境で、歌とギターを思う存分練習する。そしてメジャーデビューする。
そう考えていた。
依然、甘い考えは取り払われていないままで。
──そして今、私はこんな真っ暗な部屋で廃人になってしまっている。こんな生活を続けてもう1ヶ月以上。前髪がまた伸びたが、切る気も起きない。
まさか、高校に入っても同じことが繰り返されるとは思いもしないだろう。どころかまさか、あれより酷いとは思ってもみなかった。
思えば、学園に入ったのが間違いだったのだろう。
虐めの主犯の女子が入学してきた。あんなやつの成績が良いこと自体信じられないのに、彼女は首席で合格したのだ。
性格の悪い──あるいは信じ込みやすい人間が自分の敵になって、しかもリーダーシップや人間的魅力を表では持ち合わせていたら?
私はクラスどころか、学年での立場も失った。謂れのない噂話が立ったり、中学のとき以上に陰湿なやり口で孤立させられたりした。
茜もとうとう気付いたみたいだったが、そのときにはもう遅かった。
軽音部に入ってみたものの、周りと比べられて、あるいはあの虐めが大部分の原因で、私はボロクソに言われた。歌が下手、ギターも下手、耳障り、目障り。
もう以前のように、人前で歌うことに、誰かを感動させることに憧れを抱けなくなってしまった。
どうして私にはできないのか。
元はと言えば、姉貴がAlisaだったからじゃないのか。姉貴のせいで私は虐められ、敵が増え、軽音にも仲間ができない。歌を歌っても姉貴と比べられ、ギターも下手で、どころか私は琴羽も茜も──唯一の心の拠り所も失ってしまった。勉強は学園に入るための手段だった。
入ってみたらこれ。
さて、何が残ってる?
私には何が残っているのだろうか。
その答えは『略奪』能力ではなかった。私はまだそのことを知らなかったのだから。
この場合の正しい答えは。
──何もない、だった。
テレビを見れば、才能あるアーティストが何人も、大手音楽番組で人々の心を鷲掴みにしていた。しかも、それはあろうことか私の心まで揺さぶるのだ。
その番組に出ている彼女は──まだ16ではないか。
私は無理だとそのとき確信した。
手遅れなんだと。
鉄塔の上に立っている大きな理由は、この人生に嫌気が差してしまったことだろう。虐めは残忍で、実のところ全てを放棄したくなる程エスカレートしていた。
要は、よくある中高生の自殺の原因と同じ。
私の場合、
心の支えまでなくなって、私には何もない。
乱流する川の堤防がなくなったみたいなもので、気付けば辺りは倒壊していた。
もう、取り返しがつかなかった。
私はそこから飛び下りた。
私は空を見上げながら落ちていた。
あの暗い空に手を伸ばしてみる。
走馬灯とはこういうものなのか、と実感する。そこには茜と琴羽、姉や弟の姿が映っていた。
そして私は、父の顔を思い出した。どうしてだろうか。
母の隣にいた彼の頬には痣があった。えくぼの綺麗な男性。
今更になって、考えてしまった。
私は何をしただろうか。何か努力をしただろうか。
早すぎる決断ではなかっただろうか。
ギターや歌が下手なのを姉のせいにして、才能のせいにして、虐めのせいにして、投げ出しはしなかっただろうか。
けれど私は落ちている。もう戻れない。
瞳から溢れた涙が天に昇っていく。視界の端に、私の髪が見えた。
私はまだ懲りずに、何で私が、私だけ、と考えていた。何かを憎んで、神を恨み続けていた。
途端に消えていく意識。と言うよりは、まるで現実が形はそのままにぼやけていくような感じだった。例えるなら夢みたいな。
ざわめく木々、吹き付ける風、冷たく消え行く体。重力は私の体を加速させていく。そして、なのに恐怖も呼吸も消えてしまっているみたいだった。
死とはこういうものなのか、と思った。
やがて、色も消える。真っ暗な闇は真っ暗のままで、金色の月は白い色に、風景が全て白黒になってしまった。
気付けば落ちていた。痛みはこれっぽっちもなかった。
──最後に見た
諸事情により沙良は16歳で飲酒をしていますが、ダメ、ゼッタイ。です。お酒は20歳から。成人年齢が変わっても、お酒は20歳からです。