Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
7分割を統合しただけで内容は同じです。
既に読んだ方は続きからで支障ありません。
天然の未です。
CBA第二話を完成させました。
サブタイトルは、「偽物の歌」。
僕は原作に則り、第一話の投稿時点で全十四話まで+αの全てのサブタイトルを発表いたしましたが、都合上プロローグの前書きに移動させました。
ご了承下さい。
なお、先述の通りCharlotte Bravely Again(st)のタイトルは全て発表しましたが、続編であるCharlotte Done Edition(s)のタイトルは未定です。
ただし、シナリオは出来上がっております。
投稿ペースは出来るだけ上げていきたいと思っておりますが、何かと遅れてしまうことがあるかもしれません。
そちらも、申し訳ございません。
では、CBA、第二話に突入です。
夢を見ていることだけが、分かる。
その理由は、明白だ。
典型的な、夢の中の、真っ白な世界。
そこに俺はいる。
蝋燭の、消えかけの火のように、すぐにでも消えてしまいそうな白い世界。
理想の世界。
辺り一面、なんて言う言葉が通用しないのは、真横にも真上にも限りなく白い世界が続いているのに、進める道が前か後ろしかないからだろうか。
そういう世界なのだ。
そういう仕組みなのだ。
過去は変えられないから。
変えてはいけないから。
そして、ここがたとえ夢の中であっても、そのルールにだけは則らなければならない。
隣にあるもう一つの道には、決して近付けない。
こえがきこえた。
幼い、ふたつのこえ。
こえのした方を見た。
この真っ直ぐな白い道の、後ろを振り返った。
ひとつは男の子のもので、もうひとつは......
そうか。
彼女は、あの男の子の妹だ。
幼い、ふたりの子。
幼い、ふたりの兄妹。
それが分かってしまうのは、夢の中だからだろうか。
妹のほうが、兄に話しかけた。
「ねえ、おにいちゃん。あそぼうよ」
小学校2年生くらいの少女。
「あとでな」
そう答えた兄は、小学校3年生くらいだ。
不思議だった。
年齢も性別も識別できるのに、顔は見えない。こえはきこえても、その内容しか届かない。こえの質とか、こえの高さとかは、分からないのだ。......ただ、小学生の兄妹である、ということだけが分かる。
瞬間、兄の方が、こちらに進んできた。
妹は、付いては来ず、しかし兄を引き留めようとした。こえを出した。行かないで、と。
兄は、一度も振り向かなかった。
何も、無視をしたわけではない。
妹のこえが、聞こえなかったのだ。
その理由が、夕輝には分からなかった。
彼は俺に近付いて、近付いて、近付いて。
重なった。
おにいちゃん、おにいちゃん。
妹は目を擦りながら泣いている。
おにいちゃん、おにいちゃん。
「......ちゃん......兄ちゃん、朝だよ」
声が聞こえた。
「......ん」
夕輝は、目覚めたようだ。瞼が上手く持ち上がらない。カーテンを両側に開いた小さな窓から差し込む光が、瞳を閉じていても眩しすぎるくらいだった。数秒後、やっと目がそれに慣れてくると、今度は体の重いことに気が付いた。どんな日でも、寝起きは辛い。うーん、と布団のなかで伸びをすると、夕輝は上から自分を見ていた妹の春に「おはよう」と挨拶をし、リビングへ出た。
「いただきます」
「いただきます」
朝が来てしまった。音永家の兄妹は、どちらが決めたわけでもなく、朝晩の食事を共にすることになっている。で、今日の朝食にも早速、気になるところがあった。
「春」
「何?」
「これは、何だ?」
和食用の皿に盛り付けられているのは、頭から尻尾までを丸ごと焼かれ、ところどころ切れ目が入った魚。こんがりと香ばしい匂いに、見ただけで分かるパリパリの皮。そのところどころがちらちらと青く、LEDの光を反射する。
「何、って、兄ちゃん、サンマも知らないの?」
「いや、サンマは知ってるな。ただ、旬でもないのにサンマを出すなんて、魚にこだわりのあるお前にしては珍しいな、と思ったんだ」
夕輝がそう言うと、妹は兄を、可哀想な人間を見るような、冷たい目で見てきた。
「兄ちゃん、春サンマも知らないの?」
「春サンマ......?」
初めて聞いたその名前に、夕輝は少し不思議な感覚を覚えた。春のサンマ。春に食べるサンマ? 春秋刀魚? 歴史の授業にでも出てきそうな名前である。
「神奈川の、葉山の方でとれるんだよ。これがもう、美味しいの何のって」
「......そんなに旨いのか?」
春が魚のことを話すと、妙に説得力がある。何だかこの目の前にある焼き魚が、必死に探した末に見つけた宝物のように輝いている気がする。
「うん、脂身は少ないけど、兄ちゃん、そのくらいさっぱりしてた方が好みでしょ?この香りがまた食欲をそそって......」
うんうん。やはり、持つべきものは妹だ。それも、理解のある。夕輝は、すぐにその春サンマにかぶりついた。
「じゃあ、先行くな」
そう言って、夕輝は家を出た。6月22日、金曜日。すぐ隣に自分が通学する学校の見えるのが何だか新鮮で、夕輝は肺が破裂するのではないかという程、大きく息を吸い、そして今度は肺が縮んで心臓程の大きさになる程に、深く吐いた。ここの空気はとても美味い。
エレベーターを下り、エントランスから外に出る。隣を見ればすぐそこに、星ノ海学園がある。道を少し歩くと、丁度横断歩道を渡ってきたあの男と遭遇した。
「おーい、夕輝!」
その声は、楽観的で親しみのある、そして少し馬鹿っぽいものだった。思うより先に声のした方を振り向くと、笑顔で走ってくる深山巧がいた。その眼は青色で淀みがなく、その髪は......青色の中に、赤色が微妙に混じっている。
「うおあぁぁぁっ!」
人通りの多い街中で、思わず大声を出してしまった。こんな朝から、ホラー映画でも見たような、恐怖をまとった声。それもそのはず。
「......おい、夕輝? お前、どうした?」
巧の目に映る音永夕輝は、こんな道端で尻もちをついていた。巧は彼に近付いた。
「どうした、って、それはこっちの台詞だ! ......お前、その体、どうしたんだよ!」
「え?」
対して、夕輝の目に映る深山巧は、こんな道端で......頭から血を流し、半袖の制服から覗く右腕は青白く、左腕は明後日の方向に折れている。
「ああ、これか? 何、気にすんなよ。大分治ってきたところなんだ」
治ってきた、とは一体何だろう。夕輝は巧が理解できなかった。
「いや......間違いなく致命傷だろ! 救急車、呼ばなくて良いのか!?」
夕輝が本気で彼を心配すると、しかしその当人は逆に、物凄く、きょとん、としていた。
「あれ......。もしかして夕輝、昨日聞かなかったのか?」
「......? 何を」
まさか、これが巧の特殊能力である、とでも言うのだろうか。自然治癒強化能力とか、身体強化能力とか、そういう類いだろうか。
「俺の能力。『不死』。俺、死なねえの。ほら、立てよ」
「......は?」
予想は確かに的中したが、しかし何と言うか......思っていた以上に、ただの最強なだけの能力だった。死なない能力。
「いや、気持ちは分かるぞ? 俺なんてこの能力をまだ知らなかったときに警察から逃げてた車に轢かれて、そんときは本当に死んだと思ったんだ。近くにいた人が救急車を呼んでくれたんだが、救急車が来るより前に、骨が繋がって、腫れが治まって、傷が塞がって......気付いたら、完全に元通りよ。唖然としてる俺に、松山先輩が近付いてきて......まだ2か月前のことだぞ?」
なんて恐ろしい話だろう、と夕輝は思った。何より、もし巧以外の人間だったら、と考えると、それだけでぞっとする。
「おい、夕輝。今、轢かれたのがこいつでよかった、とか考えなかったか?」
勘は鋭かった。全く、頭が良いんだか、悪いんだか。
「いや、そんなことはない」
出来るだけ真顔になるよう努めて、返事をした。
「それはそうと、災難だったな」
そう言って巧の方を見ると、もう既に傷痕のひとつも見当たらなかった。
「ああ、まあな」
巧は、楽しそうな顔で夕輝を見た。そのとき、夕輝にはひとつの、ある疑問が生まれたので、すぐに巧に聞いてみた。
「ってか、『死なない』って、代謝はするのか? するよな?」
夕輝がそう尋ねると、彼はぽかん、と口を開けて、一瞬考える。
「たいしゃ? ああ......するんじゃないか?」
「お前、絶対分かってないだろ」
瞬時にそう返すと、巧の体からギクッ、と骨が折れたような大きな音が聴こえた。どうやら図星なようなので、夕輝は自分の言葉に説明を加えた。
「......だから、分かりやすく言うと......不死身でも、歳はとるんだよな?」
今度は代わって、巧の頭からピン、と音が聴こえた。
「ああ、何だ、そういうことか。勿論、歳はとるさ」
「じゃあ、お前は寿命で死ぬことは出来るんだよな?」
心配そうにそう聞く夕輝に対して、巧は、夕輝のその言葉が不思議だった。死ぬことが『出来る』とは、おかしな表現だ。
「ああ、それも勿論。だって、特殊能力は思春期が過ぎればなくなるんだからな。もしそうじゃなきゃ......不老不死になっちまうのか?」
能天気に巧がこちらを見た。夕輝は初耳の事実を聞かされ、また不思議に思った。特殊能力が思春期の少年少女に宿るとは聞いたが、思春期が過ぎればなくなるとは聞かされていなかった。そんなことを思いながらも、夕輝は巧のひとつ前の言葉にこう答えた。
「......もしそうだとしたら......怖すぎる」
「......怖い......って、不老不死になるのがか? そりゃまた何でだよ?」
何も分かっていない、という顔で、巧は夕輝にそう聞いた。夕輝は歩きながら、声に抑揚をつけて説明する。
「よく考えてみろよ。不老不死になるってことは、この先、1000年も10000年も、その先もずっと生き続ける、ってことになるだろ?」
「ああ、なるな」
「ってことは、人類が滅んだ後も、生物が全て滅んだ後も、地球が消滅した後も、ずっと生きている、ってことになるよな?」
「......なるな」
「それってつまり、永遠に孤独のまま、宇宙空間を漂ったりすることになるかも知れないだろ?」
「......そう、なるのか」
「まして、さっきの話によると、怪我は一旦はする。ってことは、例えば宇宙空間で酸素がなくて苦しいのに、永遠に死ねない、とかってことにならないか?」
巧の顔が、みるみる青くなっていく。
「......! 夕輝......お前、やっぱり頭良いんだな! 確かにそれは怖すぎる!」
残念ながら、感想だけが割りと馬鹿だった。驚いているのも、言いたいことも、彼の若干上ずった声から十分伝わってくるのだが、しかし彼には語彙力がないようだ。
「ああー! 良かったあー! ただの死なない能力で良かったあー!」
巧は、先程の夕輝の何倍も大きい声で、そう叫んだ。
そうして、そんな何でもない会話をしているうちに、学校はすぐそこだった。下駄箱で靴を替え、廊下を歩き、階段を昇るとすぐそこに、夕輝と巧のクラス、1年1組があった。夕輝は、ガラガラ、と左の扉をやる気なく開いた。生徒会に入ったことによってクラスを移動してしまったため、このクラスには生徒会のメンバー以外、知り合いがいない。生徒会のメンバーでさえ、昨日知り合ったばかりで、特に親しいわけでもない。憂鬱な気分で教室に入った。
と、その教室に入った瞬間、目の前から、3つほどの、黄色い声が夕輝の耳に届いてきた。
「沙良ちゃん、凄いね!」
「うんうん、昨日YouChooseに上がってた新曲も、物凄くかっこ良かったし!」
「それに、今度、アメリカでライブやるんでしょ?」
3人の制服女子が、1人の赤髪の少女を取り囲んでいた。あれは......そう、岩下沙良だ。昨日、生徒会で見た、あの。一体、何の話だろうか。新曲、とは何のことだろう。
「今日も沙良は人気だなぁ」
隣にいた深山巧が、少し楽しそうにそう言った。夕輝は気になったので、その巧に聞いてみた。
「なあ、深山。あの岩下沙良ってのは、有名人なのか?」
すると、一瞬にして巧のその顔が、ぞっ、と恐ろしいものを見る目に変わった。何と言うか......明らかに、引いている。
「え? お前......沙良のこと、知らねえの?」
夕輝が軽く「ああ」と答えると、巧は驚いた表情でこちらを見てくる。
「マジかよ......。お前、時代遅れもいいとこだぞ......」
「......そんなに、有名なのか?」
自分に常識がないことを、夕輝は知っていた。夕輝は少々、世間とずれているところがある。彼はあまりバラエティ番組を観ないし、唯一見ているニュースも、何かの特集になってしまうと、すぐにチャンネルを変えるか消してしまう。アニメやその他のものも観ないし、無料動画サイトのYouChooseだってほぼ観ない。娯楽というもので言うと、強いて言うなら最近、ラノベというものを読み始めた、というくらいだ。妹にさんざん勧められた挙げ句、貸すから、と言われて渋々読み始めたが、なかなか面白い。序盤で仲間になるスライムのスライまるは主人公と同じく人間の世界から召喚されてきたのだが、召喚の途中でバグのようなものが起こり、何故かスライムになってしまった、という設定になっている。このバグの正体が実は後で重要な物語の鍵になるらしく、その伏線の張り方、回収の仕方、そしてその内容が幾度となく想像の斜め上を行き、瞬く間に話題になった人気作品。夕輝もまた、その面白さにのめり込んでいる最中だった。しかしながら、やはりそれくらいで、夕輝は普段有名人とか芸能人とかを知る機会の少ない少年だった。
「沙良は凄いんだぜ? 2年前、まだ中2のときにYouChooseに上げた、自分が作詞作曲した曲を歌う動画がいきなり口コミで広がって、初投稿の動画なのに100万再生になったんだ」
「100万ってのは、凄いのか?」
「そりゃ勿論。その動画だけで10万円稼げるくらいさ......。それから、あいつが、自分の創った曲を動画にしてネットに上げる度、だんだん再生回数が増えて、有名になって......。今じゃ、色んな名誉のある賞も受賞してる、世界的なアーティストだ」
巧は何だか、自分のことのように楽しそうに嬉しそうに沙良について語る。
「それは......知らなかったな」
「昨日生徒会室に入ってきたときも、お前沙良にあんまり驚いてないなとは思ったんだ。でも、まさか、知らないなんて思いもしなかった」
まだ少し、驚きの目でこちらを見ているのが分かる。
「ってか......お前、あいつと仲悪いんじゃなかったのか?」
「え?」
今度は急に何を言い出すのかと、巧はそんな表情で夕輝を見た。変な話だが、半ば言い訳みたいに夕輝は続けた。
「いや、だってお前昨日、あいつととなかなかいがみ合ってたじゃないか」
すると、巧は一瞬、何を言われたのか分からないようにぽかんと口を開け、しかしその後すぐに、教室の全体に響き渡るくらいの大きな声で、陽気に笑った。急に笑われたので夕輝は、「な、何で笑うんだよ」と自分に後ろめたい部分があるみたいに恥ずかしそうに聞いた。若干、目に滲んだ涙を拭きながら、巧は言った。
「いや......あんなの、ただのノリみたいなもんだぜ? 別に、俺だって本気で怒ってた訳でもないぞ?」
「......そうなのか?」
そう言われると夕輝は、今度はしっかりと、少し恥ずかしいような気分になった。巧はあれを社交辞令のようなものだと理解していたようだ。......だとしたら、この深山巧という男、相当ツッコミにキレがあるな、と夕輝はそう思った。どうやら、ただの馬鹿でもないのかも知れない。
「あ、そうだ」
「どうした?」
どうやら話題が変わるらしいことが分かったので、尋ねてみる。返ってきた言葉はこうだった。
「深山じゃなくて、巧な」
「え?」
唐突にそう言われ、思うより先に声が出たあたりで、その意味を理解したが、結局巧が言ってくれた。
「呼び方。名字じゃ、なんかよそよそしいだろ?」
「まあ、確かにな......。じゃ、巧な」
「おう」
そう言うと2人は、それぞれの席に移動した。その途中夕輝は、その岩下沙良と目が合って、そして彼女はにこり、と優しく笑った。何だか、その目からは優しさと共に妙な悲しみが伝わってくるようで、夕輝は少し不思議な気持ちになった。
窓側一番後ろの自分の席につくと、夕輝の耳には前の方からの話し声が聞こえた。......しかし何というか、他の席からも色々な会話が聞こえるのに、隣の列の一番前の席に座る彼女の声が真っ先に入ってきたのはどうしてだろう。友利茜の声。いつの間にか夕輝は、彼女を見ていた。彼女は、髪の長い白柳雪も含めた友達3人程と談笑をしていた。唇の動きが妙に滑らかに感じられ、心地よい気分になる。長すぎないポニーテールをくるくるといじくるその姿にも、何だか親しみが湧いた。まして、彼女は夕輝の側の横向きに座っていたため、目が合うのも時間の問題だった。
「......」
夕輝は、自分が彼女を見つめていたことにすら気付いていなかったため、数秒経ってからやっと、夕輝は動物園に来た客から動物園の動物になり、彼女の何かおかしなものを見ているような目線に気付いた。そして、しかし何と言うこともなく目をそらした。
ただ、不思議な気持ちでいたことだけを覚えている。
チャイムが6限の終了を知らせた。
教室に夕輝はいない。
この日夕輝は、午前中は普通に授業を受けると、昼食は巧と食堂でとった。巧は4限の終わりを知らせるチャイムが鳴るとすぐに席を立ち、そして夕輝の席まで走ってくると、こう言った。
「おい、夕輝! 行くぞ!」
まだノートを取っていた夕輝は、目の前にいつの間にかいた巧に突然そんなことを言われ、少し驚く。
「うおっ。......何だ、巧か。『行く』って、どこに?」
巧は早口で、駆け足をしながら答えた。
「食堂だよ! 早くしないと売り切れるぞ、牛タンカレー!」
「......牛タンカレー?」
と、聞いてみたものの、夕輝はその名を知っていた。星ノ海学園が誇る、伝説の牛タンカレー。そのカレーを食べたが最後、他のカレーは一切食べられなくなる、とも言われている至福のカレー。スパイスと野菜、果実の甘味が程よく調和したコクのある旨味たっぷりのカレーで、甘ったるくなく適度に軽くちょっとした高級レストランで出てくるような味らしい。そのルーと一緒に大ぶりの牛タンがとろっとろになるまで煮込まれているのも特徴で、学園の設立当初から現在までの長い間、学生たちの中で常にナンバーワンの人気を誇っているのだ。
「何で、俺?」
「いいから、早く行くぞ!」
「......」
少し考えて、夕輝は席を立った。4限の、数学のノートを取っている途中ではあったが、大抵4限から5限の間の黒板は、5限の教師が教室に入ってきて、日直に消せと注意するまで誰も消さない。仮に消されてしまったとしても、そのときは巧か誰かにノートを写させてもらえばいい。そう思考が働いたからだった。
「飛ぶぞ」と巧は言った。教室を出て少し走り、階段に差し掛かったときだった。食堂に行くにはその長い階段を降らなければならなず、階段は普通の学校と同じようにいくらか降れば交差している仕組みになっていたので、時間短縮を図った巧は、平然とそう口にしたのだった。
巧は、誤った転落を防ぐための高いしきりによじ登り、そこから勢いよくジャンプをした。
「え? おい!」
夕輝の叫びも虚しく、下の方で悲鳴が聞こえた。悲鳴というのは、主に同じく牛タンカレーを狙っていた男子たちのもの。血まみれになった巧の体が、容易に想像できた。夕輝は慌てて階段を降っていったが、巧は既に移動したようだった。その証拠に、殺人事件のような血の痕だけが残っていた。前言撤回。あいつはただの馬鹿だった。
やっとのことで食堂に到着すると、遠くの方から声が聞こえた。
「おーい! 夕輝ー!」
先程、階段を故意に転落していった阿呆の声だった。声が遠かったため、声の方向で巧を識別することは出来なかったが、周囲の、異様なものを見るような目が、巧の場所を教えていた。食堂が大手ショッピングセンターのフードコートくらい広かったので、その分巧を見る目も多かった。視線の集中する方向に向かうと、頭のてっぺんから血が出た、そして足が片方、絶対に曲がるはずのない方向に90度曲がっている男が1人、座っていた。
「お、夕輝。やっと来たか」
何もなかったような顔をして、救急車1台分の致命傷を食らった深山巧が夕輝に声をかける。夕輝はすぐに巧のいる席に向かった。
「お前、よくそれ、平気でいられるよな......」
巧が折った骨を指差していた夕輝は、何と言うか、巧という存在が今一理解できなかった。いくら死なないとは言え、骨折するのは痛くはないのだろうか。
「あ、これか? 別に気にすんなって、もう治るからさ。それより、ほら、早く食おうぜ。お前の分も確保しといたからさ」
2人分の白い机には、椅子に対応してカレーが置いてあった。まだ出来上がったばかりのホカホカの牛タンカレーから出た湯気が、食欲をそそる甘辛い香りを夕輝の鼻孔に運んだ。思わず、ごくり、とよだれが出てしまった程だった。夕輝はしかし、何となくそれがばれたくないという、児がそら寝をしたときのような思考が働いたため、ゆっくりと、平然を装って座った。
初めて食べる牛タンカレー。歴史ある、牛タンカレー。肉......。
「あ、お前、金はちゃんと払えよ? 450円な」
目の前の美味しそうなカレーに目を奪われていたので、巧にそう言われるまで代金のことに頭がいっていなかった。おっと、と思いつつ牛タンカレー代を巧に払うと、夕輝はゆっくりと手を合わせ、続いて巧も同じ動作をし、そして同時に言った。
「いただきます」
食事を終え、夕輝はその空の食器を返却口に返した。噂に聞いていた通り、その牛タンカレーは本当に美味しかった。恐らくどんなに研究を重ねても、家庭であの味以上のものは作れないだろう。そういう味だった。隣の青髪も、たいそう満足げだ。致命傷もしっかりと治っているのが怖い。
「ありがとな、巧。肉なんて、久々に食ったよ」
「え? ......ひょっとしてお前んち、貧乏?」
夕輝は特に何も考えずにそう言ったのだが、どうやら巧に勘違いされてしまったようだ。
「いや、そうじゃなくて......。その、あれだ......俺ん家、魚しか出ないんだよ」
少し疑わしそうに、そして睨むような目付きで、巧はこちらを見てきた。
「本当か?」
本当ではあるのだが、「妹に食事を作らせている」ということを知られたくなかったため少し考えてしまったことが、結果的に夕輝を追い詰めた。
「本当さ。だって俺、少しも貧乏に見えないだろ?」
そう夕輝が言うと、巧は先程まで目の前にあった顔を少し遠ざけてみて、考えた。「うーん」と、目は未だ夕輝をじろじろと観察していたが、数秒間の後、
「ま、それもそうだな」
と言って、その視線から夕輝を解放してくれた。そして、付け足すようにこう言った。
「でも世の中にゃ、意外と身近な場所に貧乏なやつがいたりするんだぜ」
「? ああ」
夕輝は巧の言葉を特に注意深く聞いたわけではなかったが、そこには何となく気になるものがあった。しかし、そのことには夕輝自身も気付かなかった。例えるなら、雨の日に靴下がじわじわと濡れていくときの不快感のような、壁に掛かった絵画が微妙にずれているときの違和感のような、そういう意識しなければわからない程度のものだった。夕輝はそのまま、ただ何を考えるわけでもなく歩いた。昼食も取り適度に休憩も出来たので、後は教室に戻る、というプログラムが彼の頭の、考えていない部分に出来ていたのだ。そして巧もまた、夕輝に続くように教室に戻ろうとしていた。
そのとき。
「ふおっ」
巧がおかしな声を出した。それは、背後からこそっとやってきた友人に脇腹をつつかれたときの、とっさに出た声にも似ていた。そして、その刹那の間に、今度は巧の右の太ももが小刻みに震えているのが分かった。......スマホのバイブレーションだった。
「お、茜からだ」
「気持ち悪い声出すなよな......」
巧は夕輝の言葉など気にすることもなく、電話に出た。
「もしもーし。......そうか、すぐ行く。夕輝も連れてくぞ。......ああ」
そこまで言うと巧はスマホの画面を一度だけタップし、蓋を閉じるとポケットに入れた。
「というわけで、夕輝、行くぞ」
「え? どこに......?」
「そりゃあ、生徒会室だろうよ」
巧は、いかにも普通の顔をしてそう告げる。夕輝はまた、この学校の生徒会が分からなくなった。午後のこの時間に、集会でもするのだろうか。
「もうすぐ、授業始まるぞ?」
夕輝の言葉にすかさず巧は答えた。
「授業なんて、後回しだ」
「え?」
今彼は何と言っただろうか。授業が後回し。即ち、授業をばっくれてまで会議か何かに行かなければならない、ということだろうか。......生徒会とは、そういう組織なのか?
「ほら、早く行くぞ」
巧が早くしろと急かすのに対し、夕輝は状況を整理しようとしていた。
「待ってくれよ、今から俺たちは会議でもするのか?」
「え? ......いや、会議なんてしないさ」
「じゃあ、何で」
「そりゃ、能力者が現れたからだろ」
巧は依然として、平然とした顔でこちらを見ていた。夕輝はというと、そう言われて初めて、彼の言っている意味を理解した。
「要は......そいつを保護しに行く、と?」
「ああ、勿論。必ずしも保護とは限らないがな。......さっ、急ごうぜ。早くしないと、また松山先輩に怒られる」
そう言った巧は、食堂の出口からダッシュを始めた。夕輝も、彼が走り始めてしまえば付いていくしかないので、走った。授業を受けなければならない、という気持ちもあるが......昨日の話を聞いた上でとなると、夕輝も引くに引けなかった。
残り時間をぐっと押し流す様に、ゆっくりとチャイムが鳴った。
生徒会室の重い扉を開くと、そこには既に4人いた。
「遅いですよ、2人とも」
低く根暗な印象の声で、奥に座っている松山が言った。赤の少女は足を組んで椅子に腰掛け、薄い黒の少女は前で両手を重ね、クリーム色が印象的な少女は、その碧眼を夕輝に向けながら、何かを食べていた。あれは......豚キムチだろうか。
「ごめんな先輩。で、能力者は?」
むすっとした表情を松山がする。その口は顔の前で組まれた2つの手によってよく見えないのだが、それなのに松山からは何となく表情が読み取れるので面白い。
「全く、反省してるんですかね......」
そう言いながらも松山は、丁寧な口調で説明を始めた。
「......今回の能力は、『先入』です」
「先入? どんな能力です?」
真っ先に反応したのは、友利茜。口の中に入った豚キムチを頬の方に寄せ、器用に喋った。但し、そのせいで彼女の頬はリスのそれのように、ぷくうと膨らんでいる。
「先入能力......。言わば、催眠術のようなものです」
「サイミンジュツ? そいつぁファンタスティックだな」
岩下沙良も興味を持ったようで、その単語を聞いた途端にピクリと肩を動かし、そして松山の話に食い付いた。
「ええ。具体的には、他人に言い聞かせたことを、本当であろうと嘘であろうと強制的に思い込ませる、というもの......。なかなか、強力ですね」
「マジかよ! ヤバいな! ファンタスティックだな!」
「言ってることがあたしと被ってるぞ」
またもそんな愉快な会話が聞こえる中、開いたのは......
「でも、会長」
「何です?」
白柳雪の細く紅い唇だった。
「その......先入能力っていうのは、端から見たら分からないものなんじゃないですかね? 科学者に見つけられる危険性はないんじゃありませんか?」
素朴な疑問、という感じだった。確かに彼女の言う通り、端から見てそんな能力に気付ける人間がいるとは思えない。......しかし、その意見はすぐに覆された。
「それは違いますよ、雪」
但し、それは友利茜によって。
「そもそも、能力者の存在自体が、本来ならあってはならないものなんです。例えばですが今回の能力者が、自らの能力を悪用すれば......過激な考えを持った集団だって作ることができますし、他人を意のままに操ることだって容易いでしょう」
「確かに......そうかも知れませんね」
雪の応答を飲み込みつつ、彼女は続ける。
「まして、科学者が能力者を仲間にしないとは限りません。例えば、科学者が会長のような能力者を仲間にしてしまったら......想像はつきますね?」
なるほど。茜の言葉は、核心をついている。一方で、それらを全て茜に言われてしまった松山は、ため息を吐きながらもその内容を包括するように、
「そういうことです」と溢した。
「さ、そうと分かれば、早速行きましょう」
彼女はどういう立場なのだろうか。もはや、生徒会長である松山を差し置いてリーダー? それとも、れっきとした副会長という立場なのだろうか? 友利茜は豚キムチを食べ終わると、夕輝たちの先頭を切る。
「皆さん、気を付けて」
そのとき松山が自分たちを見送ったことが、夕輝には奇妙だった。
「ん? あんたは行かないのか?」
彼にとっては素朴な疑問だったのだが、他のメンバーたちにとっては、慣れっこという感じだった。
「会長には、その......体力が、絶望的になくて......」
こそっ、と微かな声で、しかしながらダイレクトで辛辣な形容の仕方でそう教えてくれたのは白柳雪。彼女は人差し指で耳たぶを掻き、苦笑いしていた。
「何か言いましたか?」
背中に松山の視線が刺さったので、「いえ、何も」と慌てて彼女は誤魔化した。どうやら、松山にとってその事実はコンプレックスらしい。5人はそそくさと生徒会室から出ると、ばたんと勢いよく扉を閉めた。
「なあ、具体的に、俺たちは今から何をするんだ?」
夕輝は茜にそう尋ねてみた。
「百聞は一見に如かず。実際やってみれば分かりますよ」
夕輝の疑問に対し茜は、そんな風に答えてくれた。結局分からず仕舞いだったが、もうすぐ分かるんだろうと思ってそれ以上は聞かなかった。
午後1時半。夕輝たちは今、目的地の最寄り駅から出たところだった。日照りが適度に心地よい、6月の街。人通りはあまりなく、整備された道路が真っ直ぐ向こうに、どこまでも続いていた。隣では大きな会社のビルたちが、誕生日の蝋燭のようにどれも同じ高さに並んでいる。その中には、最近CMでよく見かける『白柳ホールディングス』の子会社もあった。......この時間、こんなところをほっつき歩いているのは夕輝たちくらいで、あとは、杖をつく2人組のおばあさんたちか、汗を流しながら歩く、まだ若いサラリーマンの男性か、鳩の1羽2羽くらいだった。
「こっちですね」
茜が一通り周りの建物やら何やらとスマホの地図とを見比べて、あの道路に沿った方向を指差した。松山が事前に知らせていた場所はあちらの方にあるらしい。
歩いておよそ20分。夕輝たちは能力者のいる小森山高校に到着した。あの道路に沿ってしばらく歩いたあと、細い道に入ってからが大変だった。とにかく上り坂の連続。高校を見つけたあとも、唯一開いている門が夕輝たちの反対側にあったせいで、外の敷地を1度ぐるりと回らなければならなかった。
「やっと、到着しましたね」
「ぼっろい高校だなぁ」
「歴史ある、とも言いますね」
隣で、茜と沙良のそんなやり取りが行われている。
「さて、それでは早速聞き込み......と行きたいところですが、今は授業中ですね」
もうすぐ2時になろうとしている午後の学校の門からは、グラウンドでサッカーの授業を受けている生徒たちが見えた。校舎の高いところから聞こえるのは、ドイツ語やらスペイン語やらの歌だ。恐らく音楽の授業だろう。
「聞き込み?」
夕輝は直前の茜の発言に、素早く反応した。
「ええ、能力者の目処をたてるために、ある程度聞き込みをしなければなりません。例えば、ここ最近おかしなことはなかったか、とか」
「なるほど」
夕輝はすぐにそれを理解した。そして同時に、こいつらは普段からそういうことをしているんだな、とも感じた。慣れた様子がそう語っているからだ。
「で、どうするんだ? 時間が余るなら、なんか暇潰ししないといけないよな?」
呑気にそう言うのは、お馴染みの巧だ。
「暇潰し、ですか......。そうだ、茜さん」
「はい」
茜に声をかけたのは、白柳雪。
「どうせなら、今この時間を使って自己紹介、なんて......どうですかね? 音永くんとはまだ昨日知り合ったばかりですし」
彼女のその口からは、突拍子もない案が飛び出してきた。
「ああ、いいんじゃないですか?」
友利茜は、少しの間隔もなく即答する。いや、いいのかよ! と正直つっこみたかった。いや、心の中では激しく突っ込んだ。雪の提案は、あっさりと承諾された。
「では、まず私から......」
それどころか、案外ノリノリなのかも知れない。彼女は、右手を自らの胸の方に向ける動作をした。
「私は、友利茜です。友達の友に利益の利、茜色の茜です。能力は『遮断』、対象に入る全ての情報を10秒間シャットアウトする、という能力です。......全部、既に会長が喋ったことですけどね」
茜は一通りそう言い、どうぞ、と雪に順番を回す。
「はい。私は、白い柳に......雪だるまの雪で、白柳雪です」
天然なのか何なのか、雪だるまをチョイスするあたり、ワードセンスは抜群だ。
「能力は『引き寄せ』、物を手のひらに引き寄せることができる能力です。重いもの程エネルギーを使いますが、生き物以外ならだいたい何でも引き寄せられます」
なるほど、便利な能力だ、と夕輝は思った。
「音永くん、よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
改めて彼女がそう挨拶をしてくれたので、しっかりと返事をしておいた。続いて、次はあたしだ、と彼女は口を開いた。
「あたしは岩下沙良。漢字は難しいからな、覚えなくていいよ」
沙良の言葉は、彼女の名前に対してではなく、漢字というもの全てに対する意見のように聞こえた。そして、それもそのはず。
「日本語は、日常会話ぐらいなら全然できるが、あんまり得意じゃないんだ。イギリス人と日本人のハーフで、一応昔はあっちに住んでたからな」
そう言われて、彼女の外国人のものとしか思えない顔つきや高い身長にも少し納得がいった。
「そんで、今はアーティストやってる。『Rest Arts』ってポストロックバンドのボーカルだ」
凄いな、と夕輝は思った。今朝も聞いたが、この年齢でバンドのボーカルとして有名になっている、というのは何とも驚くべきことだった。
「だからさ、そのポストロックってのは一体全体何なんだよ?」
そう言って、その一言でいつも聞いているのだろうな、と分かるような問いを投げ掛けたのは巧。
「だから、調べろっていつも言ってんだろ?」
「調べてもわかんねーから聞いてんだよっ」
今ばかりは、特にこれと言って2人のやり取りを止める必要もないので、適当に聞き流していた。
「んで、岩下の能力は?」
巧と沙良の平和な喧嘩も終わったようだったので、夕輝はそう聞いてみた。「沙良で良いよ」、とそう言った後、彼女はこう答えた。
「あたしは能力者じゃないんだ」
「え?」
そんなのもありなのか、と夕輝は驚いた。
「あたしの場合、茜が生徒会に入ったときにさ、『あたしも入れてくれ』っつって無理矢理頼んで入ったんだ。だから、松山さんも正直どうしようか迷ってたぜ」
「でも入れたんだな」
「ああ、松山さんには感謝してるよ」
夕輝はその話を聞いて、気になったので聞いてみようと思った。「何故、そんなに生徒会に入りたかったのか」。しかし、それを彼は丁度良く、絶妙なタイミングで遮った。
「じゃあ、俺だな! 俺は、ご存知深山巧。深い山に、建築とかの番組で見ない方の『たくみ』だ。能力は『不死』だが、普通に年はとる。好きなものは食堂の牛タンカレー! それと、わけあって学園併設マンションには住んでないぜ......ってぐらいだな」
元気良く彼はそう言った。夕輝は自分の質問が遮られたことに対しては幾らかモヤモヤしたが、しかしまあそのうち聞けばいいかな、と思って今は聞くのを止めることにした。
「......夕輝、どうした?」
巧がこちらを見ているのが分かった。少し考え事をしていたせいで、ぼーっとしているように端からは見えたのかも知れない。夕輝はすぐに取り繕うと、
「俺は音永夕輝。永遠の音に、夕日の輝きで夕輝だ。能力は『コピー』らしいな。その辺りはお前らの方が詳しいと思うけど......よろしく」と自己紹介をしておいた。
「永遠の音に夕日の輝き......。なんだか、格好いいですね」
そう夕輝に言ったのは、軽く握った手を口のあたりに当てて考え事をしているような表情の友利茜だった。夕輝は何だか嬉しいような、こっ恥ずかしいような気持ちになって、斜め上の方を向きながら軽く頬のあたりを人差し指で掻いた。そしてすぐに話題を変えようと、咄嗟にこんな言葉が出た。
「これで終わりだけど......だいぶ、時間余ってるんじゃないか?」
小森山高校の6限は2時50分頃に終わると彼らは知っていたが、結局雪が自己紹介をしよう、と言い始めてから5分しか経っていなかった。
最終的に、その後は茜の指示で、聞き込みをしなくとも学校の見てわかるような部分に異変があるかも知れない、と各々敷地を一通り回った。夕輝は巧と一緒に行動したが、最後まで、異変と思えるようなものは見付けられなかった。
そのまま、6限の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「結局、それらしいもんはなかったな」
巧が落胆の声を溢す。
「仕方ありません。......さ、そうとなったら、ここからは聞き込みです」
茜はその表情を冷静に保ったまま、淡々と告げた。まるで、最初から何も見付からないことが分かっていたかのように。
「じゃ、早いとこ行こう」
その隣で沙良は、急かすようにそう言った。
5人は今、先程自己紹介とかをしていた門に再度集まっていた。下校を始めた幾らかの生徒が、見知らぬ制服の5人組を奇妙そうに横目でちらちらと眺めながら歩いている。
「ええ」
夕輝たちは校舎の方へと足を進めた。どうやら大半の生徒は部活やら何やらで残っているらしく、グラウンドではサッカー部が自身の蹴ったボールでゴールネットを揺らしていたし、もう少し経つと校舎の上の階の方から、先程までと違う音楽が、歌詞のない音楽が聞こえてきた。吹奏楽部だろうか。トランペットやトロンボーンの、あの黄金色から出る、空気を雷のようにバリバリと揺らす音はいつ聞いても迫力のあるものだった。
そんな、時折歓声が上がったり、時折急に静寂が染み渡ったりする放課後の校舎を、夕輝は不思議に思った。どうも、この平凡な学校に、特殊能力などという非日常の要素を持つ人間がいるとは思えなかったからだった。
「じゃあ私は3年生の方を回りますんで、巧くんと夕輝くんは2年生の、沙良と雪は1年生の教室を回って、最近何かおかしなことがなかったかどうかを確認してみてください」
「ああ、分かった」
巧がすかさずそう返事をした。
「何かあったらすぐに私に連絡をしてください。......それと、念のためクラスの中に確執や虐めがないかどうかを確認してください」と、そう言い終えると茜は階段を上っていってしまった。最後の言葉の意図は分からなかったが、夕輝は取り敢えずそれを見送った。
「では、また後で」
雪もにこりと微笑んでそう言うと、沙良と一緒に1年生の教室の方に行ってしまった。
「......よし、じゃあ俺たちも行くか」
「ああ」
夕輝と巧もまた、その階段を1つ上った階にある2年生のクラスの群れに向かう。階段を挟んで左側に2年1組が、右側に2組から8組までがある。2人は順番にその各々に入ると、まだ教室に残っていた生徒たちに話を聞いた。
「変なこと? そうだな......。俺が知る限りじゃあ、聞いたことないな。なあ?」
「うん。少なくとも、うちのクラスではそんなことなかったと思うよ。......虐め? ないよ?」
「おかしなこと、ねえ。あたしは知らないけど......。仲が悪い? ないない。うちのクラスに限って、誰かと誰かの仲が悪いなんて考えられないわよ」
「強いて言うなら、うちのクラスには、2年生なのに生徒会長やってるやつがいるぜ」
「おかしなこと? 最近、うちのクラスの峯岸くんが、コンビニ強盗を捕まえた、とか?」
「虐め、って、虐めはしちゃいけないって小学生の頃から教わってるでしょ? そんなことするわけないじゃない」
そうして一通り聞き終えると、夕輝と巧は先程の階段に戻った。丁度、沙良たち2人も戻ってきたところだった。茜は、というと、その後少し経ってからやって来て、
「お待たせしました。さ、皆さん、仕入れた情報を私に教えてください」と言った。
「でも茜、最近おかしなことがあったなんて、誰も言ってなかったぜ?」
沙良がそう伝えたのに続いて、付け足すように雪も、
「ええ。虐めがあるなんて話も、どのクラスに行っても聞きませんでした」と話す。
そして、夕輝と巧もまた、同じようなことを喋った。おかしなことがあったなんて話も、虐めがあるなんて話も一言も聞かなかった。まして、クラスメイトの仲が悪い、という話すら一度も耳にしなかった、と。
そして、夕輝はとうとう、それに気づいた。
「......待てよ?」
人間には時として、言葉にして初めて気づくものがある。夕輝はそのとき、明らかな違和感を感じていた。
「夕輝くん、君の直感が当たっているかもしれません」
茜はすぐさま夕輝を見て、楽しそうな表情を見せた。
「え? どういうことですか?」
雪はこの2人のやり取りに今一付いていけず、戸惑った様子だ。そしてそれは、巧や沙良も同じだった。
「この学校に入ったときから、私は違和感を感じていました。先入能力という余りにも強力な能力を持つ人間がいるにしては......目立った異変が無さ過ぎます」
茜は、困ったように頭を掻いた。
「ええと、つまり?」
巧が、茜と夕輝をキョロキョロしながら探るように聞くのに対して、彼女は冷静に答える。
「今回の相手、結構イレギュラー......というか、厄介です」
「と、言うと......?」
巧はまだ何も理解できず、再度茜に尋ねた。そして、勿論沙良も雪も、まだ彼女の言う意味を理解していなかった。
「まあ、能力者を特定できれば分かりますよ。さ、それらしい人物を探しましょう」
茜がそう言うと、実に唐突にだが、夕輝の頭のなかに、ある言葉が流れてきた。何故という訳でもないが、夕輝は先程の、とあるクラスの少年の証言を思い出していた。
「それらしい、人物......。そう言えば......」
そうだ、彼は確か、そう言っていた。
......その考えに、確証はなかった。
しかし、直感的にそうだと思ったため、夕輝は言った。
「なあ、茜」
「なんです?」
「もしかしたら、すぐに能力者を見付けられるかも知れない」
急に夕輝がそんなことを言うので、茜はきょとん、と驚いたような顔を見せたが、その後すぐに、落ち着いた様子に戻って、
「......話を聞きましょう」と言ったのだった。
もう、夕日が指す頃だった。
彼の耳に、美しく、冷たい声が伝わった。
「......あなたでしたか」
彼はその声に気付くと、声のした方を振り向いた。
「......あなた方は?」
彼の目に、5人の少年少女が映った。知らない身なりの学生だった。
「どうも、私たちは、星ノ海学園の生徒会です」
クリーム色のポニーテールの少女は、彼を見て悲しそうな瞳を浮かべている。そうしてそのまま、彼にこう尋ねた。
「......単刀直入に聞きます。あなたは、他人に物事を思い込ませられる特殊な能力を持っていますよね?」
彼はそう言われ、酷く驚いた。しかしそれは、単純に驚いたというそれだけで、罪悪感や背徳感といった類いの感情はそこにはなかった。
「ええ......。どうやって知ったんですか?」
「......? えらくあっさり認めるんだな」
夕輝は巧がおかしなものを見るように彼を見てそう漏らすので、少し不思議だった。彼の返事は、巧や他のメンバーにとって予想外のものだったようだ。普通、こんな風にあっさり認めたりしないのだろうか。
「この学校が、余りにも......違和感を感じざるを得ない程、平和過ぎたんですよ」
その言葉を聞いて、巧たちは、先程までの疑問をやっと紐解いたようで、なるほど、という顔をしていた。そして、その彼も、ばれてしまったか、と言う風に斜め上に視線を向けていた。
「そしてこの学校に、この時期に2年生で生徒会長をする人間がいる、というのと結びつけることで、全てが繋がりました。......生徒会長である、江道さん。あなた以外に考えられません」
大きな、弓道場。江道はふい、と横を向くと、手に持っていた、身長以上に長い和弓に矢をつがえ、そして、放つ。
すとん、と同心円状に模様が広がる的に、見事的中した。その音はどこか悲しげに、夕暮れの静寂の中に染み込んで、だんだんと消えていった。
「なるほど、始まりは弓道部、というわけか......」
「え? どういうことですか?」
巧がお約束を守ってそう溢すのが、雪には理解できず、そう聞いた。そんな2人のやり取りは聞こえていないようで、彼女は言う。
「......他人の良い噂を広めたり、ときには強引に『彼は好い人だ』なんて言って、そうしてその力で生徒会長にすらなり、今の環境を作り上げた......違いますか?」
茜は、あの矢のように、彼の図星を射た。
「はい、その通りです。......凄いですね、そこまで分かるなんて......。何故、この力のことを?」
呆気にとられた、という感じで江道は再び、的を見ていた目をこちらに向けた。
「私たちもあなたと同じように、特殊な能力を持っているんです」
茜がそう言ったのと同時に、雪はそこに並んでいた矢のうちの1つを、手を使わずにひょい、と手のひらまで持ってこさせた。江道はとても驚いたような顔を見せたが、すぐに納得して、
「なるほど。......で、僕に何の用でしょうか?」と茜に聞いた。
それに対して彼女が「あなたに、金輪際その力を使わないでほしいんです」と伝えると、その瞬間から、彼の態度は一変した。
「え? ......それは、出来ませんよ」
「......へ?」
夕輝には正直そのとき彼が言ったことが予想外で、思わずおかしな声が漏れてしまった。......その一方で、茜や沙良たちはその言葉がさほど不思議でもなかったようで、しん、と彼を見つめていた。
「もしその力を使い続けていれば、あなたは特殊能力を研究する科学者に見付かり、そして彼らの実験台、モルモットとなり、廃人と化してしまうでしょう。......それは嫌ですよね?」
「モルモット......?」
一瞬、彼の顔が曇った。その非日常の言葉が彼には、酷く恐ろしいものだったのだろう。戸惑いが感じられた。
が、江道は決して譲らなかった。
「......そうだとしても、です。僕は絶対に止めません」
「え?」
夕輝は再び、江道のことが理解できなくなった。何故今の話を聞いて、すぐにそんな風なことを言うことができるのか、分からなかった。
「......たまにいるんだ、こういうタイプ」
沙良が小さな声で、夕輝に囁いた。慣れっこだ、という感じだった。
「......どうしてでしょうか?」
こうなったらもう説得するしかない茜は、彼の話を聞こうとする。
「やっと......やっと、虐めがない学校を作り上げたんですよ? あなた方は、下らないなんて思うかもしれませんが、今更止めろ、だなんて、そんな話聞けるわけないじゃないですか」
彼の顔が、心なしか少し険しくなっている様に見えたのが、夕輝にとっては何故だろうか、それはとても悲しみを含んでいるようで、その感情が伝わってくるのが不思議だった。
「しかし、続けていれば、あなたが不幸になるかも知れないんです」
茜は冷静に切り返す。
「それでも、と言っているでしょう。僕は決めたんです。この力でこの学校の完全平和を実現する、と。......僕が不幸になっても構わないんです」
彼の表情はだんだんと、その悲しみの色を増してきた。と同時に、ある別な感情の色も増してきた。一般的には『怒り』で済まされるだけの、しかし彼の場合はそれだけではない感情。
「あなたが不幸になったら、あなたのお母さんや、友達が悲しみます」
ぴくり、と彼の肩が動いた気がした。いや、それは決して気のせいではない。彼は突然に、声を荒げる。
「誰も......誰も悲しみませんよ!」
江道が急にそう怒鳴ったので、茜も少し怯んでしまった。
「あいつだけだったんだよ! 僕の理解者は......!」
これは、ただ彼の事情を聞き出すチャンスである、というだけではなかった。それ以上に、彼は大事なことを言い出す、そんな気がした。そのせいかも知れない。
「その話、詳しく聞かせてくれよ......」
そんな言葉が不意に出てしまったことに、夕輝は自分でもちょっとびっくりした。
「......あいつは......僕と同じ中学から、去年、この高校に一緒に入学して......。昔から仲が良くて、本当に良いやつでした......」
江道は袴で仁王立ちをしたまま俯いて、語り始めた。それは、茜たちを納得させようとか、そういう理由ではなかった。昨日観たテレビの内容でも語るように、楽しげに、彼は続けた。
「高校に入学して早々、あいつは虐めを受け始めたんです。余りにも良いやつだったせいで......。1ヶ月経てば本性を現し始めるようなクラスのリーダーに、気に食わないと目をつけられて、そこからは、本当に酷かったですよ。......間もなくして、彼は不登校になりました。僕はクラスが違って、それを知ったのも彼が不登校になって1週間経った後。その時にはもう手遅れで......彼は間もなく、自殺しました」
「......」
そこまで聞いても、5人はそれほど驚かなかった。彼の話し方や、彼の意志の固さから、見てとれていたからだった。5人はまた、彼の言葉の重み、熱量が徐々に高まっていることにも、もう気付いていた。わなわなと江道の全身が震える。
「だから、僕はやらなくちゃいけないんですよ......! もう誰も傷付かないように......誰も、虐められないように......誰も、死ななくて済むように......っ!」
そしてその高まったエネルギーが、熱い雫の一粒一粒となって、彼の目からこぼれ落ちていくのが、夕輝にも分かった。江道は、それまでよりも何倍も震えた、怯えたような声で、言った。
「悲しむ人が......いないように......!」
彼はゆっくりと、俯いていた顔をこちらに向けた。その顔はしわくちゃで、歯を食いしばって、ぼろぼろで、美しい悲愴を、悲壮を、静かに物語っていた。
「そんな風に死んでいい人間なんて、いるわけないんだ! 変えなきゃいけないんだ! 僕にしか出来ないんだよ......!」
夕輝は膝から崩れ落ちて行く彼の顔を見ていると、なんだか寂しいような気持ちになってしまって、しかし同時に、彼は強い人なんだとも感じた。
彼は、優しい人だ。その友人の気持ちを酌んだんだろう。その友人が優しかったから。その友人がそんなことをきっと望まないだろう、と思ったから。
だから、復讐したりしなかったんだ、と。
やろうとすれば出来たはずだった。彼の友人を自殺にまで追い込んだリーダー格や、手を差し伸べもしなかったクラスメイトたちを恨むことだって、酷い目に逢わせることだって出来たはずだ。なのに彼は、それをしなかった。むしろ、未来に目を向けたのだった。
「......なら尚更、あなたはもう、その力を使ってはいけません」
茜は彼の話した内容を理解し、飲み込んで、その上でその言葉を発した。
「え......?」
彼は、自分の上に黒い影をつくった茜を見上げた。彼の目に、彼女は鮮明には映らない。
「あなたが廃人になったら、天国のあなたのご友人は、悲しみませんか......?」
茜がそう語りかけると江道は、そのしわくちゃの顔を、もっと、どこからどこまでが顔なのか分からない程しわだらけにして、そしてだんだんとその声を大きくしながら、天に嗚咽した。
「その能力はどのみち、思春期が過ぎれば消えます。......もう、終わりにしましょう」
彼の悲痛の泣き声は、誰かに謝っているようにも感じられた。彼はそのまましばらく、幼い子供のように叫び続けた。
これで良いのだろうか? 夕輝には分からなかった。それでも、少なくとも今は、こうするべきだと思ったから。
夕輝は、江道に乗り移った。
「この能力は、どうやって使うんだ?」
「相手の目を見つめて......祈るみたいに、言い聞かせるんです」
江道は夕輝に、自身の能力の使い方を教えていた。それは、彼自身が彼の能力を使えなくなるために、だった。
──次にその能力を使えば、お前は間違いなく科学者の実験台になり、そして学校には再び虐めが蔓延するだろう──。
そう言い終えると夕輝は、夕輝たち5人は、彼を置いて帰路を辿って行った。静寂が、妙に煩い。
「......なあ、お前らはさ、何で生徒会に入ったんだ?」
帰りの電車の中で、つり革に手を添えながら夕輝はただ何となく、他の3人にそう聞いてみた。今日の一件で、少し思うところがあったから。
「んー......そうだな。俺の場合は、能力柄、使えるって判断されたからってのと......まあ、そんぐらいだな」
途中、何かを言いかけたように見えたが、躊躇ったように巧は、それを言うのをやめた。夕輝はそこまで気が回ってはいなかったが。
「そうなのか......」
「私も、同じ理由です」
雪も巧に続いてそう言った。夕輝はそのとき初めて、巧や雪や、茜でさえも少し悲しそうな顔をしているのに気付いた。そうか、彼らは慣れてこそいても、決して今日の江道ようなタイプの案件に何も思わないわけではないんだ、と夕輝は思った。
「さ、降りますよ」
茜が、普段通りの落ち着いた様子でそう言った。
「にしても沙良のやつ、また忘れ物か」
巧が電車を降りながら、ぼそっ、とそう言った。また、というくらいだから、彼女は忘れ物をよくするのだろうか。電車に乗るため改札を通ろうとした瞬間に、彼女は「やっべ、忘れ物した。先帰っててくれよ」と言って戻っていってしまったのだ。
「ああ見えて以外と抜けてるんですよね、沙良さんって」
雪がおかしそうにくすくす、と笑った。
「そうだ、夕輝くん」
「何だ?」
改札前くらいで、友利茜に話しかけられた。
「しばらくは、その能力......先入能力を持っていてください。一般の人間には乗り移っても構いませんが、能力者には乗り移らないように。何かと役立つ能力なので」
「ああ、分かった」
そうして改札を通ると、巧は自分の家へ、そして雪と茜は少し寄り道をして、それぞれ帰っていった。夕輝は一人で、来たのと同じ道をなぞるように歩いた。
「兄ちゃん、お帰り。夕御飯できてるよ」
ドアを開けるとすぐに、良い匂いと春の声が聞こえてきた。
「ああ、ただいま」
夕輝は軽く返事をしておいた。そして、自分の部屋に鞄を置くと、リビングへ向かった。
「いただきます」
「いただきます」
二人同時にそう言うと、夕飯を食べ始めた。食卓には朝と同じサンマと、ご飯とサラダとお吸い物と、白くて丸い、謎の生物がいた。
「春、これは一体?」
「ああ、これ? 白いスライまるだよ?」
「......」
春がそのふよふよの頭を指差して平然とそう言うので、一瞬、夕輝の言葉が詰まった。
「兄ちゃん、前貸したラノベまだ3巻まで読んでないでしょ」
「え?」
「あのね、スライまるは寝るとき白くなるんだよ?」
春はペースを崩さなかった。夕輝はそんな彼女に感心しつつ、話を聞こうと試みた。
「無知ですまんな。だが......いささか、寝ている隙をついてスライまるを食べるのは、俺としても心が痛いんだ」
夕輝はそう言ってみたが、彼女はしらー、と死にかけのアヒルのように夕輝を見るだけだった。
「......全く、そういうとこめんどくさいよね、兄ちゃん。ただの肉まんだから、遠慮せずに食べて」
そう言われると、夕輝は何だか自分が悲しいやつに思えてきたので、さっさと1つずつありがたく頂くと、ごちそうさまでしたと先に言って、それとなく食器を洗ったのだった。
11時の寝室で、夕輝は今日のことを新しい順番に思い出していた。そしてある地点に辿り着くと、机に置いていたスマホを取って、そしてYouChooseのアプリを開いた。驚いたのは、アプリのアイコンをタップした1秒後には、目の前に知っている顔がいたことだ。すぐにその動画をタップすると、曰くポストロックが流れてきた。これは、沙良の曲。岩下沙良の、2000万回再生された曲。
その曲には夕輝の知らない迫力があって、近未来的で、まるでこの世界の曲ではないみたいで、夕輝は少し不思議だった。日本語の歌詞ではなかったが、夕輝もその音楽性に引き込まれた。そして最後まで聴くと、もうひとつあった、今度は1000万回再生されている曲を聴いた。今度は先程とは打って変わって、同じハードな曲調のわりに、どこかに別な雰囲気を感じられた。不思議だなあと思いつつ、夕輝はしかしその世界観に引き込まれていった。彼女の芯のある声は本当に美しく、同じ人間とは思えなかった。
夕輝はその後、彼女の曲を3曲を聴くと、眠気の来るまま流れるように眠った。彼女の曲は最後まで、不思議な世界だった。そしてどれも、同じ人間の作った曲とは思えなかった。
その日、夕輝は沙良の嘘には気付かなかった。
夕輝だけではない。
全世界が、時間と彼女に騙されていたことを、最後まで思い知らされないだろう。
御愛読ありがとうございます。
CBA第二話「偽物の歌」、いかがだったでしょうか。
次回、第三話は、「幻だけのあなたに」というタイトルで書かせていただきます。
次回もお願い致します。