Charlotte Bravely Again(st) 作:天然の未
7分割を統合しただけで内容は同じです。
既に読んだ方は続きからで支障ありません。
どうも、天然の未です。
第六話は『欲望』というタイトルで書かせて頂きます。
今回は、夕輝と茜がふたりっきりで水族館に行くお話です。デート会ですね。羨ましい。
だらだらと喋っていても何なので、早速本編をどうぞ!
夏休みが明けてしばらく経った。
巧の母の下半身麻痺が治った日、やはりだが巧は驚いたような、どこか戸惑ったような声色で電話をかけてきたのだ。医者曰く「奇跡としか言いようがない」ということらしく、夕輝も最初聞いたときは本当なのか疑ったが、今ではもう週に1回かかりつけの病院に通うだけで良くなっている。そろそろそれも終わる頃だろうか。
最近やっと職に就いた巧の母は、想像していたよりもかなり活発な女性だった。今まで病の床に臥せていたのだから余計に驚くばかりだったのは言うまでもない。
今回の件で始めに疑われたのは勿論というか仕方ないというか、夕輝だった。彼の能力を持ってすれば能中の能力をコピーして、偶然にもその日に能力を失った能中の代わりに巧の母の体を治すことなど造作もなかったからだ。しかしこれは夕輝の能力が確かに1つの能力しかコピーできないことと、そして彼が依然として先入能力を有していることから簡単にアリバイを証明できた。夕輝当人にもそんな風に疑われるようなやましいことなど1つもなかったのが幸いしたと言える。茜と松山は必死に原因を考えたが、決してその答えにたどり着くことなどできなかった。彼らの手の届かない範囲ならば......例えば科学者の動向なんかは星ノ海学園生徒会の知り得ないことである。しかしこれもおかしい。例えば科学者が秘密裏に能力者と協力していたとして、巧の母の体を治すことに理由などないからだ。結局その件は多くの謎を残したまま終わってしまった。テレビで時たま見かける未解決事件なんてものを取り扱う刑事なんかは、こういう複雑な心境になるのだろう。始めて夕輝が刑事に親近感を抱いたことではあった。
しかしそんなもやもやした気持ちもやがては消え行き、今では殆どその事件のことを覚えてはいなかった。まるでもともと巧の母の足など動いたかのように普通に過ごす日々が来るのも、時間の問題だったのだ。
それにしても、と夕輝は思った。
夏休みが終わって1週間が経った日曜日。どうして今自分は、同い年の女子と水族館に来ているのだろう。疑問に思っていた。
横を見れば、友利茜が座っている。水色の、少し固く何人も座れるような細長い椅子が左右や前後を埋め尽くしている。いくらかの家族や仲の良さそうな男女が疎らに行き交うのは、これからイルカショーが行われるというそのスタジアムだ。この場所で男女2人、隣に座って昼食をとっていれば端からは、さぞ仲睦まじいカップルに見えよう。夕輝は軽くため息をついた。
「春、これは?」
この日、夕輝はいつものように食卓に出てきた得体の知れない物体の正体を妹の春に聞いた。妹の春もいつも通り平然と
「うん? 黒いスライまる」と言ってのけた。今度は黒だ。しかし何と言うか、黒い食べ物など滅多にお目にかかれないのは夕輝だけだろうか。明らかに人間の食べるべき色ではない。夕輝はそう思った。
「なるほど、激しく怒った黒いスライまるをイメージして作ったんだな、良く出来てる」
まずは褒めておいた夕輝。下手なことを言うとただでは済まないからだ。
「でしょ? 兄ちゃんもやっとスライまるを分かってきたじゃん」
妹に借りたライトノベルがそれなりに面白いせいで、夕輝はその中に登場するスライムの『スライまる』に詳しくなってしまった。しかしだ。今回のスライまるは若干恐ろしい。黒という人間殺しの色に加えて、沢山の細長いものが平たい皿の上を駆け巡っている。だから夕輝は勿論、正体を知った上で春にこんな問いを投げかけていたのだ。何でもない会話。そしてそれを春にイカ墨パスタだと言わせるのも簡単だった。何せ最早どう転べばスライまるになるのか分からないほど、殆どただのイカ墨パスタだったからだ。強いて言うなら赤く細い目が2つほどついている。イカ墨パスタなど食べたこともない夕輝は少しそれに手をつけるのに抵抗を感じていたが、やっとのことで一口目を食すとあとはすぐだった。
そのまま人生初のイカ墨パスタを見事に平らげてしまった夕輝は今日はもうゆっくり休むつもりだったのでさっさと食器を洗ってしまうと、リビングに置いてある2人座れるぼろぼろのソファに座り、テレビをつけた。というのも、昨日はまた厄介な能力者が現れて大変だったのだ。帰宅も深夜の3時を廻り警察に補導されないかと心配だったほどだ。だから今日は起床も遅かったし、思うままにゆっくりしたい。とは言いつつテレビをつけてもすぐに飽きてしまった夕輝は、やはり勉強モードに切り替えようとしていた。1学期の成績はまずまずと言ったところだったが、最近生徒会の活動によって勉強がおろそかになっている気がしている。夕輝はよっこらせ、と重たい体を起こすと、勉強するために自分の部屋へと向かおうとしていた。そんなとき。
プルルルル──
我が家の固定電話が軽快な音を立てて鳴り出した。春が食器洗いを止めて手を洗い電話に出ようといそいそしているのを「俺が出るよ」と言って止め、そして固定電話の受話器を手に取ると耳に当てた。
「はいもしもし、音永です」
『音永君ですか』
聞き覚えのある薄く低い声。松山のものであると一発で分かった夕輝は同時に、これが厄介事の早馬であることも瞬時に理解した。
「ああ、あんたか。今度はどうした? また変なのを見付けたのか?」
2日連続でついていないな、と夕輝は思いながらも至って冷静な口調で、いいや正確にはめんどくさそうな口調で彼に問いかけた。その問いかけは案の定正解だったようで、夕輝は生徒会室に呼び出された。普段通り電話では詳しく能力者のことを話さないのは、周囲の人間に聞かれないためだ。科学者なんてものを考えれば当然かもしれないが、少々厄介な取り決めだなとも夕輝は思っている。電話での意志疎通が利潤しないのは何かと不便だからだ。ガチャリ、と電話を切ると夕輝は言った。
「春、俺生徒会行ってくるな」
特に、我が妹にこの説明を上手くするのが難しかったのだ。妹は現在、兄が自分が生徒会員であることをいいことにそれを言い訳にして女と夜遅くまでつるんでいたらどうしよう、などという意味のない杞憂を続けているのだ。夕輝はそんなところまで気付いてはいなかったが、毎度これを伝える度に見る春の睨むような表情からは少なくとも、良くない印象を与えられた。上手い言い訳も思い付かないし、真実なんてもっと言ってはいけない。土日は私服で登校しても良いというルーズな校則のおかげで、夕輝は今日もそんな妹から逃れるように、着替えもせずにそそくさと家を出た。
「能力は『意思疎通』。動物やなんかと喋る能力ですね」
またこの松山は平気で奇妙なことを言ってくる。しかし全くもって夕輝たちが動じないのは、つまりこれが大雪原から帰り水風呂に入るようなものだからだ。もう慣れてしまっているのだろう。松山はまずまずの反応をする夕輝たちにこんなものを茜に渡した。
「これを見てください」
彼の小さい手から渡されたそれは、そんなに大きくはない特別な紙が折り畳まれてできたひとつのパンフレットだ。水色の背景に、子供にも読みやすいようふりがなをふって書いてある文字。ところどころ明るい色が使われており、イルカなのかペンギンなのかよく分からないキャラクターまでもが豆知識を呟いたりしている。
三鷹水族館と言えば、ここから電車を使っても少し距離のある、日本有数の広さを誇る水族館だ。特に人気が大きいのが1日に数回行われる大規模なイルカショーで、30分間にも及ぶそれは人々の心を鷲掴みにしている。
「これが、どうかしたのか?」
夕輝は特に能力者に関係のありそうな目ぼしい情報をそこから発見できず、松山に問いかけた。すると、横でパンフレットを眺めていた茜が「これじゃないですか?」と開いたままのパンフレットのごく一部分を指して言った。よく見てみるとそこには、小さな文字でこう書いてあったのだ。
「『今年、18歳の最年少イルカトレーナーが誕生しました』......?」
それを読み上げるとともに全貌を理解した夕輝は「なるほど」と声を出した。
「その通りです、茜さん」
松山はそういうと説明を続けようとしたが、それはいつものように茜に遮られてしまった。
「要するに、このイルカトレーナーが『意思疎通』なる能力を使ってイルカとコミュニケーションしている、と」
少し返答に困った松山も、刹那の間をもってすぐに「ええ、そうです」と冷静に返した。彼もこの手のやり取りには慣れたらしい。
「それにしても」と夕輝は言った。
「なんです?」
「巧と雪はいないのか?」
当然の問いかけだった。現在生徒会には今ここにいる3人と、巧、雪、沙良が所属している。そのうちの沙良はと言うと、彼女は今週バンドの活動がまた忙しくなってしまい学校を休んでいるのだ。学校を休めるほどの人気があるとは、やはり彼女のバンドは凄い。最初にそれを聞いたときは、そんなことをぼんやりと考えた。
「巧くんと白柳さんは今日、お母さんの定期検診に付き添っています。今日で最後だそうですから、一応彼女にも向かってもらいました」
なるほど、そういう訳だったのか。まだ謎が残る巧の母については、できる限り目立たないよう生徒会でも調査を続けてはいたのだ。
夕輝は「そうなのか」と軽く答え、そして思考を巡らせた。というより思考がひとりでに巡ったのだ。となると......。
「そういう訳で今日は、茜さん、音永君、今日は2人で向かってください」
当然、こうなる。松山は体力がないため、時折全力で走ったりしなければならない状況に陥ってしまうことのある能力者との対峙には不向きなのだ。
「分かりました」茜は普段通りの口調で答えた。「では行きましょう、夕輝くん」
「あ、ああ」
こういうところは何と言うか、茜らしい。彼女はすぐに頭の中ですべきことを整理してしまうと、あとはそれを実行に移そうとする。全く、要領が良いんだか悪いんだか。
まもなく2人は、重い扉を開いて生徒会室をあとにした。
行きの電車の中では、茜も夕輝も互いに特に喋るということもなかったので、夕輝は何となく、水族館について調べることにした。揺れる電車の中座ってスマホをスクロールしていると、茜に見つかり「......熱心ですね」と感心されてしまった。
「他にやることもないんでな」
そんな茜のきょとんとした顔を見ていると、どうも気恥ずかしいような複雑な気持ちになってしまい、夕輝は斜め上を向き、耳を掻いてそう言った。
それから間もなくして、電車は目的地に到着した。
「さ、ここからはバスです」と言うと、茜はさっと電車を降りた。
バスはというと、夕輝たちと同じように水族館に向かうのであろう家族連れや色々な団体で溢れていた。座席などは当然確保できず、夕輝と茜は突っ立っていた。
「あの水族館、人気なんだな......」
夕輝は考えるともなく呟いた。茜はこのとき、先程の夕輝と同じように何か調べものをしているようだった。
しかしそんな時間はほんの束の間、無料のシャトルバスというだけあって、走行距離はそこまでなかったようだ。5分ほどすると、大きな建物を横に止まった。これこそが三鷹水族館だ。
「高校生の方ですと、1人3000円です」
高い。最初に持った感想がそれだった。
「後で生徒会からお金は出ますから」と茜には言われたが、それにしたって気が引ける。健全な高校生が払う量ではない。夕輝はそう思いながらぴったり3000円払うとチケットを受け取ってさっさと入場口に向かった。
この紙きれで3000円ならば1500円程を千切られてしまってから、夕輝は水族館の中に入る。先に入った茜はと言うと、もう既にその最初の水槽に感動している様子だった。
「うわぁ......」
一体この水圧でどうしてガラスが割れないのか、と思うほどの大きな水槽で、シャチが2頭、その長くきらびやかな体を自在にうねらせて優雅に泳いでいた。周りには家族が何組もおり、子供が騒いでいたり、もっと小さいと母親の腕の中で眠っている。
「すごいな」
「すごいです!」
何より目についたのは、水槽に直接手を触れて、隣にいる幼稚園児ぐらいの子よりも熱心にシャチを観察している少女だった。この、人数の多い水族館では、端から見ても結構浮いている。
しかしながら悔しいことに夕輝は彼女の名前をよく知っている。何を隠そう、友利茜だ。
「夕輝くん、ほら、見ました!? 回りましたよ! 一回転しました!」
まるで、何年間もの間シャチを見るためだけに生きてきたのが叶ったような興奮の仕方だ。いつ見ても、茜は自由人である。良い意味か悪い意味かはその時々による。
消費された3000円を思えば、きっと今は良い意味と取って良いのだろう。
「そんなにはしゃいでていいのか? 能力者は?」
「イルカショーは12時からです。それまではやることもありませんから、適当にぶらぶらしましょう」
一旦夕輝を振り向いて答えると茜は、再び水槽に目を向けた。一際大きく彼女の目が水槽に映っている。近付いてきたシャチは彼女の顔を見て驚いたのか、そそくさと奥に逃げていった。
続く水槽を見た瞬間、夕輝は呆気にとられてしまった。最初の水槽は何だったんだと言うほどの大きさのそれには、ありとあらゆる夢の世界から魚を集めてきたのではないかというほど沢山の魚が泳ぎ回っていた。海を切り取って持ってきたみたいだ。
そしてもっと驚いたことがあった。
「何でサメとこんなに小さい魚を同じ水槽に入れられるんでしょうね」
不思議そうに茜は首を傾けた。横に書いてあった水槽の説明によると、サメは毎日ちゃんと飼育員から餌を十分にもらっているので、わざわざ体力を消費して他の魚を食べる必要がないのだそうだ。なかなか上手く出来ている。凄いな、と感心しながらその楽園を夕輝は眺めた。
その後、夕輝と茜はベルーガやイルカの大きな水槽が他にいくつかと、亀や亜熱帯の生き物や、何だか良く分からない謎の生物なんかを観て回った。そのひとつひとつでいちいち茜が楽しそうにしているので、生徒会も3000円を払った甲斐があったというものだろう。
「見てください! にょきにょきです!」
にしても、茜のこのエネルギーは何なのだろうか。にょきにょきは良いとしても、夕輝は時々茜のことが分からなくなる。テンションの起伏が激しいと言うか、リーダー的な側面に比べると今の茜は子供っぽすぎる。
「ほらほら、また顔を出しました!」
チンアナゴひとつでここまで楽しめるのだから、不思議だ。
......こんな顔立ちで、黙っていればそこそこ可愛いのに、と夕輝は思った。彼女の青い目はきらきらと輝き、夕輝には眩しすぎるくらいだった。そうして何となくぼーっと茜を見つめていると、それにとうとう気付いた茜がこちらを向いてきて、目があってしまった。数秒間、互いに無言のままだった。
「夕輝くん......どうしました?」
体中の穴という穴から、変な汗が吹き出す。
「い、いや? 何でもない......」
そう言った瞬間、しまった、と夕輝は思った。何も背徳感があったわけではないが、返答の声が裏返ってしまったのは痛手だった。不意を突かれてしまって、何と答えれば良いのか分からなくなってしまったのだ。何とか適当に濁せたと思っていたのだが案の定、茜は不審そうに夕輝をじっと見つめている。
「夕輝くん......」
「な、何だよ......」
主導権は完全に握られてしまい、夕輝は次に茜が何を言うのか警戒することしかできなかった。いいや、別に何と言うこともないのだ。ぼーっとしていて、偶然彼女を見ていただけ。いやいや、待て。それならどうしてこんなに焦っているのだろうか。夕輝は自問自答を続けた。
が、茜が言い出したのはこんなことだった。
「分かります、お腹も空きますよね......」
「へ?」
うんうん、と頷きながら彼女はそう言った。それから、「スタジアムの裏に色々売ってます。早く行きましょうか」と言うと少し早歩きになった。夕輝もそれに合わせて早足で彼女に付いていくと、スタジアムはすぐだった。夕輝は昼食にはサンドイッチを選び、茜はそれを見て同じものを買った。売り場のおじさんはそれをビニール袋に入れると、夕輝と茜に渡してくれた。水族館の中で唯一暗いこの場所には不釣り合いな優しそうなおじさんは、2人にこんな風に聞いてきた。
「君たち、高校生かい? 今日は水族館デートかな?」
「なっ」
この質問に動揺したのは、意外にも茜だった。こういう経験には疎いのだろうか。勿論夕輝だって同学年の女子と2人きりでどこかに出掛けたことなどないが、しかしこの場でどういった行動をすべきかなど分かりきっていた。
「はい、今からイルカショーを観るんです」
「ちょっ!」
茜はびっくりしたようにそう言いかけたが、夕輝は視線で彼女に訴えた。すると彼女は夕輝と同じ思考にたどり着いたようで、落ち着きを取り戻した。おじさんは何を思ったのかははっとふくよかに笑うと、「そりゃあいい、あれは本当に凄いからな」と言った。「最近、若い子が入って人も増えたしな」
ぴくり、と肩が先に反応した。茜が興奮気味に答える。
「はい、私たちもそれを観に来たんです! 今から始まるショーで、その人は登場しますか?」
急にテンションの変わった茜に驚いたおじさんは、しかしまた先程のように楽しそうに笑うと「なんだい、お嬢ちゃんイルカトレーナーでも目指してんのかい」と言った。それからすぐに彼は茜を見つめると、
「ああ、多分出るだろうさ。楽しんどいで」と言いながら、おまけに、とサンドイッチを追加で渡してくれた。好い人だ。それが夕輝の、そのおじさんに感じた印象だった。「ありがとうございます」と丁寧におじぎすると、夕輝は茜に続いてスタジアムの方まで歩いていった。
しかし、不思議なものだ。今の今までの、おじさんと喋っていたときは建前だと思って変に意識していなかったのに、いざ2人になって茜の隣を歩いていると意識してしまう。そんな夕輝とは裏腹に、茜は今度は能力者のことをまた考え始めたのか夕輝のことなど完全に忘れているような様子だった。神妙な気持ちで背の低い茜の横顔を眺めていると、先程同様不審そうにこちらを見てきたのですぐに目を逸らした。
「......今度は何ですか?」
「何でもない」
できる限り感情を殺して言ったつもりだったが、茜は今度は腹を空かせた子供への対応とは違ったそれで夕輝をまじまじと見つめた。だんだんと変な汗をかいてきた夕輝は、話を逸らすように言った。
「いやあ、にしても腹減ったな」
「誤魔化しても無駄です」
誤魔化しても無駄だそうだ。こうなると流石の夕輝も返答に困った。何が一番困るのかと言うと、それはこの睨むような瞳にあった。夕輝がいくら目を逸らしても、背伸びをして無理矢理目を合わせて来ようとする。この仕草がまた夕輝を少し戸惑わせる。真面目に夕輝を問い詰めているのは分かっていたが、しかしどうもたじろいでしまうのはどうしてだろうか。遠くから小学生か中学生くらいの男の子の声が聞こえた。
「うっわ、リア充がイチャイチャしてやがる」
「ほんとだ。引くわ......。家でやってろよ」
それももっともだ。少なくともこんな道のど真ん中でやることではない。ひそひそと声を抑えて話していたが、当然夕輝と茜の耳にも届いていた。突然顔を赤くして黙り込んだ茜に、今だ、と思い言った。
「ほら、いいから行くぞ。腹減ってるって言ってんだろ」
そうして固まった茜を無視するように前を歩くと、はっとした茜は追いかけるように後ろを付いてきた。今日、茜を見る目がひとつ変わった気がした。恋愛沙汰となるとここまで弱くなるとは知らなかったので、少し優越感に浸れたとは言わないでおこう。
「ちょっと......待ってくださいっ」
それから2人は横にひたすら長い水色の椅子に座った。中段の辺りだ。ここまででもかなり疲れた。端から見れば、確かにデートに来ているカップルだろう。しかも茜ときたら、ただたじろいでしまっただけの自分に対し隠し事をしているのではないかとひたすら問い詰めてくるのだから、誤魔化すので精一杯だった。いいや、そもそも何故たじろいでしまったのだろう。むしゃくしゃした気持ちが血液に混ざって体を巡るのが嫌でも分かった。
「いただきます」
「いただきます」
よく考えてみれば、茜とご飯を食べることなどあの焼き肉以来だ。あれは
「ん、このサンドイッチ美味しいですね」
茜は左隣でもぐもぐとサンドイッチを食べていた。食のことになると人一倍厳しい茜がそう言うのだから味に間違いはないだろう。夕輝も袋を開け、カツサンドを頬張った。2、3回噛むとだんだん味を感じ、なるほど確かに美味いと思ったのだった。
「にしても、動物と喋る能力か」
夕輝はふとそう口に出した。この大きなスタジアムに、水族館のスタジアム特有の臭いや空気間を感じたからだった。茜は夕輝をちらと見たあとに広く深い湖のようなプールを眺めた。夕輝も特に意味があってそんなことを言ったわけではなかったが、もぐもぐとカツサンドを食べながらぼーっとどこか遠くを見ていると、自分の発言を何と言う理由もなく振り返ってみてそして気付けばこう言っていた。
「なあ」
茜はその深いものを見つめたまま、「なんです?」と返した。風が涼しい。今だけ、この世界に自分と茜だけが取り残されたような気分だった。夕輝は同じようにそれを見下ろすと、こんな風に問いかけてみた。
「何で......何で能力なんてものがあるんだろうな」
「......なるほど」
茜はそんな質問に答えるわけでもなく、ただそのまま小さな海の底を眺め続けていた。問いかけた夕輝は夕輝で、特に答えを求めていたわけでもなく独り言のように呟いただけだったので、何を言うでもなく食べきってしまったカツサンドのゴミを袋に入れた。先程おじさんにおまけしてもらったサンドイッチが目につく。ボリュームのある玉子サンドだ。がさがさと音をたててそれを取り出すと夕輝は茜に声をかけようとした。
「......なあ、茜、これ」
「それは」
しかしながら、それを遮るように茜はこう言ったのだった。先程の問いの答えのつもりだ。サンドイッチを差し出したまま固まった夕輝を見て言ったのだった。
「......理由なんてないんですよ、きっと」
何かをあざけ笑うようにそうとだけ言うと、茜はそのまま夕輝の方へ身を乗り出した。余りにも自然な動きにたじろぎすらしなかった夕輝は、彼女が夕輝の手に持っていたサンドイッチをゆっくりと奪うまで動けずにいた。その彼女の姿を、美しいと思ったからだった。
しばらく呆然としていると、突如、夕輝の右側からパァン、と何かが破裂するような、誕生日のクラッカーのような音が聞こえた。
驚いてそちらを振り向いた頃には、夕輝の耳にもその軽快な音楽は届いていた。何を隠そう、それはショーの始まりを告げるものだった。周囲がざわつき、人々の視線がオープニングの液晶に向いた。
「わっ、始まりましたよ、夕輝くんっ!」茜が嬉しそうに叫んだ。状況をようやく把握すると椅子に正しく座り直し、「ああ」と軽く答えた。全く、本来の目的を忘れていないか不安になってしまう。
バスドラムが体にそのまま伝わってくるリズミカルな音楽に合わせて、一頭のイルカが水中から垂直に飛び出した。歓声が上がる。イルカが背びれからプールに落下すると、その水が飛び跳ねて席前列の方の人達に軽くかかる。小さな子供の楽し気な声も聞こえてきた。
大きなスクリーンには水面下の様子が映し出され、全速力で泳いでいるイルカが鮮明に見えた。やがてその巨体は斜め上へと上ってゆき、とうとう人々はその目をスクリーンからプールに移した。瞬間、イルカは中央からこれもやはり垂直に飛び出したのだった。
「うおぉ!」
やたらと興奮した茜を見ると、そんなにはしゃぐことができるのが何だか羨ましいな、とか思ってしまった。キラキラと目を輝かせている彼女には、あの若い女の人が見えているのだろうか。
間違いなく、あれが一ノ瀬とか言うイルカトレーナーだろう。彼女が能力者だ。
「茜」
「おぉぉ! 3匹同時にジャンプしましたよ!」
隣に座る友利茜は、しかし夕輝の話を全く聞いてなどいない。両耳をどこか遠くにでも置いてきたのだろうか。周りの人も異様なはしゃぎっぷりの女子高校生を不思議そうな目で見ている。こっちが恥ずかしくなってしまう。夕輝は複雑な感情で、もう一度だけ茜に話しかけた。
「おい、茜」
すると茜も今度は返事をした。
「......なんです、今良いところじゃないですか」
不機嫌さをおもむろに出して彼女はこちらを見た。それどころじゃないだろ。思った頃には口に出ていた。
「それどころじゃないだろ。能力者はいいのか? あの若そうな女の人が一ノ瀬だろ」
夕輝は青色の水着を着た背の高い女性を指差した。女性、と言うにはまだ若いかもしれない。茜はその顔をより一層不満そうにさせて夕輝を睨み、そしてふん、と拗ねたようにショーの行われている方を向いた。
「まさか、私がただイルカショーを楽しんでいるだけに見えていたんですか? 心外ですね」
答えはしなかった。恐らく、何を言っても今の茜には無駄だろう。まして返答といえばイエス以外の何物でもない。それを言って喜ぶ茜がこの世のどこにいるだろうか。夕輝はそのまま気にしないふりをしてイルカショーを見続けた。
イルカが3頭、水面から頭のみを出してくるくると回った。一体どうしてあんな風に器用に回転できるものなのか、夕輝には皆目見当もつかなかった。しかもちゃんとトレーナーの指示に従ってやっていることなのだ。驚くばかりだった。そして彼らイルカが一通りの技を終えると、トレーナーはホイッスルの甲高い音と何匹かの小さい魚を彼らに与える。
「凄いですね。全く、どうやって技を教えてるんだか......」
「昔はよくイルカと話してるんじゃないかとか考えてたけど、まさか本当に話している人間もいるなんてな」
夕輝は何の気なしにそう言ったのだが、思ったより驚いたような表情をしている茜に気付いたのはすぐのことだった。
「......何だよ」
「夕輝くんにも......」
茜は、難解なトリックアートでも見たかのような顔で言った。
「夕輝くんにも、そんなことを考えていた時期があったんですね......」
いいや、前言撤回。だんだんとその顔が緩んできている。肩が小刻みに震えている。刹那、彼女は吹き出した。そして余りにも楽しそうに笑うのだ。
こういうのを怒りと言うのならば、どんな宗教の神様も今、夕輝に茜をどつくだけの権利ぐらいくれるだろう。
「いてっ」
夕輝は彼女の頭に垂直方向に手のひらを立てて、軽くその頭に落とした。しかし今の茜の言葉も恐らく反射的に出たものではないだろう。
「失礼だな、現にそこにいるじゃないか。俺をコペルニクスかガリレオだとしたら、お前は天動説を信じる井の中の蛙だ」
夕輝は威張ったように言い張った。
「変な例えをしないで下さい、頭良いアピールですか? 反吐が出ます」
あっさりと恐ろしいことを言ってのける。とうとう反吐まで出してしまうとは。茜はそう言うと一瞬だけ夕輝を睨んで、そして高速で首を前に向けた。イルカがトレーナーの指示で胸びれを水面下から振り上げ、夕輝の列まで水を届けてくれた。これが結構冷たい。前列の方の人は皆、水浸しだ。
「前列じゃなくて良かったな」
「前列の方が良かったですかね」
同時に互いを振り向くと、瞬間、茜だけがまた前を向いた。
「濡れるの、楽しそうじゃないですか」
「子供か」
「バッチリ、16歳の子供です」
「そういうことじゃなくてな......」
いや、言っても無駄だろう。馬鹿らしい、と思った夕輝は、先程まで少しでも彼女を意識してしまっていた自分を殴りたくなった。そうだ、彼女は友利茜だった。常識のない女子高生で、その性格は見た目とは真反対だ。可愛げがない。
「食いしん坊なんだな」
夕輝は、茜があっという間におまけのサンドイッチを食べ終わってしまったのを見て言った。
「ひっどーい、か弱い女の子にそんなこと言うなんてー」
茜は心底興味無さそうにそう答えた。それでとうとう夕輝も面倒になって、黙ってショーを観るよう努めることにした。
30分のショーが終わり、夕輝たちはスタジアム裏でゴミを捨てているところだった。
ショーは、やはりと言うか何と言うか、実にレベルの高いものだった。しかしそれまでと言ってしまえばそれまでだ。茜曰く、イルカがフラフープを回したり、尾びれで水面を走るように移動したりなどというのはイルカショーではよく見かける光景らしい。特に目立ったことはなかったし、夕輝たちがもし能力のことを知らなければそういうものだろうと飲み込めていた自信がある。しかし、彼女はまだ18歳なのだ。10代で飼育員になる人間はまれにいるそうだが、実際に舞台に立つとなれば話は別である。しかも彼女は半年前にここに来たというのである。世間はそれを才能と呼ぶのだろうが、実際は能力によるもの。彼女はどこまで自分のことを分かっているのだろうか。そんな風に夕輝は考えた。
「いやあ、なかなかのものでしたね」
茜はそんな夕輝の心境を知ってか知らずか、たいそう満足そうにそう言った。
「ああ、そうだな......」と答えると、そのまま夕輝は尋ねてみた。「この後、どうするんだ?」
「そうですね......5時くらいまで水族館を観て回りますか」
「......は?」
今、彼女は何と言っただろうか。5時くらいとは何だろう。15時と5時を間違えるなんて凡ミス、彼女がしでかすわけはない。それを知っていた夕輝だから、とてもじゃないが訳は分からなかった。
「5時にならないとあの人の仕事は終わらないでしょう。それまでは待機しておくしかありません。そして5時を過ぎたら、彼女がいつも仕事帰りに1人で寄るカフェに突撃します」
「カフェ? 何でそんなことまで知ってるんだよ」
すると、茜は「なんだ、君のことだから行きの電車でとっくに調べていたかと思ってましたよ」と言って、自分のスマホを取り出した。彼女はいくつかスマホをタップ、スワイプすると夕輝にそれを渡した。「これです」
「これは......?」
見るとそれは、SNSのサイトだった。表示されているのは一ノ瀬の名前と、彼女が撮影したとみられるカフェラテの写真だった。ハートマークの横に1.2万と書いてあることから、SNSをやっていない夕輝ですら茜の言いたいことは分かった。
「しっかしまあ、こんな風に行きつけのお店をSNSに上げて大丈夫なんですかね」
確かにそうだ。現に行動が筒抜けだからこそ茜はあんな提案をしてきたわけで、しかもその推理は推理と言うには馬鹿馬鹿しい程に単純だ。この大きな分母の中には、変人の1人や2人、いても不思議ではない。ミーハーだって沢山いるかもしれない。ただ、何ヵ月も前のこれが最後の投稿であるという点については、若干気になった。
夕輝が何も言わないと理解すると茜は、「ま、今はそんなこと考えたってどうしようもありません。適当にぶらぶらするとしましょう」とだけ言い、歩き始めた。夕輝も茜に付いて足を前に出した。
2人はそのまま、約4時間に及ぶ水族館での午後を満喫した。夕輝はあくまでこれを生徒会活動の一環だと考えていたためそんな気にはなれなかったが、茜はとても楽しそうにしていたから、来た甲斐があったと言うものだ、とも思った。ここまで楽しまれると逆に驚いてしまう。4時間もいたら流石に飽きるだろうとか思っていたが、茜は見事に夕輝の予想を裏切った。最後の1時間など、生徒会の皆へのお土産を何にするかで悩んでいた。勿論食べ物だ。茜自身この水族館には何度か来たことがあったようで、あれにしようか、でもあれも美味しいんだよなぁ、とか言っていたが、結局全部買うことに決めた、と聞いたときには色々な意味で彼女らしいと思ったものだった。完全に自分が食べることを考慮している。
一方夕輝は夕輝で、ちゃんと春へのお土産を見つけた。それが目に入った瞬間、わが妹の喜ぶ顔を想像したものだ。両手に乗るくらいのサイズで、お値段は1200円のぬいぐるみ。夕輝の金銭感覚では少々値が張るな、と思ったが、この時期限定のコラボグッズらしいので買わない選択肢はないとも思った。
水色で真ん丸の体に、キャラベンにするなら間違いなく海苔を使うであろう横に細長い2つの目。それらをくるむように全方向から白と黒が包み、それが頭の方へと伸びてペンギンを作っている。くちばしはオレンジ色で、雪だるまに刺したにんじんのようだ。
「夕輝くん、そんなの買うんですか?」
それを手にとって見ていたところ、茜が気付いてそう問いかけてきた。
「妹が好きなんでな」
茜は知らないと思っていたが、しかし彼女の見聞は多分野に渡るようで、興味深そうに口に出した。
「スライまる......ですよね」
生意気そうなスライまるが偉そうに茜を見下している。頭に被ったペンギンもスライまると同じような表情をしているが、これはこの水族館のマスコットキャラクターなのだ。偶然にも表情が似すぎていたため、コラボしたらしい。見ていてほのぼのする。
「知ってるのか」
「ええ、ちょっと目にしたことがあるぐらいですけどね」
「......へえ」
以前から物知りだとは思っていたが、それにしても、と再度夕輝は茜に少し感心したのだった。
ふと、茜が時計を確認した。夕輝もそろそろだと思っていたので一瞬彼女がそれを忘れているのではないかと心配していたが、その必要はなかったようだ。彼女はこういう面では確かにしっかりしている。これが彼女が生徒会でリーダー的存在としての役割を担える理由だ。
「......そろそろですね」
「そうだな」
2人は会計を済ませてしまうと、お土産ショップから出た。色々と購入した茜の会計に予想以上の時間がかかってしまったが、それも見越して少し早く行動を移したのは幸いした。夕輝は茜の両手を塞ぐいくつものお土産用の紙袋に若干引きながらも、余裕を持って水族館を出た。再入場用の不思議なスタンプを見て、あれにブラックライトを当てると光るのは何が原因なのだろうかとか考えていたとき、茜に「押したかったんですか?」と聞かれたのは心外だった。「そんなことを考える高校生はお前ぐらいだ」とだけ返し、適当にあしらっておいた。
彼女は今日も行きつけのカフェに向かっていた。少しだけ気が重い。カフェに続く交差点を遠くに見ながら、イヤホンで耳を塞いだ。今風のJ-POPが脳に直接届く。
どうして、と彼女は思っていた。上手くいったはずだったのに、と。最初はこれで良いと思っていたのだ。彼女にとって望ましい展開だったはずだ。
それなのに、何故。
もやもやした思考を止めるように軽くため息をつくと、背の高い体を目的地に向けて1歩ずつ進めていった。
「いつもの」とだけ言って彼女は空いていたテーブル席に座った。円形で黒く、左右と奥に3つ椅子があるある程度大きいテーブルだ。おしゃれな雰囲気の内装には木目調のフローリング。天窓からは心地よい光が差し込み、店内を明るくモダンなイメージに仕立て上げる。
風鈴の音がした。カフェに人が入ってきたことを知らせる合図だ。この9月には、涼しげなこの音になかなか風情があって良い。ふとそちらを振り向いてみると、恐らく高校生と見られる男女2人組だった。デートだろうか。彼氏の方は小さなショルダーバッグと片手にぶら下がった袋しか持っていなかったが、彼女の方は両手にいくつも紙袋を提げていた。そして、それですぐに気付いた。彼らは三鷹水族館に行っていたのだ。
何やら少し揉めている。彼女の方が呆れたような顔をしていることから想像がついた。
微笑ましい光景だな、と思いながら目線をテーブルに戻すと、彼女はカフェラテを待ち続けた。この店のラテは格別で、エスプレッソの良い舌触りと鼻に抜ける香りに牛乳とが合わさって、抜群の苦味と甘味のバランスを作り上げる。以前は色々な種類のコーヒーを試していたのだが、最近はと言うと、これしか飲まなくなっている。一番落ち着く味なのだ。
そんな風に考えていたちょうどそのとき、「すみません」と声がしたのには少しだけびっくりした。勿論、これが店員だったらびっくりなどしない。すぐに声のした右前を見た理由は、それがまだ自分よりも少し若いものだと気付いたからだった。
それは、先程このカフェに入ってきたばかりの2人組だった。声をかけてきたのは女の子の方。彼女はすぐにこう言った。「相席しても構いませんか?」「え?」
彼女はそう聞かれるや否や、すぐに周りを見渡した。学園カーストでトップにいそうな女子高生4人、少し仕事休みに来たように見える女性と、店内にいるのはそのくらいの人で、休日のこの時間とは言え、流石に席に空きはある。彼女はすぐに、またか、と思った。
「......それ、うちの水族館のお土産よね?」
「ええ、そうです」
「私に、何か用があって来たの?」
嫌味に感じさせないよう丁寧に彼女は言った。
「ええ、そうです」
その女の子は落ち着いた口調で答える。可愛らしい顔立ちのその少女の声は美しい。
「悪いけど、今はオフだからごめんね。また今度、ショーで会いましょう。手を振ってくれたらきっと気付くから」
にこり、と気持ちよく笑えた自信がある。それでこの2人が足早に立ち去ってくれれば良いのだけれど、と思っていたが、彼女の口から出たのは予想外の言葉だった。
「いえ、違うんです」
「え?」
友利茜は、透き通った目で彼女を見つめ、言った。
「今日、我々......いえ、私と彼が話したいのは、あなたの力についてです」
その瞬間、心臓が飛び跳ねた。
一気に頭が真っ白になり、その白い頭で考えた。何故、と。そしてこんなことを考えた。つまり、いいや、これは思い違いかもしれない、彼女が話しているのは全く別の話である、と。
「力......って、何の話かしら?」
しかし奇しくも、その質問こそが、その解答こそが決定打だった。茜は言った。
「あなたの、イルカとコミュニケーションをとる力のことです。話す、と言っても良いでしょうね」
もう一度、どきりとした。心拍数がどんどん上がっていくのが分かる。自分がした悪事がばれるような背徳感が襲う。そして目の前にいる少女の顔を見ていると、まるで自分の心の内を全て見透かされているような気持ちになって仕方がない。
「......あなたは、一体......?」
恐る恐るそう尋ねてきた一ノ瀬に、茜はこう返した。
「相席、良いですよね?」
「私はカプチーノで、彼は多分こういうところ来たことないと思うんで、普通のコーヒーでお願いします」
アルバイトだろうか、一ノ瀬と同じくらいの女性店員がやってきたので、茜と夕輝は彼女に注文した。いいや、どちらかと言うと夕輝の立場からすれば、勝手に茜に注文された、と言うのが正しいだろうが、生憎にも間違いのない選択だったので何も言わなかった。
「それで、どうしてこの力のことを?」
前に茜、左手に夕輝を見て、彼女は問いかけた。まだ不審なものを見ているような顔をしている彼女は、上手く状況整理ができていないようだ。
「自己紹介が遅れましたね。私達は、星ノ海学園生徒会です」
茜はまずはそんな風に答えた。彼女としては緊張をほぐすような感覚だろう。
「生徒会?」
一ノ瀬の頭上にいくつものクエスチョンマークが浮かんだ。高校の生徒会と、自分の持つ力にどんな関係があるのだろうか。そんな風に思考を働かせることで落ち着きを少しずつ取り戻させるのだから、茜の一言ひとことにはいつも驚かされる。
「ええ、世の中にはあなた以外にも沢山の、力を持つ人間が存在します。私達はそういう人たちを能力者と呼んでいて、例えばあなたのように動物と話す以外にも、他人に幻覚を見せたり、火を吹いたり、幸運を呼んだりとその種類は様々です」
いっぺんにそんなことを言ってしまうと一ノ瀬は余計に混乱するだけだったが、恐らくこれで良いのだろう。彼女自身、混乱しながらもその意味はちゃんと理解している。火を吹くなどという非日常なことを言われても受け入れざるを得ないのは、彼女自身も非日常な力を持っているからだ。一ノ瀬はゆっくりとそれを飲み込んだ。
「......それで、私に何を?」
こんなカフェにも子連れはいるようで、きゃっきゃと騒ぐ子供の声が聞こえた。母親が困ったように注意している。
「あなたには金輪際、その能力を使わないで頂きたいんです」
ちょうど、3人分のコーヒーがやってきた。先程と同じ女性店員が運んできたそれは、コーヒー独特の苦味を含んだ香りを夕輝たちの鼻に運んできた。ぺこり、とお辞儀をして店員は去っていった。
一ノ瀬が何を考えてるとも知れぬ様子で、カフェラテを一口飲む。やけに静かだったが、夕輝にも茜にも、一ノ瀬が落ち着いているように見えた。まるで、いつかこんなことを言われるのではないか、と分かっていたような顔をして。彼女はカップから口を離すと、ことり、と小さな音をたててそれをテーブルに置き、ようやく口を開いた。
「なるほどね......。分かった、もう動物と話すのはやめることにするわ」
「え?」
どうしてここまですんなりと了承する人間がいようか、夕輝には不思議でたまらず、思わずそう漏らしていた。単純に驚いたのだ。
「やけに素直ですね」
茜も同じ気持ちなのだろう、彼女に問いかけた後、カプチーノを少し飲んだ。一ノ瀬は今、少しだけ微笑むように表情を変えたが、それが夕輝にはどうも自分を取り繕っているように見えてしまい、寂しいような、変な気持ちになってしまう。
「ええ......だって、分かってたもの。私が本当はズルをしているだけなんだって。あのね」
その綺麗な顔がそう発した。それがどれだけ痛みを伴っているのか、夕輝にも茜にも計り知れないことだった。
「私、ずっとドルフィントレーナーに憧れてたの。だって格好いいじゃない、あんな風にイルカと話すみたいにコミュニケーションして、色んな技を教えて......。何より、イルカとあんな風に仲良くできるなんて、凄いって思ってたのよ」
だんだんと声量が落ちていくのは、彼女がこれから話したくもないことを話そうとしているからに他ならないだろう。
「だから、最初に動物と喋ったときには本当に驚いたし、これならドルフィントレーナーにだってなれるかもしれない、ってそう思ったわ」
そして、実際そうなった。だから今、彼女は最小年ドルフィントレーナーとして活躍しているのだ。でもね、と彼女は言った。
「最近、新しいイルカがやって来たのよ。ほら、半年前くらいニュースになってたじゃない。今いるイルカの繁殖だけじゃショーのイルカが足りなくなって、しぶしぶイルカの追い込み漁が再開されることになったって話」
知っている、と夕輝は思った。イルカの追い込み漁と言えば、もともとはイルカショーのイルカを捕獲する最適な漁だったが、倫理規程に反するとして行われなくなった漁。それが今、2040年になって再開された、というのは一時期各報道メディアを騒がせたちょっとした事件だったのだ。一ノ瀬は続けた。
「それまで飼っていたイルカたちとは割と仲良くしてたのよ、私。......でもね、追い込み漁でやってきた1頭のイルカ......ヒメって言って、女の子だったんだけどね......。本当に悲しんでたの」
突然にして、重たいものがのしかかってきたような耐え難い圧が夕輝を襲った。どくん、と心臓が悲鳴を上げるように動くのが聞こえた。怖かった。続きを聞きたくなかった。何より夕輝が続きを聞くのを恐れた理由は『名前がヒメという女の子のイルカだった』というその言い回しにあった。茜は依然として冷静な表情で彼女の話を聞き続ける。一ノ瀬は、何と言うか、余りにもあっさりと言ってのけた。夕輝の表情を見てのことだろう。
「彼女、すぐに死んじゃったの。ストレスで」
「っ!」
分かっていたからこそ、夕輝は聞きたくなかった。いくら頭で理解していようと、実際に事実を突きつけられるのと突きつけられないのとでは全然違うし、勿論、事実を突きつけられただけで、実際に見るのと見ないのでは天と地ほど違うのだから、一ノ瀬の痛みは相当のものだっただろう。
「私だけが......私だけが、気付いてた。彼女が孤独な思いをしているって、私だけが分かってたのに......」
彼女の表情からは、悔しさと虚しさの両方がが現れていた。目線はどこを向いているのかはっきりしておらず、焦点も合っていないように見えた。そこから涙が落ちるのも時間の問題だった。
「私は、彼女に何もしてやれなかった......。気付けていたのに、大丈夫だろうとたかをくくって......」
口をきつく結び、俯きながらぽろぽろと涙をこぼし続けた彼女はしかし、茜を見て微笑んだ。
「だから......私、嬉しかったのよ。やっちゃいけない、って言ってもらえて。これがいけないことなら、いくら先輩トレーナーに迷惑をかけてももうやる必要なんてない......」
それから涙を拭うと、もう一度彼女は寂しそうに笑って言った。
「私、もうドルフィントレーナー止めるわ。もっとまともな職に就くことにする」
その笑顔を見てやっと、彼女が今まで抱え込んでいたものの正体が分かった気がした。胸が痛くないわけがなかった。今にも張り裂けそうだった。
茜はどんな気持ちだったのだろう。さほど表情を変えることもなく、ずっと話を聞き続けていた。凄いな、と夕輝は思った。
そして、すぐにその自分の考えの間違いに気付いた。
違う。彼女だってきっと、夕輝と同じような感情を抱いているはずなのだ。そうに決まっている。それでも、彼女は表情を変えてはいけないのだ。彼女は、友利茜なのだ。
それは、余りにも脆く危ういもの。何度も彼女に感じた感覚。
「......そうですか。分かりました」
茜は、そうとだけ答えた。ありがとうございます、などと言うべき状況でなければ、先入能力を使う必要もなかった。
からん、と冷たい風鈴の音がした。
帰り道は既に暗く、季節の移り変わりをだんだんと感じるようになってしまった。高校生になってから、急に時間の進みが速くなってしまった。充実していると言えばそうなのかもしれないが、少しだけ寂しかった。
この時間、バスに乗るのは夕輝と茜ぐらいで、恐らく水族館の客の殆どは既に帰ってしまっているのだろう。閉館時間からそれなりに時間が経っている。
「にしても、すごい量だな......」
夕輝は2人分の座席を占領している茜のお土産を見てぽろりとそんな風にこぼした。特に意味はなかった。茜も何か別のことを考えているようで、何も答えなかった。
信号機の赤色の部分が光り、バスはゆっくりと止まった。広いバスの中、夕輝はふと、こんなことを口に出してみた。
「......能力者になる人間と、ならない人間ってどう違うんだろうな」
ぴくりと茜は反応した。
「それは......どういう意味ですか?」
「そのまんまの意味さ」
「......なら、それは私には分かりかねます」
茜がこんな言い回しをしたのにはきちんとわけがある。すなわち、夕輝はもう分かっていて聞いているんではないか、と。以前から思う節はあって、しかし今回のことが決定的で聞いたのではないか、と。が、仮にそうであったとしても、そうでなかったとしても、自分の口から言うべきではないと彼女は判断したのだ。
彼女がそんな濁し方をするならば夕輝は、自分から言うしかないと思った。恐らく彼女は、正解を与えるまで本当のことを言おうとはしない。それは、夕輝を気遣ってのことである。
夕輝はどうでもいいことのように口を開いた。
「......欲望、だろ」
「......」
茜は何も答えなかった。この沈黙は肯定を表すものであろう。
「今まで沢山の能力者を見てきたけど、1人として、能力に気付いた上で能力を使ってないやつなんていなかった」
ただし、夕輝を除いて。
「俺の場合は、多分......無意識のうちに思ってた本来の目的からずれていたから気付いてからも殆ど使わなかったけど、他の連中は皆、能力を自らの望みのために使ってた。そしてそれは、能力が発現したから使った、と言うよりは目的が先に来て、その目的のために能力が生まれた、って風に見えた」
思えばそうだ。初めて出会った能力者の江道は、友人が自殺したために虐めを無くしたいと思い、それによって能力が生まれた。マジシャンになりたかった斉藤は幻覚を見せる能力を得たし、チームの役に立ちたかった野球少年の西口はホームランを打つ能力を得た。
「今日、確信したんだ。俺にこんな能力が宿った理由も」
茜は黙ったままでいたが、夕輝がそう言うと寂しそうな目をして丈の短い自分のスカートをぎゅっと握った。
「知ってるかも知れないけど......俺の母さん、俺が小6の時に病気で亡くなって、父さんは現実逃避するみたいに仕事しかしなくなって......」
夕輝にとってそれは、生易しい思い出ではなかった。言葉にするのも辛かった。
「妹の春と2人で暮らし始めて、でも俺も父さんと同じで、何かしてないといてもたってもいられなくてさ......勉強ばっかしてた。良い成績を取ったら母さんが褒めてくれるような気がしたんだ。......実際は、そんな母親なんてどこにもいないのに」
自分で言っていて、それは余りにも辛いことだった。じわじわと胸の奥が焼かれていくような熱い痛みを伴ったし、茜にもさっきの今でこんな話をするなんて申し訳ないと思っていた。
「他人が羨ましかったんだ。褒めてもらえる他人が。誰かに見てもらえる他人が。誰かに必要とされている他人が。自己顕示欲ってやつだ。そんで、気付いたら......他人になりたいなんて願うようになっていた。その結果、俺は他人の能力をコピーする力を得たし、だからその手段が他人に乗り移ることなんだろう。......全く、間抜けな話だよな」
茜は何も言わなかった。言えなかった。彼の言葉を取り繕うことも、否定することもしなかった。全ては事実であって、そして変にねじ曲げようとすればむしろ彼の傷を抉ることになるから。
だから、話を逸らすでもなく、こう聞いてみたのだ。
「そんな話を......何で私に?」
「え?」
夕輝は、それが予想外の質問だったためきょとんとしてしまった。何で、と来たか。
「何で。何で、か......。何でだろうな」
そして、割と真剣に考えてしまった。そうだ、よく考えたら何故だろう? 確かに今の話の流れ上、言った方が融通は聞くだろうが、この生徒会のことだし生徒会員のことはくまなく調べているはずだ。巧のときもそうだった。説明を省くこともできたはずなのに、これじゃあまるで......。
茜が夕輝よりもきょとんとしていたのは言うまでもないことだった。それに気付くとすぐに夕輝は、「さあ? 何となくだよ」と答えたが、生憎遅かったようで茜は笑った。笑うな、と恥ずかしさ混じりに怒ると、むしろその笑い声は大きくなった。どうすれば良いのだろう。いっそ笑えと言った方がこの笑い声は止まるのだろうか。そんな風に考えていると、今までのことが何だか馬鹿馬鹿しくなってしまう。どうも、茜にはそういう力があるのだ。
「あはははっ」
「笑うなっ」
軽くチョップをお見舞いしてやる。
「いてっ」
「絶対思ってないだろ」
「思ってますー。ひっどーい、か弱い乙女に暴力を振るっておいてそんなこと言うんですかー」
「はいはいすいません」
「思ってませんね」
むっ、と夕輝は少し低い茜を隣に睨んだ。茜も目線を上げてきた。鋭い目付きである。
しかし、どうもやる気がでなくなってしまい、夕輝はそのまま目を逸らした。今日は彼女とここから戦い合う気力も、もう一度笑い合う気力も残っていない気がする。茜だって本当はそうなんだろう。茜もそれを察したようで、再び前を向いた。
停留所が見えた。
「今日はお疲れ様でした、ゆっくり休んでください」
茜は珍しく、少しだけ微笑んでくれた。これにどきりとしてしまった自分が悔しい。
「ああ、お疲れ、じゃあな」
同じマンションの同じ階に住む彼女を、玄関まで送った。と言うよりは、その延長に夕輝の家の部屋があるというだけなのだが。
彼女は玄関を開け、さっさと家に入ってしまった。夕輝はそれを見届けると残りの数メートルのために歩き始めた。そしてその途中、あの言葉を不意に思い出した。
『そんな話を、何で私に?』
思えば答えは簡単なものだ、と夕輝は呟く。
「ただの自己顕示欲だよ、きっと」
家の中では春が、食事を作って待っている。
鍵を開けドアノブを捻ると、夕輝もさっさと家に入った。
ここから、僅か1週間後のことである。
事件は起きた。
はい、というわけで第六話でした。
楽しんでいただけたでしょうか?
またひとつ、能力者についての謎が解明されました。
『能力者が欲望によるものだ』という考え方はしばしば色々なサイトで考察されていることですし、コミカライズでわざわざ追加されたテストの回のことを考えると、公式様(麻枝准様)もその設定のつもりだったのかも知れません。柚咲の能力なんかは分かりやすい例ですね。
高城や熊耳も、多少頑張れば無理矢理でも説明できないことはありません。
ですが、原作にはこの考え方で唯一説明できない能力者が──と、これ以上を語るのは控えることにしましょう。
お察し下さい。
今回の二次創作では、その辺りについても辻褄を合わせていきますので、これからもお付き合い頂けたら嬉しいです。
最後、意味深な終わり方をしていましたが、少々ありがち過ぎたでしょうか?
次回から怒濤の展開です。
執筆に少し時間がかかってしまいますが、今しばらくお待ちください。