絶望と悲劇とほんの少しの幸福だけしかない闇だと、そう思っていた。
それでも、私は。
私は、此処にいる。
私にとって、世界は黒いペンキで真っ黒に塗りつぶされた、絶望と悲劇しかない闇だと、そう思っていた。
一九六五年十一月十四日。南ベトナム。
私たちは、前日にアメリカ軍基地を襲撃した北ベトナム軍を追撃するため、カンボジア国境付近のイア・ドラン渓谷へ派遣された。
派遣されたのは、第七航空騎兵連隊(ギャリーオーウェン)の一個大隊、四五〇名。
着陸地点確保の為、先遣隊が到着した時には、すでに四千人の北ベトナム軍が私達の周りを囲んでいた。
司令部は諜報員の情報を全く活かせていなかったのだ。兵士達を泥沼の闘争へと送り込む事になることも知らないで、彼らは無責任な指令を与え続けた。
鬱蒼と茂るジャングルに、断続的な銃声と爆発音、そして悲鳴が響いている。通信兵がしきりに無線機に援軍を請う怒声を聞きながら、私は夥しい遺体の中で、微かに残った命を長らえさせるために奔走していた。
だが、救う命より、奪う命のほうが圧倒的に多かった。命の灯が消えゆく仲間の姿を見ながら、敵を殺す。時折、私自身衛生兵なのかと疑い、その役目を成していないのではないかと、ジレンマに陥るようになった。
「大丈夫か! 今行く!」
泥濘に埋もれた遺体の山の中から、微かにうめき声が聞こえ、私は交錯する銃弾を掻い潜るように泥濘の中を這い、声の主に近づいた。
今まで看取ってきた彼らとは違い、泥の中に蹲る兵士は、私の良く知る兵士だった。
彼はこのベトナムの地へ来て初めて親しくなった友人だ。
私より一年ほど前にこの地へ配属された彼は、慣れない土地に戸惑う私によく世話を焼いてくれた。陽気で、仲間思いの太陽のような彼は、私にとってかけがえのない親友になっていた。
ヘルメットが脱げ、綺麗な金髪が泥に汚れている。大量の血液が彼の体から泥濘に流出しているのが見て取れた。それは赤いはずなのに、泥に混ざって真っ黒な絵の具のようだ。
私は顔を顰めた。ああ、『また』だ。
「頼む……殺してくれ…殺して…く…れ」
この言葉を聞くのは、幾度目だろうか。もはや数えても意味が無いほどに、その言葉を耳にしてきた。
泥濘の中、もがき続ける戦友の怪我の状態を診る。腹部に被弾、内臓が露出している。それに加えて爆風のせいか、左脚が吹き飛んでしまって、今のままではどうすることもできない。
私は腰のメディカルバッグの中から、モルヒネを取り出し、彼に注射しようとした。気休めにしかならないのは判っている。どうにかして彼を生かしたかった。
だが、彼はモルヒネを持つ私の手を弱弱しい手で押しとどめた。
「だめだ。これは、ほかのやつに使え…」
「衛生兵(メディック)こっちだ!早く!負傷者を運べ!」
向こうで私を呼ぶ声が聞こえる。だが、血みどろの彼を残してはいけない。
「だが……」
「いいんだ。だから俺を殺してくれ……頼む……」
「……駄目だ……私は衛生兵だ…それはできない。それに君は私の友達だろう!?」
「頼む、酷く痛いんだ…助からないのは判ってる。俺をこの苦しみから解放してくれ……」
今にも消えてしまいそうな声で、彼が言った。スカイブルーの瞳が、私の迷いを責めるように見つめている。確かに、劣悪な衛生環境、満足な治療用の薬も道具もないこの状況では彼を生存させ帰還させるのは、非常に困難だ。そして、私達は四千人の敵に包囲されている。今生きている者が生きて帰れるのかも判らない。
私は震える手で、コルトを抜き、彼の胸に銃口を向けた。だが、引き金を引くことができない。瘧のように体が震え、歯がカチカチと鳴った。目の前の彼の顔が滲んでぼやけ、まともに見ることが出来なかった。
「すまない。■■■■。ありがとう」
私の名前を呼んだようだが、殆ど掠れて聞こえなかった。驚く程の力で、彼は血と泥に塗れた手で私の手ごとコルトを掴み、引き金を引いた。びくり、と体が跳ね、二度と動くことはなかった。
手の中のコルトが爆ぜた音を最後に、私の周りの全てが真っ黒に塗りつぶされたような錯覚を覚えた。自分の呼吸と、鼓動が煩いほどに鼓膜を叩いている。
誰かが私を呼んだ気がした。だが、体が動かない。コルトを握る私の手には、真っ黒なモノがねちゃねちゃと纏わりつき、全身を侵してゆくように思えた。
震える手で、彼のドッグタグを引きちぎりポケットに入れる。するといきなり、がさりと目の前で茂みが揺れ、私は反射的に銃を向けた。
そこには小柄な色黒の兵士が驚いたような顔を私に向け突っ立っていた。彼はその体に不釣り合いなほど大きなAK‐47を持ち、その銃口を私に向けた。
彼はその黒い瞳で長いこと私を見つめていたが、何故か発砲することはなかった。私はというと、泥の中で蹲り、戦友の遺体を抱えて涙を流すという無様な姿を晒していた。
だが、その均衡は数発の銃弾によって崩れ去った。私の後方から飛んできた銃弾は、小柄なベトコンの頭と胸に命中し、彼は糸が切れたマリオネットのように頽れた。
真っ黒なペンキの血を噴き出して。
呆然と、目の前の光景を見つめていると、後ろから聞きなれた言語が聞こえた。
「おい!聞こえるか!」
肩を思い切り揺すられ、はっと我に返る。全身泥と血に塗れて顔すらわからない味方の兵が、私を呼ぶ。
ああ、そうだ。任務を全うしなければ。
でも、何故だろう。血も、泥も、全て同じに見える。真っ黒なペンキが、全てを塗りつぶす。
「見ろ!UH-1(ヒューイ)だ!」
声のほうを見た。迷彩塗装のガンシップが列を成して、こちらへ飛んでくる。それは冥界からの使者のようにも見えた。
苛烈な空爆が始まり、泥と血と、肉が巻き上がる。目の前の敵の悲鳴が轟音にかき消された。そして、私の視界は真っ黒に塗りつぶされた。
あの泥沼のような戦争で、沢山の仲間が死んだ。
私も味方の空爆に巻き込まれ、酷い怪我を負ったが、奇跡的にその命を拾うことが出来た。その後、一度キャンプ・ハロウェイの軍病院に搬送され、本国へ送還された。
もう、あの地獄のような戦場へ行かなくてもいいのだという安堵感が私の胸に広がっていた。
だが、私の期待とは裏腹に、物事はそう上手くいくことはなかった。
祖国の人々は、泥と血の中を這いつくばっている数十万の私たちより、月へ向かった二人の男の事しか心配していなかったのだ。
帰還した私達に向けられたのは、月へ行った英雄達とは真逆の、冷たい視線と罵倒の声だった。
飛行機を降り、基地の外で戦いに疲弊した私達を待っていたのは、『人殺し』『地獄に落ちろ』というプラカードを持った大勢の人々だった。
あれほど帰りたかった故郷に、自分の居場所が無いことを知った。
それは人を絶望に突き落とし、全てを狂わせる。
私はそれから、眠ることが出来なくなった。眠りに落ちると決まって、真っ黒なペンキを腹から、首から、口から眼から噴き出した戦友たちが、そして、あの若きベトコンが助けてくれと叫ぶのだ。
毎晩毎晩、ベッドから飛び起きる日が続き、私は精神のバランスを欠いてしまったのだろう。だんだん壊れてゆく私に、家族ですら私を奇異な眼で見始めていた。
日中、起きているときでも、その悪夢を見ることが多くなった。
『もう、彼を病院に入れたほうがいいんじゃないの?』
そんな時、家の中で彼らがひそひそと話しているのを聞いてしまった。
最初こそ戦場からの帰還兵という同情的な眼で見られていたが、彼らにとってもはや私は『厄介者』でしかなかったのだ。目の前が真っ暗になり、私はどす黒い怒りの炎が身を焦がすような錯覚を覚えた。
怪我が完治すると、私は軍を去り、家族を捨てて世界を転々とした。もう、あの薄っぺらな正義を振りかざす欺瞞に満ちた国に居たくはなかった。
しかし向かった先は、結局戦場だった。今まで助けられなかった、そして自らの手で殺した戦友への贖罪の為といえば聞こえはいいが、戦場に居るときだけはあの恐ろしい夢を思い出さずに済むというのが、理由だった。
ラオス、グアテマラ、そして、コロンビア。私は紛争地帯を転々とし、そこで衛生兵、時には医者として渡り歩いた。
幸い、私には技術があった為、食うには困らなかった。内政が混乱して居る国には、もぐりの医者がごまんといる。そのうちの一人が私だった。
戦場で傷ついた兵士やそれに巻き込まれた人々を治療し、彼らに礼を言われる事も数多くあった。その時、私の心は一時の安らぎを、そして生きているという実感を得ていた。
祖国に失くした居場所を、一時だけでもその場所に見出していたのだ。
殆ど荷物は持たなかったが、最小限の医療機器と、二人分のドッグタグだけは肌身離さず身に着けていた。
様々な国を渡り歩くうちに、自然と兵士達やゲリラ戦士達とも言葉を交わす機会も増えてゆく。
だが私は必要以上に自分の事を話すことはせず、常に一定の距離を置いていた。
失う事の痛みを知った人間は強くなるというが、それは嘘だ。もう二度と失いたくないから、強くなったと思い込む。
そして相変わらず、あの恐ろしい夢は私を苛み、それを振り払うように目の前の仕事に没頭するようになった。
年月が過ぎ、私はコロンビアの軍病院で働き始めた。
当時、コロンビアは政情が不安定な上に反政府ゲリラと政府軍の小競り合いが頻繁に起きていて、病院は慢性的な人手不足に悩まされていた。
もうすっかり板についたスペイン語で経歴を話すと、政府の担当者はすぐにでも働いて欲しいと言ってきた。渡りに船とばかりにその話に飛びついた。
次々と運ばれてくる負傷者に、忙殺されていたそんなある日、脚を撃たれて運ばれてきた若い兵士が、拙い英語で私に声をかけてきた。
「ああ、痛え……」
「大丈夫だ。弾は抜けている。麻酔はないが、我慢してくれよ。すぐ済ませるから」
「ありがとう。先生。……その、ドッグタグ……あんた、ベトナム帰りか?」
「……まぁ、そうだ」
「なぁ、今までベトコンを何人殺したんだ?」
「さぁ……。でも、救う命より遥かに多かったのは確かさ」
「ふぅん。あんた、変わってるな」
「そうかな」
「ああ。なんか、俺たちの『ボス』に似てる。不思議だな。顔も全く違うのに」
『ボス』と口にした彼の表情は、誇らしげで、羨ましいほどに輝いて見えた。
縫合している間も、彼は『ボス』がどんなに素晴らしい人物かをずっと語り続けていた。驚いたことに、病室に居た全員が『ボス』の事を知っているらしく、信仰にも近い感情を持っているようだった。
私は生憎ここに来たばかりで、『ボス』がどんな人物なのかを知らなかった。そして私は、その『ボス』とやらに興味が湧いていた。
コロンビアに来て一カ月が経った。病院のスタッフや患者達からも信頼され始め、よそ者の扱いを受けることも減っていった。
そんな時、私は一人の少女に出会った。彼女はゲリラに両親を殺され、幼い弟妹を養うためにこの病院で働き始めたと言っていた。
名前はアルマ。まだ、十四歳の少女だった。
彼女は働き者で、患者の汚れ物やシーツの洗濯、排泄の世話、病室の掃除などを決して厭うことなく真面目にこなし、周りのスタッフや患者達からの評判も良かった。
彼女の素朴な笑顔と優しさが、戦いに疲弊した彼らの心を癒していたのかもしれない。
「私は弟たちを学校に行かせたいんです」
いつかそう話した彼女の真っ直ぐな眼が眩しくて、私はまともに見ることが出来なかった。
アルマは『よそ者』の私にもよく懐いてくれて、私は少しでも彼女の為になればと思い、英語を教えると申し出た。
将来、医療の道を歩みたいと言っていたのを覚えていたからだ。彼女は少し驚いた顔をして、本当に嬉しそうに笑っていた。
それから、仕事が終わった後、時間が出来るたびに、私は病院の小さな事務室で彼女に英語を教え始めた。
英語を教え始めて数週間が経ち、その持ち前の勤勉さで彼女の英語は驚くほど上達していた。頭の回転も速く、医療専門用語も難なく覚えてしまうのだ。
「すごいな。これなら、アイビー・リーグへ行くのも夢じゃない」
私は賞賛の意を込めて彼女に言った。
だが、彼女は寂しそうに笑いながら、「そんなお金ないですから」と言うだけだった。
その翌日、私は丁度オフだったので、町の郵便局へ行って、アメリカからの小包を受け取った。中身は英語の辞書と医療の専門書だ。
アルマがいつもボロボロの辞書を使っているのが気になったのもあるが、日頃の真面目な働きぶりへの細やかな御礼として、彼女にプレゼントしようと考えたのだ。
彼女に出会ってから、不思議とあの夢を見ることがなくなり、体調も良い。
私は包みを開けたアルマの驚く顔を楽しみにしながら、帰路に就いた。
だが翌日、アルマの姿を見ることはなかった。
真面目な彼女が、無断で仕事を放り出すわけがない。
私は言いしれぬ不安を感じていた。今思えば、虫の知らせだったのかもしれない。
連絡もないままに、次の日になり、そしてその日も彼女は来なかった。
私は彼女の身に何かが起きたのではないかと思った。
スタッフ達に聞いても、困惑したように知らないと言うばかりで埒が明かなかった。警察にも話したが、よそ者が何を言っているのかと相手にすらされなかった。
三日が経ったが、彼女の行方はようとして知れなかった。様々な所を聞きまわり、探し回ったが、無駄だった。
しかしある朝、不安と苛立ちを募らせ休憩所で普段吸う事のないタバコをふかしている時、思わぬところから手がかりを得た。
「先生」
一人の兵士が、私の傍に寄ってきた。顔を見ると、前に脚を撃たれて運ばれてきた若い兵士だった。
彼はあたりを見回すようにして人がいないことを確かめると、小さな声で言った。
「あの子の事だが……もう、探しても無駄かもしれない」
私は驚き、彼を見つめた。
「三日前、政府の治安部隊に拘束されるのを見た者がいた。噂によれば、彼女は反乱組織のスパイという線が濃厚のようだ」
その言葉に血の気が引いた。今は別の施設に連行されて、酷い尋問を受けているだろうと彼は付け加えた。
「彼女はまだ十代だ。そんなことは許されない。たとえ彼女がスパイであろうとも」
彼の話によれば、彼女は年齢を偽っており、二十歳も過ぎているということ、そして軍病院に入り込み、そこで得た情報を反政府組織に流していたということだ。
だが、私は躊躇することなく、彼にアルマの居場所を聞いていた。彼は少し戸惑いながら口を開いた。
「先生。事の次第によっては、あんたにもスパイ容疑がかかっちまう。それは判っているはずだ」
判っていた。だが、私は彼女を救わなければならなかった。
私の決心が揺らぐことは無いと悟ると、彼はやれやれと肩をすくめて、彼女がいると思われる場所をいくつか教えてくれた。
その夜、私は久しぶりにM1911を整備して腰のホルスターに提げた。暫く感じていなかったずしりとした冷ややかな重みが、否応にもあの戦場を思い出させる。
時計を見た。時間がなかった。日中のうちに借りておいた馬に跨ると、夜の闇が濃くなり始めた西へ向けて走り出した。
彼から聞いたいくつかの候補から、彼女がいるであろう場所を絞り込んだ。昼間の仕事時に、兵士達の会話を聞いたり、それとなく話題を振ってみたところ、運よく拘束時に居合わせた兵士の話を聞けた。
その兵士は病院で彼女に世話になったこともあり、幾分か同情的だった。私は兵士に少し多めのドルを渡すと、彼は居場所を仲間から聞き出してくれた。
彼女は首都ボゴタを西に五キロほど行ったところ、廃墟になった製材所に監禁されているらしい。
くれぐれも、無茶しないで下さいよ。ここはあんた以外藪医者しかいないんだから。そう言った若い兵士の言葉を思い出し、私は苦笑した。
製材所の手前まで着くと、私はぐるりと周りを観察した。ぼんやりとした街灯がついており、見張りの兵士は数人足らずだ。
それほど重要な施設でもないのか、彼らから緊張感がまるでない。出来るだけ、戦闘は避けたかった。
元製材所ということもあり、身を隠しながら潜入するにはうってつけの場所だ。隠れながら進むのは、あのベトナムのジャングルで慣れっこだった。
兵士達をやり過ごし、元は事務所と思しき建物内に侵入した。廊下に灯りは殆ど付いておらず、足元に用心しながら進まなければならなかった。
進み続けると、黴と埃の臭いに混じって、鉄錆の匂いが漂ってきた。廊下の突き当りのドアの隙間から、ちらちらと光が漏れ出ていた。
数人の男の笑い声と、か細い悲鳴が聞こえ、全身の血液が沸騰するほどの怒りが湧いてきた。
足音を殺して、その部屋に近づき、隙間から様子をうかがう。テーブルを数人の兵士が囲んでいた。その中央には、ぐったりと裸で横たわるアルマがいた。酷い暴行を受けたようで、呼吸が安定していない。
これ以上は危険だった。
「おい、やりすぎるなよ。死んじまうぞ」
「知るかよ。こいつはあのサル共に俺達の情報を流してたんだぞ。家畜以下だぜ」
「見ろよ。こいつ、魚みたいに震えてるぜ」
もう聞いていられなかった。ドアを蹴破ると、アルマを囲んでいた兵士達に向けて引き金を引いた。彼らは何が起こったのか判らないままに、銃弾を頭に浴び、真っ黒な血を噴き出した。
私はアルマに駆け寄った。片腕が折られているようで、歪に曲がっている。羽織ってきたジャケットを彼女にかけてやると、痛々しく腫れ上がった眼が薄く開いた。呼吸が浅く速い。早く清潔な設備のある場所で治療をしなければ。
「ごめん、なさい」
「もう大丈夫だ。心配無い」
出来るだけ優しく声をかけると、彼女の眼から涙が溢れ出た。
「おい!貴様!」
外の兵士が銃声に気付いて駆け込んできた。私は迷わず、そして正確にその胸を撃ち抜いた。彼女を部屋の隅に避難させると、外から攻撃してきた敵を迎え撃った。
夥しい銃弾が、部屋の中に撃ちこまれ、朽ちたコンクリートの破片や粉じんが飛び散った。武器はコルトしか持ってきていなかったので、死んだ兵士のライフルを拝借し、ありったけ撃ち尽くした。
ようやく最後の一人を倒すと、私はアルマの方へ脚を向けた。
だが彼女は、痣だらけの傷ついた身体を晒しながら、私を見つめていた。その細い腕に、真っ黒な銃を携えて。
「アルマ……君がそんなものを手にすることは無い」
「ごめんなさい……。でも、私には何もないの」
「君は、将来医者になるんだろう!?」
「貴方には判らない!」
私の言葉に、彼女は泣き叫ぶように言い、その悲愴な声に私は声を詰まらせた。
「……!」
「故郷を奪われ、家族も、何もかも失った私に、残ったのは、復讐という黒い炎だけ……」
彼女の手の中の黒い塊が、ゆっくりと持ち上がり、ぴたりと側頭部に宛がわれた。
「でも、貴方といた時間は楽しかった。ありがとう。先生……」
「やめろ!」
なりふり構わず、手を伸ばしたが、遅かった。遅すぎた。パン!という破裂音とともに、全てがスローモーションのようになって、彼女の頭から真っ黒なペンキが噴き出した。
崩れ落ちる彼女の体を呆然と見つめながら、私は膝をついた。
お前は結局何がしたかったのだ?ヒーローごっこか?失われた自尊心を少しでも満たしたかったのか?不幸な身の上の少女を救うヒーローか。仲間すら救えなかったお前が。
真っ黒な血を浴びた戦友たちが、私の耳に囁いている。いや、それは私自身の声だったのかもしれない。
私は、ふらふらと彼女の手から零れ落ちた銃を取った。
呼吸が荒くなる。
さあ、楽になれ。自分を黒く塗りつぶせ。
その囁きは、極上の美酒のように私には感じた。右手を持ち上げ、自らの頭にその真っ黒な銃口を当てた。
人差し指が、震えながら引き金を引いた……はずだった。
私は強い力で腕を取られ、あっという間に床に引き倒されていた。滲む視界に、年季の入ったカーキ色の野戦服の足が眼に入った。
「よせ」
低く、力強い声が、頭上から降ってきた。顔を上げると、ぼんやりとしたライトの中に、一人の男が立っている。ぼさぼさに伸びた頭にバンダナ、右目には眼帯と、海賊のような男だと思った。
そのスカイブルーの隻眼は、気高く、何者にも従属することを許さない、獣のような眼をしていた。私は彼の雰囲気に一瞬で圧倒されていた。
あの若い兵士が得意げに語っていた『ボス』なのだと、すぐに判った。
「貴方が……『ボス』……?」
「これは、お前がやったのか?」
彼は、斃れた兵士達を一瞥して、私に厳しい視線を浴びせた。無言で頷くと、彼は短く「そうか」とだけ私に言った。
「確か、あんたは軍病院の医者だったな」
兵士達の遺体を検めながら、彼は私に言った。束の間、硝煙と血の生臭い臭いが漂う室内に、彼のブーツが床を踏みしめる音だけが響く。
「ベトナム帰りか。ならこの戦闘能力の高さも頷ける」
いつの間にか、彼の手には私のドッグタグが握られていた。戦闘時に落としたのだろうか。
「……私は、救う事が出来なかった。今回も」
私は何故か、ぽつぽつと取り留めのない言葉を紡いでいた。まるで堰き止められていた川が決壊したかのように、後から後から言葉が溢れ出す。
「ずっと、国のために戦ってきた。泥濘の中を這いずり回り、敵を殺し、時には苦しむ戦友を見殺しにした。だが、私に残ったのは、真っ黒な悪夢だけだ」
この世界のどこにも、私の居場所は無い。
兵士でも、医者でもなくなってしまった。
だから、私を殺してくれ!
「わかった」
彼が、ホルスターから銃を抜いた。奇しくも私が使っていたものと同じ銃だった。
眼を閉じる。
これで、終わる。漆黒のペンキが、私を塗りつぶすのだ。
パン!という音が連続した。びくりと身体を震わせたが、痛みも、何もない。
怪訝に思って眼を開けると、彼は薄く硝煙が立ち昇る銃口を、私の足元に向けていた。そこには、私のドッグタグが穴だらけになって落ちていた。
「医者だろうと、女だろうと、一度自らの意思で銃を取ったのなら、どんな結末も覚悟するしかない。それが悲劇的なものだとしても」
彼は静かに、厳しさの中にほんの少しの悲しみを滲ませて私に語りかけた。呆然と見つめていると、彼はゆっくりとアルマの亡骸に近づき、見開かれた眼を掌で優しく閉じさせた。
束の間、彼は彼女の死を悼むかのように眼を閉じ、そして私を見た。
「だが、俺は目の前の現実から逃げようとする奴の手助けをする気はない」
彼の眼が、鋭さを増した。その眼光に、私は畏怖を覚えた。
「俺のところへ来い」
思わぬ言葉に、私は目を丸くした。
「しかし……私は……もう」
「俺の所にいるのは、お前と同じような境遇の奴らばかりだ。国を捨てた奴や居場所を失った奴。皆、戦場でしか居場所を見いだせない。俺達は、そういう奴らの集まりだ。生まれた国も、思想も、関係ない。かつての敵味方であろうとな」
だが、無理にとは言わない。と彼は付け加えた。
私の中に、迷いが生じた。
終わりのない暗闇でもがき続けている中で、光が、出口が見えたような気がした。その光が彼だと信じたかった。
「……私は、ヒーローになりたかったわけではない。ただ純粋に、彼女を助けたかった。それだけだ。でもそれは、見捨ててきた戦友たちへの贖罪を彼女に見出していたのかもしれない……だが結局はそんなものは私自身が生み出した傲慢の産物にすぎなかった。」
私の震える唇からとめどなく溢れる支離滅裂ともいえる言葉を、彼は黙って聞いていた。
「……私も連れて行ってくれ。頼む」
私は、まっすぐに彼の隻眼を見つめた。
「いいのか?」
「……もう、現実から目を背けるのは辞めた。過去は清算出来ないが、その十字架を背負ったまま生きる事は出来る」
「それは、一番辛い選択だぞ」
少しだけ、彼は表情を歪ませて言った。まるで、古傷がじくじくと痛み出したかのように苦しそうだった。
「覚悟は出来ている。それに、もう今更安穏の中に生きる事は出来ない。貴方ならわかるだろう?」
自嘲気味に私が言うと、彼はそうだな。と笑った。その笑顔は、とても寂しそうに見えた。あの、アルマのように。
彼は座り込む私に手を差し伸べると、言った。
「スネークだ」
「え?」
「『ボス』は此処の連中が勝手に言ってるだけだ。スネークと呼んでくれ」
私は迷わずその手を取った。力強く、温かい掌だった。
「わかりました。『ボス』」
私が言うと、スネークはちょっと不満げに眉を寄せたが、やれやれと諦めたようだ。
「部下が言っていたが、アンタの医療技術はかなりのものだと聞いたぞ。そんな奴が居てくれるのなら、大助かりだ。現地では満足な治療すらできない医者もどきも多いからな」
あの若い兵士が、私の事を伝えていたのだろう。どうやら彼は私のことを高く買ってくれているようだった。少しくすぐったいような気になった。
「それに、短時間でこの場所を調べ上げたうえに、単独潜入の手際も見事だった。衛生兵にしておくには惜しいくらいだ」
「昔、第一特殊作戦グループの第4D中隊に居た事があります。貴方も、アメリカ人でしょう?」
彼がアメリカ人だという事は想像がついていた。そして、かなり高度な訓練を受けた軍人だという事も。だが、彼は眉を顰めて小さく吐き捨てた。
「そんなもの、今の俺に意味は無いさ」
スネークは、野戦服の胸ポケットから葉巻を取り出し、ナイフで豪快に吸い口を作って口に咥えた。私も勧められたが、丁重に断った。
小さな灯りが点り、血と硝煙の臭いに混じって、葉巻の甘苦い香りが広がった。
束の間、沈黙が部屋を支配したが、彼が何かを思い出したかのように私を見た。
「……そうだ、お前の事は、何と呼べばいい?」
「ボスの好きなように呼んでください。私は、一度死んだのですから」
私は、銃弾でひしゃげたドッグタグを見せた。すると彼は難しそうな顔で唸ると、口を開いた。
「あー、じゃあ、メディック……でどうだ?」
遠慮がちなその声に私は思わず小さく笑ってしまった。スネークは少しむっとしたように「仕方ないだろう。思いつかなかったんだから」と呟いていたのを聞いて、また少し可笑しくなってしまった。
「了解。『ボス』」
ボスは、私が政府軍にした事を秘密裏の内に『消した』。すべては、アルマを奪還に来た反政府ゲリラの仕業に見せかけ、私の所業は闇に葬られた。
完璧な偽装工作と偽装情報の流布のおかげで、当局の矛先が私に向くことは一切なかった。見事としか言いようのない、鮮やかな手並みだった。
だが、アルマには『裏切り者の反政府組織のスパイ』というレッテルが貼られ、墓すら作られることは無かった。
病院で、彼女の事を悪し様に言う兵士達の会話を聞き、悔しさと虚無感だけが私の心に渦巻いた。
それから数日後、アルマの少ない遺品を見晴らしの良い丘に埋めてやろうと、郊外へ出た。アルマが生前、アルストロメリアが美しい丘で、いつか私を連れて行きたいと言っていた場所だった。
丘を登りきると、オレンジ色の海が私の目の前に広がっていて、暫くその景色に見蕩れてしまった。
不意に、後ろに気配を感じて振りむいた。
「足音は消したと思ったんだけどなぁ」
ばつ悪そうに頭を掻きながら歩いてくるボスを見て、私は驚いた。
「つけてきたんですか?」
「俺だってそんな暇じゃない。思い切りこいつを吸える場所が欲しかっただけだ。あそこにいたら、俺の分がなくなっちまう」
彼はそういうと、上等な葉巻を旨そうに吸い始めた。案外、嘘は下手なようだと笑いながら、私は地面に穴を掘り、遺品と、彼女にプレゼントするはずだった本を埋めた。
「……結局、アルマの人生は何だったんでしょうね。彼女が生前人々に為した事は全て上書きされて、大罪人として人々に記憶される。でも味方を殺した私は、変わらず日常を生きている」
なんて世界は不条理なのだろう。
土で汚れた手を見つめる。彼女の血が、混ざっているような気がした。まただ。黒いペンキが、私の中に渦巻く。オレンジのアルストロメリアが黒く染まってゆく。
「だが、お前だけは彼女の事を覚えている。それが、真実だ。大衆が何を言おうと、お前の中の真実は変わらない」
背中から、いつもの厳しさは無く、不器用ではあるが、優しさに満ちたボスの声が聞こえた。
その言葉は、なぜだか深く、深く心の中に突き刺さった。
溢れ出る感情を抑えきれず、私は無言でオレンジ色の海を見つめた。もう、黒いペンキはどこにも見えなかった。
そうだ。私は彼女の事を覚えている。それが真実なのだと自分に言い聞かせて。
「ボス、ありがとうございました。」
私は、ずっと傍に居てくれた彼に礼を言った。彼は少し照れくさそうに笑いながら、片手をあげた。
長居しすぎてしまったようだ。周りを見ると、赤い夕陽が花畑を濃い橙色に染めている。
「これから、よろしくお願いします」
私は直立し、土で汚れた右手で敬礼した。
おそらく、私達が行く道は修羅の道だ。そしてその先は、地獄へ向かっていることだろう。
それでも、私達のような天国の外側(アウターヘブン)の住人には理想郷なのかもしれない。
だから私は、ボスについて行こうと思ったのだ。
真っ黒な世界から私を救ってくれたのは、他でもない、彼なのだから。
今度は、私が貴方を助けよう。
それが地獄への道行きだとしても、私は貴方を守るだろう。
ボスの元で働き始めて数ヶ月が経った頃、幾度目かの反政府ゲリラとの戦闘の後に、ボスは傷ついた兵士を拾ってきた。なんでも、反政府ゲリラの指揮官とのことだった。
私は驚いた。まだ、二十もそこそこの若者に見えた。実戦経験もそれほど無いはずだ。
名前は、カズヒラ・ミラー。日本人とアメリカ人のハーフらしい。
私は彼の怪我の状態を確かめた。爆風による裂傷があり、出血もそれなりにしているが、呼吸も血圧も安定している。適切な処置を施せば、すぐに回復するだろう。
それを伝えると、ボスは安堵したように、そうか。と呟いた。
「ああ、そうだ。くれぐれもこいつに危害が及ばないように気をつけてくれ。ここの連中は気性が荒いからな」
「わかりました。でも、何故私に?」
「お前が一番近くにいるだろう?それに一番信頼できる」
「それはありがとうございます。そんなに彼がお気に召したんで?」
「なかなかこいつは根性があるし、面白い。気に入った」
物好きな人だと半ば呆れるように言うと、ボスは人好きする笑みを浮かべながら、頼んだぞ。と私の肩を叩いた。
ボスが診療室を出ていくと、私は治療台に乗せられた彼を見た。
金色の髪が、どことなく、昔ベトナムの地で果てた友人と重なった。
『おふくろ……』
彼の口から聞きなれない国の言葉が聞こえ、少し慌てた。
その声は酷く悲しげで、何かを探すように手が空を彷徨う。
私は思わずその手を握り、宥める様に胸に手を当てた。
「もう大丈夫だ。安心しなさい」
そういうと彼はホッとしたかの様に、穏やかな呼吸に戻っていった。
サングラスを取ると、年齢より大分幼く見えるなと思いながら、私は彼の処置に取り掛かり始めた。
彼は相変わらず、私の手を握りしめている。そのままでは治療できないので手を外すと、今度は私の上着の端を掴んできた。
まるで、親から離れない子供のようだと、私はくすりと笑った。
その若者がいずれ私達の副指令官となることなど、その時は思いもしないまま、私は彼の穏やかな寝顔を見つめていた。