あの過酷な戦いから三週間ほど経った。MSFのマザーベースは相変わらず忙しない。ボスの噂を聞いて志願してくる者が絶えることはなく、プラットフォームも増築が繰り返され、
初めは数十人の小隊でしかなかった私達もかなりの大所帯となった。
ピースウォーカーとの戦いは完全な非公式、非公開の任務ではあったが、その仕事は裏の世界では大きく噂になっていたようで、良くも悪くも世界的に我々の存在を知らしめた。
それ以来、依頼される任務は倍以上に増え、隊員たちや副司令もてんてこ舞いだ。
ようやくあの時の傷が癒えたボスだったが、まだ任務には行くことはできない。憮然とする彼にその診断を下したのは私だ。
暫くは療養を兼ねて隊員たちの訓練とデスクワークに励んでいただこう。
そんな中、副司令は大きな仕事を終えた私達の為にささやかな宴を開くことを提案した。いや、寧ろずっと戦い通しだったボスの為にと言ったところだろうか。
「平和の日……ですか?」
幾度目かのボスの診察で、副司令が近くマザーベースを挙げての大きなイベントを開催するという事を知った。
診察台から降りて上着を羽織った彼が葉巻を銜えようとしたが、人差し指を立てた私を見て肩を竦めた。
「ああ。カズのたっての希望でな。皆ずっと戦い通しだったんだ、少しくらい息抜きが必要だとな。ま、俺はそれに賛成だが。しかし、平和の日とは皮肉なもんだ」
「まぁ、私達にはあまり縁のないものですからね」
「現実には【慈悲深きマリア】も、【平和をもたらす教会の鐘の音】もありはしないさ」
ボスが皮肉気に言う。言葉の奥底にどこか諦念のようなものを感じた。
「シュトラウスですか?あまり歌劇には詳しくありませんが……」
「俺もあまり知らん。昔上官に無理矢理連れて行かされてな。半分は寝てた」
マリンブルーの瞳が懐かしげに細められた。やはりまだ彼の心のどこかで【彼女】は生きているのだろうか。そんな想像をしていると、急にボスの眼が鋭いものに変わった。
「そういえば……近頃、紅い蝶を見たという話を聞いた。もしも見たら教えてくれ」
何の脈絡もないその言葉は、符牒だ。コスタリカに生息する蝶の中で紅い蝶などいるはずがない。これは、私達の中にスパイがいるという警告だった。
張りつめた彼の気配に、緊張が走った。だが、ボスは軽く私の肩を叩くと、いつも通りの笑みを浮かべて診察室を後にした。
彼の背を眺めながら、私は一抹の不安を感じていた。
蒼い蝶の中に混ざった紅い蝶。それは蒼い水面に落ちた真っ赤な血のように、蒼い蝶たちを染め上げていくのではないかと。
平和の日まであと十日。マザーベース全体がどこか浮き立ったような雰囲気にあるのは、皆やはりバカ騒ぎを心待ちにしているのだろう。こんな稼業だ。明日には戦場で冷たくなっているかもしれない。
少しくらいの乱痴気騒ぎは大目に見てくれるはずだ。
今ベッドに居る患者の治療スケジュールを考えている時、控えめなノックの音が入り口から聞こえてきた。
「どうぞ」
「すみません」
赤い顔をしたパスが、ふらふらと医務室へ入ってきた。
「どうしたんだい?」
「少し、熱があるみたいで……」
見れば、いつもは健康的に日に焼けた肌が赤く色づいている。私はすぐに彼女を座らせ、診察を始めた。
「はい、口を開けて」
若干喉が赤い。ほっそりとした喉の辺りを触診すれば扁桃腺が少し腫れている。典型的な感冒の症状だった。
「風邪だね。色々あって疲労が溜まっていたんだろう。抗生物質と解熱剤を処方しておくよ」
「ありがとうございます。ごめんなさい、先生も忙しいのに」
ふうふうと苦しそうな表情の中の、その健気な視線に苦笑する。
「それが私の仕事だ。心配はいらないさ。さあさあ、ベッドに入って早く良くなってくれ。君の笑顔がないと仕事にならない奴はたくさんいるんだ」
冗談めかした私の言葉に、彼女はふっと笑った。それがなんだか酷く悲しそうな笑顔で少しだけ気になったが、患者、しかも若い女性のプライベートに立ち入る様な無粋な真似はしたくなかった。
だが、それは杞憂に終わった。
「ねぇ、先生は、人を殺した事、ある?」
唐突に発せられたパスの言葉に、カルテを書く手が止まる。
「……あるよ」
自分でも驚くほど、淡々と答えていた。
「……後悔してる?」
「わからない。その時は必死だったから。でも今は、後悔している」
「どうして?貴方は医師だけど兵士でもあるのに」
「私は臆病者だからだよ。闘いも怖いが、死ぬのも死を見るのも怖い。だけど、私はメディックである限り、目の前の命を救わなければならないんだ」
朝日に照らされた海のような色の瞳が、私をじっと見つめていた。だが、これが私の中の真実だ。
パスはふっと笑うと、医務室の出口へ歩いてゆく。私は、彼女が満足するような答えを言えたのだろうか。いまいち自信がなかった。
「お大事にね」
「ありがとう。先生」
それが、この場所で私が見たパスの最後の姿だった。
今日もマザーベースは快晴で、いつものように忙しない日々が始まる。平和の日まであと三日。
浮かれた隊員たちが少し早いどんちゃん騒ぎをしたり、しょうもない事件が起きたりするけど、それもいつもと変わらない。
そう思っていた。
≪非常事態発生! 非常事態発生! 総員、直ちにD1プラットフォームへ緊急避難せよ。これは訓練ではない。繰り返す。これは訓練ではない≫
けたたましいサイレンと共に、緊迫したアナウンスが全プラットフォームに流れた。
一瞬にして、ピンと空気が張りつめ、全員が身構える。パニックになることはない。皆、そのように訓練されている。
何故と問う前に体が動く。私達はそう言う人種なのだ。
「重症患者から避難を始めろ。自分で歩ける患者は自力で避難だ」
部下たちに指示を出し、私は必要最低限の薬品やカルテを持ち、避難の準備を始めた。何が起きているのかは分からない。だが、私は己の任務を全うしなければならない。
医療用カバンに全てを詰め込み、窓の外を見た。その向こうには、信じがたい光景が広がっていた。
メタルギアZEKEが、マザーベースを破壊している。
ZEKEは、私達を守るために造られたはずだ。それが、まさに今、私達に向けて牙を剥いていた。
「一体……なにが……」
そう呟いた時、突き上げるような衝撃が私のいる空間を襲った。
棚や器具が倒れ、ガラスが割れた。避難の途中だった隊員達が悲鳴を上げる。
「皆!すぐにこの場から離れろ!」
そう叫んだすぐ後、私は激しい衝撃に吹き飛ばされ、背中を強かに床に打ち付けた。一瞬息が止まった。
上を見上げると、無残に崩れた天井の向こう側で、鋼鉄の獣が透き通るような青空を背にして、私を見つめていた。冷や汗が、背中を伝う。
すると、ZEKEが身体を反転させた。私はその隙に体の上に倒れた点滴台をどかし、起き上がった。
私はすぐそばで倒れていたスタッフに肩を貸し、物や瓦礫を避けながら出口へ向かう。この場所から一刻も離れなければ。鼓膜を突き破る様な咆哮がすぐ真上で聞こえた。
爆発音と何かがひしゃげる音が響き渡る。間一髪で私達は瓦礫に押しつぶされる前に部屋を出た。呆然とするスタッフを叱咤しながら私は彼と共に安全な場所を目指した。
「先生!」
外に出た時、私を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、チコが血相を変えて走り寄ってきた。
「チコ!何があったんだ!」
「先生……オレ、オレ……」
俯いたままのチコに、歩み寄り、屈んで目線を合わせた。今の彼は気が動転しているようだった。
「チコ、大丈夫だ。何があったか、教えてほしい」
「パスが、パスが……」
その眼に涙を溢れさせて、彼は私を見つめる。いつも気丈な彼がそんな姿を見せるという事は、何か尋常ではない事が起きているのだろう。
「パスが、あれに乗っているんだ……」
「なんだって……?」
チコの口から出た名前に、私は驚愕した。彼女がZEKEに搭乗しているという事実が信じられなかった。
≪ベンセレーモス!≫
ZEKEから、彼女の声が聞こえた。普段の彼女とは想像できないほどに攻撃的で、敵意に満ち満ちている。信じられなかった。彼女がZEKEを操縦しているという事が。
だが、そこにあるのは残酷な現実だった。ミサイルがZEKEから発射され、近くにあったプラットフォームに直撃した。
私は頭を振ると、涙を流しながら突っ立っているチコの肩を揺さぶった。
「チコ、チコ!まだ、怪我をして取り残されているスタッフがいるかもしれない。私はここ一帯を見てくる。君は彼を安全な場所へ頼む。これは君にしか頼めない。分かるね?」
「……うん……先生は?」
「大丈夫。必ず合流する。さあ、行くんだ!」
チコに負傷したスタッフを任せ、私はその場を離れた。
ミサイルの激しい応酬が、すぐそばで繰り広げられている。恐らく、ボスが奮戦しているのだろう。私はたくさんの戦闘の爪痕を避けながらプラットフォームを目指した。
彼女が【紅い蝶】だったというのか。確かに、違和感を感じていた。彼女が何かを隠しているということも。
『先生は、人を殺した事、ある?』
あれは、どういう意味だったのだろう。あの時、何か別の答えを言っていれば、何か変わったのだろうか。
溢れ出る記憶は後悔と自責の念に囚われる。
ZEKEが咆哮を上げ、ミサイルを撃つ。私達の家が、無残にも破壊されてゆく。しかし、今の私には何もできない。
「おおい!誰か!助けてくれ!」
すぐ近くから声が聞こえた。私は我に返ると、声の主を探し始めた。
「どこにいるんだ!」
「ここだ!」
声の主は、落ちてきた瓦礫の下敷きになっていた。しかし幸運なことに、そこにできた隙間のおかげで命拾いした様だ。
「足を挟まれて動けないんだ……頼む」
「わかった。いま瓦礫を動かすからな。もう大丈夫だ」
彼の顔は真っ青になっている。まずい。思ったよりも出血が多いかもしれない。一刻も早く止血と治療を施さなければ危険だ。
近くにあった鉄の棒を瓦礫の下に差し込み、渾身の力で押し上げる。重いコンクリート製の瓦礫はびくともしない。
「クソッ!上がれ!」
瓦礫で負傷したのか、手の平から血がぬるりと流れ出ていたが、そんな事を気にしている余裕はなかった。
その時、ドン!という重い破裂音が耳元で炸裂し、私は為すすべなく吹き飛ばされた。
「ぐっ」
ぐらぐらと視界が揺れる。
上を見上げれば、鋼鉄の死神が、私を見つめていた。
パス。ああ。何故だ。そんな言葉が、私の頭の中を駆け巡っていた。
だが、ZEKEは一向に私達を攻撃する様子はなかった。私はそれを好機と判断し、要救助者を助けることに専念した。
もう一度。鉄棒を押し上げる。ほんの少し、ほんの少しだけ瓦礫が動いた。その期を逃さず彼は必至で身体をずり動かすと、ようやく瓦礫の下から脱出することが出来た。
彼に肩を貸し、斜めに傾き始めたプラットフォームから脱出しようと試みた。だが、ZEKEの機銃がすぐ側を撃ち抜いた。ボスがすぐ近くまで来ているようだ。
私は無駄だと分かっていても、溢れ出る感情を止めることができなかった。
「もう止めろ!パス!君は……!自分の為に、自分の人生を生きてくれ!」
何故そう言ったのか、私自身にもわからない。だが、彼女の悲痛な『叫び』は、かつて私の目の前で自ら命を絶ったあの少女と重なって見えた。
私は、今度こそ、彼女を救いたかったのかもしれない。
そして、ZEKEの駆動が一瞬だけ止まった。私の声が届いたのかどうかは分からない。が、その一瞬を『彼』が見逃すはずはなかった。
鋼鉄の機体を無数のミサイルと爆発が襲う。足元に爆薬を仕掛けていたのだろう。ZEKEの足元が沈んだ。
≪―――…それが、お前達が選んだ、道だ!≫
それは、私が知る少女の声ではなかった。血反吐を吐くような、昏い憎悪が滲んだその怨嗟の声に背筋が凍る思いだった。
爆発音が鳴り響き、パスの悲鳴がスピーカー越しに聞こえる。
眩い光と共に、ZEKEのコックピットが大きく爆発した。
「あああああ!」
パスの悲鳴が、私の耳に確かに届いた気がした。
彼女の身体が、コックピットから投げ出されたのが見えた。
「パス!!」
私は、精一杯腕を伸ばしたが、それは無念にも彼女には届かなかった。
濃紺の波間に吸い込まれる彼女を茫然と、見つめることしかできなかった。
もしもこれが違う結末を迎えていたら、どのような未来が待っていたのだろうか。
「俺達は、国を棄てる」
彼の言葉が、ホールに響いていた。周りの隊員たちは、熱を帯びた視線で声の主を見つめていた。
私はもう既に国を、家族を、すべてを棄てた。
「そこには国も、思想も、イデオロギーもない」
私の未来は、既に決まっている。あのベトナムのジャングルから。
「俺達は、地獄へ堕ちるだろう」
いいえ、私は既に堕ちている。
「天国でもあり、地獄でもある。そうだ。それが、俺たちの居場所。【天国の外側(アウター・ヘブン)】だ」
天国の外側。
私は、その言葉に、言いようのない高揚感と、嵐の前の空のような不安感がない交ぜになった感情を抱えていた。
彼女は、あの言葉を放った時、一体何を思ったのだろうか。
もう、あの日々には戻れない。
その真意を知る術は、永遠に失われた。
奇妙な喪失感が、心の中に渦巻いている。
でも、それでも。
私は。
貴方に付いて行くと決めたのです。
それが、すべてを失った私が、唯一選んだ道なのですから。