マジカル・ジョーカー   作:まみむ衛門

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「…………」

 

 パラサイトが一高内に侵入してきた翌日、リーナは学校をズル休みし、忙しい一日を送っていた。

 

 査問会ではオッサンたちにネチネチと嫌味を言われ、ヴァージニア・バランスが日本にしばらく駐在することを聞かされ、『ブリオネイク』の使用が決定し、シルヴィアが本国に帰ることになった。

 

 そうしたゴタゴタが終わった日の夜、リーナはベッドに突っ伏し、ぼんやりと考え事に耽っていた。

 

 仲間と協力してもなお高校生であるはずの達也に負け、1対1でも深雪に負けに近い引き分けを食らった。身近にいたパラサイトに気づかず一高内で達也たちを巻き込んだ戦闘になって、しかもパラサイトを逃した。

 

 これだけでも散々だったが、パラサイトを逃がしてしまった後に、さらに追い打ちがかかる。

 

「イノセ、フミヤっ……」

 

 戦闘中に連絡をして「仲間」を集めて脱出を図っていたが、まるで見計らったかのように文也がそこに現れ、一切戦闘に参加していないくせに、情報を抜き出してきた。今USNAにとって最大の敵はパラサイトで、その次が文也だ。そんな彼に、リーナはなすすべなく情報を抜き取られた。

 

 パラサイト事件がUSNAでも起きていること、日本にいるパラサイトはUSNAから流れてきたこと。ここまではまだ知られても良い。

 

 そこから文也の追及は、リーナの立ち位置にまで及んだ。

 

『ほーん、で、シールズはそれに関係してんの?』

 

 パラサイト事件にはUSNAが大きくかかわっている。それがわかれば、彼の追及がリーナに向くのは当然だった。

 

『ワタシは無関係よ。交換留学とパラサイトの出現が重なったのは偶然ね』

 

『へー、それなのに、お前さんの戦闘能力はピカイチで、この隠蔽されてる戦闘にも参加してるのか。面白い偶然だな』

 

『今回入っていた業者に、知り合いがいたから会おうとしただけよ』

 

『で、それがアメリカから流れてきたパラサイトに憑りつかれてたってことか。つまり、お前の仲間がパラサイトだった、と』

 

『何よ!? ワタシがパラサイトの仲間だって言うの!?』

 

『いやいや、そうは言いませんとも。いやはや、お友達だと思っていたのがバケモノだったなんて、お可哀想ですこと』

 

 文也との会話は、ほぼ全部あちらの主導で進んでしまった。うっかりと隠していた情報をいくつか口走ってしまったのも屈辱だし、終わった後の「こいつセンスないな」と言わんばかりの達也と深雪の生暖かい目も屈辱だった。

 

『なるほどねえ、で、アメリカは今回の件について、何か対応してるのか?』

 

『知らないわ。さっき言った通り、ワタシは無関係だもの』

 

『そうかいそうかい。なるほどねえ。でも、危険な存在がアメリカの不手際でこっちに来て、それが秘密にされてるって、そいつはまた筋が通ってないよなあ。本人は無関係と言っているけど、その実戦闘力は高い。いやー、これを世間の人やマスコミはどう思うかなあ。知り合いに相談してみようかあ。例えば、アメリカがパラサイト処分のために日本に無断でこっそり戦闘員を送り込んできた、とか思っちゃうかもなあ』

 

 リーナの嘘は、文也に見破られていた。あちらにもリーナが関係者であると断定できる証拠はないが、そう推測するには十分な状況だ。だからそれをマスコミに流すと、文也は脅してきたのだ。

 

 これに対するリーナの対応は、及第点だと彼女自身は冷静に自覚している。

 

 文也の脅しには屈せず、リーナは帰ってから即座に本国に今回の経緯を連絡し、文也ら一高生の一部に、USNAが戦闘員を送り込んでいると推測されてしまったことを報告した。本国の反応も素早く、多分にUSNA軍に濡れ衣を着せる形になったが、「こっそり他国に戦闘員を送り込んでいた」という戦争にもつながりかねない事実を握りつぶすことができた。本国の外交と諜報、情報操作には頭が下がる思いである。

 

 ――つい先ほど、日本にあるニュースが届いた。

 

 朝鮮半島南部で使用された日本の秘密兵器に対抗するべく、USNA軍は対抗手段の開発を命じられた。科学者たちの制止を振り切り、魔法師たちはマイクロブラックホール生成実験を強行し、意図的に次元の壁に穴をあけ、異次元世界からデーモンを呼び出した。そのデーモンを使役しようとしたのである。しかし調伏に失敗し、デーモンはUSNA軍の兵士を含む魔法師に憑りつき、アメリカ各地で暴れ、日本にも流れて同様の被害を起こしている。日本とUSNAは秘密裏に交渉をして、USNAが責任を持って戦闘員を派遣し、世間にパニックが起きないように裏で対処を進めていたが、上手くいかずに被害が拡大し、ついに注意喚起の意味も込めて公表に踏み切った。同時期に両国間で近年まれにみる友和的な大規模交換留学が実施されているが、こちらは特に関係がない。

 

 ニュースの要旨はこのような感じだ。魔法師排斥の色が強く、USNA軍の魔法師に理不尽な濡れ衣が押し付けられているが、それよりも大きな問題――戦闘員を他国に無断で送っていた点と、留学生が多分に陰謀を目的としている点――を誤魔化すことに成功している。かなり重いが、これぐらいの濡れ衣は被っても良い。

 

 そういうわけで、文也のマスコミリークと世間への暴露に先行して、両国のトップクラスが協力していたという体の、世間の信用度が高い形で偽の情報を拡散することに成功した。リーナがUSNA関係者であるとはほぼバレているだろうが、確信するほどの証拠はない。脅しに屈して戦闘員であることを告白するよりも、国家と言う大きなバックの力でその脅しを無効化してしまえばよいのである。

 

「はあ……」

 

 改めて、自分がこうした知恵比べでは弱いことを実感してしまう。異常とは言えどもたかが高校生に、軍人として一応ある程度の訓練を積んでいるはずの自分が負けた。もともとこの分野での才能がなく成績も下位だった彼女は、改めて「自分には向いていない」と自覚する。

 

 そうした弱気が漏れ出てくるのを誤魔化すように、リーナはゆっくりと意識を手放して眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 表の仕事で横浜に出張していた黒羽貢は、当主である四葉真夜からの電話を切ってから、テレビを見てため息を吐く。

 

 電話の内容は以下の通りだ。

 

 以前から進めてもらっていたパラサイトの宿主の特定は済んでいるか。これに関してはギリギリ済んでおり、色の良い返事ができた。

 

 次の要件が、それらの抹殺依頼だ。パラサイトには逃げられてしまうが、そのプロセスや限界を観察するのが目的だという。

 

 そしてそれに続いて言われたのが、井瀬文也についての確認だ。

 

 現在、そこまで積極的ではないにしろ、文也には黒羽家の手下による監視をつけている。文也サイドには不審な動きが多く、日夜家に籠って様々な準備をしていて、さらに夜の出歩きが極端に減った。明らかに、何かを警戒している。それは、USNA軍の襲撃に備えてのもので、黒羽家の監視や四葉から狙われていることについては全く気付いていない。

 

 そうした監視の成果を報告したのだが、そのあと、真夜からは、貢でも思わずゾッとするようなことを聞かされた。

 

 USNA軍は日本政府に黙って、パラサイトの処分・文也の処分・戦略級魔法師の調査のために、スパイや軍人を送り込んできている。表沙汰になれば戦争にも発展しかねないが、つい昨日の昼、ついに、文也にそのことがほぼバレた。文也サイドがそれをマスコミにリークして大問題にしようと動いていた。

 

 こうした動きを受けて、真夜は日本政府と国防軍に働きかけ、「USNAとは最初からそういう交渉をしていたことにする」ようにした。政治家や官僚たちは四葉を恐れるし、国防軍は最強の戦略級魔法師を「借りて」いるという恩から逆らえない。USNAの外交部や諜報部が拍子抜けしてついでに腰を抜かすほどに秘密交渉は上手くいき、文也のスキャンダル作戦は潰された。

 

『達也さんもまだまだよねえ』

 

 報告の最後に付け加えられたこのちょっとした言葉に、貢は心底達也に同情した。

 

 達也も、四葉の人間として、文也が死ぬように動くことが、または最低でも邪魔しないことが求められている。それでも友人がやられたということもあって吸血鬼事件には関わりたいらしく、USNA軍に協力するという形でかかわることにしていた。敵(文也)の敵(USNA軍)は仲間、という形にしたかったのだろうが、それはあいにく上手くいっていない。

 

 そうした動きを、真夜も貢も当然知っている。その上手くいっていない達也に対し、真夜はスマートかつ完璧に「敵の敵は仲間」を成功して見せた。達也本人はこの両国の動きにどれほど四葉が関わっているかは分からないだろうが、少なくとも関わっていることは察しているだろう。真夜は、達也に格の違いを見せつけたのだ。

 

(達也君もかなり賢いけど、こと陰謀となるとまだ当主様には及びませんね)

 

 貢は内心でそう思いながら、高級ソファの座り心地を堪能しつつ、真夜から送られた計画書に目を通し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日付は飛び、バレンタインデーの前日。やはり年頃の男女と言うものは、この手のイベントには敏感だった。海外では男女で送りあうものらしいが、日本では、時代が進んでもなお、女性が送る日である。男尊女卑が……男女差別が……という言説は当然この時代でも飛び交ってはいるが、女性は自分の思うままに先行して好き勝手に渡してよいのに対し、ホワイトデーの男性は「お返し」であるがゆえに「適切な」お返しを強いられるということもあり、ある意味平等なのではないかとあっさりと受け止められて、引き継がれているのだ。

 

 さて、まずは、日本魔法師界のトップである十師族、その中でも四葉家と並んで主導権を握っている屈指の名家・七草家の事情を見てみよう。

 

「……魔法師じゃない……これは、魔女…………」

 

 そのキッチンには、一人の魔女が君臨していた。

 

 七草の双子の片割れである泉美は、キッチンでチョコレ………チョコレート? らしきものを作っている姉の後姿を見て、クラスメイトに送る義理チョコ(男子には送らない。全部同性への友チョコだ)を作る手を止めて戦慄する。

 

 真由美は、本人曰く、チョコレートを作っている。一応見た目も、チョコレートに見える。

 

 しかしながらその材料は、およそ人に食べさせることを目的としているとは思えなかった。生物が最も忌み嫌う味に特化された劇物で、対象の精神をズタズタにする実験のために悪い魔女が作っているとしか思えない、チョコレートの皮を被った「ナニカ」だ。

 

 真由美は最近、吸血鬼事件にかかり切りで、すっかりストレスをため込んでいる。その仕事中に苛立ちや不満を表に出して徒に士気や雰囲気を悪くするような真似はしないが、その我慢を強いられているからこそ、余計に発散できる場では酷いことになっている。真由美が自室で妙な踊りを踊っていたり、ジャンクフードをバカ食いしてたりするのを、泉美は時折ドアの隙間から目撃してしまっていたから、それがよくわかる。最近はさらに吸血鬼事件が忙しくなってきているようで、吸血鬼の活動周期・場所が変わったなどの理由で今までのヒントがあまり役に立たず、また振出しに戻ってしまったらしい。ついには、リーダーであり失ってはいけないはずの真由美や克人すら、しかも単身で、真夜中のパトロールに駆り出される始末だ。確かにそんじょそこいらのプロ魔法師よりは頼りになるが、やりすぎと言うものである。ちなみに、ヤンチャ気味な香澄は、しばしばそれについていきたがっているというのは余談だ。

 

 ――そうした思考の流れで双子の片割れ・香澄を思い出した泉美は精神衛生の為にも、真由美から目をそらし、香澄がチョコレートを作っている様子に目を向ける。

 

 頬は興奮に紅潮し、口元は頭に浮かぶ妄想に緩んだかと思えば、相手のことを想って真剣に引き締まる。潤んだ瞳はレシピと手元とチョコレートを何度も往復し、食べてくれる想い人が「美味しい」と喜んでくれるように気を緩めない。真由美とは正反対の、あまりにも「甘い」空気だ。

 

「香澄ちゃん、ちょっとこっちの材料分けてあげようか?」

 

「いくらお姉ちゃんでも姉妹の縁切るよ?」

 

 相当テンションがブチアガッている真由美の悪ふざけに、恋に真剣な香澄は、まるでゴミを見るような眼でにらむ。その真剣さ、一途さは、魔女と化した真由美を、正常な真由美に一瞬引き戻すほどの想いの健気さを放っていた。

 

(まだ相手のこと、何も分かっていないのに)

 

 香澄が作るチョコレートは、あの夏の夕方に助けてくれた「王子様」に送るためのものだ。その王子様の素性は、助けてくれた恩人にお礼をしたいという当主の意向もあって七草家が多少力を入れて調査しているにもかかわらず、あまりにも目撃情報がないものだから、全く分かっていない。つまり香澄は、誰とも知れぬ想い人のために、チョコレートを作っているのだ。

 

 しかもこれだけにとどまらず、それ以外の面でも、まだ見ぬ「王子様」のために、香澄は行動を改めている。性にも奔放な性格で、その可憐な見た目を活かして同級生を筆頭とした複数の哀れな男子と「オトモダチ」関係――要は恋人未満に留めているが手放さないようにする「キープ君」――を続けていたのだが、それらをすべてきっぱりと断ち切っている。いつ現れるかわからない「王子様」に操をささげると言わんばかりだ。

 

 そんな彼女の想いがつまったチョコレートは、その「王子様」に届くことなく、悪くなってゴミとなるか、諦めた香澄自身の胃の中に納まるだろう。

 

 泉美はそう冷淡に思う。その一方で、姉妹として、同じ年ごろの乙女として――その想いが、届いてほしいとも願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 文也ら男連中の期待を背負って、あずさと文也の母・貴代(たかよ)はチョコレートを作るべくキッチンに立っていた。

 

 その身長差は、あまりにも残酷だ。あずさは小さく、貴代は大男である文雄と並んでもそこまで身長差を感じないほどの長身だ。横に並ぶとその差は歴然である。いわんや、あずさより小さい文也と貴代の母子身長差をや。なぜ遺伝をしなかったのだろうか。

 

「こうしてあずさちゃんとチョコレートを作るのも久しぶりねえ」

 

「そ、そうですね……」

 

 引っ越しで距離が離れる前、あずさが小学校三年生になったあたりから、バレンタインになると、いつもこうして二人でチョコレートを作っていた。あずさは文也に、貴代は文雄に、それぞれ決して凝ってはいないが、一応手作りのものを毎年渡していたのである。そのころからこの身長差にしばしば思うところがあったあずさだが、今もそれは健在で、なぜだか身長差が全く縮まっている気がしない事実に悲しみを覚えながら、調理の準備をする。あずさだって少しは身長が伸びているはずなのだが、世の中は不平等なことに、貴代の身長も、年齢に反して少し伸びたのだ。

 

 ただし今年であのころと違うのは、あげる対象が増えたということだ。連日連夜文也のために協力してくれている親友たちの為にも、二人はチョコレートを作ることにした。

 

「……今年もそれ、やるんですか?」

 

「当然じゃないの」

 

 あずさは、平凡な自分の準備を進めながら、異様な貴代の準備を見て、思わず苦笑する。こちらが材料と調理器具を並べているのに対し、貴代が準備しているのは、背負った武骨な箱から伸びる多数のロボットアームだ。

 

 貴代もまた、文雄と結婚しただけあって、非常識の塊のような女性だ。生まれたころから機械を愛し、物心ついたころから自作機械を何度も作った。その腕は超一流で、中・高・大と毎年参加したロボットコンテスト、ロボットバトルカップなどの大会で無敗である。非魔法師なのに文雄と出会ったのは、大学生の時のロボットバトルコンテストの決勝だった。ちなみに貴代が圧勝し、その判定の点差は33-4であったのは余談である。

 

 そんな彼女は、このイカも卒倒しそうな多腕の機械を操作して、「手作りチョコ」を作ろうというのである。この機械は、チョコレートを美味しく作るための機械だ。

 

 機械で作るのに手作りチョコレート? そう思うだろう。あずさも最初は思った。

 

 しかし、彼女は普通ではない。この機械は、なんと毎年毎年、イチから彼女が作り直している、いわば「手作りの機械」だ。

 

『丹精込めて、腕によりをかけて一生懸命作った手作りの機械で作るチョコレート。まさしく手作りよ!』

 

 幼いあずさは、これを聞いてすべてを諦めた。

 

 そして今も諦めているあずさは、気色悪い動きをするロボットアームから目をそらして、自分の準備に取り掛かる。すると逆に、貴代の方から声をかけてきた。

 

「あら? あずさちゃん、それでいいの?」

 

 貴代が指さすのは、あずさが五つ並べたチョコレートの型だ。どれもシンプルな星型である。

 

「え、そうですけど?」

 

 あずさはなぜそんなことを聞かれたのか、意味が分からなかった。

 

 まさか数が足りないのだろうかと、あずさは小さく細い指を折りながら数えなおす。

 

 文也、文雄、駿、将輝、真紅郎。きっちり五人分だ。

 

「んー、いや、そういうことじゃなくてね? ほら、あのバカ息子には特別な何か……みたいなのはなくていいの?」

 

 貴代の目から見て、多少の贔屓目はあるにしても、あずさは「そういうこと」をするだけの何かしらの想いを秘めているように見える。これで刺激されて、初心なあずさは顔を真っ赤にして方針転嫁するだろう。

 

 そんな貴代の予想とは裏腹に、あずさの反応は、えらくあっさりしたものだった。

 

「え? なんでふみくんだけ特別に?」

 

 なんで弟にあげるチョコを特別仕様にするんですか?

 

 と言わんばかりに不思議そうに小首をかしげるしぐさは、あまりにも愛くるしく可愛らしかった。

 

 しかし貴代はそれに目を奪われず、苦笑して「何でもない」と誤魔化しながら、内心で呆れかえったため息を吐く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(あ、この子、マジで全く自覚ないんだ……)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バレンタインの前日、乙女の一人であるリーナもまた、異国での恋を成就すべく、チョコレートづくりに励んでいた……わけではなかった。

 

「ご苦労様です、ネイサン・カストル少尉」

 

「光栄であります」

 

 リーナは総隊長アンジー・シリウスとして凛と構えながら、細身で長身の男性をねぎらう。その姿は金髪碧眼の美少女ではなく、『仮装行列(パレード)』で偽装した、赤髪の鬼のような姿だ。USNA軍のほとんどが見るアンジー・シリウスとはこの姿であり、素のリーナがその正体であることを知っているのは、軍内でもごく一部だ。それに対して男性――ネイサンは、顔を引き締めてベテランかと見紛うような立派な敬礼をした。

 

 ネイサン・カストル。ネイティブアメリカン系の青年で、性格は真面目一徹。愛国心も向上心も高く、その魔法戦闘力で新兵にしてスターズの二等星級にまで上り詰めた若き戦士だ。本当はもっと早くに来る予定だったのだが、本国でも起きていた吸血鬼事件の対応に駆り出されて、こうして日本に来るのが遅れてしまった。

 

 バレンタイン前日と言えど、リーナは浮かれていられない。この真面目一徹な期待のルーキーに、外国での魔法師暗殺という難しい任務の引継ぎをしなければならない。

 

「まず今後の計画に関してですが、すでに仔細は聞いていますね?」

 

「は! 日本時間明後日の夜間に、タイミングを見計らって二面攻撃を仕掛けます!」

 

「いかにも。ワタシはシバタツヤを、貴官はイノセフミヤを、それぞれ相手します」

 

「シリウス大佐が司波達也の抹殺、私がイノセフミヤの対応であります」

 

「では、その対応の優先順位は?」

 

「交渉、捕縛、抹殺の順であります」

 

「その通りです」

 

 リーナの後任である彼に与えられた任務は、リーナと変わらない。交渉、捕縛の段階にそこまで期待されていないのも同じで、実質的に「抹殺」が目的だ。

 

 この二面作戦は、こちら側の戦力を分散させてしまうという点では危険だが、一方で日本の国防軍や警察が二つ同時に対応することにもなる。どちらか片方でも成功すればよい、ということだ。少し消極的過ぎるが、少しでも懸念事項を減らしたい今ではそれがベストと判断された。それに奇襲なのだから人員はそこまで必要なく、戦力分散のリスクは薄い。

 

 作戦決行日の明後日は、USNAにとってはこれ以上ない日だ。達也は日が落ちて人目がつかなくなったタイミングで深雪と離れ、文也もどうやら最近警戒が緩んできてるらしく、当初は警戒して渋っていたが、その日に計画されていた部活のちょっとしたパーティに参加するらしい。「あの」ゲーム研究部のパーティともなれば生徒会長や風紀委員の立場がある取り巻きの二人も同行することはない。完璧なタイミングだ。

 

(よく考えられた作戦。こっちにはブリオネイクもある。これなら……)

 

 リーナは心の中で頷く。これならば、あの達也も文也も抹殺することができるという自信がある。

 

 リーナは心の底の方に巣食う不安を、そうやって押しつぶした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 国立魔法大学付属第一高校。魔法師と言う社会的に難しい立場にいて同年代の中ではスレた生徒が多いが、それでもやはり年頃の高校生たち。彼ら・彼女らが集うこの場では、多くの感情が入り乱れている。

 

 その感情の原因は様々だが、この一高では、今年度入ってきた三人の新入生が、特に子供たちの感情を動かしている。

 

 一人は司波深雪。容姿端麗、成績優秀、成績で測れない部分も優秀、才色兼備でお淑やか。あとだいぶ怒りっぽくてブラコンで、ついでに言うとコスプレがとんでもなく怖い。

 

 もう一人が司波達也。「おちこぼれ」の二科生で実技の成績も実際悪いが、ペーパーテストはいつも一位、魔法戦闘力も高く、魔法の知識が豊富でCADの扱いにも優れる。身体能力も抜群で、元生徒会長の真由美らを筆頭に、人気者たちのお気に入り。あとついでに言うと重度のシスコン。最近はどこか疲れているのか、しばしば目が死んでいる。

 

 そして最後の一人が、井瀬文也。実技二位、理論二位。ここまで見ると優等生だが、とんでもないヤンチャ者。見た目通りのクソガキで、校則違反の常連。校則を破ってCADを所持し、他者に魔法で悪戯をしかけるのに躊躇がない。悪名高きゲーム研究部の、いろんな意味での大型ルーキー。横浜事変での多くの生徒の命を救った英雄でもあるが、日常の評判は最悪。

 

 この三人は何かと話題にされがちだが、中でも一番話題にされるのが文也だ。主に悪い方向で。司波兄妹はどこかイジりにくいが、文也の場合は大多数が「あのクソガキなら別にいいだろう」ぐらいの感じで、気軽に話題にする。それゆえに生徒間での感情の共鳴も多発する。

 

 その感情の共鳴を、一高内に潜んでいた「それ」は受け続けた。

 

「それ」は、感情の波、プシオンを生命の糧とする。

 

 意志を持たない未熟な「それ」は、共鳴し、共通化した生徒たちの感情を、少しずつ吸収していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バレンタインデー当日の朝、あずさは作ったチョコレートを、学校に行くついでに文也、駿、文雄に渡した。今日に届くよう昨日の夜には将輝と真紅郎にもクール便で送ってある。受け渡しの時に照れたりとかためらったりとかそういった可愛らしいイベントはなく、実にあっさりしたものだ。

 

 さて、では、ここではそのほかバレンタインデー当日に起きたことを、他にいくつか紹介しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあまあ見た目が良く、成績が優秀で運動能力も高く、また若干行き過ぎている面もあるが誇り高き駿は、中学生のころから結構モテる。今年もまた、片手の指では収まらない程度には本命らしきチョコレートを貰ったが、一方で例年とは違う傾向も見られた。

 

「お、なんだ、結構モテてんじゃん」

 

「誰のせいだと思ってるクソガキ」

 

 昼休みの食堂、紙袋たっぷりに入っている味気ない包装のチョコレートの山を見た文也は開口一番揶揄するが、駿はそれに対していつになく辛辣に罵倒を浴びせる。

 

「こんな大量に貰ってどうすんだ!? これお前のせいだぞ!?」

 

「あっはっはっはっ! 昨日ジョークで言ってたことが本当になったな?」

 

 あずさと貴代がチョコレートを作っていた間、実は二人でこんな会話が交わされていた。

 

『お前結構モテんだろ? 今年もガッポガッポか?』

 

『さあな。お前のせいで何かと苦労してるから、そのねぎらいの一つや二つはくれたりしないものかと思うよ』

 

 冗談のつもりだった駿の言葉は、想定をはるかに超えるレベルで実現した。

 

 風紀委員の女子たち、女性教員、ゲーム研究部の隣に部室を構える映画研究部女子一同、同じクラスの女子、その他もろもろ……彼女らから貰った大量の素気ないチョコは、恋愛感情こそないが、まぎれもない感謝とねぎらいの気持ちがこもっている。

 

 彼女らの共通点――それは、文也に困らされているということだ。そしてこの一年弱で、駿が文也の悪行を止めた回数は数えきれないほどある。それによって救われた彼女たちは、駿に感謝とねぎらい、それと隠しきれない憐みを抱いていたのである。この大量のチョコレートは、まさしく義理チョコなのだ。

 

「そんだけあるんだったら貰ってやるよ」

 

「お前のせいでこうなったんだ。お前に利益が出るんだったら意地でも渡さん。まだ司波にでも渡す方がマシだ」

 

「お、ホモチョコか?」

 

「殺すぞ」

 

 文也の言葉に、駿は殺気を強める。今この瞬間は、間違いなく、USNA軍よりも彼のほうが文也に対する殺意が上回っていた。

 

 

 

 

 

 ――ちなみにこの会話は、たまたま不幸にも食堂で昼食を取っていた達也の地獄耳にも入り、思わずホモチョコを渡される自分を想像してしまった彼は、静かに箸を置いて、妹に心配されないよう吐き気をこらえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「世の中そんなに甘くないぜ☆ ドキドキロシアンルーレットターイム☆」

 

 放課後、ゲーム研究部では、地獄の祭りが開催されていた。

 

 女子へのわいせつ行為・セクハラ行為においては被検挙数一位の生徒が、この部にはいる。一年二科生の「女子」であり、ゲーム研究部の紅一点だ。ハロウィンの仮装でエリカに顔面をジャガイモみたいにされたのは大変記憶に新しい。

 

 紅一点で見た目も悪くない彼女は、ゲーム研究部の男連中から、当然この日を期待されていた。彼らは基本的にモテない。それどころか白眼視されている。貰うのはチョコレートではなく、罵倒と白い目線。それをご褒美だと喜ぶヤバイのもいるが、大勢はやはり義理チョコすらもらえないことを心底悔しがっている。だが、せめて同じ部活の女子からなら、義理チョコくらい――と下心全開で、今日ここに集まってきた。もう引退しているはずなのに、博ら三年生も集っている。

 

 しかしこの部で紅一点、しかも文也に並ぶエースとして活動してきた彼女が、普通にチョコレートを渡すか。

 

 否、当然、余計なことを考えてきた。

 

「ルール説めーい! ここには人数分の見た目は普通のチョコレートがありまーす! この中のほぼ全ては激辛! 一つだけ辛くありませーん! 以上☆」

 

「逆ロシアンルーレットじゃねえか!!!」

 

 思わず一人の部員が突っ込む。ロシアンルーレットとは、一つだけハズレなのだ。一つだけ当たりでほかは激辛など、あってよいはずがない。

 

 しかしそもそも、この部活自体が本来なら悪行続きでとっくに廃部になっているはずである。あってよいはずがない部活で行われることもまたあってよいはずがないのは、ある種の道理である。きっとそうなのだ。きっと。

 

「ほら、さっさと食えよ☆ グヘヘヘヘヘ」

 

(((キモイ)))

 

 こんな奴が作ったもの、それも激辛のものを食べるなんて、気が触れている。全員、冷静にそう考えた。

 

 しかし、それでも、男には引けない時がある。

 

 一つ。大切なものを守るため。二つ。自分の誇りを守るため。そして三つ――祭りとノリに乗るためだ。

 

「よっしゃあいくぜ!」

 

 二年生の二科生の一人が、果敢に先陣を切る。彼は博の跡を継いだ新部長。ボスらしい思い切りの良さは、仲間たちを次々と奮い立たせ――

 

「み、みじゅうううううううううう!!!!!」

 

「んほおおおおおおおおおおおくちこわれりゅううううううううう!!!」

 

「ママー!!!!!!」

 

「」

 

「明日の尻が心配だぜ……」

 

 ――次々と地獄の釜へと飛び込ませた。ある者は叫び、ある者は走り回り、ある者は幼児退行し、ある者は明日への悟りを開き、文也は気絶してリアクションすら取れない。

 

 そんな地獄の中で、一人の勇者が、ついに特別なチョコレートを引いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし彼が――幸運だとは、誰も言えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オエエエエエエエエエエ」

 

 三年生の一人が、周りが真っ赤になる中、一人真っ青にして、床に激しく嘔吐する。これは辛い物を食べたときの反応ではない。もっとおぞましいナニカを口に入れたときの、身体の本能が全力で拒否反応を起こしているときのものだ。

 

「あっはっはっ! センパイあったりー! どうよ、特性ウルトラスーパー激渋チョコのお味は?」

 

「最悪だわ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほぼ全てが激辛で、一つだけ辛くない。

 

 彼女は嘘をついていない。そう――辛くないとは言ったが、美味しいとは言っていないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こ、これは一体何が……」

 

 達也は校内で、殺害事件の第一発見者になった。

 

 暗い笑みを浮かべる美少女、その目の前には、突っ伏して息をしていない二人の男。凄惨な殺人事件が、今まさに起きている――錯覚を覚えた。

 

「先輩、これは?」

 

「あら、達也君。ちょうどよかった♪ はい、バレンタインチョコよ♪」

 

「救急車を呼ぶ必要がありそうなんですが……」

 

 達也は悪魔の笑みを浮かべる美少女・真由美から、鍛え上げられた危機回避本能が全力で警告を発しているブツを受けとりながら、倒れ伏している文也と範蔵の脈を確認する。鬼でも見たかのように苦悶と恐怖の極致のような顔をして気絶してはいるが、幸い脈も呼吸もある。命に別状はないようだ。

 

「なーに、死ぬようなものは食べさせてないわよ」

 

 真由美は、その小さな体のどこにこれほどのものが、と力自慢の達也に思わせるほどの握力で手首をつかみ、二人から引き離す。かろうじて意識が戻ったらしい二人が何やら口をパクパクさせているが、真由美に背中を踏まれてまた気絶した。

 

(シ、バ、ニ、ゲ、ロ)

 

 達也は二人の警告を読唇術で読み取っていた。

 

 厚意に従い、無言でその場を離れようとする達也。視界の端にチョコレートらしきものを持っている里美スバルの姿が見えるが、気にしていられない。

 

 しかし、その目の前に、悪魔が立ちはだかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「は や く め し あ が れ ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 達也は一口味わった後、あまりの苦さに、『分解』の魔法式を構築することすらできず、全部食べるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真由美に呼び出された範蔵は、義理だと分かってはいても、憧れの先輩からチョコレートを貰える喜びに満ち溢れていた。家に帰ってから、仏壇に飾ったのちにゆっくり味わおうと思ったのだが、真由美からこの場で食べるようにせがまれ、開封する。どんな味でも、自分の語彙の限り最上の言葉で褒めたたえよう。そう心に決めた範蔵の視界に、横から小さな手が現れる。

 

「お、なんだ意外といい関係なんじゃん! 俺にも一口寄越せよ! あむ」

 

「あ、こら、井瀬! まったく……あむ」

 

 意地汚いクソガキのつまみ食いを諫めながら、範蔵は文也とほぼ同時にチョコレートを口にいれ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――次に彼の意識が戻ったのは、夕日が差し込むころだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 広くて天井が高い演習室に設けられた迷路。その中を、駿は、文字通り疾走していた。

 

 本能と、方向感覚と言う論理を駆使して、まだ見えないゴールへとコンマ1秒でも早くたどり着く。その目標だけが、今の彼を動かしていた。

 

 しかしそんな彼の視界の端に、いきなり三つの銃座が現れ、ペイント弾を目にもとまらぬ速さで連射しだす。

 

 それに対して駿は、銃座が視界の端に入る前から、わずかな空気の動きと音、そして本能を頼りに、すでに反応していた。

 

 ペイント弾が飛び出す前に、その銃口には空気で蓋がされる。行き先を失ったペイント弾は、銃の中で詰まり、機能を停止した。

 

 そんな安心もつかの間、まるで安心したところを狙っていたかのようなタイミングで頭上からはボールが落ちてきて、足元には大量のパチンコ玉が放たれて動きを制限してくる。

 

 駿は、頭上のボールを最低限の動きで避けたのち、大量のパチンコ玉の上にジャンプして乗った。普通なら、そのまま滑って転ぶ。

 

 しかし駿は、滑りはしたが、転ぶことはない。むしろ滑ることによって加速し、移動速度が飛躍的に上昇した。移動系魔法と加速系魔法を組み合わせた魔法だ。

 

 より速く動き出した駿に、次々と妨害するトラップが牙をむく。それらを、駿は、視界に入る前から感知して、すべてを最小限の魔法で無効化し、自らの身を一切傷つけることなく、ゴールにたどり着いた。

 

「……まあこんなものか」

 

 あれだけ動いて、駿の息は少しも乱れていない。彼が確認した自分のタイムは、自己ベストではないが、悪くはないタイムだ。

 

「お疲れ。最近はこれまたずいぶん気合が入ってるな」

 

「お疲れ様です。ちょっと、思うところがありまして」

 

 そんな彼に声をかけたのは、ゴール前で休憩していた二年生の新部長だ。暑苦しい意味で体育会系の色が強いこの部活にしては珍しく、穏やかな性格の男子生徒である。

 

 その新部長は、駿が出したタイムを見て、思わず苦笑を浮かべる。駿本人は昨日更新した自己ベストに届いていなくて満足していないようだが、彼から見たら、手が届かないタイムだ。駿は一年生にして、引退した三年生も含めてこの部の誰よりも、圧倒的に高いスコアを出している。歴代スコアでも二位に大差をつけての一位であり、しかもここ一か月の駿の平均タイムは、これまた歴代二位を上回る。

 

 コンバット・シューティングは、魔法式構築速度と反応速度、そして運動神経が重要であり、魔法式の規模と干渉力はそこまで重要ではない。駿にとって、これ以上ないほど適性がある競技だ。

 

 九校戦の怪我があって以来、駿はこの競技に、周りが心配する程のめりこむようになった。しかし、タイムはそこまで伸びていなかった。だが、夏休みのある日を境に急に雰囲気が変わって憑き物が取れたかのようにリラックスするようになり、それが良い影響を与えて、タイムが飛躍的に伸びた。それから、警備隊として参加していた新部長にとっても嫌な思い出となった横浜事変を境にさらに集中力と実力が伸び、そして最近はさらに加速してきている。春休みに控えている大会では、最低でも上位入賞は間違いないほどに成長していた。

 

(さて、録画した映像でも見返してみるか)

 

 ありがたいことに設備が整っており、この部では、練習の一つ一つの映像を記録し、いつでも見返せるようになっている。実践と振り返りを繰り返して自分一人でも効率よく練習できるのは、願ってもいないことだ。準備室でコンピューターを起動し、部共通のパスワードを入力して、映像ソフトを起動する。

 

「あの、ちょっといいかな?」

 

 そしていざ見ようとしたタイミングで、駿は後ろから声をかけられた。

 

「ん? なんだ?」

 

 遠慮がちに声をかけてきたのは、操弾射撃部の活動中で、準備室に何やら用事があったらしい滝川だ。その表情はキリッとしているいつもと違って、どこか落ち着かない。

 

「えっと、その……これ、上げる」

 

「お、ありがとな」

 

 滝川から渡されたのは、可愛らしいラッピングがされたチョコレートだった。少し乱れている部分があるのを見るに、市販品ではなく、自分で包んだのだろう。

 

「その……横浜で助けてもらったし。それだけでお礼になるとは思えないけど……」

 

「ああ、それか。あれは当然のことをやったまでだから、別に気にしなくても良かったのに」

 

 目をそらして頬を掻きながらそういう滝川に、駿はそちらには目もむけずにチョコレートのラッピングを剥がし、中から一つ取り出して食べる。

 

「ん、美味いな」

 

「そう、よかった」

 

 形もこれまた少し崩れているところを見るに、なんと手作りだ。運動した後の体が甘いものを求めていたので、今の駿にはちょうど良かった。大量のチョコレートがロッカーにしまってあるが、そこまで取りに行くのは面倒だと思っていたところだ。

 

「それじゃ、部活頑張ってね」

 

「おう、お前もな」

 

 それからすぐに、滝川はその場を離れ、そそくさと準備室を後にする。

 

(あいつにしてはやたらと緊張してたな)

 

 その背中を見送ると、駿はもう一口チョコレートを食べてから、改めて映像を見ようと、コンピューターに再び体を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ブラックコーヒーが飲みたい気分だあ」

 

 そんな二人の様子を、準備室の隅っこで邪魔にならないように黙って作業していた五十嵐は見て、小さくつぶやいた。

 

 ちなみに、彼が望むレベルの何百倍もの苦みを文也と範蔵が味わったのは、ほぼ同時刻であることを追記しておこう。

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