俺──美咲夜、という人間は、所謂お人好しという類の人間だったらしい。
自分としては普通に生きているつもりで、昔から頼まれ事やお願いをされることが、少し多かった程度だと思っていた。
それらは大抵小さなものだったし、相手側にもやむにやまれぬ事情があったから、俺を頼るのも無理はないと、子供ながらにそう納得しながら生きてきた。
けど、高校に進学してから、二ヵ月ほど経ったある日。
窓から差す眩しい斜陽を鬱陶しく思いながら、一人だけで教室の掃除をしていた、そんないつも通りの日に。
教室に一人の男子生徒が入ってきた。
眼鏡をかけた
才色兼備で文武両道な──クラスの人気者、とだけ言えば伝わるような、そんな人物。いつも集団の中心にいて、大勢の人から好かれているトップカーストの人間。
そんな彼が、一人で教室に戻ってきて、俺に声をかけてきた。
一人で何してんだ? と。
彼でなくとも、見れば分かることだろう。一人で教室掃除を行っているのだ。他のクラスメイトたちは外せない大切な用事があるらしいので、俺に謝りつつ先に帰った。だから、これは仕方のないことなんだ。
【いや、お前……騙されてんぞ?】
えっ──なんて。
そんな間抜けな声が出たことを覚えている。
彼曰く、クラスメイト達は俺に仕事を押し付けて、遊ぶために先に帰っただけ。
彼曰く、本来なら掃除当番であるはずの、その友達を迎えに行くために、他の場所の掃除を終わらせてからここへ戻ってきた。
彼曰く──俺は騙されやすいお人好し、としてクラスの人間たちに認識されているらしかった。
【まさかここまでとは思わなかったな……】
まぁ、騙されていたのなら、まんまと嵌められた俺が悪いな。教室の掃除を終わらせたら帰るよ。
【……】
どうした?
【……いや、ダメだ】
だ、ダメって?
【押し付けられた掃除なんかしなくていい。一緒に帰っちまおうぜ】
あとで先生に怒られるかもしれない。これくらい気にしていない。せめて掃除を終わらせてから。
いろいろ言葉にして抵抗したが、彼は『押し付けられてもやらない、って意思表示をした方がいいんだよ! あとで怒られそうなら一緒に俺も怒られるから、つべこべ言わず来いホイ!』と言って俺を教室から連れ出していった。
そこからだ。
彼と──呉原永治と交流をし始めたのは。
呉原と共に過ごすうちに、俺は重度のお人好し(らしかった)ではなくなっていき、それと引き換えに呉原は”クラスの人気者”から”クラスの変わり者”へのジョブチェンジを余儀なくされてしまった。
完璧そうに見えていた彼だったが、その実中身は健全……というか少し変態な男子高校生のソレで。
俺の数百倍はエロゲーを所持している彼の内情を、ポロっと口に出してしまった俺の影響で、呉原はその日以降”エロゲ博士”の称号を得た。俺はトップカーストの人間を、自分と同じ地位まで引きずりおろしてしまったらしい。
けど、呉原はいつも笑っていた。
自分に正直に過ごしてた方が楽しいと、口にしながら。
お前ももうちょっとワガママになってみろよと、そう言って俺の隣を歩きながら。
そうだ。
俺は彼のおかげで、ワガママを貫く意志を得ることができた。
面倒だと思ったことも、自分が理不尽だと感じたことも、嫌なら否定していいのだと知ったのだ。
だから。
たとえ世界が『やむにやまれぬ事情』を提示してきたとしても。
俺はそれを否定する。何があっても、
俺にとってのリアを。
誰よりも大切なあいつを守る為なら。
俺は──どんな奇跡だって起こしてみせる。
★ ★ ★ ★ ★
すべてが真っ白で何もない、まさに虚無虚無プリンな隔離空間で、俺とアイリール、そしてアカ子が対峙している。
アカ子は俺に殴られた後「マジでちょっと待って」と言って体勢を立て直し、こうして改めて俺たちの前に立っている。
人の形はしているが、頭からつま先まで真っ黒で、顔がないため表情も窺えない。
こうして目の当たりにしてみると、やはり無機質で不気味な奴だ。ルクラが怯えていた理由も、彼を見れば自然と納得できる。
まぁ、流石にもう恐怖を抱いたりはしないけど。お前なんか怖くないぜ。
『……わたしを殴った知的生命体は、君が初めてだよ。美咲夜』
「お前の初めてを貰っちゃったわけか」
『その言い方なんとかならない?』
間違ってないし別にいいでしょ。
それより、だ。
「まずはアイリールのことに教えろ。何がどうなってる?」
『……まぁ、いまさら隠しても意味はないか』
分かりやすく肩をすくめたアカ子は、観念したように話し始める。
『現実世界と仮想世界、その二つの境界線を破壊したのが、そこにいるダグストリア──』
「そんなことは知ってる」
『えっ。なんで?』
「俺はリアだからな」
首をかしげるアカ子。俺の言っている言葉の意味が、どうやら理解できていないらしい。
まぁよい。ほら、いいから話を続けるんだよ。
『えっと……それでね? ダグストリアによって破壊された境界線を、クラッシャーが歪めて世界を無理やり一つにまとめたんだ。いま存在しているあの世界の在り方は、ひどく不安定で歪なわけ』
「それで?」
『その世界同士の共存を支える柱になっていたのが、君の隣にいるそのダグストリアなんだよ。
一番最初に現実世界へ介入して耐性を持ち、わたしの力の一部をも持っていたダグストリアだからこそ、その負荷に耐えられていた』
横を見る。そこには俺よりも頭一つ小さい銀髪の少女がいる。かわいい。
「そうなのか? アイリール」
「知らなかった……」
本人が意識的にやっていたことではなかったらしい。おそらくは、ルクラの他にアカ子の力を持っているのがアイリールだけだった為、自動的に柱になったのだろう。
『クラッシャーがダグストリアをこの仮想空間に招き入れたことで、現実世界は支えを失った。
……けど、世界……もとい地球の意思は、代償を支払うことで世界の存続を保った』
「その代償がアイリールってことか?」
『そうだ。アイリール・ダグストリアが柱となって世界を支えていて、それが無くなったのなら【最初からアイリール・ダグストリアが柱となっていた事実など無かった】ということにして、彼女がいなくても世界が存続されるよう、過去が都合のいいように書き変えられたんだ。
これはわたしがやった事ではないよ? 分かりやすい例えとして地球の意思とは言ったが、これはもはや物理法則などの超自然的な概念に近い』
世界は自然には壊れない。クラッシャーのように、自分の力で世界を破壊する、という意思を持った存在によって故意に壊されない限り、こうして”釣り合い”を取って世界は存続される──という法則がこの世に存在するのだ、と。
頭が痛くなってきそうな情報の羅列を、アカ子がぶち込んできたせいで、流石にちょっと怯んだ。
アカシックレコード、という存在を納得するだけでも、かなり頭を説得したのだ。今回ばかりは少しだけ時間が欲し──
「……よ、夜? ……だいじょうぶ……?」
時間なんていらねぇわ。完全に納得した。
「大丈夫だ。アカ子、続きを」
『……え? えっ、今ので納得できたの?』
「嘘なのか?」
『い、いや、嘘ではないけど……何なんだこの適応力……』
アカ子が小声でボソボソと呟いたが、
適応力があるのは当たり前だ。アイリールの為なら、たとえ宇宙空間だろうが適応してやる。舐めるな。
『それで……何だっけ? ……あぁ、そう、ダグストリア。
彼女の存在を証明する物や、知人からの記憶が消えたのは、ダグストリアの過去自体も無かったことになっているからだ』
「なんだと?」
だが俺は覚えている。アイリールの事を、何もかも。
『それだよ! 何でダグストリアのこと覚えてるの!』
俺に質問するな。
ましてやそんな愚問を。
「愛の力だ」
『愛の力……?』
それも生半可な愛の力ではない。……フッ、お前には分からないだろう。
『そのドヤ顔、ムカつくなぁ……なに、どういうこと?』
「どういう事も何も、そのままの意味だ。
親友や恋人、ましてや夫婦や家族よりも深い”リア”として、地球上で俺たち以外には存在しない唯一無二の愛として育んできた絆の前に──世界の意思など通用しない」
『???』
お前には分かんねぇだろ。俺には
俺たちの絆は強い。世界の壁を越え、互いに同じ夢を見るほどに。
何者にも犯されない絶対不可侵の領域にある愛こそが、俺とアイリールを繋ぐ絆なのだ。
世界が何だ。自然的な概念だろうが何だろうが、俺と彼女を阻むことなどできやしない。
「それで、だ。アイリールの諸々を元に戻すには、どうすればいい?」
一番大事なことだ。皆には言わなかったが、世界破壊の阻止は二の次で、本命はこっちだった。
俺は彼女を覚えているが、皆がアイリールを忘れているこの現状を、そのままにはしておけない。
『……無理だよ』
なに?
『無理だ、と言ったんだ』
何故だ。どうして無理だと言い切れる?
『存在証明ができない。つまり、彼女は現実世界に戻った瞬間、魂が肉体ごと消える』
「……俺が覚えてる」
『記憶なんてものじゃ存在証明にはならない。
もちろん、君が付けているそのアクセスウォッチ程度じゃ、ダグストリアという個人を、世界に観測させることは不可能だ』
足りない。
今持ち合わせている武器だけじゃ、アイリールの存在を証明することができない。材料が圧倒的に不足しているのだと、目の前にいる地球の代弁者はそう告げる。
『君が今も記憶を保持しているのは、まぁ謎だから一旦置いておくけど……君の言うその”リアの絆”とやらが無い他の人間たちは、君の影響で少しだけダグストリアを思い出しかけているだけ。
君から離れたことで、ダグストリアの事も次第に忘れるし、元から無かったことになる。
ダグストリアが今もこうして存在できているのは、この場所が現実世界ではないからだ。
──それに、ここにいれば存在し続けていられる、ってわけでもない』
「っ!?」
アカ子の最後の言葉を耳にした俺は、咄嗟にもう一度隣へ目を向けた。
そこにいるアイリール──彼女の右手が半透明になっている。
「アイリール!」
「……あっ、私……」
俺に急かされて彼女も自分の手元を確認したことで、自身の身に起きている事態を正しく認識することができた。
まずい、本当にまずい。
まさかここまで追い詰められた状況にあったなんて。
『最良の選択、というゲームがあったろう?
あそこからもリアというキャラクターが、既に消えているよ。
リアという存在は、アイリール・ダグストリアという少女がいて、初めて成り立つキャラクターだからね』
外部要因が存在証明をすることはない、という意味だろうか。
いま、この場で、全てを何とかしなくてはいけないのか。
どうすればいい!?
俺は、いったいどうすれば──!
答え:TSF