「佐東貴博は前科持ちの人間なんですよ!」
小さな事務所内に、そんな声が大きく響き渡った。
俺はそんな響き渡る声を無表情で聞き流しながら、震える足を一歩ずつ、進めていく。
「代表!噂をすれば犯罪者が来ましたぜ」
井川という男は、これでもかというほど鼻息を荒くしながら俺に指を指しながら言葉をぶつけてくる。
ぶつけられる言葉が汚いと、自然に眉間にしわを寄せてしまうのは俺の悪い癖。
こんな状況なのに、気になるのは京華さんの表情だった。
彼女は何を考えているのか分からない、感情の籠らない眼をしていた。
そんな眼をして、こちらを探るかのように見てくる京華さん。
昨日からこの人にも拒絶される心の準備をしたというのに、そんな決心はバラバラと音を立てて崩れ落ちた。
「そうね……今日は一人の人間を解雇しないといけないのね」
京華さんの口から、低く、感情の籠らない声が零れ落ちる。
こんな真夏に、凍てつくような声を出すことが出来る人間は日本中を探してもほとんどいないだろう。
鳥肌が立つような空気の中、京華さんの前に立って頭を下げる。
こんなにも口が震えるのは、どうしてなのだろうか。
「今までお世話になったのに、仇で返してしまい申し訳ありませんでした」
「そうね。佐東君……貴方は後で怒らなくちゃいけない。でもその前に処遇を決める」
俺はさっきより、深く頭を下げる。
秋の穂は
つまりそういう事で、俺は良い事なんて無いダメ人間だという事。
きっとすぐ横で立っている井川という男は、はちきれんばかりの笑顔を俺に向けているのだろう。
「処遇はもちろん、懲戒解雇ね」
今の日本社会において懲戒解雇なんて滅多なことでは言い渡されない。
俺だって自主退職は薦められたが、懲戒解雇は初めての経験だ。
こんな時に初めての経験。
初めては誰だって怖いけど、経験すれば成長する。
これで俺は、何を言われても表情を変えない自信がつく。
「……聞いてる?私の話?」
虚無の眼で下をじっと見つめていた。
その時に前から聞こえた、今まで聞いたことのないような恐ろしい声が聞こえた。
この声は京華さんなんだけど、声には怒りが混じっていた。
どのような「怒り」なのか、今の俺には分からない。
裏切ったから?
重要な秘密を今まで隠していたから?
会社に悪いイメージを与えたから?
モカを、泣かせたから?
簡単に思いついたことをつらつらと頭の中で浮かべてみたが、自分という人間に嫌気がさした。
今までこんな人間だったのに「当たり前」のように振舞っていた過去の自分を殴りたい。
横では、井川という男が今までにないような笑みを浮かべながら俺の方を見ている。
横目で見ても分かるくらいの、満面の笑み。
「そう……バカには何言っても分からないのね」
そうかもしれない。
俺みたいなバカは勝手に自分をカテゴライズしてしまうのだろう。
ここまで京華さんに悪い印象を持たれたのなら、安心して俺はどこかに行ける。
俺は傷ついても、他の大事な人にはそうなってほしくない。
モカをあんな風に言ってしまった俺が何を言っているのだろうな。
「一刻も早く荷物をまとめて出て行きなさい」
井川君。
流石の俺も、自分の耳を疑った。
今まで疑われる立場だった俺が、初めて人の言葉に疑いを感じた。
京華さんの方を見ると、先ほど言った言葉が嘘ではない事が安易に分かった。
井川という男はぽかんとした、まるで今まで経験したことが無いような物事が目の前で起きたかのような間抜けな顔をしていた。
正直、俺もあんな間抜けな顔をしていると思う。
俺だって、頭も視界も、フワフワしているのだから。
この事務所はもしかしたら、重力が全くない空間なのかもしれない。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。どうしてこのクソガキじゃなくて俺なんだよ」
「どうしてって……簡単よ。貴方はこの場所にいらない存在だから」
「この犯罪者で、大きな取引先に重要な書類を忘れて取引をパーにしてしまったこのガキの方がいらない存在だろ!」
「重要な書類?どうして重要って分かるの?」
「俺が代表にその書類の入ったファイルを渡したじゃないですか」
「確かに受け取った。でもクリアファイルを見ただけで重要って分かるの?」
「そりゃあ、代表に渡す前に中身を見て……」
「嘘ね。目が泳いでいるわよ?それにあの時、貴方のデスクの引き出しからそのファイルを鷲掴みにして引っ張り出して私のところに持ってきたじゃない」
ドンドンと井川の顔が赤くなっていく。かなり興奮してきているようみに見えるが、俺の目は見開いたままずっと京華さんに釘付けだった。
京華さんは、他人をしっかりと見ている。
「証拠っ!証拠がないだろ!」
「証拠とか言う時点で胡散臭いわよ?強いていうならカメラの映像、見せましょうか?」
この事実が嬉しくもあり、恐ろしさでもある。
どうして恐ろしいのか。
それは、俺の立場になって考えてみれば分かるだろ?
冷たい汗が背中をよじ登っていく。
「それに、ね……」
京華さんは、視線を俺の方に移してきた。
その時の彼女の目は、井川に向けていたような感情は一切なく、まるで子猫の傷口を舐める親猫のような目をしていた。
口が、変な角度で開き始める。
辛い思いと、歯がゆい思いが交差した時に開くような口。
「私は、最初から佐東君が前科持ちだという事を知っていた。正確に言うと採用を決めた日の夜に、あの娘から聞いて、知った」
は?
それが、真っ先に俺の頭の中に浮かんだ。
そしてそれが無限に増殖して頭の中を支配する。
最初から俺が犯罪者だという事を知っていた?
それなのに今まで何事も無いように振舞っていた?
どうして?どうしてなんだよ。
「だから私は、貴方を怒らないといけない。佐東君」
秘密がばれた時は、誰だって心臓がキュッとなる。しかも苦しいくらいに。
それが誰にも言えないような嘘だったら、尚更だ。
そして嘘がばれた時はどうなるのか、相場は決まっている。
嘘をつく人間なんて信頼できない。
もう貴方とは口を利かない。
大事な事を隠していたなんて薄情な奴だ。
すぐに思い浮かぶだけで3つも挙がった。そしてその3つに共通しているのは「批難」だ。
そしてそれは、一番人間の心を蝕む。
手が小刻みに震えてきて、心が痛くなってきた。
視界もグニャン、と渦を巻いているように感じる。
足の裏は気持ちが悪くて、宙に浮いているかのように感じてしまうような痒みが走る。
ありとあらゆる異変に耐え切れずに目を瞑った。
頭を叩かれるのだろうか、それとも言葉のナイフでメッタ刺しにするのだろうか。
どちらでも耐えられるように、目を瞑った。
だけど、京華さんは。
俺を、優しく包み込んでくれたんだ。
消えかけている火を、消えないように包み込んでいるかのように。
「どうして辛いって、言わないの」
「京華さん……なんで……?」
「どうして感情を押さえつけて『当たり前』みたいな顔が出来るの」
目に、鼻に、身体全体に、京華さんの温もりを感じる。
やさしくだけど、ギュッと包み込んでくれる京華さんの温かさ。
さっきまで視界を歪ませていた正体が雫となって頬をツーッと伝う。
輪郭を綺麗になぞって落ちた涙は、様々な感情を持ちながら床で弾けた。
「自分を悪役にして周りさえ幸せになれば良いとか、そう思っている貴方を叱らなくちゃいけない。私が、モカがそんな貴方を見て笑顔になれると思ってる?ほんとバカなんだから」
「京華さん……俺、俺は……っ!」
「そんな貴方に、アドバイスをあげるわ」
事務所内は、鼻をすする音と京華さんの誰よりも温かみのある優しい声で溢れている。
井川という男は知らない間にどこかに姿を消していた。
きっとバカらしくなったのだろう。
承認欲求の激しい男が、誰にも相手にされないこの空間に。
「子供はね?迷惑を掛けるのが仕事なの」
「京華さん……?」
「でも、迷惑を掛ける中で成長できる。判断を『迷』わなくなるの。物事に『惑』わされなくなるの。子供がそうなるまで傍で支えるのが大人の仕事よ」
「俺を、子供扱いしないでくださいよ」
「確かに佐東君は社会人。しかも20歳。でもお酒が飲めるから大人だとか言わないで」
「なんですか……それ……」
「すべての行動に善悪が付いて、責任が持てたら大人よ。働き始めてすぐの子とかは私からしたらまだまだ子供」
だからね。
「前科持ちだから、とかそんなくだらないレッテルなんか気にしないで一度きりの人生、ありのままを過ごしなさい。私が責任もってあげるから。いつでも貴方の味方なんだから」
ぐすっ、ぐすっ。
……うっ、うっ。
黒色の感情を持った心が、子供の頃はよく聞いた音を立てて崩れていく音がした。
子供の頃によく聞いた音、それは。
うわあああああああ、という負の感情を外に出す鳴き声だった。
20歳にもなってみっともないと思う。
まだ子供だったんだって思う。
今、すごく迷惑を掛けているんだなって思う。
心の中に渦巻いていたどす黒い感情は、涙となって綺麗な光を灯しながら流れていく。
今まで見ていたモノクロの景色に少しずつ彩りが加えられていく。
俺の涙が枯れた時、何かが「変わる」んだろうなって思った。
「……迷惑を掛けてすみませんでした、京華さん」
「落ち着いた?」
「はい」
平日のお昼に事務所の代表の胸を借りて大泣きするという、1年後に思い出話として話されたら顔が真っ赤になってしまうような事をやってしまった俺も、少しずつ落ち着いてきた。
すべての出来事には発生する原因がある。
俺が大粒の涙を流したのには色々な要因が考えられるが、きっかけは京華さんの優しさに触れた部分があるだろう。
「愛情」というモノを初めて触った。
そして血のつながっていない赤の他人でも、それが触れられることを知った。
自分以外の人間に、興味を持った。
「それにしても、カメラの映像があるとかハッタリ言ったけど上手く信じてくれて良かった」
「ハッタリだったんですか……」
「あ、そうそう、佐東君に渡したい書類があったの忘れてた」
「……書類、ですか」
「そう、これ」
「これって……どうして京華さんが?」
「事務所あてに届いたの。どうせあの娘でしょ?」
京華さんが自分のデスクの引き出しから出してきたそれは、軽い前科持ちの人間になら定期的に届く書類。
そしてその書類は俺の実家にしか届かないはずだった。
京華さんが言った「あの娘」という言葉がやけに喉に突っかかる。
「裁判所からの封筒をどうしてあいつが?」
「あの娘があそこまで真剣になったのを見たのは初めて。母親としては、嬉しい気持ちと不器用なんだなって気持ちが入り混じってるけど」
京華さんの言葉が、どうしてこんなにも俺の身体に引っかかるのだろう。
いまいち状況を掴めていない俺の顔を見て、京華さんは「あら、意外ね」なんてこぼしている。
「頭の良い佐東君なら、とっくに気づいてると思ってた」
「どういう事です?はっきり言ってくれませんか」
「うちの娘が夜更かししてることと関係してるの」
モカが夜更かしをしていることは知ってる。彼女の目の下はクマが濃くなっていた。
でも、そういえばモカが夜遅くに何をしているのか考えなかった。
それに今日、モカを突き放すために言った言葉が俺の胸の中に嫌なくらい響き渡る。
さっきとは違う、ものすごく嫌な予感が背中をスッと伝う。
「モカはね、一から法律を調べてた」
「……法律、なんで……」
「法律、なんてちょっと大きい括りだからもっと端的に言うと『刑法』ね」
「そんなの調べて、どうすんだよ……」
「勉強し始めてすぐに『刑法27条』を見つけた。その内容はね……」
5年以上経てば、前科の効力が失われる。
考えもしなかった、そんな言葉が俺の耳に入ってきた。
俺は今20歳だ。そして俺に前科が付いたのは高校一年生になってから三ヶ月とちょっとの時。
目を思わずギョッと見開いてしまう。
それと同時に小さな声でふざけんなよ、という不器用な言葉が落ちていく。
「前科が完璧に消える、という意味では無いけど一般人のような暮らしは出来るようになるんじゃない?私だって専門外だから明言はできないけどね」
「なに、やってんだよ……」
「でも資金が足りない。そこでうちの娘は刑法の勉強もしつつ、夜勤を入れていった。だけど大学は休学せず、以前やっていたコンビニバイトのシフトも変わらず入れていたみたい」
どうして大学も、大学終わりのコンビニバイトも続けていたのかは俺にでも分かる。
左手を無意識に握りしめてしまう。
そして俺は過去の自分に全力で舌打ちをして、事務所を飛び出した。
「最近の子はみんな不器用なのかしら。……でもちょっと、羨ましいかも」
@komugikonana
次話は12月6日(金)の22:00に投稿します。
作者はその日は飲み会に行きますが、予約投稿をしておきますのでご安心ください。
……予約投稿ミスってしまう可能性もありますが(過去2回の実績あり)
新しくお気に入りにしてくださった方々、ありがとうございます!
Twitterもやっています。良かったら覗いてあげてください。作者ページからサクッと飛べますよ!
~高評価を付けてくださった方をご紹介~
評価9という高評価を付けて頂きました 壮美なる聖告の大天使ガブリエルさん!
この場をお借りしてお礼申し上げます。本当にありがとう!
これからも応援、よろしくお願いします!
~次回予告~
こんなに暑い昼間だろうと、汗が滴り落ちてシャツにぐっしょりと染みついて匂いが気になるとか、そんなことを考えずにただひたすらに走る。
最近はバカなくらいたばこを吸っていたせいなのか、ただの運動不足なのかそれとも嫌な予感のせいで心臓がいつも以上に不気味な音を立てているせいなのか分からねぇけど、息が乱れる。
スーツのまま走るのなんて正直ダサいけど、今はそんな周りの評価なんてどうでもいい。
上着である黒いジャケットを着ていることに後悔しながら走る。
自分の中で何かが「変わった」んだって言ったら、何人の人間が笑うのだろう。
「ありがとう!恩に着るよ!」
~感謝と御礼~
今作品「change」のお気に入り数が500を突破!さらに感想数も200を超えました!
みなさん、本当にありがとうございます!
読者のみなさんの温かい声援、そして毎話読んでくださっているみなさんにお礼申し上げます。
ありがとうございます!!
お気に入り数が増えると作者もニッコリなのでバンバン登録してくださいね。
まだまだ「change」は続きます!
これからもよろしくお願いします。
では、次話までまったり待ってあげてください。