あたしは足に力が入らず、思わず崩れ落ちてしまった。
貴博君が意識不明の重体?ママ、あたしの大事な人に対してそんな冗談なんて辞めてよ。
何も面白くないよ?
それに、貴博君は……。
今日の昼ぐらいはお互いメッセージをやり取りしていたんだよ?
数時間前はあたしたちにパンを差し入れてくれたんだよ?
そんな貴博君が今は意識不明なんて、あり得るはずないじゃん。
なのにどうしていつも冷静沈着なママが慌てふためいているの?
確かにライブハウスの近くに警察の人がいたけど、そんなはずないよ。
「モカちゃん!?どうしたの」
「モカ!大丈夫!?」
近くにいたつぐは何が起きているのか分からないくらい慌ててあたしの近くに来てくれて、蘭は目の色を変えてすぐ近くまで来てくれた。
ひーちゃんとともちんは突然の出来事に、固まっちゃってる。
「モカ、電話出ても良いよね」
蘭はあたしの返事を待たずに落ちている受話器を拾って話し始める。
つぐがさっきあたしのママから、って言っていたのを蘭は聞いていたんだろう。
蘭、お願いだからあたしが聞いた言葉がすべて疲れから来ている幻聴だって言って。お願いだから。何でもするから。
「うそ……。その話、本当なんですか!?」
いつもは感情を表に出さない蘭でさえ、一瞬固まってそこから焦燥の色を顔全体に出しながら早口で受話器に向かって話しかけている姿を見て不安にならない人なんていないと思う。
ひーちゃんも、さっきまでストローを持ってグルグルしてたのに、そんな仕草でさえ忘れてしまってる。
受話器をゆっくりと戻した蘭は、しばらく床を見たままだった。
「貴博が、誰かに襲われて……意識不明、なんだって。今手術中だけど、頭を強く打ってるから……色々と厄介らしい……」
床を一点見つめたまま蘭が電話越しから聞いた言葉を淡々と話した時、確実にあたし達の周りを流れる時間が止まった。
でも時計の秒針は間違いなく進んでいる。
みんな驚嘆の声を上げたくらいで、その後に続く言葉が無い。
あたしは、何をしていて何を言えば良いのかも分からない。
あたしの頭の中では、一年前に初めて貴博君に出会った時から今日差し入れを持ってきてくれた貴博君の表情一つ一つが走馬灯のように駆け抜ける。
なぜだか視界がグニャンとなって良く見えない。
「そんなの、嘘だよ……。だって貴博君は今日も控室に来てくれたもん。その時はいつも通りだったよ?」
「……モカ」
「きっと違う貴博君だよ?名前が同じな別の人だよ。そうだよね……そうだって言ってよ、蘭」
パチン、という乾いた音が鳴り響いたのはあたしが自分のそうであってほしいという願望を言い終えた後だった。
その音と同時にあたしの頬は痛みを感じて、その後ヒリヒリとした痛みが広がっていった。
そしてあたしの視界を歪ませていた正体が目から頬を伝って落ちていく。
蘭はちょっとやりすぎちゃった、みたいな顔をしている。それに蘭だって頭の中では情報を整理できていないのかもしれない。
そんな眼をしているのに、蘭はずっとあたしの眼を見ていた。
あたしは、すぐに眼を逸らしちゃうのに。
「モカは、あいつの彼女なんでしょ……。だったら、モカはあいつの近くにいてあげないといけないでしょ!いつまでも目を逸らしてたらダメだから!」
「蘭……」
でもあたしは悪い子だと自分でも思う。こんなに言われても足の力が全然入らないのだから。
蘭の言葉は間違ってなんかない。むしろ全員が全員、早く飛び出して走って貴博君の元に行けば良いじゃんって思う。
でも……。
「怖いよ」
あたしの心の声がついに漏れてしまった。
意識不明の重体という事は、この先すぐに容態が変化してどうなるか分からないという事だよね?
あたしの目の前から貴博君がいなくなるなんて、怖いよ。
もうあたしの思考の一部、いや大半が君の事なのに、そんな君がいなくなったらあたしはどうしたら良いの?
しばらくの静寂が続いた。
さっきまであんなにも充実していて楽しかったのに、今は誰も甘いオレンジジュースを飲もうとはしない。
「モカの気持ちも、分かるよ」
蘭は何かを決心したような声色であたしに優しく声を掛けてくれた。
あたしはまだ、蘭の顔をまっすぐ見れない。
「怖いって気持ち。あたしは恋をしたことが無いけど大事な人が突然いなくなっちゃって、もう二度と会えなくなるかもしれないって思ったら怖いよ」
だけど、と蘭は話の続きをする。
「でもきっと立場が逆なら、貴博だったら、迷わずその人がいる場所に向かうと思うよ」
「……」
「モカは落ち着いてから、病院に行けばいい。あたしは今から会いに行くけど。この時間に大勢で行ってもきっと追い返されるだろうし」
だからひまり、つぐみ、巴はモカのケアをしてあげて。
蘭はゆっくりとだけど歩き始めて、店の扉を開けようとする。
扉を開けようとした時、蘭はあたしの方を向いた。
「モカ。安心して。あいつは死なないから」
その言葉を残して、蘭は店を後にした。
そして急に襲い掛かる罪悪感に、あたしの心は悲鳴を上げそうになった。
どうして貴博君の彼女であるあたしはこの場所にいたままで、貴博君とは赤の他人でもある蘭が貴博君の元に行っているの?
あたしは、彼女失格だね。
「モカちゃん、今日は休もう?私の家にお泊りしても良いから」
いつも頑張り屋のつぐから休もう、という言葉を聞けるなんて新鮮だなって思えた。
ひーちゃんもいつの間にかあたしの隣にいてくれているし、なぜだか涙が溢れてしまった。
ともちんは店の外で誰かと電話をしているらしい。きっとあの子だろうなと思うし、店の中で電話を敢えてしないともちんの気遣いが心に染みた。
そのままあたしは、つぐの言葉に甘えてつぐの家で一晩を過ごすことにした。
目を覚ませばすでに辺りは明るくなっていて、窓の外はいつもの日常が幕を開けていた。
昨日からあまり寝れなかったあたしは、もしかしたら昨日見ていたのはすべて悪い夢だったんじゃないかという期待を込めて携帯を見たが、昨日見たママからのたくさんの着信履歴は残ったままだった。
あたしは着信履歴をすべて消して、その行動をとった後は深いため息をついた。
何をやっているんだろうね、あたし。
横を見ればつぐが静かに寝息を立てていた。
「あれ、メッセージが来てる」
メッセージの送り主は蘭からで、そのメッセージを見るのも少し怖かった。
きっと手術の結果とか、どうなったかが書いてあるだろうから。
もし、貴博君が夜中に息を引き取ったとか書いてたら……。
昨日と同じ得体のしれない怖さが突如襲い掛かってくる。
タップせずにメッセージは一部見ることが出来るけど、そこに書いてある文字は「モカ、おはよ。あたしはあのままタクシーで病院行った。手術の結果は」で切れている。
すでにあたしは貴博君の彼女失格だけど、これ以上逃げることは許されないから震える指で夜中に来た蘭のメッセージをタップした。
手術の結果は成功
そう書いてあって、止まっていた息が徐々に正常になっていった。
何の手術をしたのかまでは書いてないけど、成功という二文字がこんなにも嬉しく思えたのは人生で初めてだった。
「これからあたしは、どうしたら良いのかな」
一体あたしはどんな顔をして病院に行って貴博君に会えば良いのかな。
成功したとしてもまだ目を覚ましていない可能性の方が高いけど、貴博君が被害を受けた事件の事を聞いてすぐに駆け付けなかった彼女をどう思うのかな。
「ねぇ、貴博君ならどうする?教えてよ……」
この場にいないのにあたしは貴博君に助けを求めた。当たり前だけどこの部屋にいるのはあたしとつぐだけで、つぐは眠ってる。
でも不思議と、貴博君の声が聞こえるような気がする。
キョロキョロと辺りを見渡してもいるはずがない。もしかしたらあたしの脳内の中にいる貴博君かもしれないね。
目を閉じたら、すぐ近くに貴博君がいるような気がして抱きしめたくなった。
……貴博君のそばにいない方が良いんだって。あたしが貴博君にしてたことがありがた迷惑だったんだって。
あたしの頭の中で、あたしがこんな言葉を言っていた。
そっか、あたしはたしかにそんな言葉を貴博君に言った。貴博君にもう二度と俺の前に現れるなって言われた。
あの時の夕焼けはとってもきれいだったよね。
いつもそばにいてくれる
バカ。またそんな事を言うんだから貴博君はバカで、ズルい。
あの河原で君に言われたその言葉は今でも昨日のように思い出せるよ。
……そっか。
バカなのはあたしの方じゃん。
あたしにひどい事を言ったって自覚があったのに、貴博君はあたしのプレゼントの正体が分かった後、真夏なのに急いであたしを探してくれたんだよ。
例え熱中症になっていたとしても、あたしを見つけるまで止まらなかったんだよね。
それなのに、あたしは。
「昨日、蘭の言ってた事が分かった」
あたしはまた涙を目に貯めてしまった。
蘭の言う通り、もし事件の被害者があたしだったら貴博君は迷わずあたしの元に駆けつけてくれただろう。
まだ、間に合うよね。
貴博君に嫌われるかもしれないけど、嫌われるより怖い事がある。
あたしは目に溜まった涙を擦った。
もう泣かない。
貴博君のそばに行って、そして謝らなくちゃいけない。
こんな最低な彼女でごめんね、って。
つぐの家を飛び出して、あたしは走る。
冬だから肺のあたりが痛くなってくるけど、そんなの関係ない。
そして走りながら蘭に電話を掛ける。
「貴博君はどこの病院にいるの!?早く教えて、蘭!」
@komugikonana
次話は3月6日(金)の22:00に公開します。
新しくこの小説をお気に入りにしてくださった方々、ありがとうございます!
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~次回予告~
あたしは走ることとか面倒くさいからあまり好きではない。
だってあたしは動くのが嫌だし、ジッとしていた方が楽だから。
そんなあたしが今、人生で一番本気で走っているような気がする。
特にこの季節の運動は肺のあたりがキュッとするような感覚になるから嫌いだし、高校生の時の冬の持久走は歩いていたくらい。
走りながら蘭に電話したから最初はどうしたの、と言っていたけどなりふり構わずあたしは蘭に聞いちゃった。
貴博君が今いる場所は羽丘大学医学部付属病院らしく、この辺りでは一番大きな病院。だから貴博君が今どんな状況に陥っているかは手に取るよりも簡単に分かる。
そんなに遠くないからきっとすぐに着くはず。
まだ走り始めて時間が経っていないはずなのに息が乱れ始め、吐く息が目に見えるように弱弱しくなっているけど足を止めるわけにはいかないよね。
では、次話までまったり待ってあげてください。