「―――ママ、おでかけ?」
深夜、気配を感じた娘は眠たい目を擦りながら玄関ホールの階段を降りると外に繋がる扉の前で母は使者となにか話していた。その日の夜はいつもと変わらなかった。母とベッドの中でお話しをして、子守歌を歌ってもらって、母の腕の中で眠りについた。
これが最後になると気づく事なく。
「あらアリス、起きちゃったの?いけない子ね…いらっしゃい、アリス」
娘の姿に気づいた母は優しく笑うとその場に腰をおろし娘に向かって両手を大きく広げた。少女は嬉しそうに笑い大好きな母の腕の中に飛び込む。
「ママは用事で少し遠くまで行かないといけないの。ママがいなくても、アリスはいい子にしていられるかしら?」
「…ん」
寂しそうに眉を寄せ母の顔を見上げる少女。そんな娘の頭を母は優しい手つきでそっと撫でる。
「いつ、帰って来る?」
「そうね…わからないわ、でもきっとすぐよ。ママが帰ってきていつかユーグスタクトの雪が晴れた日に、また一緒に冬芽探しをして、雪が溶けたらママの大好きなお花畑をお城の周りにいっぱい作りましょう。」
「うん…アリス、ママとお花、作りたいもん…」
幼子は母の嘘に気づいているのか離れたくないと駄々を捏ねるようにひたすら母を抱き締め離そうとはしない。
「ねぇアリス、この世界で一番素敵なことはなんだか分かるかしら?」
「んと、大好きな人と一緒にいること。」
「そうよ。でももうアリスも8歳になったわ。これから沢山学んで大人になっていく。だからこれも覚えておくといいわよ。この世界で一番素敵なことはね、愛する者と共にいることよ。アリスもすぐに大きくなるわ。その時恋をして、女になるの。魔女も人間もユーグスタクトも同じ、成長する生き物よ。」
「―――?」
まだ言葉の意味が理解できなかったのかきょとんと首をかしげる娘に母は優しく笑う。
「ふふ、まだアリスには少し早かったかしら?……ねぇアストリッド、ママはアストリッド・ユーグスタクトを心から愛しているわ。」
「ママ…?」
母は自分のことを滅多にアストリッドとは呼ばない。いかなる時もアリス、アリスと愛称でと呼んでくれていた。
少女は幼いながらも賢かった。その小さな身体の内に収められた永い歴史が自分に告げてくる。忘れるな、これが最期になると。しかし、莫大な力をまだ制御出来ていない少女には漠然としかその事に対して理解が出来ず、しかしこれが自分への最後の言葉になるであろう事をなんとなく理解してしまった。
「ねぇ、いつまでも忘れないでね…ユーグスタクトの誇りを、アストリッド・ユーグスタクトの誇りを、あなたがあなたであることを。愛しているわ、アストリッド・ユーグスタクト。」
「―――アリスも、アストリッドも、ママのこと、愛している…だから行かないで…アリスの前から、いなくならないで…」
「それはできないことよ、さぁアリス。もう寝なさい。」
「…ぃや…」
首を振りさらに母にしがみつく。
「我が儘はだめよ、アリス」
「ぃや…いやぁぁ、いちゃいやぁ!」
丸い瞳に大粒の涙をためアストリッドは母の胸に顔を埋めた。
「もう、アリス泣かないの。ユーグスタクトがこの程度で泣いてはだめよ?それともアリスはユーグスタクトじゃないのかしら?」
「―――違うもん…アリスは、立派なユーグスタクトの魔女だもん…」
「じゃあ泣き止んで?」
「ん…」
小さな拳でゴシゴシと目を擦り、母を見上げる。
「アリス、ユーグスタクトだから泣かないもん!」
「えぇ、立派よ。愛しているわ、アストリッド」
母はそっと娘を抱きしめ額にキスをすると立ち上がり使者に目で合図を送る。
「じゃあ後のことはよろしくね。これまで通り、ユーグスタクトの運命通り全て円滑に進めなさい。」
そう使者に告げ開かれた扉を潜り外に出る。
「―――いってらっしゃい、ママ。」
アストリッドの声に振り返り娘に向かって母はいつもより優しい笑みで答えた。
「はい、いってきます。アリス。」
母は吹雪の中に姿を消した。消えるまでの母の背中はどこか寂しく、だけど誇り気高かった。
それが、娘が最後に見た母の姿だった。
(今思えばママは私に嘘をついていた…もう会えないと分かっていてんだ…だってお城の吹雪は、一度も晴れた事なんてないもん。雪が溶けるなんてありえないんだから…)
「ねぇママ、今日のお昼はなにー?」
「なにがいい?」
「んと、お魚のマリネ!ママのマリネはね、世界で一番美味しいだもん!」
「あらまぁ、じゃあ頑張って作らないとね。」
「わーい!」
楽しそうな会話をしながら通り過ぎる親子の姿を彼女は寂しげに見送る。親子の姿が消えると首を静かに振り再び歩きだした。目的の物がある場所はもう把握した。自分がやるべき事は理解している。だから始めるんだ、最愛の母をこの手で取り戻してみせる。
だから、だからもう迷う必要はないっ!