音が聞こえる。
それも、ひどく耳障りな金属音のような騒音だ。
すぐに止むと思っていたけれど、いつまでもいつまでもその音は鳴り止まない。
その音をずっと聞いていると胸が締め付けられそうだったので、耳を塞ごうとして気が付く。
この、手についている液体は何なのだろう。
色は分からない。目に見える世界は全て、モノクロに統一されている。
黒いような気もするし、白いような気もする。
よく見るとそれは、床一面に広がっている。いや、これは地面なのだろうか。
分からない。
分からないから、周りをよく調べてみよう。
試しに振り返ろうとしたところで──
「それ以上はいけないよ」
そんな声が聞こえて、再び世界は真っ暗になったのだった。
☆
イエイヌが目を覚ましたのは、ちょうど太陽が傾き始めたくらいの時分であった。
朝から怪しかった空模様は昼には崩れ、そこからザアザアと雨が降り続いていた。
窓の向こうで降り注ぐ雨粒をぼんやりと眺めている内に、いつの間にか眠ってしまったらしい。
テーブルに突っ伏して眠ってしまったせいか体の節々に鈍い痛みが残る。
くあぁ、と立ち上がる前に軽く背伸びし、そして更なる眠気覚ましの為にコーヒーを一杯入れて飲む──近頃は雨続きで、いつもそんな調子の生活を繰り返している。
この季節にはよくあることなのだが、どうにも雨ばかり降るのは好きになれない。元々活発なタイプのフレンズであるイエイヌであるが、さすがに雨に濡れ泥にまみれてまで外で走り回るという訳にはいかない。なのでこの時期が過ぎるまでは大抵、家の中で大人しくしているしかない。
──雨が降っても降らなくても、結局は家の中で過ごすのが当たり前なことには変わりないじゃないですか。
コーヒーの豆を挽き潰しながら自嘲気味に笑う。
いつからこんな暮らしをしているのか、イエイヌ自身にももう思い出せない。それほどまでに長い時間、彼女は待ち続けているのである。いつの日か、ヒトが帰ってくることを信じて。
他のフレンズは皆、ヒトはずっと昔に絶滅してしまってパークには残っていないんだと考えている。けれど決してそれを、イエイヌの前では口にしなかった。
その優しさが嬉しくて、痛くて、最近はめっきり他のフレンズの元に顔を見せることもなくなってしまった。
時折イエイヌを心配してやって来てくれるフレンズもいるけれど、この雨の季節にはそれも殆んどない。
この季節の雨は滅多なことでは止まないのである。
止む気配のない雨を見ていると、いっそこのまま水の中に沈んでしまうのもいいかもしれないという考えがよぎる。
その度にコーヒーの苦い味を噛み締めて、そんな夢見心地から目を覚ますのである。
でも、そんな苦さにも慣れつつあった。
コーヒーを淹れ終わり、窓辺の椅子に腰掛けて飲む。いつもはテーブルの上でジャパリまんをつまみながら飲むのであるが、今日はなんとなく、雨を眺めながら飲んでみたい気分であった。
隙間無く敷き詰められた雨粒が外の景色を白く濡らしていく光景は、案外見ていて飽きないものであることに最近気が付いたのである。
だからコーヒーを飲みながら眺めればより楽しめるのではないか、その位の思い付きであった。
全くの偶然である。
けれども、そんな偶然だからこそ普段はあり得ないことに巡り会うのだろう。
雨の景色を眺めていたイエイヌの視線は、「それ」を見付けた瞬間に動かなくなった。否、「それ」以外の一切に意識を割く余裕を失ったのである。
雨が歪んでいた。空間の一点、その箇所だけ雨が何かの形を形成するかのように。
そして「それ」は明らかに動いている。雨の中を構うことなく突き進むようにして。
見付けた最初、ほんの一瞬はそこに誰かフレンズがいるのだろうと思った。けれどもそこは全くの「透明」なのである。何かが擬態しているんだとか、背景に紛れているんだとか、そういうことではないのである。何も無いのだ。
なのに雨は歪んでいる。まるでヒトの形のように。
「透明な少女」──イエイヌの頭の中でそんな言葉が思い起こされた。かつて、他のフレンズ達が噂をしていたのを聞いたことがある。
『パークにはね、注意しなくちゃあいけない物が三つあるんだ。一つは「セルリアン」、もう一つが「ビースト」、そして最後の一つが「透明な少女」だ。前の二つはみんな殆んど知ってるんだけど、最後の透明な少女っていうのが曲者でね。誰も見たことがないから、どんな物なのかが全然分からなくて、みんな噂しか知らないんだ。でも、どの噂にも一つだけ共通しているところがあってね、その少女を見てしまったものは「決して目覚めることのない眠り」についてしまうんだ。だから、決して彼女を見ちゃいけないよ。さもないと、二度と目を覚ますことなく眠り続けてしまうからね。え? 透明なのにどうやって見るんだって? それは、ほら、あくまで噂話だからね、ふふ、そんなに震えなくても大丈夫だよ。はい、いい顔頂きました』
透明なのに見たら永遠の眠りにつく、あまりにも胡散臭い話だったので本気にするフレンズはあんまりいなかったけれど、まさか本当にいるなんて──
衝撃か、恐怖か、はたまた興奮か。イエイヌはその「透明な少女」から視線を動かすことが出来なかった。その「透明な少女」もイエイヌの視線に気が付いたのか、先程からぴくりとも動かない。
どのくらいの間そうしていたのか、先に動いたのは「透明な少女」の方であった。さっきまでの歩く程の速さとは違い明らかに走り出したような速さで雨の向こうへと去っていく。
イエイヌは反射的に、逃げる「透明な少女」を追い掛けていた。
ドアを開け外に出た瞬間に激しい雨が毛皮を容赦なく濡らす。
けれどそれに構うことなく「透明な少女」を追い掛けた。
どうやら走る速さはイエイヌの方が上らしいが、この悪天候と何より相手が透明なことも相まって差は次第に開いていく。それでも諦めずにイエイヌは追い続けた。自分でも何故ここまで本気になるのか分からない。けれども、何か言葉にならない激しい衝動がイエイヌを突き動かしていた。
このままここで逃がしてしまったら、何か大切な物を見逃してしまうような、そんな予感がしていた。
やがて「透明な少女」の向かう先に何やら大きな建物のようなものが見えてきた。この近辺にこんな建物があっただろうか? 疑問に思うよりも先にイエイヌは走り続けた。そして「透明な少女」は建物の中へと飛び込んでいった。続けてイエイヌもその建物の中に飛び込んだ。
ひどく古びた施設だった。イエイヌが飛び込んだ受付らしき部屋の天井や壁には無数のひび割れが走り、家具や設備らしき道具はどれもボロボロに壊れている。なにより、埃とカビの臭いが酷かった。思わず涙目になり鼻を抑える。
臭いに慣れるまで暫く鼻は頼りになりそうにない。仕方ないので目と耳で追跡を続ける。しかし、犬の宿命として視力はそれほど良くはなく、聴覚もヒトよりは優れているが他の種の動物と比べると頼りない。それでも、諦めようとは思わなかった。
「すみません、誰かいませんか!」
試しに大きな声で呼び掛けてみるも返答はない。外の大雨から考えて、雨宿りをしているフレンズがいないか期待したが、どうやらあてが外れたらしい。
この建物には、私とあの「透明な少女」しかいない──
それを自覚した途端に、今まで影を潜めていた恐怖が溢れだしてくる。
この部屋には通路は一つしかなく、相手が逃げたとしたらこの先に行くしかない。しかしその通路は真っ暗な闇が口を開けて獲物を待ち構えているようであった。
帰った方がいいんじゃあないのか?
そんな考えで頭が埋め尽くされる。そもそも何故自分はあの「透明な少女」を追い掛けたのだろうか?
あの、何かを失いそうな焦りの感覚は一体なんだったのだろうか?
分からない。何一つとして分からなかった。
分からないということが、逆にイエイヌに勇気を与えた。
──このまますごすごと帰ってしまったら、きっと後で後悔してしまう気がします。何故だかは分からないけれど、私はこの先に行かなきゃいけないんです!
意を決して、闇の中へ一歩踏み出す。そしてもう一歩、周囲の気配に全力で気を配りながらイエイヌは歩き出した。
闇の中は全くの静寂だった。入り口から少し離れるともう、外の叩きつけるような雨音も聞こえなくなる。自分の靴が埃を帯びた床と擦れるキュッという音だけが響く。脇には他の部屋や通路があるのが辛うじて判別できたが、その全てが瓦礫で塞がれてしまっており実質一本道になっている。
逃げ場は何処にもない。
いつの間にかイエイヌの目尻に涙が浮かんでいた。
怖くて怖くてたまらなかった。
それでも進むことを止めなかった。
まるで何かに導かれるように。
暫く進むと闇の中にぼんやりと浮かび上がる光が見えてきた。更に近付くと、生き残っていた非常灯が淡くまるで人魂のようにとある部屋の扉を照らしているのが分かった。
両開きの、重そうな鉄の扉が僅かにだが開いている。間違いない、あの「透明な少女」はこの部屋の中へと入っていったのだ。
扉に手をかけ、体重を乗せて思い切り押し開ける。イエイヌの華奢な体ではまるでびくともしないように思われる扉であったが、さすがにフレンズの力強さには敵わずギギギと重たい音を上げながら、徐々に扉は開いていく。
そして扉は完全に開いた。
まず一番目を引いたのは、部屋の中央にある大きな球状の物体だった。他とは違う電気系統で維持されているのか、その物体は未だランプの明かりが点いており微かな機械音も聞こえる。──一体何の機械なんでしょうか?
不思議に思い近づこうとしたイエイヌは、その物体の周囲を囲むようにして落ちている無数の花々に気が付いた。
この辺りで見付かる花や、今まで見たことのない花まで、様々な種類の花が謎の機械を中心として供え物のように円形に並べられていた。どの花もすっかり色褪せてしまっており、かなり以前から並べられていたことが分かる。
まるで墓標である。
ふと、機械の側にある台の上に一つだけ真新しい花が置かれているのが目に留まる。
イエイヌは、漸く慣れてきた鼻でその花の匂いを嗅いでみた。
不思議な匂いがした。おぼろげな甘い香りは、今までイエイヌを包んでいた恐怖や不安を和らげ、なんだか安心するような心持ちにさせる。まるで母親に抱かれた時のような安らぎを感じさせる匂いのする花であった。
また同時に、ひどく懐かしい匂いだと思った。
──?
この花の匂いを、私は知っているのでしょうか?
イエイヌの脳裏に疑問がよぎる。長い時間の中で失われてしまった記憶の中に、一筋の光が射し込もうとしたその瞬間に──
「それ以上はいけないよ」
と、背後から少女の声が聞こえた。
瞬間的に戦闘態勢に入ろうとしたイエイヌであったが、まるで他人の身体のように力が抜けてしまいその場に崩れ落ちる。
全身から激しい熱が沸き上がるのを感じる。特に胸が燃えるように熱い。声にならない悲鳴を漏らしながら悶えるイエイヌは、意識を失う瞬間に黒い人影がこちらを見下ろしているのを見た。
間違いない、彼女が「透明な少女」──
無意識にその人影へと手を伸ばすイエイヌを見て、少女は一言、
「ごめんね」
と呟いた。
なんだか酷く寂しそうな声──そんなこと思いながら、イエイヌの意識は途切れた。
★
激しい機械音が鳴り響く。まるで癇癪でも起こしたかのようにせわしなくランプを瞬かせ、落ち着きのない音を絶え間なく鳴らし始める。
そんな狂った機械のすぐ側で、イエイヌは目を覚ました。
「私は、生きている、のでしょうか?」
身体をぺたぺたと触りながら、どこにも異変がないことを確認する。あの燃えるような熱さと痛みはまるで夢や幻だったかのように、身体には何の痕跡も残されていなかった。
はっとしてイエイヌは周囲を強く警戒する。辺りにはもう誰もいないようだったが、それでも安心はできない。
何しろ相手は透明な、不可視の存在なのである。
目に見えないのならばとイエイヌは匂いを嗅いでみる。近くに自分以外の何者かがいるのならば、すぐさまそれで探知できる。
けれども、イエイヌが嗅ぎあてた匂いは、全くの予想外のものであった。
後ろにある機械から、今まで何度も何度も待ち焦がれてきた匂いが漂ってくる。
何故? どうして?
そんな想いに思考を深めるよりも先に目の前の機械は光や音を発するのを止め、沈黙する。
そして、プシュウと空気かガスのようなものが抜ける音と共に球体が二つに割れた。
球体の中から煙が溢れてくる。いや、煙というよりは霞みや霧のようなものに近いだろうか。煙を吸い込んだもののそれは体に害を与えるものではなさそうだった。
けれどもイエイヌにとってそんなことは全くどうでもいいことであった。彼女の意識は全て、球体の内部にへと向けられていたのである。
そこには、安らかな寝息をたてて横たわる女の子がいた。身長はイエイヌと同じか、ちょっぴり小さいくらいだろうか。肌は繊細なガラス細工のようにキレイで儚くて、触れると傷付けてしまうのではないかと心配になってしまう程に色白い。草原の青葉のように明るくはつらつな印象を与える緑色の髪の毛とは対照的である。
息をする度に彼女のつつましい胸部がなだらかに上下する。どうやら呼吸に異常などは見られないようである。
イエイヌはそっと女の子の頬に手をあてて、その温もりを確かめるように優しく撫でる。
暖かい。他者の温もりを感じるのはいつ以来のことだろう。
間違いない、この子は生きている。夢でも幻でもない。生きているヒトの子どもだ。
その子がヒトだということは、イエイヌには直感的に理解できた。外見的な特徴がどうだとか、フレンズ特有のサンドスターの力を感じないだとか、そういうこと以前にイエイヌの魂がこの子はヒトの子どもなんだと訴えていた。
やっと会えた──
ぽたぽたと膝を濡らす雫が自分の涙だと気が付いたイエイヌは慌てて目を拭う。そして改めて女の子に向き直った時、その子は目を開けて、じっとイエイヌを見つめていた。
左右の瞳の色が違っていた。色の違う二つの瞳は夜空に浮かぶ星のようにはっきりとした輝きで目の前の相手を見据えている。
「ねぇ、どうしてあなたは泣いているの?」
「え?」
第一声がそれであった。何故自分はここにいるのか。ここは一体何処なのか。目の前の相手は何者なのか。
尋ねたいことは山ほどあっただろう。しかし、この女の子が真っ先に選んだのは「どうして目の前の子は泣いているんだろう」ということであった。
「あの、その、わ、私は──」
あまりにも予想外のことで答えに窮しているイエイヌを、その女の子はまだ目覚めたばかりでろくに力も出せない筈なのに、しっかりと機械から身を乗り出して、優しく抱き締めた。
「大丈夫だよ。あなたは一人じゃないから」
そう言った女の子の体は、微かに震えていた。怖くない筈がない。疑問がない筈がない。それなのにこの女の子は目の前の見知らぬ相手の涙を真っ先に気遣い、癒そうとしている。
自分のことよりも優先して。
──ああ、何がなんでも、私はこの子を守り抜こう。たとえどんなことをしてでも、この子は幸せにしてあげよう。
抱き締めている筈なのに、逆に震えている女の子の胸の中で、イエイヌはそう決意した。
そして女の子は、いつの間にか再び眠っていたのだった。
○「透明」な少女
いつ頃から広まったかは分からないがこのちほーではそこそこ有名なジャパリ七不思議の一つ。その「透明」な彼女を「見て」しまったフレンズはいつまでも目覚めない悪夢にうなされてしまうらしい。
透明なのにどう見るんだと一部の賢いフレンズは疑問に思うそうだが、そもそもジャパリ七不思議自体数えていくと百をいつの間にか越えてしまう存在なので、つっこむのは野暮なことである。
最近この噂を話すフレンズが増えており、他のちほーからわざわざ真偽を確かめに来る物好きもいるとのこと。
透明なのは作画が楽でいいけど、代わりに漫画でどう表現すのかが課題になるだろう。
――タイリクオオカミのネタ帳より抜粋