小説の林堂 二次創作 小説「キノの旅」   作:イバ・ヨシアキ

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 お久しぶりでございます。
 イバ・ヨシアキです。
 お気に入りが5になり、500を超えていました。
 本当にありがとうございます。
 これからも是非に、お気軽に御拝読くださいませ。

 


 「樹海の話b」

 樹海の話b 

 

 ──Talk of an ocean of foliageb──

 

 季節が彩り鮮やかな春へと移り変わろうとしていた。

 真冬の寒々しく深まで凍てついていた、灰色雲に覆われ厚く澱み濁った白い冬空は終わり、澱みのない透き通った湖面のような清涼とした蒼の春空が、どこまでも広がっていた。

 あれだけ白く冷え込んでいた大気に厚く遮られ、わずかに薄く差し込んでいただけの淡くぼやけた希薄な真冬の陽射しはなくなり、今は満ち溢れ恵まれた小春の柔和な陽射しが、眩く射し込んでいる。

 冷然と灰色に白み厚く重かっただけの、あの億劫とした空の色合いは全て融け落ち、豊和に温もった陽射しが、さらなる蒼色へと染め上げていく。

色合いの深まりゆく空に永い冬越えを終え、遙か遠く南から渡り帰ってきた幾羽の野鳥の群れ達が、帰途のさえずりを穏やかに吹きそよぐ春風に響かせながら、そんな黄金色の暖かさに満ち溢れた空を気持ちよさげに泳いでいた。

 緩やかに春へと芽生えいく温もりの中を飛び交い、春の帰途を謳歌しながら群れ泳ぐ幾羽の若鳥達は、成熟した翼を大きく張らせ、舞い戻った世界を飛び交いながら、春の色合いを、さらなる明瞭な色合いへと深めていく。

安寧の暖かさに満ち溢れた空は、心地よき蒼穹へと染まり、新たな艶やかさを葉樹に息吹かせながら、季節の色彩はさらに深く染まりゆく。

 そんな色深まりゆく空の下は、枝葉を伸ばす覆い茂った樹海の大海原が果てなく広がり、遙か地平の先まで柔らかに、吹きそよぐ春風に緑の葉樹は大きく波打ち、騒々とした緑葉の息吹きを息吹かせていた。怏々と透き通った清純な蒼の色彩に広く濡れ染まり、放縦な温かみにまどろむ眠気を誘う温もった陽気に抱かれながら、蒼緑の色彩を大海原に包み広がらせていた。

 だが堅く深緑に閉ざされた樹海の中だけは、暗く囲い蔽う蒼々しい葉樹の音は物悲しく寂しく響き、まるで蒼闇に溶け込む深海のような、どこか怖々とした黒く白いだ蒼寒さに満ちている。

 艶やかに色変わりしていく春の季節を、しんとつれなく遮り蔽う黒緑の天頂は、無辜に幾度なく物悲しくただ波打ち、どこかざわめくような騒々と息吹く樹々と葉樹の音と共に、訥々とした、真冬の夜明け前のような黎明の蒼い薄暗さが樹海の全てを覆っていた。

 うっすらとぼやけた眠気入り混じる抑揚の温もりがまどろむ、春の暖かな一筋の木漏れ日すら、けっして射すことはない、不変の緑入りが混じり、白み黒ずんだ混然の続く樹海の深淵は深い。

 まるで冬の夕闇前に上がった雨水に濡れ湿った、あの独彩とした纏いつく不快感に重く包まれていた。

 季節の艶やかな彩りですら拭い去ることのできない、重く湿りきった陰鬱な肌寒い大気に、じっとりと冷たく濡れ染まり、四季の色変わりに染まらず混然とした静寂に隔絶された樹海の世界。

 単調に荒涼と絡み巻きつく分厚いツタを何重にも纏う、年輪を永くその古扱けた実に深く刻み込んだ大小さまざまな古木の樹々が景色の全てを蔽い、四季の変わりゆく色合いに一色も彩る事はない。さらなる底のない深遠へとただ深み沈んでいく、厚い原生林に茂り囲まれ見放されてしまった、緑の監獄に思えてしまう。

 そんな不変な一片の色彩だけが続き物哀しげな葉樹のざわめきに深く沈む、決して拓かれることのない、樹海の檻の中に不似合いなエンジン音を強く唸らせながら、一台のモトラド(注意・二輪車の事。空を飛ばないものを射す乗り物の事を示す単語)は、欝蒼とした黒緑の悪路を、ひたすらに走り進んでいた。

 蔽うように張り付き塗れた苔と、朽ちてもなお分厚い邪魔な倒木や折れた細かい枝が絡むように散乱し、今も若々しく腐葉土の地面を食い入るように這う樹々の根が無数に絡み入り混じる、小型車が一台ようやくに通れそうな、ほんの僅かに拓けただけの歪にゆがんだ樹海の酷い悪路に、タイヤをガタガタと滑らせながらも、安定したゆるやかな速度で走り進むモトラド。

 後部の両脇に四角い箱を二つ取り付けたパイプキャリアの上には、大きなトランクや小さく丸めた寝袋とテントと、燃料缶や水缶など多くの旅荷物を積載している。

 大型な車体とはいえ旅荷物をあらんばかりに積載したそんな重々しいモトラドを、慣れた緩やかな速度で悪路に走り進ませていたのは、小柄な一人の少女だった。

 柔らかく張りの良い黒い皮手袋を着けた細く小さな華奢な両手で、ゴツゴツとした大きなハンドルを、こぼれる事無く強く硬くしっかりと握り絞めながら、その両手とさほど変わらない華奢な細さをした両脚には、似つかわしくない重々しい形をした堅そうな黒ブーツを履き、まるで自転車にでも乗るような軽い足取りで交互にクラッチ、ブレーキ・ペダルを踏み込みながら、樹の根が絡み這う腐葉土の続く悪路にモトラドを軽々と走り進ませていた少女。

 その容姿はどこか旅慣れをした少年と見間違えてしまいそうな、端整で中性的な顔立ちをしている。十代半ばでもいまだ固まっていないその幼く柔らかな表情には、どこか可愛らしいと思える子供の白いあどけなさが柔和に残り、少し乱暴に切りそろえた流麗な黒髪も初々しく、吹き撫でる湿った樹海の風にサラサラと流れていた。風に流れる黒髪をぐっと抑えるように、少女は小さな両耳を覆う毛皮のたれと前部に丸い鍔の付いた飛行帽のような帽子を深々と被り、季節が織り成す色彩に染まりやすい、一色の澱みもなく透明な虹彩が澄み映える目元には、使い込まれ銀色の塗装が少し剥げたゴーグルを掛け、そのゴーグルのバンドで両耳を覆う毛皮のたれを固定し、流れ吹きつけ撫でる湿った大気の風から揺れ流れる毛皮のたれを押さえていた。

 そしていまだ女性として成熟していない、その細く幼い小柄な身体には、古くなり少し色あせた薄い茶色いコートに、その下には両袖を取り外せる黒いジャケットを着込み、しなやかに引き締まった両脚には、両裾の先をベルトで固定したズボンを穿き、細い腰には四つの緑色のポーチと、右腿と腰の部分にホルスターを備えたガン・ベルトを硬く巻きつけていた。

 細くか弱しくも俊敏に発育し鍛えられた右腿に下げられた一つ目のホルスターには、古い型をした薬莢を使用しない単手動作式リボルヴァータイプのハンド・パースエイダー(この世界における、拳銃や銃器などを表現する単語)『カノン』が納められ、真っ直ぐに起立し伸びた背筋の腰骨辺りに取り付けられた二つ目のホルスターには、細い銃口先にレーザ・サイトを備えた、二二口径の薬莢を使用するオートマティックタイプのパースエイダー『森の人』が携えられている。

 旅の中で時折不意に自分へと向けられる様々な悪意から対処できる動きやすい服装に、うっすらと油が引かれ手入れが隅まで行き届き、馴染み使い慣れた武器である二丁のパースエイダーなどをしっかりと身につけていたが、そんな精悍な凛々しさも、この長く続く暗欝な樹海に入ってから徐々に崩れ出し、柔らかくバランスもとりにくい不安定な根と苔の悪路に長時間揺らされ続けたせいか、モトラドを走り進ませる旅慣れた筈のその姿は、今はどこか重々しく見えてしまう。

 沸々とたまり鬱積した疲労に少女の凛々しさも今はしおしおと暗く陰り、一見少年と見間違えてしまいそうな端正な表情にも、陰鬱な疲労をギシギシとその柔らかい表情に刻み、今はむすっと膨らんだ苛立ち気な顔をしている。

 溜め息交じりにうんざりとしながら、うっすらと濡れた僅かな汗に疲弊しきった苦い、そんなむすっと苛立った表情のまま、

「……ほんと、ここは酷い道だね。エルメス……」

 ほとほととうんざりした溜息を小さく吐き、溜まり重なった疲労感にすっかりと落ち込み疲れた細い声音で、少女は堪り溜まっていた不満をぼそぼそと、珍しく弱気な言葉を抑揚なく呟く。

 心なしか強固な分厚いガラスに覆われたゴーグル下の、いつも旅の様変わりしていく好奇心に満ち溢れ、世界の織りなす色彩に染まりやすい特徴的なあざやかな虹彩が輝く少女の透き通った大きな瞳も、今は重々しい程の疲労感にうっすらと濁り陰り、可愛らしく柔らかい面持ちにも、今はどこか沸々とした疲弊と不満のシワが堅く滲み刻まれていた。

 すると共にガタゴトと右往左往に激しく、不規則に揺さぶれながら無理やり走り進ませていた、少女が親しげにエルメスと呼んだモトラドが、少女のそんなほとほと疲れきったうんざりとした、しょげた呟きに、

「もう! だからさっきの分かれ道で平原を行こうって言ったじゃん!」

 そのまま噴き出すかのように声を上げ怒り出し、

「あーあー、こーんな走りにくいジメジメしたデコボコだらけの樹海より、まっすぐな平原の方が走りやすいって、あっんなに言ったのにさ! なーんで、こんな道を走っちゃっているんだろうね!」

「……そんな事言ったけ?」

 耳痛い気まずさを、しれっと、とぼけたように誤魔化すが、

「言ったよぉ! それなのにキノったら、こっちの忠告も聴かずに勝手に一人で決めちゃったくせにぃ!」

「……」

「あ、いまさら誤魔化しても駄目だからね! こっちは、ちゃーんと覚えているんだから!」

「……こういう事だけは、ちゃんと覚えているんだから……」

「ん! なんか言った?」

「べーつに」

 これ以上下手に言わないほうが良いかなとしぶしぶに、

「はいはい、ごめんね。これからは気をつけるよ」

 と、軽く謝り相槌ながら、キノと呼ばれた少女は不機嫌に言葉を閉ざすが、

「ちょっと、ちゃんと聴いてるの?」

 頑強な重々しい外装とは裏腹に、聴けばどこか可愛らしい幼い少年のような無邪気で明るい快活な声音だが、今はどこか癇癪し怒った(でもまるで迫力は無い)子供のような声音でエルメスは、キノの投げやりな沈黙に、さらにむすっと怒り出す。

 もやもやと渋い顔をしたまま、やれやれとキノは、

「はいはい、ちゃんと聴いています。で、どうしたのエルメス?」

「だーかーら、なんでキノはさ、わざわざこんな不便な樹海を走ろうと思ったの? もしかして自殺でもする気なの?」

「……」

 場所が場所だけに冗談として笑い流せない、それでいて悪気のない無邪気なエルメスの質問にチクチクと耳が痛い。紡いだ言葉を気まずく、数分ほど喉の奥でムラムラと詰まらせ、

「……違うよ。ただ遠回りして平原を進むより、森をまっすぐ突っ切っていけば近道かなって思っただけさ……」

 むすっとした言葉を押し出しながら言うキノに、

「へー、近道ねぇー」

「そう……近道だよ」

 それとほんの少しだけ、ちょっとした、わずかな好奇心があった事は、この場であえて言葉にせず、胸の奥にすとんと落として置いた。

「そうなんだぁ♪ ここは近道なんだぁ♪ じゃあもうすぐ出られるんだねぇ♪ たのしみだなー♪」

「……」

 エルメスの意地悪な気まずさを誤魔化すように、キノは終わり途切れそうにない混然と続く樹々が溢れ流れる景色を、うんざりと軽く見流しながら、

「……でも、ハズレみたいだったね。まさか中がこんなに広い樹海だったなんて、思いもしなかったよ……」

「みたいじゃ無く、大ハズレだよ!」

 エルメスは憤然と沸きだしたように怒りだし、

「もう、いまさら後悔してもおそい! こんなコンパスも効かない、太陽も見えない深い樹海に入るなんて、ほんと自殺行為だよ! もしかしたらもう遭難しちゃったんじゃないのかな」

「……大丈夫だって。走れる道があるってことは、出られるって事だよ」

「楽観的だな……じゃあ、もっと気をつけて走ってくれない! こんな滑りやすく硬い所で転んじゃ、どっちもただじゃすまないんだからさ!」

「……ん!」

「ほんと嫌だよ! こんなジメジメした場所でキノの不注意で終わっちゃうなんてさ!」

「!」

 今のその、悪気はなくてもどこか辛辣な言葉にキノもムッと来たのか、不満そうに頬を紅く膨らませ、

「……そんなに言わなくても解ってる──」

 言葉を投げ返そうとした苛立った気持ちが災いしたのか、運転にほんの少しだけ気がわずかに削がれた刹那。濡れ湿った落ち葉をぎっしりと詰め込みすぎた柔らかすぎる腐葉土に、うっかりと前後輪を深く沈ませてしまう。

 そしてそのまま急な衝撃に、車体は抵抗なくガタガタと揺れ、 

「──と! わぁ!」

 思わず反射的に急ブレーキをかけようとするが、危ないと、すぐに思い止まりブレーキから指を離し、キノは汗ばみ出した柔らかい手をぎこちなくもゆっくりと動かしながらクラッチ、アクセルを巧みにカチャカチャと操作し、乱れ出した速度をこれ以上乱す事無く減速させたが、急な車体のあまりにもな不安定さに、

「ちょっとキノ、こんなに揺らしたら危ないよ!」

 エルメスは慌てながら声を上げ、キノを無自覚に急かしてしまう。

「……だから言わなくても解ってるよ! それに、こんなに……気を使って遅く走ってるだろ?……っと!」

 ガタガタと揺れる蒼寒い感覚にキノは苛立ち気に言葉を閉ざし、手から零れようとする、ふらつくハンドルを懸命に強くしっかりと握り直す。

 グシュグシュと濡れ湿った滑りやすい苔塗れの絡み合う根に勢いよく回転する前後輪が何度も弾き、フラフラと左右にしきりなく揺れる車体。一向に安定しないそんな不安定なバランスを、それでも軽い自分の体重で必死に押さえ切り、速度を否が応無くさらに落としながらようやく安定させ、

「……あー、少し気を抜くとすぐにこれだよ! ほんと、ここは忙しない道だね!」

 またいつ乱れてしまうか解らない、まるで気の抜けないピシピシと張り詰めたそんな走行にブツブツと不平を漏らすが、

「そんな道を選んだのはキノでしょ! ほら、文句言う前にもっと気をつけてしっかりバランスをとるの! でないと、今度はほんとうに転んじゃうよ!」

 つんけんと小言みたくたしなめてくるエルメスの耳痛い言葉が痛い。

 表情を悩ませ、

「わかってるよ……っと! もう、言ってるそばからまただ……っと!」

「あーあー、こんなんで、ほんと大丈夫かな……心配だな……」

 樹海独特の冷たく濡れ湿った向かい風と共に吹きつけ流れてくる無数の曲がった枝を淡くも避けながら、グラグラと終始落ち着かず速やる速度をブレーキを踏み抑えても、忙しなく揺れる視界はさらに酷くなるだけ。

 それでもキノは強気な姿勢を崩さずに、

「大丈夫だってば、安心しな……っと! ほんと、エルメスは心配性だね!」

 溜まっていた疲労をしれっとした表情で隠しながら自身有り気に言うが、そんな誤魔化しはエルメスにすんなりと見透かされていた。 どうしようもない強情な見栄っ張りの負けん気だけはほんと強いんだからと言葉にせず呟き、

「あのねキノ……そうやって無理に開き直って大丈夫だってたかをくくる人が、次の瞬間よく転ぶ──」

「──はいはい、気をつけます。解りました」

 エルメスのしぶしぶと長くなりそうなお説教をすっぱりと遮り、そのまま軽く流そうとするが、エルメスの説教はなお続き、

「こら、ちゃんと話を聴きなさい! そんなんじゃ本当に転んじゃうんだから! 大体──」

「〝モトラドの運転はスポーツなんだから、疲れてきたらすぐに休憩するのがモトラド乗りの判断なんだよ。だから休憩しなきゃ駄目だよ〟──だろ? でもボクはまだ全然疲れてなんかないから休憩は必要ないよ! はい、お説教終わり!」 

 怒った勢いまかせのきつい声音で、今エルメスが言おうとした事をスラスラとまるで暗記した科白のように早々と言い切ってしまう。

 そしてそのまま双方に一言の言葉なく、蔽い茂った木々と湿った大気の流れる場には、ただ気まずい雰囲気だけが深々と蔽い広がるだけ。

 むすっと無愛想に頬を不機嫌に膨らませていたキノ。

 つんけんと尖り怒った三白眼が怖くて仕方がなかった。

 そんな怖いキノを刺激しないような小さな声音で、

「……ねえキノ」

「なにさ」

「もしかしてさ、今すっごく怒ってない?」

 そっと、話しかけ訊ねてみると、

「……別に、ボクはこれっぽっちも怒ってなんかないよ」

 数分ほどの短くも長い矛盾な間を置いてから変わらず、むすっとつれない無愛想な言葉をつんけんと返してくるキノに、

「あー、こりゃ相当頭にきてるな……」

 と、内心ほっと安心しながら、それにしてもやれやれまだ子供だなぁと、決して声にせず抑揚ない気持ちの中で淡々と呆れながら、

「……まー、とりあえずさ無理せずにそろそろ休んだ──わっ!」

 仕方なしにからかわず気軽に休憩を促そうと声をかけようとした、ようやく嫌味な揺れも収まりだしていた刹那──

「──!」

 不意に、激しく盛り上がった根の部分に前後輪を交互に順序よく弾ませ、エルメスの車体がふわっと宙に浮いてしまう。

 虚空を僅かに泳ぎ、そのまま重い束縛から逃れた軽くなったギアと前輪が勢いよく絡まる根に弾み、その勢いに湿った大気に浮かんだ後輪が一瞬、ほんの短い間、無辜に宙を泳ぐ。そしてグラグラとエンジンの勢いに揺れだす後輪が強く地面を叩き、そのまま弾み揺れながら倒れ腐った幾つものボロボロの倒木を轢き込んでいく。

 かつてこの樹海に堅くそびえ立っていた樹々の一部とは到底思えない、脆く生々しい引き裂かれる音を耳障りにうるさく響かせ、そのまま前後輪をずるずると腐葉土に滑らせていく。

 柔らかくからみつく無秩序な勢いに深々とした轍が刻まれ、車体がガタガタと揺れだす。

 うわ、危ないよと、あたふたと取り乱し慌て騒ぎ出すエルメスに、大丈夫だよと、キノはざわめく動揺を押し込め、平然を繕い言いながら、不規則、不安定に揺れる車体を安定させようと懸命にバランスを保とうとするが、乱れたバランスは一向に安定しない。そんな忙しない中でもタイヤを無遠慮に弾かせる曲がりくねった木の根の勢いも増していき、速度もさらに増していく。

 それでも必死にキノは操作するが、

「わ、わ、危ない! 転んじゃうよ! キノ、バランスとって! バランス!」

「慌てすぎだってば、エルメス! 少し静かにし──っ!」

 思いのほか勢いよく弾む前後輪の勢いに車体が左側に少し傾く。

 が、キノはすぐさま右側に自分の軽い全体重を掛け、曲がった車体のバランスを修正するかのように、自身の小柄な身体を揺らしながら、ようやくにバランスを均等に取り戻す。

「──くっ!」

 そのまま左右に少しだけ車体をふらふらと振り子のように揺らし、ブレーキ、アクセルを幾度なく戻し、ゆっくりと押し込みながら速度を落としていくと、歪ながらも徐々に安定した走行へと戻っていく。

 苔のまみれた根に、ようやく前後輪のタイヤが落ち着きながら悪路に弾む中で、

「……もう! 気をつけて走ってよキノ! 危ないじゃないか!」

「……ごめん……」 

 憤然と怒りだすエルメスに、キノは素直に謝る事しかできなかった。

 持ち前の反射神経の良さで急な転倒はなんとか免れたものの、キノの平然と見える今の落ち着いた表情とは裏腹に、内心はひどく尖り凍え震えていた。

 怖かった。

 転びはしなかったが、もし転んでいたらと決して考えたくも無い事後が頭に湧き出してくる。そしてもし、やわらかい腐葉土ではなく、硬く絡み合った根の上で勢いよく転んでいたらと、それにもしここが急勾配な坂だったらと、決して自分の身には起きてほしくはない凄惨な末期の場面を鮮明に脳裏に想像してしまうが、そんな身を掻き毟る怖気な想像を散らし、キノは運転に集中し直す。

 先程に比べればだいぶ出っ張った根も落ち着き、ゆがんだ悪路もわずかに平坦になったものの、やはりもう少し今のスピードを落とさなければ危ないかなと、湧き出し身を寒くしていく不安に駆られ、仕方なしにほどよく開いていたアクセルを少しだけ、渋々としながら戻す。

 緩やかに揺れる事無く落ち込んでいく速度に、これで樹海を出るのがまた遅くなるなと、どうしようもなく気落ちしながら、強く握っていたハンドルのクラッチ、ブレーキをまた交互にカチャカチャと操作し、横滑りしないようにと、エルメスの車体に自分の体重を乗せ安定させていく。

 そんな緩く落ち込んでいく速度と同じように、どこか深く気落ちしていた様子を、表情のところどころにありありと刻んでいたキノに、

「ねえキノ、やっぱ疲れてるんだって……そろそろ休憩しなきゃ駄目なんじゃない?」

「……むぅ……」

「事故起こしたらそれまでだよ。ほら休憩しよ」

 気遣われ返す言葉も何も無く、キノは声をくぐもらせ返答を詰まらせるが、

「……ううん、まだ大丈夫だよ。休憩は必要ないよ」

 それでも頑なに意地を張り強がる。

「……あのね──」

「──それに、休んだら休んだだけ出るのが遅れちゃうだろ……」

 呆れながらも少し怒った口調で、もう一度説得しようとするが、キノはあくまでも頑なにエルメスの説得を遮った。

 焦り張り詰めた憂鬱が場を重く沈める。

 あの忙しない揺れが大分落ち着いてから、エルメスは閉塞なこの気分を入れ替えようと、

「……まあ、気持ちは解るけどさ、そういう意固地な強がりと少しの焦りが大きな事故の元なんだよ。それによく言うじゃん〝湯の物大好き〟ってさ」

「……?……」

「それを常に心がけて操縦してないと、モトラド乗り失格だよキノ」

 エルメスは抑揚を上げ明るく言うが、バランスをようやくに並行に取り直し安定した速度の中、キノはどんより曇った難しい表情を顔に刻みながら、

「……あのさ〝湯の物大好き〟って、どういう意味だい?」

 疲れくたびれた疑問符を浮かべエルメスに聴き訊ねてみると、エルメスはそんなキノの気だるけな反応に寂しそうにしながら、

「意味はね、キノみたいに初心を忘れて慣れて運転に気を抜いちゃ危ないって事だけど……ほら、あれだよ、わかんないかな?」

 せかすように遠まわしに訊ねるエルメス。

 それを聴き入れてガタゴトガサガサと、歪み絡み合う根と苔に弾む前後輪の音が天頂を覆う枝葉の擦れる音が混ざり響く中で、ようやくキノはほとほととしながら、

「……あ、それってさ、もしかして〝油断大敵〟ってことかい?」  

「そうそれ! もう、遅いよキノ!」

「……」

「これくらいの返しも満足に出来ないなんて……そうとう疲れてるんだね」

「……そんな事無いよ。意味が本当に解らなかっただけさ」 

「ま、きりのいいところで休憩してね。ほんと、無茶は駄目だからね」

 まだ大丈夫かなと弱気ではない強気なキノの負けん気に安心し、そのまま言葉を閉ざすエルメス。

キノは憤然としながら運転に集中し直すが、先はいまだ樹海は飄々と果てなく続き、原生林の檻の出口は何処にも見当たらない。

 最初に比べれば幾分か少しだけ揺れは緩やかにはなったが、周囲に続く樹海には未だ終わり無く、延々と苔にまみれた巨木の木々が乱雑に密集し続け、どこまで走っても何も変わらぬ単調で果てない、色深い青葉闇が続いているだけ。

 太陽も見えず、コンパスも方角を指してはくれない。

 そしてふと考えてしまう。

 

 ──ボクは、この樹海から出られるのかな。

 

 あまりにも馬鹿らしく思えてしまう。

 今、いくらそんな事を考えてみてもなにも解らないのに、でも、どうしても拭えぬ、沁み込む不安がうっすらとしながら張り付いてくるとても嫌な不快感は確かにあった。

 ジメジメした水気がどんよりと重深くあたりまえのように大気に漂い、暖かい春の日差しが微塵にも感じられない、こんな奥深い樹海の底で今日は一夜の野宿をしなければいけないのかなと思うと、余計に気分は滅入っていく。

 

 ──出られなかったら、どうしよう。

 

 不安が沸きだす。

 携帯食料はまだ余裕はあるけれど、明後日も、その明々後日も出られなかったら、本当に危ないのかもしれない。

 

 ──ううん、きっと今日中に出られるさ。

 

 ──心配しなくても大丈夫。

 

 ……でも、もし出られなかったらどうしよう──

 

 出られない。

 と、そんな拭え晴れぬベトベトと重く張り付く先行きの見えない濃霧のような不安がさらに気分を滅入いらせていく。

 余計な気疲れしかさせない、まどろみ沁み込む不安を散らし他の事を考えようとするも、今の頭の中にはこびりついた野宿の事だけしか思い浮かばず、よけいに気が鬱々と滅入ってしまう。

 張り付いてくる小さな蚊や虫も目障りでわずらわしく、うっすらと張り付く汗でぐっしょりと濡れ湿った、下着に張り付くシャツのべっとりとした生ぬるい感触など、何もかもが全て不快にしか感じない。

 ただふつふつと鬱積していくだけの、この晴れぬ重苦しい不満に推され、

「……早く出たいな……」

 臆面も無く弱気な言葉を、キノは無意識に何気にぼそっと呟いてしまう。そんな珍しい、弱気な呟きを身近に聴いたエルメスは、

「……なんかさー、見ててほんと余裕がないね。一体どうしちゃったのさ? らしくないよ」

 何か焦っているような操縦を、今も頑なに続けるキノに気遣いながらどこか不安げに訊ねてくるので、

「……別に、そんな事無いさ」

 流すように言うも、

「そんな事あるから聴いているんでしょ。強がっても駄目だよ」

「別に強がってなんかないよ……それに誰だってこんなジメジメしたところ半日も走ってたら早く出たいって思うじゃないか」

 あくまで強気に誤魔化すが、鉛のように重く溜まった疲労のせいか、疲れた様子のつれない声音まで誤魔化せず、 

「やっぱ一休みした方がいいんじゃない。無理な強がりとあせりは事故の元だよ」

 エルメスは再三言い聴かすように休息を促す。

 しかしあくまで頑なに、

「別に、ボクは無理なんかしてないさ」

「あーもう。その強がりが無理──」

「──ただ、こんなジメジメした所から早く出て行きたいだけだよ」

 エルメスの小言を切るように遮り、

「それにこんなジメジメした所で、野宿なんかしたくないしね……」

 そのまま重い嘆息めいた溜め息を深く吐くキノに、

「まー、たしかにここ最近野宿が続いているけどさ」

 最近の野宿を訥々と思い出し、しぶしぶと相槌口をごもらせるエルメスを後に、

「……だからいい加減、温かいお風呂にも入りたいし、ふかふかのベットでも寝たいし、それに美味しい食事だって、お腹いっぱいたっくさん食べたい……ん!」

 不意に美味しい食事と呟いてしまったせいか、それとも味寂しくなっていた鼻腔と味覚に匂いと味を鮮明に思い出したせいか、ここ最近まるで満たされていなかった空腹が余計に刺激されたのか、くぅと、可愛らしく悲しい腹の音が虚しく鳴り出す。

 吹き上げる笑いを堪え洩らすエルメス。

 沸きだす気恥ずかしさを誤魔化すように耳や頬を真っ赤に染めたままキノは、

「──とにかく! この樹海から出るまでは絶対休まないからね! ほら、笑ってないで頑張るよエルメス!」

「あーあー、こりゃあ本気だ」

 笑いながら、

「お腹すいて大丈夫なの?」

 と、あきれ訊ねるエルメスに、

「だから大丈夫だって言っているだろ」

「さーいで」

 のほほんと相槌ながらも、

「……でも、ほんとこんなところで事故らないでよね」

 エルメスは笑うのを止め、

「焦りは事故のもとなんだよ。それに事故ったら、簡単に全て終わっちゃうんだからさ、絶対、それを忘れないで走ってね。約束だよ」

 耳の痛い忠告に、むすっとしたシワをもやもやと刻みながら、

「……解ってるさ……それにボクだって、こんなところで終わりたくなんかないよ」

 表情を暗く薄らせ言葉を返す。

 そんなキノに、

「本当にわかってるのかな?」

「はいはい、解っています」

「ならよろしい」

 再三不安げに問いかけるエルメスの問いを軽く流しながらも、キノはむきになりながらも、注意深く速度を維持する。

 早く出たいと逸る気持ちを押しこめ、アクセルを決して上げず、急な揺れの不安に驚きブレーキを押し込まず、キノは終始神経を尖らせながら気の這った繊細な操作にしぶしぶと気を戻す。

 ざわざわと流れ来る枝や木々にも気をつけひたすらに走り進むが、前には未だ果てなく続く鬱蒼としたなんら代わり映えの無い坦々とした緑だけの樹海が後々と広がっていた。

 先には変わらず、どこにも緑の途切れた終わりは無い。

 何も変わらない単調に蔽い茂った樹海だけが続いていた。

「……出られるのかな……」

 不安にまた気を落としていく。

 絶える事無く延々と緑が流れ続く風景に、エルメスのエンジン音が虚しくも高らかと響く。

 時折物悲しく聴こえてくる野鳥の鳴き声と混ざり合い、場の雰囲気が余計に重々しくなっていく。

 それにすでにこの樹海を走り進んでから、もう数時間も経ってしまっていた。時刻は昼になろうとしているにも関わらず、拓けた草原へと続く出口はどこにも見えはしない。

 そのせいか、ふと嫌な考えが頭に沸きだす。

 もし今、走っているこの道の終着が行き止まりならと、今日はこの中で野宿なのかと微かな不安がまた脳裏によぎり、そんな湧き上がった不意な不安をすぐに散らそうと、既に見飽きてしまっていた単調な変わりばえのない循環するだけの景色を、もう一度だけと、一縷の望みをかけ一通りに見回し眺めてみるが、周囲に続く荒涼たる緑の景色に、やはり何処にも途切れた終わりは無い。

 先程と変わりない蒼暗く湿った世界だけが、延々と続いているだけ。

 どこをどう見回しても何も変わらない景色。

 何も変わっていない。

 一筋のかすかな木漏れ日すらも零れてもいない。

 ただ欝蒼と囲い蔽う緑の色彩が覆い茂る混迷な景色だけが広いだけ。

 季節の寒暖もすっかりと入れ替わり、落ち着いた陽気が漂う暖かい初春にもかかわらず、今走り進んでいるこの樹海の中だけは、まるで真冬の雨上がりの夜明け前のように、底冷えのする濡れ張り詰めた大気だけがどこまでも、重くどんよりと漂っている。

 余計に気分が重くなってしまった。

 憂鬱気な晴れぬ気持ちを胸に詰まらせていると、唐突にざわめき出す枝葉のかすれる音が樹海に響きだす。

 ガサガサと樹海に生える木々全てが不気味に唸り呻くような息吹。

 褪せない混迷が何処までも続いている、こんな樹海の中で今日はこの息吹を訊きながら一夜の野宿なのかなと考えてしまうと、余計に気分が一層に滅入ってしまう。

 そのせいか鬱蒼とした気持ちに押され、苛立ち気な気持ちを散らそうとふつふつと脳裏に今ほしいと思う願望を思い浮かべてしまう。

 今のこの溜まっている疲労全てを拭ってくれる、くぐもった暖かいシャワーに、この疲れた重い身を沈めてくれるふかふかの柔らかいベッド。

 そして美味しそうな芳醇な湯気をほこほこと立ち上らせる、舌触りの良い、まったりとした暖かな食事など、今日中にありつけることなど既に望みかなわぬと思えてしまう希薄な願望を、ただ遠く恋しく思いながら、今日の野宿の不安をかき消そうとするが、樹海のひと撫での葉木の呻くざわめきに簡単に遮られ、簡単に散らされてしまう。

 まるで樹海全体に叶わぬ望みと囁いているようなざわめきが轟々と響く中、キノは気味の悪い虫がワサワサと蠢く苔だらけの腐葉土とゴツゴツとした硬い木の根の上で、寝袋にくるまい、汗まみれの疲れがたまった身体のまま寝なくてはいけない不快感や、お腹が膨れにくいパサパサとした味気ない携帯食料の無地な味など、憂鬱に思い詰めた。

 このままじゃ今日は本当に野宿かもと、押し込めていた不安がまた駆られるかのようにざわめく。

 そして不意に、

 

 ……早く、こんなところから出たいな──

 

 ……少しだけ、ほんの少しだけ……

 

 ……速度を上げてみようかな。

 

 と、危険な心の緩みが、キノ自身気づかずにふつふつと湧き出していた。そんな気持ちの緩みに気付かずに、今のアクセルを少し上げれば、こんな鬱陶しい樹海から速く出られるかもしれないと、何の保証のない誘惑が内心を淡く煽り出す。

 

 ……早く、こんな所から出たいな。

 

 ……広い道を思いっきり走りたい。

 

 ……さっきにくらべたら道もだいぶ落ち着いてきたし。

 

 ……もう少し速度を上げてみても、このくらい大丈夫だよね。

 

 ……うん、きっと大丈夫だ。

 と、ほんの少しくらい上げても、このくらい大丈夫。

 こんなにも気をつけて走っているんだから転びはしないと、心を緩ませていく。

 そんな曖昧な誘惑が、まるで散らせない。

 早く出たいと決して偽れない願望が逸り出す気持ちを後押しし、そして無意識に気づかずにキノはアクセルを少しだけ、ほんの少しだけと無意識に、今のこの遅い速度を少し、ほんの少し上げようと── 

「あれ?」

 ──するが、急に声を上げたエルメスの声音に焦り、まどろんでいた意識がさっと晴れ、夢憂鬱に気を取り戻したかのような唐突とした冷たい鮮明さにキノは、今間際にアクセルを押し込もうとした、自分の無意識な軽はずみな行動に驚いてしまう。

 淡く乱れ出す動揺を必死に押し込め隠しながら、すぐさま速度を上げるのを止め、驚きに慌てず取り乱すアクセルを柔らかく持ち、ハンドルを噛み締めるように強く握り絞め、緩んでいた気を鮮明に直し、震える声音を一息飲み込み、もごもごと声音を整え、

「……どうしたの? エルメス?」

 何事も無かったかのような、だがそれでもどこか無理に取り繕ったような平穏を装い訊ねてみると、

「? どうしたっのって? 前のあれだよ。あれ」

「? どれ」

「ほら、前をよく見てみてよ」 

「……?……」 

 ほら前だよ前と、せっつくように急かされながらキノはガタゴトと乱れくねった苔と根にまみれた緑の悪路の先を、目を細めしっかりと見据えるが、何も注意を引くような珍しいものは見当たりはしない。

 いったい何を見つけたんだろうと、さらに目を細め注意深く見据え探してみるも、なにも見当たらない──

「……ほんとだ。何か落ちてるね?」

 ──が、走り進んでいた腐葉土と根の這う凹凸の悪路の先、ちょうど根と横たわる倒木の拓けた、走りやすそうな真ん中辺りに、ぽつんと何かが転がっていたのを見つける。

 いったい何が転がっているんだろうと、注意深く細めたままキノは、

「……あんな苔まみれのものよく見つけられたね、エルメス」

「えっへん! すごいでしょ♪ やっぱ良いモトラドは洞察力が優れていなきゃいけないからね♪ キノも見習わなきゃ──」 

「──あれなんだろうね?」

 早く褒めて欲しそうな子供のような自慢をするエルメスを傍らに流し、キノは眼を細め、ただじっとそれだけを凝視していたが、

「……なんなんだろう?」

 結局、それがなんであるかがわからなかった。

 細く、それでいて何故か太く見えてしまう、苔に塗れた白い塊らしきもの。

 ただの枯れた倒木かなと、なぜか曖昧に流すこともできず、解らぬもどかしさがわらわらと胸に募っていく。

 あの白い塊はいったい何なんだろうと、ふつふつと沸く好奇心。

 気になって仕方がなかった。

 このまま無視して行くこともできず、わらわらと止まず湧き出す興味とさらに沸いていく好奇心が勝ってしまい仕方なしにキノは、

「ねえエルメス、あれ何かわかるかい?」

「……うーん……」

 訊ねるよりも前にエルメスも気になっていたのか、長く迷い悩んだ間延びしていた低い声で唸るが、

「……だめだぁ。ここからじゃわかんないや。もうちょっと近づかなきゃ無理だね」

 珍しく見栄を張らずに素直に解らないと、あっさりと降参してしまう。

「んー、やっぱもう少し近づかなきゃ解らないか」

 興味を引き続ける白い塊にキノは、

「じゃあ、ちょうど通り道だし少し近づいてみようか」

 別に確認ぐらい良いよねと、まあ、このくらいの頼道は些細な気晴らしにもなるかなと、そんな事を呟きながらハンドルを切る。

「良いの? 寄り道しても?」

 呆れたようすで訊ねてくるエルメスに、

「うん、少しくらいなら。それにあれが何か気になるしね」

「さいで」

「それに気晴らしにもなるしね♪」

 はいはい、がめついなとからかうエルメスの小声を後にして、キノは先程の緩みを注意し、鮮明に意識しながら今のアクセルのバランスを崩さずに、安定した重心を保ちながら、速度をほんの少しだけ上げた。

 何も変わらぬ一律に続く速度を流し、早く確かめてみたいと煽り逸らせる気持ちを堪えながら、堅く自分にアクセルを上げるなと強く言い聴かせ、苔と根が複雑に絡み這いつくす悪路をゆっくりと走っていく。

 不快に苛立ち激しく揺さぶられ、弾むエルメスの車体を抑え、重なり覆っていた枝葉が一斉に唸り出すざわめきに負けず劣らない力強いエンジン音を高らかと何度も唸らせ、根に喰らい尽くすかのように寄生する苔を勢い良くバシャバシャと剥ぎ取りながら、前後輪を強く回し腐葉土広がる悪路に重い轍を刻んでいく。

 また不意にバランスを崩す事なくシートに重く体重を乗せながらガタゴトと、激しくさらに揺れが増していく巨木の根の乱れた悪路をひたすらに走り進んでいくキノとエルメス。

 あれはいったい何なんだろうと、逸り沸く好奇心を抑え徐々に近づいてみると、次第にその苔に塗れた白い塊の全容が見えだしてくる。

「あれって……」

 見え始めた白い塊の輪郭にキノは表情を暗く硬くし、沸きだした言葉を閉ざしてしまう。

 同じ視線でそれを見てエルメスが、

「ねえキノ、あれ──」

「──言わなくても見れば解るよ」

 じっと視線をそれに向けたままキノはエルメスの言葉を遮り、遮られたエルメスはむすっと、どこか不機嫌そうにしながらも、 

「じゃあ、どうすんのさ?」

「んー、そうだね……」

 変わらず視線を正面にじっと真っ直ぐに向けたままキノは、

「……何か落ちているかもしれないし、少し停まってみようかな」

 そのまま柔らかく握っていたブレーキをそっと押し込み、緩やかな今の速度をさらに緩めていく。

「……あのさー、今日中に樹海から出るんじゃなかったの?」 

 あーあーほんとキノは気まぐれだなと、のんびりと付け足しながらからかい問いかけてくるエルメスに、

「うん、今日中には絶対出るよ。だからほんの少しだけ、ほんの少しだけ停まって調べるだけさ」

「停まっても無駄足だと思うけどなー」

「そんなの停まってみなきゃ解んないだろ?」

「はいはい、キノの気まぐれは毎度の事だからねー、別にいいよ♪」

 また飽きずにからかい出すエルメスに、

「……高そうなものが落ちていたら、久しぶりに充実したエルメスの整備が出来るかもしれないな……」

「!」

「……でも、やっぱりこのまま行くのも悪くないのかも──」

「──ほらキノ、苔の上は滑りやすいから停まる時は、なるだけ根がはっていない場所を探して。あと腐葉土が多い場所は危ないから気をつけてね。あ、そうそうブレーキにも気をつけなきゃだめだよ。それに体重も、もう少しだけ左に安定させたほうがいいかも。その方が停車の──」

「──色々ご忠告どうも。さて、そろそろだな」

 キノはアクセルを緩め、ブレーキを少しずつ押し込み、左右にガタガタと不規則に傾くバランスを、なるだけ並行に保ったまま速度をゆっくりと落としていく。

 やがて速度は無くなり、グショグショと濡れ湿った悪路を惰性し、白い塊の一歩手前で深く曲がった轍を有々と苔に刻みつけ、間延びするように乾いたブレーキ音を響かせながら、キノはエルメスを停車させた。

 エンジンは切らず、低く唸らせたまま、ブレーキ・ペダルから片足をサイド・スタンド代わりに下ろしたキノより先に、

「なーんだ。何もないじゃん」

 小刻みなエンジン音を憤然と唸らせるような、儚く散ってしまった整備の不満をぽつぽつと漏らすエルメス。そんな不満をしれっと軽く流しながらキノは、ズブズブと腐葉土に浅く沈み傾こうとしたバランスを保とうと、クラッチ・ペダルに置いていたもう片方の足を、苔生える腐葉土の地面へと下ろし、両足の慣れた姿勢でエルメスの車体をしっかりと支えた。そしてそのままシートに重く腰を預け跨ったまま、目元に掛けていたゴーグルを首元に提げ、

「ま、そんな事もあるさ。整備はしばらくお預けだね」

「ふーんだ! キノのかいしょうなし!」

「はいはいごめんね。でも、今は場所をわきまえなきゃ駄目だろ」

「あ、そうだったね……ごめん」

 不満げにやいのやいのと声を上げていたエルメスをつんとたしなめながらキノは、被っていた帽子を右手でさっと脱ぎ取り、抑えられていたうなじ辺りで短く切り揃えた滑らかな艶のある黒髪を、肌寒く冷えた樹海の大気にさらさらと流す。

 明朝から帽子に重く押し付けられていた艶のある柔らかい黒髪が靡き、うっすらと蒸れた肌を冷ます大気の心地よさに、疲弊し張り詰めていた気持ちが少しだけ和らぐ。額をべっとりと不快に蒸らしていた汗を、手袋をはめた左手の甲ですっとふき取りながら、キノは脱ぎ取った帽子を胸元に、瞼を深く閉じそのまま瞑目した。

 先程までやいのやいのと騒がしかったエルメスも、瞑目するかのように、しんと言葉を閉ざす。

 そして互いに一言の言葉もなく閉ざされた沈黙に、相反し即発されるかのように囲い茂っていた枝葉が一斉にざわめき出し、樹海の外と内が激しく騒ぎだす。

 低く咽び泣き出したような嗚咽みたいな、どこか居た堪れなくなってしまう黒緑の彩りを歪ませるざわめきが騒々と響いていく。

 そんな荒々しく息吹き響く中、キノとエルメスが瞑目し沈思していた苔に塗れた白い塊は、黒緑に樹海に捕食されボロボロに朽ち果て、仰向けに横たわり塵芥まみれた路傍の白骨と化した、名も知れぬ一体の骸だった。

 手荷物や身元を現す物などとうに何一つ無く、長い年月の風化により衣服などの全ての身包みも失われ、今は黒く緑に薄汚れ、野ざらしに晒されていた骸。

 生前の体躯や容姿などを形作っていただろう皮膚や筋肉、毛髪など既に全てが腐り崩れ解け落ち、かつて強固な曲線を描いていただろう肋骨の全ても、今は濛々と苔にまみれ、もう跡形もなく全てが腐り崩れ朽ち果て、胸はぽっかりと大きく開いていた。そんなすっぽりと全てが抜け落ちてしまった肋骨と同じようにバラバラとひび割れ欠けた、かつては他の部分を強固に形成し、均整の取れた身体を綺麗に形作っていただろう他の骨の欠片も、惨々と緑の地面に散乱していた。

 崩れ去ってしまった身体からずり落ち、だらしなくのけぞる様に転がる、ひび割れかけた頭蓋骨の、眼球が失われてしまった深い穴覗く眼窩からは、ザラザラと幾種の細長く、また硬い皮を纏う幾種の虫の群れが気色の悪い黒い澱んだ波を作りながら、ワラワラと蠢きながら這い出してくる。

 鼻骨が崩れ、真っ平らになった鼻からも、今にも顎骨がバラバラと崩れようとしていた口からも、ワシャワシャと蠢き這い出してくる幾種の蟲の黒い流れは、まるで止まる気配を見せはしない。

 すぐ傍に訪れたキノとエルメスの気配に反応したせいなのか、その黒い波はさらに激しくなり、もそもそと荒れ狂うように慌しく蠢き出す。

 惨々と慌ただし樹海の住人達の黒い蠢きを、キノはじっと物言わず静かに見詰めていた。

 そのまま全てが緑の供物として貪られようとしていた、眼下に晒された骸の光景が、否が応でも視線に入ってしまう。

 もう、わずかに、幽かばかりに人の形を保っただけの、全てが緑に融け落ち消え去ろうとしていた、そんな骸の黙祷を終えたキノは、重く閉じていた両瞼をゆっくりと開き、十分に潤った柔らかい瞳で冷たい大気を受けながら、一視線もそらす事無く、硬く見詰めたまま何気に思う。

 

 ──なんで、この人はこんな所で死んじゃったんだろう……

 

 ……乗り物はないみたいだし、歩いて旅をしていたのかな。

 でも、歩いて旅をしている人が、なんでこんな迷いやすい樹海の中を通ったんだろう。

 もしかしてボクと同じ気持ちで、近道しようとしたのかな……  

 

 ……でも、結局迷ってしまって──

 

「……」

 寒々しく冷たい感覚が身体の中をすっと吹き抜けていく。

 まるで底の無い深く暗い深淵の奈落へと無力に落ちていくような失速感に、そのままどこかに遊離してしまいそうな不安に自然と手に力が入り、繋ぎ止める一筋を掴むように胸元の帽子を強く押し付けたままじっと、キノは虹彩が薄まった眼差しを、色深い緑に染め上げるように、骸を深く見入ってしまう。

 ただ食い入るように網膜を通しながら、脳裏に深くその末後の結果を焼き付けていく中で、

「……で、これからどうするの?」

「?」

 すっかりと待ちぼうけされ退屈していたエルメスの、むすっと膨らんだ不機嫌な呼びかけに、キノは視線を崩す。

 まるで背筋に冷水を浴びたような見開いた感覚に唖然としながら、キノは何度も虚空を瞬き、ただ呆気にとられた様子で、きょとんとしてしまう。

 しどろもどろに茫然としていたキノに、

「もう!」

 と、不満を洩らし、

「だーかーら、これからどうするのさ? もしかして今からその白骨さんを埋める気なの? だったら早くしてね? こっちは寝て待っているからさ!」

 無機質な冷たい怜悧な静けさの退屈に耐えかね、不機嫌に頬を含まらせ唇を尖らせた不満げな子供の物言いで急かしてくるエルメスに、キノはいつの間にか胸元に強く押し付けてしまっていた帽子をそっと引き離す。

 力んで荒んでしまった呼吸を静かに整え、重く溜まってしまった憂鬱気な今の気持ちを誤魔化すように、強く押し込んでいた帽子のへこんだ部分を指でぐいぐいと押しこみ直しながら、堅く張り込んでしまった気持ちを柔らかくほぐしていく。

 ほんの少しへこんでしまった帽子の表面を平らにしながら、元に戻った帽子を深々と頭に被り直すと、

「……ううん、そんな事しないよ」

 細い首にぶら提げていたゴーグルを目元に戻し、帽子の両側から垂れた耳を覆う毛皮のたれをバンドで硬く固定し、

「そろそろ行こうか」

「りょーかい♪」

 機嫌よく声を弾ませるエルメスのハンドルを強く握り直す。

 硬く柔らかい、確かに今そこにあるエルメスの感触をしっかりと確かめながらキノは、最後にもう一度と視線を反らし背ける事無く骸へと向け直し、

「……御騒がせして申し訳ありませんでした。どうか安らかに御眠りください……」

 もう二度と眠りが妨げられないようにと、これからの静かな永眠の鎮魂を祈り、深く瞑目すると、何故か天頂を覆う枝葉のざわめきが、すっと止んでしまう。

 肌寒い濡れ湿った静寂が再び訪れた中、キノは閉じていた瞼を開き、落ち着きだした蒼白い大気を肌で感じながら、ぽつぽつと流していた息を整え、

「それでは、ボク達はもう行きます。さようなら」

「じゃーねぇ白骨さん。バイバイ」

 一礼の瞑目を終え正面に向き直るとキノは、出発を今か今かと心待ちしていたエルメスのアクセルを開き、同時にクラッチ・ペダルも蹴り上げ、かすかに唸っていただけのエンジンを熱く強く唸らせ、苔と根が乱雑に絡みあう悪路に横たわった骸を避けながら、樹海のさらなる奥へと足早に走り去っていく。

 やがて響いていたエンジン音が緑の深奥へと短くかすれ消え、歪な曲線の轍が深く遺された悪路には、何も変わらずに虫や苔に貪られていく骸だけが、ぽつんと遺されたままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しばらくして。

 黒緑の天頂もだいぶ薄くなり、暖かく点々と温もった春の木漏れ陽が、キノとエルメスに、うっすらと明るく射しこみ始めた頃。

 あれだけ目まぐるしく混然とした曲線を描いていた腐葉土の悪路もようやく終わりを見せ、欝蒼と緑に囲われていた樹々が徐々に拓け、遠く蒼々とし出した山々や丘が、緑の樹々の隙間から、かすかに見えだしていた。

 そんないつもの旅慣れた緩やかにどこまでも続いて行きそうな流れる情景と長道を、のんびりとしながら走り進んでいると、退屈なのかどこか眠たげに欠伸を噛み殺した、まどろんだ声でエルメスが、

 

「……ねえキノ。さっきの白骨さん、なんでこんなところで死んじゃったのかな?」

「? いきなりどうしたの? 変な事を訊いてくるな?」

「いやさ、なんか妙にさっきから気になってしょうがないんだよね……なんであの白骨さんは、こんな誰も来やしない、さびしいところで死んじゃたんだろうって、気になってしょうがないんだよね。ねえ、なんでだと思う?」

「……」

「やっぱ自殺なのかな? それとも遭難しちゃっただけなのかな? キノはどっちだと思う?」

「……さあ、なんでだろうね……ボクには解らないや」

「なーんだ。解んないんだ」

「む!」

「あーあー、なんかよけいに気になっちゃたなぁー。ほんと、なんで白骨さんはこんなところで死んじゃたんだろう。あー、このままじゃ気になって夜も眠れなくなっちゃうなー」

「……ま、一応、解った事はあるかな……」

「ん、なにが解ったのさ?」

「聴きたい」

「うん、聴きたい♪ 聴きたい♪ もったいぶらないではやく教えてよー」

「じゃあ、教えてあげる……それはね──」

「それは? なに?」

「──ボクもエルメスも、これからも気をつけて旅をしていかないと、どこかであの白骨さんみたいになっちゃうかもしれないって事さ」

「……」

「ま、これからもいろいろと気をつけていかなきゃね」

「……キノ、絶対こんなところで事故らないでよ……」

「じゃあ、そうならない内に──」

「内に?」

「早くこんな怖い樹海抜けちゃおうか。出口は、もうそこだしね」

「さんせー♪ 早く出よう出よう♪」

「了解。それじゃあ、少し飛ばすよ」

「あ、飛ばすのはいいけどさ、ぜったい安全運転わすれちゃダメだよ」

「解ってるよ──」

 

 ──ボクだって、こんな寂しいところで終わりたくないしね……

 

 ……そう、少しでも気を抜いてしまえば、ボクもあの人みたく、あっけなく終わってしまうんだ。

 たとえそこが望まぬ場所であっても。

 たとえそれが望まぬ結果であっても。

 終わってしまう時は、否応なくそこであっけなく終わってしまうんだ。

 あの人も、そうだったのかな。

 いったいどんな気持ちで、あの人は、こんな誰もこない寂しいところで死んじゃったんだろう。

 死ぬ時、やっぱり寂しかったのかな。

 それとも……

 

 ……やめよう。こんなこといくら考えても仕方がないや。とりあえず、ボクも気をつけなきゃね──

 

 ──もやもやとした嫌な気持ちが身体の奥から絡むように沸きだし、べっとりと全身にまとわりつくように張り付きだす、嫌な不快感を拭うように、キノはひらきはじめた道の先をじっと見つめた。

 終わりの見えた樹海の先にある丘陵とした平原を堅く見据えたまま、キノは今か今かと走り出すのを心待ちしていたエルメスのアクセルを強く上げていく。

 そして徐々に加速していく快調なエンジン音が、春の陽気に淡く彩りだした樹海の天頂へと広がり、そのまま黒緑の拓けた蒼空に高く、どこまでも鳴り響く。

 

 樹海の話b end




 いかがでしたか?
 今回は前中後篇でまとめてありますのでよろしくお願いいたします。
 過去と未来と現在と書き分ける難しさを学べたと思います。
 キノの旅を描く度、時沢先生の書き方は奥が深いと学べます。
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