樹海の話続きでございます。
師匠と弟子の登場となっております。
どうぞお読みになってください。
樹海の話a
──Talk of an ocean of foliagea──
季節が彩り褪せいく冬へと移り変わろうとしていました。
あのうだるように蒸し熱かった猛暑の焦げつき焼きついていた陽射しは無くなり、ただ冷涼と寒々しく大気の熱は落ち込み、世界の色はどこか色褪せ薄ぼやけています。
熱気の清浄に澱みなく透き通っていた筈の盛夏の蒼空は、気まぐれに雨か雪を降らせてしまいそうな分厚い灰色雲に深く蔽われ、世界の色の全ては、すっかりともの悲しげな薄冬へと色落ちていました。
あの、どこまでも行けそうな揚々と心を高らかと弾ませた、蒼く清く澄んだ夏空を流れていた幾羽の旅鳥の群れも、今は全て夏空の清浄が未だに続くだろう遠く南へと旅渡り、冬へと色染まってしまった今の灰色空には、もう一羽の鳥すら泳いではいません。
ただ今は、物悲しい冬の大気の漣だけが、寂しく単調に響くだけです。
灰色雲の隙間から覗く澄んだ空の蒼色だけが、枯れかすむ寂しさを薄く和らげ、まるで夏を懐かしむように思いはせたような、清廉とした蒼さがわずかながらも艶やかに、日に日にと色褪せていく冬を微かに染め上げています。
そんな失ってしまった夏の残滓を懐かしみ寂しく息吹く空の下には、深く、そしてどこまでも果てなく広い樹海の大海原が、人が測り見れぬ地平の先まで延々と広がっていました。
濛々と濡れ湿った緑藻のような黒緑の苔が根深く根付き、妖緑の腐葉土を深く拡がらせ、樹海をさらなる深淵へと彩らせていた樹海の中は緑に覆われています。
茫々と蔽い茂った混然と乱れた苔とツタを纏う古木の樹々に明けぬ黎明の蒼い薄暗さが続く緑の海はとても深いです。
怏々と生えわたり、葉木の樹々はざわざわと音を蠢かせ澱み茂り、薄い冬のかすかな陽射しが固く遮られていた樹海のその茂りは堅く厚く、かすかな秋の実りと紅と黄の彩りすらなく、初冬の枯れ落ちゆく落葉の霧雨すらありません。
不変の深緑が延々と彩る、そんな変わらずの緑の色深い樹海の中は、天頂全てを覆い尽くすほどに埋もれた鬱蒼の枝葉の屋根に遮られ、薄暗く冷えた大気に深く包まれていました。
どこまでも色荒涼と濛々とした苔や雑草が生え渡る黒い腐葉土の地面には、生え立ち並ぶ緑に染まった木々の根がびっしりと這い尽くしています。
わずかにそっと暖かく差し込む真冬のかすかな陽の光明も、そこには一筋も射してはいません。
まるで取り掴みようのない無辜な自然の気まぐれさに移り変わり、流れゆく四季の色に染まらず、緑だけが淡々と続いていくだけの混沌とした黒緑の世界には、今にも壊れてしまいそうなオンボロな車の気抜けたエンジン音だけが響いていました。
僅かに緑の拓けた樹の根と苔の絡み合う道に走る一台の小型車のエンジン音です。
そんな煩く響くエンジン音に、今にも本当に全てがバラバラと崩れ果ててしまいそうなドアをガチャガチャと揺らしながら走り進むその姿は、まるで真冬に取り残されてしまった、孤独な一匹のてんとう虫のように見えてしまいます。
でも、そんなオンボロな姿とは裏腹に、その走行は頑強なオフロード車みたく剣呑で、わずかに拓かれただけの根と苔が絡み這う樹海の悪路をものともせずに、雑然と木々の根が絡むように這い尽くす凹凸の悪路を、ガタゴトとうるさい音を立てながら、颯爽と走り進んでいました。
見かけとは裏腹な勢いよく走るそんな小型車を苦もなく手馴れた操作で颯爽と、凹凸の激しい樹海の悪路に走り進ませていたのは、古くなった運転座席にシートベルトを肩から掛け座っていた、少し背の低い、か弱い女性のような面立ちをした、金髪碧眼のハンサムな青年です。
細い華奢な肉付きをしたまるで小柄な女性のような、とても男性とは思えない肉次の少ない体躯で、身に纏っていた清潔な白シャツと裾の短い薄い茶色いジャケットとズボンが、さらに青年を弱々しく見せていたが、そんな頼り気のない貧相でか弱い雰囲気とは裏腹に、左側の腰に吊ったホルスターには銃口下にレーザ・サイトが取り付けられた、四角い細いバレルの二二口径のオートマティックタイプのハンド・パースエイダー(注意・この世界における銃器などの総称)が納められていました。
見た目弱々しいそんな青年の見てくれ全てを塗りつぶしてくれそうな、使い慣れ手入れがしっかりと行き届いた頑強な黒色の光彩を放つ、そんなパースエイダーを腰に携えた青年は、グラグラと左右に揺れる小型車の硬いハンドルを楽々と、その華奢な細い手でのんびりと操作し、ブレーキ、アクセルを鼻歌交じりに交互に踏み分け走らせています。
「あー、ほんと退屈な道だなぁ……」
と、余裕にぼやきます。
「……ふぁあ」
そして気だるそうに表情を崩しながら欠伸をします。
「ねむいなぁ」
眠気交じりに、ぼそりと呟きます。
そしてそのままの湧き出してくる怠惰な気持ちに流され、大きな気の抜けた長い欠伸をしながら、その整った綺麗な顔をクシャクシャに崩し、だらしなくボロボロの硬いシートにもたれ落ちながらに運転をします。
少しでも気を抜いてしまえば危なそうな樹の根の荒道にもかかわらず、それでも車はさして問題なく樹の根の悪路を走って行きます。
薄い亀裂のはしった今にもガタガタとした揺れで、パリンと簡単に割れてしまいそうなフロントガラス越しに延々と映る、どこまで走り進んでもなんらかわり映えのない、あまりにも単調な樹海の散々たる緑の景色は変わりません。
どこまで走り進んでも荒々しく流れ抜けていくだけです。
うすぼやけた寝ぼけ眼の潤みぼやけた眼差しで、いい加減にしてほしいと陰鬱そうに見ますが、走り進む先はまだまだ続きます。
この先、ずっと変わらず坦々と続いていそうな、深緑の苔に染まった巨木の木々に覆われた単調な悪路に、青年はほとほとうんざりしていました。
いつになったらこんなところから出られるんだろうと、青年はまた、だらしのない大きな欠伸をふあぁと長くしました。
間延びした声に、粘った重く張り付く眠気に、両目からうっすらと涙が湧き、視界をグニャグニャと歪みぼやけます。
「欠伸ばっかりでだらしないですよ」
と、撫でやかで綺麗な声音にたしなめられ、気恥ずかしそうに青年はすぐさますっと間の抜けた欠伸を止め、だらしなく抜けていた身をもぞもぞと正しながら、
「あ、すいません師匠。見ていました」
ぴしりと姿勢と身を正し運転に集中しなおすが、また気の抜けた欠伸が沸き出てくるが、にがり顔で抑えますが、抜けそうにないまどろむ眠気と退屈に、ほとほとうんざりしながら青年は、
「……でもねぇ、こんな退屈な道を一日中走ってたら欠伸しか出ないですよ。それにしてもなんでさっきの分かれ道でこんな走りにくい道をわざわざ選んだんです? そろそろ選んだワケを教えてくれませんか……ああ、それにしても眠いなぁ」
と、何度目かの欠伸交じりの間延びした声を流しながら青年は、白い埃に薄汚れ今にも千切れてしまいそうなシートベルトを肩からたすき掛けていた、助手席に座る女性──師匠に視線を移します
師匠はだらしなく欠伸をしてだらけていた青年とはまるで違い、細く締まった腕をしっかりと組んで悠然と身を正しながら座り、清潔感のある白いシャツに高級感のある黒いジャケットとズボンを青年とは違い、まったくだらしなく着崩していません。
着の身を乱した寝ぼけ眼の青年とは違い、長い栄えのある艶やかな黒髪は激しい揺さぶられにも乱れてはおらず、静かで怜悧な美称を宿した面持ちも眠気にまるで崩れていません。
フロントガラス越しにすらすらと流れ行く、どこまでも単調な緑の樹海の景色をしっかりと見詰め、なんら変わりばえのない前方を一視線も崩さずに見ています。
まるで何かに注意しているかのような鋭い視線です。
「よそ見運転は危ないですよ」
と、視線を向けていた青年を窘め、
「とにかく、このまま真っ直ぐ走っていればいずれ解ります。しっかりと起きて運転しておいてください」
つれなく坦々と言葉を返します。
青年は、
「はは、大丈夫ですよ師匠。こんな道、寝ていても事故なく走れますよ」
軽く言いますが、
「こんな荒れ道で気を抜くと事故の元です。少しは、おしゃべりとよそ見運転を控えなさい」
青年の気の抜けた曖昧な運転を何度もたしなめます。
青年は、ははっと、また軽く笑いながら、
「大丈夫ですって、こんな何も無い道で事故を起こすほどオレはお間抜けさんじゃないですよ♪ 師匠も意外と心配性ですね♪」
今の注意に眠気も失せてしまったのか、ほがらかな笑顔を向けたまま、
「まあ、とりあえずここは俺の運転を信用してください。まぬけな事故なんか絶対に起こしませんから♪ それこそ大船に乗ったつもりで安心してください♪ ま、これは車ですけど──」
「──じゃあ、あなたは前にある、あれをもう確認した上でこの速度なんですね? でしたらすごい腕ですね」
師匠はそんな青年の笑顔を一目見る事無く、ただ一瞬の僅かな隙すらない、前をじっと見据えたまま、叱責するような強い声音で訊ね、
「え? ま、まえ?」
青年は慌てながらその満面の笑顔をバラバラと崩し、言われ指された前方をしっかりと見据え直すと、
「──ん? あれ?」
走り進んでいた苔と根が這う悪路の数キロの先の中央に、黒い塊らしきものが落ちていました。どこか気まずく青年は、
「……なんでしょうね? あれ?」
前方のその黒い塊が何であるかが解らず、仕方なしに青年は師匠に聴き訊ねてみますが、
「人に聴く前に、まずあなたの目で良く見てみなさい」
「はい」
と、師匠に素直に返事をして青年は、ブレーキをゆっくりと踏み込みます。
速度を緩やかに落としながら、ハンドルを軽く回し速度を調整し、右往左往に揺れる視界を安定させ、じっとした細い視線をその黒い塊に凝らし、それを凝視して見ると、
「……人?」
一瞬、それが倒れた倒木の見間違いではと思い、眼を見開き凝らし見直してみると、それは間違いなく紛れもない倒れた人──行き倒れでした。
よくよくに見てみれば背丈は青年と同じくらいで、体躯は小柄で、剃髪でもしているのか、髪はまったく無く、身に着けるのに抵抗感がありそうな、酷くドロドロにこびりついた泥と苔に薄汚れた、ボロボロの衣服を纏いながら、うつ伏せで倒れています。
長旅で無一文になり、ボロボロにやつれてしまっただろう不運な行き倒れかと判断し、
「師匠行き倒れですよ、どうしましょうか?」
「そうですね」
じっと前を見たまま答える師匠を後に、
「それにしてもまた、なんでこんな辺鄙な場所で行き倒れてるんでしょうね? 遭難でもしたんですかね?」
「さあ、どうでしょうね」
「でもまあ、見たところ乗り物らしいものが無いですし……歩いて旅をしているにしても……」
周りの緑深い樹海の景色を見つめ、
「……普通こんな樹海の中を歩きで行こうとは思わないし……もしかしたら自殺しに来たのかもしれませんよ」
「その可能性もあるかもしれませんね」
何の感慨もなく、青年からの質問を何の興味なく淡々と返す師匠。
そんな師匠のつれないやり取りを別に気にした様子もなく、逆になれたように青年は、
「だったら、ほっといちゃいましょうか。その方が面倒がなくていいですしね」
「……」
硬いシートに沈めていた背中をむくっと起こし、狭い車内にも関わらず、器用に両手を組み背筋を伸ばし、硬くなった身体の筋をコキコキとほぐしつつ師匠は、前方をじっと見据えたまま、
「いえ、停まりましょう」
「え? 停めるんですか? 危なくありません?」
「危ないとは?」
と、細い冷静な視線を向けながら訊ねてくる師匠に、青年はどこか気恥ずかしそうにしながら、
「いやあねえ、恥ずかしい話、オレ、あんまり行き倒れに良い思い出が無くて」
気楽に言います。
「そうなんですか?」
「ええ、もう、だいぶ昔の話になるんですけど。行き倒れていたから助けようと思って近づいてみたら、そいつが仲間引き連れた追剥とか、どこかの国から逃げ出した兇状もちの犯罪者だったりとか……ま、その後はお約束で色々とトラブルに巻き込まれちゃって、おかげで行き倒れに嫌なジンクスがついちゃっているんですよね……まあ、そのつどちゃんとそれなりに対処はしてきましたけど♪」
口で語った事を脳裏で思い出しながら青年は、いつでも行き倒れをひき殺せるようにとアクセルに足を乗せ、前方からのパースエイダーの発砲に備えながら、シートにもたれ姿勢を低くしながら、
「だからとりあえずここは停まらず突っ切ったほうが良いと思うんですけど? そのほうが面倒がありませんよ」
行き倒れを注意深く警戒しつつも落ち着いた声音で提案するが、
「そうですね……」
視線を崩さぬまま、
「とりあえず──」
大して身構える事無く、ゆったりとリラックスした姿勢を何も変えず、師匠はじっと青年を見据え、
「──停まりましょう」
変わらぬ指示を出す。
青年は、
「解りました」
とても素直に返事をし、姿勢を戻しながらまじめに運転に気を入れ、ガタゴトと激しく車体を揺らしながら、アクセルに乗せた足をブレーキに乗せ、ゆっくりと踏み込み速度を落とし、車を行き倒れの数歩手前に停車させます。
引きずるようなブレーキ音と苔を剥ぎ取るタイヤのかすれた音が、樹海の中に高らかと響き渡ると、呼応するかのように周囲に生えわたる枝葉が一斉にざわめき出しました。
青年はいつでも対応できるように腰のパースエイダーを抜けるように腰を少し浮かせながら、周囲を注意深く警戒するが、周囲には人の気配はおろか、一匹の動物の気配すらありません。
何も変わらないツタと苔を纏う、緑の樹々の囲みしかありません。
そんな注意深い青年とは対照的に、師匠は何も警戒した様子も無く、依然何も変わらぬままの、ゆったりとした両腕を組んだ姿勢のまま、車が近くに停まっても微動だにしない、うつ伏せで倒れていた行き倒れを、じっと、ひび割れたフロントガラス越しに何も言わずに見詰めています。
本当に行き倒れていたんだと納得し、
「あ」
行き倒れを見て、青年は間の抜けた声を出してしまいます。
フロントガラス越しから覗けるうつ伏せで倒れていた行き倒れの周辺には、無数のハエが無軌道に何重にも飛び回り、見れば着込んでいた服とズボンも所々が破れ、覗いていた肌はドス黒く元が何色か判別しづらい程に変色していました。
さらによく見て見れば、至る所にびっしりと苔やウジが張り付いています。
視線を背けてしまうような惨たらしい光景を目の当たりにしながらも、青年はのんびりとした、まるで安い絵画でもみるかのような、見なれてしまっていた軽い眼差しで、そんな死体をのんびりと眺めながら、
「師匠、たぶんあの人、もう死んじゃってますね」
この様子だと盗賊もいないのだろうと気を抜きながら言いますが、
「……」
師匠は何も言わずに、じっと死体の方だけを、食い入るように見ています。
一視外す事無く真剣な眼差しで覗く、その真摯さに押され、青年はつられるように死体を見ます。
一体何をそんなに見ているのだろうと、青年は不思議そうに死体を、じっくりと見分しますが、どこにもそんな目を引くような、さしたる部分はまるでありません。
元が何色だったのか形容しがたい程に変色した、ボロボロの上着とズボンなど、真剣に見るには値しないものしか見えません。
まして金目になりそうな手荷物らしいものも何もなく、ここまで来た乗り物の残骸すらもありません。
既に通った誰かに持ち去られてしまったのか、それとも何も持たず、ただ本当に自殺目的で、ここに訪れたのかと、色々な事を一人考えましたが、そんなことをいまさら考えても仕方がないので、
「金目の物も、無いみたいですね」
と、残念そうに師匠に言いますが、
「……」
師匠はあいも変わらず返事の一つも返さずに、変わらず死体を眺めていました。
息が詰まってしまう閉塞感に青年はこれ以上ここに留まっていても意味は無いと思いながら、怠惰にだらけた姿勢を正し、出発を促そうと再度、師匠に話しかけようとしましたが、
「それは近くに行って直に調べてみないと解りませんよ」
青年からの質問を予期したかのような言葉を師匠は返し、そのままかちゃかちゃと金属音を鳴らしながらシートベルトを外し、車から降りようとしました。
「え、行くんですか?」
「そうです」
ドアノブに手を掛けながらそっけなく応える師匠に、
「別に調べる必要はないんじゃないんですか? あの様子じゃ何も持ってませんよ。行くだけ無駄足ですよ無駄足。とっとと行っちゃいましょうよ」
「そうだと、何故言い切れるんですか?」
狭い車内の大気が全て凍りつくような声音が、ぼそりと響きます。
「ほら、早く行きますよ」
師匠は出発を促し、徐にドアを開け、車を降り、歩き難い筈の苔塗れの根の上を、一人スタスタと行き倒れの方へと歩んでいきます。
「あ、師匠! 待って下さいよ。危ないですよ」
先程の師匠の言動に戦慄しながら一人震えながらも、慌てながら青年は肩に掛けていたシートベルトを外し、後を追いかけようとドアを開けます。
「──っ!」
寒くても清く澄み切った緑の外気が、今はまるでヘドロの溜まった、汚水が澱む冷たいドブ川のような、息苦しい腐敗臭があたり一面にどんよりと漂っています。
あまりの鼻がもげてしまいそうな劣悪な臭さに青年は堪らず鼻を摘み、僅かながらに異臭を遮断しながら、すぐさまドアを閉めようとしますが、
「──え? し、師匠?」
眼前のフロントガラス越しにその中を平然としながら、師匠は立ち広がる臭いに怯み車に引き返す事無く、その中をスタスタと歩んでいました。
鼻を指で摘んだ間の抜けた声を出しながら慌てて青年は、
「師匠、臭くないんですか?」
鼻腔を狂わせる腐敗臭の不快感を堪えながらに訊ねるが、
「別にこんな臭いくらい気にはなりません。来るなら早く来なさい。来ないのなら車で待ってなさい」
凛とした師匠の背中を見て、青年はやむをえず外へと出ます。臭いはさらにきつく、戻ろうかなと思いますが、青年は車のドアをばたんと閉めました。そして足場の悪い巨木の根が絡み這う悪路を歩きだしますが、樹木に張り付く苔に、思わず滑りそうになります。
師匠はそんな事もお構いなく、すたすたと街中でも歩く様に軽く歩いています。
腐敗臭はあいも変わらずどんよりと周辺に立ち込め、臭いと、うんざりしながらも青年は不快感を堪え、師匠の後を一歩一歩と追いかけます。
鼻を摘んでもわずかに鼻腔に入ってくる腐敗臭のせいか、足取りは自然と遅くなってしまいます。
そんな覇気のない足取りで師匠の元へと向かうけなげな青年を尻目に、一人死体の元へと辿り着いた師匠は、死体のわき腹を無造作に蹴り上げ、喰らいついていたウジや苔をボロボロと振り落としながら、死体を仰向けに引っ繰り返し、
「何もありませんね」
表情を変えず残念そうに一言呟くと、
「何がないんです?」
ようやく追いついた青年が師匠の隣に並び、そのままひょいっと、引っ繰り返されたばかりの死体を軽々しく覗いてみると、
「うわぁ……こりゃひどい。腐りすぎてどろどろだ」
露骨な不快感を露に、青年は不精に呻いてしまいます。
無造作に師匠に引っ繰り返されたその死体は、青年が何気に予想していた以上に酷く、腐乱しています。
生前がどんな顔つきだったのか、確認、判別すら出来ない程に、顔面は青年の言うとおりドロドロに解け崩れ落ち、二つの眼球すらも既にすっぽりと腐り抜け落ちてしまったのか、それともはじけてしまったのか、ぽっかりと底なしの深い穴が眼部に開いています。
それに合わせるかのように、鼻なども跡形も無く崩れ落ち、顔面はのっぺりと崩れ去ってしまっています。そんなすっかりとみすぼらしくなってしまった、わずかばかりの肉が張り付いていただけの顔がまたどろりと崩れ、残っていた皮と頭髪の全てが、ずり落ちていました。
もうわずかな肉片も残っていない頭蓋骨だけになった顔面には、本能のまま張りつく飢えた無数のウジやハエなどがわらわらと這いつくし、ドロドロに柔らかくなった僅かにこびりつく死肉を、飽きる事無く貪りつくしています。
かつて男性だったのか、または女性だったのか、それすらも判別すらできないほどに身体は原型を留めないほどにグシャグシャに腐り崩れ落ち果て、赤黒い肉と黄色く変色した骨が所々からはみ出ています。
わずかに残った肉の部分も形容しがたい色にどす黒く変色し、腹部からはドロドロになった桃色の腸や内臓がだらしなく外にはみ出し、そこにも顔面同様に無数のウジやハエなどが集り、貪欲に本能のまま、その死肉を貪りつくしています。
ただ無常に貪り食い尽くされていく、腐乱死体の凄惨な光景を目の当たりにした青年は、ため息交じりに瞑目し、こんな風に死んでしまった生き倒れに、さめざめとしながら祈ります。
「……」
でも青年とは違い、師匠はそんな腐乱死体に鎮魂など祈る気配など微塵も見せずに、ただじっと嫌悪感に目をそむける事無く、ただ樹海の供物になっていく哀れな腐乱死体を、深くじっと見据えていました。
鼻を潰してしまいそうな腐敗臭など気にしたようもなく、ウジやハエが張り付き、死肉貪る不快感すらも気にした様子も無く、ただじっと直視していた師匠のその眼差しは。どこかしっかりとしています。
そして何を思ったのか、平然と師匠は腐乱死体の傍に、すっと片膝をつき、
「仕方ありませんね」
と、徐に胸の内ポケットから取り出した、前に国で購入していたのか、使い捨てのゴム製の手袋を両手にはめ、腐乱死体のぬらぬらした油が纏いつく腐肉が張り付く上顎と下顎をむずっと掴み、そのまま慌てワシャワシャと無数のウジが這い出てくる口を無理やり、ばりっとこじ開けます。
「! し、師匠?」
いきなりな師匠のそんな突拍子もない行動に、珍しくあたふたとする青年。
そんな青年を後に、師匠は異臭や死肉を触る不快感などまるで気にした様子も無く、ただ平然としながらこじ開けた口をさらに大きく開けていきます。
バリバリと音をたて無理やりにこじ開けられるたび、両頬が横に引裂けながら破けていき、破れた頬の裂け目からワシャワシャと蛆や蟲などが這い出てきます。
よほど死体の口内が安住な住処だったのか、黒く澱み蠢く蟲が止めどう事無く沸きだしてきます。
そんな陰惨な口内に視線をそむける事無く、ただ平然と難無くに師匠はじっと覗きながら、師匠は奥歯から前歯へと、まるで手馴れた歯科医の検診のように歯を一本一本丁寧に調べていきます。
調べる度鬱陶しい程の無数のウジが手袋を嵌めた両手にわしゃわしゃと張り付き、飛び交うハエが頬にまとわり付こうが、それすら気にした様子もまるで無く、師匠は黙々と死体の口内を丹念に調べていきます。
「……金歯や銀歯は、ないみたいですね……」
そう一言だけ残念そうに落胆の言葉をぼそっと漏らすと、腐り崩れかけた上顎と下顎から手を放し、口の中を覗くのを止め、腐乱死体が身に付けていた、ボロボロの上着を摘みじっと見ます。
「こんなボロ布では、パースエイダーも磨けませんね」
ほとほととなにも望めそうにもないあきらめた口調で乱暴に腐乱死体の価値無き衣服を手荒く鷲掴み、そのまま無造作にただ力任せに躊躇いもなく乱暴に引きちぎっていきます。
なんの感慨もない無表情なまま、衣服を千切り剥ぎ獲り、垂れ下がったボロ布と化した衣類のポケットをゴソゴソと弄り調べます。
仰向けにうつ伏せにと何度も何度も引っ繰り返しながら組まなく調べ、衣服を全て剥ぎ取り丸裸にし、剥ぎ取った振動で内臓がドロドロとこぼれる身体全体を、また組まなく、なめるように調べていきますが、なにも見つかりませんでした。
最後に引きちぎったズボンの裾を両手に持ちながら、バタバタと三回程上下に振りますが、なにも出てきません。
「……ないですね……」
元はズボンだったボロ布を、その場に無造作に投げ捨てます。
他に何かないかと丸裸の死体を調べていく、そんな淡々とした師匠の行動に、青年はただじっと眺めていました。
すると、
「──?」
滴るような寒い風が吹きます。
そしてそのまま樹海の中に脈絡も無く突風が吹き荒れ、覆い尽くしていた枝葉が一斉になびき、まるで末期の悲鳴のように樹海全体がざわめきだしました。
気のせいか、大気もまるで真冬のように急にしゅんと冷え込み、そしてそのまま途切れ途切れに鳴り響いていく野鳥の鳴き声も、急に甲高く耳障りに高鳴りだし、不快感を煽る鳴き声が樹海に高らかと響きます。
そんな不気味な雰囲気に包まれだした樹海の、どこかおどろおどろしいあまりの変化に青年は、
「あー、師匠」
曇らせ困った表情で青年は、
「あのー、これ以上ここに居たら……その……出そうですけど」
異様な雰囲気が立ち込めた周囲を見回しながら言うが、師匠は、ぴたっと腐乱死体をまさぐるのを止め、手袋を外し、その場にすっと立ち上がります
その間、決して後ろを一振りも振り返らず、手袋を手慣れた動作で脱ぎ、右太腿に吊っていたホルスターにしまっていた、薬莢を使用しない、液体火薬を使用するリヴォルバータイプのハンド・パースエイダーのグリップを右手に握り締め、ホルスターからすっと音も無く素早く引き抜き、ざわめき響く深緑の枝葉が鬱蒼と覆う天頂に向かって、その四四口径の銃口を向けます。
「……!」
手慣れ精錬された指の動作で師匠は銃口を無駄に揺らす事無くトリガーを引き、四四口径弾をあても無く樹海の緑の天頂へと撃ち放ちました。
シリンダーに詰めた液体火薬が薬室内で熱く爆発し、銃口から銃声と共に押し出された銃弾が何処へともなく飛び去り、轟然とした鼓膜をきつく叩く銃声が樹海の大気を叩きます。
樹海全体に余韻を残しながら、坦々と鳴り止んでいく中、青年はただひしひしと、その急な師匠の発砲音を響かせています。
何故か樹海に響いていたざわめきは鳴り止んだ銃声と共に、まるで潮が引くかのようにすっと止み、急に下がった大気の変化も元に戻り、空の野鳥の乱れた甲高い鳴き声も、いつもと何も変わらぬ、間延びする鳴き声に戻っていました。
「……」
師匠は息を吐き、最初から何事も無かったかのように元通りになっていく、そんな樹海の変化に、師匠は掲げていたパースエイダーをホルスターに戻しました。
「行きますよ」
茫然と固まっていた青年に一言だけ声をかけ、師匠はそそくさと足早に傍らを通り過ぎていきます。
「……あ、え? あの、行くんですか?」
背を向け、我先に車へと戻ろうとした、どこか早足の師匠に、青年は慌て訊ねると、
「そうです」
師匠は一振りのきびすも返さずに、ただ背を向けたままそう言い、そして車へと一人戻り、助手席のドアを開け、さっと素早く席に座り、バタンと勢いよく、ドアを堅く閉めてしまいました。
鍵もしっかりと落とします。
「あ、まってください!」
素早すぎた師匠のそんな歩みに、気を取り戻したように慌てながら青年は、急いで車に戻ろうと苔に滑りながらも走り、そそくさと運転席のドアを開け、慌しく車へと乗り込みます。
師匠は乗り込んできた青年に視線をやる事無く、カチャカチャと身を守るように自身の身体にシートベルトを手早く掛け、
「早く出してください。このまま真っ直ぐに走っていけば、こんな樹海すぐに出られます」
落ち着いた口調にも関わらず、どこか急かせるかのような強い物言いで、青年に早々とした出発を促します。
青年は何故か、一刻も早くこの場から出発しないと、今度は自分の身が確実に危ないと、先程感じた悪寒とはまるで比べ物にならない、背筋に直接張り付くような恐怖をぞわっと感じながら青年は、
「解りました。すぐ出ますね」
と、開けっ放しのドアを勢い良く閉め、ガチャガチャとシートベルトを締め、ささっとギアを入れ、爆音のようなエンジン音を轟く様に唸らせながら、車を早々と走り出させました。
苔根に絡む悪路に歪な二本の轍を刻み、死体を大きく避けながら慌しく車は、樹海のさらなる奥へと走り去って行きます。
そして、しんっと静まった樹海の中には、ウジやハエなどにまた貪られていく、身包み全てを剥がされた腐乱死体だけがいつまでも、樹海の悪路に、ぽつんと晒されたままでした。
その後。
そのまま猛スピードで樹海を走り抜けていくと、ぐしゃぐしゃに湿った腐葉土の地面も次第に固くなり、樹海を囲い覆っていた薄暗さも、ほんのりと拓き始め、白い陽射しがちらちらと照らしだします。
そして点々と木漏れる陽が辺りに眩く射しこみ、拓け出した樹々の間からも、遠くにうっすらと物寂しく冬に色褪せた丘や山々が見え始めています。
「あ、だいぶひらけてきましたね。そろそろ出られそうですよ」
「そうみたいですね」
「いやぁー良かった良かったぁ。ほんと一事はどうなる事かと思いましたよ。運が悪けりゃ俺達も樹海で行き倒れ──」
「……」
「あ、えーと……」
「どうしました? 急に黙ってしまうなんて珍しいですね」
「いや、あー、その……」
「まあ、あなたの言うとおり確かに運が良くなければ、私達も樹海で行き倒れていたかもしれませんね」
「……え? 運、ですか?」
「そうです運です。それが何か?」
「いやあ、師匠の口から運が良いなんて、そんなめずらしい言葉が聴けるなんて思えなかったんで、驚いちゃいましたよ」
「何を言っているんですか、旅人にとって運とは、とても大事なものですよ」
「? そうなんですか?」
「ええ、運は大事です。旅人ではなくても、運は生きていくことにとって、もっとも重要なものです」
「えーっと、そんなに重要なものなんですかね。運よりも、どんなことにでも対処できる実力ってやつが一番大事だと思うんですけど」
「もちろん実力も大事ですよ。でも運が無ければ実力は得れません」
「? 得れないものなんですかね。実力なんて、才能かある程度の努力次第で何とかなるもんじゃないですか。でも運なんて、こう、なんて言えばいいか……その漠然として、なんか掴みどころのないものじゃないですか。運だけは努力しても無理なような気がするんですけどね」
「ええ。確かにあなたの言うとおり、実力は才能や努力次第でどうにもなるものですが、運はまるで掴みどころのない漠然として、努力ではどうにもならないものです。大切なのは常に自分の方に運を引き寄せる為に、常日頃から何をしていくのか、何をしておくのか、そして何をすべきなのかを理解しながら、日々を生きていくことが大事なんです。運がいいからと実力を磨くことを怠り、また運が無いとあきらめ、運を引き寄せる努力を怠り、自分は何でもできると実力だけに過信することなど、とても愚かしいことです。常に両方を持ちあわせ、それをうまく使い分けて生きていくことが大事なんですよ」
「なるほど……じゃあ、あの行き倒れは、それを怠ったってしまって、この樹海で運悪く遭難してしまったって事ですかね」
「ま、旅で何かしら死ねば、運が無く実力が無かったと言うことになります。世の中はそういうものです」
「無常ですね……ところで、師匠?」
「なんです?」
「運を引き寄せる方法っていったい何ですか? 知っているならぜひ教えてくださいよ♪」
「とりあえず、気をつけることですね」
「気をつける? 何にですか?」
「何かをするとき、事を起こすときにですよ。自分は例外なく大丈夫と安全と思うことこそが一番の危険なんです。だからなにか事を起こすとき、常に不意な不幸に気をつけていくことが、幸運を身につける最良の方法なんですよ」
「常に不意な不幸に気をつけるか……いやはや勉強になります」
「まあ、とりあえず、あなたは少し運転に集中なさい。ただでもここは遭難と事故の多い、いわくの場所なんですから、そうそう気を抜いていてもらっては、私達の運も尽きてしまいますよ」
「え、師匠? 今、なんて言いました!」
「……」
「あの、師匠?」
──隣を見やると、師匠はシートを深く後ろに倒し、穏やかな寝息を立てながら、それでいて隙なく、すやすやと夢心地に寝入っていました。
樹海の話a end
いかがでしたか?
師匠らしく、弟子らしくをモットーに書いてみました。
感想お待ちしております。
最後までお読みくださってありがとうございます。