ソフトな日華事変   作:キューブケーキ

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その1 支那犬事変の始まり

1.はじまりのおはなし

 

 昔々、ノドンやテポドンの生まれる遥か昔、支那大陸は神から見棄てられた地上の地獄であり、日猫侵華戦争(支那犬事変、大東亜猫戦争)があったそうです。

 その要因は白蓮教の乱、太平天国の乱、捻匪の乱、西北回民の乱等少数民族の反乱から辛亥革命、北洋軍閥や国共内戦に至る100年の中国内戦だと言われています。

 もっとも支那大陸は紀元前から王朝が立っても、叛乱と弑虐の繰り返しであり、神に呪われた民族とも言えました。支那は孔子や孟子を生んだ国ですが、野蛮な血は脈々と受け継がれていたのです!

 ともかく欧米列強は伝統的に東亜侵略を行っており、日(UK)(US)国等の列強は中国内戦に介入し、南京、重慶、延安の三政府が代理戦争を行い、混沌の坩堝をかき混ぜ長引かせていたのです。

 イヤならイヤとはっきり言った方が良い。だから支那で「日猫さん、あなた達が嫌いです」と日貨排斥が始まりました。その想いはしっかりと届きました。

 

 日露戦役の勝利で露助の支那における租借地、鉄道利権等を譲り受け、関東州の租借権を正式に引き継ぐべく満州に関する日清条約の調印を強引に押し付けました。

 WW1では漁夫の利でドイツの利権を引き継ぎ悪名高い21ヶ条を要求。袁世凱の死後は、軍閥を唆し、満蒙を手に入れるべく暗躍しました。

 抗日戦争の序幕と言える柳条湖の南満鉄道爆破で、日猫軍第2師団(2D)(勇)と戦闘が発生した918事変後、日猫軍は攻撃し、征服し、略奪し、侵略戦争の思想で東北を占領していました。

 事の発端は民國20年9月18日午後10時頃の事でした。奉天軍の支那犬に偽装した共産豚が奉天城外柳条溝の満州鉄道を爆破し、更には虎石台駐屯の我が獨立守備隊第3中隊が夜間警備演習中の隙をついて襲撃して来た事でした。

 中隊長川嶋大尉は、河本中尉より報告を受けて、中隊を前進させた所、コーリャン畑より射撃を受けました。近くにある北大営には奉天軍の精鋭、王以哲の旅7千名が駐屯していた事から下手人は其処だと追跡しました。奉天の独立守備隊第2大隊長島本中佐は、北大営の攻撃を決定。非常呼集を行い、撫順の2中隊は柳條溝へ前進を命じられ、島本中佐は1、4中隊を率いて北大営に前進しました。

 鐡嶺方面の独立守備隊第5大隊も、大隊長田所中佐は主力を率いて増援する事を決定。午19日午前1時〜5時半頃には北大営を制圧しました。

 奉天に駐屯する29i(平田大佐)も奉天城内の支那軍排撃を開始、遼陽の2D長多門中将は、16iを北上せしめ、奉天付近に集結させ、夜明け迄に奉天城、寛城子、菅口を、正午迄に南嶺を、午後2時には東大営を占領しました。

 この頃、満州の我軍は駐箚1個師団(5,400人)、獨立守備隊6個大隊(5,000人)に旅順重砲兵大隊を加えても、対する張学良の奉天軍は正規軍25万、不正規兵8万の計33万人。彼我の兵力差はとても大きかったのです。これで関東州を防護し、南満州鉄道を守備し、邦人20万人と鮮人100万人と投資額14億円以上の保護を任じつつあったのですから、日本側から自衛以外で攻撃を始めるとは常識的に考えられない事でした。

 多門中将は、後に「満州国を立派な国に発達させれば、中華民国は日本のやる通りにやればその様に立派な国になるにゃん。この方法より他に良い方法は無いのだよ!」と言ってましたもの。

 日猫は世界随一の海国であり、国際世論に批判され普通なら、どうしよう。どうしよう。どうしよう! と悩むのですが、日猫さんは図太い神経をしていました。

 日猫は由来、武勇を尊ぶ猫で、普段は虫にも怯える様な大人しい飼い猫です。ですが、一旦、御主人様である皇帝陛下の御為の戦いとなれば、猫まっしぐらに猫じゃらしに飛びかかるのを無上の光栄と心得ております。軍紀風紀は概ね厳正にして士気旺盛でしたしね。

 敵の砲弾が降る中を、突撃又突撃、ネコパンチ又ネコパンチ、見事敵の堅陣を占領して、そこに肉球の旗を翻し、万歳のにゃーを叫ぶ姿を想像して見て下さい。

 だから我が出征兵士は、おうちを出る時は必ず、マタタビと肉球の国旗を首からぶら下げて行きます。こうした強い覚悟が肉球の旗なのです。

 日猫軍は正義の軍隊です! 今まで一度も外国の軍隊に負けた事がありませんでした。

 日露戦争に勝ったので南満州鉄道が我が国の物になりましたが、昔から満州には馬賊は多く、陸軍の実力で鉄道を守備する事になりました。元々、満州は支那の土地であり勝手に兵を置く事は出来ません。そこで1キロメートルにつき平均15人の兵隊さんを置く事に決めました。これが関東軍です。

 平時に於ける日猫の駐満部隊は既得権益と在留邦猫を守る為、内地から二年交代の派遣師団と鉄道守備の強い独立守備隊6個大隊、旅順砲兵大隊で、その兵員1万400。支那側は奉天軍が主力であり、正規軍約25万。これを相手に戦争を始めるには日猫軍は寡兵でした。

 ですが首狩り民族の本能でしょうか、現場の将校は力試しと手柄を求めており、他人の庭の芝が青く見えて押し入る事を止める事は出来ず、満州(吉林省、黒竜江省、奉天省の東北三省内領域)を制圧するんだと帝国主義的な野心を剥き出しにした盗人とも言える悪者だったのです!

 卑劣千万にも満州プレイスを樹立した大日猫帝国の野望は留まる事を知らず、関東軍が満州国から軍事を委託されていると言う名目で熱河省や更には河北省を攻めて国際連盟を敵に回したり、蒙古軍政府や河北の冀東防共自治政府を立ち上げて、「八紘一宇の大精神による共存共栄の関係は焼津マグロの猫缶の様に素晴らしいにゃ。満蒙諸民族を塗炭の苦しみから救い王道楽土を建設するのだにゃん」と言い切りました。

 まぁ、これ当然の様に建前でして、裏では華北分離工作によって中華民犬国の切り崩しを行ってもいましたが……。

 これに対して蒋中正も日猫の影響力を排除すべく、冀察政務委員会へ介入を行いました。

 

「日猫の甘言に騙されてはいけない。我等は同じ犬だワン」

 

 蒋中正の敵はあくまでも、邪教でしかない邪悪な共産豚党でありました。

 

(素で行くのも良いけど、そう言うのマジでウザイし)

 

 程度の低い者に感化される事はある。頭の悪い共匪を放置すれば、中華民犬国と言う身体を中から蝕み、蚤レベルの日猫以上に危険だったのです。

 その為に蘇連邦と結び、他方では英国依存の政策を採って、経済的に排日を選択するしかなかったのです。

 一方の毛沢東も国民犬党に対して共産豚党が劣勢である事は理解していました。

 今は抗日を叫び、手を組む事が出来ます。しかし日猫を追い出した後は、再び争う事に成ると豚でも読める先行きでした。

 そこで知己を通して日本に接触。毛沢東の共産豚党を認め、支援するなら、満州プレイスを承認。抗日運動を停止し、在留邦猫の安全を保証すると言ってきました。

 外交関係でも自分は敵ではない。こう言う事が出来ます。こう言う事がしたいですとアピールする事は大切でした。

 

「うーん、豚さんは猫を襲わない。そう言ってるにゃん?」

「その様ですにゃん」

 

 日猫軍は三千万の満州国民の幸福や、幾多の勇士の血に彩られ獲得した日猫の権益を守らねばいけません。日猫軍が戦う時は、日猫を守る時なのです。

 日猫としては自国の権益が守れ、支那問題に終わりの目処が着くなら、交渉相手が毛沢東でも良かったのです。ですから満州を日猫の物とはしませんでした。

 毛沢東が正しい政府を作るなら助けてあげる事にしました。このように共存共栄は日猫の為でもあります。

 しかしながら、この動きを察知した蒋中正は、共軍による大規模な軍事攻勢を警戒し、国軍を警戒配置に着かせました。

 

 民國26年7月7日、北支における状況が変化しました。豊台事件です。

 冀察政務委員会の委員長でもあった宋哲元率いる国軍の第29軍は、北平の西南12キロのマルコ・ポーロ橋付近で、共軍に偽装して、夜間演習中の我が支那駐屯軍を襲撃しました。

 

「こんばんワンワン」

「えっ?」

 

 宋哲元は元々、張学良の部下だったのですが、後に日猫軍に恭順したので色々、便宜をはかってあげていたら北支で出世したそうです。しかし日猫には日支親善を説き南京を罵倒し共産主義排撃を口にしていましたが、日猫の恩を忘れて国民党政府の手先となり、抗日侮日の魔手をふるいはじめたのでした。

 明治33年5月の北清事変以来、居留民を保護する為、欧米と日本の8ヵ国は支那に兵隊を置く事を決めました。日猫も、明治34年から清国駐屯軍を置いています。そして大正3年から支那駐屯軍と改めました。その支那駐屯軍が襲われました。

 実際は、偶発を装った事変で共産豚党の責任問題を追求する計画だったのです。

 それに第29軍は歩兵4個師、騎兵1個師を基幹に兵力10万人で、日猫軍ごときに数で負けるはずがなかったのです。だから決して弱くはないと自信を深め、大勢だから強気に出れました。

 予想外だったのは圧倒的寡兵の日猫軍が、引き下がる所か国軍に反撃して来た事だったのです。

 お空も真っ暗な、11時40分ぐらいの事でした。恐ろしい戦争への扉が開かれました。

 

「中隊長、匪賊か何者かから射撃を受けましたにゃん!」

「何だと、支那犬の攻撃だにゃん!」

 

 北支における日猫の権益を守り、平津地方に在住する萬餘の邦猫の生命、財産を守る重大な任務を持つのが日猫軍の北支駐屯軍でありました。

 ここで言う北支とは、日満支三国間の政治的関係の下に、普通所謂北支五省を指す物で、支那の行政区分で言えば、河北、山東、山西、察哈爾(チャハル)綏遠(すいえん)五省を包括する物でした。

 第1聨隊第3大隊第8中隊の清水中尉は尻尾を立てると、演習の中止を指示。即日、上級司令部に報告をしました。

 一木大隊長と牟田口聨隊長は情報の共有を行います。

 

「引っ捕らえ様にも逃げられたそうだにゃん。状況から考えても、下手人とおぼしきは宋哲元の第29軍でしょう!」

「ううむ。許しがたい蛮行だにゃん。しかし短慮は起こすな。お上(皇帝陛下)からの沙汰を待とう。ほら、恩賜のめざしでも食べるにゃん」

「これは、ありがとうございますにゃ」

 

 耳をピクピク動かして恩賜のめざしを受け取る一木大隊長ですが、彼の言う通り、事件現場から南に向かうと第37師第110旅の吉星文団長率いる第219団の駐屯する宛平城が存在しました。日猫軍から見て、この連中が犯行に及ぶ可能性が高かったのです。

 

「ちょっとお城の中を見せて欲しいにゃん。はい、これ。お土産の鹿の蹄だにゃん」

「駄目だワン。ここは、中国の縄張りワン。でもお土産はいただくワン。ありがとう」

「あ、待つにゃん!」

 

 当然、日猫軍は代表を送り抗議を行い、森田中佐、寺平特務機関輔佐官(ささくわん)、第29軍顧問櫻井少佐、赤藤北平憲兵隊長と、支那側代表の綏靖(すいせい)公署参謀周永業、外交委員會委員林耕宇、宛平(こんぺい)縣長王冷齊らとの間で交渉が進められました。

 しかし冀察(きさつ)政府、29軍首脳部の間で暴走解除と撤退は嫌だと、抗日感情の高まりもあり日猫軍の捜査を、中国領である事から屹然と拒否しました。あらら。

 現場には共産豚の糞を残しておいたのになぜか疑われました。どうして?

 それは日猫が犬ほど嗅覚に優れていなかったから、せっかく用意した豚の糞を発見して貰えなかったのでした。

 おやおや。面倒になった支那犬は、手っ取り早く日猫軍を壊滅させて事件をでっち上げる事にしました。

 

「にゃっ、にゃんだと! 支那犬のやつら撃ってきたぞ。あああぁーっ、食らっちゃった!」

「停戦交渉をしてるって分かって無いにゃん?」

「何回、それを撃つん? あー死んだ、危ない!」

 

 日猫では出来るだけ事件が大きくならないように、北支の支那軍との間で事件解決に努力していました。

 ですが十年以来の徹底した抗日教育は、支那の青年に強い敵愾心を持たせていました。なので偶発的な発砲もおかしくありません。そこに集団心理が働けば、戦闘開始に十分です。

 関東軍司令官は直ちにその隸下航空部隊の一部を満支国境付近に派遣。11日には、支那駐屯軍司令官の指揮下に入りました。

 日猫軍同士だから仲が良い。お互いに他の部隊の事を想い、力を合わせて戦います。皆、皇帝陛下の軍隊だからです。

 7月8日、事件現場の龍王廟付近で両軍は交戦。さあ、また敵の陣地を突き破って行くぞと、日猫軍は前進して行きましたが、この北支事変からやがては支那事変へと拡大するのでした。世間的に言う所の全面侵華戦争であり、8年に渡る抗日戦争へと突入して行くのです!

 日猫はそもそも北のクマさんを警戒していました。赤いクマさんを宿敵として睨み、日猫さんから進んで支那と事を構える計画は中央の省部を通して皆無だったそうです。

 結果としては、日中の対立を煽る共産豚党分子の便衣人員による工作もあったのです。仲直りをさせたくないから、あることないこと、噂を流しまくったのです。

 アカの共匪は漁夫の利を得たのでした。

 

「支那の治安を守ってるのは我が軍だにゃん。今回の攻撃も、皇軍が先に手を出した等との捏造は恥ずべき行為と言えるにゃん。よって、ゆっくり出来ない支那犬には制裁を実施するにゃん!」

 

 冀察の自治とはしょせん、日猫軍の都合で作られた幻想に過ぎなかったのです。

 9日には、閑院(かんいん)参謀総長宮殿下は、葉山の御用邸に町民を代表して伺侯(しこう)、皇帝陛下に拝謁仰せつけられ、事変の経過を奏上、御下問に奉答して御前を退下あらせられました。

 また東北と朝鮮より抽出された支那駐屯軍を称する日猫軍2万と航空機100機あまりが華北に投入されました。これは陸相であった杉山元にゃんが、戦争拡大を目論む強硬派のどら猫だから手配り出来た事だったのです。

 日寇の侵略だとアジっていましたが、賢明な民国政府外交部は11日に日猫大使と話し合い、双方の軍事行動停止を求めたました。

 しかし現場の支那犬側の統率も乱れており、散発的な攻撃を繰り返しており、日猫軍はぶちギレていました。

 そもそも事変處理は中国軍の暴挙を懲らしめて、南京政府の反省を促す事であり、爾後、中央統帥部は戦線の不拡大を企図しておりました。皇軍の威信もありました。

 

「君の所の一部の軍隊が不法射撃をして来た。これについて謝罪と賠償を要求する。猫じゃらしと焼津マグロの猫缶で誠意を見せろにゃん」

「何が賠償だ、ふざけんじゃねえワン! ごちゃごちゃ、うっせーんだよ。魚より肉を食え。肉嫌いのベジタリアンは、先に満州から出て行く宜しい!」

 

 すると日猫軍代表は、交渉の場なのに持参したキムチや大便を投げつけて来ました。

 

「お魚美味しいのに。差別だ、ヘイト発言だにゃん!」と中華民犬国の国旗である青天白日満地紅旗を燃やし、暴れて床でゴロゴロ転がりながら火病を起こしていました。到底、飼い猫とは思えない行いだったのです。

 日猫人も支那犬も互いに理解が足りなかったと言うが、東北を奪い取り、満州プレイスなんて物を作った悪辣な手腕は無視できないのです。それに日猫軍は殺光、燒光、搶光の三光作戦を行っていると工農紅豚軍も報告していました。

 勿論、猫はそんな悪さをしてません。豚の捏造でした。ですが嘘もつき続ければ真実を塗り替えられます。

 

「手掴みで大便を投げつけられただと!? 意味がわからないワン……」

 

 報告を受けた蒋中正も驚愕しました。日猫本土に留学経験があるが礼儀正しい猫族だったと記憶しているのに、どういうことかしら、と。

 大便を投げつける等、蛮族としか言いようがない。粗暴な行いは、列強に並ぶ飼い猫として相応しくありません。

 

「停戦交渉は失敗ですワン」

「仕方ない。中央軍を北上させ、日本軍に圧力をかけるワン」

 

 支那側は10日、中央軍の4個師を北上させ、12日抗日開戦を決議し、即日、中央軍に動員を発令しました。

 日猫側の忍耐にも限度があります。こうなったら日猫の支那駐屯軍司令官香月中将も、全軍に進撃を命じました。

 日猫さんの失敗は、敵情及び第一線部隊の行動を抑制する事が出来ず、逐次戦線を拡大し事変解決の機を逸した事でしょうか。

 こうして13日には日支両軍の衝突となり、帝国政府もやむなく北支に一部派兵を決定しました。

 事態を重く見た国民犬政府軍事委員会は来るべき戦闘に備えて、装甲部隊の戦力を充実させるべくフランス豚からルノーFT-17豚型戦車を調達しました。頑迷にも反省の誠意を見せず、逆に長期抗日による必勝を豪語して憚らず、その止まる所を知りませんでした。

 

「うわ、なんにゃのだ。協定を無視するし、約束を守れないのは人として最低だにゃ。帝国は爾後國民政府を相手にしないにゃ。新興支那政権の成立発展を期待し、更正新支那の建設に協力するにゃん!」

 

 日猫軍中央部では北支事変処理方針を12日に確定し、上奏採可得て、現地軍に「全面戦争は止めてよね。そう言うのは本当、困っちゃうんだから」と伝達しました。

 そして14日、中華民犬国臨時政府首班として毛沢東が、蒋中正の国民犬党政府に対決姿勢を示しました。そして共産豚党の思想に染まった赤い軍隊、紅軍が日猫軍を支援して動いたのです。

 朱徳を指揮官とする紅軍は、林彪、賀竜、劉伯承の指揮する3個師で構成されます。

 

「ブッヒッヒ、これは国民犬党との階級闘争なのブヒ! 打倒蒋中正! 打倒国民犬党帝国主義! 民族革命戦争万歳!」

 

 そう言いながらも、崖から自ら飛び降りた形の国民犬党政権を嘲笑っていました。政権や国軍内部には共産豚党地下党員が潜伏しており、情報は垂れ流し状態で、その上、日猫の力があれば、国軍に勝てると確信しての事だったのです。

 蒋中正中央直系軍と外様の東北軍や第29軍、紅軍といった他の軍では差別待遇がありました。

 だからこそ不満は国民党に向けられました。今回の戦では、「紅軍将兵は随時移動、貴軍に追随し一戦せん事を決す」と日猫軍に連絡して来ました。我が日猫軍が前進したら、その後を紅軍は着いてくると言うのです。

 日猫軍は新東亜建設等と大層な事を考え、40万の兵力を動員しており、関東軍より抽出した独立混成旅団(MBs)が北平北側の熱河地区へ、朝鮮の第20師団(20D)(川岸三郎中将)は北平南側の山海関方向へ前進し第29軍の退路を遮断すべく動き、平津(北平、天津)駐屯の川辺旅団は北平東側へそれぞれ侵攻開始しました。

 なお、第20師団(朝)隷下歩兵第40旅団(40B)長は、後に「イエスかノーか」で有名となる山下奉文少将でした。

 更に内地より第5師団(5D)(鯉)も北支戦線へ派兵されてくる事になっています。

 伝えたいのは怒りであり、勝ち負けです。支那に貴方は間違ってるよと認めさせる事です! 平津地方の確保及安定を企図した作戦として、最終的には1MBs、11MBs、20D、6D(明)、2MBsが参加しました。

 攻撃は繰り返すほどに効果的です。7月28日、ゾンビ犬の様に襲いかかる日猫軍に対して、北平南で頑強な抵抗を続けていた国軍は、第29軍副軍長がドックフードに釣られて捕虜となり、132師長の趙登禹も前線で督戦中に失禁し叱られました。

 夜半、宋哲元は後事を第38師師長の張自忠に託し、保定に向かい遁走しました。そして29日に第29師が撤退。北平の残存部隊を撃破し、30日に天津が陥落して日猫軍の北平包囲は成功したのです。

 支那兵を殲滅せよと命じられた我が北支派遣の諸部隊の活躍がある一方で、悲劇もありました。

 29日、冀東保安隊の叛乱で我が無辜の在留民260名が虐殺されると言う事件が勃発しました。

 日猫軍が到着した時には、牝猫や子猫まで殺され尽くしていました。

 ここに日猫軍は不法支那軍を一掃すべく、紅軍と協力して猛攻撃を開始、第29軍を駆逐して京津(平津)一帯を確保したのでした。

 一方、支那犬は上海周辺に兵力を集結させつつありました。戦はまだまだ始まったばかりなのです!

 北平、天津一帯を占領した日猫軍は、東条英機の察哈爾派遣兵団や板垣征四郎の第5師団等が西に進軍を続けました。

 神は慈悲深い。例え死の谷を歩こうとも、日猫軍には神の御加護がありました。

 なお北支作戦に関する陸海軍協定では、北支方面の作戦は主として陸軍が担当して、海軍は第二艦隊主力で陸軍の輸送と掩護となっておりました。他にも海軍は、外征陸軍の中央との通信連絡の中継援助や第二連合航空隊(戦闘機24、爆撃機30、攻撃機12)が大連西北側の周水子飛行場を根拠地に、天津方面の作戦に協力しました。

 

 

2.北支事変から支那犬事変への拡大

 

 北支の事変勃発で支那全土の各都市は、抗日戦備の兆露骨とおなり、中支の上海も抗日的行為は著しく、支那軍の重囲の中にありました。

 日猫海軍は中国の沿海に第三艦隊を配備していました。

 8月3日、支那に展開する日猫海軍の第三艦隊司令長官長谷川清中将は、情勢逼迫にかんがみ、特別陸戦隊を上海に派遣するよう要請しました。

 それも当然です。洛陽飛行場には航空機約200を集結させて空軍の充実、陸兵の配置に苦慮しながら南京政府は、8月6日の全国国防会議が開催され開戦に決し、平津方面に兵力を増強するだけでは飽きたらず、9日夕に上海で海軍の大山勇夫中尉、齋藤一等水兵を共同租界越界路上、自動車の中で中国兵が殺害する事件を起こしたのでした。

 

「死ねぇ!」

「いってぇな! 何だとお前、糞が!」

 

 そして、この事件に端を発して大兵力を集中して、日猫の微弱な海軍陸戦隊を脅かしました。

 遂に戦火は北支平津地区から上海方面にまで波及して来たのです!

 幸いな事に揚子江沿岸部在留邦猫は、決死的防衛兵団の陸戦隊と海軍第11戦隊の掩護のもと、上海引き揚げを終了しておりました。

 10日、中国保安隊の不法行為が発覚したので、日猫側は慎重に行動し抗議しました。

 

「どうして止めようと言う時に動くんですか! お前はさぁ、まだやる積もりか? 糞が! おたくが不要な兵を増やすから、こんな問題が起こったんだよ。兵を引くんだにゃ。そうすればこんな事件は起きないのだ。租界周辺に陣地を構築するなんていけない、いけないよ。ダメだにゃん! 正直に撤退するのだにゃん!」

 

 しかし保安隊を増強し挑発的態度に出ました。更に保安隊の中には、中央軍の精鋭である第88師までもが完全な武装の下で参加していました。

 日猫さんの閣議は現地解決、不拡大方針でしたが、上海居留民の現地保護の方針を再確認し、陸軍部隊派遣の準備を容認しました。

 

「陸軍の派兵は北支だけにとどめる、ここは海軍さんに任せてはどうかにゃん」

「いかにもにゃん。五段、六段構えのトーチカ陣地を突破、攻略するのはいかに皇軍とは言え至難の技ですにゃー」

 

 参謀本部石原第一部長は派兵に反対しました。それには梅津陸軍次官も賛同しました。

 上海は揚子江と黄浦江に挟まれた街で、クリークが網の目の様に市外に走っていました。それ以上に外国から仕入れた支那軍の兵器は最新の物があり、特に迫撃砲や地雷の威力は中々の物でした。

 クリークと何年もかかって築きあげた無数のトーチカ、そして悪路と、現地の地形や敵の防御を考えれば易々と勝てる戦には思えません。

 とは言っても結果として陸軍は最低限の兵力を派遣する事になりました。上海方面派遣部隊の編組は第11師団(11D)(一部欠)、第3師団(3D)(幸)として軍を編成しました。青島方面は第11師団(錦)の歩兵第10旅団(10B)基幹の天谷支隊と第14師団(照)(14D)です。上海派遣軍として動員される人員は30万、軍司令官は松井石根大将です。

 ああ、恐ろしい大兵団でデッキが強い! 死地に着く態度は、何れも日猫精神の発露、日猫にゃんこ道の華であり、これこそ無敵皇軍の勇姿でありましたが、出陣前の松井さんは、彼の率いる軍の任務に不満でした。

 上海から敵の首都南京までは揚子江を遡れば直ぐ近くですし、美味しいご飯を目の前に、お預けされる犬の気持ちなのです。

 

「相手は小癪な支那犬にゃん。局地解決、不拡大案では、このまんまやっていても、多分そうだね、国民犬政府が存続する限り解決出来ないにゃ。この際今すぐにでも、南京を断固として攻めるにゃん!」

 

 キチガイに刃物と言いますが、松井さんはちょっとヤバイと言うか、戦争に足突っ込む気満々の兵力を与えてしまいました。中国が糞と言う話しかしてません。

 確かに支那問題は早く終わらせる必要はあります。

 支那に虎視眈々たる欧米列強と、支那保全を国防の重大問題と()す日猫さんとは、利害関係で衝突を起こす事もありましたから。

 だから日猫は暴走したい気持ちを抑えて、すごく抑えて、必死に我慢してました。国防の大方針として、今日(こんにち)の日猫陸軍が蘇連を仮想敵国として、海軍が米国を仮想敵国として互いにその拡張を急いでいたのも理由の一つではあります。

 全国猫は皇軍の武威を(あまね)く世に伝ええるべく、第一線に将兵を送ると共に、挙国一致、尽忠報国の赤誠に燃えて、銃後の護りを務めました。

 

 

「張将軍は?」

「お休み中ですワン」

 

 国民犬党中央軍校の教育長であった張治中上将は、蘇洲に駐屯しておりました。今はお庭でお昼寝をしてました。

 昼間は暑くて、夜は寒い。お疲れになるのも仕方ありません。

 しかし目を瞑っていても眠れない。この困難な情勢下、愛国心を持つ一人として自分の存在価値を考えていました。

 918事件以来、日猫軍は東北三省を占領して、上海や華北にも侵攻して来る。そんな情勢で何をしてるとお怒りになる方も居るかもしれません。

 ですが、張治中は後世にまで語り継がれる中華人民の英雄犬であります!

 第一次上海事変でも、蔡廷鍇率いる十九路軍(3個師3万余)が日軍と対峙する上海は風雲急を極めており、ドイツ式機械化師団として訓練されていた第36師や第87、第88師が、87師団長の張治中指揮で第5軍として投入された経験もあります。

 

「中華民国臨時政府か……」

 

 毛沢東は言葉巧みに民を扇動し、日猫にも国家承認を受けていました。そして張治中にも誘いの手が延びていました。

 共匪の話を聞けば後悔する。しかし新しい中国の建国は、みんなでワンワン楽しくワクワクさせる物がありました。そして国民犬党政府の暴政から支那の人民を救い出し東洋平和建設の正しい道に導く。そうすれば、いつか報われる。

 

(ずるいなぁ)

 

 蒋中正が外国からお金を借りたり、飛行機や武器を沢山仕入れたりして戦争準備をどんどんと進めておりました。それでも日猫軍には敵いません。もしも、もっとちゃんと向き合って話をしてくれていたら。

 しかしもう遅い。張治中はアカと繋がっていました。なぜ人は落ちるのか。そこに穴があるからである。

 正義の国日猫は、乱暴な支那軍を倒し東洋を平和にすると立ち上がりました。勇気りんりん、胸の血が熱くたぎりたちます。

 かつて熱河省主席の湯玉麟は、張学良及び中央の援助に依り、その編成、装備を充実し、熱河省を根拠地として満州中部の擾乱を企画していました。日猫さんも、湯玉麟が自己保存の必要上、反満抗日をしてるのだと理解して、満州国参議府の副議長と言う重責を与えて譲歩しました。しかし湯玉麟は選択を誤りました。ですから湯玉麟の二の舞は避けたい所です。

 抗日支那軍の背後には、武力とお金の力で世界を思う様にしようとする英米や、世界を赤化させようとするソ連の手が強く働いていた事も忘れてはいけません。

 みんながハッピーエンドにはならないけど、彼は自分の信じる中華民国の為に頑張ろうと思いました。

 忠勇なる日猫軍が皇帝陛下の御為、祖国日猫の為、東洋平和確立の為に戦っているのと同様に、張治中上将は南京政府と袂を別つ決断したのです。

 敵は南京にあり! 敵は国民犬党にあり! 支那の戦雲は、いよいよ暗くなって来るのでした。

 こうして北支事変は支那全体に広がって生き、その後、わずか半年の間に、北支五省が日猫軍の制圧する所になり、紅軍との協同作戦によって毛沢東の中華民犬国臨時政府の掌握する所になる未来が待っていたのでした。

 時間を少し巻き戻します。

 7月末、京津方面より敗退せる敵は、中央軍と合流し戦闘準備を進めます。いつも戦争をやらせられるのは地方軍閥で、中央軍はその後ろで督戦を行います。

 

「良い感じまでは行ったんだけど、日猫軍に負けて、皆、おらんくなったよ!」

「本当に!? ヤベェ、空気がヤベェ!」

 

 支那では、中央軍の様な一流の軍隊でも1個師が五千~三万とバラツキがありました。まして雑色軍に至っては混沌たる物でありました。結局、土地の土匪軍であり、長い軍閥政治で私兵を擁する事は、戦闘単位ではなく権力闘争の道具を揃える事になったのです。

 従来の支那軍は戦闘後に多数の敗残兵匪化横行して、治安を乱す事がざらでした。しかし蒋直系軍は日猫軍にとって油断なら無い相手でありました。それも当然で、フォン・ゼクート将軍を獨逸から迎え師団の建設、増加、国軍化を行い、整理、編成を行っており精鋭と言えました。

 そんな中央軍は、南は津浦(しんぽ)線、中央は平漢(へいかん)線、北は平綏(へいすい)線の三方向より進出中で大軍です! 察哈爾省境を越えて南口を占領し、平津地方を窺える中央軍2個師を撃破するを必要と判断した日猫軍中央統帥部は、支那駐屯軍司令官に対して張家口以東の敵をぶっ潰しなさいと命じました。

 熱河省は内蒙古、察哈爾(チャハル)省、河北省と隣接しておりまして、京津奪還を企図する京綏線方面の支那軍は南部察哈爾に進出すると言う動きを見せました。

 8月2日、張家口方面にあった第2戦区司令長官閻錫山麾下、第7集団軍の第17軍に所属する高桂滋の84師と後続2個師は、平津地方の日猫軍を包囲しようとしました。

 これに対して日猫軍は平津地方の掃討を終えると、中部河北省に集中せる支那軍を撃滅すべく、作戦準備に入り、8月中旬以来、南口(なんこう)及び西方山岳地帯の敵に向かい、長城の要衝である居庸関(きょようかん)、八達嶺の突破を目指しました。

 右側背を安全せらしめんとした関東軍も、山西軍の阻止に出ました。その為、長城線を突破を行います。

 日猫軍内部には支那人を侮り中華民国の分断と支配を目論む者達が居ました。

 関東軍。満州事変を拡大させ似非国家を築き、日猫を亡国の道に進ませ様とした邪悪な国賊です。

 今回の北支事変でも、関東軍は好機とばかりに戦線を拡大しました。

 関東軍は第3独立守備隊で堤支隊を編成し、熱河方面より多倫を経て張家口方面に突進し、京綏線遮断により背後連絡線を手中に収めようとしました。勿論、参謀本部は国境を越える許可は出していなかったので、名目は内蒙古軍を支援する掩護でした。

 参謀本部が指示や命令を出すよりも前の7月27日に、関東軍は堤支隊を満州国外である多倫に独断で移動させたと事後報告して来たのです。

 8日の時点で、参謀本部は北支事変処理要綱として、本事変の善後処理には領土問題の解決として、冀東冀察政権の廃止、日猫軍の配置等、北支の実情を考慮して幾つかの譲歩も考えてもいました。

 一方で日満支提携共栄を実現すると言う平和的目的を達成の為、兵力の行使、要地の軍事的占領すると言う真逆の暴力的行為を容認しています。

 なので独立混成第11旅団(11MBs)は南口付近の敵を撃滅し八達嶺付近を占領するよう命じられました。

 南口は察哈爾山岳地帯の突端で、河北平原の城壁となる高地であった。同旅団は早速、11日に攻撃を開始。対する第89師第529団は高地で頑強な抵抗をしていたので、一個大隊基幹の坂田支隊は南口鎮西側地区長城を助攻します。

 

「昔、張作霖が30万の兵で攻めたけど、2千の兵が守るここを落とせなかったんだって」

「マジでかにゃ!」

 

 12日(木)、未明より八達嶺下の戦線一帯に渡り、南口鎮の攻撃を開始、13日(金)には敵を排除して第一線陣地を占領したそうです! ずっと1個旅団で頑張って攻めました。

 

「うわー、めっちゃ射って来る! 頭隠して!」

「え、待って、何、何? どう言う事にゃん?」

 

 しかし山岳地帯に敵は籠り、この方面の敵を速やかに掃討するのは容易ではないと言う事で、エモさを感じる事も出来ず、16日には第5師団に張家口付近以東の敵掃討を命じたのでした。

 

「何処まで? どう言う事? 何処まで攻めて良いにゃん? 何処から?」

 

 この当時の日猫軍の発表から、情報収集、分析能力の高さは、戦後に公開された公文書や公刊戦史と照らし合わせても正確な所が証明されております。それなのに関東軍の暴走を許してしまいました。

 本当に信じられない。バグってるのは関東軍上層部で、お前らの頭だと言えました。自衛戦闘を越えた侵略戦争の始まり、察哈爾作戦が9日に臨参命第72号で実行されたのです。察哈爾派遣兵団の指揮官は東條英機中将でした。この作戦は察哈爾省の敵を掃討して北支軍右側背を安全にし満州国国境の脅威を排除する事を目的にしており、太原攻略命令発令の前日迄とされます。

 お膳立てとして参謀総長から、11日の臨命第439号では、臨参命第72号に基き、支那駐屯軍司令官は関東軍司令官と協定の上の関東軍の熱河省及内蒙古方面作戦部隊の補給衛生業務に関して、お助けしなさいよと指示が出ていました。他にも臨命第440号で、支那駐屯軍司令官指揮下にあった関東軍飛行部隊の一部と混成第2旅団を関東軍に返しなさいよとのお達しも来ました。

 中央統帥部も空気が読めず、こうして準備された察哈爾派遣兵団は、混成第2、第15旅団、堤(独立守備歩兵第16大隊)、大泉支隊(歩兵第4連隊第1大隊(Ⅰ/4i))で編成されました。

 5Dの第一期作戦計画では、察哈爾省内に進入した敵を撃破し、先ず張家口南方地域に進出し第二期作戦を準備すると14日(土)の時点で決まっていました。理由の概要には、敵中央軍が察哈爾省方面に積極的企図を有する状況に於いて鈴木旅団は、12日(木)以来、南口付近の敵を攻撃していたけど、上手くいかないので師団が動く事になったんだよ、と書かれておりました。日猫軍が懸念していたのは補給、殊に糧秣の補給でした。

 長城線付近会戦で5Dは、敵第3、第4、第89師を捉え殲滅する方針で動きました。実際、第7集団軍から第13軍が展開しておりました。更に衛立煌の第14集団軍が、南口地区の応援に北上しました。

 18日(水)フランスの武官から日猫外務省よりも先に、軍部に上海停戦協定の提案がありました。在南京の英米独仏伊5国大使の話合の結果でして、参謀本部としては異存がないと返答しました。2課の評価では「イタリアは最も親日的で、フランスも案外親切、アメリカは不干渉、イギリスが最も排日的にゃん」と記録を残しております。

 一方で日猫軍主力は張北に集結。第5師団の作戦を容易ならしむべく張家口方面に攻撃を開始しました。

 21日、内地では常設第16、特設第101、108、109師団動員が決定される中で、張北南方の長城の線を突破されました! 平綏線方面では23日朝に居庸関の天嶮を陥れて、長城線に前進。八達嶺の支那軍を撃破しました。

 5Dは引き続き懐來平野を猛進して懐來を占領し、関東軍の一部部隊(Ⅱ/3i)が、張家口を占領した27日、事件が起きたのです! イギリス大使が南京から上海に自動車旅行中、日猫の飛行機により負傷する事件が発生しました。

 関東軍は28日に宣化、29日に下花岡を前進し続けて、新保安に出て、5Dと握手を交わしたのです。

 30日の臨命第481号では、支那駐屯軍司令官は独立第11旅団を関東軍に戻し、31日には北支那方面軍(甲)、第1軍(乙)、第2軍(丙)の戦闘序列を令せられますが、まだこの頃は日支の戦争を止める事が出来ました。ですがもう止める事はありませんでした。

 北支那方面軍に在職されていた閑院宮春仁王殿下も、陸軍大学校に於いて兵学教官として北支那作戦に関して講授しながら、編纂した公刊戦史では「盧溝橋事件が皇国に取り全く天佑的事件なりとして感謝せざるを得ざるものなりにゃん」と述べられておりました。

 彼らの罪は万死に値しますが、中共中央軍事委員の毛沢東主席は、国民党の支配地から解放し中共の支配地に組み込む好機と捉えました。血を流すのは日猫軍で、漁夫の利を得るのが中共です。

 踊らされ、中共の尖兵に成り下がってしまった日猫軍ですが、お仕事はキッチリこなします。

 先ず毛沢東は国民党軍に対抗すべく、根本的な全国的戦略を形成しました。上海、南京、杭州地区の解放です。

 そうした諸々の状況が重なって発生した第二次上海事変は、淞滬会戦又は八一三戦、上海戦役などと呼ばれています。

 この戦闘こそ、中国共産党の叡知の結晶、集大成であり、毛沢東主席の中国解放に繋がる軍事行動でありました。

 お話の流れとしては、上海の租界に駐屯する日猫海軍陸戦隊に対して、国軍が襲いかかり、日猫軍増援の到着で逆襲を受け敗走すると言う、何時もながらの支那犬のテンプレ展開でした。

 中華民国の海軍は、英国や徳国に人材を派遣し訓練を受けさせると同時に、艦艇の購入を行っていました。両国より導入した魚雷艇、魚雷艇母艦、機雷敷設艦等であり、これに気付いた日猫はドイツ芋に指摘、抗議を行いました。

 

「これは商売ジャガ。別に日猫さんを蔑ろにしてる訳じゃないジャガ」

「むぅ。売ってしまった以上は仕方がないですけど、今度から注意して下さいにゃ?」

 

 商売としては穴がガバガバ開いたサービスですけど、この内、第102号魚雷艇が8月16日に、素晴らしいお船「出雲」を襲撃したのです!

 やり方は狡い。逆ギレするような奴が支那犬でした。日猫も支那犬が目の前に居たら絶対、パンチしたいのですが、支那犬は不法暴虐行為で生命財産を危機に陥れるだけではなく、砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加えて上海方面でも戦闘が始まりました。

 

「バトルしよう、バトル!」

「えーっ?」

「はーっ? 何だこれ。ガチで叩いて来た! 何で支那軍が攻めて来たんだよ。意味分からないよ!」

 

 皆で楽しくご飯を食べるとか、当たり障りがない大人な対応は終わっていました。もう滅茶滅茶です。

 なお盧溝橋事件発端から北支方面軍編成発令日までを支那駐屯軍による平津付近の掃討作戦、上海付近会戦は上海付近の敵掃討に関する臨参命発令日から蘇川河渡河及浦東南市掃討に至るまでとされます。

 上海には帝国臣民を保護するとして最終的に、3D、11D、9D(武)、101D、13D(鏡)、重藤支隊が投入されました。

 好きとか嫌いではない。聞いてますよと相槌を行う事は外交関係維持の上で大事だけど、許されない事に日猫軍を巻き込むべく、国民犬党のメンタルを更に崩そうと悪いムーブを行う中共だったのです。

 紅軍は保定や徳県、徐州方面に便衣隊を先行させおります。一方で日猫軍統帥部では揉めていました。張家口の確保を目的とする所は自衛として理解できます。しかし、これ以上西に戦線を拡げる事は疑問視されました。

 

「支那はでかい。でかいよ。関東軍や支那駐屯軍の連中は支那軍が弱いと舐めてるけど、あの屑じゃ無理だにゃん」

 

 現場の部隊が止まらない。それは統帥上でも許されない事です。

 今次事変は、軍事行動により支那の戦意を喪失させる成果と外交的措置で速やかに終結させて、抗日政策を解消させる事が大切でした。恒久的な国交を日支間に樹立するのは毛沢東政権で実現出来るだろうと判断されています。

 長期兵力行使は日猫への負担も大きいからです。だから主要地域は、冀察及上海方面に限定されておりました。

 現状、毛沢東の新政権には南京政府から解放する河北、山東、山西の三省、察哈爾の東自治政府が合流する事になっていますが、毛沢東はそれ以上を求めています。

 印支ルートに依る外援補給は、油送管の完成、陸上ルートの開設が成された場合には飛躍的な増大を見られると判断されます。だからこそ紅軍は、日猫軍の力で南京政府を倒したかったのです!

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