「君はそれで良いのかい」
彼は、真剣で誠実な表情でそう言って、僕に触れる。僕も彼に触れる。彼の手は冷たくて、まるで冬の冷えたガラス窓かのようだった。温かさを僕に求めているとも思えた。
「ああ、勿論。だからここに来た」
彼は、僕がそういう返事をするのが分かっていたらしい。当然だと言いたげな表情でゆっくりと頷く。僕も頷く。彼には僕の全てが見えているらしかった。見透かされているのか。
「それでこそ君だよ。まあ、分かってはいたんだけどね」
「知ってる。もう顔に出てるから」
彼はにやりと笑う。僕もにやりと笑った。僕らは動きが一緒だ。僕が彼についていく。それは破ってはいけない約束だった。
どんどん骨格が上がっていく。目もだんだんと細くなっていく。見透かされている。僕を試しているみたいだ。
「さあ……もうそろそろかな」
感情が高ぶっているのが、僕にひしひしと伝わってきた。僕もつられて胸の鼓動が大きくなっていく。
「そろそろだな」
この時を待ちわびていたんだ、僕は。
辺りが夕焼け色に変化していき、木々や花畑は朱色に色付いていく。まるでこの世界が、夕焼け色の静かな海に飲み込まれてしまったのかと、一瞬僕は思った。その様子を見て、僕は少し彼を不思議に思った。
「君はこれで良いのか」
今度は僕の口からこの言葉がこぼれ落ちた。僕は不安だった。こんな簡単に行くものなのか、彼は大丈夫なのか、と。
「良いに決まっているよ。当たり前じゃないか、そんなに不安なんだね」
不安だ、と言いたかったけれど、言ったら目的が達成されないじゃないか。思っても良くないと言うのに。
「不安じゃない。僕は正直楽しかった。この時間が」
わざと過去形にする。もうすぐ、この世界は消えてしまうから。
「そうだね」
彼がそう言った瞬間に、ガスが爆発するような破裂音が聞こえてきて、この世界が光り輝いた。ほんの一瞬の出来事だった。目が眩んで、その後に、何かが割れるような音が聞こえた。彼の姿はもう無くて、辺り一面にガラスの破片が散らばっている。何かが割れるような音の正体はこれだったのか。僕は、そのガラスの破片をそっとつまみ、まじまじと見いる。まだ実感は無い。特に何も変わっていない。でも、全てが逆転したのだ。彼は本当の人だった。この世界の真実の一つだった。
でも今は違う。この僕が真実になったのだ。もう彼を追いかける事も無いはずだ。逆さまを映し出すだけの昔の僕とは違う。彼の代わりとしてだけど、真実の中で生きていられる。
さて、何をしよう。
校門前には、大きな人だかりができていた。勿論生徒もいたが、野次馬たちもちらほら見える。大人が、退くように声を掛けているのに、それに従う人は少ない。皆、興奮したり、叫び声をあげたり。人生に一回位は現場を見ておこうとする人もいる。辺りには、ざわめきが波の様に広がっていっている。どうしようも無いこの状況に、戸惑わない人はいなかった。
赤い光を放ちながらこちらへ向かってくるパトカー。勿論救急車も、学校に向かっているらしい。それほど危なく、大変な事が起きたのだ。現場は少し血生臭くなっていき、まるで暖かい血の霧が降りかかってくるかのようだ。その臭いにやられたのか、人々は少しずつ散り散りになっていく。それでも、僕は彼の事を見守り続けていた。死んではいない。いや、死んだとしても、魂が入ればもう一度生き返るはずだ。僕はもうこの世の人間ではないが、留まれる少しの間だけ、この残酷な世界を、運命を、傍観していたい。
そこは、白を貴重とした部屋だった。質素で、暖かみの無い、単純な部屋。窓から注す光は弱々しく、この部屋に似合っている。僕はそんな部屋にいた。理由はなんとなくだが予想がつく。僕は一度死んだのだから。
ここは病院の一室だ。
彼が死んだから、僕はここにいるんだ。彼が居なくなってしまった体だから、僕が今、彼の役目をしているんだ。そうしなければ、僕は居ない存在だったのだから。
よく分からない点滴を打たれている僕の体は、何だか頼り無さげだ。酸素マスクもしっかり付けられている。雪の頃の空の様に真っ白で、でも黒い肌色。生きている人の体とはあまり思えない。彼は病弱だった。よく風邪を引いていた。毎年冬に、学年でインフルエンザを貰って寝込んだり、一ヶ月に三日位は休んでいた。それがお決まりだった様で、彼はそれを気にも止めていなかったし、僕も見ているうちに慣れてしまったわけだ。そのせいで、あまり外でも遊べなく、こんな痩せ細り、骨が少し目立つ様な体になってしまったのだ。仮にも自分の体だから、少しでも丈夫にしてみたいが、今はまだ安静にしておくことにした。
僕は、目が覚めた事を知らせるためにナースコールを鳴らし、体を元の位置に戻した。僕はもう少し、彼の様に振る舞いたいと思う。言動も、行動も、彼の事は分かりきっている筈なので、きっと苦労はしないだろう。
しばらく固まっていると、看護師が室内に入ってきた。慌てた様子で、その後ろには医者らしき人がいる。周りに人が居ないのだろう、大声でこちらに駆け寄ってきた。
「奇跡だ……奇跡が起きた!」
「大丈夫ですか!?」
僕は目で合図した。まばたきをして、眼球を動かしたのだ。こうすれば意識があることは分かるだろう。きっと彼ならこうするだろろ。
看護師は僕の左側の方に来て、手を取り脈拍か何かを図っているらしかった。看護師の手は冷たくて気持ちがよかった。その看護師の隣に、薬やら何やらが入っているカートが設置され、何やら医者と話し合っていた。聞き取れなかったが、僕の体の事だとは分かる。
僕は、目を閉じた。
君は、君を拒絶しているんだね。君は、君でいることを恐れているんだ。君は、僕にとらわれすぎている。僕から抜け出せなくなってしまっている。改めて、自分が縛り上げているのだと実感した。
言い方は悪いけれど、まるで飼い主に服従する奴隷のようだ。僕は飼い主。君は、奴隷。
こんな可哀想で、悲しい君に僕を託したい。
矛盾する連鎖を。哀しみの連鎖を。僕らを離さない鎖を。
永遠に終わらない、苦しみを。君に、解いてほしい。
だから僕は、君を見ているよ。君が消えてしまうまで。ずっと。
どこかで小鳥がゆっくりと鳴いた。