ヤバっ! 寝落ちしていたか。
慌てて目線を上げれば、目の前のストーブの炎は完全に消えている。
大事にならなくて良かった。
思わず胸を撫で下ろすと、再び火を入れ、水の入ったやかんを置いた。
フロア内は、昨夜とうって変わって静かだった。
私物のバックからラジオを取り出して電源をいれたが、やはりノイズを流すだけで役に立たない。
唯一まともに動いている液晶の時計をみれば、あと二十分ほどで夜が明ける時間だった。
ラジオを傍らに置いて炎を見つめながら、思いの外、自分の心が静かなことに気付いた。
もちろん偏食因子の件は、心に暗く重くのし掛かってはいるものの、どうにかその現実を受け入れている私がいた。
寝起きで頭が働いていないのか、少し眠れたおかげで心に余裕ができたのか。
……睡眠って大事だなー。
大きく伸びをして立ち上がった。
さて、子どもたちが起きる前に家事をこなそう。
ベースを脱出して五日目の朝は、こんな感じで始まった。
心配したクロエも含め、子どもたちの体調は良好だった。
本日の朝食は、ビスケットとチーズのペースト、フリーズドライのクリームヨーグルト、オレンジ風味のホットドリンクである。
味が変わっただけで、内容自体は昨日の朝食と変わらない。
残り一食分の缶詰は、今日の夕飯になる予定だが、その時私たちはどんな状態になっていることやら。
元気な挨拶とともに、子どもたちが朝食を食べている間、私は外の様子を見に玄関前へ向かった。
装甲壁の大扉を開けようとしたが、何故か開かない。
足を踏ん張り体に体重を乗せて押し開けると、風は強く周囲は何故か暗かった。
疑問に思ったのは一瞬、北の空を見て絶句した。
何だありゃ。
北の空は塗りつぶしたかのように真っ黒だった。
太陽が昇っているはずの東の空も、雲と灰域で光が遮られている。
まさかあれ、灰嵐なのか? やけにでかくないか?
「ねえ、風が強いから扉閉めて……何だあれ」
やって来たアルビンも、外の光景を見るなり言葉をなくす。
私たちの異常に気付いた子どもたちが次々とやって来て、外を見るなり驚きと不安の声をあげた。
「あれ、灰嵐だよね」
「ペニーウォートの時よりもでけえぞ」
「真っ黒ー」
北の空ばかりに目が向くが、今日から進む予定の南の空は灰域と雲の流れは早いものの、いつもの空が広がっている。
施設内の片付けと旅の準備もあるから、すぐに出発できるわけではない。
後で改めてどうするか判断しよう。
「さ、ご飯食べちゃいな。食べ終わったら今日の予定を伝えるからね」
子どもたちは返事をして元の場所へと戻っていく。
扉を意識してそっと閉めると、私の側にいたダニーが服の裾を掴んだ。
「どうしたの」
「……ベルナーおじさん、すっごくおこってる。なのに、とってもかなしんでるよ」
わずかな火の明かりに照らされたその表情は、悲しげだった。
そもそも子どもは、大人が思う以上に周囲の空気を敏感に感じとっているものだが、ダニーは感応能力が高いこともあって、子どもたちの中でも感受性の高い部類に入る。
灰嵐からネガティブな感情を感じ取り、心を痛めているようだった。
私はダニーの肩を抱いた。
「そうだね。でもそれは、ダニーに対してじゃないよ。ダニーがしょんぼりしていたら、それこそヴェルナーさん、もっと悲しむよ」
「ヨー」
「さ、一緒にご飯を食べよう」
促し、火の元へ戻った。
ダニーは、ヴェルナーさんを慕っていた。
ヴェルナーさんは、週に何回か仕事の合間に居住区に来ては人々と交流をしていて、その交流の中で、幼くしてAGEとなったダニーのことも気にかけてくれていた。
当初は怯えて私の後ろに隠れてばかりだったダニーも、少しずつ打ち解け、彼と話ができるようになっていた。
彼は父親のようなもので、人々もそれを望んでいる、と馴染みの男が言っていた。
私は、父親というものを知らない。
だが、男性のしっかりした肢体からもたらされる、強さと包容力と揺るぎのないリーダーシップに、安心を覚える気持ちは理解できた。
幼いダニーがそれを求めたとしても、何ら不思議ではない。
そして、彼が虐げられたAGEに寄り添い、守ろうとしていた気持ちは間違いなく本物で、それがダニーにも伝わっていたからこそ、彼を慕ったのだと思う。
食事が終えて後片付けをした後、子どもたちを地図の前に呼び寄せた。
「はい。今日の予定を伝える前に、昨日の反省会をしますよ。ダニーから皆に言いたいことがあるそうです。ダニー」
呼ばれて、ダニーは私の前に立った。
不安そうな表情で私を見上げるダニーに、私は頷く。
そして、覚悟を決めた様子でみんなの方を向いた。
「……きのうは、だまって外に出て、しんぱいかけてごめんなさい。もうしません」
ダニーがしょんぼりしつつ言うと、ビャーネが腕を組み眉をつり上げた。
「本当に本当に心配したんだからな。クロエなんて半ベソかいてたんだぞ」
「ちょっと」
「本当のことだろ。もう誰かを泣かせるようなことはすんなよな」
「ヨー」
萎れた表情で頷くダニーに、クロエは笑って頷く。
「私は大丈夫だよ。ダニーこと信じてるもの。もう、黙って危ないことしないでね」
クロエの横に立つアルビンが、ダニーに目線をあわせて口を開いた。
「今後、こういうことがあったら必ず相談してくれ。話は聞くから」
「アンテークシ」
この地の言葉で再び謝るダニーの肩に、私は手を置いた。
「うん。これは大人になってからも大事なことだから伝えておくね。報告、連絡、相談をする習慣を身に付けましょう」
私は腰に手をあて、子どもたちを見回す。
報告は、お願いをされた人が、お願いをした人に、途中経過や結果を必ずお知らせすること。
連絡は、事実や状況を、関係する人にお知らせすること。
相談は、物事を決める際に、他の人に意見や助言を求めること。
そう伝えた。
実はこれ、相談ではなく、確認とするパターンもあるらしいが、それは別のお話だ。
子どもたちは頷いたが、ビャーネが首をかしげた。
「あのさ、一人の時はどうすんの?」
「……覚悟を決めて一人で頑張るしかありませんなあ。でも、そんな状況、そうそうないと思うけどね」
「ま、そうだよな」
私はダニーの肩を優しく叩いた。
「ちゃんと謝れたね。偉い! このことを忘れずに、同じ失敗は繰り返さないようにね」
「ヨー」
「よし。じゃあ今日の予定を伝えるよ!」
ダニーを子どもたちの元へ戻し、努めて明るい声を出した。
「残念ながらラジオが使い物にならず、世間のことは把握できません。ですが、あまりのんびりしていられないのも事実です。なので、あの灰嵐は無視、シカト、知らんぷり。今日はここを出て、この領内の南の端まで進もうと思います」
私は地図を指し示しながら、話を続ける。
「この領内から先の、未踏灰域のことはわかりません。ひとまず、この領内の際が、限界灰域の際と考えています」
「実際はそんなことないよね」
「もちろん。恐らくこの領内から先も、しばらくは灰域が濃い状態は続くでしょう。ただ、進めば進むほど薄くなることは間違いありません」
クロエの問いかけに応じると、私は再び地図へと向き直る。
「まずこの街を南から出て、山を沿うようにして縦貫ルートを目指します。アラガミやグレイプニルの船などに注意しながら縦貫ルートに入り、途中でルートから外れて南へ。今日は今までで一番長い距離を歩くことになります」
「風が強いのが気になるな」
「うん」
アルビンの発言に私は頷く。
「風に煽られながら進むことになります。荷物も背負っているから、体の負担は今まで以上に大きくなるでしょう。体調に異変が出たらすぐに言うように。特に足は、少しでも痛くなったら言ってね」
子どもたちが返事をしたところで、私は偏食因子の入った箱を見せた。
「それと、今後どうなるか予想ができないので、片付けを済ませたあと偏食因子の投与をします。人型コンゴウ、もとい、あのお兄さんに感謝するように」
「ちゅうしゃ、やだな」
口を曲げるダニーに、私は眉を寄せる。
「じゃあ、アラガミになりますか?」
「やだー」
「私もダニーがアラガミになるのは見たくありません。我慢しましょう」
「ノニ……」
予定を伝え終えると片付けと出発の準備を始めた。
概ね片付け終わったところで、子どもたちに偏食因子を投与する。
注射嫌いダニーは、クロエに抱きついての投与になったが、それ以外はスムーズに終了。
流石に慣れたものである。
これでよっぽどのことがない限りは、子どもたちがアラガミ化する危険は無くなった。
箱と注射器を片付ける私に、ビャーネが声をかけた。
「あれ、サイカは?」
「あんたたちが寝ている間に済ませたよ」
「ホントでぃすかあ?」
冗談めかして言うメガネに、私は肩をすくめた。
「本当だよ。ていうか、私がアラガミになったら、一番困るのはあんたたちでしょ」
「だよねー。今でも怒るとメッチャ怖いのにシャレにならないよ」
「……アラガミになったその時は、お前を真っ先に喰ろうてやるわ」
茶化すメガネに、私は歯を見せながら笑って言うと、奴は体をくねらせしなを作った。
「……ア、アタシ、初めてだから優しくしてね。お願いだから痛くしないで」
「んなの知らん」
「酷え」
「仕方ないじゃん。だってアラガミだもん。現実は非情なのだよ、ミスタービャーネ」
「あーあ、現実パイセンはいつも容赦ねーっすなー」
ビャーネはぼやき、丸めた寝袋を枕にベンチで横になった。
私はビャーネに背を向け、子どもたちの体調の安定を待つ間に荷詰め作業を進める。
もちろん、私は偏食因子を投与していない。
先ほどのやり取りは、にわかに現実味を帯び始めた最悪の事態そのものであり、全くシャレになっていない。
だが、一つの光明はあった。
この先の旅は、そう長くならないだろうという予想だ。
距離だけを見れば、後三日ほどで旧ペニーウォート領内に入れる所まで来ており、何事もなければアラガミ化するまでの猶予はあるはず。
そう、何事もなければ。
天候や未踏灰域次第で、どう転がるかはわからないが、それを恐れて立ち止まることは許されない。
ストーブを消火し、ランタンを持って再び扉の前へ向かった。
アルビンがすかさず起き上がり、私の後に続く。
扉を押し開けると、相変わらず風は強いものの、周囲はすっかり明るくなっていた。
北東の空は塗り潰されたように真っ黒だったが、雨が降る気配もなく視界も十分に確保できる。
「さっきと変わらず風は強いけど、悪くない天気だね」
アルビンが外を見回して言った言葉に、私は決断をした。
「うん。ちょっぴり名残惜しいし不安もあるけど、出発することにしよう」
「わかった」
アルビンは頷くと、すぐさま皆の元へと向かった。
私は扉をしっかりと開け放ち、神機を床に刺して扉を固定した。
子どもたちが準備をしている間に、周囲の片付けを済ませる。
「忘れ物のないようにな。もうここへは戻って来ないから」
「アルビン、おしっこしたい」
「うん。一緒に行こう」
「アタシもアタシも!」
「前から思ってたけど、それサムいしキモい」
「うっせーな。お前も連れションするんだろ、連れション」
「その言い方やめてよ」
子どもたちが連れションに行くのを黙って見送った。
パッと見、子どもたちだけでも十分にやっていけそう雰囲気だが、アラガミの対処は私にしかできない。
アルビンが、あと数年早く生まれて神機を持つAGEとなっていれば、この旅ももう少し難易度が下がったろうに。
あーあ、やだなー、私試されているなー。
愚痴モードにスイッチが入りそうになるのを、頬を一つ叩いて止める。
気を取り直し、ゴミをまとめて裏手のゴミ捨て場へと運ぶことにした。
焼却したり地中に埋めずとも、喰灰が喰ってくれるのはありがたいと言うべきか。
戻る途中、黒々とした北東の空を改めて観察する。
昨日に比べて、明らかに灰嵐の規模は大きくなっていた。
そして、戦慄を伴う予想が頭に浮かぶ。
もしかして、各地の灰嵐が集まって、音に聞く大灰嵐になろうとしているのではないか。
そして、あの灰嵐の先にあるのは、恐らくはフェンリル本部だ。
だとしたら、フェンリル本部とグレイプニルは蜂の巣をつついたような騒ぎになっていることだろう。
その混乱に乗じて、彼らに見つからずに先へ進めるチャンスではあるが、被害の規模を考えると手放しでは喜べない。
この時点ですでに大きな被害が出ているのに、さらに被害が大きくなるのか。
映像でしか見たことのない、渦中の人物が脳裏をよぎる。
エイブラハム・ガドリン。
グレイプニルの最高司令官にして、アローヘッドの領主。
そして、大灰嵐のきっかけとなろうとしているヴェルナーさんの父親だ。
彼もまた、様々な立場の責任を負う大人として、過酷な現実に試されようとしている。
……大人やだなー、なりたくないなー。
ガドリン総督の重責を想像し、ついに愚痴モードにスイッチが入った。
自分の責任など、ガドリン総督のそれに比べたら道端の石ころのようなものだろうが、それでも今の私には十分に重いものだ。
あーあ、やだなー。
食っちゃ寝食っちゃ寝して、男とセックスして、無責任に適当に好きなことだけして生きたいなー。
こう、パーっと奇跡とか起きて、子どもたちだけでも助けてくんないかなー。
「サイカ」
私の元にアルビンが小走りでやってきた。
自動的に愚痴モードはオフになる。
「出発の準備ができた。いつでも行けるよ」
「オッケ!」
無論、こんな限界灰域の端っこにいる、ただのAGEと子どもに奇跡など起きるはずもなく、生き残りたくば自ら歩いてゴールを目指す他ない。
避難所では、既に子どもたちが荷物を背負い、マスクとゴーグルを着けて私を待っていた。
私も荷物を背負い、子どもたちを見渡す。
荷物の重さと子どもたちの視線に、我が身と心が引き締まるのを感じ、自然といつもの笑顔ができた。
「お待たせしました。それでは、安全第一を心がけ、頑張って歩きましょう!」
子どもたちは元気よく返事をし、外へ出ていく。
私とアルビンは、フロアと火の元を今一度確認してから外に出た。
扉を押さえていた神機を外し、扉をそっと閉める。
「キートス。モイモイ」
扉が閉まる直前、ダニーは暗闇に沈むフロアへ向けて声をかけた。
縁があればまた訪れることもあるかもしれないが、直感がそれを否定する。
もう、ここへ来ることはない。
本当にこれでお別れだ。
結局、ここの住人とは全く関わることは無かったが、何事もなく二泊させてもらったことは素直にありがたかった。
だからこそ思う。
灰域によってここが崩れ去る前に、住人たちが安らかな眠りにつける日が訪れますように。
「アルビン、殿お願いね」
「オーケイ!」
私はマスクとゴーグルを身に着け、フードを被った。
最後に神機を担ぎ、避難所に背を向け歩き出した。
街を出てしばらくは建物が点在していたが、それもなくなると、謎植物が地表を覆う風景が広がった。
今は白と灰色に彩られ、ぼんやりとした単調な風景だが、夜になれば謎植物の光で、さぞ幻想的な風景が見られることだろう。
もちろん灰域濃度は高く、鑑賞するなら相応の準備が必要な、命がけのものになるだろうが。
そして、こんな風景が今もなお拡大をしているという。
地表の人の生活圏は、確実に減り続けているのだ。
「街以外の場所でも、ここまで侵食が進んでいるんだな」
「うん。……あの総督のおじいさん、こんな感じの風景を見て聞いて、焦っちゃったのかな」
「あのジイさんはそうは思ってなくても、周囲の人たちが早くなんとかして欲しいって焦る気持ちは、まあわかるよ」
「でも、あの作戦はねーよ。どう考えてもやっちゃダメだろ」
「だよね。もう少しなんとかならなかったのかな」
背後の子どもたちの会話を、何とはなしに聞く。
ガドリン総督は、ここまで戦火が大きくなることを予想していたのだろうか。
予想してやっていたとしたら、凄まじい胆力だ。
彼もまた、余裕のない中で精一杯のことをやっている一個人だろうに、そのブレのなさは畏怖すら覚える。
良いか悪いかはともかく、凄いお人だよ、実際。
私と手を繋ぐダニーは、背後の会話に乗ることなく、周囲の風景を興味深そうに眺めている。
しばらく歩いていたその時、甲高い声が耳に届いた。
今まで耳にしたことの無い声にダニーを見れば、ダニーも私を見上げている。
「何か言った?」
「エイ」
「だよね」
じゃあ何?
顔を上げ、思わず歩みが止まった。
いつ出現したのかはわかりない。
数メートル先に、宙に浮く黒くて四角い小さな物体がいた。
グボロ・グボロに通じる姿だが、あらゆるものが省略、簡略化されている。
何を訴えているのかは知らないが、キュイキュイと鳴き声を上げる様は愛嬌があった。
我が目を疑う。
間違いなく初見にして、記録映像と伝聞で知るアラガミだった。
「サイカ」
「なんじゃらほい」
手を繋ぐダニーが、目の前のアラガミを指さす。
「あれは何ですか」
「あれはアラガミです」
「お名前何て言いますか」
「アバドンです」
「あばどん。あばどん」
ダニーはしばしアバドンを見つめ、
「……モイ」
呼びかけると、アバドンはキョロキョロしつつ鳴き声を上げた。
ハイともイイエとも捉えることができるが、そもそも言葉が通じているか不明だ。
「おおっ! あれが伝説のアラガミ、アバドン! この灰域にいるのか!」
「……アラガミのくせに、ちょっと可愛いかも」
「可愛いか? あれ」
どうやら後ろを歩いていた子どもたちも、今までにないアラガミに興味津々の様子だった。
アバドンは、厄災が起こる前にたまに目撃されていた希少なアラガミである。
そのコアは貴重であり、誰が呼んだか『幸運のアラガミ』という異名を持つ。
レーダーに反応せず、GEたちの前に現れては、攻撃することもなく直ぐに逃げ出す習性があるようだが、厄災以降、公的な目撃例はない。
かなり貴重な巡り合わせと言えるのだが。
「セミニョン!」
そう言ってフラフラと前に出ようとするクロエを、私とダニーがとっさに掴んだ。
「コラ行くな」
「行くなー」
「でもでも! せっかくだからもっと近くで見たい!」
クロエは、小さくて可愛いものや、綺麗なものに目が無い。
かのミナトにいた頃から、そういう類のものをこっそりと集めていたし、ベースでは自分で作ったり、小さな動植物の世話を積極的にしていた。
ここしばらく、そういう類のものとは無縁だった反動からか、珍しく興奮状態になっている。
クロエは目をキラキラさせながら、しゃがんでアバドンを下から覗き込んだ。
「あ! お腹の色可愛いー。黒とサーモンピンクの色の合わせがいいね! あれのぬいぐるみを作りたーい。フワフワモフモフに」
そう言って立ち上がると、またしてもフラフラと歩きだそうとするクロエの腕を、ダニーと共に掴んだ。
「ダメじゃーい」
「じゃーい」
「ええ! なんで!?」
そうしている間にも、アバドンは鳴き声を上げ、一目散に山の方に向かって逃げ出した。
「あ、逃げた」
「えっ、逃げ足メッチャ早っ!」
「追いかけないと!」
「行くなバカ」
追いかけようとするクロエとビャーネを掴んで元の位置に戻す。
アバドンが向かっているあの山、シャレにならないマズいものがいる気配を感じた。
絶対に行かせるわけにはいかない。
「サイカー」
揃って露骨に不満そうな視線を向ける二人に、私もそれに倣うように顔をしかめて説明をした。
アバドンが、GEに危害を加えたという記録はない。
ただ、その希少なコアに目が眩んだGEたちが、こぞってアバドンを追いかけ回した結果、仲間といつの間にかはぐれたり、敵の巣に飛び込んだり、作戦行動に支障をきたして思わぬ惨事になったりと、人間の自業自得による被害が後を絶たなかったとされている。
そんなアバドンの正式な異名は『混迷を呼ぶ者』。
納得の名付けと言うべきか。
ここまで説明したにも関わらず、クロエは未練がましくアバドンを見つめる。
「でも鳴いてるよ。寂しそうだよ」
「てか、あれは呼んでるって!」
「呼んでないし、アラガミに寂しいもへったくれもないって」
「ついてっちゃだめー、めー!」
ダニーは言って私の前に出ると、二人の体をグイグイと後ろへ押し返し始める。
「ダニー?」
「お前、何でそこまでアグレッシブなんだよ?」
「だって、あばどんが行こうとしているお山、カイーキシュいるもん」
キッパリと言い切るダニーに、クロエとビャーネの動きが止まった。
ビャーネがギクシャクと顔を上げて私を見る。
「マジか」
「マジだぞ」
「だぞ」
ビャーネの顎を掴んで持ち上げると、顔を近づけて目線を合わせた。
「ついでにその灰域種に喰われてうろつく、お前の大嫌いな」
「クロエ、ワガママはよそうぜ! 今は目的地に向かうことが最優先だ。脇目も振らずゴーゴー!」
「あ! この裏切り者! 臆病者!」
「うっせー! バーカバーカ!」
「こ、のっ、
私の体にしがみつき、見事な手のひら返しをするビャーネと、あっさり裏切られたクロエとの醜い言い争いが始まろうとしたが、
「いい加減にしろ二人とも。遊んでいる余裕なんてないんだぞ」
「……はーい」
冷たく言い放つアルビンに、二人は渋々と従った。
いやはや、私の出番がないのはありがたい。
遠くでアバドンが鳴いていたが、やがて白い風景の中に飛び去り消えていった。
それを見届け、私たちは再び風の中を歩き出す。
「ねえ」
「ん?」
アルビンが、先行する三人の背を見ながら声をかけてきた。
「ビャーネたちに言っていたあれ、本当なの?」
「本当だよ。お化け云々は嘘だけど」
私はため息混じりに頷いた。
「伝わってくるんだよ、あの山からヤバそうな気配がさあ。しかもシャレにならない数で」
「そんなに?」
「うん。もしかしたら、ここらの灰嵐の発生原因って、あの辺に潜んでいる灰域種が原因かもね」
「マジかよ」
「予想だけどね。何であそこに集まっているかはわからないけど」
灰域種たちが惹かれる何かが、あの土地にあるのだろうか。
と、アルビンが肩を落とした。
「……本当に人の住める土地がなくなっているんだな」
「どれだけ頑張っても、数十年前から人類がジリ貧であることに変わりないよ。よく健闘している方だと思うけどねい」
私はアルビンの肩を軽く叩いた。
「元気出しなって。今は遠い未来より目の前のことだよ」
「わかってるよ」
「ねーねー、サイカー」
アルビンが頷いた時、先を行く三人がこちらに呼びかけた。
彼らの背には、色褪せ灰域に侵食された看板がある。
辛うじて読める文字には、青地に白い文字で矢印と道路名、行き先が書かれている。
厄災前の情報だが、目安としては十分だ。
「ここを曲がればいいの?」
「そうだよ。みんな体調はどう? 足は痛くない?」
「だいじょぶ」
「うん、まだ平気」
「よし! それじゃあ、航路目指して頑張って歩きましょう。航路に着いたら、お昼ご飯にしようね」
元気な返事とともに、私たちは道路を曲がり東へと向かった。
◆
航路へ向かう道行は順調だった。
謎植物が生い茂り道を隠す所もあったが、路面の状態は悪くない。
ただ、比較的起伏に富んでおり、風景の表情は豊かだが地味に体力は削られる。
道路から外れた場所では、謎植物の向こうで小型のアラガミが群れを成しているのが見えた。
こちらに襲いかかってくる様子がないのは助かる。
「アラガミ、戻ってきてんのかな」
中型を混じえたアラガミの群れが道路を横切って行くのを、距離を置いて見ながらビャーネが言う。
「逃げた先でさらにヤバいことになってるからな」
「行ったり来たり大変だね」
「てぇーへんだ」
アラガミが通り過ぎるのを待って、再び私たちは歩き出した。
時折吹く突風に煽られたり、アラガミ鑑賞会と称した小休憩しながら進み続ける。
そうして航路に近付くにつれ、周囲の見通しは悪くなり、周囲の風景も殺風景になっていた。
灰嵐が通り過ぎたことで、地表のものは根こそぎ持っていかれたか、破壊の限りを尽くされ原形を留めていない。
空気も薄くなっているのを感じる。
周囲の灰域濃度が上昇しているためだ。
私は気を引き締めて、周囲を探りながら歩を進めた。
「クロエ、だいじょぶ?」
「うん。お薬しっかり飲んだもの。ダニーは平気?」
「ヨー、平気だよ」
「良かった。何かあったら言ってね」
クロエとダニーの体調は安定しているようで何よりだ。
しかし、灰域濃度が上がってアラガミたちも活性化し、獰猛になった奴らとの交戦の機会が増えた。
小型のアラガミの群れをバーストアーツで蹴散らしながら、前へ前へ、焦れったくなるほどのスピードで進み続ける。
しばし歩いて再び現れたドレットパイクの群れをきっちり潰し、銃形態になっている神機を見つめた。
レイガン、群れの討伐には向いてないんだよな。
群れの討伐なら、ショットガンかアサルトの方が向いてそうだが、装備の換装ができる技術も設備も今はない。
それに、中型以降ならレイガンの方がやりやすいし。
いや、遭遇しないに越したことはないが。
神機をバスターソードに切り替え肩に担いだ。
「ねーサイカ、あれー」
またアラガミかと思いきや、ダニーが指さす先には、灰域でうっすら霞む景色の向こうに広々とした道路が見えた。
間違いない。
「うん。縦貫ルートの航路だ」
時計を見れば、お昼を少し過ぎた辺り。
中々良いペースだ。
「昼食と休憩を取りたいところだけど」
「ここで良くない? こんな設備のない辺境の道路、誰も通らないでしょ」
「まあ確かにね」
アルビンの提案に苦笑する。
道のど真ん中でランチタイムをとることになろうとは。
灰域濃度の高い屋外で食事をとることに抵抗はあるが、建物の気配が一切ない以上無いものをねだっても仕方ない。
風が大分静まってきているのが救いか。
私は頷いた。
「みんなご飯にしよう」
「休憩だー」
「ごはーん」
子どもたちは嬉しそうに荷物を下ろし、折りたたみの椅子を出して腰掛けた。
小休憩を入れても四時間以上歩き続けたのだ。
折りたたみの台とバーナーを取り出し、お湯を沸かして食事の用意をする。
甘いビスケットと塩っぱいビスケット、鶏肉のスープ、ドライベリーのプロテインバー、ホットレモネードだ。
スープも残り二食分となった。
荷物は軽くなるが、心は重くなる。
ままならないなあ。
挨拶とともに、無心で食事にがっつく子どもたちの様子をさり気なく観察した。
全員の体調は良さそうだが、何やらダニーの足の動きが忙しない。
食事が終わるのを見計らって、ダニーに声をかけた。
「ダニー、足どうかした?」
「んと、あつい。あと、何か物がはさまった感じ?」
まさか。
「足見せて」
ダニーは素直に靴と靴下を脱ぎ、足を見せた。
予想は的中した。
両足に何ヶ所かマメができていた。
「あー、マメできてるねえ」
「でも、いたくないよ」
「うん。でもコイツら、放っておくと大きく育って痛くなるんだよ」
すると、ダニーは眉を寄せて私を見た。
「コイツら育ちますか」
「育つんですなー」
「ぼくも早くおっきくなりたい」
「焦りは禁物ですぞ、坊ちゃん。先は長いですからな」
医療キットで治療し、汗で湿った靴下を履き替えさせた。
他の子たちの靴下もついでに履き替えるよう指示を出す。
「ひょー、地面冷てー」
「ちょっと気持ちいいね」
「ねー」
足の裏を道路にくっつけて笑顔を浮かべる三人の横で、アルビンは平然とした顔でふくらはぎにテーピングを施し、さっさと靴下を履き替えた。
頼もしく思う反面、複雑な気持ちは拭えない。
他の子どもたちから頭一つ抜けた感があるが、彼もまだ十一歳の子どもなのだ。
彼にも子どもの特権を存分に発揮してもらいたいところだが、私の力不足もあって現状は難しい。
この旅が無事に終わり、全ての荷物を下ろすことができたら、ある程度のワガママは聞いてあげよう。
たどり着くミナトが、それを許してくれる環境だといいが。
私の視線に気づいたのか、アルビンがこちらを見た。
「何」
「うん。あんたさ、この旅が終わったら何がしたい?」
何となくたずねた一言に、アルビンは呆れた表情を浮かべた。
「今は目の前のことに集中するんじゃなかったの?」
「近い将来を思うことはいいことだと思うよ。目標的な意味で」
「……あっそ」
何かを諦めたように頷き、思案げに目線を下げた。
「したいこと。……ヤバいな、何も思い浮かばない」
「食べたいものとかある?」
「食べたいもの」
すると、奴は目線を上げた。
「ステーキ」
「いいね!」
「カレー」
「定番だねい」
「クロップカコール、ショットブラール」
「あんたの故郷の料理か」
前者はジャガイモの生地で包んだ肉まんで、後者はビャーネも大好きミートボールである。
どちらも作ったことのある料理だ。
「あ、備え付けの野菜はいらないから」
「お前ぇ」
「肉という素晴らしい景観がある」
「……うん」
コイツ、何言い出してんの。
「それだけでもう十分に凄いのに、植物の存在は景観の邪魔、蛇足だと思うんだよね」
「ハハッ! ふざけんな」
「ダメか」
奴は舌打ちとともにそっぽを向いた。
コイツの筋金入りの野菜嫌いは、この旅をもってしても治らないか。
ふと何かを思い出したのか、アルビンは再びこちらを向いた。
「後は、カネルブッレ」
「ああそうか。そう言えば好きだったね」
「うん」
カネルブッレとは、シナモンロールのことである。
店や作り手によって、見た目も味も食感も変わってくるのは当然として、アルビンが好きなのは、パールシュガーがかかり、カルダモンとシナモンがガツンときいた、ほんのり甘くてスパイシーなものだ。
この地とその周辺地域が発祥とされるこの菓子パンは、昔からコーヒーのお供によく食べられていたという。
ベースの店でも売られていたし、自作する人もいた。
作り方を教わった私は、たまにクロエと一緒に試行錯誤しつつ作っていたのを思い出す。
もっと長いことあそこで過ごしていたら、作るのも早く上手くなっていただろうし、店売りのものをみんなで食べ比べすることもできただろうに。
「ぼくもすきだよ、コルバプースティ」
身を乗り出して話に入ってくるダニーに、アルビンはそちらへ顔を向けた。
「ダニーはサルミアッキが一番じゃなかったのか?」
「どっちもすきー」
「調子のいいこと言って。お前がサルミアッキ隠し持って、こっそり食ってるの知ってるんだからな」
「あーっ、なぜバレてるしー」
慌てるダニーだが、知らぬは本人ばかり、ダニー以外の全員このことは把握している。
無理を強いているのだ。
食事に影響がなければ、おやつくらい好きにさせるさ。
子どもたちが賑やかにシナモンロールの話で盛り上がるのを、私は白湯を飲みつつ聞いていた。
その光景が酷く眩く見えて、思わず目を細める。
何故、胸が痛くなるのだろう。
何故自分だけ、子どもたちから切り離されたような気がするのだろう。
わからない。
ただ、この旅が終わったらみんなに美味しいものをご馳走してやろう。
特にアルビンには、ちゃんと感謝の気持ちを伝えよう。
そう思った。
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