限界灰域のデトリタス   作:小栗チカ

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湖のミナト 3

このミナトの前身にあたる研究所は、アラガミが発生する前の環境と生態系の調査、研究、保全を目的としたフェンリルの一組織として存在していた。

しかし、本部や支部の人口増加によってその維持が難しくなった。

理由は、人々の反発と反対の声だった。

 

「それはそうですよね。動植物の研究や保護に力を注ぐ余裕があるのなら、その余裕を人の保護に回して欲しいというのは、当然の意見ですよね」

 

しかし、初代オーナーとなる所長は諦めなかった。

ならばと、フェンリルから独立した研究所を人から離れた場所に作ることにしたのだ。

フェンリルは、アラガミから人を保護する。

ならば我々は、アラガミから人以外の命を保護しよう。

いつかアラガミが一掃された時に、この地に人だけ残っても寂しかろう。

そう言って。

元々お金を持っていた彼は、その私財を全て投げ打ち、さらに負債を背負ってこの場所に研究所を建造した。

その際に、財務の責任者として招聘されたのがニナさんだった。

 

「当時、私は夫と事業をしていたのですけどね、事業の方針を巡って対立し、何度かの話し合いをもっても溝は埋まらず、夫と別れ、私の持っていた事業も手放し退職しました。子育てもひと段落しているし、さてこれからどうしようかしらと思っていた時に拾ってくれたのが、初代のオーナーでした」

 

ニナさんの経営者としての腕と、お金がらみの強さを聞いていた初代オーナーは、ニナさんを招聘することで、研究所の運営をより強固なものにしようとしたのだ。

 

「本職の合間に、みんなと一緒に土を作って植物を植えて、保護した動物たちの面倒を見て、育てるなんてことをしていましたね。私生活では、息子が色々やらかしたり、母の介護をしたりと、公私共に心休まる暇なんてありませんでした」

 

そう話すニナさんの顔は、苦笑しながらも懐かしそうだった。

個人的には、私生活云々の話を根掘り葉掘り聞きたかったことは内緒だ。

程なくしてエレベーターに乗り込み、さらに地下深くへと降りていく。

 

「それでも、皆さんの協力もあってどうにか負債は払い切れましたし、この研究所の建造と維持と管理、生態系や環境の研究で得た知見は、地下施設の発展の一助になったのではないかと思っておりますよ」

 

知識や調査データ、関連する技術開発は、このミナトの大きな財産となって施設の全てを支えることになった。

 

「ずいぶん深く潜るんだな」

 

アルビンがポツリと言うと、ニナさんは愛嬌のある笑顔を見せた。

 

「ええ。本当はここから先は、関係者以外は立ち入り厳禁ですけど、貴方たちには特別にお見せしましょう」

「いいんですか?」

「いいんです。私はお婆ちゃんですもの。たまには物忘れくらいしますよ」

 

本当にいいのだろうか。

しばらくしてエレベーターは減速し、そして止まった。

ドアが開き、再び無機質な通路が現れる。

いくつかのセキュリティロックをクリアし、今までにない分厚い壁とドアの前へたどり着いた。

それはこの先、とても重要な場所であることを告げていた。

ニナさんは、通路の横にあるドアを開けた。

 

「ここで備え付けの靴に履き替えて、上着を着てくださいね」

 

言われるがまま部屋に入り、靴を履き替え、上着を羽織った。

と、こちらを見たアルビンが、私に向かって無言で手を伸ばす。

そして、上着の内側に潜り込んでいた襟を引っ張り出して整えた。

 

「タック」

「ヴァ ソ ゴッ」

「あら」

 

私たちのやり取りに、ニナさんは目を見張り首を傾げた。

 

「貴方たち、この地のお隣のご出身?」

「この子がそうなんです」

「そうなの」

 

ニナさんは、アルビンに向って嬉しそうに笑った。

 

「懐かしいですね。元夫と初代オーナーが、アルビンさんと同じ言葉を使う人だったんですよ」

 

ニナさんの元夫は、アルビンと同じ故郷の出身で、初代のオーナーは、この地の南にある島の出身だったそうだ。

準備が整ったことを確認し、杖を使って器用に車椅子を乗り換えたニナさんが、最後のセキュリティロックを解除した。

ドアが開いた瞬間、私たちを包んだのは、濃密な生の息吹だった。

エントランスとは比較にならぬほどの、緑と土と水の匂い。

空気が濃く感じる。

肌身に感じる湿気と、靴底から足に伝わる柔らかな土の感触は、恐ろしく新鮮なものだった。

 

「これは……」

「凄い」

 

視界の先は、黒々とした木々が見たこともない量で埋め尽くされている。

背丈の高い木々を、余裕で覆うほどの高い天井はフレームに覆われ、どんな仕組みかは不明だが、星空が広がり、白く丸い月が輝いている。

 

「ここが、私たちのミナトの存在意義にして貴重な財産。初代オーナーと数多の研究者、職員、企業パートナー、そしてこの地の人々が、資産と叡智を結集して守ろうとした、この地の命と記憶の一部です」

 

闇夜に沈む、静かで不気味な樹木の密集地。

水を蓄え、動植物を育み、人々に恵みと恐怖とインスピレーションを与えたそれを、人は森と呼んでいたという。

それは、己の体調不良を忘れさせる衝撃の光景だった。

 

「……綺麗なんですけど、ちょっと怖いですね」

 

思わずこぼした感想に、ニナさんは笑顔を浮かべた。

 

「自然は美しいものとして捉え勝ちですけど、同時に未知と危険を併せ持つ恐ろしいもの、畏怖すべきものです。それを人の手で再現出来ているなら、それはこの上ない喜びですよ」

 

感応現象を使うまでもなく感じる、生きるという意志を持つ、数多の命が共存する世界は、私の持つ語彙だけでは表現ができない。

ニナさんが石畳の道を進み始めたのを、私とアルビンは慌てて追いかけた。

 

「あの、これってどうやって育てているんですか?」

「ここで開発されたシステムで制御されています。アラガミが発生する前の気候を、できる限り忠実に再現するようにしているんですよ」

 

夏至の前後には白夜を、冬至の前後には極夜にして日照時間の調整をし、厳冬期には氷点下に気温を下げて大地を凍らせ、人工降雪機で雪を降らせているそうだ。

 

「凄いな……」

「ええ。でもそのためには、莫大なエネルギーとお金が必要です。エネルギーの問題は未だ解決はできていませんね。その点、お金については私の後任の方がとても優秀な人で、安定した収益を確保出来ています」

「お金も大事なんですね」

「もちろんですとも」

 

アルビンの言葉に、ニナさんは深くしっかりと頷く。

 

「保護する生態系以外にも、ここで生活する研究者や職員、その家族にも安定した快適な生活環境を与える必要があります。私はそれを支えるためのお金を管理し、運用するために呼ばれたんです」

 

責任重大なお仕事だ。

凄い人ではないかと思っていたが、本当に凄い人だったのだ。

エントランス同様、石畳の両側に取り付けられた光に沿って森を歩き、開けた場所に出た。

細長い草が生える岩の大地。

水の匂いがより強くなる。

と、声がした。

人の子供が声を上げたような、存在感のある声だ。

 

「あら、私たち以外にも夜更かしをしている子がいるようですね」

 

見れば、柵に囲まれている岩を抉ったような大きな池が見えた。

岩の影に潜むように、見たことの無い生物が群れをなしている。

どうやら大部分が眠っているようだが、一匹だけ、群れから外れてこちらを見ているようだった。

僅かな明かりに見えるのは、ツルリとした体に灰色のまだら模様。

グボロ・グボロのようなヒレと尻尾をもち、アラガミたちにはない愛嬌のある顔は、クロエやダニーが見たら大騒ぎをするに違いない。

 

「あれはアラガミが発生する以前から、絶滅危惧種(レッドリスト)に登録されていた、この地の固有の淡水のアザラシです」

 

と、そのアザラシなる生き物と目があった。

その途端、慌てて背を向けバタバタと池に向かうと、あっという間に水面に飛び込み姿を隠してしまった。

ニナさんがクスリと笑う。

 

「あの子はまだ子どもで、好奇心は強いけど臆病なんです」

 

んー、誰かに似ているような。

と、小さく水の跳ねる音がして再び池を見れば、先程のアザラシが頭だけを出してこちらを見ていた。

だが、私たちの視線を受けたアザラシは、再び水へ潜ってしまった。

 

「何かあれ、俺の知っている奴に似ているような気がする」

「奇遇だね。私もそう思っていたところだよ」

 

姿形ではもちろんなく、気質の部分で。

無邪気で臆病で泣き虫で、勇気と優しさをもった、あの子によく似ていた。

岩場を通り過ぎると、再び芝生の覆う大地が現れた。

思った以上に奥行きがあり広い。

 

「このエリアの奥も良い場所ですし、隣のエリアの水族館も見せてあげたいですけど、あまり遠くまで行くと帰るのに時間がかかりますからね。この辺りにしておきましょう」

「水族館」

「この地にいた水生生物を管理している場所です。こことはまた違った趣きがありますよ」

 

ほんのりと光を放つ照明灯と、低木に囲われた花々が咲く公園のような場所で、ニナさんは車椅子をとめた。

 

「もう少し、ここのお話をしてもいいでしょうか」

「どうぞ」

「ありがとう。あまり楽しいものではないですけどね」

 

そう前置きして、ニナさんは語り始めた。

 

 

ここの人々は、この地の生態系を守り再現すべく努力を続けていた。

フェンリル本部とは多少はやり合うことはあっても、そこそこの信頼関係を築いていたという。

 

「でもね、厄災が、全てを変えてしまったんです」

 

ニナさんは視線を落とした。

灰域がこの地を覆い、アラガミが発生してもなお生き残っていたこの地の動植物は、ほとんどが喰われて灰と化した。

それは人も変わらない。

 

「灰域から動植物を保護しようとした初代オーナーや、オーナーを継いだばかりの息子が死に、多くの職員が犠牲となりました。フェンリル本部へ出かけていた息子の妻とカールの弟も行方不明となり、消息は不明のまま。私の家族は、カールだけになったんです」

 

だが、襲った悲劇を嘆く暇はなかった。

ニナさんが暫定的にオーナーとなり、このミナトも対応に追われた。

生き残るために、人々はサテライト拠点の地下施設を利用してミナトの建造し、ここの知識と技術は大いに利用された。

程なくして、人々は灰域に対抗するために、さらに人ならざるものを生み出した。

AGE(私達)だ。

同時期に、グレイプニルは灰域航行法を施行し、各ミナトに準拠するよう求めた。

 

「ここも、最初はその領域入る予定でした。でも、その条件は到底飲めるものではなかったのです」

 

その条件とは、今まさに私たちがいるこのエリアを、人のために解放するというものだった。

当時、安全を確保しながら人を収容できるミナトの数は少なく、難民が各地の有力なミナトに溢れている状況だったという。

そのため、グレイプニルは難民を救うために、このエリアを解放することを要求したのだ。

それは、理解できるのだが。

 

「私が灰域で体調を崩してしまって、副オーナーだったカールが、アローヘッドとの交渉にあたりました。付き添ったヴィリが言うには、人の命と数にものを言わせた脅迫紛いのものだったそうです」

 

それだけ、アローヘッド側も焦り必死だったとも言える。

どうにか返事を持ち帰ることができたカールさんだが、すっかり憔悴してしまったという。

 

「カールは思い悩んでいました。当然ですよね。人の命は一番に尊重し守られるべきものと認識されていますから。でもここは、フェンリルが守らぬ命を守るために作られた場所です。そして、限られた土地で懸命に生きる、アラガミや灰域に抗う術のない命があります。

当時からあの子は、優しくて賢くて勇気のある子でしたけどね、多くの命を天秤にかけて選ぶには、まだ幼かったんです」

 

追い詰められたカールさんは、ついに祖母に苦悩を明かした。

汚れることは厭わない。

だが、見捨てる命があまりに多すぎる。

その命と罪を背負いきれる自信が無いと、選択することが出来なかったのだ。

一人の命ですらブレてしまった私に、カールさんの苦悩は察するにあまりあった。

 

「私は悟りました。これこそが、私がこのミナトでの最後の勤めであり、次のオーナーになるカールへの最後の教えになるのだと。私は即日、灰域航行法の領域からの離脱と、領域内のミナトに対し無期限で断交することを宣言しました」

 

それは、難民の受け入れを拒否し、切り捨てる判断だった。

それを、この小さくて上品で優し気なお婆さんがやったのだ。

 

「それで終われば良かったのだけど、アローヘッドの一部の人たちは諦めきれなかった。目の前にいる、困窮している難民を見捨てることが出来なかったのでしょう。彼らがここを襲撃し、乗っ取りを画策していることを聞きました。容易なことだと思ったのでしょうね。事実、ここの戦力なんて彼らのそれと比べたら、吹けば飛ぶ塵のようなものでしたから」

 

彼女はさらなる決断をした。

それは、領域外の戦力に頼ることだった。

 

「私の独断で、私の私財と地下施設の技術提供をすることを条件に彼らと契約を交わしました。AGEで構成された武装集団、朱の女王と呼ばれる組織です」

 

灰域での戦いに不慣れなグレイプニルと違い、灰域に適応した彼らの力は圧倒的だった。

戦いは瞬く間に終わり、グレイプニルは以降、このミナトに手を出すことはなくなったという。

私は、風景を見つめながら話す彼女の姿に、ヴェルナーさんの姿が被るのを見た。

彼女が、景色と共に見ているものが今ならハッキリとわかる。

それは、ここを守るために彼女が犯した罪と罰だった。

 

「私はね、出来なかったんです」

 

彼女は視線を私たちに向けた。

その表情は、空から見たあの湖のように、どこまでも静かで穏やかなものだった。

 

「ここに大地を再現し守るために、どれほどの時間とモノとエネルギーを費やしてきたことか。ここには、遠い過去からアラガミが発生するまでの間、懸命に生きてきたこの地の命の記憶がある。それを守ろうとした人々の意志がある。私はそれを、どうしても守りたかった。捨てるなんてこと、出来なかったんです」

 

ニナさんは、全ての混乱の責任を取ってオーナーの職を退き、カールさんがその跡を継いだ。

カールさんはこのミナトの人達と協力して自治を確立し、様々な問題を抱えながらも今のミナトに至るのだ。

 

私は視線を落とした。

ああ、本当にグチャグチャだったんだ。

みんながみんな、決して譲れない大事な何かを守りたくて、自分に出来ることを必死でやっているだけなのに。

だが、裏を返せば、みんながみんな自分の主張ばかりして譲る気はないのだから、争いが起こるのは当然と言えた。

そして私は、ニナさんがやったことに引っかかりも覚えていた。

難民の件は、人の命を見捨てた血も涙もない対応で、糾弾されても仕方のないものだ。

朱の女王の件は複雑だ。

その当時、その組織が各地のミナトでテロと灰嵐を引き起こし、罪なき人々を脅かす存在になることを、誰が予想出来ただろうか。

そしてその組織は、迫害されていたAGEを守り、私と子どもたちを助け、今に繋がっているのだ。

彼女の行いは、善悪がよられた糸のようなもので、善悪の物差しで断ずることは難しい。

わかるのは、彼女の守ることに対する壮絶な覚悟であり、その結果を背負って生きることの重さだった。

かのガドリン総督を彷彿とさせる、目の覚めるような凄まじい胆力。

今の私には、まだまだ全然、足元にすら及ばない境地に思わず目を閉じた。

すごい人達だよ、本当に。

 

「あの」

 

私の横で、アルビンがニナさんに声をかけた。

 

「何で、そんな話を俺たちに聞かせてくれたんですか」

 

すると、彼女は車椅子を少し動かし、アルビンと向き合った。

 

「貴方に、必要な話だと思ったからですよ。アルビンさん」

「え」

 

戸惑うアルビンに、ニナさんは笑いかけた。

 

「貴方は、どうしてイライラしているのかわからないって言っていたけど、言葉にできないだけで、本当は分かっているのではないですか」

 

その言葉に、アルビンが固まった。

 

「カールの話と、エントランスで聞いた貴方たちの話、ここまでのやり取りから、貴方の今後の課題を知りました。貴方は変化に弱い。いえ、怖いんですよね」

 

私は息を飲んだ。

ここまでの話とやり取りだけで、ここまでアルビンのことを知り得るとは。

驚く私に、企業の経営者として人と接する機会が多く、経験を積んだだけですよと、彼女は笑って言った。

正しく言いきられたアルビンは観念したよう俯き、

 

「……そうかも、しれないです」

 

そうしてポツポツと話し始めた。

変わっていくことがこわい。

変われず進めない自分に、酷く劣等感を感じる。

でも、変わりなくない。

このままでいたいのに。

 

「変わりたくないのは、変わることで、新たに失うものが出来ることがこわいからだね」

 

私が言うと、アルビンは俯いたまま頷く。

アルビンは、今まで奪われ失い続けていた。

家族を、故郷を、人らしい生活を、暗闇で見つけた優しい人達を、初恋の人を。

そして、一縷の望みを繋いだ朱の女王も失った。

 

「許せないんだよ」

 

俯くアルビンの言葉に、怒りが点った。

自分から尽く大切なものを奪っていた存在が許せないと。

ガドリン総督、グレイプニル、ペニーウォートその頂点だ。

でも我慢した。

今はそれどころじゃなかったし、子ども一人ではどうにかなるものではないとわかっていたから。

言って、アルビンは顔を上げた。

青い目に、鮮烈な怒りを宿して私たちを見る。

 

「なのに、今朝の光が言ったんだ。みんな、生きたかっただけだって。でも本音はこうだろ。だから許しあおう、みんなで未来へ進んでいこうって。ふざけんな!!」

 

強く鋭く叫ぶその声に、私は立ちつくした。

アルビンの理性と忍耐の真ん中にあって揺さぶり続けたものの正体を、私は見つめる。

 

「散々奪っておいて、なんだそれ。今更すぎるだろ! 俺から奪ったそれが、どれだけ大切なものだったか、あいつらには絶対にわからない! だからあんなことのうのうとできるんだよ。ああ、我慢するよ、我慢するとも。言っていることは正しいからな! でも、許すなんて絶対出来ないし、仲良くするなんてクソ喰らえだ!」

 

そうしてアルビンは、今まで我慢に我慢を重ねてきた怒りと憎悪を、さらに故郷の言葉で吐き出し続ける。

私もニナさんも、それを見届けることしかできなかった。

ひとしきり吐き出し続けたアルビンは、息を切らして、小さく呟いた。

 

「俺はもう変わりたくないし、無くしたくないんだよ」

 

そう言って沈黙した。

その小さな悲鳴に、胸が抉られる思いがした。

 

「貴方は、本当に強く優しい子なんですね」

 

ニナさんはアルビンの腕に触れた。

 

「奪われ失ったものが、本当に大切だったからこそ、ここまで怒れるのですものね。それをここまで我慢できたのは、紛れもなく貴方の強さであり優しさです」

 

ニナさんの言葉に私は俯き、身を焦がすような胸の痛みをどうにか堪える。

薄々気付いていた私の新たな罪が、暴かれたような気がした。

至らなかった私は、アルビンの強さと優しさに甘えて我慢を強いた結果、彼から子どもらしさを奪い取っていたのだ。

それなのに、先輩風吹かせて恥知らずなことこの上ない。

 

「そんな貴方だからこそ、この課題に取り組んで欲しいと思っています。この課題は、どんな大人でも難しく、勇気と忍耐を必要とする課題です」

 

ニナさんは微笑みを消し、アルビンを見据えた。

 

「貴方から大切なものを奪った全てを、赦してあげてください」

「……え」

 

アルビンはニナさんを見た。

言っている意味がわからない、理解ができない。

そんな表情だった。

ニナさんは深く頷く。

 

「ええ、とても難しいことですよ。だって、貴方から大切なものを奪った犯罪者を赦せと、罰することなく無罪放免にしろと、言っているようなものですからね」

 

そもそも何故人は、許せないという感情を持つのか。

究極のところ、それは損をしたと思うからであり、損を取り返したいと思うのは当然の心理だ。

 

「でもね、私も奪った存在だから言えるんですけど、……返してあげられないんですよ。取り返しがつかないんです」

 

仮に返せたとしても、傷つけた事実は変わらない。

ならばせめて、自分のこの思いを相手に伝えたいと願う。

自分の受けた痛みと苦しみを、相手にも知って欲しいと望む。

罪を認めさせ、罰したいと欲する。

大切であればあるほど、かけた時間と注いだ思いが多いほどその気持ちは強くなる。

これもまた、人の極めて自然な感情だ。

だから、アルビンは首を振った。

 

「嫌だよ……」

 

そして一歩二歩と後ろへ下がった。

その表情は、友人が死んだ時に一度だけ見せた、激しく混乱し動揺した年相応のものだった。

 

「何でだよ。そんなの無理に決まってんじゃん。赦せるわけないだろ! 絶対に嫌だ。赦したくない、赦したくない! あんたが、あんたがそんなこと言うのは、あんた自身が」

「アルビン!」

 

私は強く鋭く呼び止めると、アルビンはこちらを見、顔を歪ませて押し黙った。

ニナさんがこちらを向き、首を振った。

 

「いいんですよ、サイカさん。アルビンさんの言う通り、これは私の懺悔のようなものですからね」

 

そう言って笑ったその顔は、やはり優しく、悲しげだった。

そして車椅子をまた少し動かし、アルビンとの距離を詰める。

 

「私の言う赦しとは、損を損として認めて確定させる行為であり、激しい痛みと苦しみをもたらす、決意と覚悟が必要な行為です。今の貴方にはできないし、私の声も届かないでしょう。でも覚えておいて」

 

風が吹いた。

人工で制御されたとは思えぬ自然な風の動きに、草花が揺れ、葉音が私たちを包む。

 

「赦してあげて欲しいと言う理由は、相手のためでも、みんなのためでも、前へ進むためでも、幸せになるためでもありません。貴方のため。貴方が掲げる正義の刃は、傷つく貴方をさらに傷つけ、いずれ押し潰します」

 

ニナさんの声は、その風が揺らす葉音の間にあってもしっかりと聞こえた。

 

「どこかでその刃を下ろさなければ、自らの正義によって居場所をなくし、遠からず潰えることになりましょう。

人は、貴方が思うほど強くはなく、常に正しく優しくあれるほど、不変ではないのです。私やガドリン総督、あなたの周囲の大人がそうだったようにね」

 

その言葉に、様々な理由で赦すことができずに皆が皆、刃を取って戦うことになった数々の出来事を思い出した。

もしかしたら。

私の脳裏にある予想が浮かぶ。

あの今朝方の光は、その刃を下ろす手助けをするものではなかろうか。

赦しの痛みをほんの少しだけ、緩和させるようなものだったかもしれない。

ただ、抱える怒りと傷が多すぎたアルビンにとって、その正しさと優しさは逆に傷つけることになってしまったが。

 

「もちろん、赦し難きを悪はあり、誅すべき存在もこの世にはありましょう。でもそれは、個人の正義の刃でなく、天と地が認める裁定の刃を持って成されるもの。また別のお話です」

 

ニナさんは、俯き黙るアルビンを労りと慈しみを持って見つめた。

 

「あの光の恩恵を跳ね除けた優しく強い貴方。自らの意志で痛みと苦しみを乗り越えた時、なにものにも変え難い救いを得ることができましょう。生きることを赦すだけでもいいんです。それが、変わり失いながら生きる貴方を赦すことに繋がりますから」

 

再び風が吹いた。

吹く風は肌に優しく、揺れて擦れる葉音は耳に心地よい。

今のアルビンに、それを感じる心の余裕はないだろう。

だが、幾ばくかの慰めになったのか、小さく、本当に小さく頷いたのだった。

 

 

行きとは違い、帰りは無言の歩みとなった。

岩場の池の前を通りかかった際、再び鳴き声が聞こえた。

先程のアザラシが、こちらに向かって鳴いている。

 

「大丈夫ですよ。また来ますからね」

 

ニナさんが呼びかけると、アザラシは一声鳴いて、群れの元へ行ってしまった。

私たちの雰囲気に心配したのか、別れの挨拶か、はたまた別の意図があったのか、感応能力をもってしてもわからない。

 

「私は果報者です」

 

ニナさんは車椅子を進めながら言った。

 

「人の命を見捨て、ミナトを混乱に陥れた私を、ミナトの人々とここの命は受け入れ、赦してくれた。そして、私がいなくてもカールをオーナーとして盛り立て、協力して自治を保ちながら運営できている。それは私たちの悲願、アラガミが発生する前の命と記憶を守り、次の世代へ託すことが出来たということなのですから」

 

深い闇が覆う森を抜け、出口が見えてきた。

私は振り返り、眠りにつくこの地の記憶の一部を見渡す。

最初に見た時は圧倒された光景は、美しく不気味で、悲しく見えた。

このミナトの生い立ちを知ったせいだろうか。

地の底深く、かりそめの大地で生きる行き場のない数多の命。

ここもまた、深層のベースとは別の、いつかは覚める夢の中の楽園なのだろうか。

昼間の光景と水族館なるものを見たら、印象はまた変わるのかもしれないが、それが叶う日は恐らくはあるまい。

 

「サイカさん」

「はい。行きます」

 

名残惜しさを連れてドアを抜けると、ドアは固く閉ざされた。

来た道を戻りエントランスの広場に出ると、ベンチに座っていたカールさんが立ち上がり、腕を組んで仁王立ちになった。

明らかに怒っているカールさんに、ニナさんは小首を傾げる。

 

「あら、オーナー。貴方も夜更かし組なの?」

「ええ、図らずも。ニナさんを待っていたんです」

 

顔をひくつかせてカールさんは言った。

 

「体調が悪いのに、勝手に部屋から出ないでくださいよ」

「だって、眠れなくて退屈だったんですもの。散歩くらいいいじゃないですか」

「子どものようなこと言わないでください」

 

そして、私たちの方を見た。

その目線は厳しい。

 

「どうやらニナさんに連れられて、立ち入り禁止区画に入ったようだが」

「あら、あそこはそうでしたっけ?」

「都合よくボケないでください。あの場所のことは、他の子どもたちも含め口外はしないように。いいね」

「はい。お約束します」

 

私はしっかりと頷いた。

自分で言うのもなんだが、これでも秘密に対しては口の硬い方だ。

アルビンは言うまでもない。

ニナさんは口元を抑えて笑った。

 

「彼女たちなら大丈夫ですよ」

「それを判断するのは私です。君たちも早く部屋に戻って寝るように。特に、サイカさんはしっかり休んでくれ」

「すみません。ご心配をおかけしました」

 

カールさんの隣に車椅子を進めたニナさんは私たちを見た。

 

「それでは、オーナーの雷が落ちる前に失礼しますね」

「雷の発生原因は誰ですか」

「はいはい。グナッ、ドロム ソート」

「グナッ」

 

怪訝な顔をするカールさんに構わず、ニナさんは笑顔で木々の奥へと消えた。

カールさんも挨拶をしてそれに続き、エントランスには私とアルビンだけになった。

 

「じゃあ、私も戻るよ。あんたもちゃんと部屋に戻って寝なさいね」

 

ここまで俯き、一言も発しなかったアルビンに向けて言う。

明日には元に戻っていればいいけど。

 

「グナッ、ア痛っ!」

 

そして背を向け歩きだそうとして、背中に衝撃が走った。

丸いものが背中に当たった感覚。

瞬時に察した。

アルビンが私の背中に向けて、頭突きをかましたのだ。

 

「ちょっと、アルビン」

「……無理だよ」

 

振り向こうとして、アルビンの声に動きを止めた。

その声は濡れて零れ落ちるているかのようだった。

 

「俺には無理だよ。できない。嫌だ。赦したくない」

「アルビン」

 

崩れて壊れそうなアルビンに対し、このままではさすがにどうかと思った。

だからと言って、両手で抱きしめてやることは出来ない。

こんなことをすること自体、アルビンが追い詰められている証拠だが、子どもなりにプライドがあり、負けず嫌いのコイツは屈辱と感じているに違いないのだ。

そもそも、私は過去の悪行で穢れている。

これが正解かもわからない。

しかし今、彼を支えてやるのは私しかいないのだ。

だから振り向き、片手を回して横からしっかりと肩を抱いた。

 

「いいよ。だったらそのままでいいよ」

 

私は静かに言葉をかけた。

 

「あんたの気が済むまで、怒って憎めばいいよ。傷ついたままで、赦せないままでいいよ」

 

アルビンの赦せない奴リストには、私ももれなく入っているだろう。

私は、それを受け入れる。

奪った存在を赦せずに、変われないアルビンを受け入れる。

記憶のない私を受け入れてくれた、今は亡き仲間や友人たちのように。

至らない私を受け入れてくれている、アルビンたちのように。

だからこそ、私はここにいられるのだ。

 

「置いてかないよ。私はここにいる。コーヒー飲んで、イケメン物色しながら適当にやっているからさ」

「……あんたさ、そういうとこがホントに大雑把なんだよ。杜撰なんだよ」

「ごめんねい。でも、さすがに条件はつけようか。大丈夫、あんたは大体出来てる。明文化しておくだけだけだよ」

 

私はその小さな肩を、安心させるように撫でた。

 

「赦せない心で手を上げない。その気持ちを公共の場で口にしない。でもって、我慢できたらちゃんと褒める。我慢できるって、本当に凄いことなんだからさ」

 

アルビンの肩を軽く叩いた。

 

「どうしても我慢できなくなったら、いくらでも話を聞いてやる。だから心配しなさんな」

 

アルビンは一人じゃない。

私がいて、アルビン自身が面倒を見てきた子どもたちがいる。

ニナさんだってわかっている。

ならば、生きていればその先に、私たち以外にも受け入れてくれる存在がいるはずだ。

だから大丈夫。

きっと赦せる、変われる。

私と過去に背を向け、全てを変えてしまった灰域をも越えて、自由に空を飛ぶ日がやってくる。

アルビンに、それをできる力を持っていると私は信じている。

 

「アルビン」

 

アルビンが落ち着くのを待って、私は呼びかけた。

私の彼に対する最後の無理強いを、恥知らずにも口にする。

 

「明日、あと一日だけ、私に力を貸してちょうだい」

 

アルビンは上着のポケットからハンカチを取り出し、目と鼻を拭った。

そして、呼吸を整えるとしっかりと頷いた。

 

「いいよ。約束だから、最後まで付き合う」

「ありがとう」

 

鼻がつまり掠れたその声に、私は肩をしっかり抱き直しお礼を言った。

この旅も、余程のことがない限り明日で最後だ。

頑張ろうね、アルビン。

声にすることなく、私は告げた。

 




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