限界灰域のデトリタス   作:小栗チカ

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遺された街 4

先程の建物に入ると、ダニーが顔をあげて駆けつけた。

 

「サイカ!」

「モイ。約束通り戻ってきたよ」

 

抱きつくダニーの後頭部に手をあて、私は通信を入れた。

 

「アルビン」

《サイカ! 無事か!?》

「何とかね。アラガミも倒したよ。ダニーにお説教をしてからそちらに戻るから」

 

抱きつくダニーの体がビクリと震えた。

 

《そうか、お疲れ様。気をつけて帰ってきてくれ》

 

アルビンの声音には、紛れもない安堵の気持ちが込められていた。

 

《そうだ。逃げる時に水の入ったタンクを一個捨てたから、ついでに回収してほしい》

「わかった。場所は?」

 

場所を聞き出し、通信は切れた。

意識を切り替えてダニーに向き直った。

ダニーのマスクとゴーグルを外し、次いで私自身の顔の装備を外すと、屈んでダニーと目線をあわせた。

その顔はこれから何が起こるが予測できているのだろう、恐怖にひきつっていた。

 

「ダニエル」

 

愛称ではなく名前で呼ぶと、ダニーの全身が強ばった。

 

「何故、私やアルビンの言うことを聞かなかったの?」

 

私はダニーの両肩を掴んだ。

 

「アルビンの言うこと聞いてねって、みんなで待っていることがお手伝いだよって、私言ったよね?」

 

語気を強めて言うと、たちまちダニーの両目が涙で潤んだ。

 

「自分のやったことが、どれだけ危ないことかわかってるの?! 痛くて苦しいどころか、死んじゃったかもしれないんだよ! みんながどれだけ心を痛めて心配したと思っているの!」

 

そして、耐えきれずに泣き出した。

心は痛むが、前兆はあった。

廃都で兵士たちとやりあった時も、言いつけを守らずに私のもとへ来ようとしていた。

ここできちんと言い聞かせなければ、また同じことを繰り返す。

心を鬼にして、さらに言葉を重ねようとした時、

 

「カべリア、エイ、ヤテタ」

 

泣きながら答えたダニーの言葉に、思わず口を閉ざした。

それは、アラガミが発生する前よりもさらに昔、この地を巡って東にある大国と戦争が起きた時にできたとされる標語のようなものだと聞いた。

意味は『仲間は見捨てない』。

周辺の国々が自国のことで手一杯で孤立無援の中、大国相手に戦争をすることになったこの地の人々は、この短い言葉にどれほどの思いを込めたのか。

私にはわからないし、口にしたダニーですらもわからないだろう。

だがその言葉に、ダニーが無茶をした理由の全てがあった。

仲間()を、強敵のいる戦場に一人置き去りしたくなかった。

見捨てたくなかったのだ。

理解した瞬間、胸が詰まった。

胸を占めるのは、紛れもない喜びと己の不甲斐なさだった。

臆病なダニーが、優しさと勇気をもって駆けつけてくれたことは、本来なら喜ばしいことだ。

しかし、他の子どもたちと共に待てなかったのは、子どもゆえの無知と辛抱のなさもあろうが、私が弱くて信頼されていないことの表れとも言える。

仲間を失う不安と恐怖が信頼を上回り、彼を危険で無茶な行動に駆り立てた。

私が弱いばかりにこんなことに──。

己の不甲斐なさに耐え、泣きじゃくるダニーの頬に手を添えた。

 

「私を心配して来てくれたんだね。ありがとう。……でもね、戦場では仲間を守る前に、まず自分で自分の身を守らなきゃいけないの。ダニーは自分一人で、アラガミから身を守れるの?」

 

ダニーは首を振った。

 

「そうだよね。それで怪我をして死んじゃったら、私もアルビンもクロエもビャーネも、みんなが悲しむんだよ。ダニーは、みんなを泣かせて悲しませたいの?」

 

ダニーは、先程より強く首を振った。

 

「だったら、みんなと一緒に待っていなきゃダメだよ。私は弱いから、心配になる気持ちはわかる。でも、それでも、みんなと一緒に信じて待っていて欲しかったの。私だって、ダニーやみんなを見捨てて死んじゃうつもりはないよ。信じて待ってくれているみんなの元に帰れるよう頑張っているし、これからも頑張るから。ね」

 

ダニーは目を擦り、鼻をすすりながら言った。

 

「アンテークシ」

 

私は頷き、ダニーの肩に手を置いた。

 

「うん。ダニーが大きくなって、アラガミから身を守れるようになったら一緒に戦おう。それまでは、絶対に戦場に出たらダメだよ。約束できる?」

「ヨー……」

「よし。じゃあこれでお説教はおしまい。顔を拭いて帰ろう。回復薬は使わせてもらうね」

 

ダニーが顔を拭いている間に、私も回復薬で傷の手当てをした。

改めて見ると、服の損傷が進んでいた。

この体と違って、服は勝手に修繕されない。

クロエがつけたアップリケは無事だが、この調子だとこのジャケットは、いずれアップリケまみれになるだろう。

その様を想像し、苦笑した。

開き直って何度でも繰り返す。

私は戦うことが苦手だし嫌いだ。

アラガミは怖いものだし、好きではない。

群れた小型種や中型種でもビビりまくりなのに、大型種ともなれば最早悪夢の極みだ。

今回は運良く勝てたが、次はどうなるか保証はできない。

本当に本当に嫌なのだが、それを理由に弱いままではいられない。

子どもたちが安心し、信頼して待ってもらえる程度には、実力を身につけなければ。

と、服の裾を引っ張る感覚にそちらを見れば、ダニーが萎れた表情でこちらを見ていた。

 

「ん? どうしたの?」

「アルビンやみんな、おこってる?」

「そりゃ怒ってるよ。ダニーのこと、すっごく心配したんだから」

「……ぼくのこと、きらいになっちゃったかな」

 

またしても涙ぐむダニーに、私はその肩を抱いた。

 

「ならないよ。好きで心配だから怒るの。ちゃんと謝って反省すれば、許してくれるから」

「……ヨー」

「大丈夫。みんなを信じて」

 

ダニーは頷き、ゴーグルとマスクをつけ直した。

私が手を差し出すと、しっかりと握り返す。

私は笑顔で応えた。

 

「さあ行こう。みんなが待ってるよ」

 

すっかり日が落ち、紫の光の灯る廃墟の街を二人で歩いた。

風がずいぶんと強くなっている。

 

「お空すごい」

「うん。お空はもっと風が強いんだろうね」

 

灰域の向こうで暮れる空の色より暗い塊が、恐ろしい早さで流れている。

進路から外れているとはいえ、その周辺に影響がないわけではないのだ。

水を回収して背負い、避難所へ足を向けた時、いきなり突風が吹き付け、同時に体に強烈な負荷がかかった。

何だ? いきなり空気が薄くなったような──。

すると、ダニーが強く手を握った。

 

「ダニー?」

「んん、ちょっと、苦しい」

 

何が起きたんだ?

動揺したのもつかの間、ある予測が閃いた。

灰域濃度が上がっているのか。

確かに灰嵐は近づいているが、こんなに急激に変化するものなのか。

そして、避難所にいるクロエのことを思い出す。

体の弱いあの子のことだ、体調を崩しているかもしれない。

ダニーを抱き上げ、道を駆け出した。

風に逆らい走り続け、避難所の前の広場に出た時、想像を越えた光景を見た。

紫の光のさらに向こう、深い青に沈んでいるはずの遠景に、不吉な赤い光を纏った漆黒の塊が現れている。

……おいおい嘘だろ。

何で、何でいきなり灰嵐が起こっているの?!

しかもあれ、ベースのある方角だ。

何で?!

吹き付ける風に、今まで感じられなかったものを感じた。

怒り、憎しみ、悲しみ、嘆き、絶望、無念。

まさか、あの灰嵐は──。

ダニーが私の首にしがみついた。

 

「ベルナーおじさん、かいらんになっちゃった……」

 

返す言葉が、全く思い浮かばなかった。

私は無言でダニーと神機を抱え直す。

やるせない思いを振り切り、風に逆らって避難所へと向かった。

 

 

この日の夜は、今までと違って静かなものになった。

急激な灰域濃度の上昇で、クロエが体調を崩して寝込んだこともそうだが、ベースで灰嵐が起こったことと、その原因がヴェルナーさんの死によるものだという憶測、そして灰嵐の影響で情報が途絶えたことが、私たちから楽観的な見方を奪っていた。

ダニーの謝罪を含めた反省会もうやむやとなり、夕飯も最後の缶詰レーションの予定だったが、クロエが寝込んでいる手前、明日以降に延期して質素なものとなった。

ダニーは寝込んでいるクロエの側を離れようとせず、アルビンとビャーネの表情も、いつもの生彩さを欠いていた。

ベースの灰嵐が、私たちの方に来るのではないか。

そんなことはない、とは言い切れない。

情報は何もなく、不安は募り、恐怖と焦りが心どころか内臓すら焼くような感覚に、あてどなく動き回りたく衝動をこらえる。

子どもたちのほうが、私よりもはるかに不安なはずだ。

私がみっともなく動揺するわけにはいかない。

家事をこなし、荷物の整理をしながら、灰嵐がこちらへ来ないよう祈ることしかできなかった。

眠る時間になっても寝ようとしない三人に、私は声をかけた。

 

「あんたたち、そろそろ寝る時間だよ。不安な気持ちはわかるけど、今日はもう寝なさい」

「この状態で寝るって」

「眠れないなら、せめて目を閉じて横になりな」

 

私はアルビンに言いつける。

 

「灰嵐が何事もなく通りすぎて、クロエの体調が回復したら、予定通りに明日から長い距離を歩くことになる。今ここで、みんなで元気を無くすわけにはいかないんだよ」

 

不安の表情を浮かべる子どもたちに、私は笑顔を作った。

 

「大丈夫。何かあったら私が起こしてあげる。そして、あんたたち全員抱えて必死で逃げてやるから」

「さすがに全員は無理だろ。……うん、寝るよ」

 

ビャーネが笑った。

その笑顔は固いものだったが、それでもどうにかいつもの陽気さは保とうとしているのはわかった。

いじらしいところもあるじゃないか。

私は笑顔を向けると、ビャーネの顔に手を伸ばし、その頬を撫でた。

 

「明日も元気に頼んまっせ、ダーリン」

「オーケイ、ハニー。グッナイ」

「グッナイ」

 

そしてアルビンに顔を向け、私は笑みを深くして言った。

 

「お前も寝ろよ。明日もあんたにはキリキリ働いてもらうんだからね。本当に頼んだよ」

「わかったよ」

 

アルビンはブツブツ言いながら寝る準備を始め、不安そうな表情で私を見ているダニーに声をかけた。

 

「ダニーも寝ようね」

「クロエのそばでねていい?」

「いいよ。明日、改めてみんなにちゃんと謝ろうね」

「ヨー」

 

三人はマスクをつけ、それぞれ寝袋に入った。

しばらくの間は寝付けない様子だったが、体の欲求には逆らえず、三人とも眠りに落ちたようだった。

せめて、夢の中では平和な一時を過ごしてほしいものだ。

さて、神機の整備をしよう。

今日も数多のアラガミと戦った。

しっかり整備して、明日に備えるのだ。

このバスターブレードは、かのミナトにいた時に、友人と共に憧れ目指した元GEの先輩の得物だった。

先輩の亡き後にそれを友人が引き継ぎ、そして友人が死んだ後、私が引き継いだ。

整備が行き届きピカピカだったであろう神機は、厄災を経て灰域に晒され、過酷な環境で持ち主を変えながら戦い続けた。

そして今、限界灰域を旅する過程で明らかに疲弊していた。

数多の傷が輝きを奪う神機を見つめる。

目的地に着いたら、ちゃんと整備してもらおう。

神機の整備をしながら胸をよぎったのは、ベースにいた友人たちやお世話になった人々であり、私が昨日倒した下衆な兵士たちだった。

 

ヴェルナーさんが、何故灰嵐となったかはわからない。

だが、どんな理由があったにしろ、敵味方関係なく、あの場にいた全ての人々が犠牲になったことは確実だった。

また会おうと言葉を交わした友人たちも、まだあそこにいたのなら、例外なく命を落としていることだろう。

そしてあの兵士たちもだ。

ただ、彼らは別の仲間に救助され、戦線を離脱した可能性もある。

だが、怪我が原因で逃げることもできず、灰域かアラガミに喰われた可能性もあるし、そもそも怪我が原因で死んだ可能性もある。

わからない。

確かめる術もない。

だが、生きていて欲しいと思った。

嘘偽りのない正直な気持ちだ。

奴等は紛れもなく下衆だったが、殺すつもりはなかった。

私は、先輩や仲間や友人から託された子どもたちが大切で、子どもたちだけでも生かしたかった。

そして、その子どもたちを侮辱されたことが、どうしても許せなかったのだ。

せめて、子どもたちだけでも人らしく扱ってくれれば、嘘でも建前でも優しく接してくれれば、大人しく話を聞き投降する道を選んだろうに。

だが、弱い己を認められず、未知で不安な力の塊である私たちを恐れ、下に押さえつけることで安心を得る彼らに、それは酷な話なのかもしれなかった。

そして、彼らが恐れる力を感情に任せて奮った結果がこれだ。

どうすんだよ、サイカ・ペニーウォート。

もしかしたらお前、人殺しの神機使いになったかもしれないぞ。

不意に手元から不穏な音がして、我に返った。

ヤバッ、整備の途中だった。

集中集中。

指先が冷たくなるのを、ストーブで暖めながら神機の整備を続ける。

生きていて欲しい。

加害者でありながらそう願うのは、あまりにも身勝手とは知りながら、それでもそう願わずにはいられなかった。

 

風はより一層強くなり、装甲壁で密閉されたようなこの建物にも、その猛威が伝わってくる。

だが、私の感覚では灰嵐が近づいている様子はない。

猛る感情を感じはするが、それは別の方へ向かっているように思えた。

それはどこなのだろう。

神機の整備が終わり、壁へ立て掛けて戻ろうとして、何かが動く気配がした。

ダニーの隣の寝袋が動いている。

マスクをはずし、起き上がったのはクロエだった。

顔色はまだ白いが、落ち着いた様子だった。

 

「サイカ」

「気分はどう? あ、ダニーが隣で寝てるから気を付けて」

「ウィ。……だいぶ楽になったよ。おトイレと喉乾いた」

「わかった。じゃあ一緒に行こう」

 

クロエは頷き、そっと寝袋を脱いだ。

私の手を借りてゆっくりと立ち上がる。

安静にして体力が少し回復したのか、クロエの足取りはしっかりしており、トイレをすぐに済ませて皆の元へ戻ってきた。

未だしっかりと眠っている男子を起こさぬよう、ベンチへと腰を下ろす。

 

「スープ飲めそう?」

「うん」

「オッケー。すぐ用意するね」

 

深めの器にフリーズドライのスープをいれ、お湯を注いでかき混ぜれば出来上がり。

文明、素晴らしい。

絶えずに残ってくれて本当にありがたい。

 

「はいどうぞ。ゆっくり食べな」

「メルシー」

 

クロエはスプーンでスープを飲み始めた。

相変わらず外は嵐が続いている。

しかし、ここは切り取られたように安全だった。

昨日、クロエがここに残る提案をした気持ちはわかる。

体の弱いクロエには、外の世界はいささか厳しすぎる場所だった。

ここにいれば、そんな世界の厳しさからは逃れることはできる。

しかし、ここは一時的な安全地帯に過ぎない。

居続けることはできないのだ。

やるせない思いでクロエを見て、一瞬息が止まった。

泣いていた。

 

「クロエ」

「ごめんなさい」

 

クロエは涙をぬぐいながら、彼女の故郷の言葉で謝り続ける。

 

「私、体弱くて、みんなの足を引っ張ってばかりで。ペニーウォートにいた時も、ベースにいた時も、今もそう。私、心配ばかりかけて何もできない」

 

クロエは涙をボロボロこぼしながら、歯を食い縛る。

 

「辛いよ。悔しいよ。何でこんな体で生まれちゃったの。AGEになっても全然強くないし、むしろ酷くなってるよ。やだよ、こんな体やだ! いらない! 私だって強くなって、みんなと一緒にいたいのに。みんなに守られたままじゃやだ。可哀想なままじゃやだよ」

 

泣きじゃくるクロエの姿に、私の今は亡き友人の姿が重なった。

体の弱かった友人はある日、体調を大きく崩してしまい、看守に罵声を浴びせられた。

そして、今のクロエのように泣きじゃくって先輩や私に謝っていた。

その時、先輩が言っていたことを思いだし、私はその言葉を拝借することにした。

 

「ゴメンね。その苦しさ、わかってあげられなくて、本当にゴメンね」

 

そして、クロエの背中をさすりながら言った。

 

「でもね、本当ならその体の弱さこそが普通なんだよ。私たちが普通になっている今の世界こそが異常なんだよ」

 

かつての先輩の言い回しや声の調子を思い出しながら語り続ける。

 

「だから、後ろめたく思う必要はないの。本来の普通を守るために、私たちは異常となって戦っているんだから。それにあんただって、その弱いと言っている体で、いつも戦っているじゃない」

「え」

「アラガミよりも強い敵、この異常な世界そのものと頑張って戦っているでしょ。いっぱい泣いて苦しんで、でも生き延びているんだよ。凄いじゃん。それは褒められることだよ」

 

背中をさすっていた手を肩に回す。

 

「あんたも、あんたの体も頑張っている。みんな知ってるよ。今は苦しさしか感じられないかもしれないけどさ、美味しいご飯を食べた時や、暖かい布団で眠れる時、可愛いくて綺麗なものを見た時に感じる喜びも楽しさも、その体があるからこそ感じられるものなんだよ。だから、いらないなんて言わないで、大切に労ってあげて」

 

鼻をすすりながら、クロエは黙って頷いた。

 

「少しずつでいいからね」

 

これで納得したとは思っていない。

かつての友人がそうだったように、今後も繰り返し伝えていく必要があった。

せっかくの顔が、涙と鼻水で酷いことになっているクロエにタオルをわたし、私はあの言葉を送ることにした。

 

「カヴェリア エイ ヤテタ」

「……何、それ」

「この地に伝わる言葉だよ。仲間は見捨てない。ダニーが、あんたたちの目を盗んで私のところに来た理由だって」

「……そうだったの」

「うん。さすがにお説教したけどね。でもね、私だって同じだよ。私はあんたたちを見捨てない。辛かったり苦しかったら、いつもどおり遠慮なく頼って。私もいつもどおりに頑張るから」

 

そうして背中を軽く叩いた。

 

「さ、ご飯食べちゃいな。そして薬を飲んで横になって寝る。いいね」

 

素直にクロエは頷き、ベンチに引っかけている私のジャケットに目を止め、眉を寄せた。

 

「酷いことになってる」

「今のあんたの顔ほどじゃないよ」

「酷い。また縫わなきゃ」

「それまでは黒テープですかねい」

「絶対に元気になってやるんだから」

「その意気だよ」

 

お茶を淹れつつ私は笑った。

食事を済ませクロエは薬を飲み、ダニーを起こさぬよう寝袋へと戻る。

横になるクロエに一声かける。

 

「ボンニュイ、フェ ドゥ ボー へエヴ」

「メルシー、パヘモン」

 

程なくしてクロエは再び眠りについた。

私はベンチの背に寄りかかる。

クロエやダニーの存在は、ともすれば足手まといと捉える人もいるだろう。

だが、私にとっては、平和な日常の象徴であり、普通という概念の目印のようなものだった。

そんな存在を、戦場に近い場所に連れてきている私の責任は重い。

頑張らなきゃだね。

気合いを入れ直し、ジャケットを手を伸ばした。

クロエに直してもらうまではテープで仮止めしておくか。

や、ここは頑張って自分で縫うか。

ジャケットを手に取り、内ポケットにある小箱を手にした途端、胸騒ぎがした。

ベースを出る前に、馴染みの男から受け取った平たく頑丈な小箱。

中身を確認しようと蓋を開け、この日一番、否、この旅で一番の絶望的な現実を突きつけられた。

中身はどこでどうやって入手したのか不明だが、極めて貴重な偏食因子が人数分入っている。

そのアンプルが一つ、砕けて中身がこぼれていた。

頑丈な箱と緩衝材で守られてはいるものの、アンプル自体は脆いものだ。

恐らく、クロムガウェインとの戦いで衝撃波を受けた際、吸収しきれず砕けてしまったのだろう。

大切なものだからと、肌身離さず身に付けていたのが仇となった。

全身の感覚が冷たく遠のき、呼吸すらままならず目の前が暗くなる。

 

まだ大丈夫だと、どうにかなるだろうと思っていた。

偏食因子がある限り、最悪の事態は免れると思っていたから。

だが、目の前の現実は無慈悲に告げる。

最悪は必ずやってくるのだと。

最悪を回避するためには、留まることも、時間をかけて過ごすことも決して許されないのだと。

箱を閉じ、手で顔を覆ってうなだれた。

自分のミスが招いた事態に、泣きたかったが泣けなかった。

泣けば少しは気が紛れるのに。

それでも、一つだけわかっていることがあった。

この場でただ一人の大人として、どんなに苦しくとも頑張るしかないのだ。

私の頑張りが、子どもたちの命を支えているのだから。

だが今夜くらいは、この酷い現実を嘆いてもいいじゃないか。

そう思いはしたが、やはり泣くことはできなかった。

 




ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
誤字脱字言い回し等、修正がありましたら都度修正します。
こちらでお知らせなどを語っておりますので、よろしければご覧下さい。
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