Life is what you make it《完結》   作:田島

1 / 30
転移

 【ヘロヘロさんがログアウトしました】

 表示されたメッセージを悔しさとも悲しさとも言い難い複雑で微妙な思いを込めて見つめるが、メッセージウインドウはそんな思いなど汲みはせず余韻もなくすぐに消えていった。

 

 DMMO‐RPG「ユグドラシル」のサービス最終日。全盛期にはギルドランキング九位まで昇りつめ、PK(実際には大半がPKKであったが)の常習犯の巣窟として悪名高い異形種ギルド「アインズ・ウール・ゴウン」のギルド拠点、ナザリック地下大墳墓。最盛期には四十一人を数えたメンバー数は今は四人、そしてサービス終了直前の今そこに残っているのはギルド長ただ一人だった。ギルド長モモンガは円卓から立ち上がり歩き出し、ギルドの象徴たるギルド武器、スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンが収納されている壁の前で立ち止まり、その豪華絢爛な杖をしばし見つめた後、部屋を後にした。

 思い出は所詮思い出にしか過ぎない。だけれどもそのアインズ・ウール・ゴウンの仲間たちとの思い出だけが他には何も持たないモモンガ――鈴木悟にとっては人生の総てと言っても過言ではない輝きを持っている。輝かしい思い出の象徴とも呼べるギルド全員の力で作り上げたギルド武器を、最後だけでも手にしてみようと思いつつもそれは思い出を汚す行為ではないのかと躊躇し、結局やめた。スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンはモモンガが持つことを想定しチューンナップされた(スタッフ)だが、多数決を重んじたアインズ・ウール・ゴウンにおいてモモンガの一存で持ち出していいものではない。ギルド武器が破壊されればギルドは崩壊する。サービス終了まで後十分もない今となっては破壊などされようもないことは分かりきっていたが、それでも己の一存で持ち出そうとは結局思えなかった。

 ゲームを始めて十年、様々な事があった。始めたばかりの頃は異形種狩りが流行っていて、スケルトンメイジという異形種でゲームを始めたモモンガは幾度となくその被害に遭いこつこつと上げたレベルを狩られて死にレベルダウンして戻されるという繰り返しだった。ゲームの中でまで己は虐げられるだけの存在なのだろうか、そんな虚しさが降り積もりこんなゲームはいっそもうやめてしまおうかと思っていた頃、たっち・みーと出会い助けられ仲間たちの元へと連れて行かれた。最初の九人――クラン、ナインズ・オウン・ゴールで仲間と語り遊ぶ楽しさを知りレベルも順調に上がって、PKの被害に遭ったり異形ゆえ仲間のいない異形種たちを助け少しずつ仲間が増えていった。比較的初期に仲間に入ったウルベルトとクラン長だったたっち・みーのリアル事情も絡んだ確執からクランが割れそうになり、推挙を受けて説得もされモモンガが新たなギルド、アインズ・ウール・ゴウンのギルド長を務め纏めることになった。

 それからの騒々しくも賑やかで夢のように楽しい日々は忘れようとしても忘れられない。ギルド長といっても意見の調整や各種連絡などの雑務をこなしていただけだが、ウルベルトやペロロンチーノに乗せられて始めた魔王ロールが死の支配者(オーバーロード)の禍々しい外装(ビジュアル)と相俟って意外にもハマってしまい、アインズ・ウール・ゴウンがPKに興じる悪のギルドであるという一般的な認識も合わさって非公式ラスボスなんて嬉しくない評判が定着してしまった。日がなどうでもいい与太話に興じ、未知を求めて冒険をした。楽しさも嬉しさも仲間たちとなら何倍にもなり、怒りや悔しさは仲間たちが分かち合って笑い話にしてくれた。こんなにも楽しく心安らぐ居場所は、他のどこにもなかった。

 物心つかぬ内に父を、無理をして入れてくれた小学校を卒業する前に母を失い、どうにか小学校を卒業して貧民層としては最低限の学歴を得たが待っていたのはブラック企業の末端の歯車の一つに成り下がる日々だった。家族も恋人も友人もなく、リアルでの日々をただ耐え忍び惰性で生きる鈴木悟にとって、モモンガとして仲間たちと過ごす時間は何物にも代えがたいほど輝いていた。

 

 ――楽しかった、本当に、楽しかったんだ。

 

 廊下に出て、ふと立ち止まる。

 リアルでの事情などから少しずつメンバーは引退していき、現在ギルドに在籍しているのはモモンガを含めて四人。他の三人も今日は短い時間だけ挨拶に来てくれたがゲームを遊ぶ目的で最後にいつログインしたのかなどモモンガですら思い出せないほど前だ。最後まで残っていきませんかとは言えなかった。皆明日の仕事がある、事情がある。モモンガさんは少しぐらい我儘を言った方がいいですよとたまに言われたものだが、ギルドが所有する世界級(ワールド)アイテムの一つをモモンガ専用にする希望を多数決で可決された事以外には最後まで結局言わなかった。和を乱したくない気持ちはもちろんあったのだが、これといった希望が浮かばなかったというのもある。

 一人になった今、最後はギルド長らしく、悪の華と呼ばれたギルドの魔王らしく玉座の間で過ごそうかと思って円卓(ラウンドテーブル)を出た。だがここでモモンガの悪癖とも言うべき貧乏性が首を擡げた。ゲームの最後に記念になるような光景を仲間たちと見たい、そう思って墳墓の外グレンデラ沼地に用意したものの事を思い出し、労力をかけて準備したのに使わないのも勿体ないかと思ってしまったのだ。

 思い付いたら時間が惜しい。サービス終了は日付変更の零時、残り僅か数分しかない。指に嵌めたリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンの転移機能を使って地上階の大霊廟まで転移し、大急ぎで外に出る。

 ナザリック地下大墳墓のあるヘルヘイムは永劫の闇に閉ざされた夜の世界、空は星明かりすらない暗闇に覆われ墳墓の周囲は毒の沼地に囲まれている。周囲にPOPするツヴェークたちも最終日のため今日ばかりはアクティブではなくなっていて近寄っても襲ってくることもない。今日は有給を取っていたので朝からログインしノンアクティブになったツヴェークたちの間を縫うようにせっせと仕込んでいたのだ。

 システムの時計を確認すると二十三時五十七分になっていた。もうそんな時間かと思い、頃合いとしては丁度いいだろうとも判断して、ナザリックの正門から沼地に踏み出したモモンガは沼地の至る所に設置したアイテムの最初の一つに着火した。

 ヒュー、と空を切る音が上空へと遠ざかっていき、時を置かずして暗闇に光の華が咲き、ドンと腹の底に響く重低音が鳴った。連動式にしてあるので最初の一つに着火すれば自動的に次々に花火が空を光で飾っていく。その総数五千、様々な色に彩られた光の華がぽっかりとした暗闇を埋めるがごとく飾り立て、残光を残して呆気なく消えていく。サービス終了記念に安くなっていた課金アイテムの花火を大量に買い込んだ。仲間たちと見る最後の光景をせめて華やかに飾りたくて。ただ、それだけの為に。

 墳墓といえば墳墓らしい栄光の残骸と化した墓を、仲間たちが戻ってくる事を信じいつ戻ってきてもいいように輝かしいまま維持しようと一人孤独にソロ狩りを続け、拠点の維持資金を稼いでいただけの墓守としての最後の数年。在りし日の輝きを忘れられなくてそれにただ縋っているだけなのだと、心のどこかでは分かっていた。それでも、どうしても捨てられなかった。花火だなんて、こんなものを見るんじゃなかった、心からそう思った。ひととき輝いて、残光を引いて消え散っていく。まるで、ユグドラシルでの輝いていた日々が所詮は儚い花火のようなものだったのだと言われているようで、一人で見上げる光の祭典はただ虚しく悲しかった。どうして花火なんて見ようと思ったのだろう、せめて誰かいてくれたなら、綺麗だと笑ってくれたなら、これもまた楽しく美しい思い出の一つになったかもしれないのに。

 打ち上がる花火は数を増し、見上げた視界が白く染まっていく。いくら最後だからって奮発しすぎたかなと苦笑が漏れた。この光景を見届けて強制シャットダウンされたらすぐに寝なければならない、明日は四時起きなのだ。夢の時間は終わりを告げ、輝きは胸に苦みと痛みを残して思い出に変わる。誰も現実からは逃れられない、ましてや貧民層にいる鈴木悟はその日を生きるのも精一杯なのだ。貧しい者は貧しいままそこから這い上がる機会は決して与えられない。世界はそういう風に出来ている。

 

 真っ白な視界が、突如暗転した。

 

 強制シャットダウンされたかと思い当たると、ぱっと視界が切り替わる。まず梢が見えた。どう考えても自室ではない、シャットダウンされていない。ならば未だゲーム内の筈、なのだが。

 グレンデラ沼地はその名の通り沼だ、木なんて生えている筈はない。だが周囲を見渡すとどう見ても深い森だった。まさかと思って目線を下に落とすと、地面をびっしりと覆い尽くし生い茂る下生えに脛まで埋まっていた。そして、緩い風に乗って湿った緑の匂いが鼻をくすぐる。

 待て、匂い? おかしくないか?

 辺りをきょろきょろと見回しながら、モモンガはただひたすら動揺していた。味覚と嗅覚はDMMO‐RPGの基本法である電脳法によって実装が禁止されておりゲーム上では完全に削除されている。そこまで再現すると現実世界と区別が付かなくなり混同するためというのがその理由だ。

 どう贔屓目に見てもここは自室ではない、どうして強制ログアウトされた様子はないのに匂いがするのだろう? 慌てて時計を確認しようとするが、先程まで表示されていたシステムコマンドやシステム一覧の表示全てが消えているし出すこともできない。左手首の時計を見てみると既に零時二分だった。

 ログアウトできないのは強制シャットダウンの延期なのだろうか、見覚えのない場所にいるのはバグなのだろうか、対処法がGMに連絡し確認するぐらいしか思い浮かばない。GMと連絡を取ろうとしてコンソールを出そうと操作しても反応がない。シャウトもGMコールもシステム強制終了も使えない。まるで完全にゲームのシステム上から除外されてしまったようだった。こんな事がありえるのだろうか。

「どういう事だクソ運営! 折角の最後だったんだぞ、最後の最後でこんな! ふざけるな!」

 やけくそになり湧き上がり溢れ出す怒りを叩きつけるようにありったけの大声で叫ぶ。モモンガの怒鳴り声にか怒気にかは分からないが周囲の命あるものが一斉に反応し、眠っていた鳥たちは叩き起こされ一斉に飛び立ち獣は駆け去り、虫たちは羽のあるものは全速力でモモンガから遠ざかろうと飛び去りバッタは地を跳ね地を這いずる虫も恐らくはその短い生で最高の速度を出してモモンガから距離を置こうと必死に足を動かしていた。

「……えっ」

 その光景を見て、怒りもすっかり忘れてモモンガは呆気にとられた。森にPOPモンスターが配置されているなら分かるのだが、ゲームには直接必要のないディティールである森の生き物たちをこんなに大量に微細に描写するのに一体どれだけのデータ量が必要なのだろうか。プログラムの専門家ではないから分からないがきっと膨大なのではないだろうか、今ここにヘロヘロさんがいたら聞けるのにと少しだけ思う。しかもただ表示されているだけではなく、モモンガの行動に明らかに反応した。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 まるで、現実? そこまで考えてぞっと背中が冷えるのを感じた。DMMO‐RPGは確かに仮想現実であり深い没入感を得られるリアルさがある。だがあくまで仮想であり実際の現実ではない。目の前の森にしてもユグドラシルの森林エリアより格段に高い映像解像度とより緻密なディティール、リアルさがある。まるでこれが現実であるかのように。微風が頬を撫でる感触など本当に現実にいるかのようだ。

 淡い期待を込めてユグドラシル2の情報を追っていたので、最新のDMMO‐RPGに使われている技術に関しても鈴木悟は(浅くはあるが)ある程度は知っている。だがこんな本当に現実世界にいるかのようなリアルな描写を可能とする技術革新の話など聞いたことがなかった。そんなものがあったらいくらなんでもニュースにならないわけがない。そもそもそんな技術革新があっても法律で禁止されているのだから嗅覚の実装は無理だ。

 考えても分からないものは分からない。今考えるべきはGMと連絡を取る方法だ。そう気持ちを切り替え他の方法を考える。やった事はないが、〈伝言(メッセージ)〉の魔法でももしかしたら連絡がとれるのではないだろうかと思い当たる。GMにもキャラデータがあり、アバターがゲーム内を動き回っている。という事は、可能性としてはないわけではない。しかしコンソールが出ないのにどうやって魔法を使えばいいのだろう。

 しばし黙考し、突然理解した。これはコンソール操作のようなそういった言葉で説明できる種類のものではない、右腕を動かしたいと脳が指令を出したら即座に右腕が動くようなものだ。奥深くに確かに存在する魔力に手を伸ばし、〈伝言(メッセージ)〉を発動する。妙な感覚がした。糸のようなものがモモンガから伸びていって、やがてどこにも届かずに魔法の持続時間が切れた。もしかして、と思い、虚空に腕を伸ばし指を翳す。魔法を発動しようとするだけで魔法の効果範囲、リキャストタイム、残りMP、様々な情報が分かってしまう。

「〈電撃(ライトニング)〉」

 ばりばりばり、と閃光が夜の森を切り裂き震わせた。放った先にある木に大穴が開いている。

 魔法を、使えてしまった。そもそも手も腕も骨だ、恐らくは死の支配者(オーバーロード)のアバターのままなのだろう。纏っているローブもゲーム内で着ていたものだ。ということは、いまいるこの場所は現実――リアルでもない。ユグドラシルの魔法が使えるのだからユグドラシルの続編か何か、と思いたいところではあるのだが、そんな情報は何もなかったしサプライズにしても強制的に参加させるなど拉致監禁ととられてもおかしくはない、ユグドラシルの運営がそんなリスクを犯す理由もメリットもない。そもそもコンソールも出さずに念じるだけで魔法が使えるゲームなど今の技術では無理だろう。

 リアルでもなければユグドラシルでもない、では今いるここは一体何なのだろう。

 どれだけ考えても分かるわけがない。その内モモンガは考えるのをやめ、適当な木の根元に座り込んだ。リアルにある鈴木悟の肉体の脳内のナノマシンはゲーム中多量の栄養を必要とする。栄養が足りなくなればハード側で強制的にシャットダウンされる筈なのだから、もしこれがユグドラシルではないゲームなのだとしてもそれまで待てばいいのだ。最後に補給したのは夜九時頃だったので、そう待たない内に強制シャットダウンされるだろう。

 

***

 

 なんて思っていた頃が俺にもありました。

 夜が明けても、強制シャットダウンがかかる様子は一切なかった。

 そして不可解な点が新たに二点見つかった。まず一つ目は眠気と空腹感や喉の乾きが一切ないこと。そして二点目は時間の進み方である。

 徹夜している事になるのだが眠気など一切なく、昼間の活動的な時間のように頭が冴えている。生理現象のようなものも一切ないのは、あまり考えたくないがアンデットの疲労しない特性や飲食不要の特殊能力によるものなのだろうか。考えてみればあまりにもおかしな状況なのに動揺や怒りなどにより感情が昂ぶるとすっと冷えそれなりに冷静な思考を保っていられるのも、アンデッドの精神作用無効によるものなのかもしれない。夜の森でも昼間であるかのように見えていたのはゲームだからだと思っていたがこれも種族特性として持っている闇視(ダークヴィジョン)の効果だろう。

 時間については、時計で確認したが実時間と同じように進行していると思われる。ゲーム内ならば(クエストの進行などの基準としてのゲーム内時間の)日付の進みは実時間とは違っていたし、実際(ヘルヘイムのような常闇の世界では関係なかったが)ゲーム内時間に合わせて画面上の昼夜も進行していたので今いるここはゲームではない、どちらかといえば現実世界に近い世界であるという可能性がますます高まってしまった。

 一度確認のため〈飛行(フライ)〉で上空に上がり空から周囲を眺めてみたが、全く見覚えのない場所だった。今は、何をする気力もなく木の根元にただ座り込んでいる。

 モモンガにとって重要なのは、何処とも知れない場所に一人で放り出された、という事だった。

 リアルでは天涯孤独で恋人も友人もない鈴木悟を待つ人も探す人もいない。アインズ・ウール・ゴウンの仲間たちは一人また一人と去って行って、一人残された。そして今度は本格的に誰も知らない場所に一人放り出されたというわけだ。乾いた笑いすらこみ上げてくる。

 どうして俺は独りなんだろう。

 去っていく仲間をやめないでくれと引き止めればよかったのだろうか。特に仲の良かったウルベルトやペロロンチーノなどとはメール以外の個人的な連絡先も交換していたのだからリアルでもっと関わりを持つべきだったのだろうか。次々と後悔が押し寄せてきては降り積もる。

 何も、こんなに徹底的に独りきりにすることないじゃないか。

 泣きたい気分だったが、泣くほど昂ぶった気持ちはすぐに落ち着きじわじわと胸を締め付ける切なさだけが残る。そもそも眼球も涙腺もない頭蓋骨がどうやって涙を流すというのだろう。

 じわりと胸を締め付け続ける悲しさや虚しさが不快で、モモンガは膝を抱えた。

 

***

 

 その日、エンリ・エモットはその時期にしか採取できない薬草を探してトブの大森林に入っていたのだが、どうにも森の様子がおかしかった。

 生き物の気配が一切ないのだ。いつもならばやや離れた場所から鳥の声が聞こえてくるし、今の季節ならば虫など鬱陶しいくらいの筈なのに、影も形も見当たらない。

 そのただならぬ気配に嫌な予感は強く濃くなっていくものの、薬草は村の大事な収入源、今の時期を逃してしまえば薬草の薬効は薄くなってしまうから高く売れなくなってしまう。いつでも逃げ出せるよう身構えつつも進み慣れた森の中を殊更慎重に歩を進めていった。

 やがて背の高い草の茂みを抜け、やや開けた場所に出る。もう少し進めば目当ての薬草の群生地なのだが、茂みを抜けたところでエンリの足は止まってしまった、いや止まらざるをえなかった。

「ひっ……!」

 そこには異形がいた。

 見たこともない高価そうな生地の漆黒のローブを着込んで木の根元に座り込んだその異形の顔は、眼窩に紅い光を宿した髑髏だった。異形はエンリを一瞥すると、興味を失ったのか目線を下に落とした。

 これはきっと、話に聞くアンデッドなのだろう。エ・ランテルでは墓地でよく出るというけれどもカルネ村では見たことがなかった。トブの大森林の、それもこんなカルネ村に近い所にいるとなれば一大事だ。だがエンリの足は村に向かって動かなかった。恐怖によって縫い付けられていたというのが一つ目の理由。もう一つの理由は、生者を憎み見境なく殺すというアンデッドが生者たるエンリに全く興味を持っていないどころか何かにいじけているかのように膝を抱えて座り込んでいるのは何故なのかがあまりにも不可解だったからだ。

「あの……」

「……なんですか?」

「何、してるんですか? そんな所で」

 返答が来るとは思っていなかったのに思いがけず丁寧な口調の返事が返ってきたので思わず間抜けな質問が口から出てしまったが、覆水盆に返らず、吐いた唾は飲めない。今にも襲いかかられてもおかしくはないそんな状況からくる恐怖に竦みつつ答えを待つ。

「……何もしてないですよ。というか、何もする気が起きないし何をしていいのかも分からないんです」

「はぁ……」

「俺に用事がないなら放っておいてくれませんか」

「あの……そういうわけにはいかないです…………だって、あなた、アンデッド、ですよね?」

 強い警戒を口調に滲ませながらエンリが異形の様子を伺いつつ口にすると、異形は顔を上げてエンリの顔をまじまじと見つめた。異形の顔が怖い、一般的な人骨よりいかつい顔付きをしているしぽっかりと開いた眼窩に灯る紅の光は禍々しさがある。ローブの豪奢さも合わせると邪教の御神体と言われても納得してしまいそうだった。改めて観察すると恐怖に思わず崩折れそうになってしまう。

「多分……そうだと思います。そう、ですね、多分俺はアンデッドです。なったばっかりでよく分からないんですけど」

「えっ、そういう感じなんですか、アンデッドになるのって」

「いや、分からないです。突然の事なので俺自身戸惑っているので」

「あの……生きてるものを憎んだり、してますよね……?」

「えっ? いえ、そういうのは全然ないです。アンデッドってそういう設定なんですか?」

 ないない、とでも言いたげにアンデッドは顔の前で手をぶらぶら振った。その仕草があまりに生きている人間、しかも善良な人間のようでおかしくて思わずエンリはくすりと笑いを零していた。こんなに怖い顔のアンデッドなのに。

「せってい、というのはよく分かりませんけどアンデッドはそういうものだって、街に住んでる薬師の友人が教えてくれました。私はあなたが初めて見るアンデッドなので……」

「なんか……済みません、初めて見るアンデッドが俺みたいな変な奴で……」

「いえ、いいんです! 普通のアンデッドに襲いかかられる方が困ってましたから! 死んじゃいます!」

「あはは、それもそうですね」

 アンデッドの笑い声は優しげな気のいい青年のそれだった。魔王然とした恐ろしい容姿さえ考慮しなければ。すぐにでも村が襲われるような警戒はしなくてもいいのかもしれないとエンリは安心し息をつき、緊張しっぱなしで震えていた脚に力が入らなくなり少し進んでへたり込んだ。

「大丈夫ですか?」

「あっ、あの……緊張して脚が……その、怖かったので」

「怖い……あっ、ああ、そうですよね、済みません、俺の顔怖いですよね……」

「いいんです、あの、勝手に怖がったのは私の方なので……それであの、お名前を聞いてもいいですか?」

 名前を問うと、アンデッドは顎に手を添え目線を下に下ろして考え込んだ。アンデッドとしての生を受けたばかりというからもしかしたらまだ名前などないのかもしれない。質問を間違えてしまったかもしれないとエンリがおろおろしていると、アンデッドは顔を上げ顎骨を動かした。

「モモンガ……といいます。君は?」

「エンリです。エンリ・エモット」

「近くに村がありましたけど、そこに住んでるんですか?」

「そうですけど……あの、村に何か……」

「ああ、別に襲おうとか考えてるわけじゃないです。ただの世間話です。アンデッドじゃ人間の中でまともに生きていけそうもないのは君の話でよく分かりましたし、近付くつもりはないです」

「えっと……あの、済みません……そういうつもりじゃなくて……」

 申し訳なくなってエンリは目を伏せた。目の前のアンデッド、モモンガは悪意などなくただ話をしようとしているだけなのに、アンデッドだからというだけで警戒してしまう自分が恥ずかしかった。悪意があれば既に発見している村なのだからすぐに襲えばよかったのだ、村が襲われていないということがモモンガに悪意がない何よりの証明だ。それに最初に言っていた、何もする気が起きないし何をしていいのかも分からない、と。

「あっあの! 言ってましたよね、何もする気が起きないし何をしていいのかも分からない、って! 何かその、悩みとか、あるんですか?」

 顔を上げ一気に捲し立てると、モモンガはエンリを見つめしばし黙り込んだ。恐らくきょとんとしているのだろう、段々アンデッドの表情が分かるようになってきてしまった。やがてモモンガは深く溜息をつくと膝を抱え直しエンリから目線を逸らした。

「ここじゃない別の所でですけど、仲間がいたんですけど……皆俺の前からいなくなっていったんです、少しずつ。仲間たちといるのが本当に楽しかったから俺は戻ってきてほしかったのに、ずっと待ってたのに、誰も戻ってきてくれなかった。独りになってしまった。そうしたら今度はこんな何処なのかも分からない誰も知ってる人のいない土地に飛ばされて、本格的に独りぼっちです。ぼっちは慣れっこだった筈なんですけど、慣れてたんじゃなくて仲間たちといられる時間があるからやり過ごせてただけなんだなって思い知って……済みません訳の分からない話しちゃって……とにかく、何の為に生きたらいいのか、よく分からなくなってるんです」

「何の為に……生きる? モモンガさんはすごく難しい事を仰るんですね」

 素直に疑問を口にすると、モモンガはエンリの方へと訝しげに視線を戻した。

「そうですか? 誰しも一度は考える疑問だと思いますけど」

「だって、私達みたいな農民なんて死なない為に生きるので必死で精一杯ですから、生きる意味なんてそんな難しい事考えた事もないです。ただ、今のお話で分かった事があります」

「何ですか?」

「モモンガさんは、一人で寂しいんだなって事です。もしかして寂しくなくなったら、生きる意味も分かるかもしれませんよ? 今日は薬草を採りに来たのであんまりゆっくり出来ないんですけど、もし良かったらまたお話に来てもいいですか?」

 頬には自然と笑顔が浮かんでいた。最初いじけていた風だったのは何のことはない、置いていかれて寂しがっていたのだ、それが分かるとこの優しげなアンデッドの力になってあげたいという気持ちが湧き上がってきた。アンデッドとして生まれたばかりだというしこの辺りにも不慣れな様子だし、エンリのような平凡な村娘でも多少は力になれることがあるだろう。

 モモンガはエンリの申し出を聞いて少し呆然とした様子だったが、やがてゆっくりと頷いた。

「はい、是非。色々お話してくれたら、俺も寂しくないです、助かります」

「良かった。じゃあ私、ちょっと奥に薬草採りに行ってきますね」

「お気をつけて」

 (恐らく)にこやかに手を振るモモンガが見守る中、ようやく緊張の緩んだ脚で立つ。少し歩くと焦げ臭い匂いがしたのでふと横を見ると、巨木に大きな穴が開いて向こう側が見えるようになっていた。

「……あの、モモンガさん」

「はい、何でしょう?」

「えっと、あの……穴は?」

「あっ、あはは……ちょっと魔法の試し撃ちで……済みません」

 この人(?)は怒らせたら大変な事になるかもしれない、力にはなってあげたいけど注意しないと。エンリは決意を新たにして今度こそ目当ての薬草の群生地へと入っていくのだった。

 

***

 

「参ったな……」

 誰にも届かないようなかそけきモモンガの呟きは宙に溶け消えた。エンリと話してみて分かった事がある。自分は人間を同族として認識できていない。

 まず最初エンリが姿を見せた時は羽虫が飛んでるくらいの認識しか抱けずにすぐ興味を失った。声を掛けられ言葉を交わす内に、段々犬猫に抱くのと同じような愛着が湧いてきた。アンデッドは生者を憎むと言っていたが、モモンガの今の状態としては人間は特に憎んでないけど興味もない、邪魔なら踏み潰すくらいのものだ。

 モモンガさん、愛の反対は憎しみじゃなくて無関心だよ、愛と憎しみは双子なんだ。そんな事を言ったのは誰だったろう。いい感じの言葉はついぷにっと萌えさん語録にしてしまう癖があるがこれはぷにっと萌えさんではないような気がする。人間が同族だった場合に抱く親近感を愛のようなものとして考えれば、今モモンガは対極の位置にいる。いっそ生者を憎むアンデッドの方がまだ人間臭い。

 体だけではなく心まで知らない内に人間を辞めてしまっていた。さすがにこれは洒落にならない。

 死の支配者(オーバーロード)

 厨二病にかかっていた鈴木悟(モモンガ)がルビのカッコよさだけで最終目標に定めた種族。まさかこんな人間を蟻か羽虫みたいに認識するような種族だとは思ってもいなかった。いやそもそもこんな訳の分からない場所に飛ばされて体も心もアンデッドに変質するという事態が想定外すぎるのだが。同族なら認識は変わるのだろうか。そもそも同族はいるのだろうか。アンデッドはいるようだが。

 とりあえず好意を持てれば犬猫がかわいいくらいの認識は持てることが分かったのは収穫と言えるだろう。エンリの言う通り、モモンガは、鈴木悟は独りなのが、寂しいのが嫌だったのだ。辛くて、それを訴える人が誰もいなくて、もし言う機会があったとしても口にできなくて。だから、独りになってしまうような生き方は避けたい。なるべく面倒事は起こさず、アンデッドだから難しいかもしれないが明るく和やかに過ごしていきたいものだ。

 ほんの少しだけ、細い針で暗闇を穿っただけのものかもしれないけれども光が見えたような気がして、モモンガはもし表情筋があったなら微笑みを浮かべていたであろう上機嫌で膝を抱え直した。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。