王港の一族   作:鈴本恭一

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⑥セントローレンス川のクジラと紳士

 

 

「いたい……」

 

 イヴはソファベッドから起き上がり、痛みや疼きに苛まれる自身の体を見やった。

 

 キャンピングカーのカーテンから差し込む光が、イヴの白い体のあらゆる場所に刻まれた歯形と鬱血痕をはっきり浮かび上がらせる。

 

「アリーめ」

 

 イヴは昨夜のことを思い返し、苦笑する。

 車内には誰もいないが、壁に紙が貼り付けられており、

 

『買い出しに行ってきます ロバート & アリアナ』

 

 と書かれていた。

 

 イヴは下着とシャツ、セーター、ジーンズを着込み、手鏡で身支度を軽く調える。

 ストールを羽織り、車のドアを開けて外に出る。

 

 柔らかい陽光。まだ朝の時間帯だ。10月の風に身を震わせた。

 

 キャンピングカーは街道脇の空き地に駐車している。

 目の前にはセントローレンス川。

 対岸にアンティコスティ島が見えた。

 

 

 ここはカナダ・ケベック州。

 ケベックシティから北東へ900km。セントローレンス川沿いのある街道。

 

 

 

 

 オンタリオ原子力発電所の襲撃から一週間が経った。

 

 

 

 最初の3日間、イヴは眠り続けていた。アリアナからエネルギーと物質の支援を受けたキギがずっと治療にあたり、4日目で目が覚めた。

 

 

 

 アリアナ達はキャンピングカーでカナダ各地を転々としていた。

 

 アメリカとの国境間近で爆発があったため、アメリカ側は厳重な警備を敷いた。そのせいで越境はしばらく出来ない。

 

 襲撃の後、アリアナは当初の予定通り歩行でカナダの険しい森林地帯を北上。追跡を振り切り、あらかじめ移動しておいたロバートのキャンピングカーと合流。イヴの快復を待った。

 

 カナダの国土面積は約1000万平方キロメートル。世界第2位。

 対して人口は約2000万人弱。

 1キロ四方に2人もいない。その上国民の大半は都市部に集中している。煙に巻くのは容易かった。

 

 さらに襲撃時に身につけていた衣服は全てアリアナが捕食して消化した。原発の事件とイヴ達を特定するものは何もない。

 

 

 このまま身を潜め、2ヶ月後のクリスマスを待って国境を一気に越える。

 

 

 

 それで、この旅は終わりだった。

 

 

 

「……寒い」

 

 イヴはストールの下で腕をさすり、川辺へ降りる。

 

 川辺と言うよりビーチだった。

 セントローレンス川の河口部分であり、湾口と呼んでいい。

 

 対岸に見えるアンティコスティ島を東に抜ければ、セントローレンス湾。

 さらに東のニューファンドランド島を越えた先が、大西洋だ。

 

 

 イヴは無人の浜辺を歩く。

 3日も眠っていた上に、大半を車内のソファベッドで過ごしたので体がなまっていた。

 

 川面と風が織りなす自然の音しか聞こえない。

 

 その中をゆっくりと歩いていたイヴだったが、目線の先、岸辺に打ち上げられた巨大なものを発見する。

 

 

「……クジラ?」

 

 

 イヴは目を細める。

 

 波打ち際に横たわるのは、7メートルはあろうかという巨大な塊。ミンククジラだ。

 白い腹を上にし、頭部の下に刻まれた無数の襞を空へ晒している。

 

 力なく垂れる前肢を白い波が無慈悲に洗う。

 

 生命の気配はない。事切れ、今はただの肉塊だった。

 

 

「あ」

 

 イヴは思わず声をあげる。

 

 ……そのクジラの死骸へ、手を当てている紳士がいたのだ。

 

 イヴの声に、眼鏡を掛けた紳士は振り返る。

 

 壮年をした灰色の髪と髭、知性を宿す柔和な瞳。

 

 

 その瞳の周りが、赤く腫れ、濡れていた。

 

 紳士が微笑む。

 

 

「やあ、こんにちは」

「こんにちは」

 

 イヴは挨拶を返す。

 紳士は眼鏡を取り、目の周りを落ち着きながら拭き取った。

 

「1時間ほど前に、息を引き取ったんだ。夜明け前に座礁してるのを見付けてね」

「一緒にいたの?」

「傍にいたが、それ以外なにも出来なかった」

 

 紳士は鼻をすする。

 

「何歳になっても、死はつらい。妻のことを思い出す」

「……お悔やみ申し上げます」

「ありがとう。悲しいのはつらいから仕事に没頭して誤魔化そうとしたんだが、どういうわけか、気付けばこんなところまで来てしまった。で、またつらい目に遭う。皮肉なものだ」

 

 紳士がクジラの白い腹を撫でる。

 イヴはその労るような仕草を眺めながら、尋ねた。

 

「お仕事って?」

「―――聞きたいかね?」

 

 すると紳士はそれまでと打って変わり、瞳を煌めかせた。

 少年のように。

 

 

 

 

 

 

 

*******

 

 

 

 

 

 

「つまり全ての物質は陽子と中性子の原子核から成っている」

 

 紳士は拾った枝を使い、クジラの死骸から離れた浜辺でガリガリと円を2つ描く。

 

「陽子はプラスの電荷があり、中性子は電荷がない。つまり原子核は常にプラスの電荷を帯びている」

 

 

 円2つを描くと、紳士は年齢を感じさせない身軽な動きでたったったっと離れていく。

 そしてある程度の距離で振り返り、イヴに向けて両手を振る。

 

「聞こえるかーい?」

「聞こえるー」

「OK、私は今から原子核だ。そっちに行く」

 

 紳士は来た道を引き返して歩き出すが、近付くに従ってその歩みはどんどん重くなる。

 パントマイムのような大仰な仕草で苦しそうにするから、イヴは思わず吹き出してしまった。

 

「どうしたのー?」

「君のところにある原子核が私を押し返そうとしてるんだ」

 

 紳士は、非常にわざとらしい演技で息切れし、その場で立ち尽くす。

 

「私は原子核なのでプラスの電荷を持ってるんだが、君のところの原子核も電荷はプラスだ。磁石と同じで、プラス同士は反発してしまって近付けない。しかも近付けば近付くほど反発力は強くなる」

「じゃあどうするのー?」

「こうする」

 

 突如、紳士は身を砂浜に屈め、陸上短距離走のようなクラウチングスタートの姿勢を取った。

 ぎょっとするイヴを尻目に、紳士はトレンチコート姿のまま見事なダッシュを開始。革靴と砂浜という悪条件をものともせず、イヴのところへ猛然と駆け込んだ。

 

 そして自分で描いた2つの円へ思い切り踏み込む。

 円は砂土を飛散させて掻き消えた。

 

「このように! 押し返そうとする反発力を! それを上回る力で突破することで! 原子核同士を接触させることが可能!」

「おお~」

 

 イヴは拍手。

 紳士は一礼する。先ほどまで浜辺を全力疾走していたとは思えない完璧な所作で。

 

「ということをするのが私の仕事なんだ」

「原子核を2つぶつけるとどうなるの?」

「状態によるかな。原子核同士がきれいに核融合することもあるし、陽子や中性子が破損して中の素粒子が出てくることもある。私の仕事は、どちらかと言えば後者が目的だね。実際には原子核ではなく陽子や中性子や電子をぶつけて壊すが」

「壊すの?」

「壊して、中身の部品を見たいんだ」

「なんで?」

「この世界が何で出来ているのか知りたいから。この世は分からないことだらけだからね」

「その仕事が好きなんだ」

「まあね。君は? 学生?」

「ウェイトレス」

「なるほど。看板娘だ」

「先月やめちゃった」

「色々あるんだな」

「色々あったの」

 

 紳士は砂を払いながら「そうか」と頷き、

 

「私もね、本当はさっき話したことをしたいのであちこちを駆けずり回ってたわけだけども、なぜか調査委員会のメンバーにされてしまった。で、色々とあってカナダまで来ることになったんだ」

「カナダの人じゃないの?」

「アメリカだよ。アーカムに住んでる。マサチューセッツの。そこのミスカトニック大に勤めてるんだが……君もアメリカ人?」

「うん。キングスポート」

 

 紳士は僅かに目を瞬かせた。

 瞳の光り方に若干の変化を感じたイヴは首を傾げ、

 

「どうしたの?」

「昔、教え子にキングスポート出身の子がいてね。懐かしいな」

 

 紳士は苦笑し、頬と唇を緩ませる。

 

「実はこの間、仕事でキングスポートに行ったんだ。もしかしたら彼に会えるかもと思っていたが、まぁ、そう上手くはいかなかった」

「会いたいんだ?」

「うん。彼は突然いなくなってしまったから」

 

 紳士の瞳に、寂しい色が浮かぶ。

 よく変わる眼をした人だ、とイヴは思った。

 

「みんな去ってしまった。妻も、彼も、メイドも」

「メイド?」

「行きずりの娘でね、アイルズベリー通りで妻が拾った。妻がいなくなるのと同時に消えた。彼にあげたキャンピングカーも消えていたから、それに乗っていったのかもしれない」

「……そのメイドのひと、瞳の色が左右で違ったりしない?」

 

 イヴの質問に、紳士は目を大きく見開いた。

 

「どうして?」

「キャンピングカーっていうのは、テーブルの隅っこに元素記号とか何かの計算式みたいなのを書いてたりしない? 油性ペンで」

「きみは、何者なんだ……?」

 

 驚きに表情を強張らせる紳士へ、イヴは彼の背後を指で示す。

 

「その教え子さんとメイドさんって、あの人達じゃないの?」

 

 

 紳士は重い動きでゆっくり振り返る。

 

 浜辺を歩き、近付いてくる2人の人物。

 

 

 アリアナと、ロバート。

 

 

 彼らの表情もまた、強い驚きで固まっている。

 

 そして彼らの顔を見たイヴも、驚きに息を呑む。

 

 

 

 

 ロバートは、涙を流していた。

 

 

 

 

 口を小さく開け、呟く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――――ワーズワース先生」

 

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