「ロバート」
紳士―――エイブラハム・W・ワーズワースは最初の驚きから抜け出し、大きな歓びの表情で青年を迎えた。
対し、ロバートは硬直したままだ。白く繊細な顔に細い涙を零し、ワーズワースを凝視する。
アリアナは彼の傍らでそれを見守った。
驚きと警戒、不安の混じった眼差しを2人の男へ向けている。
ワーズワースがロバートにゆっくり近付く。
ロバート、びくっと震え、その場で凍り付く。
ワーズワースは微笑みながら腕を広げ、躊躇することなくロバートに密着し、抱擁した。
「会いたかった」
「……嘘です」
「私は、会いたかったよ、君に」
ロバートは何も言わなかった。
ワーズワースがその背中を慈しみはたく。
アリアナは彼らから目を離し、別の方向へ歩き出す。
イヴはただ3人を見ていた。
「………ンだ? こいつぁ」
ロバート達と距離を取ったアリアナが、吼える。
ワーズワースは身を離し、イヴもロバートもアリアナを見る。
アリアナは座礁したクジラの遺骸を無遠慮に拳で殴っていた。
「クジラだよ、アリー」
イヴが応える。
「なもん見りゃ分かるっつうの。なんで死んでんだ? 先生がやったのか?」
「残念。私はエイハブ船長じゃない。打ち上げられて海に戻れず、先ほど死んだ」
「じゃあ、私が食っても誰も文句は言わねえな」
アリアナは特有の獰猛な笑みで、全身を熱す。
冷たい川風が灼かれ、アリアナの体は輝き出す。
左右で異なる色の瞳が燃える。長髪がひとりでに踊る。
アリアナが、巨大な肉塊を貪ろうとしたとき。
「――――やめなさい、アリアナ」
鋭い声がセントローレンス川の岸辺を駆ける。
アリアナの手が、止まった。
イヴはその声の、静かだが芯を内包する強かさに驚き、発生源へ振り返る。
ワーズワースへ。
「人以外のものを略奪してはいけない」
ワーズワースは穏やかさな顔つきのまま、しかし揺るがない眼差しでアリアナを見詰める。
アリアナはそれを横目で睨む。ワーズワースは毫も怯まない。
「君たちの技は、この星、この世界を維持する循環の輪からの略奪に他ならない」
ワーズワースは言う。
「彼の血肉は川と森の野獣たちが食べる。残った分は水や土に住む微生物が分解する。土と川は彼によって肥える。君は何ももたらさない」
「私の血肉になる」
「君は地には還らない。天へ行く。今もそうなんだろう?」
「ああ」
「野生動物をいじめないでやってくれ。弱い者いじめをするほど、君はつまらない生き物じゃない」
頼むよ、と真剣な声で彼は言った。
「……」
アリアナはワーズワースを正面から見据える。
イヴは息を呑む。
彼女の瞳が、悔しさと哀しみではっきり燃えていた。
「………奥様にも、それくらいのことを言ってやれば良かったんだ」
泣き出しそうな声。
イヴが初めて耳にする声音、表情。
ワーズワースは微笑む。やはり、哀しげに。
ロバートも俯く。
みな、哀しみに濡れていた。
「―――……」
イヴを除いて。
*******
「いや本当に参るよ。こっちは加速器が作りたいっていう話のに、やれプルトニウム核燃料を増殖炉でもっと作れないかとか、やれ天然ウランで発電できないかとか、全然関係ない相談ばかりさせられてね。まったく、ミスカトニックはいつから原子力委員会の出向先になったんだい」
ワーズワースは山盛りのフライドポテトを手に取り、小皿に乗ったケチャップへ付けて食べる。
次のポテトはビネガーの小皿へ。それも食べる。テンポ良く。
その軽快な食事とお喋りに、川辺で悲しんでいた様子は全く感じられない。
「まあ後者については私がどうこう言うよりも先に、このカナダの人間達が実用化してしまったがね。そっちに訊きに行ってくれればいいものを。私の時間を返してくれ」
まくしたてるワーズワーズはテーブル席の3人へ大仰な仕草で訴えた。
彼らがいるのは再会した川岸から街道を走って十数キロ離れた町の、あるハンバーガーショップだ。
イヴ達はキャンピングカーで、ワーズワースは自前のクライスラーでそれぞれ移動した。
窓際のテーブル席。セントローレンス川の水平線が窓から見える。
「普通のウランで発電できるの?」
窓際に座るワーズワースの隣で、イヴがグリルドオニオンをナイフで切りながら尋ねる。
「できる」
ワーズワースはにやっと笑った。
「原子力発電の主な熱源は天然ウランに含まれる同位体ウラン235だ。これが核分裂するときのエネルギーを利用してるから、極論を言えばウラン235さえあれば発電できる」
「ロビンの講義じゃ教えて貰わなかった」
「僕が先生の所に師事してた頃は、そんなのなかったからね」
ワーズワースの対面でサラダの山を少しずつ削りながら、ロバートは苦笑した。
その表情はワーズワースと同様、先ほどの川辺での感情をきれいに押し流しているように見えた。
が、サラダを取るその手は僅かに震え、食べる量もひどく少ない。
イヴはそれを見ても何も言わなかった。代わりにワーズワースへ質問する。
「作れたのなら、これからはみんな普通のウランで発電するようになるの?」
「いや、どうかな。天然ウラン式は減速材に通常の水ではなく重水を使うから」
「重水?」
「水素ではなく重水素でできた水のこと」
イヴはその言葉に、ちらっと対面のアリアナを見やった。
アリアナはハンバーガーを片手で1個ずつ掴み、交互に食べ散らかしている。自分の席に置かれているのはハンバーガー6個とホットドッグ4個、ビールジョッキ2つ。
アリアナは顔色を変えず、会話にも参加しない。
ワーズワースが続ける。
「普通の水は水素2個と酸素1個で出来ているだろう? H2Oだ。その水素の原子核が、普通より中性子1つ多い。これが重水素。この重水素2個と酸素1個で出来ている水が、重水だよ」
「なんでそんなの使ってるの?」
「核分裂をうまく誘発するには中性子をゆっくりとウラン235に与えてやらないといけない。そのために減速材で減速させるんだが、普通の水だと減速しすぎて中性子を捕獲してしまうんだ。重水は普通の水より中性子の捕獲率が低いから、減速させつつ中性子を次のウランに送ってくれる」
「イヴ、今の話わかる?」
ロバートが会話に加わる。
「ぜんぜん」
イヴはさらりと首を振る。
「重水は核分裂に優しいってことだけ分かってもらえればいいよ」
ワーズワースは苦笑。
「じゃあ普通の水をみんな使ってるのはなんで? その重水とかの方がいいんでしょ?」
「理想を言えばね。しかし、そもそも重水がレアだ。全水素中0.02%にも届かない。作るのが面倒だ。しかも中性子を捕獲すると三重水素になって放射性物質になる」
「あと天然ウランだと燃料の減りが速いから使用済み核燃料も増える」
ロバートが補足。
ワーズワースは頷く。
「その通り。使用済み核燃料を今は各発電所が独自に保管しているが、いずれ限界が来る。この問題は今後も続くだろう。みんながネヴァダみたいな巨大な捨て場所を持ってるわけでもないし」
「先生たちの発電プランは、あれから進展ありました?」
「なんだっけそれ」
「先生……」
「ああ、思い出した! 高速陽子同士をぶつけて出来る中間子とその崩壊物で、原子核のクーロン力を弱め融合させるプランか! あったあった!」
「最終的にはそれに転換できるから加速器を作って欲しい、って名目で、いろんなところに話を持ちかけてたじゃないですか」
「しょうがないだろ、あくまで名目なんだから。そんな曲芸みたいな発電方式、実用レベルになる前に磁場式だの慣性式だのがとっくに実用化してるよ。その頃にはソビエトが月面鉱山を作ってるかもしれないし」
「鉱山? 月にですか?」
「月になにかあるの?」
「もしかしたら月にヘリウム3があるかも、という話は出てるんだ。太陽からもたらされるヘリウム3がそのまま月面に眠っているかもと」
「ヘリウム3って何?」
「ふふふ、先ほど話した重水とヘリウム3があれば、それはもう夢のようなあれやこれやが」
「――――いい加減、本題に入ったらどうなんだよ、先生」
温度が、下がる。
大声では決してない。
にもかかわらず、店内にいる他の客たちが一斉にイヴの席を振り向く。反射的に、生物的な危険を察知して目をやったという表情。
それはイヴもロバートもワーズワースも同じだった。
店内の全ての人間から目線を注がれても、アリアナは欠片も揺るがない。
あの大量のハンバーガーやホットドッグは跡形もない。2つのビールジョッキの中身も空だ。
色の異なる双眸が、ワーズワースを眇める。
「先生はなんの調査でこんなとこに来てんだ?」
その声音は、アリアナにしては不気味なまでに穏やかだった。足を組み、大きく胸を反らせた傲岸な姿勢。
ワーズワースは「ふむ」と顎を撫で、周りをわずかに見やった。
そして声を小さくし、
「……一週間ほど前、オンタリオ湖の原発で爆発があったことは知ってるかい?」
「ああ」
「それよりも前、キングスポートでも同じような爆発があったことは?」
「知ってる」
「私はその爆発の調査を依頼された。爆発が何に由来するのか一切不明だったからだ」
ワーズワースはイヴ達3人を眺め、そして先ほどのお喋りとさして変わらない他愛なさで、
「君たちがやったんじゃないのかい?」
と訊いた。
「……」
3人は押し黙る。
ロバートはやや目を細め、アリアナも腕を組み直し、イヴはオニオンの味が薄いので塩をかけた。
そうした反応にワーズワースは弾けるような笑顔を見せる。悪戯が成功した子供のような。
「なんてね。驚いたかい?」
ワーズワースのおどけた雰囲気に、店内の空気が一気に弛緩する。
ざわざわと喧騒が蘇り、アリアナは鼻を鳴らす。
「私にそんな爆発は起こせねえよ。ぶん殴って建物壊すとかならまだしも、バカでけえ火柱だったんだろ?」
「そうだ。強烈な閃光と輻射熱、そして強力な電磁波のせいで周囲一体が停電を起こした。単なる爆発物が引火したわけでもないし、ましてやアリアナの馬鹿力で地面を殴ったわけでもない」
「僕じゃさらに無理ですよ」
「ロバートは数えない。それに君らならあれほどのエネルギーを外に放出するはずがない。それはクリスマスのための大切な蓄えなんだろう?」
「まあな」
「……まだ君は、父君の教えを守ってるんだな、アリアナ」
ワーズワースはポテトの山から手を離し、カップの紅茶を一口飲む。
アリアナの眉が跳ねた。一瞬。
「アリアナ、君の価値は」
「先生は一族じゃねえ。口を挟むな」
アリアナの声が、冷気を帯びる。
ロバートは振り向く。ワーズワースが悲しく眉をひそめる。
「私の価値を保証するのはジュールだけだ」
イヴはアリアナの言葉に、食事の手を止めて顔を上げた。
ヘテロクロミアの瞳が燃えている。炎をあげず、光だけで。視線の通るもの全てを焼き尽くす熱量の眼差し。
イヴが好きな瞳。
「100ワット程度のエネルギーで動いてる人間が、私に説教するんじゃねえ」
「アリアナ」
「クリスマスとエネルギー以外、私に重要なものなんかねえ。今も昔も」
「ベスも?」
「……」
その名前に、アリアナは言葉を詰まらせる。
ワーズワースは憐れみ深い瞳でアリアナを見つめた。
「ベスは君が好きだった」
「奥様がどう思ってようが、私には関係ない」
「君も、ベスが好きだったと私は思う」
「黙れ」
アリアナが手をテーブルに付ける。
テーブルの表面に霜が降りる。
フライドポテトが瞬間的に水分を奪われて収縮し、サラダも乾燥と凍結でフリーズドライになる。イヴのオニオンだけ無事だった。
ロバートはアリアナを凝視するが、止めることはない。ワーズワースも動じず、ただ悲しげに見やるだけだ。
そんな紳士に、アリアナは口元を歪める。悔しさと無念さで。
「……先生は、奥様が好きだったか?」
「当たり前だ」
「奥様も、先生が好きだった」
「嬉しい」
「でも、先生は奥様以外も好きだった」
「それは」
「だから、奥様は死んだ」
「……」
言い捨てて、アリアナは席を立つ。足早に店の外へ出た。
男たちは追わない。
イヴは追った。
店の外、セントローレンス川の畔。
アリアナはそこを歩いていた。傷ついた野獣のような雰囲気で。
「アリー」
イヴは呼びかける。
「アリー」
「ンだよ」
アリアナが面倒そうに振り返る。
イヴはずかずかと彼女へ肉薄し、その肩を両手でしっかり握りしめる。爪が食い込むほど。
アリアナがその強引さに小さく驚く。イヴはかまわない。
「さっき、クリスマスとエネルギー以外はどうでもいいって言ってたけど」
イヴは自分の体に力が大きく流れ、駆け巡っていることに気づいていない。
昨夜の情事でついた歯型やキスマークがきれいに癒やされ消え去っていることにも。
爛々と輝く茶色の瞳を大きく広げ、アリアナと口付けできそうなほど接近し、言う。
「―――――私は?」
*******
「言い過ぎたな。年甲斐もない」
「……先生」
「ん?」
「本当は、僕も同じです」
「どれと?」
「先生と」
「そうか」
「クリスマスが来なければいいって、思ってます」
「そうか」
「でも、それは叶わないんです。アリーは行くでしょう、キングスポートに。ついに力を得ましたから」
「そうか。じゃあ、君は、どうするんだ?」
「僕は……」
「……」
「……みんなで暮らしたい。こんな、呑気に喋りあえる生活がしたい」
「……君に、伝えなければならないことがある」
「なんでしょう」
「再婚する」
「え?」
「再婚するんだ、私が」
「…………え?」
―――――――ウミユリがうごめく