1
偶々ありすちゃんと同じ電車の同じ車両に乗り合わせただけで、あたしのハートはずたずただ。
「志希さんはどうして今の職業に就こうと思ったんですか?」――身近な人の職業調べ、みたいな宿題がこの夏休みに出たのだとありすちゃんは言っていた。ご両親に訊いたらどうなのってそれとなく私から興味を他に持っていく誘導も試みたんだけど、「折角ですので、アイドルの皆さんにインタビューして回ろうと思いまして」ってすげなく否定された。「志希さんはアメリカの大学に在籍していらっしゃったんですよね。どうして日本でアイドルになったんですか?」あははーやっぱりそこ訊いてくるよねー。あたしの経歴を聞いて「何で日本に帰って来たの?」って聞いてこないのはフレちゃんぐらいのものだ。テレビのバラエティ番組にゲスト出演なんかした日には必ずと言っていいほど突っ込まれる。あたしはその都度にゃははと笑って「なんかアメリカ飽きちゃってー」とかなんとか、あっけらかんと言ってのける。ありすちゃんにもこう答えた。これに対する聞き手のリアクションには幾つかパターンがあって、大体の人は「それはまた随分と勿体ないことしましたなー」とあからさま偽悪的なコメントを飛ばして笑いをとる司会者タイプか、「やっぱ変わってますね」とあたしのキャラクター性に動機を折りたたむ標準タイプ、あるいは「なんですかそれふざけてんですか」と怒りをあらわにする真面目ちゃんタイプのどれかに収まる。相手がどんなリアクションをとるかによって相手の性格がわかる。周子ちゃんなんかは司会者タイプだし、飛鳥ちゃんはあきれ顔で溜息をつくから標準タイプ。奏ちゃんは真面目ちゃんタイプよりだけど標準タイプ。美嘉ちゃんはああ見えて結構どぎつい真面目ちゃんタイプ。三者三様、別に好き嫌いとかは無い。向こうがあたしをどう思うかはともかく、あたしの側に苦手意識とか嫌悪感とかは生まれない。ありすちゃんはどのタイプかなー。
「嘘ですね」
ありすちゃんの口からそんな言葉を聞いた日には、あたしの立っている地面がぐらぐら揺れて、天地がひっくり返り、平衡感覚が失われてばたんと倒れてしまいそうになった。電車の中にいたから当然だったんだけどね。
『停止信号です。しばらくお待ちください』
車掌さんのアナウンスが流れた後、車両は静かになった。窓の外にはお寺の墓地が陽炎に揺らいでいて、墓地の奥に生えたケヤキの大木からはツクツクボウシの声が聞こえてきた。
「……嘘なんですか?」
ありすちゃんが遠慮がちに訊いてきた。彼女は怖い何かに出会ったような、心細そうで自信なさげな表情をしていた。この場合、恐怖の対象はあたしってことになるんだろうけど、あたしはそんなに恐い顔をしていたのだろうか。
「え?」と問い返す。笑顔をつくろうとしたけど引きつった歪な出来映えだっただろう。取り繕うのは無駄だった。だけどそうせずにはいられなくて――「何が?」って、質問自体を煙に巻いてしまおうと足掻く。「今の答えです」ありすちゃんは賢い子だ。小学生時代のあたしにこんな言語能力あったっけ? 「混乱させてしまってすみません。その――文香さんに、インタビュー対象から返答を貰った後『嘘ですね』とカマをかける術を教わったもので――」鷺沢文香、なんてヤツだ。それは禁じ手だろう。「気を悪くされたのなら謝ります」うん、いや、別に気を悪くなんかしてないけど、ちょっとびっくりしたっていうか、全く警戒してなかったらもろにパンチ喰らったっていうか、「あの、私この話は忘れます。また他の方にインタビューしようと思います」え、あ、そう? いや、そんな気を遣わなくても大丈夫だよありすちゃん。あたしは大丈夫。「志希さん? どうしました?」どうしましたって、別にどうもしてないよ? いつも通りのシキちゃんだけど、どうかした?
「志希さん、大丈夫ですか?」
どぉんと窓が打ち響く。
風の悲鳴。
対抗列車とすれ違った衝撃で、ツクツクボウシの声は掻き消えた。
いや、もうツクツクボウシなんてどこにもいなかった。いつの間にか列車は動き出していた。お寺の墓地は遥か後方に消えていて、もうすぐ地下に潜ってゆく。焼けるような地表を割り、あたしたちは深き場所へと到着する。『調布ー、調布ー』と、聞きなれたあたしの最寄り駅の名前がアナウンスされた。ありすちゃんは駅名が表示される広告パネルをちらりと見上げて、「……では、また明日」とあたしにぺこりと頭を下げた。
「でも具合が悪かったら無理せずお休みしてくださいね?」
降車したあたしの前でホームドアと降車ドアが閉まる。光に満たされた車内からはありすちゃんがこっちを見ていて、やがて遠くなる。去ってゆく列車を見送ったあたしの周りには、もう誰も歩いていなかった。
2
――「嘘ですね」。
昨日ずっと頭の中で反響していたありすちゃんの言葉は、今日、あたし自身の声色になってこだまを保っていた。朝、プラットホームで新宿行きの急行列車を待つ僅かな時間の空白で、こだまはここぞとばかりにボリュームを上げる。
気を紛らわせようとスマホを取り出してスイッチを押す。浮かびあがるロック画面。キーボードタイプのパネルでパスワードを入力していく。
あたしのパスワードは長い。あたしが書いた論文のタイトルをパスワードに設定しているから当然だ。クリックケミストリーに関する研究の一端――まあまあな出来だったと思う。急造の研究だったから決して良質なものではなかったけれど、目を覆いたくなるほどでもない。
ずきりと頭が痛む。
いや、痛いのは頭じゃない。本当は胸の奥の方だ。でももしかしたらお腹の下の方かもしれない。喉元だったかも。痛む箇所がどこなのかわからない――いや、違う。わかっている。それが心だってことぐらいは。
あたしが書いた論文は一本だけだった。
通算四年半のキャンパスライフ。ギフテッドと呼ばれた少女一ノ瀬志希の学術的功績は、そのネームバリューに比べてびっくりするくらい小さなものだ。
あたしは確かに天才だ。それは間違いない。小さいころ何度も疑い、何度も確認した。でもきっとそれだけだったのだ。あたしは天才であっただけで、研究者ではなかった。
あたしはあの研究室の中で一番の頭脳を持っていたけど、あの研究室にいた誰もが持っている筈の、研究への情熱ってやつがなかった。動機が無かったんだ。
研究に楽しみを見出せなかった。
アジド–アルキン環化付加反応に美しき可能性を見出そうとした。タンパク質の蛍光標識に医学の発展を期待して、胸を高鳴らせようとした。でも無理だった。何が面白いのかさっぱりわからなかった。
生まれて初めて理解できないものに遭遇した。
四年半経って、ようやくそこが自分のいるべき場所じゃないってことに気づいた。あの時は愕然としたね――半狂乱になって、夕闇の自室で無茶苦茶に暴れた。自前のガラス器具は根こそぎ割ったし、本棚にあった雑誌や本はびりびりに破いた。ノートはナイフで斬り刻んで、PCは事典で叩き割った。強盗が入ってもこうはならないだろって惨状になった部屋の真ん中で、死ぬほど笑って死ぬほど泣いた。
「みんな楽しそうなのに、あたしはどうして楽しくないんだろう」――悩んでいた謎に答えが見つかった。ずっとあった苦しみが消えた。だけどそれは絶望だった。天才と持て囃される嬉しさで誤魔化されていた自分の正体を知った。あたしはみにくいアヒルの子だったんだ。あたしは違った。あたしはそうじゃなかった。あたしは、あたしは――
あたしはダッドとは違った。
胸の奥の感情が外にとめどなく溢れ出た。むせるように吐いた。悲しくてたまらなかった。滑稽でおかしかった。苛立たしくて怒った。世界が割れたみたいにぐちゃぐちゃだった。
「何で日本に帰って来たんですか?」って? 決まってるじゃん。アメリカはあたしの居場所じゃなかったからだよ。あそこは確かにあたしの列席を許す。けどあたしに一切の恩賞をよこさない。あそこで得られる物は、あたしにとって価値を持たない。
あたしが自分をフツーの女子高生と言うと、大抵の人は「何を馬鹿な」って否定する。冗談か何かだと思う。やっぱり天才の思考はわからないなって、理解を諦められる。けど、冗談なんかじゃない。本気で言っているんだ。あたしは何も為していない。与えられた物を持っているだけの小娘だ。
ギフテッド――そう、まさしくギフテッド。
贈り物を受け取っただけの存在。