尾張・古渡城。
尾張の戦国大名、織田弾正忠信秀の居城である。普段は軍議などで使われる大広間に織田弾正忠家臣一同が集められていた。
本来は女人禁制で男しかいないはずのこの場に一人の女性の姿があった。
信秀の正室、土田御前である。
武家の姫として戦国大名の妻として、十分な容姿と教養を身に付けている彼女は家臣の間でも評判の人だった。
気の強い性格ではあるのだが彼女は常識をわきまえ夫を立てる古き良き大和撫子である。そんな彼女は尾張一と讃えられる美貌に笑みを浮かべじっと夫信秀を見つめていた。
誰もが見惚れる美しい笑顔であるはずなのに、何故だろう戦場で数々の修羅場をくぐったはずの男達は土田御前の笑顔に空恐ろしいものを感じ直視することが出来なかった。
尾張の虎と呼ばれ恐れられる信秀は、まるで借りてきた猫のように大人しく小さくなっていた。普段の威風堂々とした態度からは考えられない。
「この土田、本日は信秀様に是非お聞きしたいことがあって参りました」
土田御前は仮面のように笑顔を張り付けたまま慇懃に頭を下げた。完璧な所作である。完璧過ぎて恐ろしいほどに。
「お、おう。なんだ申してみよ」
信秀はなんとか平静を保ったふりをしているが声の調子からなにか後ろめたいことがあるのは誰の目にも明白だった。
「実は、私の侍女が懐妊したしまして」
察しの良さに定評がある織田弾正忠家家老、平手政秀はここで勘づいた。そしてこのあとの騒動を想像し胃を痛めた。
織田家の武将柴田勝義はそれがどうしたのだろうと頭を傾げた。森可成は土田御前のお気に入り侍女のことを思い出した、そういえば可愛らしい顔をしていたな最近は見ていないが、と思った。
「そ、そうかめでたいことだな」
「ええ、全くです」
土田御前は欠片もそう思っていないことが丸わかりな口調でそう言った。
「私は彼女にお腹の子の父親は誰かと聞いたのですが、何故か頑なに話そうとしないのです」
ここで宿将佐久間重盛が勘づいた。そしてまるで抜き身の刀のような鋭い視線を信秀に向けた。家臣が主君に向けていい視線ではなかった。
「そうか、ははは、不思議なことだなぁ」
「うふふ、そうですね、一体父親は誰なのでしょうねぇ」
ははは、と乾いた笑いを続ける信秀。
うふふ、と地の底から響くような笑いを続ける土田御前。
織田弾正忠家家臣団随一の鈍感と自他共に認める柴田義勝がようやく察した。同時に義勝は家臣団一鈍い自分が気が付いたのならこの場にいる全員がすでに気が付いていることを理解した。
いつまでも続くと思われていた乾いた笑いと地の底から響くような笑いは唐突に途切れた。
かと思うと、土田御前は般若のような形相で猛然と立ち上がり懐から守り刀を取り出し鞘から抜き放った。
家臣達は皆、土田御前の頭に角を幻視した。
「この色情魔! よくも私の可愛いあの子に手を出したな! 今日という今日はその節操のない一物を切り落としてやる!!」
ヒィと情けない悲鳴を上げ信秀は逃げ出した。どんな強敵であっても臆せず立ち向かう勇敢さから虎とまで呼ばれた迫力は今の信秀には何処にもなかった。
「奥方様! 気をお静め下さい!」
「殿中でごさる! 殿中でこざる!」
「土田の方ご乱心!」
土田御前は佐久間重盛、森可成、柴田義勝の織田家臣屈指の武芸自慢三人がかりで抑えこまれ離れへ連れていかれた。
今回の騒動には箝口令が敷かれ、幸い他家に漏れることはなかった。『このようなこと、よそに知られれば末代までの恥だ』とは信秀の腹心、森可成の弁である。
この騒動の原因となった胎児こそ後の織田信広であった。
「正直すまなかったと思っている」
土田御前乱心騒動から一日、針のような家臣の目線を浴びて織田信秀はそう言った。針のむしろとは正にこのこと。
織田信秀は猛勇果敢で頭もよく回る乱世の君主に相応しい器の持ち主だったが、同時に色狂いとしても有名だった。若き頃から手を出した女性は数知れず、土田御前を娶ってからもそれは変わらず、城の女達にとどまらず庶民や農民の美人を見ればすぐに手を出すのはもはや家臣もあきれていた。
土田御前は浮気も男の甲斐性、英雄は色を好むものと自分に言い聞かせ耐えていたが、自分が妹のように可愛がっているお気に入りの侍女を傷物にされ遂に堪忍袋の尾が切れた。結果昨日の騒動に至る訳である。
信秀はこれに懲りてむやみやたらと女性に手を出さなくなったが、冷えきった夫婦仲を取り戻すのは時間がかかり、長女・吉法師が生まれるのは信広誕生から七年後だった。