目を覚ますと、真っ先に手を伸ばして視界に入れるのが習慣になりつつあった。俺が自分自身の手だと認識していたのは、大きくごつごつとした武骨な男の手だった。
だがしかし最近目の前に掲げられるのは、白くて細い女の手だ。フィエーナの手に文句をつけるつもりはないが、違和感はどうしても拭えない。
「これで三度目、か」
俺が初めてフィエーナの体を借りてから二週間近くが経過しようとしていた。俺が望んだわけではなく、何故か唐突に発生する奇妙な入れ替え現象は週に一回程度のペースで起きるようだった。
フィエーナは意外とこの状況を楽しんでいる。記憶にしかいなかった俺が現代で反応を見せるのが愉快で仕方ないらしい。まあ、怯えられるよりかはマシだが体を乗っ取られているのにこの反応だ。フィエーナも結構タフな精神をしている。
目覚ましに洗面所で顔を洗い、歯を磨いていると欠伸をしながらベーセル兄貴が入ってきた。
「ふあ……おはようフィエーナ」
「うあよあえーえういい」
「あはは、歯ブラシ口に入れたまま喋らない」
俺が歯を磨いている間にベーセル兄貴は顔を洗い、終わったタイミングで今度は俺が口の中をゆすいだ水を洗面台へ吐き捨てる。もう慣れたものでお互いが特に会話をすることもなくタイミングを合わせられる。
「じゃあ私は先に着替えてるから」
「むむ」
「あー、歯ブラシ口に入れたままだ」
俺の意趣返しにベーセル兄貴は歯ブラシを差し込んだまま笑って見せ、俺はその笑顔を見届けた後に洗面所から出て行く。
俺が自室でトレーニングウェアに着替えていると両親の寝室で目覚まし時計の音が鳴った。一秒にも満たない時間で目覚まし時計は音を止める。相変わらずフィエーナの父親は目覚めるのが早い。
「おはようお父さん」
「おはようフィエーナ。何だ今日も俺が最後か?」
「そうだよ、早く支度しないと仕事遅れちゃうよ」
「ったく、お前たちには敵わないなあ」
父親が準備を終えると俺たちはまだ薄暗い夏の朝、近所の公園まで走り始める。元々フィエーナの父親は毎朝一時間走ってから仕事に向かっているが、いつの間にかベーセル兄貴も付き合い始め、フィエーナもやがて付き合うようになったのだった。
昔はベーセル兄貴もフィエーナも父親のペースにとても付いていけず途中からベンチで公園をハイペースで駆ける父親を応援していたものだが、今ではベーセル兄貴は父親に並走するまでに体力を付けていた。俺はまだまだ父親のペースにはとても付いていけていない。
一時間たっぷり走り終えると俺は呼吸が乱れに乱れてしまうというのに、父親は汗ばんでいるだけで息は少し浅くなる程度だ。今年で四十になるくせに、とても敵わない。元特殊部隊員だったそうだが、軍人ってのはみんなこうなのだろうか。
「フィエーナ大丈夫か?」
「はあ……はあ……うん、平気……」
いつものフィエーナならマイペースに駆けるだけだが、俺はちょっと対抗心を抱いて父親のペースに食いつこうとした。結果、芝生に倒れ込んでしまう。畜生、いつか追い越してやるからな。
「父さんについていこうって考えちゃ駄目だよ。体力馬鹿なんだから」
「なにぃー? 言ったなベーセル!」
「うわ! ちょっとやめてって!」
父親にヘッドロックを掛けられて芝生に倒れ込むベーセル兄貴。止めてと言いながら、その表情は本当に楽しそうで、俺も昔はこんなやんちゃをしていたよなあと懐かしさを覚えた。
朝食の後、母親からお茶の葉が入った小瓶を二つ渡される。
「今日はよろしくねフィエーナ」
「うん、ちゃんと届けて来るね」
フィエーナの母親はお茶を淹れるのが好きで、独自にブレンドティーの作成もしている。これが父方母方双方の祖父母に気に入られていて度々母親が作ってあげては届けているのだが、今回はたまたま渡し忘れたのだそうだ。
どうせ俺は今日特別やることがある訳でもない。仕事に出かける母親の代わりに俺が届けることにした。
フィエーナの服からあまり女の子していない服を選択し、メッセンジャーバッグへ小瓶を詰め込む。よし、それじゃさっさと行ってきますか。
「それじゃ行ってくるねベーセル兄」
「うん、気を付けてね」
ベーセル兄貴に見送られ、俺はフィエーナ愛用の自転車に跨って早速出発する。曇りがかった青空の下自転車専用レーンを快調に駆け抜けること十五分、まずは近場の父方の祖父母宅に到着した。
三メートルはある柵に囲まれた家の前には庭とガレージがあるのだが、庭ではゾフィ祖母ちゃんがシーツを洗濯籠から取り出して干そうとしているところだった。
「おはようフィエーナ。もう来たんだね」
「おはようお祖母ちゃん。こっち側持ってあげるね」
体が大きくないゾフィ祖母ちゃんがてこずっていた大きなシーツも、フィエーナくらい身長があればそう苦労もせず洗濯竿に干してやれる。
「助かったよフィエーナ、ありがとうね」
「気にしないで」
人好きのする笑みを浮かべながら、ゾフィ祖母ちゃんは俺を室内まで案内してくれる。
「ドーク! フィエーナが来たよ!」
「おお来たか! よく来たな!」
豪放磊落って奴だろうか。とにかく豪快で元気いっぱいな笑顔でドーク祖父ちゃんは戦車兵向けのツナギを着て姿を現した。抱擁も祖母ちゃんよりずっと力強く、バンバンと叩かれる背中が少し痛いくらいだ。
「はっはっは! 大きくなったな!」
「あはは、お祖父ちゃんほどじゃないよ」
百八十二センチはある体躯で俺を抱き締めたまま持ち上げて歩き出す。ドーク祖父ちゃんはもう一人の祖父ちゃんと比べいつも元気で行動的だ。
「その服着ているってことは今日は戦車のところに行くの?」
「そうさ! 愛しのKPZ.64が俺を待っているんだよ!」
ドーク祖父ちゃんは昔戦車兵だったことが忘れられず、戦車の動態保存をする同好会に入って退職後も戦車を乗り回している。自家用車も軍が正式採用した車輛の払い下げ品だし、軍隊の持つ車が大好きな人なのだ。
「そうだ! まだフィエーナは見てなかった新車両が加わったんだ! 今日は見ていくか!?」
戦車か。フィエーナは何度も見ているが、俺だって一度くらい実物を拝みたい。
「でもオットフリットお祖父ちゃんのとこにも行かなくちゃいけないんだ」
「そいつは心配いらねえ! あいつも俺の基地に来るからな!」
「なら行く!」
「ようし! じゃあこのまま出発するか!」
意気揚々とSUVに乗り込んだドーク祖父ちゃんに続いて俺も助手席に座り込む。天気は曇り六割青空四割で悪くはない。ドーク祖父ちゃんは幌を開け放ったまま目的地目掛け車を発進させた。
快活でおしゃべりなドーク祖父ちゃんと会話をしながら二十分。車はブリティッシュランドシステムズ・ロートキイル支社の広大な敷地の一角で停車した。
「待たせたなみんな! 今日は俺の孫娘も一緒だ!」
「おお、フィエーナちゃんじゃないか! 元気にしてたかい」
「久しぶりだね! 随分綺麗になったもんだ!」
「えっ! 中将閣下の孫娘がいつの間にこんな大きくなったのか! 子供ってのは見ないうちにすぐでかくなるねえ!」
「ほほう、随分美人になったもんだねえ!」
戦車保存同好会の面々はほとんどが退役した軍の人たちだ。年齢も若くて五十代。だからたまに子供が来るともみくちゃにされてしまう。ええい、五歳児じゃないんだからそこまでしなくていいんだよ!
「おいおいフィエーナをあんまり困らすんじゃないよ」
同好会の面々に囲まれた俺をオットフリット祖父ちゃんが助けてくれる。オットフリット祖父ちゃんはドーク祖父ちゃんとは違って、軍人といった見た目ではない。どちらかというと学者あるいは司祭のような物静かな出で立ちをしている。だが、軍隊時代はドーク祖父ちゃんよりもずっと偉かったと聞いた。
「おはようオットフリットお祖父ちゃん」
「フィエーナおはよう、今日はどうしてここに? ドークの奴に無理やり連れてこられたんじゃないだろうね」
「そうじゃないよ、お茶の差し入れをお母さんに頼まれたんだ」
俺がメッセンジャーバッグからお茶の葉が入った小瓶を差し出すと、オットフリット祖父ちゃんは嬉しそうに受け取った。
「これ、僕も妻も気に入っているんだ。持って来てくれるとはありがたい」
「おうオットフリット! 今日はフィエーナに例の新入りを見せてやりに来たんだ!」
「ああ、KPZ.64/81のことかい」
「そうさ! ほらフィエーナ、こっちだ!」
ドーク祖父ちゃんに先導され案内された広々とした格納庫に戦車たちは鎮座していた。何度も説明を受けているから三輌が何かは分かったが、一輌だけ初めて見る。KPZ.64によく似ているが、主砲にラジエーターグリル、砲手向けサイトなど細部を見ればほぼ別物の車輛だと理解した。
「これがKPZ.64/81? 主砲から何まで違うみたいだね」
「よく分かったなフィエーナ! こいつに積まれているのは105ミリじゃない! ラインメタルの120ミリ砲だ!」
アメリカ戦車のパットンを独自改良したKPZ.64を元にして大改良を施したのがKPZ.64/81なのだとドーク祖父ちゃんは朗々と語り始める。
「砲だけじゃない! サスペンションもFCSだって別物だ! エンジンもMTUからルステラ社のJu-233に換装済みで出力は五割増し! 後でこいつとKPZ.64の加速を見せてやろう! こいつの加速はエイブラムスをぶっちぎるぜ!」
ただ、フィエーナの記憶によれば装甲能力だけは他の第三世代戦車に劣っていたため、ドイツ製の戦車をライセンス生産してKPZ.64/81は退役したらしい。複合装甲だけは陸軍が満足する出来の物を製造出来ずに爆発反応装甲の付加でお茶を濁したとかなんとか。
「ハンス曹長! こいつの調子はどうだい!」
「へっへっへ! いつでも飛ばせますぜ中将閣下! 今日はレディーを乗せて晩さん会にでも行きましょうや!」
「ようし! そら、フィエーナここから乗り込むぞ!」
ドーク祖父ちゃんが先に砲塔までするりと上るのを見届け、俺は渡されたヘルメットを被ってから後に続く。全高三メートルにもなる鋼鉄の塊に手を掛け足を掛け昇っていくと、段々と気分が高揚していくのを感じる。
ペラペラの乗用車とは訳が違う、分厚い金属塊で出来た砲塔まで昇り切ると景色がまるで違うのだ。まさに戦場の王者が前線を睥睨する様が見えるかのようだ。
「おお……!」
「はっはっは! 中将閣下の孫娘はお気に召したようですね!」
「こいつの魅力に気付くとは、流石に俺の孫だけはある!」
俺を戦車用キューポラに乗せた後、ドーク祖父ちゃんとハンス曹長は戦車を見回り点検をしてから戦車に乗り込んだ。ハンス曹長は操縦席に、ドーク祖父ちゃんは私の隣にある装填手用キューポラに乗り込むとKPZ.64/81は鋼鉄の唸り声を上げて格納庫内をゆっくりと前進し始める。
「どうだ! こいつの乗り心地は!」
「すごいね!」
鋼鉄のキャタピラが地面を踏みしめる音に轟々と鳴り響くエンジンの音が、俺の全身を振動させながら伝わって来る。
「そうら、そろそろスピードを上げるぞ! ハンス曹長!」
「アイ・サー!」
格納庫を抜け、広々とした平野に出るとKPZ.64/81は一気に速力を上げた。ぐいぐいと速力を伸ばしていき、平野の土を削り飛ばしながらかっ飛ばしていく。
「すごい! 速いね!」
「当たり前よ! ハンス曹長今何キロだ!」
『五十キロでさ中将閣下!』
「はっはっは! 不整地でこの速さだ! アウトバーンなら七十キロは出るぞ!」
その後、砲塔を旋回してくれたり光学サイトの映像を見せてくれたりとたくさんサービスしてくれて俺はもう大満足だった。
「どうだ! KPZ.64/81はよかったろう!」
「うん! すごかった!」
「はは、さっきからすごいばっかりだね」
オットフリット祖父ちゃんに指摘され、思い起こしてみると戦車に乗ってから確かにすごいしか言ってなかった。いやでも実際すごいんだよ! こんなのが俺の自家用車だったらかっこいいだろうな!
結局、俺の戦車熱は午後に剣術道場へ行って気を落ち着けるまで続いたのだった。