八月の中旬ごろ、私たちの家では笑顔を崩さないベーセル兄を尻目に母と私だけがちょっとした緊張に包まれていた。
「そんなに心配しなくてもいいんじゃない?」
苦笑するベーセル兄を信頼していない訳じゃない。けれど、やっぱり一生のうちで大きな転機になりうるイベントだと思うのだ。
リビングに掛けられた時計の針が天を指し、頃合いと見たベーセル兄はリビングに置いてあるデスクトップパソコンで大学のホームページにアクセスする。固唾をのんで後ろから見守る母と私は、サイトのページを跳ぶ毎にどうなのかどうなのかと見守り続ける。
パソコンを立ち上げて数分もしないうちにディスプレイには数字が羅列され出し、私たち三人は一斉にそこからベーセル兄に割り当てられたとある数字を探し始める。
「あ、あった」
何の気のないベーセル兄の呟きと伸ばした指先に示される数字、確かにこの数字はベーセル兄の受験番号に違いない。
「おめでとうベーセル!」
「ありがとう、お母さん」
嬉しそうにベーセル兄を抱きしめる母を見ながら、私はホッとため息を吐くような思いでよかったと呟いた。
今年ロートキイルの中等学校を卒業するベーセル兄は九月から大学に進学する。ロートキイルにもいい大学は数あれど、ベーセル兄が目指す学部は欧州内でもそう多くなく、結局隣国であるドイツで大学生活を送ることになってしまった。
母と会話するベーセル兄を見ていると共に暮らしてきた十二年の日々が想起される。思えば私が生まれついてから、ずっとベーセル兄はそばにいた。物心ついてから、ずっとベーセル兄は至らない私を助けてくれた。
優しかったと同時に厳しかった。勉強が嫌いだった私が大学進学を前提とする中等学校に入学できたのもベーセル兄がいたからこそだろう。
勉強の楽しみ、読書の楽しみはベーセル兄が教えてくれた。ヴェイル時代も含めてぶっきらぼうだった私が、多少なりとも人に優しくなれたのも範とするベーセル兄がいてこそだ。
私の内面はヴェイルの在り方が理想になっているけれど、ベーセル兄の影響も過半を占めているに違いない。人としてベーセル兄は尊敬できるし、同じ家族になれたことをとても幸福に思う。
だからこそ、ベーセル兄とこれからは離れて暮らすのだと現実に突き付けられると、大学進学を喜ぶ気持ちに並ぶくらいの寂寥感が溢れてしまう。
「おめでとうベーセル兄」
「ありがとフィエーナ」
抱きしめるベーセル兄の背中はいつも通り温かかった。
深夜、帰ってきた父と一緒に家族で祝いの夕飯を済ませ寝静まった我が家で、私は静かにベーセル兄の部屋を訪れる。
「ねえ、入ってもいい?」
「いいよ」
室内に入るとベーセル兄はまだ起きていて、難しい文字が並んだ日本語の本を読んでいた。私の日本語力は一般的な日本の小説をつっかえつっかえ読める程度で、専門書とか古文とか漢文とかは何が書いてあるのかちんぷんかんぷんになってしまう。
「もう一時になるのに読書?」
「ちょっと確認したい点があったんだ。でも用件があるなら聞くよ」
「ううん、いいよ。私はここで見てるから続けて」
私はベッドに両肘をついて横になり、読書を再開したベーセル兄の横顔を見つめ続ける。数十分ほど読書を続けたベーセル兄はやがて本を閉じ、私の寝ている横に腰を沈めて座り込む。
「ねえフィエーナ。たまには二人で何処か遊びに行こうか」
そう笑いかけて来るベーセル兄の笑顔が滅多に見られなくなるとも思うと、何だか目が潤んできそうになる。私は涙を隠そうとベーセル兄の腰にしがみつき顔を隠した。
「何処に行く?」
「そうだなあ……とりあえずさ、最後に一通り街を見て回りたいって思っているんだ。フィエーナは付き合ってくれる?」
「いいよ、行こう」
ベーセル兄の通う大学は高速鉄道を使って四時間はかかる。九月一日には早くも大学は始まるから、準備を含めて一週間は前にベーセル兄はドイツに行ってしまう。会える時間はもう六日しかなかった。
大学に行っても度々帰って来るのだろうし、十月には早くも秋季休暇があるはずだ。だからそこまで悲しむ必要はないのだろうと理性は言うけれど、感情は納得せずベーセル兄との接触を求めていた。
「この街にも色々思い出があるんだよね……離れるとなると寂しいなあ」
じゃあ、離れなくてもいい。そう思ってしまう気持ちがないとはいわない。だけどそれはベーセル兄の将来を狭めてしまう。私はベーセル兄の足かせにはなりたくなかった。
「私と離れるのは寂しい?」
「もちろん。でも、ずっと一緒にはいられないからね」
いつかベーセル兄も家族を持って独り立ちするのだろう。私はベーセル兄のお嫁さんを笑って迎えられるだろうか。眠たい頭はとりとめもない思考を続ける。
「僕もそろそろ寝ようかと思うんだけど、フィエーナ離れてくれない?」
「んー、どうしようかな」
「しょうがないね、フィエーナは」
クスリと笑う声が頭上からしたかと思うと、頭が優しく撫でられる。心地のいい感触に私が睡魔に負け微睡むと、ふとベーセル兄の腰に回していた腕から何かが離れていこうとする。それが耐えられなくて私が力を込めるとやがて諦めたようで抵抗は抑えられた。
「フィエーナ。これじゃ僕が寝られないよ」
ベーセル兄の嘆きの声に、眠たくて思考のまとまらない私の頭は腕の力を緩めることにした。するりと抜け出すベーセル兄を私は止めない。
「おやすみなさい、フィエーナ」
翌朝、私が目を覚ますともうベーセル兄は服を着替えていてコーヒーカップを片手にこちらを見つめていた。
「おはようベーセル兄」
「おはようフィエーナ。今日は一日歩き通しだから覚悟した方がいいよ」
寝ぼけていた私の脳は急速に覚醒する。いけない、ベーセル兄の貴重な時間を潰す訳にはいかない!
「ちょっと待って! すぐ準備するから!」
飛び起きて慌てて朝の支度と朝食を済ませた私は今日の天気をスマホで調べる。幸い、今日はちょっと涼しいみたいだ。
「お待たせベーセル兄!」
「ふふ、それじゃ行こうか」
私はベーセル兄に先導されて街のあちこちを見て回った。よく通った学校の通学路を思い出を語りながらのんびり歩いて行ったり、近くの公園でベンチに座りながら水分補給にジュースを飲んで、近くの商店や飲食店の人たちにも会っては大学進学の話をして語り合ったり……時間はあっという間に過ぎて行ってしまう。まだ家の近所にしか回れていないのにな。
午後には近場の図書館で本を借りるでもなく館内を歩いて回ったり、博物館の中に入らず外周の公園そばのカフェで昔は何度も来た当時の思い出に花を咲かせたり、思い出話をしていたら入りたくなったので入館料を払って当時との違いに思いを馳せたり……懐かしい思い出がたくさんたくさん思い出されて私とベーセル兄は笑い合い、語り合った。
「ああ、もうこんな時間になっちゃったね。帰ろうか」
私にとってこれほど時間が短いと思った日はあんまりないだろう。気付けばもう五時を過ぎていて、日はまだ明るくても帰宅に掛かる時間を考慮に入れると帰らなくてはいけなくなっていた。
「何か……全然時間が足りなかった気がする」
「そうだね」
「ねえ、昨日は私が寝てからリビングのソファで寝たんでしょ。ごめんねベッド使っちゃって」
「唐突だね。でも気にしないでいいよ」
そういって何でもないように笑うベーセル兄の手を取る。いつの間にかベーセル兄に手を引っ張ってもらうことはなくなっていた。今日一日くらい、許してほしい。
「今日だけでいいんだ。一緒に寝ちゃ駄目かな」
「……今日だけ、だからね」
「ありがとうベーセル兄!」
「うわっ、いきなり抱き付いたりしたら危ないよ!」