学校が終わり、帰宅した私は早速道着に着替えてメッセンジャーバッグをたすき掛けにし自転車へ乗り込んだ。夏になり外の陽射しは強烈に照りつけてくる中、ベーセル兄を待っているとすぐに体中から汗が滲みだしてくる。自転車もガレージの外に置いていたらあっという間に人が乗れないほど熱がこもってしまっただろう。
「ベーセル兄、行こう」
「うん、林原先生が待ってる」
今年で十八になったベーセル兄が先導し、私たちは道場へ向かって自転車を漕ぎ出した。道着姿で街中を走ると珍しいから、初めのうちはあちこちから好奇の目で見られた覚えがある。
しかし、何年も走っているとそういった人たちは私たちに笑顔で手を振ってくれるようになっていた。この格好のおかげで接点を持つはずのない人たちと知り合いになり、仲良くなれたのは剣術を始めた思わぬ幸運だった。
「今日も剣術かい?」
「ええ、ミレアさん。今日も明日も剣術です」
「ほっほ、精が出るねえ。また顔を出しにいらっしゃい」
「はい、また近いうちに!」
本来は三十分もかからない道場への道が、いつの間にか四十分五十分と間延びするのはよくあることだ。ベーセル兄なんてしょっちゅう老若問わず女の人から声を掛けられ、デートの誘いを受けている。
「ベーセルさんこんにちは!」
「やあ、ユレゲア。また今度ね」
今もまたちょくちょく声を掛けて来る同年代の女の子を何とか振り切ったところだ。
元々町外れにある住宅街を抜け、郊外の田畑の間にある自転車専用道路を進み、森林をきりひらいて出来た街道を少し進むと道場が見えて来る。そろそろ夏季休暇の始まる時期のせいで、今日は駐車場に十台ほど車が止まっていた。
ここロートキイル王国は夏になると大人も子供も夏季休暇を取る。これは法律にも定められた義務で、王国民が有する権利だ。この時期になると駐車場に止まる車が増えてきて、ああもうすぐ夏季休暇なのだと感じられた。
「あれ、フィエーナ。吉上先生がいるよ」
ベーセル兄の視線の先には、確かに吉上先生の姿があった。一時期は林原先生の手伝いとして数年ほどロートキイル王国に滞在していた吉上先生は、近年とんと姿を見せていなかった。何だか懐かしい気分になった私たちは、相好を崩して吉上先生の元に駆け寄る。
「吉上先生!」
「お久しぶりです! 吉上先生!」
「やあ、ベーセルにフィエーナじゃないか。日本語上手くなったね」
私たちが声を掛けて振り向いた吉上先生の顔は、見てて心配になるほどやつれていた。これじゃ病人そのものじゃないか。
「あの……起きてて大丈夫なんですか?」
「心配してくれてありがとうねベーセル。ちょっと日本での仕事が忙しかったんだ。こっちに来たからには少しゆっくりするさ」
それにしても、体を動かしていていいのか不安になるレベルにやつれている。街中歩いていたら救急車よばれかねないぞ。
「しばらく休養を取ってはどうです? その顔、幽霊かと思っちゃいましたよ」
「こら! フィエーナ!」
「あははは……こう見えても体は大丈夫なんだ。むしろ多少体動かしていないと落ち着かなくてね」
この陽射しが強い夕方に、日射病で倒れやしないだろうか。気懸かりではあるけれど、本当に体調がボロボロの状態で無理するほど吉上先生は無茶する人ではない。
一体何が彼をあそこまで追い込んだのか気になりつつも、私たちは別れを告げ道場へと入った。そこで私は新顔を見つける。ハッとするほど美しい顔つきの少女で、そこにいるだけで場の空気を華やかに彩るかのようだ。肩まで伸びた緩く内側に巻いている黒髪、凛とした碧い瞳、愛らしくも冷たい目筋、小さな唇、透き通るような肌。私もベーセル兄も思わず見惚れてしまい、お互いに顔を見合わせる。
「ベーセル兄、凄い綺麗な女の子だね」
「フィエーナと同じくらい綺麗な子を初めて見たかもしれない」
「妹びいきが過ぎない?」
「そんなことないって」
しかし少し観察すると彼女からは精神的磨耗が感じ取れる。まるでダンジョンから溢れだした魔物に追われた避難民が見せたような、恐怖や疲弊による感情の磨耗。私と恐らく同年代に過ぎない少女が平和なロートキイルで見せるような表情ではない。
「分かる?」
「何か訳ありかもね」
ヴェイルとしての記憶から察した私と同様にベーセル兄も少女の違和感に気が付いたらしい。流石ベーセル兄。
「やあ、陽人。新人さんかい」
「よう、ベーセル! それとフィエーナ」
ベーセル兄が日本語で話しかけたのは林原先生の息子の林原陽人。大雑把で短気な奴だけれど、基本いい奴だ。でもベーセル兄と比べるととても同年代には思えないくらい子供なところがある。
「一ヶ宮遥です。しばらくここにお世話になります」
「僕はベーセル・アルゲン。よろしくね」
「フィエーナ・アルゲン。困ったら何でも言ってね」
一ヶ宮遥は丁寧な所作でこちらにお辞儀をするけれど、まるで機械のように感情が感じられない。ベーセル兄が差し出した握手の手が、一ヶ宮遥の下げた頭の手前で虚しく空を切る。
「日本じゃお辞儀かもしれないけれど、ここじゃ挨拶の時に握手をするんだよ」
握手をかわされて困ったように手を頭に持っていくベーセル兄を見かねて私が手を指し指すと、おずおずといった感じで一ヶ宮遥は手を伸ばした。これは単純に文化の違いで気が付かなかっただけらしい。落ち込まないでねベーセル兄。
私が再トライしろと目で合図したベーセル兄と一ヶ宮遥が握手をしたところで、林原先生が道場にやってきた。打ち解けた空気が一気に引き締まり、道場内に緊張感が生まれる。
受講生が集まり、先生へ始業の挨拶を終えると先生は一ヶ宮遥を隣へ呼び寄せ受講生一堂に紹介を始める。もちろんロートキイル語でなので、きっと一ヶ宮遥自身は何を言われているか分からないだろう。
「諸君、今日から我が家に居候となった一ヶ宮遥君だ。本日より彼女も加わることになるからよろしくやってほしい」
今日いる受講生はほとんどが日本文化・武術に興味を持った壮年の男性が主で、十代の受講生は私とベーセル兄くらいだ。中にはお孫さんもいる世代も含まれているし、間違いが起こるとは思えない安心感がある。
修行が始まってみると、一ヶ宮遥の動きは初心者同然だった。林原先生から手ほどきを受けて木刀を振るうけれど、年相応の少女らしい弱弱しさだ。
彼女は武術はおろかスポーツも趣味程度にしかやっていないのだろう。どういった心境で、海外に来てまで剣術を始めたいと思ったのだろうか。
三時間ほどが経過して本日の修行は終了する。かつての師匠とやった修行では一日中剣を持っていたけれど、現代社会では時間がない。学生、サラリーマン、電気技師、市役所職員、警察官僚など受講生のみんなにはそれぞれの日常がある。
私が貸与された日本刀を返却し、荷物を纏めて道場を出ると吉上先生に呼び止められる。
「ちょっといいかな」
「何ですか?」
「ついてきて」
道場から少し離れ、森の中へ連れだされる。木々が重なり合って空を覆うと、まだまだ太陽が眩しい時間帯なのに仄暗く感じられる。ここら辺でいいかなと呟き、振り返った吉上先生の表情からは隠し切れない疲弊と悲しみを感じ取れた。
「遥のことはもう知っているよね」
「ええ」
「同年代のフィエーナに、彼女を気にかけてやってほしいんだ」
「何があったんですか」
「悪いけど僕の口からは言えない。ただ、辛い目に遭って今の彼女は傷ついている」
「今の吉上先生の体調と関係がありますか」
「……あるけど、とにかく彼女自身の口から聞いてくれないかい」
私がそれ以上聞いても答えは帰ってこなかったし、ここまで疲れ切った人を質問攻めにしていいのかと気が引けてしまい私は口を噤んでしまった。
「それじゃあ、頼むよ」
「……分かりました」
「今日は何か疲れちゃったな。フィエーナの助言通り早めに休もうと思う」
道場の傍まで私と一緒に歩いていた吉上先生は別れ際、心底疲れ切ったといった口調で一言呟いた後に離れていった。
本当に吉上先生はどうしてしまったんだろう。私は吉上先生の背が日本家屋の中へ消えるまでジッと見つめ続けた。何だか目を離してはいけないような気がした。
吉上先生が玄関の戸を閉じるのを見届けたのと時を同じくして、道場から隣に併設された林原一家の住む家屋へ戻ろうとする一ヶ宮遥が目に入る。
息が上がり、とぼとぼと歩く一ヶ宮遥の背はついさっき見届けた吉上先生にも劣らず哀愁に満ちていて、私は吉上先生の頼み云々を忘れて思わず駆け寄ってしまっていた。
「ねえ、遥」
「アルゲンさん?」
「ベーセル兄いるからそれじゃ区別付かないよ。フィエーナって呼んで?」
「フィエーナ……さん」
「遥も私と同じくらいの歳だよね? 今何歳なの?」
「十二歳」
「同い年だね! 学校は行くんでしょ? 何処に通うの?」
「アーミラー中等学校」
「一緒じゃない! じゃあ連絡先交換しておこうよ。携帯は持ってるよね」
頷く遥にメモ帳から破った紙にメールアドレスを書きなぐって渡す。
「そこに返信ちょうだい。そしたらSNSに招待するから」
もっと話を続けようとしたけれど、家の方から遥を呼ぶ声がする。林原先生の奥さんである幸恵さんのようだ。
「幸恵さんが呼んでるみたいだね。じゃ、連絡待ってるから」
チラチラと私を振り返りながら家に入っていく遥へ私は手を振って笑顔で見送る。
「フィエーナ! 僕たちも帰ろう」
「うん!」
帰宅した後、汗まみれの体をシャワーで洗い流してパジャマに着替えたところで私の携帯を見ると文面も何も書かれていないメールが届いていた。ついさっきメールが届いたようだった。