アニレア大伯母さんが夕食の席で作ってくれた料理は特別豪勢なものではなく、古くから知られる素朴な家庭料理だった。見た目はもう見慣れてしまっている料理だけれど、どう調理したのか自然と口に運んでしまうような味付けがされていて、それでいて何処か高貴な品格が見え隠れしている、アニレア大伯母さんの人柄を現しているかのような料理だった。
食事の席ではロアック夫妻だけでなく、セリューズさんにジョンソンさんも相席していた。元米海軍の大佐だったというジョンソンさんは自称海軍仕込みのユーモアたっぷりの会話で晩餐室の空気を盛り上げてくれた。
ロアック大伯父さんは口数がそう多くないのだけれど人から知りたい話を聞き出す技能に長けているようで、私だけでなく他のみんなも思わず口を滑らせてはそれぞれごまかしたり照れ笑いを浮かべたりしていた。こういう技能も官僚には必要なのだろうか。
食事を終えてお開きになった後、私たちは自然と私の部屋に集まっていた。
「ふわあ……お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったよー」
「あたしも今日はさっさとベッドに倒れたい気分」
キアリーとトヨはお互いにもたれかかりながら、ソファでぐったりしている。二人の太腿の上には遥が脱力しきって言葉にならないうめき声を上げながら、だらしなくうつ伏せに倒れ込んでいる。
「私も今日はちょっと疲れちゃったわ。まだ九時だけど明日からは忙しいし寝てしまいましょうか?」
何だかみんなお疲れみたいだ。私は非日常の中にいるのがワクワクして眠れそうにないんだけどな。
翌日、私がベッドの中で目を覚ますと普段とは違う天井が見えて一瞬ギョッとする。昨日からロアック大伯父さんの家に泊まっていたのだと気づき、何を驚いているのだかと私は苦笑してしまった。
窓際に立ちカーテンを引くと、陽光が眩く室内に差し込んできた。もうすぐ夏、太陽の輝きもますます強くなってきている。木々の葉は濃い緑色の表面を朝露に濡らし、枝の上を小鳥が元気に飛び跳ねてはさえずっている。
窓を開け放つと、早朝の清涼な空気が私に吹き付けて来る。私は伸びをしながら一回深呼吸をして、パジャマからトレーニングウェアに着替えた。
室内で履いていたスリッパを脱いで、私の部屋の出入口に設けてある靴置き場に座り込んで私はランニングシューズへと履き替える。我が家と違い、ロアック大伯父さんの家はプライベート空間と公共の空間の間に靴を脱ぐスペースが設置してある。ここらへんの室内レイアウトは、ロートキイル貴族のお屋敷らしい建築様式だ。
私が二階から一階に降りると、既にメイドさんは慌ただしく朝の仕事に取りかかっていた。
「おはようございます。家の周りを走ってもいいですか?」
「構いませんよ」
許可も得たので私はお屋敷を出て、家の周りを走り始める。綺麗に整備された庭は雑草が生い茂ることもなく、若草色の芝生が敷き詰められている。踏み抜いたらいけないだろうと、私は点々と敷かれた敷石の上を走って行く。普段と違い、敷石の間隔に歩調を合わせた走りをしていると何だか新鮮な気分で走ることが出来た。
コースを体が覚え辺りを見回す余裕が出来ると、改めてロアック大伯父さんのお屋敷に感嘆する。芝生に花壇は一個人で手入れするには規模が大きくきっと職人さんを呼びいれているのだろう。各所に設置された監視カメラに、塀の上に微かに見える高圧電線、門の傍に警備員の待機所もある。セキュリティ面もかなりのものだ。
「おや、先客がいますな」
「はははは、フィエーナじゃないか。早起きだね」
「おはようございます、セリューズさんにジョンソンさん」
お屋敷から姿を現した二人の目的もランニングだというので、折角なので一緒に走らせてもらった。二人とも父には全く及ばないけれど、それでも私よりは速く走るのでじりじり追い抜かれたり徐々に引きはがされたりしながら走り続けた。
「いやあ、よく走るねフィエーナ」
「毎日走ってますから」
私がぜえぜえと肩で息をしているのに対し、セリューズさんとジョンソンさんはまだ余裕がありそうだ。二人に付き合っていつもより長く走ったせいもあるけれど、二人とも頑健な肉体をしているのは間違いない。
「いいことを教えてやろう。今日俺たちと走ったコース取りをすると一周が二百メートルになる。計算が正しければ俺が十マイル走った間に今日フィエーナは八マイル走ったことになる」
一マイルは一キロと六百メートルくらいだから、八マイルってことは十三キロ近く走っていたようだ。普段の私は十キロを目安に走っているから、今日は走り過ぎていたらしい。
道理で息切れする訳だ。
「みなさんおはよう、朝からごくろうさまね」
ジョンソンさんたちと軽く雑談に興じていると、ロアック大伯父さんとアニレア大伯母さんが連れ立って歩いてきた。互いを慈しみあう仲睦まじい老夫婦の姿を見ていると、何だか私まで心がほんわかとしてくる。
「おや、こんなところに珍しい。今日はロアックも走りますかな?」
「ははは、遠慮させてもらうよ。なに、フィエーナさんの姿が見えましたのでね」
「私、ですか?」
「ええ、上からフィエーナの走りっぷりを拝見させてもらいましたよ。フィエーナは女の子なのによくこの二人に付いていけますね。感心してしまうわ」
「いやはや、大したものです。その若さが羨ましい」
普段の日課を改まって褒められると何だか照れ臭い。私は、ロアック大伯父さんとアニレア大伯母さんの褒め言葉に気恥ずかしくなってつい目線を下に逸らしてしまった。
「一時間も走って喉が渇いたんじゃないかしら? 飲み物を用意してありますからね、私たちの部屋にいらっしゃい」
何の気負いもなくアニレア大伯母さんはそう言ってくれるけれど、私の記憶によればあの部屋は結構お高い調度品がたくさん置いてあった。ソファもそこらの家具店では早々見られない出来のよさで、今の私が座ってもいいのかとためらいを覚えてしまう。
「汗まみれですけど、いいんですか」
「そんなこと気にしませんよ」
そういって笑うアニレア大伯母さんに裏表はなくて、本心から言ってくれているのだと私は判断した。
「でも、一息入れてシャワーを浴びたようがいいでしょうね、女の子ですもの」
不意打ちでウインクをしてきたアニレア大伯母さんを前にして、私は思わず笑顔になってしまう。そして、私の顔を見たアニレア大伯母さんは悪戯成功といった顔つきで微笑みかけて来るのだった。
ロアック大伯父さんとアニレア大伯母さんは夫婦で共用の私室があって、私はそこに案内された。昨日、ここに来た直後にみんなでお茶をご馳走になった部屋だ。
「今の子が気に入るか分からないけれど、許してちょうだいね」
「ありがとうございます、いただきます」
アニレア大伯母さんが用意してくれたのは、ロートキイルで昔から人気の清涼飲料だった。仄かなリンゴの甘味のあるお茶風味の飲み物で、走りっぱなしで喉の渇いていた私はコップに口を付けてすぐに全部飲み干してしまった。けれど、一杯だけじゃ物足りない。唇に触れた氷の冷たい感触が火照った体を刺激し、物欲しげな目線を向けてしまう。
「あらあら、随分喉が渇いていたようね。もう一杯のむかしら?」
「いいですか?」
「遠慮しなくていいのよ」
瓶から注がれた飲み物をもう一度飲み干して、ようやく私は人心地着くことができた。
「フィエーナは随分体力がありますね。剣術を習っていると聞きましたが、その体作りですか」
「いえ、これはお父さんと兄に影響されたんです」
「ほう、それはどういう?」
私にしてみればなんでもないような話をロアック夫妻は嬉しそうに耳を傾ける。何だか新しいお祖父ちゃんが出来たような気分だ。
私としても何処となくドークお祖父さんの面影があるロアック大伯父さんには親しみを感じていた。豪快さよりかは貴族のような気品が見え隠れしているので、ちょっと兄弟とは思えないけれど、やはり似ている部分はある。
こうして話しているうちに、私はロアック夫妻と打ち解けていった。
「朝ごはんもアニレア大伯母さんが作るんですか?」
各所で働いているメイドさん、実は常勤という訳ではないのだそうだ。普段は必要な時にだけ来てもらっているのだけど、この一週間だけは客人を迎えるので追加料金を払ったのだとのことだ。
「残念ですけど、普段からメイドなんて雇えはしません。この家の維持費がありますからね」
「先祖から受け継いだ屋敷なので手放したくはないのですが、時々もっとコンパクトな家ならと思う時はどうしてもありますね」
意外と世知辛い実情を明かされ、私は申し訳なくなる。そんなに苦しいのに、私たちは受け入れてくれたのか。
「おっと、気に病んだりしないで下さいよ。あなた方を招いたのは私たちの希望なのですから」
「お金のことなんて気にしないで思う存分くつろいでいいんですよ」
きっと二人の本心なのだろうけれど、そんな話を聞いて黙ってはいられない。
「アニレア大伯母さん。朝食ですけど、私と一緒に作りませんか?」
「いけません。フィエーナはお客さんなんですから」
「元貴族の矜持がありましてね。家内は客人に働かせるのが嫌なんですよ」
「でも、私は家族じゃないですか。ねえ、一緒にアニレア大伯母さんと料理作らせてもらえないですか? きっと楽しいと思うんです」
私はアニレア大伯母さんの手を取って頼み込む。アニレア大伯母さんと共に料理を作る情景が脳内に浮かび、私は期待に胸を膨らませた。最初は何か手伝いをしたいと思って口を動かしていたのに、これじゃ私が楽しみたいだけみたいだと内心苦笑する。
「フィエーナたら、そんな目で見られたら断れないわ」
「ふふふ、アニレアもフィエーナには形無しだね」
「一旦その気になったら楽しみになってきてしまったわ。罪な子ね、フィエーナ。厨房に案内するわ」
「はい!」
厨房は晩餐室の隣に設置されている。私がアニレア大伯母さんと一緒に中に入ると、既にメイドさんが調理を始めていた。
「シュレ、今日はフィエーナも手伝ってくれることになりました」
「よろしいのですか?」
「ええ、構いません」
広々とした厨房で私はそこまで料理の助力はできなかった。そもそもロートキイル人の朝食に調理の手はあまり入らない。精々、果物やハムを切ったりする程度だ。それでもお皿を並べたり飲み物を運んだりと雑務で役に立とうと動き回った。
「慣れてますね、同い年の私の子もこれくらい手伝ってくれると嬉しいものです」
「え、シュレさん結婚してるの?」
「してます、もう十年」
私は驚きで一瞬固まってしまう。二十代前半かと思っていたんだけど、本人はあっけからんと三十五歳なのだとこともなげに言ってくる。
「私の子、寝起きは我が儘なんで旦那に朝は任せて午前勤務を入れたんです。えへへ」
真顔で笑い声を上げる姿は何処かシュールに見えた。
手早くアニレア大伯母さんとシュレさんの三人で朝食の準備を整えた私は、頃合いだろうとみんなを呼びに二階に上がる。けれど、それぞれの部屋をノックしても誰もいない。おかしいなと思い、最後に私の部屋を開けると全員が集まっていた。
「あー、フィエーナだ」
「ロアックさんたちとは何を話していたの?」
「つーか、何でそんなカッコしてんのさ?」
私は簡単に今までのことを話す。
「フィエーナ、準備いいわね。私も毎朝ランニングするけど忘れて来ちゃったわ。何だかいつも走っているからか、ムズムズして仕方ないわ」
本当なら靴とウェアを貸してあげたいところだけれど、私とアメリアじゃサイズが合わないだろう。
「フィエーナ水臭いな、あたしも世話になりっぱなしは性に合わないから手伝うぜ」
「なら、私も手伝う」
「じゃあじゃあ、私だって手伝っちゃうよ!」
この後朝食の席でアニレア大伯母さんに手伝う旨をみんなして伝えると、困ったように笑ったアニレア大伯母さんは承諾してくれた。