全教科の教科書に制服、体操服などの荷物を一ヶ宮家に運び終えた私たちは夕食の買い物に出かけることにした。お昼は私が何を食べられるか分からなかった奈緒さんがサンドイッチに野菜スープを用意してくれたけれど、せっかくなので何か日本らしいものを食べてみたいと告げると奈緒さんは頭を悩ませる。
「でも、フィエーナちゃんはあっちでも幸恵さんのご飯を頂いていたんでしょう? 何がいいかしら?」
「うーん……ロートキイルって内陸国なのでお魚はあんまり食べられないんですよね。日本人は魚をよく食べるんでしょう?」
「そうね……なら、お刺身にでもしましょうか」
「お刺身! 私、食べたことないです」
そもそもからして新鮮な魚を生で食べる機会がない。お寿司ならスーパーにパックが売られていたのを食べたことはあるけれど、トヨ曰く回転寿司でもこれよりはマシと言わしめるレベルだった。
「三丘市はね、隣が漁港だから新鮮なお魚がたくさん取れるのよ」
それに、奈緒さんが普段よく使っている近所のスーパーは漁港と契約しているので珍しいお魚もあったりするんだとか。正直私には想像も付かなくて、奈緒さんが美味しいのだと話す魚の種類にもピンと来なかった。
歩いて三分。高校に向かう途中にも見かけたスーパーマーケットは、買い物時とあってかお客さんで賑わっていた。
「あら、一ヶ宮さんじゃない! その子はだあれ?」
「佐藤さん、実は短期留学生を受け入れたのよ」
「へええ~、すっごく美人さんじゃない!」
近所のスーパーとあってか、奈緒さんの知り合いもたくさんいるようだ。私は奈緒さんと一緒に挨拶を何度も繰り返す。何だか私たちの周りに人混みが出来てしまい、私はスーパーをじっくり見て回ることが出来なかった。
「ふわー……フィエーナちゃん人気者ね。まるでアイドルみたいだったわよ」
「あはは……」
玄関にたどり着いた奈緒さんはくたびれてしまったらしく、靴を脱ごうと座ってからしばらく動こうとしなかった。なので、代わりに私が冷蔵庫に食材をしまっていく。奈緒さんは几帳面な性格らしく、整理された冷蔵庫の中は分類別にしっかり小分けされていた。
「ありがとうねフィエーナちゃん」
あらかた食材をしまいこんだところでやってきた奈緒さんの態度はどこか申し訳なそうだった。これから一緒に暮らしていく上で私もきっと迷惑をかけることもあるのだから、こんなことは気にしなくていい。
「今日からは私も家族の一員ですから、どんどん言ってください」
「んふふ、頼りにしてるわ」
肩に両手をのせポンポンと叩いてくる奈緒さんに、私はようやく遠慮が消えたかなと内心安堵した。
「我が家の夕食は遅いから、ちょっとおやつにしましょうか」
「仁悟さん、帰って来るのが遅いんですか」
「仁悟さんじゃなくて遥ちゃん」
苦い顔つきに変わった奈緒さんはコーヒーを淹れながらため息を吐く。広々として清潔で眩しいキッチンの中で、奈緒さんだけがどんよりと暗い雰囲気を放ってくる。奈緒さんは元々ネガティブな人なのかもしれない。それとも、事件以来こうなってしまったのだろうか。
「毎日九時くらいが遥ちゃんの帰宅時刻なの。仁悟さんはだいたい六時半には帰ってくるんだけど」
「六時半でも、私のお父さんは過労してるって怒られますよ」
テレビ電話でも遥の疲弊は察していたけれど、まだ高校生の遥がここまで動かないとやっていけないなんて事態はかなり深刻らしい。退魔師なんて簡単に人を増やせる職種じゃないし、遥が逃げ出せば無辜の一般人に死者が出てしまう。
それなのに事態はまだ解明されず、しかも日を追うほど深刻化していると聞く。何だか末期戦じみた状況になりつつある様を見せつけられているようで、背中に冷たいものが走った。
奈緒さんも私も結局、遥の無事を祈って待つことしかできないのは同じなのだ。ちょっと暗い雰囲気の中、私たちはソファでクッキーをつまみながらちびちびとコーヒーで喉を潤す。奈緒さんは遥が飲めたように平然とブラックコーヒーだけれど、私はお砂糖とミルクと足していただいた。
この暗い空気の中、タイミングよく玄関のチャイム音がかき消した。
「きっと仁悟さんね」
表情を明るくした奈緒さんはいそいそと玄関に向かうのを私は後を追った。奈緒さんが施錠を開くと、くたびれた顔つきの中年男性が顔を見せる。スーツ姿にビジネスバッグを肩にかける、典型的な日本人サラリーマンといった服装の仁悟さんは愛妻を認め表情を笑みに変え、次いで私を見てにっこりと微笑んできた。
「おかえりなさい仁悟さん」
「ただいま奈緒。それにようこそ我が家へ、フィエーナさん」
「今日からよろしくお願いします」
「はは、そんな改まらなくたっていいよ。ネット越しには何度か会ってるし、一年くらい前にもロートキイルを案内してくれたじゃないか」
疲れているのだろう、どすんと玄関に腰を下ろすと仁悟さんはゆっくりとした動作で革靴を脱ぎ家に上がる。隣を歩いた私の鼻に一瞬漂ってきた不快な体臭も、一日仕事で頑張ってきたからこそなのだろう。スーツの上着を奈緒さんに渡し、そのまますぐにお風呂に入りに行ってしまった。
「うあ~……さっぱりした」
三十分ほど経って仁悟さんはリフレッシュした顔つきで私たちの前に戻って来る。帰宅したばかりの疲弊にまみれた緩慢な所作も、こころなしかきびきびとしたものに戻っているようだった。
それから私は仁悟さんも交えて私自身の日課についてなど、互いの生活習慣について話し合った。私の父がこういうところは詳しく話し合っていた方が後々トラブルにならなくていいと助言してくれたのだ。確かに話していくうちに発見があって、父も案外頼りになるじゃないかと密かに見直した。
「いやあそれにしても……すごい別嬪さんじゃないか」
対面に座る仁悟さんは私をまじまじと観察してくる。奈緒さんみたいな美人と結婚したなら、もう他の女の人には興味を持たなくていいのにと私は内心思ってしまう。
「こら、鼻の下のばさない」
「イタタタ……」
耳を抓る奈緒さんの顔には真に迫った恐ろしさが混じっているような気がして、意図せず誑かした私への一瞬の冷え切った目付きに私は心が縮み上がった。仁悟さん、私も巻き添えになるから勘弁してほしい。
「そろそろ夕食の準備をしましょうか」
「手伝います!」
九時に帰宅する遥に合わせて夕食を取るのが一ヶ宮家の習慣になっている。六時半に帰ってきた仁悟さんは空腹で大変なんじゃないかと聞いてみたけれど、娘を差し置いて食事を取る気にはなれないのだとか。
「だって抜け駆けみたいじゃないか。どうせなら待って、一緒に美味しく奈緒の料理を食べたいのさ」
それでもお腹が空くのには変わらない。奈緒さんが巧みに包丁を振るって魚を捌いてお刺身にし、私が内心戦々恐々としながらシラスを丼に盛り付け、お味噌汁の匂いがふんわりと香ってくると仁悟さんのお腹が空腹を訴えてぐうぐうと鳴り出してしまった。
「おお~、今日はシラス丼にイワシのお刺身かあ。美味そうじゃないか」
「そうでしょう? おひたしもたっぷりあるから食べてね」
「ははは……健康のためちゃんと食べるさ」
仁悟さんも一緒になってテーブルに料理を並べていくと、九時十五分前には準備が完了する。
「あら、ちょっと早く出来ちゃった。いつもは九時ぴったしに出来るのに」
「フィエーナさんが手伝ってたからじゃないか?」
「そうね。ありがとうフィエーナちゃん」
幸恵さんのところでお米を炊くのと、酢飯作り、おひたし作りそれにお味噌汁を作るのは経験していた。今度は魚を捌けるようになりたいと奈緒さんに言うと、奈緒さんがにんまりと笑って頭を撫でてくる。
「んふふ~、フィエーナちゃんいいお嫁さんになれそうね~」
「いやあ、美人でお料理も上手いんだから羨ましいよ。あ、奈緒には負けるけどね」
「仁悟さんったら!」
「奈緒」
上機嫌で胸元に飛びついてきた奈緒さんを仁悟さんはデレデレしながら受け止める。夫婦仲が良好なのはいいことだ。微笑ましい夫婦愛に、何だか私の口角までゆるゆるとしてきてしまう。
いつの間にか始まった夫婦の馴れ初め話を聞かされていると、玄関のチャイムが鳴り出す。これは間違いなく、遥の帰宅を告げている。
「私、出迎えてきます!」
小走りで玄関に向かい扉を開けると、黒ずくめの服に身を包んだ遥の顔には仁悟さんが帰宅時に見せたような、芒洋とした任務の果ての疲弊が色濃く見えていた。けれど、私を視界に捉えた遥は疲弊をまるで感じさせない明るい笑顔に表情を変えて抱き付いてくる。
「遥、おかえり」
「えへへ……ただいまフィエーナ」
くたびれた声音で倒れかかるように私へ体重を預ける遥。やはり、疲れているみたいだ。私が脱力している遥を座らせてあげようとゆっくり腰を下ろしていると、背後からホッと安堵のため息が聞こえてきた。
「おかえりなさい遥ちゃん」
「おかえり、遥」
「ただいま、ママ。パパ」
平和な日本で、命の危機すらある退魔師になった遥の身を案じない訳がない。遥が帰ってきて無事な姿を見てようやく、遥の両親は不安を取り払って日常に戻ることが出来るんだろう。
「よし、夕食にしましょう!」
遥の帰宅で心の重しを取り払った奈緒さんは遥と似た控えめな胸の前で両手を叩き、次いで右手を天空に振りあげる。子供じみた動きに仁悟さんは小動物を見るような愛おし気な眼差しで妻を見つめ、遥も子供っぽいとこあるんだと耳元で囁いてきた。