時刻が五時になって、ようやく今日の授業は終了した。ロートキイルだと最終学年でも三時半には帰校できるので、長時間の拘束に気疲れを少し覚えてしまう。ただ、その分授業はより丁寧な印象を受けた。一、二回の留年を前提としているロートキイルと留年はあまり想定されていない日本の教育制度の違いだろうか。
「ようやく帰れるね」
私の言葉に頷くのは遥と智恵。一方で雪夜に鈴子はまだ帰らないのだという。
「私たちはハルカやトモほど頭が良くないから……」
「これから追加授業なんだよー……来週は期末テストもあるし気合入れなくちゃ!」
三丘高校はこの周辺でも屈指の進学校だ。ロートキイルに来て数か月でロートキイル語をマスターしてしまった遥のような天才は通常授業だけで問題ないけれど、普通の子はそうはいかない。先生と相談しつつ、進度の速い通常授業に遅れないよう適宜追加の授業パッケージを受けることで学力を付けるのだとか。
「フィエーナちゃんもテスト受けるって言ってたよね? 追加授業受けなくて平気なの?」
「ん、とりあえずは自習で頑張ろうかなって。いざとなれば優秀な家庭教師もいるし」
私が微笑みかけると、気合の入った遥が私の両手を包み込むように握りかけてくる。
「任せて、フィエーナが満点取れるように頑張るから!」
「あはは、ありがとう遥。それにベーセル兄だって助けてくれるからね。負ける気がしないよ」
テストの件を話したらベーセル兄は早速テスト範囲や授業内に出てきた設問傾向、授業方針などを私からヒアリングし勉強すべき指針を指し示してくれた。少ない労力でロートキイルの中等教育システムに染まった私を日本式に適合させたベーセル兄は教育者としての資質も一流だ。
やっぱりベーセル兄は私の一番のベーセル兄だ。感謝してもしきれない。果たして一生の間に恩返ししきれるか……きっとしきれないんだろうな。それでも私に出来ることはしていきたい。ベーセル兄のためだったら何だってしてあげたい。
遥と一緒に帰宅後、遥が退魔師として出発するのを見送った私がリビングで勉強していると、奈緒さんがお茶を淹れて勉強中の私に差し出してくれた。
「どう? 日本の授業は?」
「ベーセル兄のおかげで困ったことはないんだ」
「んふふ、フィエーナちゃんはお兄さんのことが好きね」
「大っっっっっっっ好き。ベーセル兄の凄いところはいっぱいあるんだ。勉強が出来て運動も出来るだけじゃなくて、人としての格も私なんて及びもつかないくらいすごいんだよ」
私はとめどなく溢れるベーセル兄への思いを奈緒さんに伝え続ける。延々と語り続けていると、いつの間にか仁悟さんが帰宅しリビングに立っていた。
「今日はお迎えがなくて寂しいよ……」
「あらあ、ごめんなさいね仁悟さん。でもすごいのよ、フィエーナちゃん何十分もずうっとお兄さんの自慢話を途切れることなく話し続けるの。私感心しちゃった」
「へえ、ベーセル君だっけか? ずいぶんと優秀だとは聞いたね」
「うん! ベーセル兄はとっても優秀なんだ!」
「おや、フィエーナさんが珍しく興奮しているね」
「こんな可愛いんだもの。お兄さんも甘やかしちゃうわ」
「仁悟さんも聞いてくれますか?」
ベーセル兄が会話の話題に上ったことは幾度かあったけれど、一ヶ宮家の人にここまで突っ込んだ話をするのは初めてだ。ベーセル兄についての話だし絶対興味を持ってくれる。
「あー……俺はまず風呂で汗を流させてもらおうかな」
何処か慌ただしくリビングを去ってしまった仁悟さん。ああ残念だ。仁悟さんにも話を聞いてほしかった。けれど奈緒さんがまだいる。
「ごめんなさいねフィエーナちゃん。まだやらなきゃいけない家事がたくさん残っているの。それにフィエーナちゃんもまだ勉強全然してないでしょう? お兄さんのためにもしっかり勉強しないと駄目よ」
そういえばさっき勉強を初めて間もなく奈緒さんがやってきたからロクに勉強に手を付けていなかった。折角ベーセル兄が私の為に時間を取って面倒を見てくれたのに、手を抜いてはベーセル兄の妹としての名折れだ。
「そうだね、奈緒さん話聞いてくれてありがとうね」
「ううん、また色んなお話聞かせてちょうだい」
夜の九時を過ぎてようやく帰ってきた遥と一緒にみんなで夕食を取っていると、ふと遥が私の歌を聞きたいと言い出した。
「フィエーナもたまには歌っとかないと喉が訛っちゃうんじゃない」
「そうだ、それで遥に防音室使っていいか聞こうと思ってたんだ。遥の部屋を借りてもいい?」
「いいよ、勝手に入っても。フィエーナなら好きにして構わないから」
「ありがとう遥」
「あら、フィエーナちゃんは歌が得意なの?」
奈緒さんに聞かれ、そういえば言ってなかったかもと私は合唱団に所属しているのだと明かす。
「へえ、どんな歌を歌っているのかしら」
「結構節操無しに色々。老人ホームに陸軍、病院……場所によって受ける曲も違うからね」
「歌っているところをみてみたいな。なあ?」
同意を求めるように仁悟さんが周囲に視線をやると、奈緒さんも遥もうんうんと頷いて見せる。
「んー……ちょっと恥ずかしいけれど、ご飯食べたら披露してみようかな」
「恥ずかしがる必要ないよフィエーナ。フィエーナの歌はとっても綺麗なんだよママ」
「へえ、それは楽しみね」
「あんまりハードルを上げないでよ遥」
夕食を食べ終え、遥の部屋に全員で移動する。カーペットに座る三人の期待するような目線を浴びつつ、私は喉慣らしもかねて一つ歌って見せる。聖歌を歌っていると、熱心な信者でない私にも何処か神への畏敬の思いが湧いてくるような気がする。地元にある教会のひんやりとした、心が清らかになるような空気を胸に抱きながら私は一曲歌い終えた。
三人だけの観客は、歌い終えた私にいっぱいの拍手を浴びせてくれる。
「心が洗われるようだったわ……」
「そうだな……今日はぐっすり眠れそうな気がする」
うっとりとした顔つきで胸元に手を乗せる奈緒さんの肩へ手を回す仁悟さんは、仕事終わりとは思えない晴れやかな表情でこちらに微笑みかけて来る。遥に至っては瞳から涙を零していた。そこまで感動してくれると、私としても嬉しい限りだ。
「やっぱりフィエーナの歌好き。もっと歌ってくれる?」
涙を人差し指で拭う遥の姿は清廉な美少女然としていて、私は一瞬見惚れてしまう。そんな遥のお願いを私に断れるはずがなかった。
「いいよ、私も歌い足りなかったところ」
それでも合唱団の先生の教えは忘れていないから、私は数曲で歌うのを止める。コンサートなどで私のトータルの歌唱時間及び単位時間当たりの歌唱時間の制限を図る先生の気苦労を間近に見ている私には、先生の危惧を笑い飛ばすことなんてできなかった。
「今日はこの辺にしとこうかな」
私の言葉を聞き、奈緒さんと仁悟さんは露骨に不満を表情に現してくる。
「もうやめちゃうの?」
「何だ、まだ俺は聞いていられるぞ?」
「あはは、二人とも明日があるんだからそろそろ寝ないと駄目だよ」
私の言葉を聞き遥の部屋にかかっている時計に目を移した仁悟さんは慌てて立ち上がる。
「残念だけど、俺はまだ資料にも目を通さないといけないからここで失礼するよ」
おやすみの挨拶を交わして仁悟さんが部屋から出ていくと遥も欠伸を噛み殺しながら立ち上がり、私の目の前まで歩いて来る。
「私寝るからフィエーナはこっち」
「えー! 遥ちゃんはフィエーナちゃんの歌はもういいの!?」
「私眠いんだ、ママ」
手を握って私をベッドに引っ張る遥の目はトロンとしている。今日も退魔師として数時間戦闘を続けていたのだ。しっかり休まなくちゃ体がもたない。
「そっか、それじゃ……ううぅ……すっごく名残惜しいけど二人ともおやすみなさいね」
そう言って奈緒さんは部屋の明かりをついでに消してから出て行った。
「フィエーナのお歌は相変わらず延々と聞いてたくなっちゃうけど、私がストッパーになってあげるからね」
「ありがとう遥」
「ん」
抱き付いてきた遥の柔らかな体が弱冷房の室内では少々暑かったけれど、次第に思考は微睡んでいつの間にか私は眠ってしまっていた。