ヴェイルの記憶を私の脳内に留めておいていいのかという思いはあった。未だその傾向はないけれど、記憶はいずれ薄れ曖昧になっていくもの。
ただ過去の記憶を持っているなんて突拍子もなくて信じてもらえると思えなかった。フィエーナとしての私の同一性が侵される気がして、話すのが怖かった。
だから密かに書き記し、秘密の捌け口にしたのだった。誰にも見せる予定なんてなかった。
「うひょへええええ」
「ふおおおおおお」
奇声を上げながら私のノートに縋りついて読みふける里奈に、その隣で熱心に読み進めていく遥。
そして二人を見る私には羞恥やら諦観やらもう、今の心境をどう現していいやら分からない。もう見てられないので二人には背を向けている。
ああ、駄目だ。頑丈なハードカバーの黒地のノートがゆっくりとめくられる音すら今の私には辱めになる。天井を仰ぎ見ては窓際によって外の景色に意識を向けようとしたり、ちょっと様子が気になって二人に目を向けてみたり。
ロートキイル語で書いているのに、全く意を介さないように二人は読み進めていく。それ、二百ページ以上あるんだけど。二百ページ以上びっしりとアルファベットで埋められているんだけど……。
里奈に書き記したりはしていないのと聞かれ、安易にあるよと渡すべきではなかった。語り聞かせているんだからいいやと思ったのが間違いだった。私自身の口で過去の記憶を語る際には省いたり隠したりした恥ずかしい思い出も逐一回顧録には記されている。気がついたのは回顧録を読み始めた里奈の背中から自身の筆跡を追いかけた時で、今更奪い返す訳にもいかなかった。
五時ちょっと過ぎから二人を私の自室に招き入れ、二人にしてみればあっという間。私からしてみればあまりにもゆったりとした時間が経過し六時になった。
「ね……ねえ里奈。そろそろ帰らないとお家の人が心配するよ」
「えぇ? うわっ! もう一時間経ってる!?」
帰らなくちゃと慌てだした里奈の手からノートを取り上げようと伸ばした私に抵抗するように里奈はノートを胸元に抱え込む。
「これ、貸して?」
「えっ」
「だってまだ二十ページも読めていないんだよ! ロートキイル語で書いてるから読み進めるのにすっごく時間かかるし!」
「いや、でも……」
「大丈夫! フィエーナちゃんの小説そんな恥ずかしがる必要ない! 私ロートキイルの小説もいくらか読んだことあるけど、これが一番面白いもん! 遥ちゃんだってこの小説好きだよね!」
ぶんぶんと頭を縦に振る遥。違う、違うんだ……。せめて編集させて。読ませたくない記憶の部分だけ削除しておくから。
「お願い! 絶対汚したりしないから!」
「うーん……」
「遥ちゃんだって読みたいよね!? 一日交代で交換っこして読もうね!」
再び力強く首を振る遥。
「お願いお願いお願い!」
里奈と遥二人が私を上目遣いでジッと見つめて来る。動揺する私が目を逸らしてもちょこまかと動いて視線を向けて来る。物欲しげな目に見つめられ続け、私の拒絶の意思は緩んでしまう。
「しょうがないな……いいよ、貸してあげる」
「やったー! ありがとフィエーナちゃん大好きー!」
抱き付いてくる里奈を受け止めながら、私はもはやなるようになれと前向きに受け止めることにした。というかお願いだから変な事態にだけはならないで……。
「ちなみにフィエーナちゃんこれって一冊だけなの?」
ぎく。
その後、一気にロートキイル語に習熟し始めた里奈は一気に二百ページ以上はある第一冊を読み終え二冊目、三冊目と読み進めていった。そのかい(?)あって里奈は留学生クラスから一般クラスに編入することになる。また、遥も数百ページにも及ぶロートキイル語の文章を物語として楽しみながら読んでいったことで一気にロートキイル語への理解が深まり、僅か二週間足らずで新学期から一般クラスへ編入することに決まった。
そして……。
「ねえねえフィエーナ! これの続きってまだないの!?」
「ごめんね。一日数ページ書けるかどうかだから」
「数ページでもいいから俺見たいよ」
「里奈に貸しちゃったからまた今度ね」
クラスメイトにまで私の回顧録が広まってしまっていた。いや、友達に見せたいって言った里奈に許可を出したのは私だけど。私だけど! だって遥と里奈以外が興味持つなんて思わなかったんだもの!
まさかこんな読まれるなんて思いもしなかったんだ……だって、特に考えずに昔の記憶に従ってさらさらって書いてるだけなんだよ。時系列とかは気を付けてるけど、本当にそれくらいで、ただ書き綴ってるだけなのに。
「フィエーナったら小説家みたいね」
「あはは……そんなんじゃないよ」
隣のクラスからやってきた幼馴染のエリナが軽い口調でからかってくる。だけど口調とは裏腹に顔には分かりやすく私は不満ですと書いてある。
「私に隠れて何冊も執筆されていたなんて知らなかったわー」
エリナとは週に何度も会っているし、家にも頻繁にやってくる。一番の親友といってもいい存在だ。それなのに回顧録の存在は私から知らされず他の友人伝いでようやく知った。何だかそのことが気に入らないようで、話題になるたびに意味深な目線を向けられていた。
「一番に私に見せて欲しかったのになー、私が順番待ちで最後の方なんだよ」
「ごめんってば」
グチグチ言ってくるエリナに謝り続けていると、遠慮がちにクラスメイトのグレイアが話しかけて来る。
「あの……ウチのお母さんがフィエーナさんに会いたいって言うんだけど」
「え? 何で?」
私に話しかけているのに、返事は平気でエリナがする。私とエリナは大体一緒にいるからグレイアは気にした様子もなく話を続けた。
「フィエーナさんの小説あるでしょ? あれお母さんが読んだら是非出版したいって」
「え……!?!?」
「数日中にフィエーナさんの家族も交えて話し合いがしたいんだって」
「フィエーナ! やったじゃん! これで有名人の仲間入りだね!」
寸でのところで表情が崩れるのを避けた私の内心を知らず、グレイアの話は進んでいった。
翌日である。ロートキイルでも大手の出版社に位置する会社に勤めているというテレーズさんが我が家にやってきた。
凛々しい顔立ちに眼鏡の似合う彼女は両親とベーセル兄、そして駆けつけてきてくれたエリナを前に私の回顧録を持ち出しその出来栄えを絶賛する。
「フィエーナさんの書いたこの小説、実に素晴らしい出来です。是非ともわが社で出版させていただきたいのですがよろしいでしょうか?」
「と、いっても……私たち読んだこともないのですけれど」
「出版の可否の前に冒頭だけでも読ませてもらっても?」
「あら!? でしたら是非読んでください! 読めば分かると思いますから!」
テレーズさんの手から家族の手に回され、私が家族相手には隠そうとしていた秘密が秘密と認識されることなく公開されていく。本当は断ってもよかった。けれど、ヴェイルの記憶もまた私の一部分ではあるのだ。家族には知ってなお、受け入れて欲しいという思いが私の中にはあった。
だから、ある意味これはいい機会なのかもしれない。ヴェイルの記憶を持った私という本当の形ではないけれど、むしろ過去の記憶を持つ真実ではない形での公開だからこそ、嘘を吐く形にはなるけれど……。
「あら、面白いじゃない」
「ああ、昔読んだ児童小説を思い出すなあ」
「フィエーナにこんな才能があったんだね。別に隠す必要なんてなかったのに」
微笑みながら頭を撫でて来るベーセル兄に私は俯いていることしかできない。家族には私の文筆の才が認められているのだろう。けれど、それでもいい。否定されなくてよかった。
「ともかく本人の意思が大事だろう。いくら出来栄えが良くとも本人が嫌と言うなら俺は反対だ」
「そうね、フィエーナがどうしたいかよね」
「絶対出版した方がいいって! フィエーナお金持ちになるチャンスだよ!」
両親の理解ある言葉とは正反対の言動を、エリナが耳元で囁いてくる。正直クラス中に広まってしまっているので、もうどうにでもなれ感がある。ただそれでも全国区への出版には二の足を踏んでいた。
「実は既に一部がネット上に公開されていまして……これがかなりの評判で閲覧されています。削除はもちろん可能ですが、完全にとなると今のご時世難しいでしょう。どうです? せっかく世に出たのですから最後まで公開してしまってもいいのでは? フィエーナさん」
誰だ勝手にネットに上げた馬鹿は!? テレーズさんの話は、この場を私の内面を家族に受け入れてもらおうという私自身の目論見とは大きく外れていて、大きな充足感を得ていた私の表情を歪ませるに十分な衝撃となった。
「正直に言って、この作品が世間に公開されず埋もれるのが私には耐えられません。みなに読んでもらってこの読後感を共有したい! どうかお願いします!」
テレーズさんは興奮したように鼻息を荒くし、私の手を取って来る。その表情は時折名著に出会い家族へ布教してくるベーセル兄にも重なるところがあって、ヴェイルの記憶を愛してくれることに私は喜びを覚えてしまっていた。だから彼女に否定的な言葉を投げかけることを私に躊躇わせる。
端的に言って、私は彼女の熱意を前にほだされてしまったのだった。
「分かりました……詳しい契約条件にもよりますけど」
「ありがとうフィエーナさん! もちろん悪いようにはしませんとも!」
本当に、悪いようにならないでくださいね……。