木曜日、最後の時間は化学のテストが実施されていた。私が慎重を期して答案用紙を見直ししてから退室すると既に遥はいなかった。
「あれ、遥は?」
「遥なら、早退したわ」
「えっ」
私より先に退室した智恵と雪夜はいつもの場所で遥と一緒にテストの感想を言い合っていたら、先生に遥が連れ出されていったのだそうだ。
また、魔之物か……遥、大丈夫かな。
「心配よね」
「うん……」
何とかテストを受けきって早々に学校を去った遥が帰宅したのは信じられないことに翌日に差し掛かった頃だった。正午前に早退したのにあと十数分もすれば金曜日になるような時間に帰ってきたのだ。
今までとは事態が違うと察した私と仁悟さんはインターホンが鳴ったのと同時にエレベーター前で二人を待つことにした。
「こんなことって前はあったんですか?」
「……フィエーナさんが来る前は、度々あったよ」
帰りの遅い遥を待って動揺する奈緒さんを励まし続け気丈に振舞っていた仁悟さんだけれど、奈緒さんの目を離れてからは仄暗い表情を隠しきれていなかった。静かな夜のマンション通路に突っ立って、ただじっと点々と動くエレベーターの階層表示を見つめ続けている。
やがてスムーズに上昇を済ませたエレベーターのドアが開き、有江さんに肩を借りる遥の全身が露わになる。致命傷はない、それは不幸中の幸いだ。でも、頑丈だと聞かされていた漆黒の退魔師の装束はもうボロボロで、露わになった遥の白い素肌には掠り傷があちこちに付いてしまっている。地に何度も転がされたのか土が頬に付着し、綺麗な黒髪は土煙を浴びてくすんでしまっていた。
どんなに疲れて帰ってきても掠り傷一つ残さず戦いから戻ってきた遥がこんなにボロボロになるなんて、一体……。
声を出す余力もないのか、私たちの姿を見た遥は口端を微かに上げて微笑んで見せる。うつろな表情で視線もぶれさせながらそれでも笑う遥を見たら、どうにも無性に泣きたくなってきてしまったけれど、ここで私が弱気になってちゃいけない。
一瞬目を瞑って気合を入れなおし、私はボロボロの遥を抱き受けた。有江さんも限界だったのだろう。私が遥を引き受けた途端にふらふらとよろめき、壁際に身を預ける。
「す、みません……」
「いえ。娘をありがとうございます」
遥を無事に帰してやりたい思いは有江さんも同じだ。悔しさに顔を歪ませた有江さんに仁悟さんが肩を貸し、私が遥を支えて私たちは奈緒さんの待つ部屋まで戻る。
「遥!」
仁悟さんに慰められて何とか平静を保っていた奈緒さんは玄関で娘の帰還を待ち受けていた。体育座りから立ち上がって遥の元に駆け寄った奈緒さんは大事な愛娘を一度しっかりと抱きしめた後、家に上げるのを手伝ってくれた。
リビングのソファに身を横たえさせた遥はようやく安心できる場所に戻って来られたからか、辛うじて保っていた意識を閉じそのまま眠りに付いてしまった。
仁悟さんに肩を借りて何だか歩けていた有江さんもソファに座らされると心底疲れた表情で目を瞑る。
ここまで疲れ切った二人に事情を聴くのは気の毒だ。私たちは特に会話をすることもなく二人の具合を見続けた。
一時間ほど経った頃、有江さんがぼんやりと目を開け小さく水と呟いたので持って来てあげるとコップを一気に呷って飲み干す。
「すまない、助かった」
「大丈夫……なんですか」
「うん。しばらく休ませてもらったからな」
去勢を張ってる訳ではなさそうだった。水を飲み終えた有江さんは意識をすっかり覚醒させて元の凛々しい立ち振る舞いを取り戻していた。ぐったりと背をもたれさせていたソファから腰を上げ、姿勢を正した有江さんはテーブルを挟んで向こう側にいる奈緒さんと仁悟さんに頭を下げた。
「奈緒さん、仁悟さん。この度は申し訳ありません」
「……何があったんですか」
「そうですね。お話しましょう」
三月からゆっくりとだけれども徐々に勢力が増しつつある魔之物。今までは何とか抑えられていたはずの勢力は、今日決壊を迎えた。数か月に渡る観測で蓄積されたデータを上回る速度で増殖を開始した彼らはオンステージ中の退魔師の対応許容量を上回る速度で出現し、実体化。正午前には待機中及び休暇中の退魔師を総動員し民間人への被害を抑えるべく戦力の集成を開始。一時的に魔之物の勢力を抑えつけることに成功した。
あわせて周辺地域の予備として拘置されていた退魔師が緊急事態として三丘市を中心とする該当区域へ緊急輸送され、何とかなったと思われた。
けれど午後四時頃、小康状態に持ち込んだ戦線で二回目の攻勢が発生する。この二回目の攻勢は予備として確保した周辺地域の退魔師を動員してもなお抑えられるものではなかった。
この事態を受け、北海道から沖縄に至るまで国内に在籍する退魔師が緊急動員されることとなった。本来退魔師の活動業務は隠匿するべきもののはず、けれどそうも言ってられなかったらしく陸海空全自衛隊の輸送戦力すらも移動には使用されたのだとか。
「今、三丘市を中心としたAクラス区域及びBクラス区域以外はがら空きですよ。まあ、引退した方々に声掛けをして最低限の対応は可能になってますがね」
「それ、って……日本は大丈夫なんですか」
あまりにもぎりぎりな状況に、私が上げた声はかすれてしまっていた。
「まあぎりぎりのところだな。先代様のように日常の退魔師業を引退された実力者も全国各地にある程度だがいる。退魔師層の厚さにかけては日本ほどの国はないからな」
下手すれば何万という命が失われる危機があった恐るべき事態があったのに、私たちは何も気づかずにのん気に日常を送っていた。空恐ろしい現実を前にリビングにいる私たちにどんよりとした不安感が降りかかる。
「おっと、不安がらせてしまったみたいですね。だが、私はそう絶望してはいないですよ」
「そうはいうが有江さん。今の話を聞く限りじゃ……」
重々しい仁悟さんの言葉を遮るように有江さんは自信に満ちた表情で話し始める。
「今日の戦い。ほとんどの退魔師はまともな戦いにすら持ち込めていなかった。それでも被害がほとんど出てないのは遥や、宗一様のような突出した退魔師がいたからこそです」
まともな戦闘に持ち込めていたのは遥と宗一の二人きりであり、それ以外の退魔師は防戦に努めるか逃走以外の選択肢はなかったと有江さんは言う。それって、とってもまずいような気がする。自信を持って言える台詞じゃないんじゃないかな。
「遥の怪我。それは全て最初の大戦闘で負ったものです。二回目では各地の強者が集まりました。遥にも劣らない優秀な退魔師です」
日本の最精鋭ともいえる戦力が現在この街には集結していて、彼らが到着後はそれまでの苦戦が嘘のように事態は好転したのだと有江さんは話す。今の陣容ならば危機に陥ることが想像も付かないほどの戦力だとまで言い切る有江さんの表情は確かで、不安に満ちたリビングの空気が少しばかり軽くなった気がした。
「安心してください。皆さんの日常は我々が必ず守り抜きますから」
凛とした態度で有江さんは立ち上がる。
「私はこれから天河本家の元に行かねばなりません」
「大変ね。少し何か食べてからでもいいんじゃない」
「いや、しかし……」
このまま颯爽と消える雰囲気を醸し出していた有江さんは、奈緒さんの言葉に困ったように立ち止まってもじもじしだした。
「……私、お腹空いた」
「遥! 目が覚めたのね! 良かった! よかった……」
「ママ。私なら大丈夫だよ。掠り傷しか負ってない」
にっこりと笑う遥に奈緒さんが感極まり泣き出しながら抱き付きに行く。いつもは私に抱き付いて来る遥が、奈緒さんの背をゆっくりと撫でてあげる。慈愛に満ちた表情は遥の綺麗な顔立ちとよくマッチしていて、私はしばらく見惚れてしまっていた。
「はは、何だお腹が空いたか」
緊張の糸が途切れ、ようやく笑みを取り戻す仁悟さんに遥はちょっと我が儘っ子な笑みを返す。
「うん。だって、夕方から何も食べてないんだよ」
「それじゃみんなでご飯にしよう。私、温めて来るよ」
実をいうと私も遥が無事と分かってから、急にお腹が空いてきた。ああ、私もやっと安心出来たんだ。ようやく遥が笑顔を見せてくれたので自身の表情が緩んでいるのを自覚する。
「私も手伝うわ。ホッとしたら私もお腹空いちゃった。すぐ用意するから有江さんも食べて行って?」
「……むむ、困りましたね」
「有江さん、食べてって」
「そう……ですね。私もお腹が空きました。ご相伴に与ります」
ついに観念した有江さんの腕を掴み、遥が椅子に座らせる。テーブルに置かれた料理の数々が目の前に広がり、有江さんがごくりと喉を鳴らすのが見えた。やっぱり有江さんもずっと食事を取れていなかったのだ。これくらいの休息を取るくらいは許されるはずだ。