テスト最終日の金曜日、昨日の疲れが心配だったけれど遥は恙なく学校でテストを受けきることが出来た。
帰宅中、ふらつく遥の体を咄嗟に支える。
「遥、大丈夫?」
「ん、平気」
昨日帰宅して以来、遥の調子はよろしくなかった。私にはよく分からないのだけれど、退魔の力を使いすぎてしまった後遺症なんだそうだ。本来は数日休暇すれば問題のない疲労……なのだけれど、現在の情勢はそれを許してはくれない。それどころか、遥がここまで奮闘しても安全係数ぎりぎり程度までしか魔之物を削り切れていなくて、今日も遥は帰ったら即座に出撃しなくては街が危ないのだという。
「心配しないでフィエーナ。昨日で強い魔之物は祓い尽くしているから、今日はちょっと数が多いだけ」
「うん……」
本当は遥に行って欲しくはない。このまま一緒に平和に過ごし続けていたい。けれど、その平和そのものを遥が守っているのだ。私が気弱でいたらいけない。心を切り替えなくちゃ。
「……そんな」
何処か気の抜けっぱなしな調子だった遥の表情が俄かに険しくなる。ずっと支えていた遥の体が私から離れ、制服越しの柔らかな感触が失われた。
「遥?」
「フィエーナ逃げてっ!」
動けたのは遥の声があったからこそだった。頭上より飛来した漆黒の塊が音を切り裂き大地に突き刺さる直前、私は横に跳躍し、遥は何処かから取り出した息吹く新緑の色をした刀を黒塊に突き刺していた。
黒い塊は遥の刺突の前に形状を維持できずに消失していく。だけど、それ以上に私は道路の舗装を紙みたいにバラバラにした破壊の爪痕に視線が釘付けになってしまっていた。もし一瞬でも判断が遅れていたら、私はどうなっていたのかな。
「は、遥……今の、何?」
今更ながらに震えだしてきて、声もいつも道理に発声できなくなってしまった。はは、遥はいっつもこんな怖い目に遭ってたのか。私には、とても出来そうにないや。
「魔之物……どうして、市街地に……駄目! フィエーナこっちに! 逃げないと!」
戦えない私を抱えた今の遥に強硬手段は取れない。足枷になっているのを自覚しながらこれ以上私は足を引っ張りたくなくて、周囲に突如として湧き出した異形の怪物たちに気後れすることなく駆ける遥に付いていく。
よかった。体の震えはどうにか走るのに支障のない程度で済んでいる。時折刀を振るい進路を啓開していく遥の後を何とかついていけている。けど、この命がすぐにでも潰えそうなプレッシャーに長く晒されていたらどうにかなってしまいそうだ。早く逃げ出したい。
「……誘導、された」
それなのに。
逃走した先にはあまりの暑さに人っ子一人いない真夏の公園があった。サッカーコート一面分の面積がある、申し訳程度に遊具がいくつか置かれた公園の中心。揺ら揺らと陽炎のたゆたう広場の中心部には、不定形の黒で構成された巨大な球体が蠢いていた。陽炎のように揺らぎ明滅していたその黒い球体はまるで私たちが来るのを待っていたかのように唸り声を上げ、触手のようなモノを伸ばし振り下ろしてくる。
「フィエーナ!」
「大丈夫だよっ! このくらい避けれるからっ!」
古い戦車砲の徹甲弾くらいなら目で追える私にとって、この程度のスピードなら避けられる。精々が亜音速、マッハ三くらいは出る古い戦車砲弾よりは断然遅い。
私を庇うように動く遥を安心させるように余裕ぶって駆け回り、攻撃を回避する。
「……フィエーナは私が守る!」
「遥!?」
今、余計な力を使う余裕なんてないはずなのに。遥は私の周囲に渦巻く風の結界を張り、一人黒い球体に向かっていく。触手の一撃にも物ともしない頑丈な結界は、内部にいる私にも触れえない。外に出ようとすると、ふわりと空に巻き上げられ渦の中心にゆっくりと着地させられてしまった。
私の怯えが予想以上に顔に出ていたのを自覚したのはようやくのことだった。遥に余計な力を使わせてしまった……。無力な自分自身が悔しくて意味もないのに全身に力を込める。
やがて黒い球体は単体では遥を仕留めきれないと判断したのか、公園内部に四方から生き物を模した黒い異形の怪物を何処からともなく呼び出し始めた。
自由に取れていた回避機動が、湧き出した多数の怪物によって制限される。それなのに触手を振るう巨大な黒い塊に仲間意識はないみたいで、仲間諸共私や遥へ攻撃の手を緩めない。
遥は、強い。自身よりも大きな熊を模した魔之物に囲われても横薙ぎで瞬殺し、蟹みたいなダンプカーくらいに大きな魔之物の硬そうな外殻も一振りで切り刻む。それなのに、公園の中心に位置取る三階建てのビルくらいに大きな球体にはちっとも攻撃が通る気配がない。
私の見立て違いなら嬉しいのだけれど、時間が経過する度に険しさを増す遥の顔つきを見るに情勢は悪化し続けているとしか思えない。
ヴェイルならこんな時に遥を救えるのに。ヴェイルなら……私じゃなくてヴェイルそのものだったなら……。
「負けないで遥……」
私に出来るのは祈る事だけ。必死に戦って、命を失おうとしている親友のやり取りをただ見ているだけ。
ならばせめて……私は想い続けるしかない。遥の勝利を、無事を、平穏を。
「ああああああああああああああああああああああああああああ!!」
遥らしくない必死の形相に、雄たけびを上げて遥は戦い続ける。それでも球体には何ら打撃を与えられない。一切のダメージが通らない。
遥を中心に緑色の風が集合していく。竜巻のように緑の風が一つに束ねられ、遥は竜巻を球体目掛けて叩き込む。
この爆音に匹敵するのはKPZ戦車が中隊集中射撃したのを目撃した時以来だろうか。それだけの猛爆音が辺り一帯に鳴り響き、凄まじい暴風に巻き上げられた砂埃がもうもうと立ち上がり、結界の外の様子を隠してしまう。
どうなったの? 遥……遥はどうなったの?
巻き上げられた砂煙の中、強烈な日光はその中に立つ人影を映し見せてくれる。
「遥!」
やったんだ。遥が勝った。私がそんな期待で胸を湧き上がらせた瞬間、晴れた煙の先では一切のダメージを追っていない黒い球体が変わらず表面を蠢かせていた。
「あ……」
突き出される触手に、遥は回避する素振りを見せない。私は遥の横顔を見て察した。遥は全力を尽くして、意識が朦朧としているんだ。駄目、避けて、死んじゃ嫌だよ遥。
触手がぶつかる瞬間、私は想わず目をつむってしまった。見ていられなかった。瞬間、私の周りを包んでいた浄化された空気が汚染される。結界が消滅した……それって、つまり。
「遥っ!」
地面に倒れる遥は僅かに身じろぎして、こちらに目を向ける。もう遥に動き回る力はないんだ。触手の振り下ろされる速度に比してあまりにゆっくりとした動きで遥は私に手を伸ばし、口を動かした。 “フィエーナ”
駄目。遥、死んだら駄目。遥は一回死ぬような大変な目に遭って、それでも現実に負けずに頑張って努力を続けてまた学校に行けるまでになったんだ。奈緒さんも、仁悟さんも遥の存在があったからまだ日常に戻れるまでに復活したんだ。幼馴染の凛とだってまだ仲直りもしてないんだよ、遥。
遥はまだ死んじゃ駄目!!
その時不思議なことが起こった。私の中から何かが抜け落ちるような感覚、何かを失ってしまう感覚。けれどそれを認めさえすれば遥を助けられる。そんな気がした。
だから遥……受け取って、私を! 私の気持ちを!
視界が眩く輝く。白銀に染まる。何かが爆ぜる音がした。
「フィエーナ、ありがとう。受け取ったよ」
白銀の輝きが消え去った視界には、遥が立っていた。いや、輝きは完全には失われてなんかいない。遥の左手に嵌められた無装飾の指輪が白銀色に煌めいていた。
いつの間に流していたのか、地べたで無様に涙に濡れる私を撫でる遥は力に満ちていた。
「大丈夫だよフィエーナ。フィエーナからもらったこの力なら、勝てる気がする」
私の頭に乗った遥の手が離れるのが名残惜しくもあったけれど、前に歩いて背を見せて立つ遥がいつになく頼もしい。遥がすっごくカッコよく見えた。
一瞬指輪がひと際輝くと遥の体の周囲に白銀の風が吹き纏う。そして、遥を中心に白銀の風が渦巻き吹き荒れると、周囲を取り巻く魔之物が一吹きで消失していく。今まで身じろぎもしていなかった巨大な黒い球体が表面を蠢かせて苦悶の顔を表面に浮かべる。
ふわり。遥が空に浮かんだかと思えば突風が吹き荒れ私は目をつむる。風が止み、私が目を開くと中央に大穴を穿たれた球体が白銀の粒子となって消失していっていた。
「遥!」
今度こそ訪れた紛れもない勝利に私は遥の背中に向かって走り寄ってそのまま抱き付こうとするけれど、遥は手を私の前に出してにっこりと笑いかけて来る。
「ちょっと待ってて、フィエーナ。この力ならけりを付けられる」
久しぶりに見た、自信に満ちた遥の笑顔が眩しく見える。この笑顔だけで私はくらくらと参ってしまった。何て綺麗な笑顔なんだろう。
ふよふよと空へと上がっていった遥を私は見送る。スカートなのに大丈夫かなと余計なことを考えられるほど私の心には余裕が生まれていた。
やがて親指ほどの大きさになるまで上昇した遥は、高空から白銀の風を全方位に向けて吹かせた。心のモヤモヤが晴れるような綺麗な風だ。夏の暑さまで吹き飛ぶような爽やかで涼やかな風だ。
やがて地上に降りて来た遥は日本刀を何処へかと仕舞って私の元に歩み寄って来る。
「もう、大丈夫だよフィエーナ。多分これで全部終わったから」
「そっか……長かったね」
「うん」
「頑張ったね」
「うん」
燦々と照り付ける炎天下の公園、誰もいない中で私たちはしばらく抱き合い続けた。