放課後、私は道場へ遥は魔之物退治に向かう。本当なら七時くらいまではお邪魔させてもらおうと思っていたけれど、今日は事情があったので六時前には帰れるようにしておいた。
「何とかならないのかな……」
「難しいね。心の問題はどうにもしがたいよ」
「そっか……」
車上で吉上先生に奈緒さんのことで相談するも、色よい返事はもらえなかった。流石に吉上先生にも出来ることと出来ないことがあるか。それでも私の不安を聞き遂げてくれるだけありがたい。
「送ってくれてありがとう吉上先生」
「奈緒さんのこと、僕からもよろしく頼むよ」
悔しさをにじませた吉上先生は一瞬目を落とした後で、いつものように笑って去っていった。私は手を振って見送るとマンションのエントランスに入りオートロックを開錠し、マンション内へ戻る。
「ただいまー」
「おかえりフィエーナ」
「おかえりなさいフィエーナちゃん」
「あれ、遥?」
「今日もやっぱり魔之物が少なかったの」
道場でもそんな話はあったからもしかしたら遥が早く帰ってるかもとは思っていたけれど、実際に元気そうに抱き付いてきた遥を見るとホッとする。やっと遥が疲れ切ってへとへとになるまで酷使される事態は終わったのだ。
「そっか。よかった、ね……」
「うん」
ぎゅうと抱きしめる遥の返事は言葉少なかったけれど、喜びに安堵がたっぷり詰まっているように思えた。
「本当よ……ようやくね遥ちゃん」
「うん」
私に抱き付く遥の上から奈緒さんも遥の背から抱き付いてくる。私にとっては二週間ちょっとだけだったけれど、遥と奈緒さんにとっては半年にも及ぶ戦いが終了したのが実感できたのだ。感慨もひとしおというものだろう。
願わくば、これが普通になってほしい。
六時が迫るにつれおろおろそわそわしだす奈緒さんは、恐る恐ると言った表情で私に歌を歌ってくれないかと頼んで来た。
「フィエーナちゃんの歌を聞いてると心が落ち着くの。少しでいいのだけれど、駄目……かしら?」
一度歌を聞いてもらってから、奈緒さんは私が暇をしていると歌ってくれないかと尋ねて来ることがあった。リクエストに応えると、いつもすごく喜んでくれるから先生に課せられた制限を守りつつ私は奈緒さんに歌を聞いてもらい続けていた。
もし、私の歌で奈緒さんの助けになるというのならいくらでも歌ってあげたいと思う。
「コホン。じゃ、ちょっと歌っちゃおうかな」
私がこの際制限なんて知らないとばかりに奈緒さんとその隣にちょこんと座る遥へ歌を披露する。リラックスできるような落ち着いた曲調の歌を選んでみたのが功を奏したのか、焦燥に駆られたような奈緒さんの顔に落ち着きが戻っていく。
これならあるいは遥のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんとも上手くやれるかもしれないと思っていたところに、突如としてチャイムがリビングに鳴り響いた。
いつの間にか、訪問時刻である六時になっていたようだ。そして、私の影響なんてたかが知れているのを見せつけるように奈緒さんの顔には恐怖が浮かんでいた。
「来た、みたいね……」
「私、出迎えて来る」
「待って遥ちゃん、私も行くから」
「でも……」
サッと立ち上がって一人で玄関に向かおうとした遥を奈緒さんが引き留める。奈緒さんを気遣って躊躇いを見せる遥へ、奈緒さんは顔に笑顔を張り付けて立ち上がった。
「ううん、せっかくフィエーナちゃんに勇気をもらったんだもの。大丈夫よ」
そういう奈緒さんの足は微かに震えていた。結局、私は役立たずだ。
怯えを隠そうと努力する奈緒さんと一緒に私たちは玄関前に来ていた。奈緒さんは怯えてしまっているけれど、遥にとってはただのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんであり恐怖を抱く必要なんて何処にもない。インターホン越しに交わした数語を聞くに、遥は仲良くやれているみたいだ。それだけに緊張にごくりと喉を鳴らす奈緒さんが不憫でしょうがない。事件以前は仲のいい家族だったとも聞いているだけに、なおさら……。
「私が出るよ」
玄関で私たち三人が待っていると、チャイムが鳴るので遥が身を乗り出して扉を開ける。
「久しぶりー! それに、はじめましてねフィエーナさん!」
つば広帽子を被った奈緒さん似の女の人、桜子さんがオーバーリアクション気味に奈緒さんと遥へ両手を胸の前で振った後、ずずいと私の前にやってきて手を取っていきなり握手をしてきた。満面の笑みは大輪の花のように華やかで周りが元気になるような素敵な笑顔だ。可愛らしい人だと私はすぐに好きになってしまった。
「おー。綺麗な人じゃないか。それが家内の桜子、私は奈緒の父で遥の祖父、築作言います。よろしく頼みます」
桜子さんの隣で綺麗な会釈をしてみせた築作さんは、七三分けの白髪交じりの黒髪をばっちりと分け眼鏡は四角い黒縁の実直そうな、あるいはすごく真面目そうな男の人だ。
私は桜子さんに両手を握られぶんぶん振られているけれど、築作さんにばかり頭を下げさせるわけにはいかないので慌てて会釈を返す。
「私はフィエーナ・アルゲンです。奈緒さんたちの好意でホームステイさせてもらってます。フィエーナって呼んでくださいねっ」
「もう~カタッ苦しくてごめんなさいね~。これでも目一杯愛想よくしてるんですよ~、ほほほ~」
「桜子。一言多いぞ」
「なーに言ってるの~。私がフォローしないととっつきづらいのよアンタはもう~」
「母さんも父さんも、相変わらずね」
ぽつりと呟いた奈緒さんの表情は嬉しそうに、そして寂しそうに見えた。健在な両親の存在に喜び、その交わりにもう自分は昔のように関われなくなった悲しみ。
「奈緒、アンタはどうなの~? 引っ越しても上手くやっていけてるの~?」
「う、うん……」
桜子さんが何の気なしに娘に触れようとするも、奈緒さんはビクリと怯え目を瞑ってしまう。朗らかな桜子さんの表情が一瞬固まって、みしりと場が軋んだような気がした。
「あ……あははは! 遥ちゃんはどう~? もう高校生でしょ~?」
「フィエーナも来てもう完璧」
「最近試験があったそうだな。どうなんだ? 結果は」
「ん、ばっちし」
びしっとピースをしてみせる遥を見て頷く築作さん。遥のちょっと無口なところはお祖父ちゃんに似たのかな。
その後、リビングに上がってもらい私たちは仁悟さんの帰宅を待って雑談に興じる。遥はいつになく甲斐甲斐しく奈緒さんと桜子さんたちの間をちょこちょこ動き回っては両者の仲を取り持ち、私は奈緒さんの隣に座って後ろで手を繋いで奈緒さんを少しでも安心させられはしないかと肩を寄せる。
私と遥には普通に受け答え出来るけれど、桜子さんと築作さんから会話を振られると途端に小動物みたいにびくびくしてしまう奈緒さんの姿は初めてで、事件の傷がまだ一ヶ宮家を完全に癒しきれていないことに私は胸を痛める。
「奈緒も少し調子がいいみたいね~」
「う、うん。何だか今日は、ね……不思議」
慈しみの目で娘を見る桜子さんはしみじみといった口調で奈緒さんに声を掛ける。それをおどおどしながらも何とか無難に返答し、ホッと息を吐きながらチラリとこちらを見る奈緒さんに笑みを返すと、緊張で硬かった表情が緩む。私なんかが助けになるなら、いくらでも協力するからね奈緒さん。
「お祖父ちゃん、これは?」
「いいんじゃないか? 前来た時もここだったろう」
「そーだよ」
今日は出前を取るらしく、遥が持ってきた幾店舗かのお店のメニューを築作さんは至極重要な書類のように見つめている。築作さんの座るソファの後ろでメニューを覗く遥の距離は近く、お祖父ちゃんに甘える孫の様相で何だか微笑ましい。
「私はあんまり脂っこいのは嫌よ~」
「お前の好みくらい知っとるわ。俺は大トロが欲しいな。余ったら仁悟君ならまだ若いし食べるだろう」
「パパ、最近油ものがきついって言ってたよ」
「何だ、仁悟君はもう胃がへたれたのか」
段々と和やかな雰囲気になっていく中で仁悟さんも帰って来る。
「どうも、お久しぶりです」
「お仕事お疲れさま。お邪魔してます」
「悪いね、平日というのに」
「いえいえ、どうぞゆっくりしてって下さい」
桜子さんたちは県外からわざわざ電車を乗り継いできたそうで、今日は市内のホテルを取っているのだとか。昔は泊まりの際は家に泊めていたらしいけれど、事件後は奈緒さんの精神衛生上いつの間にか外泊になってしまったそうだ。
「奈緒、お味噌汁くらいは作りましょうか。台所借りるわね」
「あ……あの、お母さん。て……手伝う?」
奈緒さんの遠慮がちに発した言葉に桜子さんは一瞬目を見開いてからにししと歯を見せ笑う。
「何言ってんの。お味噌汁くらいお母さんに作らせなさい?」
「あり、がとね」
軽く手を振ってキッチンに入っていった桜子さんの目は涙で潤んでいるように見えた。もしかしたら、事件以降奈緒さんから声を掛けたのはこれが初めてなのかもしれない。この情景を前に遥は片手で口を覆って目から涙を流し、築作さんも潤んだ眼をしきりにしばたかせて泣くのを堪えていた。
「ちょっと奈緒~! お味噌はどこ~!?」
「もうお母さんったら」
苦笑して立ち上がった奈緒さんは自然な調子でキッチンに入っていくけれど、何も言わずに私の元に戻ってきて私を引っ張って誰もいない廊下に連れ出してきた。その表情は恐怖に引きつっていて、さっきまでびくびくしながらも会話出来ていた姿とは似ても似つかない。
「どうしたの奈緒さん」
「ごめんなさいフィエーナちゃん……」
私の手を両手で包み込むように握り、息を浅く何度も繰り返しながら目をつぶる奈緒さんは徐々に恐怖に歪んだ表情を落ち着かせ、呼吸も落ち着きを見せていく。
「やっぱり……」
「奈緒さん?」
「何だか、よく分からないけど……フィエーナちゃんといると恐怖がなくなる、ような気がする」
じいと床をしばらく眺めていた奈緒さんが顔を上げると、怯えながらも決意に満ちた表情に変わっていた。
「ね、一緒に来てくれる?」
「ん、いーよ」
肉親に会う為に勇気を振り絞る必要があるなんておかしなことだ。私がその恐怖を和らげられるなら、一緒にいてあげよう。キッチンに立つ桜子さんからは見えないように手を繋いだ奈緒さんは数瞬口をつぐんでから実の母に声を掛ける。
「ごっ、ごめん。遅くなっちゃった」
「あら~? もうお味噌見つけたわよ~。手を貸すのが遅いんだから~」
「ごめんごめん」
奈緒さんは私の手を離したり繋いだりを断続的に試していた。私からは桜子さんの姿は伺えず、手を離す度に一瞬体を震わせる奈緒さんのみが見えるだけだ。
「ま、いいわ。すぐ作っちゃうからあっちで待ってなさい」
「うん。じゃ……お、お願い。お母さん」
さっと身を退いた奈緒さんと私は再び二人きりになる。
「どうだった?」
「やっぱり……ね、フィエーナちゃん。今日はなるべく一緒にいてくれる? お願い」
「いーよ。ずっと一緒にいよう」
頼み込む奈緒さんの願いを私は快諾する。もし、奈緒さんの心の傷が私がそばにいるだけで一時的にでも癒せるなら協力を惜しむ訳がない。
「……フィエーナ? ママ? 何してるの?」
ひょこっとリビングからやってきた遥が顔を出す。何だか猜疑に満ちた目が怖いような気がする。気のせいかな。
「あ、遥ちゃんちょうどよかったわ。作戦に協力して頂戴」
「ママ?」
奈緒さんが話した内容に少し考え込んだ遥だったけれど、協力はしてくれるようだった。仁悟さんにもこっそり伝えてくれると遥は意気込む。話を聞くと一転やる気になった遥が一体どんな勘違いをしてたのか後で聞いてみよう。
「お義父さん。さ、どうぞどうぞ」
「む、すまんね」
「ははは、奈緒はあまり酒を呑みませんからね。買い込み過ぎてたので来てくれて助かりましたよ」
出前のお寿司が到着し、私たちは夕食を取り始める。ロートキイルで食べたパック寿司ではいまいち美味しさが伝わらなかったお寿司だけれど、今日食べたお寿司はとても美味しい。これなら人気が出るのも分かる気がした。
「ここのお寿司、やっぱり美味しいわね~!」
「ほんと、大将さんいい腕してる」
桜子さんと会話する奈緒さんはとても嬉しそうだ。事件以降のトラウマでまともに会話できなかった実の母親とお話が出来るようになったのだから当然か。けれど、どうして私がそばにいると恐怖が薄れるんだろう。滅魔の力が影響しているんじゃないかと私は考えていた。
「奈緒、醤油が切れた。取ってくれ」
「はい、お父さん」
「すまんな」
「んーん、でもお父さんお醤油付け過ぎじゃない? 気を付けてよね」
父親相手に調味料を渡すだけのことで、嬉しそうにする奈緒さん。今日出会った当初、両親相手だと何をするにも一呼吸を置く必要があった奈緒さんは、気が付けば普通に接することが出来るようになっていた。
その時だった、お醤油の付け過ぎで桜子さんに小言を言われる築作さんを見て微笑む奈緒さんの背後から黒い霧のようなモヤが飛び出してきた。黒い靄は苦悶の表情を空中に描き出し、奈緒さんから逃げ出そうとしているようにも見えた。
けれど、その悪意の塊のようなモヤは何をすることもなく消失する。
一瞬、それは私にも捉えきれるかぎりぎりの高速の一閃だった。
お寿司を黙々と口に運んでいた遥の姿がぶれたかと思うと、刀を握りモヤ目掛けて刺突を叩き込んでいた。刀身からは清らかな風が迸り、穢れの塊たるモヤを瞬間的に消失させ、むしろ室内は浄化され清涼な空気で満たされるほどだ。
私以外で遥の挙動を捕捉し得た人間はこの場にはいないはずだ。当然、いきなり座っていた遥が消滅したかと思いきや日本刀を持って立っている姿を見た面々は思考を停止させ呆気にとられる。
「ママ、もう大丈夫だよ」
「……えっ? は、遥ちゃん? え、え? さっきまで私の隣に……?」
「私がママの中に巣食う悪意、今退治した」
奈緒さんを挟んで座っていた遥がいきなり背後に立っていたので奈緒さんは混乱して遥が元々座っていた場所と今経っている遥を交互にキョロキョロ視線を移動させる。混乱しすぎて遥の発言の内容にまで思考が回らなくなっているみたいだ。
「遥、それはつまり奈緒はもう知人や友人に怯えなくていいってことなのか?」
いち早く立ち直った仁悟さんの問いに、遥はこくりと頷く。
「ほ、本当なの……?」
「フィエーナの滅魔のおかげ」
「奈緒さん」
私がテーブルの向こう側にいる桜子さんたちへ奈緒さんを向かわせる。握っていた手を離しても奈緒さんは一切体をびくつかせることなく対面にいた桜子さんと築作さんの前に一人立つことが出来た。
「お母さん……」
「奈緒……奈緒!」
目を涙で溢れさせながら母親に崩れ落ちる奈緒さんを桜子さんもまた泣きながら受け止める。
「そうか……ようやくか」
「お父さん……」
「やっと俺の目を見てくれたな、奈緒」
「うう……お父さん……」
築作さんに頭を撫でられる奈緒さんはもう体を怯えで震えさせはしない。むしろ築作さんの武骨な手に頭を擦りつけるように頭を寄せた。
数十分はたっぷり泣き続けた奈緒さんは、ようやく泣き終えると私と遥の二人を抱き寄せる。
「遥ちゃんにフィエーナちゃん。二人ともありがとう」
「私はフィエーナが追い出したから祓えただけ」
「私も何が何だか……遥、説明してくれない?」
「そうだね。パパたちも聞いて」
それからぽつぽつと遥は説明を始める。私の滅魔の力が奈緒さんの中に巣食う、退魔師でも見抜けなかった悪魔の残滓を体外へ追いやったこと。そして、体外に出そうな辺りで気付いていた遥は出てきた瞬間を待ってましたとばかりに斬り伏せてしまったこと。
「フィエーナが滅魔に目覚めてなかったら一生気付けなかったかもしれない」
「奈緒アンタ、こりゃ一生の大恩だね」
「本当ね、フィエーナちゃんありがとう」
顔を感謝の思いに綻ばせ、涙でくしゃくしゃにした奈緒さんはとても綺麗だった。思わず照れて目を逸らしかけてしまいそうになったけれど、奈緒さんの思いに目を逸らす訳にはいかない……んだけど、やっぱりここまでの感謝の念を直視してしまうと気恥ずかしい。
「私、ただ一緒にいただけだよ。それより遥が退魔師になってなかったらせっかく飛び出してきた悪魔も逃げおおせていたと思うんだ。だから、私と遥の二人がいてようやくどうにかなったんじゃないかな」
「卑下しないでフィエーナちゃん。遥ちゃんにフィエーナちゃん、二人とも私の大恩人には変わりないんだから!」
勢いよく飛び込んできた奈緒さんは私を抱きしめ、ぐりぐりと胸の中で頭を押し付けて来る。まるで遥みたいで、そしてとてつもなく愛おしくて、私は押し付けられた頭を抱き寄せ頭頂部におでこをくっつける。
「ママ、ママ。ずるい」
「遥ちゃんもありがとうね! お母さんを助けてくれて、本当にありがとう……」
絶対嫉妬で奈緒さんの裾を引っ張っていた遥は感謝の気持ち百パーセントの奈緒さんの純粋な思いに打たれ、頬を赤くして奈緒さんのお腹に頭を突っ込ませ照れ隠ししようとする。
私が意を酌んで奈緒さんを解放すると、奈緒さんは屈んで遥の頭をよしよしと撫でてあげた。
「遥ちゃんは私の誇りよ。本当にいい子に育ってくれたわ」
どんどん遥の耳が赤く染まっていく。
「ありがとう遥ちゃん。とっても大好きよ」
あ、照れすぎて暴れ出した。