私とベーセル兄が夏季休暇に入ってから遅れるほど二週間、ようやく父にも休暇の時が訪れた。
「よう、ヘイゼ。ルシュは生意気やってないか?」
「お義兄さん、ルシュは可愛い。そんなことないですよ」
それと同時に父方の祖父母に会いに叔母夫婦がロートキイルへと旅行にやってきていた。ちょっと訛りのあるロートキイル語を話すヘイゼさんは南欧の出身で、三十になってなお色香漂う甘いマスクをしている。そんなハリウッドスター顔負けのヘイゼさんにも見劣りしない綺麗な女性が、眉を吊り上げて父ににじり寄る。
「もう兄さんったら! 兄さんこそユミアに迷惑かけてないでしょうね!」
「おいおい、俺は模範的な父親だよ。だろう、ユミア?」
「ふふふ、そう……ね。残業で一時間遅れて帰ってくるのを除けばね」
「あーっ! まーた兄さんは仕事馬鹿なんだから!」
「おいおい、たかが一時間職場の引継ぎに時間取られただけじゃないか」
「はあ、お義兄さん……定時に帰るのは家族のための義務デスよ。ベーセルはこんな風になったらいけマセンよ」
「は、はあ……」
こうなったら父はもう駄目だ。参ったなと頭を掻きながら、三人から如何に家族を考えるべきか懇々と説かれる展開が待っている。
「大人たちの話なんて退屈。私たちは向こうに行きましょう」
私より二つ年上の従姉リミ姉は両親譲りの美貌をしかめて見せ、勝手知ったる我が家を歩いていき、食卓の椅子を無造作に手前へ引っ張ってぐだりと座り込んだ。リミ姉の家からここまで飛行機と列車を乗り継いで五時間はかかる。ただ座っているだけでも辛いものがあっただろう。
「うあー、疲れたぁ。ねえフィエーナ何か飲み物取ってー」
「はいはい」
妹夫婦と入れ替わりで私たち家族は二週間のバカンスへ出かける。暑くなってきたロートキイルを離れ、高所地帯にある別荘で何するでもなくのんびりしにいくのだ。
私が炭酸リンゴジュースをコップに入れて差し出すと、リミは一気に呷って飲み干してしまう。
「美味しい……流石私のフィエーナねぇー」
語尾をだらしなく伸ばしながら、リミは隣に座る私へと倒れかかってきた。百七十センチのスラリとした長身に出るところは出た均整の取れた肢体を持つ彼女は、イタリアではそれなりに名の知られたモデルなのだとか。
何冊かリミ姉が出演した雑誌を私は持っている。ひいき目かもしれないけれど他のモデルさんよりもずっとリミ姉は美しく輝いて見えた。疲れてよりかかってくるリミ姉は雑誌で見たようなキリッとした美しさに代わり、退廃的で淫靡な魅惑を放っている。
「疲れてるみたいだね、リビングのソファでちょっと横になったら?」
「そうしよっかなー……でももう動きたくないー……うああーフィエーナ柔らかいーでも私よりおっきいのは生意気だぞー……うああ柔らかいようフィエーナ……」
しょうがない従姉だ。しがみついてくるリミを私が半分ひきずりながらソファにひきずってやると、すぐに目を閉じ寝息を立て始めた。
私たちは妹夫婦に我が家を預けた後、荷物を積み込んだ車に乗り込んで一路道場へ向かった。道場に着くと、入り口で荷物を纏めた遥が吉上先生と幸恵さんを伴って麦わら帽子を被って立っていた。
「おはよう遥!」
「おはようフィエーナさん」
私が真っ先に遥に駆け寄り抱き付くと、照れ臭そうに頬を染めながら抱きしめ返してくれる。私が遥と出会ってから一か月を過ぎ、遥もようやく感情を示してくれるようになってくれた。
「すみませんね、家族の旅行なのに」
「いいえ、気にしないでください。遥ちゃんなら歓迎するわ」
頭を下げる吉上先生の前で母は笑顔で遥に抱き付く。遥はどうしたらいいか分からないようでおろおろと顔を赤く染めながら母の背に手を伸ばしていた。
「それじゃフィエーナちゃん。遥ちゃんをよろしくお願いね」
「任せてください!」
遥の事情は両親にも伝えてある。トランクに遥のリュックを詰め込んだ父が運転席に戻り、私たちはロートキイル南部に位置するとある避暑地へと向かった。
高速道路を使って休憩を何度か挟みつつ三時間ほど。夏になり気温が三十度を超えることもあるヴェルデ市を南下しているにも関わらず、僅かに開けられた窓から吹いてくる風は徐々に冷たくなっていく。ロートキイルに数少ない山岳地帯であり、古くから岩塩の産出で生計を立てているザルトヒェン村に近づいてきた証だ。
出発したばかりの車内はエアコンがなければ熱中症で倒れかねないほど暑かったのに、ザルトヒェンに到着した頃には窓を閉めていても心地よい程度に涼しくなっていた。
パステルカラーでありながら何処か落ち着いた雰囲気を見せる建築群、明るい空の下ほとんど人気のない広々とした石畳の道、あちこちにある噴水を横目に私たちは村郊外にある別荘に到着した。
白亜色の壁が眩しい二階建ての別荘は、去年と変わらず私たちを迎えてくれた。広々とした室内には必要十分な家具が置かれ、管理人のセンスで調度品が飾られている。
遥も別荘を気に入ったようで、車から降りて別荘の外観を見るなり目を輝かせて屋内をあちこち歩き回っている。
「すごいねフィエーナさん! ここに泊まるんだね!」
「そんなにはしゃがなくてもこれから二週間はここにいるんだよ」
テンション高めの遥は年相応に愛らしく、私は思わず頬が緩む。
「別荘は広いから一人一部屋選べるんだよ。お父さんとお母さん、ベーセル兄はいつものお気に入りがあるけどまだ三部屋残ってる」
「見に行こう、見に行こう!」
はしゃいで私の手を引く遥に促されるがまま、私は別荘内を歩き回った。遥の別荘探索が一段落し、車から荷物を移し終えた段階で私たちは市街中心部へ散策に歩みを進めた。
村郊外と言っても村自体そう広くもない。十分経たずに私たちは中心街に到着した。噴水と時計塔を中心に円形に構築された広場に沿うようにパステルカラーの建築物が並んでいる。
「すごいねフィエーナさん! おとぎ話に出て来る町みたい!」
「あはは、さっきからずっとすごいすごいって言ってるよ遥」
「だってすごいんだもの!」
それから私と遥は家族と連れ立って、あるいは二人きりであちこちを歩いて回った。私が何度も訪れている場所でも遥にとっては初めて見る景色ばかりで、見る度に目を輝かせ興奮を体で表現していく。
最初会った頃と打って変わって遥は感情を露わにし、実は明るい快活な少女だったことを私に見せてくれる。
それなのに夜になると何度か、遥の絶叫が別荘に響くことがあった。最初その悲痛な声を聞いた時は家族全員驚いて、予め事情を聞かされていたけれど改めて遥の心に刻みつけられた傷の深さを知った。
遥が悪夢にうなされ目を覚ます度に私たち家族は全員遥の部屋に集い、遥が申し訳なさそうにしているのを気にしないように笑って他愛のない、気分が楽になるような雑談で安心させ再び寝かしつけていた。
「遥ちゃん、日本でどれだけ酷い目に遭ったのかしらね」
「ユミア、詮索はしないって約束しただろう?」
母がポツリと呟くように発した言葉を父がすかさず制する。
「お母さん、遥なら大丈夫だよ。きっと乗り越えられる」
私は遥がロートキイルに来た頃から遥を見てきた。ふさぎ込んで周囲とまともに会話すらままならなかった頃から遥は変わった。
「そうね、段々明るくなっているしきっと遥ちゃんなら克服できるわ」
遥が悪夢にうなされ目を覚ます頻度は日が進むにつれ減っていった。
二週間の休暇が翌日で終わる昼下がり、私たちは村に数多とある噴水で特にお気に入りになった一角のベンチに座ってぼうっとしていた。
不意に遥は口を開く。
「ねえフィエーナ」
休暇で一緒に歩き回っている間に、遥は私の名前を気安く読んでくれるようになっていた。けれど、何だか今日はその声音が冷たく感じる。
「何? 遥」
「聞いていて楽しい話じゃないの、でも聞いてくれる?」
私が遥に目線を向けると、感情が抜け落ちたような顔つきでこちらを見つめていた。まるで出会った最初の頃のようだ。何か大事な話をするに違いない。私は休暇で緩み切った顔を引き締めて頷いて見せる。
「私ね、強くならないといけないの。弱かったせいで、パパとママを酷い目に遭わせてしまった」
後悔を多分に含んだ顔つきを見せる遥は、一人話し続ける。昔から普通の人には見えないモヤが見えたこと、悪意あるモヤを消滅させる力があること、力のことは両親と僅かな親友にしか明かしていなかったこと。
「ここに来る前、日本にいた時に私の親友……凛が他の友達と心霊スポットに肝試しに行くことになったんだ。凛は行きたくなかったみたいなんだけど、付き合いで行かない訳にもいかなかったのね。だから凛は私を頼って、私も凛が心配だったから付いていった」
だけど、それが間違いだった。度胸試しに過ぎないお遊びのつもりだったのに、そこには本物がいた。
「私の力、結構強いみたいで悪魔に憑りつかれて……そこから私の記憶は途切れ途切れで……」
涙を流しながら震え出す遥はそれでも言葉を紡ぎ続ける。私は遥の肩を抱き、遥の独白に耳を傾ける。
「でも分かるの……私が、私を乗っ取った悪魔がパパとママに酷い目に遭わせてるのを! そのせいでパパとママは病院で寝たきりになって……受け答えすらまともにできなくなっちゃって……」
そこまで話した遥は私の胸元に顔を埋め泣き続けた。数十分は経っただろうか。落ち着いた遥はその後吉上先生と三谷鎮の二人に助け出されたと打ち明ける。なんてこった、吉上先生って一般人じゃなかったのか。
「私がただの女の子だったらきっと私の両親を苦しめることはなかった。でもそうじゃなかったから」
後悔に身を震わせる遥は、何かに縋るような切ない表情で私を見上げて来る。
「私、強くなれるかな」
「なれるよ遥なら」
私が遥と目を合わせ、遥の手を取ると、遥は私の手を両手で包み込んで胸元に押し付ける。
「フィエーナ、ありがとう」
涙ぐんだ顔を隠すように遥はそのまま抱き付いてきた。私は何も言わず、頭を撫でてやる。
「私ね、フィエーナと会えてよかった」
「私も遥と会えてよかった」
遥はとてもいい子だ。辛い目に遭ったのは確かだけれど、そのまま沈んでいっては欲しくなかった。どうにか、立ち直って幸せになってほしかった。
丁度良く涼やかな外気の中で、ただ遥と抱き合い触れている部分だけが熱を孕み暖かい。ただ暖かいだけでなく、人を傍で感じて私は安心感も覚える。遥も同じ思いを抱いてくれたら、私なんかでも立ち直る一助となりうるだろう。
「フィエーナ……」
遥の呟きは寂しさに母を求める幼子のようで、私は一層力を込めて遥の体を抱き寄せる。大丈夫、大丈夫だよ遥。私がそばにいる。
「遥、起きてる?」
「起きてるよフィエーナ」
そっか。私が何度も問いかけても遥はすぐに返事をする。
「退屈じゃない?」
「全然そんなことないよ、ずっとこうしてたい」
結局、私が小腹を空かせておやつを食べようと提案するまで二時間近く遥は私に抱き付き続けた。そしてこの日以来、遥のスキンシップは一気に濃密になっていった。