死せる水に触れてしまったアベルの治療を済ませ、あたしたちはとっとと宿で休むことにした。明後日にはバハラタと共にレイアムランドへ向けて出港する予定だ。
バハラタの海賊船はほとんど宝石モンスターたちに沈められてしまったようだが、まだ数隻残っている。船乗りの手配や準備を考えると、明日出発というわけにはいかない。それにアベルにも休息が必要だ。
あたしは宿屋の部屋で一人、昨日と同じように窓辺で風呂上がりの髪を乾かしながら、アベルが風呂から戻るのを待っていた。空を覆っていた雨雲は消え去り、空気が乾燥し始めた。そのおかげで髪が乾くのも早い。あたしまで晴れ晴れした気分になってくる。
上弦の月は、限りなく満月に近くなっていた。
「デイジィ、お待たせ」
アベルが帰ってきた。
「あれ? その料理は?」
テーブルの上を見て少し驚いている。
「おかえり、アベル。店主のオヤジが気を利かせてさ、ここまで食事を持ってきてくれたんだ。下の食堂にあんたがいたんじゃ、他の客に捕まって、食べてる暇もないだろうからってね」
「そうか、助かるな。後でお礼を言っておこう」
「気にするこたぁないよ。あんなタヌキオヤジ」
あのオヤジはちゃっかりとアベルに色紙を渡してサインしてもらっていた。きっとこの宿屋の宣伝に使うつもりだろう。伝説の勇者様が泊まった宿となりゃ、それだけで拍が付くってもんだ。
「早く座んなよ。しっかり食べて、休まなくちゃな」
「あ、ああ……」
アベルの奴、疲れてるんじゃないか。珍しく歯切れの悪い返事をする。
「あんたちょっと様子が変だよ。具合でも悪いのか? もしかして死せる水に浸かったから……」
「そういうわけじゃないんだ。心配しないでくれ。さあ、食べよう」
あたしたちは、昨日とさして変わらない食事を始めた。違うのは、今日は周りに誰もいないということ。寝室の中、アベルとあたしの二人きりだ。そのせいなのか、あまり食欲がない。あたしはパンを軽く齧って、唇を濡らす程度にぶどう酒を飲んだ。
それとは対照的にアベルは食欲旺盛だ。厳しい闘いの後なんだから当然腹も減っているだろうが、ハムやチーズをがつがつと食べる姿を見ていると、なんだか腹が立ってきた。
「アベル。一つ聞いてもいいかな」
あたしは頬杖を付きながら言った。
アベルは口に食べ物を詰め込んだまま、あたしを見つめる。
「昼間の、あの女は何だったんだい?」
声を低くして、アベルを睨みつけてやった。
「この忙しいのに、パフパフなんて遊びをしている場合じゃないだろう」
アベルは驚いた顔をして、大げさに手を振って何か言い訳しているようだった。アベルはぶどう酒で食べ物を流し込むと、苦しそうに話し始めた。
「ま、待ってくれデイジィ……。あれには訳があるんだ」
アベルは一息ついた。
「あのパフパフに誘ってきた娘はユリカっていってさ……」
「ユリカぁ?」
名前なんてどうだっていいんだよ。
「あの娘、オイラにだけ聞こえる声で、ラーミアのことを話したいって言ってきたんだ。どうも元々ラーミアの神殿に仕えていた人らしくて、オイラたちが来るのを待っていたんだ。どうもこの町にはバラモスの手の者が潜伏しているらしくて、あまり大勢の前では話せなかったようなんだ。だから、パフパフ名目で席を外したおかげで、イエローオーブやラーミアの卵の場所もわかった。決してパフパフに惹かれて付いて行ったわけじゃないんだ。もちろん、パフパフはしてもらってないよ」
アベルは随分慌てた様子で説明した。パフパフパフパフうるさかったが、矛盾はないようだ。
「ふぅん……。そういうことね……」
あのデレデレした顔は演技だったとは思えないんだけどね。
「で、でも、オーブが光り始めたとき、どうしてデイジィはすぐに部屋へ入ってこれたんだい」
「決まってるじゃないか。こんな大事なときに、スケベな遊びをしているあんたをぶん殴りに行ったんだよ」
アベルは怯えたような顔で笑った。
「そういえば、あたしの裸を見たときの分、まだ殴ってなかったな」
あたしはテーブルに乗り出し、情けない顔で笑うアベルの頬に軽く拳を押し当てた。
二人でひとしきり笑うと、あたしにも食欲が湧いてきて、ようやくナイフとフォークが進み始めた。
今夜は落ち着いて、アベルとじっくり話せそうだ。
アベルと二人だけで今までの冒険を振り返りるのは楽しかった。
キャットフライを倒してから、あたしたちの旅は重なった。竜の涙、ブレスストーン、竜海峡、金の鍵、幽麗島、ラーの鏡、ドムドーラの復活。一緒に色々なところへ行った。そこで出会った敵も、只者ではなかった。ダイオウイカ、アークデーモン、シーザオライオンにシルバーデビル。常に死と隣り合わせだった。それでも、どんな凶悪な敵だって二人で力を合わせれば何とかなったというものだ。
どれも厳しい冒険だったが、こうやって思い返してみると、まるで楽しい思い出のように感じられる。それもきっと、今までずっと一人で旅を続けてきたあたしに初めて仲間ができたからだろう。
何より、目の前にいるアベルが一緒にいてくれたからだ。ずっと一匹狼で生きてきたあたしに、ここまで頼りにできる人間ができるなんて、想像もしていなかった。
こうやって話していると、あたしたちがどれだけお互いを信頼し合っているのか確認できる。アベルはあたしの最高の相棒だ。
あたしがアベルを想うようになったのはいつからだったのだろうか。危険を顧みず、率先して苦難に立ち向かう勇敢な姿を何度も見せつけられ、あたしが傷ついた時には気遣ってくれる優しさもある。このあたしが年下の男に心惹かれてしまうなんて思いもしなかったが、これだけの男ならば仕方がないかとも思う。
だが、楽しかった話も、とうとうあの水龍との闘いでアベルが瀕死の重傷を負った下りに差し掛かった。ここから先のことを楽し気に話すことはできない。あたしにとっては辛いことの連続だった。
アベルは俯いて、言い辛そうに切り出した。
「オイラはずっと意識がなかったからわからないんだ。詳しいことはモコモコに教えてもらった」
あたしは、あと少しのところでアベルを失うところだった。あの時の気持ちを思い出すのが辛くて、今まで意図的にこの話題を避けていた。
「回復したばかりの頃は、デイジィがパデキアの葉を取ってきてくれたんだってことしか知らなかったんだ。でも、実際はもっともっと大変な思いをしてオイラを助けてくれたんだって、後になって知ったんだ。ほら、ティアラはお前とずっと一緒にいたわけじゃないからさ。ホーン山脈に行くまでの過程は、昨日は初めてモコモコから聞いたんだ」
アベルの顔から笑みが消えていた。いつのまにか、闘いの中にあるような険しい表情に変わっていた。
「あのときはそんなことも知らずに、ティアラが命を吹き込んでくれたなんて言ってしまって、すまない……」
「アベル……。気にしなくていいんだ。あんたが助かったんだから……」
ここでもし、どうしてアベルのためにそこまでしたのかと聞かれたら、あたしはなんと答えるだろうか。
「デイジィ。水龍が暴れていた赤き珠の神殿から、オイラを背負ってホーン山脈まで運んでくれたんだろう。勇者の地図を見てもわかる。もの凄い距離だ。それもヤナックやモコモコとはぐれて、たった一人で大目玉というバラモスの刺客と闘いながら」
あたしも、じっとアベルの眼を見返した。
「デイジィだってバラモス軍との闘いで傷ついていたはずだ。それなのに、仲間のためにそこまでできるデイジィは、やっぱり凄いって思ったんだ。オイラだって少しは強くなったつもりさ。でも、まだまだ敵わないよ」
アベルが自嘲気味なことを言うのはめずらしい。
「どうしたんだい……。そんなこと」
アベル……。もちろんあのときのあたしは、純粋にあんたの命を救いたかっただけなんだ。そのためだったら何だってするつもりだった。だがそれは、決してあんたが仲間だからという理由じゃない。あんたがあたしにとって一番大切な……。
「初めてアリアハンを旅立ってから、今のオイラがあるのは全てデイジィのおかげだ。デイジィがオイラたちの冒険に加わってくれたこと、剣術指導、それに瀕死のオイラを介抱してくれたこと。どれか一つでもなければ今頃オイラは野垂れ死んでいたんだから……。ありがとう、デイジィ」
そう言って、アベルはあたしに頭を下げた。
「これだけは、どうしても伝えたかったんだ」
一筋の涙が、あたしの眼からこぼれ落ちた。
「アベル。気にすることはないよ。あんたみたいな男の手助けができて、あたしも幸せさ」
あたしは嘘をついた。本当に幸せになるのは、アベルに感謝されたときじゃない。あたしはアベルに……。
「モコモコは言っていたよ。デイジィは表向きは怒りっぽくて打算的だけど、本当は凄く優しい人だって。オイラもそう思うんだ」
モコモコ。どうしてあたしのことをそんなにアベルに……。
「この間、死にゆく父さんを眼の前に思ったんだ。本当は、オイラは自分より強い誰かに認めてもらいたかったんだって。小さい頃から腕っぷしばかりは良かったもんだから、アリアハンの村ではモコモコ以外に格闘の相手になる人がいなかったんだ。オイラには父さんもいなければ、格闘や剣術を教えてくれる先生もいなかった。それが、なんだか寂しかった。オイラがどんなに頑張ったって、誰も褒めてくれる人がいないんだからさ」
アベル……。あんたも辛かったんだね。嬉しいよ、そんなことをあたしに話してくれて。
「デイジィ。オイラは自分の気持ちに気づいてしまったんだ。お前に、認めてもらいたいんだって。デイジィのような、強くて尊敬する人間に認めてもらいたいんだ」
気持ち?
アベルは下を向いて、考え込むようにしている。何か言い辛いことを言いたいようだ。
あたしはアベルの言葉を待つことにした。
静寂が部屋の中を包んだ。
なぜか、あたしは胸が苦しかった。
アベルは意を決したように、真っすぐにあたしの眼を見た。
「デイジィ、はっきり言うよ。オイラ……。オイラ、お前のことが好きなんだ」
「え……?」
アベルの言っていることがよくわからなかった。
あたしが黙っていると、アベルは畳みかけるように繰り返した。
「お前が、好きなんだ」
そんな、まさか……。いや、違う。
「ああ……。あたしたちは、一番の仲間だろ」
「違う! オイラが言っているのは、仲間としてじゃない。女としてのお前が好きだって言っているんだ」
アベルが怒ったように語気を強めた。
「ア、アベル……?」
あたしはまだ頭の整理ができなかった。
まさか、あたしのことが好き? そんなの願ってもないことだ。あたしはずっとあんたのことを想い続けているんだから。
「オイラ、お前にとってはまだヒヨッコかな……?」
アベルは真剣な眼差しであたしを見つめた。信じられないほど鼓動が速くなっていた。あたしは緊迫感に耐えられず、立ち上がって窓辺に向かった。外の景色に眼を向けて、アベルの視線から逃げたかった。
あたしがアベルのことを子供扱いしていたころのことを言っているんだろう。それはもう昔の話だ。今のアベルは、あたしよりも強い。
「あんたはもう立派な勇者じゃないか。ヒヨッコじゃないよ」
アベルはまだ鋭い視線をあたしに注いでいた。
「デイジィ。オイラじゃ……。お前にとって、男として不足かな」
アベルがあたしを欲している。
嬉しい。
そう言ってもらえて、あたしは嬉しいんだ。
本当は、今すぐにあたしの想いを伝えたい。
でも、どうすればいいのかわからない。
しばらくの間、沈黙が続いた。
「デイジィ、お前の気持ちを聞かせてくれ」
「アベル……」
アベルが、固唾を飲んだ。あたしはなかなか踏ん切りが付かなかった。
あたしの答えは、決まっているんだ。涙が流れ続けていた。
「アベル……。あたしも、あんたのことが好きだ。一緒に旅を続けるうちに、いつの間にか好きになっていたんだ」
あたしには、アベル以上の男なんて存在しない。でも、あたしたちの関係はそんな単純に割り切れるものじゃないだろう。
あんたのことを想う女が他にいるじゃないか。
「デイジィ! ほ、本当か?」
アベルが身を乗り出した。
あたしは片手を突き出して、アベルを遮った。
「でも……。抑えていたんだ。だって、あんたにはティアラがいるだろう」
もしもティアラが嫌な奴だったら。あたしがティアラのことが嫌いだったら。悩むことなんてなかった。きっとあたしはこの想いを打ち明けていただろう。あんたが水龍との闘いから回復したときに。
あたしたちの間に再び沈黙が訪れるかと思った。だが、アベルの返答は速かった。
「デイジィ。オイラとティアラは、そんな仲じゃないよ」
そんな仲じゃない……? でも、あんたは生死の境を彷徨っていたとき、ティアラの名前を呼び続けていたじゃないか。その度にあたしの心は折れそうになったんだ。
「ティアラとは、小さいときからずっと一緒に過ごしてきたんだ。オイラにとっては親友というか、家族のようなものだ。仲がいいからそういう関係に見えたのかもしれないけど」
「え……?」
「ティアラは大切だ。でも、女として見ているわけじゃない」
それが本当なら、あたしは……。
「信じて、いいのか……?」
アベルが立ち上がり、あたしの正面に立った。
そして真っすぐにあたしの眼を見ながら両肩に手を置いた。
「オイラはお前を裏切ったりしないよ」
アベルは両肩に置いた手に力を込め、引き寄せた。
「ま、待て! まだ……」
あたしはアベルの胸に両手を付いて抵抗した。
だが、アベルはあたしの左腕を掴んで引きはがし、強引に抱き寄せた。
「ああ……」
あたしは抱きしめられていた。
声も出せないほど強く。
「こんなに何かが欲しいと思ったの、初めてなんだ」
アベルはあたしの腕を捩じりあげて強引に上を向かせ、ゆっくりと顔を近づけた。その眼に曇りはなかった。
アベル……。信じてるよ。
あたしはアベルの背中に手を廻し、眼を閉じて応えた。
瞼から涙が零れ、唇が重なった。
初めてのキスだった。