――快音が響く。
勢い良く飛んだ打球は、青空を遮るネットに引っかかった。そしてそのボールは、次の球が込められたバッティングマシンの向こう側、バッターボックスから見えない位置へと落ちていく。
ゆるやかな動作でバットを構え直す。時速120キロで放たれたボールは、綺麗なフォームで振り抜かれたバットとぶつかって、爽快な一音を残して飛んでいく。
バッティングセンターのケージの中。一つ結いにされた黒髪を揺らしながら、ジャージ姿の少女が淡々とバットを振っている。彼女がバットを振るたびに、心地良い音がひとつ響く。ネットが揺れて、ボールが落ちる。
十度目の打撃音の後、少女は軽く息を吐いて、マシンの止まったケージを後にした。使い込まれたバットを所定の位置に戻し、そのまま立ち去ろうとして、ふと思い出した様子でケージへと戻る。
「……忘れてた」
ポツリと呟きながら、置き去りにされかけたスマートフォンを回収する。録画を終えた動画を少しだけ再生して、きちんと自分の姿が写っていることを確認。小さく頷き、ジャージのポケットにスマートフォンを滑り込ませる。
バッティングセンターを出た彼女は、軽く伸びをして走り始めた。行きと帰りのランニングは、春休みに入った彼女の日課になっている。
二週間後には高校の入学式が控えている。そこからさらに二週間も経てば、本格的に部活動が始まるだろう。普通なら期待に胸が高鳴るのかもしれないが、伊緒は脳裏に浮かんだ光景に思わず顔をしかめた。嫌な気分を変えるために、走るペースを少しだけ上げる。
頬を撫でる風には、まだ冬の名残を感じる。それでも通りすがりの道沿いに植えられた桜の木は、すでにまばらに花を咲かせていた。この花が満開になって、やがて散り、青々とした葉が生い茂る頃には――暑い夏がやってくる。
雲一つない青空。陽炎ゆらめく球場。
観客席の熱気。グラウンドの選手たちの声。
マウンドに立つ彼。歓声。
そして、悲鳴。転がるボール。
駆け寄る人影。担架。
痛みに苦しむ彼の顔。
チームメイトたちが泣きながら名前を叫ぶ声が、いつまでも耳から離れない。
――気付くと伊緒の足は止まっていた。自分が思っている以上に息が上がっていて、それが余計に伊緒を苛立たせた。近頃思い出すのは、去年の夏のことばかりだ。
中学最後の夏。伊緒は、男子中学生の硬式野球大会――ボーイズリーグの決勝戦を観戦しに行った。
小さい頃、祖父の影響で高校野球のテレビ中継が好きだった伊緒は、少年野球のマウンドに上がっている同い年の投手を見て、自らも野球をするようになった。
彼のことは、ずっと前から知っている。同じチームになることも、対戦相手として試合をすることもなかったが、彼との対決は伊緒の密かな夢だった。彼の野球にかける情熱、その闘志あふれる姿に触発されて、野球にのめり込むようになったのは確かだ。でも、今の自分は彼以上に野球が好きだという自信があったし、いつか彼の渾身の一球を、自らの会心の一振りで上回りたいと思っていた。野球を続けていれば、きっと対決の機会がある。伊緒が女の子ということもあり、周囲からは冷ややかな視線が多かったが、その小さな夢のおかげで彼女の野球熱が冷めることはなかった。
だが、その夢は唐突に終わった。
最終回。一点リードでマウンドに上がった彼は、肩を壊した。担架で球場の外へ運ばれ、そのまま救急車で運ばれたようだ。観客席で呆然とする伊緒を置き去りにして、試合は終わった。継投した投手の押し出しフォアボールで、彼のチームは逆転負けを喫し、準優勝という結果だった。
伊緒が調べた限りでは、その後の大会で彼が――
ランニングの足はとうに止まっていて、とりあえず何となく歩いているだけになっている。今の野球と変わらないな、と伊緒は自嘲した。
中学最後の試合から半年ほど経った今でも、惰性でバッティングセンターに通い、暇潰しに壁当てキャッチボールをする日々を送っている。あんなに好きだった野球が、あの日から何となく楽しくなくなった。あの日を境に何かが変わってしまった。それでも、小学生の頃から続けているから、他にやることもないから……という曖昧な言い訳をして、ずるずると野球を続けている。
「……今頃、どうしてるのかな。八上くん」
ぼんやりと空を眺めながら呟いた。
伊緒が高校生になるということは、彼も高校生になる。あの故障がなければ、きっと有名校の野球部で甲子園優勝を目指していただろう。八上くんなら優勝が狙えたはずだ。プロ野球選手にだってなれただろうし、ひょっとしたらメジャーリーガーさえ夢ではなかったかもしれない。
そんな夢を失った彼は今、どうしているのだろうか。これからどうするのだろうか。自分のことだってまともに決まっていないし、想像すらできていないのに、伊緒が考えるのはいつも八上浩太の心配ばかりだった。
トボトボと家への道を歩く。伊緒の考えを聞けば、人によっては恋愛感情があるのかと茶化したかもしれない。だが、残念ながら伊緒にはそんな話ができる相手がいなかった。女子だという理由でチームメイトの男子からは距離を置かれていたし、「女のくせに野球をするのが好きな変わり者」という扱いを受けたせいでクラスメイトとも親しくなかった。
そのことを伊緒は気にしていなかった。とにかく野球に打ち込めれば、それ以外のことはどうでもよかった。使い慣れたバットとグローブ、あとはボールが一球あれば、伊緒は幸せだった。まあ、それも去年の夏までの話だが。
もしも自分が彼の立場だったら。
それを想像するだけで、伊緒は震えるほど不安になる。大好きな野球を奪われたら、はたして私は立ち直れるだろうか。いや、もう「野球が大好き」と自信を持って言えない時点で、半ば奪われている……というより、失っているのかもしれない。これからどうしようか。八上くんならどうするだろうか。
「…………はぁ」
考えても考えても答えは出ず、代わりに溜め息がひとつ零れた。
高校生活とは、もっと希望と期待で満ち溢れたものだと思っていたが、どうやらそれは違うらしい。何かやりたいことがあったり、将来の夢みたいなものを持っていたりすれば違ったのかもしれない。だが、今の伊緒にはこれといってやりたいことがないし、将来の夢と呼べるようなものもなかった。おまけに一緒に過ごすのが楽しい友達もいなければ、彼氏と呼べるような人などいるはずもない。何を楽しみに高校へ通えばいいのかわからない。
それでも、それなりに立派な私立高校に入学することはできた。これから何が起こるか分からないのだから、高校に通っていればそのうち楽しいことがあるかもしれない。
「後ろ向きだなあ……」
自分の性格に嫌気が差しながらも、伊緒は頭を振って気持ちを切り替えた。ウォーキングからランニングへ。今は、余計なことは考えずに走ろう。体を動かすことに集中している間は、あの夏の景色も忘れることができる。
見慣れた街並みの中、悩みを振り払うかのように、少女は再び走り出した。