押田くんが体調を崩した。
いまいち釈然としないが、そういうことになった。
なんだか回りくどい言い回しになってしまったが、これには理由がある。彼女は実際に体調を崩した訳ではなく、いわゆる仮病というやつなのだ。いや、便宜上仮病という言葉を使ったが、あれをそう呼ぶのも妙な感じだ。
彼女が体調を崩したという話を聞いて気の毒になり、今しがた部屋まで行って当人と顔を合わせたが全くの普段通りで、具合の悪い素振りすらしていなかった。
けろっとした顔をして『悪いが休むぞ』などと言われてしまったものだから、雰囲気に引っ張られて『おおそうか』と返してしまったが、仮病というものはもっとこう、多少なりとも病気の演技をするものではないだろうか。
だからあれを仮病と呼んでは仮病に失礼だ。そう思う。
あれは結局、休む口実というか方便なだけで、病気である必要は無いのだろう。体調を崩すことではなく、休むことが彼女の目的なのだ。
まあ、それはいい。
良くはないが、とりあえずいい。
それよりも、押田くんが体調を崩した(ことになった)お陰で私が現在、ちょっとした苦境に立たされている。問題と言うならこちらの方が問題だ。
日頃は押田くんと分担していた事務仕事が、彼女が休んだことにより丸ごと降りかかって来たのだ。単純に考えて倍だ。あまり言いたくはないが忙しすぎる。いい加減、日も暮れてきたがさっぱり終わる気がしない。
押田くんが戻ってきた時のために、彼女の分の仕事は残しておいてくれようか、というようなことも少しは考えたのだが、まあそういう訳にも行かない。
その日の仕事はその日の内に片付けなければ、私がさぼったことになってしまう。押田くんの仕事だったものは、私に降りかかって来た時点で私の仕事なのだ。しかしまあ、そうは言ってもしんどいものはしんどい。文句も言いたくなる。
そして、そのしんどさに拍車をかけているのが、どういう訳か私と一緒になって残っているマリー様だ。
「ねぇ安藤、まだ終わらないの?」
「まだまだです。いつになったら終わるやら、見当も付きませんよ」
ひとりで黙々とやっていれば今頃は帰り道なんですがね、という言葉は飲み込んだ。事実ではあるが、言えばまた面倒くさいことになるに決まっている。
マリー様はああやって何をするでもなく、もちろん私の仕事を手伝う訳もなく、ただ呆けたようにして部屋の中をうろついて戸棚を弄繰ってみたり、ソファに寝そべってみたりしている。そうして時々、机仕事に励んでいる私に寄ってきてはちょっかいを出すのだ。
まあ、はっきり言って邪魔だ。
気が散って仕方ない。
「退屈だわ~」
ならば帰ればいいのにとは流石に言えず、うーんという生返事をするに留まった。何か意味のある言葉を返せば、今度はそこからお喋りが始まってしまう。
それに、マリー様が帰らないのには理由があるのだと思えば、滅多なことは言えない。お付きの砂部や祖父江を先に帰してわざわざ一人で残っているということは、そこに何かしらの目的がある筈なのだ。
それが何なのかは、分からないが。
「ねぇ安藤、これは何かしら」
「ん?」
また机に寄ってきたマリー様がひょいと手に取ったそれは、何の変哲も無い私の筆箱。銀色でブリキ製の、いわゆる缶ペンケースと呼ばれるタイプのものだ。
本当は、似たデザインで特殊なカーボンによる加工が施された『エレファントが踏んでも壊れない筆箱』というのが欲しかったのだが、如何せんあれは高価すぎたので安物で我慢している。
しかしまあ、考えてみればエレファントに踏まれる予定は今のところ無いので全く不自由はしていないし、この機能美とも言うべきシンプルなデザインには愛着が湧いてきたところだ。
「まっ、珍しい。こんなペンケース、初めて見たわ」
反射的に、ああそうですかいと返しそうになったが、また寸でのところで飲み込んだ。マリー様に悪気は無いのだろうから、邪険にしても仕方ない。
しかしなんとも返答に困る。この銀色で平べったいだけの簡素な筆箱は、マリー様にとって『珍しい』ものであるらしい。
裕福な暮らしをしているが故だろう、安物に馴染みが無いという事実が筆箱ひとつで浮き彫りになってしまうのは、どうにも遣り切れない。
「これ、開けてみてもいいかしら?」
「別に何も変わったものは入っていませんよ。ああ、蓋が少し固いので気を付け……」
「んんーっ」
「あっ」
私が言い終わるよりも先、蓋を開けようと無闇に力んだマリー様が勢い余って筆箱の中身をぶちまけ、その拍子に筆箱そのものも取り落とした。
辺りにペンやら消ゴムやらが散乱し、とどめとばかりに床に落ちる筆箱の金属音が、放課後の静まり返った室内に矢鱈(やたら)と耳障りに響き渡った。
マリー様は思った以上に大きな音が出たことに驚いたのか、筆箱を落とした姿勢のまま固まっている。
ううむ、限界だ。
「マリー様!」
「ひっ」
「おやつにします」
本当はもう少し仕事を進めて一段落させてからにするつもりだったが、どうにも苛々(いらいら)してしまっていけない。だからと言ってマリー様に当たり散らす訳にも行かない。今、若干危なかったが。
ともあれ休憩だ。一服するとしよう。
「お茶請けには甘いものを出しますが、コーヒーの砂糖は如何しましょうか」
「えっ、ええ。沢山入れて頂戴」
私が急に大きな声を出したせいで先程とは別の、腰が引けたような姿勢で固まったマリー様を尻目に散らばったペンと筆箱を片付け、戸棚から出したコーヒーを淹れて卓に並べ、鞄から『おやつ』を出した。
「安藤、それは何?」
「ふふふ」
露骨に訝しそうな顔をするマリー様に、思わず笑いが漏れた。
やはりと言うか、なんと言うかだ。ただの和菓子なのだが、これも安物の筆箱と同様マリー様には馴染みの無いものらしい。
エスカレーター組の生徒たちにはあまり知られていないが、この学園艦にも和菓子屋というものが存在する。洋食に飽き飽きした者のため、なのかどうかは分からないが一定の需要があるらしく、よく受験組の生徒たちで賑わっている。
客層に配慮してか、あまり高価なものを置かないのも人気の理由らしい。そこで買ってきたものだ。一個百円。マリー様が普段食べているケーキの一口分にも満たない値段だ。
笹の葉を模した細長いラベルで包まれた、一口サイズの真っ黒な玉。
確かに、何も知らずにこれだけを見れば『なんだこれは』と思ってしまう見た目をしている。マリー様の警戒も無理はないかも知れないが、しかし何のことはない。
これは、あんこ玉だ。
以前、押田くんに食べさせたことがあり、その時は然して気に入った様子は無かったのだが、昨日、また食べたいと言い出したので買ってきたのだ。
しかし、まさか今日になって当の本人が休んでしまうとは思いも寄らなかった。しかもわざわざ仮病のようなものを使ってまで、だ。
押田くんは一体何がしたいのか爽然(さっぱり)分からないが、段々と腹が立ってきたので考えるのを辞めた。不毛だ。それに関しては後日問い詰めるとしよう。
ともあれ、そんな事情で買ってきたものなので丁度ふたつある。
「これ、甘いの?」
「甘いですよー」
表面はゼラチンで薄く覆ってあるが、それ以外は丸っきりの純粋な餡子だ。私はこれ以上の『甘いもの』を知らない。
私個人はそこまで甘いものが好きという訳でもないが、苛々には糖分が良いと言うし、コーヒーのお供には丁度いい。
和菓子にコーヒー、これが意外に合うのだ。
そうして私があんこ玉を口に放り込んだのを見届けてから、マリー様は恐る恐るといった様子で同じようにあんこ玉を口に運び、間もなく小さな歓声を上げた。
「美味しい! これ、何ていうお菓子なの?」
おっと、そう来たか。
好評なのは喜ばしいことだが、それは想定していなかった。しかし考えてみれば、食べたお菓子の名前が知りたくなるのは当然か。
実は、このお菓子には店が付けた特有の名前がある。
このお菓子の名前は何ですかという質問であれば、そちらの名前で答える方が良いような気がするのだが、私個人はその名前を気に入っていない。お菓子にいちいち洒落た名前を付ける店ではあるが、これに関しては、ちょっとどうだろうと思っているのだ。
まあ『これはあんこ玉です』と答えるよりはましだと思うが。
いや、どちらにせよすんなり答えれば良かったのだ。くだらない躊躇をしたせいで妙な間が生まれてしまった。
「……安藤?」
あんまり。
うーん、あんまりなあ。
まあ、黙り込んでいても仕方ないか。
「このお菓子は『餡鞠(あんまり)』と言います」
「まっ、素敵!」
ううむ、これまた想定外。
何が『素敵』なのかはよく分からないが、まあ、とりあえずマリー様のご機嫌を損ねるようなことが無かったのなら良しとするか。
そんなことを思いながら、コーヒーを啜った。
「ん、甘っ」
「安藤、それ私のカップ~」
「ああすみません、うっかりしていました」
どうやら取り違えてしまったらしい。卓に並べた時だろうか。
しかし、自分で淹れておいて何だが驚いた。マリー様が飲むものとは、これほどまでに甘いのか。
「口を付けてしまいました。淹れ直しますね」
「気にしなくていいわよ、そんなこと」
「そうですか……」
カップを交換し、改めて雑談を交わす。
「外はもう真っ暗ですね」
「貴女に送って貰うから大丈夫よ」
「まだ暫く終わりませんが」
「んふふ、いつまでも待ってるわ」
もしや。
マリー様はそれが目的でこんな時間まで残っているのだろうか、というようなことが頭をよぎったが、まさかなと思い直した。もしそうなら、砂部や祖父江だけでなく押田くんの仮病まで、この人の策略ということになってしまう。
「んふふ」
まさかな。
さて、休憩が終わったら仕事の続
ん、何
眠
「んふふ」