「ごめんねぇ……
「あ、いえ……あたしのほうこそすみません……」
加古隊室には、先程までのトレーニングルームの熱狂が嘘のように、冷や汗を撫でる冷たい風が流れている。
急速に冷却されたフリーズドライとも言うべき新鮮な申し訳無さが漂った空間で、向かい合った二人はただただ謝罪合戦を繰り広げていた。
「痛くなかった?ショックで動けないとかない?」
「なんでですか?」
「こころのいたみっ!」
「いえ……申し訳なさだけですけど」
「よかったー……違うっ!良くない!クーちゃん、本当にごめん……!」
「喧嘩を売ったのはこちらからですし……」
過剰なまでに謝罪を繰り返すもみじに、黒江は申し訳無さよりも、徐々に冷静さを取り戻す度合いが勝りつつあった。
膝を屈ませて表情を脆くしているもみじを見るたび、自身の気持ちに整理が付いているのがわかる。
「あ、悔しさもありました」
「うわぁああああああっ!?」
思い出したように十本勝負への一言を口に出す黒江に、もみじは動揺の大声をあげる。
……それはそうだ。
思い返してみれば、あれほどまでに冷徹に、完膚なきまでに彼女をいたぶったのだ。
あの十本で、白星一本も取らせずに。
きっと屈辱的な敗北として印象に残られたに違いない。
酷いところを見せてしまい、今後の未来の交流を半ば内心で諦めつつ、如何にして跡を濁す心地を少なくするかに思考がシフトする。
先程の戦いの中ではすっかり忘れていたが、彼女はまだ新人なのだ。
自分のためなんかに心の負担を大きくさせてはいけない。
……等と考えてる内に。
「ストイックじゃないわね。勝負に必要なのはスマートさよ?成果と改善の余地だけ研究して、禍根は残さない」
「「加古さん!」」
「必要分を終えた箇所に、それ以上の化粧を加えるのは見栄えが悪いでしょう?」
冷却され、凍りつきかけた空間を、我が物顔でふわついて歩んでくる(?)背丈有る幽霊が声をかけた。
まるで、映画の上映を終えて冷や汗にまみれた観客の前に舞台挨拶で悠々と顔を出すカリスマ俳優のように。
「あなた達、シャドウだけで顔を飾りたいの?それともまさか
「……おはぐろ?なんですか?」
「あーこれ、中学の社会の知識だったかしら?昔の着物の人が、化粧代わりに歯を黒く塗ったことよ」
「え?化粧で塗るんですか?歯を?黒く?」
「
「……」
加古が現状を喩えて指摘すると、黒江は沈黙した。
「これ以上は
因みに、女性が歯を黒く塗り加えるお歯黒は、大正時代から昭和初期には途絶えども、明治までは化粧の風習として続いたものだったという。
肌の白の見栄え、なけなしの歯や歯茎の保護に口臭の低減のため……。
古代より続いた慣習であったのだが外国の受けはよろしくなく、明治の文明開化以降、他国の概念に触れた人々の意識の変化に耐えきれず、やがて消滅した文化であった。
無論、加古にそのような知識はない。
中学校で履修する社会科で触れるお歯黒の知識は、平安時代の貴族の化粧に使われたもの、程度の認識である。
しかし、現代の目線で見れば、歯を黒く染めて化粧とみなすには、価値観が変わりすぎていると言えるのもまた事実。
時代はめぐる。
加古は考えにないまでも、そのような『時代にはそぐわない』という無意識な、しかし馬鹿にすることのない奥ゆかしい感情を踏まえて、これを言葉に出し……
「――――で、なんの話だったかしら」
「「加古さーん!?」」
そして、話の主題を忘れたのだった。
◆
……暫くして。
「正直なところ、五十嵐先輩には感謝しています」
「えっ?うそっ」
「本当です」
体感温度がようやく戻った隊室で、黒江が切り出した。
「自分が未熟だってことがよくわかりました。太刀川さんと戦った時は台風に遭ったって気分止まりでしたが……あなたを紹介してくれた意味は、分かった気がします」
「はぁ……
「……なんで微妙に顔になるんですか?」
「あー、これは太刀川さんが悪いだけなの。孤月について他の人に言わないでって言ってあったのに」
「なんでですか?容赦ないくらいに強……あっ」
「……わかってくれた?」
もみじの言葉に、黒江はようやく電流が脳裏に閃いたようで、気付きによって表情を呆然とさせた。
黒江に孤月の全力を見せることを躊躇したのは、他人にあの冷徹な状態を見せることを拒んだに他ならない。
問答無用で敵を無力化し、流れるように切り伏せることの出来る才能。
もみじの機動部隊のような隊服も相まって、その風貌は夜闇の
その躊躇の無さ過ぎる瞳を他人に向けるのが嫌だったのだと、黒江は半ば理解しつつあった。
「……私ね、普段はレイガスト使ってるんだ。カスタムして、攻撃できるタイミングも抑えてあって……
――――
……それは、何に対しての
黒江にはわからない。
否、判断するだけの情報が五十嵐もみじに対して存在しない。
当然だ。
未だ出会って初日。
いくら二十戦ほど刃を交えて心を一度通わせても――――それだけだから。
「私、自分の
「そう……なんですか」
「だから私、クーちゃんにズバズバ言われたのはそんなに気にしてなくて……まー、そういうこと言われるよなぁって」
一息を置いて、更に。
「責められるのは、当然だと思ってた。人でなしだと罵られるのも、当たり前。だから……これを知らない人に、二度と見せることのないように……って」
「……」
言葉を混ぜることは躊躇われた。
彼女の言葉は重苦しく、黒江が思う以上に年月の乗った重みだ。
責めたつもりはなく、ただイラついただけ。
人でなしとなんて、それこそ思っちゃいない。
だけど、真に迫った何かを感じさせる、重力。
彼女の正体を目の当たりにする前に、彼女に吹っかけた言葉。
それが如何に軽率だったのかを改めて思い知らせるように、黒江の胸を締め付ける。
「だけど」
「――――……!」
心を締め付ける重さを解くように、改めて黒江の顔に向き直るもみじの表情には、笑顔が有った。
ちゃんと目線が正面、黒江の顔に整っていて……決して紛い物とは言えないような破顔。
その天使のような微笑みに、思わず黒江は緊張がほぐされる。
「どうしてもアレなこと言っちゃうけど……
「……それでも?」
「クーちゃんが最後まで食らいついてくれたのが、すっごい楽しかった」
「……!」
「私がすっごい怯えてただけだったんだって、教えてくれたから」
ぎゅっ。
もみじの両手が、感謝を示すように黒江の両手を握りしめ、覆い、優しく熱を加える。
言葉だけでは足りない。
だから、言葉と一緒にと思って、自然とそう体が動いたから――――
「――――ありがとね、クーちゃん」
「――――!」
炸裂。
心からの感謝を示されることに、黒江は慣れていなかった。
そして同時に、本当のもみじの笑顔を見ることにも。
……これまで彼女と向き合っていなかったのは、もしかすると、あたしの方だったのかもしれない。
そう思うと、なんだか冷静ではいられなくなっていて――――
「そ、それはこちらの台詞ですっ!あのとき、最初から最後まで全力で戦ってくれたから……悔しいけど、悔しいだけじゃない!楽しかったんです!な、なので、その」
「その?」
「い、いやだったとしても関係ないですっ!責任です!これは責任問題ですっ!」
「えーと……クーちゃん?」
あ、うう、うぐぐぐ……と、言葉を歯ぎしりのようにギシギシしている黒江を目の当たりにし、「私おかしなこと言っちゃったのかな……?」といたたまれなくなった心境で、もみじは首を回して周囲を見回す。
正面から右斜60度……黒江の斜め後背で、壁に背もたれてやたらキマった腕組みをこなしている加古に目が合うと、現状を楽しんでいる余裕のある笑顔で返された。
あれは若い年下の青春のやり取りを摂取して楽しんでいる顔だ。
彼女の精神年齢が十は高いのではないかと錯覚させ、同時にこの場に味方は居ない、と痛感するもみじに――
「で、でで――――弟子にしてくださいっ!」
「えっ?」
「孤月のっ!その……もっと強くなって、いつか勝ちたいんですっ!!」
「……えっ?」
「あなたにっ!!」
「――――えっ!?」
……弟子?孤月の?
返答のための語彙力が著しく低下したもみじに対し、黒江は畳み掛けるように真正面からの頼みを彼女に叩きつけた。
これが一対一のスポーツの試合であれば技ありで一発、一本勝ちも同然である。
やがてもみじが握っていた両手は気づかぬうちに黒江に握り返され、駄々をこねる子供(小学生なので実際子供だが)のように大きく何度も振り回されていた。
「お願いです!もちろん毎回手を抜かなくてもいいですっ!遠慮なんてしなくていいですからっ!」
「うわわっ!えっ!?えっ!?」
「いーがーらーしーせーんーぱーいーっ!!」
ぶんぶん、ぶんぶん。
小学生の語彙なら、この先にカナブンブンとテンポある雑な言葉が続きそうな微笑ましい雰囲気からは、これまで背伸びしていた黒江の、完全にリラックスした小学生の大人気なさが出ていた。
加古は目の前の光景に笑いをこらえきれないのか、壁に体重を委ねて体を震わせながら、片手で表情を覆い隠している。
「あーもう!――――クーちゃん……それにしても、どうして?さっきまであんなに私を嫌ってそうだったのに」
「そ、それはですね、えぇっと……言わなきゃダメなんですか?」
「理由がわからないと私、孤月を使い続ける気分にもならないし……」
「それはダメですっ!」
「えぇーっ!?」
両手を振り子のように上下に振り回す速さが増し、トリオン体でなければ腕がちぎれている領域に突入した。
どうやらムキになっているのか、黒江は全く加減をしていない。
「言わないと、私もこのままただで手を振り回されてるわけにはいかないからね!ほどくよ!」
「ほどきませんーっ!」
「ほどくよっ!」
「ほどくませんーっ!」
「ぷふっ!」
最早もみじと黒江を繋ぐ各々の両腕は、互いが意気地になったことで一種の遠心分離機と化しつつ有った。
加古はツボに入ったのか、笑いの世界から戻ってきてはいない。
亜空間。
ここは精神年齢が下がりまくる異界だった。
「あーもう!なんで言わなきゃわからないんですかこのわからず屋先輩!抵抗せずにブンブンされてください!」
「いーや!小学生に負けるほどやわな気力してないからね!このっ!」
「いい加減にしてくださいっ!えいっ!えいっ!」
「振り方を変えるなっ!そういう子にはこう――――」
「まって、やばいやばい、このやり取り死ぬ……!」
加古が過呼吸になりかけたところで、遠慮を放り捨てたもみじによる豪快な投げが決まり、不毛な争いは決着した。
黒江は地面に拳を叩きつけ、悔しさで吠え面をかく狼のように声をうならせながら、四つん這いで地面に拳を何度か打ち付けていた。
「ううーっ……!」
「はい、ノーカンは無効!なんで孤月の弟子になりたいのか、言ってもらうから!」
「投げは卑怯……」
「いいからっ!」
「くっ……!」
とうとう追い詰められ、悔しさと屈辱と赤面が混ざった顔をしながら、黒江が渋々口を開く。
「……ったからです……」
「クーちゃん、もうちょっと、声を大きく……」
「かっこよかったからですっ!!」
声が小さいと言われてムキになったのか、暴走機関車は石炭を貪り食い、エンジンを遂にふかした。
「あの時の五十嵐先輩がかっこよかったからです!あたし、誰にでも弟子入りを志願する気なんてないですから!この人みたいになりたいって思わない限り!」
「かっこいい……えっ、ク、クーちゃん!?」
「だから戦い方を教えて下さいって言ってるんです!聞こえてないんですか!?」
「き、聞こえてる!聞こえてるから!こ、こんなこと言われたの初めてで」
「なら先輩!おとなしくはいって言ってくださいっ!」
「待って!待って待って!ちょっと落ち着かせて……!」
ぷしゅー……。
一呼吸置いた後、二人は反動で、互いに顔を赤面させながら向き合えず縮こまった。
「はい落ち着いた?」と、すっかり先程の死にかけた醜態が嘘のように大人のオーラを放ちながら加古が合間に割り込み、こういった。
「もみじちゃん、どう?顔を見せて頂戴」
「う、うー……なんですか、加古さん」パシャッ「ぱしゃっ?」
「撮影完了」
「え!?な、なななんで撮ったんですか!?」
「良いから、あなたのこの顔見てみなさい」
――――
スマートフォンの画面に写っていた画像は、自分の盛大な赤面と、隠しきれない頬の吊り上がり。
自分で見たことのない、新鮮な表情。
……かっこいい、と言われたことが無いわけじゃない。
運動ができる女子だから。
星輪の間では学年問わず、体育の授業やクラスマッチでひとしきりに注目され。
海外にチャレンジしていたころも、ひっきりなしにクールだと褒められて。
ただ、どちらも芯には響いてこず、何かしら言いしれぬ孤独を感じていた。
「……うー……」
それは過度の集中をなるべく隠し続けたボーダーでもほとんど同じことで、隠していても内心平気だったのは、
彼の前でなら、何故だか明るく振る舞うことが本当の自分だと言い張れた。
隠しきれなかった相手は
……だから私は、かっこいいって言われ慣れていなかった。
ひたすら毎日を明るく努め続けても、今の自分にそんなような自信が、どうしても持てなかったから。
「……うぅ……」
「……五十嵐先輩」
加古にスマホ爆弾を食らわせられ、話す言葉を失ったもみじに対し、黒江はなんとか気力を振り絞る。
すっかり冷静さと恥ずかしさが勝り、山あり谷ありで憤慨と照れを続けた彼女は今にもこの黒歴史で卒倒しそうだったが、ここで倒れてしまっては末代までの恥。
「返事は……どう、なんですか……」
「うぅ……!」
最後の力を振り絞り、小学生の可愛らしさを無意識に存分に発揮した懇願の表情を見て、もみじは遂に――――
「ぅあーーーーーっ!やるしかないっ!やるしかないじゃんこんなのーーーっ!」
「せんぱい……!!」
「もう許さないんだからっ!教える日はもう一切!遠慮無しで!ボコしてやるっ!!」
「! ありがとうございますっ!」
折れた。
今日一日で重なりすぎた出来事が深夜でもないのに深夜テンションを引き起こし、遂にもみじのブレーキを破壊した。
やけばちになり、思わずすぐさまガンガンっ、と自分の頭を右の拳で横から叩き始める。
だが、叩き続ける余裕を与えない人物は、この場に一人いた。
「……ふむ、となると、早めに手続きが必要になりそうね」
「? 手続き?加古さん、一体何を?私Kじゃないけど」
「それ以外よ。私の
「そりゃあ、ボーダーで屈指のエンジニア泣かせの加古さんのは――――って、まさか……」
「
……
ボーダー正隊員ではA級に権利が許された、既存トリガーの高度改良……及び、完全試作品の製作のことである。
試作トリガーを優先して使えるのはA級隊員の特権であり、B級で問題なく扱えると判断された汎用認可品は現状『テレポーター』と『ダミービーコン』のみ。
それ以外は各A級隊員に合わせたオーダーメイドとしての製作要請がメインだ。
汎用的なトリガー装備を支給し、トリガー使いの数を売りとするボーダーにとって、特に貴重で、かつ人手の足りなくなる発注事項となる。
そして加古のセットトリガーの構成はこれらが計三つも存在しており、本部のエンジニアを最も敵に回した女として有名である。
そのほかならぬ加古が告げる。
「あなたを、黒江を鍛え上げる立場の新たな試作品モデルアクターにするために、今すぐ交渉しに行きましょう」
「交渉って……」
「決まってるじゃない――――」
――――
彼女こそは、誰が呼んだかファントム。
まさしく文字通りに底知れぬ幽玄な笑顔を浮かべ、彼女は再び全てのエンジニアの人生を過去とするべく、今ここに動き出してしまったのだった。