深紅の狙撃手《クリムゾン・スナイパー》   作:伊藤 薫

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プロローグ

 もうすぐ真夜中だった。基地を飛び立ってから1時間近く経っている。

 エーリヒ・カイルベルトは怯えていた。自分の人生で今より不幸な時はあったかもしれないが、それがいつかは思い出せなかった。こんなに恐怖を感じるのは初めてだった。エーリヒはこれから戦場に落下傘で降下する。そんなことは一度もしたことは無かった。息をするのさえ苦痛だった。

 恐怖の次に感じたのは恨みだった。エーリヒは苦々しい思いを噛みしめていた。戦争は終わったんだ。それなのに、自分は戦場に向かおうとしている。

 エーリヒは時速約770キロで飛行している爆撃機の中でうずくまっていた。

 パイロットと軍曹が天辺のドーム型コクピットに収まり、中尉が透明なアクリル樹脂で出来た機首の円錐部分にいた。二等兵であるエーリヒは機首とコクピットを結ぶ通路に固定された小さな椅子の上にしゃがみ込んでいた。パラシュートを背負い、5キロ近くある短機関銃を抱えている。ただでさえ狭い場所が耐えられないぐらい窮屈に感じられた。

 最悪だったのはハッチだった。もうすぐそこから飛び出していくことになるハッチはキチンと閉まらないらしく、ガタガタ揺れながら冷気を機内に送り込んでいた。だが、このオンボロ爆撃機でガタガタ揺れていない物などあるだろうか。この飛行機は木製だった。

 通路の先に座っている中尉に眼を向ける。中尉については苗字しか知らなかった。キルヒアイス。中尉の肩に白い物が舞っていた。白い物って何だ。雪に決まっているだろう。この間抜け。エーリヒは胸中で呟いた。

 その時、通路が傾いた。エーリヒは機体が降下するのを感じた。一瞬、胃が浮き上がる。自分たちが今、ハルツ山脈の上空を飛んでいることに気づいた。

 突然、軍曹が頭上に現れた。通路に降りて来るなり、邪魔な物をどけるような感じでエーリヒを脚で乱暴に小突き、ハッチを開けた。冷たい夜気が吹き込んでくる。エーリヒは軍用コートを身体にかき合わせた。冷気が身体に潜り込んできて鳥肌が立つ。身体が震える。

 エーリヒが腰かけている座席にはインターコムの差込口が無かった。3人の上官たちが道中ずっと何か話している間、エーリヒは独り機体の薄暗い通路に腰かけ、訳も分からず取り残されていた。軍曹が装備のチェックを始める。きっと目的地を見つけたに違いない。

 キルヒアイスがそばに立った。通路を這って来たのだ。キルヒアイスが激しい身振りで何かを伝えようとしていた。少し興奮しているように見える。エーリヒは恐怖と嫌悪と寒さで何も感じていなかった。ひたすらだるかった。

 キルヒアイスが軍曹のイヤホンをエーリヒの耳に押し込んだ。自分の口許のマイクに向かって話した。

「目的地に着きました。上空を1回旋回して、目的地の西にある野原に降ろしてもらいます。リーゲル軍曹が最初に出ます。次が私、あなたは最後になります。着地したら、岩壁の向こうに4階建ての凝った装飾の建物が―」

「《ヴォータン》から《ヘルムヴィーゲ》、あと30秒で降下だ」

 パイロットがキルヒアイスの声に被せるように言った。

「敵は向かいの山から中庭を狙って撃つつもりでしょう。私たちはちょうどその反対側から近づいていきます。グリューネヴァルト伯爵夫人が屋敷の中庭に姿を現す前に着かねばなりません。分かってますね?」

 エーリヒは弱々しくうなづいた。

「高度は約180メートルで飛び出します。パラシュートの開き綱を引くのを忘れないように。これは自動索ではありませんので」

「あと10秒だ、《ヘルムヴィーゲ》」

 3人とも顔は戦闘用のペイントで塗りたくられている。ウールで出来た山岳猟兵用の防寒帽を耳まで被っていた。軍曹が両手の親指を立ててみせる。これからたった3人で皇帝フリードリヒⅣ世の寵姫であるグリューネヴァルト伯爵夫人の暗殺を阻止しなければならないというのに。いかにも戦争をするぞといった感じの仕草だった。

「行け!《ヘルムヴィーゲ》、飛ぶんだ!」

 軍曹がハッチから飛び出した。キルヒアイスがそれに続いた。

 刹那、ある考えがエーリヒの脳裏を過ぎった。このまま通路に腰を降ろし、パイロットと一緒に基地に帰ることも出来る。だが、そんなことを考えている間にも脚は勝手にハッチの前に立っていた。そして、エーリヒはそのまま静寂の中に落ちていった。

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