ジークリンデはヘルマゴールの市街地に進出して射撃位置を確保する。砲撃で半壊した建物の瓦礫の中に身を隠した。床に伏せたジークリンデの傍らで、
今日の観測兵はドミニク・ニルソン二等兵だった。昨日、消息を絶ったホフマンと一緒にジークリンデの部下になった新兵の1人だった。ドミニクが双眼鏡で敵の狙撃手が潜んでいないか確認する。次第に驟雨が降り始め、身体が冷えてくる。ジークリンデはつい苛立った声でドミニクに尋ねた。
「まだ見つかりませんか?」
「申し訳ありません。もうすぐ終わりますから・・・」
ドミニクは意外に思った。狙撃に入る前はまず敵の狙撃手の存在を先に突き止めるか、狙撃手がいないことを確認する。これが狙撃の基本原則である。真横に伏せているジークリンデ自身がドミニクに教えたことだ。ドミニクは敵の塹壕を越えて後方地域まで確認してから声をかけた。
「大丈夫です。敵の狙撃手はいないようです」
あるはずの返事がなかった。
ドミニクはジークリンデを一瞥する。ジークリンデは身体で抱くように温めていた狙撃銃―シュレスヴィヒ=マンフレートM1895を構え、照準器を覗き込んでいた。ジークリンデが遠目に見ていたのは市街地の奥に広がる山並みだった。野戦服から携帯していた軍用地図を取り出して広げ、眼を落とす。ハルツ山脈。
山脈の手前にジッテル渓谷が広がる。その渓谷の両側の高い崖に鉄橋がかかっている。鉄橋の真ん中あたりは爆撃で破壊されて通行はできない。だが、あの高さは格好の狙撃場所になる。こちら側の前線と後方陣地を900メートル以上に渡って一望できる。
嫌な予感がする。
ジークリンデとドミニクは砲弾で屋根を吹き飛ばされた家屋の天井に潜んでいた。そこからいくつもの路地を重ねて敵の塹壕までの距離は約300メートル。空爆と砲撃で瓦礫と化した市街地の上を鉛色の雲が覆っている。焼け焦げた街が驟雨で濡れている。時おり、風に舞う雨粒で遠くの視界がぼやけてしまう。
崩れかけた家の周囲にある果樹園に塹壕があり、三脚に乗った敵の機関銃が見える。その横には弾薬の箱。機関銃に望遠照準器が装着されている。
午前7時に敵は見張りを交代した。小銃を持った兵士たちは
ジークリンデは3発だけ撃つことにした。そのうち1発は機関銃の銃尾を狙う。軽量弾を込めボルトを引いて装填し、瞳を照準器に寄せた。獲物―機関銃の三脚のそばに座っている背の高い兵士の頭にT字照準線を合わせる。あと数秒すれば弾は放たれる。だが突然、果樹園がざわついた。機関銃手が飛び上がり、整列して気をつけの姿勢を取る。1分後、ひさしのついた帽子を被った将校が数人やって来た。そのうちの1人が眼をひいた。口に紙巻タバコをくわえている。帽子の縁に金色の帯。右肩に金色の飾緒。
距離は分かっている。約300メートル。無風。気温は14度。ジークリンデは獲物を機関銃手から飾緒のつけた将校に変更し、息を止める。そして滑らかにトリガーを引いた。
敵の将校は声も上げすに膝から崩れ落ちた。銃弾は将校の眉間に命中していた。機関銃手たちは斃れた将校のそばで狼狽していた。ジークリンデは二度、軽量弾を装填して2人の機関銃手を斃した。そして4発目に徹甲弾を使い、機関銃の機関部に命中させた。これで機関銃は使用不能になった。
その時、ドミニクは彼方からかすかな射撃音を耳にしたような気がした。その方角に双眼鏡を向ける。小さな白色の発砲煙を発見する。息が止まった。驟雨に濡れた市街地を飛翔する7・29ミリの弾丸はドミニクの首を貫いた。指先から双眼鏡が落ちる。ドミニクは仰向けに倒れた。
「ニルソン二等兵!ドミニク!」
伏射を続けていたジークリンデは倒れたドミニクにすぐに気づいた。
ジークリンデは床を這ってドミニクの近くに行った。ドミニクの頬を両手で包む。身体が細かく震えている。切り裂かれた喉から鮮血が溢れ出す。動脈が切断されたに違いない。ドミニクが大きく息を吐き出す。
「ニルソン二等兵・・・」
ドミニクが呻くように唇を震わせて何か言おうとしていた。ジークリンデは抱きかかえたドミニクの顔に耳を寄せる。苦しく吐き出される音しか聞こえない。ドミニクが眼を閉じる。身体から力が抜ける。ドミニクは動かなくなった。ジークリンデはドミニクの身体を静かに横たえた。